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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
自分には、未だに忘れられない光景があります。
 
中学時代、散々嫌がらせをされてきた“天敵”に、無理矢理手をつかまれ学校の廊下を引きずられていく光景。
 
周りには何人も同級生たちがいたのに、誰一人、助けてくれず、声をかけてさえくれなかった光景。
 
…もしかしたら、自分が「助けて」と声を上げていれば、少しは状況が変わっていたのかも知れません。
 
が、当時はそんな風に“嫌がらせされている”姿を他人に見られること自体、恥ずかしいと思っていましたし、まして周りに助けを求めることなんてできませんでした。
 
結局この頃は同級生の誰かどころか先生でさえ助けてはくれず、自分で状況を変えていくしかなかったわけですが…

(関連記事>ハブられ状態脱出の実例~中学生の時~
 
この時を境に、自分の中には「人間不信」が芽生えてしまいました。
 
仲の良い友達ができたって、一番助けて欲しい時に助けてくれない、それどころか裏切って心を傷つけてきたりする――だったら、友人を作る意味とは何なのだろう…
 
あからさまに窮地に陥っている人間がいるのに、誰も手を差し伸べてくれない――こんな冷たい人間ばかりの世界で、他人を求める意味はあるのだろうか…
 
そんな想いが渦巻いて、しばらくの間は、新たに人間関係を築くこと自体が嫌になりました。
 
(ちなみに嫌がらせをしてきた“天敵”自体が、実は小学校時代の友人だったという、さらなるトラウマがあったりします。)
 
けれど、学校という空間で「友達を作らず」「ひとりでいる」というのは、とても難しく、キツいことです。
 
修学旅行の班決め、給食で一緒に食事するグループ、体育の授業でのペア…学校では二人以上の団体行動を要求してくる場面がしょっちゅうあります。
 
そこで友人がいない「余りもの」状態だと、たとえ人数合わせでどこかのグループに入れてもらえたとしても、とても気まずく、いたたまれない想いをします。
 
中学2年で天敵を拒絶し、結果クラス内で孤立し、3年になってからも、元々親しい人間が1人もいないクラスで新たに友人を作らなかった自分は、そんな“いたたまれない”想いを年中していました。
 
(部活では普通に友人がいましたが、誰一人として同じ組にはならなかったのです…。)
 
それでも自分は、“信じられない友人”を嫌々作るより、その“いたたまれなさ”に耐える方がよほどマシだと思っていたのです。

(どうしてそこまでして友人を作るのが嫌だったのかは、“天敵”の件と絡めて後々書いていくかも知れません。)
 
中学を卒業し、高校に入ってからも、自分の「友達作りたくない病」は変わらず、親しい友人を新たに作ることなく、中学時代の友人(部活で仲の良かった友人)とばかり、つるんでいました。
 
しかし、高校では断然クラスの中での“過ごしやすさ”が違っていました。
 
なぜなら自分の進学した高校は、成績順にクラス分けがされるような進学校で、朝と帰りには毎日小テストがあり、生徒は休み時間でも参考書を開いているような人間がほとんどだったからです。
 
学校の旅行の部屋割やグループ分けなども、氏名の順に学校側が決めることが多く、特別に仲の良い友人を作らなくてもやっていけましたし、ひとりでいても“浮く”ことがなかったのです。
 
クラスメイトたちも、普段はあまり喋ったりしていなくても、球技大会や体育祭、文化祭などの行事では皆で団結して協力し合うという雰囲気があり、「必要な時だけ団体行動をして、その他の時にはひとりでいてもいい」という空気が、とても居心地が良かったのです。
 
結局、高校の三年間、親しい友人という存在は特にいませんでしたが、その三年間が自分にとっては必要な“心の休養期間”だったのではないか――今になってみると、そう思えます。
 
きっとあの頃、人間不信のピーク状態のままで無理矢理友人を作ったとしても、ますます人間不信をこじらせ、心が疲弊するばかりだったのではないかと思うのです。
 
無理に友人を作る必要もなく、不登校になることもなく“普通に学校に行けた”三年間は、自分にとって“とてもラク”で、心が休まる期間でした。
 
その三年間で自分は好きな読書にのめり込み、知識の幅と自分の世界を広げていきました。
 
そして高校を卒業し大学に入る頃には、「知っている人の誰もいない学校だし、この機会にボチボチ友達でも作っていこうか」という気分になれていたのです。
 
「友達がいない」「ハブられている」「ひとりぼっち」という状態は、不登校につながりかねない辛い状況です。
 
しかし、それは単に「寂しい」「ひとりが嫌」というだけでなく、「周囲の目が気になる」「周りから浮いているのが怖い」「変な目で見られたり、かわいそうな目で見られたくない」という面もあるのではないでしょうか。
 
「ひとり」でいる人間が、必ずしも仲間や友人を求めているわけではありません。
 
中には、心にひどい傷を負い過ぎて「今は誰とも関わりたくない」「そっとしておいて欲しい」という人もいるのではないでしょうか。
 
(それで放置するのが良いのか、むしろ積極的に関わっていった方が良いのかは、個人個人でケースが違ってくるのでしょうが…。)
 
個人的には、学校という空間が、もっと「ひとりでいても大丈夫」な場になれば、学校にいるのが苦痛という人が減るのではないかと思います。
 
「ひとりでいてもおかしくない」「ひとりでいるのは普通のこと」だったら、嫌いな友達と無理につき合う必要もなく、ハブられてもそこまで絶望する必要はなく、虐めに耐えてまでグループ内に居場所を求める必要もありません。
 
「友達がいないとダメ」「無理にでもグループを組まなければならない」という学校の暗黙のシステムが、余計に人間関係にしているような…そんな気がするのです。
 
(まぁ、全てが全て個人主義になってしまったら、それはそれで新たな問題が発生していくのかも知れませんが…。)
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学生時代、何となく周りに漂っているような気がして、それを感じるたびに嫌な気持ちになっていたモノがあります。
 
それは“真面目を馬鹿にする空気”とでも言うようなモノです。
 
真面目に勉強すること、真面目に何かに打ち込むこと――そういったものを卑下し、馬鹿にして、「そんな風にマジメに生きるよりも、面白いことや楽しいことだけをしてラクに生きる方がよほど優れた生き方なのだ」と押しつけてくる、無言の圧力です。
 
“まじめ”という言葉は、本来決して悪い意味ではないはずなのに、学生時代のあの頃は“まじめ”という言葉自体が“ウザい”だとか“つまらない”といった悪口と同義な気がして、そういうレッテルを貼られることを恐れていたような気がします。
 
真面目だと思われたくなくて、「勉強なんてしてないよ」アピールをしてみたり、わざと自分の不真面目な部分を大袈裟にアピールしてみたり…
 
集団生活が基本の学校という空間では、友人に疎まれたり敬遠されたりするのは、孤立に繋がりかねないとても恐ろしいものです。
 
そして真面目な人間よりも、ちょっと不真面目なくらいの人間の方がウケが良いということは、学生たちの間ではよくあることだと思います。
 
そうして周囲に合わせて“ちょっと不真面目”を装っているうちに、成績が落ちてしまったり、どんどん“自分の望む自分の姿”とかけ離れていき、自分で自分のことが嫌になってきたり…
 
そういうのが、本当に嫌だと思ってきました。
 
確かに“まじめ”という言葉には、どこか“融通がきかない”だとか“冷たい”だとか、マイナスのイメージがつきまとっているのかも知れません。
 
けれど、物事に対して真剣に向き合い、取り組むことの何がいけないのかと、自分は思うのです。
 
逆に、真面目に真剣にやらなければダメなことが、世の中にはたくさんある気がしてなりません。
 
進路、受験、就職、お金のやりくり、病気や怪我の予防や対処…
 
望むと望まないとに関わらず否応なしに突きつけられる人生の重大事に、フラフラ不真面目なままでは対応しきれるはずもないのに、それでも“真面目を嫌う”人たちは“真面目”に考えることを拒否し続けるのでしょうか。
 
…そもそも、学生時代に感じてきた“真面目を馬鹿にする空気”に、自分は別の“”を感じてもいました。
 
それは、この“真面目を馬鹿にする空気”自体が、実は“足の引っ張り合い”でしかないのではないか、という疑念でした。
 
真面目に生きることを拒否して、結果、成績が伸び悩んだり、人生何と上手くいっていない人たちが、周りにいる人間を自分たちと同じ次元の場所に引っ張り込もうとして、「真面目は良くない」「真面目に生きるなんてくだらない」とネガティブ・キャンペーンを展開しているだけなのではないだろうか、と。
 
他人の向上心を妨害し、逆に堕落させ引きずり下ろすことで安心したり、自分を優位に保とうとする人間は世の中、結構いるものです。
 
しかも、それが悪意からというわけでもなく、「仲間なんだから、一緒に不真面目でいようよー」とばかりに、軽い気持ちで、あるいは無意識にそれをやっている人間も結構います。
 
学校という閉鎖空間において、友人というのはとても重要な存在で、おまけにクラスあるいは部活内の限られた人数の中では、必ずしも友人を“選ぶ”こともできません。
 
そんな中で周りに流されずに自分を保つのは、簡単なことではありません。
 
けれど、そこで「皆も真面目に生きてないから大丈夫」と流されてしまうのは、後々人生の破滅にもつながりかねない危険な選択です。
 
個人的にオススメするのは、たとえ表面上は周りに合わせていても、裏ではちゃんと真面目に自分の人生と向き合っておくことです。
 
(周囲に合わせないというだけで「空気が読めない」扱いされて虐めにつながるケースを考えれば、表面上は周りに合わせざるをえない部分もあるかと思いますので…。)
 
不真面目に、やりたいことだけをやって生きるという生き方は、真面目に生きるより“ラク”な生き方ではあります。
 
なので一旦そういう生き方に染まってしまうと“クセ”になってしまい、いざ真面目にしなければいけない場面で「どうすれば良いのか分からない」状態になり、どうにもならずに人生が詰んでしまう危険があります。
 
それに、そもそもの話ですが、真面目な人間が一定数以上いないことには、この世の中、上手く回っていかないと思うのです。
 
国が真っ当に機能していくためには、真面目に働いて真面目に税金を納める人間が一定数以上いないとどうにもならないわけですし、インフラも金融もその他諸々のサービスも、そこで真面目に働いている人間がいるからこそ正常に機能しているわけです。
 
それに仕事の取引相手や家族や人生のパートナーも、不真面目な人よりは真面目な人の方がよほど頼りになるはずです。
 
だから、安易に“真面目”に対するマイナス・イメージをまき散らすのは、本当にやめて欲しいな、と個人的には思うのです。
 
中には「不真面目なのは学生のうちだけで、社会人になったらちゃんと真面目になるさ」という人もいるかも知れません。
 
でも、一度ついてしまった心のクセが、そう簡単に修正されるものなのか、自分は疑問に思います。
 
表面上をどんなに真面目そうに取り繕っていても、心の根っこの方に「真面目に生きるなんて、やっぱり馬鹿らしい」という思いがあったなら、それはふとした瞬間にどこかで顔を出し、仕事の適当さにつながったり、不誠実さにつながったり、思わぬミスや失敗につながったりするのではないか…そんな風に思うのです。

自分が今までの人生を通して学んだことの一つに「能力の無い相手にその能力を求めても意味がない」ということがあります。
 
英語の成績が最悪だった人間に「通訳をやれ」と言っても無理なように、あるいはピアノを習ったことのない人間に「伴奏をやれ」と言っても無理なように、当たり前の話ですが“スキルが無ければできないものできない”のです。
 
そしてそれは単純に技能の話だけでなく、思考の分野にしても同じことだと思うのです。
 
たとえば…残念ながら、“思いやり”や“気遣い”というものにも程度の差があり、一人一人、そのレベルは違います
 
こちらが何も言わなくても、ひとりでに察して配慮してくれる人間もいれば、こちらから求めても根本的なところを理解してくれず、かゆい所に手が届かないような対応をしてくる人間もいます。
 
それはその人のそれまで育ってきた環境や、本人の努力・習慣によって「思いやり・気遣い」の習熟度に差ができているということで、一朝一夕でどうにかなるものではないと思うのです。
 
だから――たとえ親や家族であっても「こういう時にこうして欲しいのに」という願いが叶わないというのは、ある種「当たり前」のことで、諦めざるを得ないものなのかも知れない、と……
 
個人的経験から思うのですが、子というものは無意識のうちに、親に「理想の母親像」や「理想の父親像」を求めがちな生き物なのかも知れません。
 
たとえばドラマやマンガのように「親子なんだから、何も言わなくても“分かってる”」という関係を夢見たり…
 
子が辛い目に遭っていれば、全力で解決に動いてくれる“スーパーマンのような親”を夢見たり…といった風に。
 
だけど現実には、ある程度態度に出してシグナルを送っても心の悲鳴に気づいてもらえなかったり、口に出して助けを求めた結果、逆に事態が“こちらが全く望んでいなかった方向”に動いてしまったりもします(経験談です)
 
それは親が子を愛していないからだとか、愛情が足りないからだとかいうことではなく…きっと、ただ単純に「能力が足りていない」だけなのです。
 
たとえ血の繋がった親子だとしても“自分ならぬ他人”の心を知るためには、それ相応の“感受性”が必要です。
 
そして、子が巻き込まれたトラブルを解決するためには、やはり親にそれ相応の“問題解決能力”が必要なのです。
 
どれだけ“理想”を夢見たところで、現実問題、自分の親に“それ”が備わっているとは限りません。
 
理想と現実のギャップに打ちひしがれて「どうしてウチの親は何も分かってくれないんだ」「ウチの親はなんでこんななんだ」と嘆いたところで、親のスキルが急激にアップするなんてことはありませんし、自分の生まれを変えることもできません
 
…ただ、個人の経験として「そういうモノだと諦めてしまえば、ある程度ラクになれる」ということはあります。
 
叶えられない「無いものねだり」を続けるのは、精神が疲弊するばかりで、良いことはありません。
 
それは極論を言えば「どうしてウチの親は王様じゃないんだ。何不自由ない暮らしがしたかったのに」と嘆き続けるようなものです。
 
覆せない過去や自分の生まれた運命を、どんなに嘆いたところで、今、自分が置かれた状況は変わりません
 
だから、“理想的な親や家庭”など、“得られなかったモノ”を数えて嘆くより「この自分に生まれたから得られたもの」を探して愛しむ方が、よほど人生を有意義に生きられると思うのです。
 
たとえば自分の場合、放任主義な親の元、学校でどれだけ良い成績を取ろうが興味を持たれず(逆に、成績が悪くなれば、さすがにいろいろ言われたりしましたが…)、高校時代は学校生活や進路に関する大事な話さえ、ほとんどしなかったように記憶しています。
 
(親の関心が長男の方にばかり集中していたのも、自分が放任されていた理由のひとつかと思います。)
 
ですが自分は「逆に自由にできていいや」と、「親に関心を持たれていない」「進路に興味を持たれていない」のをいいことに「自分の好きなことしかやらない」高校時代を過ごしていました。
 
具体的には「勉強は必要最低限しかしない」「高校で友達を作らない(←高校時代の自分は中学時代の人間トラブルを原因とした“人間不信こじらせ期”のピークで、新規に友人を作る気ゼロでした。その代わり、中学時代の友人とばかりつるんでいたりしました。)」「好きな本ばかり読んで過ごす」といった感じでしたが…
 
(ちなみに高校はかなりの進学校で、周り中、休み時間もひとりで参考書を読んでいるような生徒ばかりでしたので、特に親しい友人を作らなくても何とかなっていたのです。)
 
今になって振り返れば、自分でも自分が心配になるレベルの高校時代を過ごしていましたが、親たちはそんな状況を知りもせずにいたので、特に心配されることも口出しされることもありませんでした。
 
(「勉強はしなかった」ものの「成績だけは、一応それほどヒドくない結果を残していた」というのも、口出しされなかった理由のひとつではあると思いますが…。勉強は宿題と英語の予習(←授業で当てられるかも知れないので)と毎日ある小テストの対策くらいしかしませんでしたが、その分、趣味で読んでいた本から知識と国語力は得ていましたので…。)
 
結果として、この高校時代だけで相当な“国語力”を積み上げることができ(←数値的なものはブログ右サイドの自己紹介備考参照)、それは後々、様々な場面で人生の役に立っています。
 
(単に文章作成に役立つというだけでなく、“読解力”は取扱説明書や専門書・解説書を読み込むのにも役立ちますので、独学で何かを習得するのにも役立ちます。実際、初めて制作したホームページがあんなことになっているのも、この能力が相当影響していると思います。)
 
要は、自分に与えられた環境に腐らずに、そこから少しでもポジティブな要素を拾い上げ「いいとこ取り」をして人生を有利に進めて行けば良い、ということなのだと思います。
 
人間万事塞翁が馬」「禍福はあざなえる縄のごとし」という言葉があるように「良いこと」と「悪いこと」は表裏一体であり、一見マイナスしかないように見える人生にも、探してみれば何らかのプラスはあると思うのです。
 
…まぁ、その「プラスを探す」ということ自体、「思考の柔軟さ」や「ポジティブ・シンキング」といったスキルやコツが必要なことかも知れませんので、そうそう簡単には行かないのかも分かりませんが…。

中一だったか中二だったかの夏、部活内でハブられたことがあります。
 
当時の自分には虐め(いじめ)紛いの嫌がらせをしてくる“天敵”が一人いて、その孤立状態もその天敵の仕業でした。
 
夏休み中の部活で、学校へはその部活のためだけに行っているのに、誰一人として口をきいてくれず、部活時間をずっと無言で過ごすという苦痛。
 
しかも、夏休み前までは普通にしゃべっていて、“仲の良い友達”とさえ思っていた相手からも無視されるという、思春期真っただ中の中学生にとっては、かなりキツイ状況でした。
 
しかし当時から既にある程度人間心理に通じていた自分は、ただ絶望に打ちひしがれるということはありませんでした。
 
この孤立状態は、一人の人間によって意図的に作り出されたもの。
 
おそらくは、部活内の全ての人間がそれに賛同しているわけではなく、その“首謀者”が恐くて「ムリヤリ従わされている」人間もいるはず――そう考えたのです。
 
なので自分は学校の帰り道で“仲の良い友達”と思っていた相手を待ち伏せし、“ハブられる前と全く変わらない態度”で話しかけました。
 
部活中に無視されたことを責めるでもなく、むしろそのことは一切持ち出さず、以前と同じように好きなマンガの話をしたり、日常の中の他愛もない面白話をして、明るく笑い合いながら一緒に帰りました。
 
部活中には“天敵”が恐くて話しかけてくれない相手も、その天敵の目の届かない場所で二人きりになれたなら、今まで通り、普通に話してくれるはず……自分はそう推察し、そしてその考えは当たっていたのです。
 
相手がハブりに加担したことを何も思わないわけではありませんでしたが、それを責めたり怒ったりして関係が壊れてしまうことの方を、自分は恐れました。
 
そもそも「力の強い人間に逆らえず、友達さえ裏切ってしまう」という人間の弱さを、自分は当時から既にうっすら理解していたので、他の人間ほどにはソレに怒りを覚えなかった、というのもあります。
 
こうして自分は、部活の中ではハブられているものの、帰り道では友達と一緒という“完全には孤立していない”状態をキープできたのです。
 
同じようにして一人ずつ、天敵の目の届かないところで“攻略”していった結果、二学期に入るといつの間にか、孤立状態解消していました。
 
(攻略の際は1対1というのも結構ポイントなのかな、と思います。ハブりに加担していることに“罪悪感”を持っている相手なら、他の人間の目が無い1対1状態に持ち込めば、わりとしゃべってくれるようになります。…ハブり首謀者の力があまりに強くて“呪縛”が強いと、ちょっと難しいかも分かりませんが。)
 
むしろ、気づけば逆に、こちらを窮地に陥れたその天敵の方が、周りから孤立しているという状態になっていました。
 
(これは意図的にやったことではないので、どうしてそうなったのかビミョウによく分かっていないのですが…。)
 
ハブりというものにもいろいろあり、それぞれ微妙に条件が違っているでしょうから、全てにこの解決法が効くかどうかは分かりません。
 
ただ、ハブりに加担している人間の中にも、簡単に(?)心を覆せる人がいるのだということを、覚えておくと便利かも知れません。
 
虐めに加担する人間の誰もが、本気で心の底からこちらを憎いと思って攻撃あるいは無視してくるわけではありません。
 
力の強い人間に巻き込まれただけだったり、周りから流されただけだったり、(おそらくは)相手をいたぶることで得られる一時の快感や優越感に溺れて正常な判断や思考ができなくなってしまっているだけだったり…
 
(まぁ、虐めを受ける側からしたら、どんな理由にせよ「ヒドい」ことに変わりはないのですが。)
 
そんな虐めを受けた時に、きっと一番マズいのは、「悪いのは自分だ」「自分はこんな酷い扱いを受けるほどに価値の無い人間なんだ」と思ってしまうことです。
 
大した理由も憎しみさえもなく、軽い気持ちでこちらを虐めてくる人間だっているのに、そんなことで死にたい気持ちになるなんて、そんなの自分自身が可哀想過ぎると思いませんか。
 
世の中には「虐められる側にも問題がある」なんて考えを持つ人間も、まだそれなりにいるのかも分かりませんが、人間が他人に対して抱く感情や評価など、そもそも個人的で相対的なもので、絶対的な評価などではありえません。
 
「あいつは虐められても仕方のない人間だ」と思う、その根拠自体、一部の人間の自分勝手な好き嫌いによるものかも知れないのに、そんな風に安易に“虐めを正当化”してしまうのは、自分で自分の未来を「生きづらく」しているようなものだと思います。
 
(そんなセリフを吐いた本人含め“誰だって”虐めの被害者になり得るのがこの世界の現実ですし、子どもの世界のみならず、大人の世界にだってパワハラや〇〇ハラなる「虐め」が横行しているわけですし…。)
 
そもそも、もし本当に相手に問題があったとしても、その“問題”に虐めで対処しようというのは、やはり問題があり過ぎる気がするのですが…。
 


関連記事>虐め(いじめ)対処の実例~小学生の時

小学時代に虐め(いじめ)に遭っても、中学時代に虐め紛いの酷い人間トラブルに巻き込まれても、自分は自殺を考えたことは一度もありませんでした。
 
それは「死を考えるほどの辛さではなかった」わけではなく、「そもそも初めから自分の中に自殺という選択肢が無かった」からです。
 
自分がソレを選択肢から外したのは、確か小学校3年か4年の頃のことでした。
 
虐めだとか人生だとか難しいことをボンヤリ考えていた時にふと「この先、何があっても、自殺という道だけは選ばないでおこう。取り返しがつかないから」と思ったのです。
 
そもそも自分は「死」への恐怖より先に「永遠」に対する恐怖を覚え、「いつか来る死を否定しない代わり、一日、一秒でも長く、精一杯生きよう」と物心ついた時から思っていたような人間だったので、そんな精神性も影響していたと思います。
 
小学校3~4年当時の自分は、幼くても、自分のこれからの人生に、幸せなだけではないアレコレが襲ってくるであろうことを予測していたのだと思います。
 
そしてその上で先回りして「そうなった時に最悪の道を選ばないように」自分で自分に約束事を作っておいたのです。
 
思えば、他の誰かから押しつけられた決めごとではなく、倫理的理由でも宗教的理由でもなく、自分の内から自然と生まれた“ルール”だったからこそ、自分はソレを素直に受け入れられたのだと思います。
 
そしてこの「自分ルール」は、その後、何度も自分の人生を救ってくれました。
 
たぶん、選択肢の中に自殺という「人生そのものからリタイアする」道が存在してしまうと、今自分がいる状況に耐えられなくなった時、「この辛い人生をこれ以上続けたくない」「とにかく逃げたい」とそのことにばかり頭を囚われてそれ以上頭が動かなくなってしまうのではないかと思うのです。
 
けれど、その選択肢が初めから存在しないとなると「逃げられないその人生の中で、今の自分の状況を少しでも良くする方法を探すしかない」ことになります。
 
自分がかつて(完璧な方法とは言えないまでも)どうにか自分で虐めを解決する方法を見つけてこられたのは、そうやって必死に頭を働かせ、自分で問題解決手段を考えてきたおかげだと思っています。
 
きっと、もしその方法を自分で見つけられなかったとしても、誰か別の人間が提示してくれている虐め解決法の情報を探し回るなり、死以外の方法で上手く現在置かれた状況から“逃げる”手段を探すなりしたと思います。
 
また、死という選択肢をなくしておいたおかげで、普段ならあまり気が進まない、実行するのに勇気を要するような手段も「他に選択肢が無いんだから仕方ない」と、しぶしぶながら実行することができました。
 
そうやって、苦しみ、悩み、嫌なことを乗り越えながら“死以外の選択”を続けてきた結果、今では「死に逃げなくても、人生、案外いろいろ逃げ道がある・自分を救う道がある」と思えるようになりました。
 
きっと、人生で辛い目に遭った時にマズいのは、「それを解決する方法を考えられない」「考えたくない」「死に逃げることしか考えられない」状況に陥ってしまうことなのではないかと思います。
 
自殺という選択肢を予め自分の中から奪っておくことは、乱暴かも知れませんが、死へと向かいがちな目を逸らし、別の方向へ向けるという意味で、有効なのかも知れません。
 
ただ、そうして必死に解決策を考えたところで、それを思いつけないこともあるでしょう。
 
だから、できることなら、なるべく多くの“人生を救う智慧”を集めた“何か”が、未成年の子どもでも、お金が無くても見られるような“場”に、在ればいいのにな、と常日頃ぼんやり思ったりします。
 
実際に虐めに遭ってきた人の経験談(特に、どうやって虐めから解放されたのかの具体例)、傷ついた心を救ってくれる言葉、過去の偉人の名言や、現代の成功者が人生を切り拓いてきたメソッド……精神論から具体例まで、悩んでいる人間が「自分が今心から欲している何か」を、ピンポイントに検索して見つけられるシステムが、今のこの世の中に欲しいなぁ、なんて思うのです。
 
(現代の技術をもってしても難しいとは思いますが…。特に検索の面において。)
 
“図書館”とかは、ある意味既にソレなのですが、逆に本があり過ぎて、自分が必要な情報をピンポイントに探すのは、案外難しかったりするので…。
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小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
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ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
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