日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
一生懸命書いた小説やブログの閲覧数(訪問者数)が伸びなくて、心が折れて書くのを止めてしまう――そんな話をよく耳にします。
人間というのはどうやら無意識のうちに“自分が払った労力に見合った見返りや報いを求めてしまう”生き物らしいので、それは仕方のないことなのかなぁ、と思います。
ただ、自分はいつも思うのですが……
文章というのは、本当に、他人に読んでもらわなければ価値のないものなのでしょうか?
現代では日記もブログなどネット上にアップして他人に読んでもらうような時代ですが、それ以前の時代では、自分しか読まない紙の日記帳に日記を書く、ということもあったはずです(と言うか、現代でも紙の日記はあるはずです)。
そんな自分しか読まない文章たちは、果たして価値のないものでしょうか?
自分は、全然、全く、これっぽっちも、そうは思いません。
なぜならそれは、少なくとも書いた本人にとっては何ものにも代え難い、この上なく価値のあるものだから、です。
それは下手をするとノーベル文学賞受賞作品よりも、世界で一番成功したビジネスマンの著作よりも、本人にとって意味のある文章です。
なぜならそこには、過去の自分の見聞きした大切な思い出や、その時の想いなどが、タイムカプセルのように籠められているからです。
たとえば自分にはこのブログ以外に、「ある日の家族の会話」という、我が家のささやかな会話やメールのやりとりを面白おかしく(?)まとめたブログがあります。
内輪ネタをつめこんだようなものですので、うちの家族以外のユーザー様に読んで面白いと思ってもらえるかどうかは正直分かりません。
(とは言え、ネット上に公開するものですので、一応よその方にも分かりやすく、なるべく面白く読んでいただけるよう工夫はしていますが…。)
でも、たとえ読者様がつかなかったとしても「それはそれで良いや」というブログでもあるのです。
(ブログのサービス提供者さんには申し訳ないですが…。)
人間は、自分で思っている以上に「忘れやすい」生き物です。
その時その時は大切に覚えているつもりの出来事も、会話のやりとりも、だんだんと日々積み重なっていく新たな記憶に埋もれて忘れていってしまいます。
でも、文章に書き留めておけば、その文章を読み返した時、その時の記憶が、忘れていたはずの詳細なディテールまで含めて蘇ってきたりするのです。
そして、ひとりの人間を取り巻く環境というものは、必ず変わっていくものです。
その時は永遠に思えるものでも、何となく何の根拠もなく「ずっと一緒にいてくれる」と思っていた人も、時の流れによりいずれは失われてしまうものなのです。
そんな時、失われてしまった過去の時間を蘇らせてくれる“文章”が残っていたら、それはどんなに心を慰めてくれるだろうか、と思うのです。
その時は貴重とも何とも思っていない、他愛ない会話、ちょっとした笑い話……それを、いつかの未来に「この時、こんなことがあったんだっけ」「そうそう、これ、可笑しかったよね」などと思い出して、癒やされたり、笑ったりするネタにできれば……そんな思いから書き溜めているものでもあります。
(まぁ、実際は癒やしというより、この時の笑いのネタを忘れずにいたい、という思いの方が強いブログではありますが。)
文章に限らず、モノの価値はいつだって相対的なものです。
ある人にとっては何よりも貴重なモノだったとしても、別の誰かにとってはゴミ同然のくだらないモノに見えたりする……
たとえば野球に興味の無い人が野球の記事を見つけても、読む気すら起こらずスルーするように、その文章に価値を見出さない人の前にいくら出したところで、その文章は読んでもらえないものです。
(ただ、興味がないと思ってスルーしてきたものでも、ちょっとした気まぐれで読んでみると、自分にとって有益な情報が入手できることは、実際、割とザラにあるのですが。←たぶん、他人より一歩上を行く高度な情報収集能力ってこういう“自分にとって興味のないもの”“一見くだらなく見えるもの”にも一応「もしかして」と思って目を向けていくことで伸びていくモノだと思うのですが、大概の人は気づいていませんよね…。)
でも、その文章が、少なくとも書いている本人にとって価値あるものなら、それだけでも“書く意味”は充分にあります。
それに、世の中には自分と同じタイプの人間――同じような好みを持ち、同じような人生を歩み、同じようなことに悩み、同じようなことに価値を見出す人間が、他にもいるかも知れません。
そんな自分と似た人間が、その文章を見つけてくれたなら、そこにあなたと“同じように”価値を見出してくれるかも知れません。
この世は良くも悪くも、わりと運がモノを言う世界です。
あなたの文章が“あなたの文章に価値を見出してくれる人”の人の目に届くかどうかもまた“運”であり、“縁”です。
だから今、その文章が他の人に読まれていなかったからと言って、そうそう嘆くようなことでもないと思うのです。
運が巡ってくるかどうかは誰にも分かりません。
それは「いずれは巡ってくる」可能性も少なからずある、ということでもあるのです。
なので、文章の書き手はいつだって、ただ純粋に、その文章が少しでも価値あるものになるよう心を砕いて書き綴っていけば良いだけだと思うのです。
自分で自分を慰め、鼓舞するために書いた文章が、いつか自分と同じ状況や悩みを抱える他人の目に留まり、その人の役に立ったり、救いになったりする――そんな未来を想像してみるだけでも、結構楽しいと思うのですが、自分だけでしょうか?
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自分の通っていた高校は、小論文対策なのか、何かと言っては作文を書かせる学校でした。
その時、先生に言われた言葉で印象に残っているものがあります。
それは「文章には書いている人間の本質が無意識ににじみ出る」というものでした。
どんなに上辺だけ取り繕って綺麗な文章を書こうとしたところで、その人の本質が醜ければ、それは文章のどこかににじむものだと。
だから、形だけ綺麗にまとめようとするのではなく、心を磨かなければならないのだと――。
細部まで正確に覚えているわけではありませんが、そんなようなことを言われた気がします。
それ以来、何となく「言葉は心を映す鏡だ」という感覚があり、口に出す言葉にせよ、文章として書く言葉にせよ、自分の使う言葉には神経を使ってきたような気がします。
口に出す言葉を口から実際に出す前に頭の中で反芻してみたり、文章に書いた言葉を読み返して、それが誰かを傷つけるものになっていたり、ひとりよがりな論理を押しつけるものになってはいないだろうか、と想像してみたり…。
言葉が心を映す鏡ならば、その言葉を自分自身の眼や心で見つめることで、自分の心の変調に気づくこともできるはずです。
そうして自分の心を見つめ直していけば、知らず知らずのうちに“嫌な自分”になってしまうこともなく、より良い自分に変わっていけるのではないか――そんな風に思っていました。
ただ、最近気づいたことがあります。
どんなに創り手が神経を尖らせて、誤解の無いよう、誰かを傷つけないよう慎重に言葉を紡いだとしても、人によってはそこに勝手な想像を加えて、歪んだ解釈をしてしまうことがある、ということに。
ある人が見れば(読めば)特に何の問題も無いごく普通のニュースや記事なのに、別の人が見れば(読めば)悪意と偽りに満ちたものに見えてしまう……。
身近な例で言うと、うちの母親などがそうなのですが……芸能人の言動のアレやコレやが、何かと偽善や作為に満ちたものに見えるらしく、TVを見てはひとりでぶつぶつ文句を言っています
まぁ、他人を全く疑わずに生きていけるほど、この世が綺麗でないのは事実ですし、疑う心はむしろこの世界で生きていく上で必要不可欠なものだとも思っています。
ですが程度の問題として「そこまで悪意を疑う必要がある!?」と思ってしまうことも、たびたびあるのです。
まぁ、その人が何を見てどう思うかはその人の自由ですし、母などを見ていると「他人の悪意を疑うのが、むしろ楽しい」ようにも見えますので、他人に迷惑をかけず単なる独り言としてTVに文句を言ってストレス発散しているなら、それはそれでいいのかな…とも思います。
ただ何となくモヤモヤするものも覚えます。
そんな時ふと思ったのが「言葉というのはひょっとして、使う側だけでなく、受け取る側にとっても鏡なのかも知れない」ということでした。
日本語というものは複雑で、同じひとつの言葉でも複数の意味を持っていたり、読み手によって解釈を変えたりすることがよくあります。
特に主語や述語、間の説明などを省略されてしまうと、いくらでも自由な解釈が可能になってしまいます。
そんな言葉を、良い風に受け取るか、悪い風に受け取るかは、受け取り手次第なのです。
言葉の紡ぎ手が全く意図していなかった悪意を、読み手がそこに読み取ってしまったとしたら、その悪意は、実は読み手の心の中にこそあるのかも知れません。
だからもしも、世の中にあふれた文章や情報の、何もかもが悪意に染まって見えたとしたら、そこに本当に悪意があると信じる前に、「自分、ひょっとして心が疲れてるのかなー」と一旦、自分の心をクール・ダウンしてみれば、案外ラクになるのではないかと思うのです。
この世に悪意があるのは事実ですが、何もかもを悪意と疑う必要は無いですし、疑いだしたらキリがありません。
それに「全てが悪意と欺瞞で出来た世界」を生きるより「それなりの量の悪意と、特にそうでもないもので出来た世界」を生きていく方が、よほど精神的にラクだと思うのです。
全てを悪意だと疑って拒絶してしまっては、“拒絶していなければ得られていた出会いや幸せ”も逃がしてしまうかも知れませんし。
…まぁとは言え、本物の悪意とそうでないモノをきっちり見極めて必要な部分だけ疑っていくというのも、なかなかに難易度の高いスキルで、そうそうできるものではありませんので、「必要な分よりちょっと余計に悪意を疑ってしまう」のも無理もない話なのかなぁ…とは思うのですが。
その時、先生に言われた言葉で印象に残っているものがあります。
それは「文章には書いている人間の本質が無意識ににじみ出る」というものでした。
どんなに上辺だけ取り繕って綺麗な文章を書こうとしたところで、その人の本質が醜ければ、それは文章のどこかににじむものだと。
だから、形だけ綺麗にまとめようとするのではなく、心を磨かなければならないのだと――。
細部まで正確に覚えているわけではありませんが、そんなようなことを言われた気がします。
それ以来、何となく「言葉は心を映す鏡だ」という感覚があり、口に出す言葉にせよ、文章として書く言葉にせよ、自分の使う言葉には神経を使ってきたような気がします。
口に出す言葉を口から実際に出す前に頭の中で反芻してみたり、文章に書いた言葉を読み返して、それが誰かを傷つけるものになっていたり、ひとりよがりな論理を押しつけるものになってはいないだろうか、と想像してみたり…。
言葉が心を映す鏡ならば、その言葉を自分自身の眼や心で見つめることで、自分の心の変調に気づくこともできるはずです。
そうして自分の心を見つめ直していけば、知らず知らずのうちに“嫌な自分”になってしまうこともなく、より良い自分に変わっていけるのではないか――そんな風に思っていました。
ただ、最近気づいたことがあります。
どんなに創り手が神経を尖らせて、誤解の無いよう、誰かを傷つけないよう慎重に言葉を紡いだとしても、人によってはそこに勝手な想像を加えて、歪んだ解釈をしてしまうことがある、ということに。
ある人が見れば(読めば)特に何の問題も無いごく普通のニュースや記事なのに、別の人が見れば(読めば)悪意と偽りに満ちたものに見えてしまう……。
身近な例で言うと、うちの母親などがそうなのですが……芸能人の言動のアレやコレやが、何かと偽善や作為に満ちたものに見えるらしく、TVを見てはひとりでぶつぶつ文句を言っています
まぁ、他人を全く疑わずに生きていけるほど、この世が綺麗でないのは事実ですし、疑う心はむしろこの世界で生きていく上で必要不可欠なものだとも思っています。
ですが程度の問題として「そこまで悪意を疑う必要がある!?」と思ってしまうことも、たびたびあるのです。
まぁ、その人が何を見てどう思うかはその人の自由ですし、母などを見ていると「他人の悪意を疑うのが、むしろ楽しい」ようにも見えますので、他人に迷惑をかけず単なる独り言としてTVに文句を言ってストレス発散しているなら、それはそれでいいのかな…とも思います。
ただ何となくモヤモヤするものも覚えます。
そんな時ふと思ったのが「言葉というのはひょっとして、使う側だけでなく、受け取る側にとっても鏡なのかも知れない」ということでした。
日本語というものは複雑で、同じひとつの言葉でも複数の意味を持っていたり、読み手によって解釈を変えたりすることがよくあります。
特に主語や述語、間の説明などを省略されてしまうと、いくらでも自由な解釈が可能になってしまいます。
そんな言葉を、良い風に受け取るか、悪い風に受け取るかは、受け取り手次第なのです。
言葉の紡ぎ手が全く意図していなかった悪意を、読み手がそこに読み取ってしまったとしたら、その悪意は、実は読み手の心の中にこそあるのかも知れません。
だからもしも、世の中にあふれた文章や情報の、何もかもが悪意に染まって見えたとしたら、そこに本当に悪意があると信じる前に、「自分、ひょっとして心が疲れてるのかなー」と一旦、自分の心をクール・ダウンしてみれば、案外ラクになるのではないかと思うのです。
この世に悪意があるのは事実ですが、何もかもを悪意と疑う必要は無いですし、疑いだしたらキリがありません。
それに「全てが悪意と欺瞞で出来た世界」を生きるより「それなりの量の悪意と、特にそうでもないもので出来た世界」を生きていく方が、よほど精神的にラクだと思うのです。
全てを悪意だと疑って拒絶してしまっては、“拒絶していなければ得られていた出会いや幸せ”も逃がしてしまうかも知れませんし。
…まぁとは言え、本物の悪意とそうでないモノをきっちり見極めて必要な部分だけ疑っていくというのも、なかなかに難易度の高いスキルで、そうそうできるものではありませんので、「必要な分よりちょっと余計に悪意を疑ってしまう」のも無理もない話なのかなぁ…とは思うのですが。
このブログは津籠睦月の既存ブログ「猫とファンタジー好きの日常ブログ~休日を中心に活動中。」から、「世の中いろいろ」「人生の軌跡、とか」「社会人の日常」等のいくつかのカテゴリーを分割し、引っ越してきたものです。
(過去記事はとりあえずそのまま「ファンタジーと猫好きの日常ブログ~休日を中心に活動中」に置いておきますので、このブログでは新規の記事を載せていきます。)
なぜわざわざブログを分けたかと言うと、元のブログが、家族やペットの面白エピソードからマジメな考察、人生の振り返り記事やネット小説の更新記事までジャンルの幅が拡がり過ぎて、すっかりカオスな状態になり果てていたためです。
読者様にしてみても、あまりに様々な記事を雑多に載せていると「明るく面白いだけのアニマル・エピソードが読みたくて来たのに、マジメな記事とか暗い社会人お仕事日記とかツマラナイ!」ということにもなりかねませんので、マジメな記事(?)はマジメな記事だけでまとめて別ブログにお引越しすることにしたわけです。
管理人的にも「たまにはマジメなことも書きたいけど、ネット小説の更新記事だけ見に来てくれている読者様にはジャマになってしまうかな…」などと遠慮することなく自由に書きたいペースで書きたいことを書けますので、便利なのです。
…と言うことですので、今まで「世の中いろいろ」「人生の軌跡、とか」「社会人の日常」カテゴリーをチェックしてくださっていた読者様には、お手数ですが今度からはこちらのブログをチェックしてくださるようお願いいたします。
余暇時間はネット小説最優先で活動していますので、このブログの更新はマイペース・スロー更新になるとは思いますが……。
(ネット小説(投稿小説含む)やサイトの更新関連記事・アフィリエイトの成果報告等は引き続き元のブログで情報発信していきます。)
なお、お引越しに伴い、カテゴリーも多少再編していきたいと思います。
(元ブログでは同カテゴリー内でもジャンルがバラバラになりがちでしたので…。)
ちなみに元ブログに載せたままの過去記事については下記に「記事一覧もくじ」を作成していますので、よろしければご覧ください。
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