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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。

いつも不思議に思うのですが「自分と異なる意見は徹底的に排除しよう」という考え方って、どうして生まれてくるのでしょう?

まぁ、自分の望みとは真逆の意見だとか、自分がやりたいことを否定・制限するような意見だとか、通ってしまうと自分が何かと「やりづらくなる」意見を、感情的に(あるいは本能的に)否定したくなる気持ちは分かります。

でも、それで自分と対立する意見を(特に、暴力的で攻撃的なやり方で)「絶滅させよう」とするのは、やり過ぎで不健全なことだと、どうしても思ってしまうのです。

自分が元々「目的や大義がどんなに素晴らしいものであろうと“やり方”が非道なら、それは当然“酷い”ことだ」と思っているから、かも知れませんが。

そもそも自分は、個人的に「“自分と異なる意見”を簡単に切り捨ててしまうことは絶対やりたくない」と思っています。
 
なぜなら「自分と異なる考え」ということは「自分の頭では絶対にたどり着けない考え」ということかも知れないので。
それをみすみす捨ててしまうことは、自分自身の破滅フラグにつながるかも知れないと思うからです。
 
所詮この世界の全てを知ることもできない人間の身で、自分の出す意見が『常に正しい』とは限りません。
むしろ一定の確率で、本人さえ気づかない思考ミスを犯していて、間違った意見を出してしまうことがある、と考える方が自然だと思います。
 
それに、たとえ短期的に見れば自分にとって都合の良いモノだとしても、長期的に見れば破滅につながりかねないことって、結構ありますよね。
 
(二酸化炭素は経済活動を活発に行うと増えてしまうものだけれど、規制していかないと温暖化になるとか、甘いものはおいしいけれど食べ過ぎると肥満や糖尿病につながる、といった風に…。)
 
反対意見を残しておけば、いざという時にブレーキになってくれて破滅を免れられるかも知れないのに、全て排除してしまったらブレーキの無い暴走車のごとく「破滅へ向かって一直線!」になってしまうかもしれないじゃないですか。
(ブレーキをなくすと破滅する云々というのは以前、別ブログの記事にも書きましたが…。)
 
そもそも昔からのことわざでも「良薬は口に苦し」と言っているように、「その時」の自分にとってイヤなもの「将来」の自分にとって「薬」になる、ということは、結構普通にあることだと思うのです。
 
だから一時の“感情”に左右されず長期的な視野を持って他者の意見も尊重していくというのが、結局は「自分(や自分の生きる未来)を大切にする」ということに繋がると思うのです。
 
(まぁ、人間ですので、どうしても感情が先に出てしまうこともあるとは思うのですが、そこをグッとこらえてコントロールしていかないことには、結局は自分が破滅するだけだと思うので。)
 
あと、生命の進化だとか種の絶滅だとかの歴史を見ていると、何となくですけど「多様性は持っていた方が良い」と思えてならないのです。
 
多様性の無い種って、絶滅リスクが高い気がしてならないので。
 
そもそも多様性――個体に様々なバリエーションがある、ということは、その数だけその種に“可能性”があるということだと思うんですよね。
 
たとえAというタイプの人間にはできないことでも、Bというタイプの人間にはできるかも知れない――そうやって多様性の数だけあるたくさんの可能性でもって、各々のタイプの得意分野で人類の直面する様々な問題を1つ1つ解決していけば、人類はその分“種”としての寿命を延ばせるのではないか――そんなことをごくごく単純に考えてしまうのですが、短絡的過ぎますかね?
 
ただ、人間というものはどうしても、自分とはタイプの異なる人間を嫌悪したり、歪だと感じたり、反発したりすることが多い生き物のようですので、「どうやって多様なタイプの人間が“共存”していくのか」という課題は常につきまとってしまうものなのかも知れません。
 
「寛容な心で多様性を受け入れなければいけない」という建前をいくら説いたところで、「気に食わない」「嫌だ」と感じてしまう心の奥底の本音部分を上手く説き伏せることはできない気がするので、そういう時には「気には食わなくても、あの人々が存在していれば、将来何か人類(自分)の役に立つかも知れない」と思って、ゆるくフワッと受け入れておけばいいのではないかと、個人的には思うのですが。
 
そもそも、タイプの異なる人の目から見れば「役に立たない人間」「変な人」に見えたとしても、その人が実際にどんな潜在能力を秘めているかなんて「神のみぞ知る」領域のことで、一介の人間に測れるものではないと思うのです。
 
幼少期に学校の勉強ができなかった人物が後に歴史的偉業を成し遂げるという、発明王エジソンのような例なんて、歴史上、掃いて捨てるほどありますので。
 
ともあれ、どんな意見であれ、検討もせずに切り捨てるなどということは止めて「とりあえず取っておく」くらいの心の余裕があった方が、何かと人生が生きやすくなると思います。
 
まぁ、多様な意見があるということは、それだけ「意見をまとめる」ことが大変になるということでもありますので、人類の「意見調整」スキルを上げていかなければならないという、そういう問題も出て来てしまうとは思いますが…。

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今まで生きてきて、つくづく実感していることがあります。
 
それは、人間が人間に下す評価なんて、所詮は主観的相対的なものであって、客観的絶対的なものなんかじゃない、ということです。
 
類は友を呼ぶ”ということわざがあるように、人間というものはたぶん、自分の“同類”に対する評価は自然と甘くなり、そうでないモノに対しては厳しく批判的になるものなのではないかと、そう思えてならないのです。
 
(場合によっては“同族嫌悪”で逆に同類に対する評価の方が厳しくなるケースもあると思いますが。)
 
あるいは“自分にとって”魅力的な人物であれば、その他大勢の人間から嫌われている人間であっても好感を持ってしまう――そんな部分があるように思えます。
 
つまりは、人間が誰かを好いたり嫌ったりなんていうのは、結局のところ“相性の問題”でしかないように思えてならないのです。
 
ある人間にとっては「真面目で誠実で素晴らしい」人柄に思えても、別の人間には「生真面目でカタブツでツマラナイ」と思われたり……ある人にとっては「チャラくて、ふざけてる」人間に見えても、別の誰かから見れば「ノリが良くて面白い」という評価になったり……。
 
また、ある人間にとっては「そんなことするなんてアリエナイ!」という行為が、べつの人間にとっては「まぁいっか」という程度のことでしかなかったり……。
 
その人の個性を「良い」と思うか「悪い」と思うかは、見る人の感性や価値観次第で、自分がたまたま出会った相手が自分のことを良いと思ってくれる相手か、それとも悪いと思う相手なのかは運でしかない――結局そういう“相性”の問題だと思うのです。
 
他人から嫌われたり、良い評価をもらえなかったりするのは、悲しく悔しいことです。
 
でも、それは必ずしも「全世界的・全人類的に見て自分がダメな人間だ」ということとは限らないのです。
 
たまたまそこにいた相手が、自分とは相性が最悪な人間だったという、それだけの話かも知れないのです。
 
人間が同類を高く評価したがり、その他の異質な人間を見下したがるのは、そうすることで同類である自分も肯定される気がするから、そして異質な人間を否定することで自分たちを優位な立場に置きたいから、という考えが無意識のうちに働いているからなんじゃないかと、そういう気がします。
 
そんな無意識の生存本能的(?)な何かに惑わされて自分の価値を過剰に卑下し、まして命を断とうと思いつめるなんて、勿体ないことだと思うのです。
 
世界は広く、人間は数十億人もいて、それぞれ違う性格を持っています。
中には自分と気が合う人間・自分を受け入れてくれる人間がいるはずです。
 
だから、誰かに嫌われたり、存在を否定されたりしても、そこまで思いつめる必要はない――そう思うのです。
 
まぁ、かと言って、どこまでも自己中心的に、ワガママに振舞って良いか、というと、そういうことではないと思いますが。
 
他人を害したり迷惑をかけたりする行動は、自然と敵を作り、自分の味方になってくれる“相性の良い”人間を、自ら減らしてしまう結果になると思いますので……。

自分の“力”を誇れるかどうかは、実力の程度とはあまり関係がなく、その人の“性格”や“育ってきた環境”による、というのが、自分の経験上の持論です。
 
なぜなら自分は、実際の能力の有無に関わらず、常に自分に対して自信のない子どもだったからです。
 
自分がそんな風に自信無く生きてきた理由は、親に褒められた経験があまり無いことにありました。
 
たとえばテストで良い点をとっても、絵画コンクールで入賞しても、読書感想文でクラスの代表に選ばれても、褒められたという記憶はありません。
 
そもそも両親が共働きで忙しく、子どもの学校生活をいちいち聞いてくれるような時間的余裕がなかったということも理由の一つではありますが、それ以上にうちの親の場合、たとえ子どもが自分自身の力で絵画コンクール入賞できるような腕を持っていようと、感性やセンスが合わなければ容赦なく“ダメ出し”し、むしろ嬉々として「お父さんが手伝ってやる」と、子どもの描いた絵に自分の好きな絵のタッチを“上書き”してくるような性格をしていた、ということに問題があったような気がします。
 
さらには自分の場合、本来なら体力に回すべきエネルギーを全て頭脳に吸い取られたとでも言うように身体が弱く、体育の成績はいつでもクラスの最底辺、1ヶ月に1度はダウンして学校を2~3日休む、という状態だったため、その辺りをいつも責められ、長所を褒められるどころではなかった、ということもあります。
 
それと、自分が得意としていた分野が主に勉強などのインドア方面で、学生時代当時、周囲の人気の的になれるようなジャンルではなかった、ということもあります。
 
逆に、クラス内どころか学年すら超えて周囲から一目置かれていたのがうちの兄弟で、彼は運動会では組別対抗リレーのアンカーに選ばれ、休み時間には鉄棒で大技を次々と決めて周りに人垣を作り、クラブ活動では竹からナイフ一本で耳かきや竹とんぼを作り上げたり、コマ回しやベーゴマの腕で周囲の尊敬を集め(←そういう”昔の遊び”をするクラブに入っていたのです。)、さらには笑いのセンスで人気を集めるという、典型的な“クラスの人気者”タイプで、自分は何かと自分自身と比べてコンプレックスに苛まれたりしていたものでした。
 
そんな環境から、いつしか自分は良い成績をとろうと、校内で表彰されたり何かに選ばれることがあろうと、「こんなことはべつに褒められるようなことじゃない」「自慢できるようなものじゃない」と思うようになっていました。
 
たとえどんな能力を持っていようと、本人がそこに価値を認めなければ、それは自信の根拠になどなりはしません

たとえ、はたから見れば妬ましく思えるような能力をもっていたとしても、本当に喜んで欲しい身近な人間がそれを評価してくれなければ、そこに価値を見出すことはできなかったりするのです。
 
そんな風に長い間、自分に価値を見出すことができずに苦しんでいる時期が、自分にはありました。
 
今思うと、おかしなことだと思います。
 
たとえ大切な人から認めてもらえずとも、そこにはちゃんと、ある種の能力が存在していたのに。
そしてその能力は、たぶん、自分の将来を切り拓くのに役立つような種類の力であったにも関わらず…。
 
そして世の中には逆に何の根拠も無いのに自信満々に堂々と生きているような人も沢山いるというのに。
 
たぶん、“自信の根拠”を他者(特に家族など、自分が心から肯定してもらいたいと思っている相手)に求めてしまっていたのが、いけなかったのではないかと思います。
 
「褒められたい」「認められたい」という欲求ばかりが大きくて、他者からの評価ばかりを求めて、自分の力を自分自身の目で冷静に、客観的に分析・評価することができていなかったのでしょう。
 
たとえ血のつながった親であっても、自分ならぬ他人である以上、価値観はそれぞれ違います。
自分が良いと思ったもの、褒めて欲しいものを、必ずしも認めてもらえるとは限りません。
 
それなのに「親(あるいは大切な誰か)に認めてもらえないから価値のないものなんだ」と自分で自分の能力を否定してしまうのは、ひどくもったいないことだったな、と我ながら思うのです。
 
今は大切な人に認めてもらえなかったとしても、もしかしたら、これから自分と同じような価値観を持つ”大切な誰か”に出会えて、その人は自分の能力を認めてくれるかも知れないのに…。
 
それに自信の有無は、その人の積極性にも影響を与えます。
 
自信に満ちた言動は(たとえその裏に実力が伴っていなかったとしても)見る人に何となく安心感信頼感を与えたりするものです。
 
自分に自信が無くて自己アピールも消極的な人間より、根拠の無い自信であっても自信満々に堂々と自分をPRできる人間の方が、他人に与える印象という点においては何かと有利だったりするように…。
 
そして自分に自信がないことは、行動力にも確実に影響してきます。
 
心の底では「正しい」と思うことでも、自分に自信がないので言えない・行動できない――あるいは会議やゼミなどの場で自分の考えを思うままに発言できず、無難な発言に留めてしまう――そして、自分のやりたいことが思うようにできない等々…。
 
自信の無さは、自分の経験上、確実に人生を蝕んできました。
 
正直、自分に自信を持つということは、学力やその他の能力をUPさせるよりも人生に必要な能力なのではないかと思うほどです。
 
親に褒められることが人生に良い方に作用するかどうかは、その人次第かも知れません。 
もしかしたら変に増長してダメな子に育ってしまうパターンもあるのかも知れません。
 
ただ、自分の場合には、もっと褒めて自信を与えて欲しかったな、と思うのです。
 
そうすれば、少なくとも就活であんなに面接に苦戦することもなかったような気がします。
 
もっとも、ただ何の根拠も無く常に自信満々でいれば良いのかと言うと、決してそうではなく、ちゃんと根拠があった上で自分を信じ、時には適度に自分を疑うことも大事だとは思っているのですが。
 
そして、その”根拠”は必ずしも実力や数値に表れるような”能力”ではなく、自分がそれまでどれだけのことを頑張ってきたのか、他の誰が知らずとも自分自身は知っているそれまでに積み上げてきた努力の過程を、密かに誇って自信にすれば良いと思うのですが。

世の中、何でも一緒くたにせず、分けて考えればラクになることがたくさんあるのにな、と思うことがあります。
 
たとえば人間トラブルに遭って、社会や人間自体が嫌になってしまっても、この世界はべつに人間だけで構成されているわけではないのだから、人間以外の部分――空だとか、花だとか、川辺の景色だとか、近所の猫たちだとか、電線のスズメだとか…とりあえずは、そういう自分が好きになれる綺麗な部分だけ愛していけばいいんじゃないかな、と思ったりするのです。
 
何か嫌なことがあっても、辛いことがあっても、それはこの世界のほんの一部分でしかなく、その他の部分には、自分が好きになれる何かが埋まっているのかも知れない――そんな風に思って生きていくのは、気休めに過ぎないのでしょうか?
 
自分は昔から、景色を見るのが好きでした。
 
それも、観光地になっているような“絶景”ではなく、日常の中のほんのささやかな風景に惹かれてきました。
 
たとえば、通学路の両脇に茂った木が天然の緑のトンネルを作っているのを見てわくわくしたり、雨の日に川の水面にいくつも波紋が広がっていくのを見てどきどきしたり……今も、通勤途中の脇道にノラ猫さんたちが丸くなっているのを見てはほっこりしています。
 
たとえ学校や家などで嫌なことがあっても、世界には心を癒してくれる綺麗な景色が沢山あった――そのことが、随分と自分の心の慰め支えになってくれていた気がします。
 
それと、素敵な世界は外の景色だけでなく、本の中にもありました。
 
自分は完全なインドア人間なので、物心ついた時から本ばかり読んで育ってきました。
 
本の中には、現実ではなかなか巡り会えないような理想的な大人や魅力的な人物、こことは違う別の世界が沢山存在していました。
 
本の中のそんな世界に浸り、一時でも現実を忘れることで、やはり随分と心が癒されていたように思います。
 
(ちなみに本に限らずゲームなど、一時的に別の世界に没頭して現実逃避をするのはストレス解消の手段の一つとして有効だと以前テレビで見たことがあります。もっともそれだけではなく、ストレスの源に立ち向かうことや買い物やカラオケなど他の手段で発散するなど、他の方法とも組み合わせていくことが重要だと言っていた気がしますが。←ややうろ覚えです。)
 
たぶん、この世界の中に好きなものが沢山あればあるほど生きるのがラクになるのではないかと思います。
 
この世界の何もかも全てが嫌いになってしまったら、きっと毎日が辛くて仕方がなくなるのではないでしょうか。
 
だからこの世界の全てを嫌いになってしまわないように、常日頃からこの世界の中の小さな「好き」を見つけて、自分の心の中に貯め込んでいけば良いと思うのです。
 
お金や物は奪えても、人間の心の中にあるものまでは誰にも奪えません。
 
たとえ他の誰かに「そんなものが好きだなんて変」「そんなもの、くだらない」と言われても、自分さえ「好き」の気持ちを変えずにいたなら、それは失われることなく心に残り続けます。
 
そして日々の生活の中でそんなささやかな「好き」に出会えたなら、ほんのり幸せを感じれば良いのです。
 
たとえば自分はよく空を見上げます。
 
同じように見えても、空は毎日少しずつ色や形を変え、一日として同じものはありません。
 
そんな、その日にしか出会えない空を見つめ、その美しさにほっこりするのです。
 
他人から見れば、くだらないかも知れませんし、時間の無駄かも知れません。
 
でも、そんな日々のささやかな「ほっこり」が、何だかんだでちょっとしたストレス解消になっていて、そんなちょっとしたストレス解消でも、積み重ねて人生全体で見てみれば、かなりの効果を上げているのではないかと思ったりするのです。
群馬県高崎市の於菊稲荷神社(おきくいなりじんじゃ)へ行って来ました。
 

 
以前、芸能人が中山道をリレー形式で歩いていく番組で取り上げられていて、ずっと気になっていたので。
 
小規模ながら朱色の鳥居がずらーっと並んでいるところも印象的だったのですが、御朱印が狐のスタンプの上に重なるように記された神社の名が狐の尾の形になっていて、とても珍しく素敵だったので。
 
(ネットで調べてみると、それ以外にも複数種類の御朱印があり、季節限定のものや、ひな祭り・端午の節句などイベント限定の御朱印もありました。限定の御朱印の時には結構人が並ぶようです。)
 
あと、夏休みがちょうどお盆時期と重なってしまい(ウチの会社の夏休みはローテーションなので、ちょうどお盆に当たるとは限りません。)、どこへ行っても混んでいそうなので穴場で、あまり人がいなさそうな所にちょろっと出掛けたい、というのがあって…。
 
あと、群馬は祖母の実家があって、小学生の頃は毎年お彼岸のたびに行っていたくらい馴染みのある場所なので。
 
(もっとも親戚の家メインだったので、あまり観光スポットには行っていないのですが。世界遺産の富岡製糸場にも行ったことがないくらいです。)
 
まぁ、それだけだと夏休みの目的地としては少し寂しいのですが、この神社の最寄駅である新町にはもう一つ目玉があります。
 
それは「ガトーフェスタ ハラダ」。
 
東京のデパ地下にも出店している、ラスクで有名な洋菓子店さんですが、新町には普通の販売店(於菊稲荷神社のそば)の他、まるで宮殿のような立派な工場(新町駅から徒歩15分)もあり、工場見学もできるのです。
 
(工場見学目当ての観光バスも来るらしいです。ちなみに工場見学は元日を除く平日のみで、10~17時。料金は無料。10名以上は要予約だそうです。工場見学するとラスクが1枚タダでいただけます。)
 
自分は群馬に親戚がいるので、よくここのラスクをお土産にもらっていましたが、実はラスクだけでなく、ケーキなどの生菓子や期間限定のゼリー(コーヒーゼリーとティーゼリー)、サブレ等の他の焼菓子も売っています。
 
ラスクも定番のプレーン(バターの風味のラスクに砂糖がまぶしてあるもの)だけでなく、間にラムレーズン入りホワイト・チョコクリームをはさんだものや、チョコレートでコーティングしてあるものなど、様々な種類があります。
 
…と言うわけで、於菊稲荷神社とガトーフェスタハラダ目当てで新町駅に降り立ったのですが…
 
親戚の家のイメージから何となく田舎なイメージがしていた新町でしたが、意外と建物や建造物が立派です。
 
と言うか、昭和レトロだったりオシャレだったり面白いセンスの建造物が多い気がします。
 
駅前ロータリーもライオンの噴水があったりなどして立派なのですが、自分が心惹かれたのは歩道橋です。
 
新町駅は改札が1つしかないのですが、駅の反対側へ渡るための歩道橋は、踊り場の真下にあたる部分に時計がついていたり、歩道の真ん中や突き当りに花壇があって、緑の歩道と花壇のカラフルな花との対比がとても綺麗で癒されました。
 

 

 
あと、改札から真っ直ぐ行った交差点にある歩道橋も、何だか未来的でカッコイイです。
 

 
自分は特に歩道橋マニアでも何でもないのですが、無駄に写真を撮りまくってしまいました。
 
於菊稲荷神社へは駅から徒歩で約10分ほどです。
 
(行き方はサイトの方に「於菊稲荷神社への行き方(アクセスマップ)」としてまとめてあります。)
 
この神社には珍しいペット用のお守りがあることは事前にネットで調べて知っていたのですが、絵馬もペットの形(犬の顔の形)をしたものがありました。
 
垂れ耳の耳の部分にだけ色がついていて、目や鼻、口などは自分で描き込むようになっているのですが、様々な顔のワンコの絵馬がずらっと並んでいて微笑ましく、ほっこりします。
 
境内には本殿の他、雷電神社の小さな祠があったり、小さなお狐様の人形がずらっと並ぶ白狐社があります。
 
御朱印は、自分が行った時には5種類ほどあって悩みましたが、結局テレビで最初に見た御朱印をいただきました。
 
それと我が家の愛猫用にペット守(交通安全・健康長寿)を購入。
 
青と赤の2種類あって、首輪に取り付けられるようになっています。
 
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【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
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