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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
ネット通販で注文していない商品が入っていただとか、シリーズもののDVDの“3巻目”を買おうとレジに空箱を持っていったのに、家に帰って袋を開けてみたら発売されたばかりの“5巻目”が入っていただとか…
 
人間生きていれば、時にはそんなトラブルに見舞われ、クレームをつけなければいけない事態になったりするものです。
 
そんな時、自分がまず感じるのは「嫌だなぁ」です。
 
もちろん「面倒くさい」という意味での「嫌だなぁ」もあります。
 
でも、それよりも精神的に嫌だと感じるのは「このクレームを受けた人は嫌な思いをするんだろうなぁ。嫌なクレーマーだと思われたら嫌だなぁ」です。
 
元々自分には、相手の気持ちを想像してしまうクセがあります。
 
そのクセにより、自分のクレームを受ける担当者の気持ちを想像して、クレームをつける自分の存在を「なんとなく嫌なもの」だと感じてしまうのです。
 
「このクレームを受ける相手が、このクレームにつながった“問題”を起こした当人でもないのに、謝らなきゃいけないなんて理不尽で不憫だよなぁ」「傷つけるような言い方はしたくないけど、でも問題はしっかり解決してもらわなきゃいけないしなぁ」などということを、実際にクレームをつける前にぐるぐる考えたりするのです。
 
結果、実際にクレームをつける時、だいたい最初は穏やかな言い方で始めます。
 
(メールなどでクレームをつける場合には、大概、いつも利用させてもらっている感謝の言葉を一言添えて始めます。)
 
そして、ほとんど感情は交えずに事実だけを簡潔に伝え、問題を解決してくれるように依頼します。
 
(最後に少しだけ「残念に感じた」こと、「次はこんなことを起こさないで欲しい」という一言を添える場合はあります。それと、悲しいことに、相手によっては、こちらの出方が丁寧でおとなしいと(下手に出ていると思われるのか)、こちら側に不利な条件を押しつけられそうになることもあるので(完全に相手方のミスであるにも関わらず、交換のために送り返す商品の送料をこちら持ちにさせられそうになったり…)そういう道理に合わないことは、きっぱりと断るようにしていますが…。)
 
モラルがどうの、倫理観がどうのということではなく、きっと自分はただ単に「他人に嫌われたくない」あるいは「嫌な人間になりたくない」だけなのだと思います。
 
自分が嫌な目に遭ったからと言って、それが誰かを攻撃して良いことの理由にはなりません。
 
ましてクレームをつける相手は、その嫌なトラブルを起こした“当人”ではないかも知れないのに…
 
嫌な目に遭ったイライラを、ちょうど良いからと言ってクレーム担当者にぶつけるのは、八つ当たりにも似た行為だと思うのです。
 
…ただ、自分がそう思うのは、自分が求めているものが単に「トラブルの解決」であって、「そのトラブルによって受けた心のダメージの回復」ではないから、というのもあるかも知れません。
 
(自分の場合、そもそも「めんどくさい」と思うだけで、ダメージというほどの傷やストレスを負わないことがほとんどですので…。)
 
クレーム担当者に怒鳴りつけたりする人間が「どうして」怒鳴りつけるのかと言うと、おそらく「そのトラブルによって傷つけられた気持ちをどうにかして欲しいから」なのだと思います。
 
「どうにかして欲しい」けど「自分ではどうにもできない」し「どうにかする方法も分からない」から、分かりやすい相談窓口であるところのクレーム担当に、その気持ちをぶつけるのではないかと思われます。
 
(とは言えトラブルの内容もクレームの内容も十人十色でしょうから、必ずしもそればかりとは限りませんが。)
 
ただ…昨今の世の中を見ていると、どうにもその「気持ちのぶつけ方」が“過剰”になってきている気がして心配なのですが…。
 
長時間怒鳴り続けたり、業務を妨害したり、土下座を強要したり…
 
そこまでしても気が済まないというのなら、もはや問題はクレームの元となったトラブルではなく、感情のコントロールの方にあるのではないでしょうか。
 
怒りや苛立ちに心が支配され、「自分のやっていることが度を越していないか」「他人から見て今、自分がどう見えるか」を考える精神的余裕もなくなってしまっている…
 
今目の前にある「ストレスの発散」ばかりに心が向いて、その行為が後にどんな事態を呼ぶのか、自分が社会からどう評価されるのかに目が行かなくなってしまっている…
 
それは結果的に、クレーマーさん本人を社会から孤立させ、生きづらくしていってしまうのではないかと思えてならないのです。
 
人間、誰にでも失敗はあります。
 
そんな誰かの失敗が、たまたま自分にトラブルとなってふりかかることはあります。
 
それに怒りを爆発させ、一切の許容ができないと言うなら、きっと、いつかの未来に自分が犯すであろう失敗も、世の中から受け入れられなくなっていくことでしょう。
 
他人の失敗と自分の失敗は別物――そんな幻想は、社会の在り方が歪んでいたり、よほどの権力を持っていたりでもしない限り、成立し得ないことなのですから。
 
怒りに駆られてクレームしそうになった時には、一旦立ち止まって、自分が過去に犯した失敗や他人にかけた迷惑を思い出したり、「もし自分がトラブルを起こした側の立場だったら」を考えてみると良いかも知れません。
 
“感情”ではなく、あくまで“理性”的にトラブルの解決を図ることは、ただ怒りのままにクレームをつけるより、よほど器が大きくてカッコイイ人間の姿だと、個人的には思っていますので。

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子どもの頃、ひどく「生きづらい」と感じていた時期があります。
 
思い返してみればその頃、自分は、世界を見るのも他人を見るのも、何でも“自分”をモノサシにしていました。
 
人間の物の考え方など十人十色で一人一人違って当たり前なのに、あの頃は無意識のうちに、他人も自分と“同じ”ように物を考え行動すると思い込んで、その予想から外れた言動をされると、ひどく動揺していました。
 
たとえば、自分はいわゆる“繊細”なタイプで、ささいな言葉ひとつに傷つく性格だったので、「これを言ったら相手を傷つけてしまうかな」「これをしたら嫌われるかな」と言動の一つ一つに気を遣ってきました。
 
けれど、世の中そういうタイプの人間ばかりではないので、こちらが傷つくようなデリカシーの無い言葉を平気で使って来る人はたくさんいます。
 
そんな時、「自分は嫌われているんだろうか」「自分が何か悪いことをしたんだろうか」と凹んでいたりしましたが…今にして思えば、おそらく“そういうこと”ではなかったのだと思います。
 
自分はたまたま「言葉が相手に与える影響」を気にし、考えたことをすぐには口にせず一度頭の中で反芻してから話すタイプの子どもでしたが、そういうものを全く気にせず、言いたいことを即座にポンポン口にする人間はたくさんいます。
 
それはべつに悪意や悪気があるわけではなく「それにより相手が傷つくかも知れない」という可能性をあまり考えたことがない人間だから、なのだと思います。
 
(中には自分を優位に立たせたいがために、わざと相手を屈辱的な言葉で貶めたがるタイプの人間もいますが…。)
 
“他人”という生き物は、“自分”とは性格思考のタイプも全く違う生き物なのですから、「自分だったら、こういう時には、こういう行動をするのにな」という“予想”と全く違う“結果”が出て来るのは当たり前です。
 
そして、そんな予想外の言動を“自分の価値観”に当てはめて「なんでこの人はこんなことをするんだろう」と悩んでみたところで“正解”など分からないのです。
 
だから、すぐに「自分だったら、こんな言葉は嫌いな相手にしか使わないだから、相手は自分のことが嫌いなんだ」と思い込んでしまうのは危険です。
 
相手は本当に悪気無く、ただただ軽い気持ちでその言葉を使っただけかも知れないのですから…。
 
本当に嫌われたわけでもないのに「嫌われた」と思い込んで傷つくのも、攻撃の意思のない言葉に勝手に攻撃性を読み取って反撃しようとするのも、無駄に人生を生きづらくする“もったいない”行為です。
 
中には「そもそも、そんな風に相手の気持ちを考えずに言葉を使ったり行動したりする相手の方が悪い」と思う人もいるかも知れません。
 
ですが、人間の性格というものは育ってきた環境によっても左右されるものです。
 
もしもそれまでその人の周りにいたのが「ちょっとした悪口くらいなら軽口で返してくるようなノリの人間ばかりだった」のだとしたら、「それによって傷つく人間もいる」のだということを知らないまま、気づかないまま育ってしまったとしても仕方のないことなのかも知れません。
 
(そして、その後もそんなノリの人間ばかり周りにいるなら、そういう性格のままだったとしても特に問題が無いのかも知れません。)
 
以前の記事にも書きましたが、人が相手の性格を好ましく思うか嫌いだと思うかは“相性”の問題であって、そこに絶対的な評価や価値観など存在しません。
 
どうしても“合わない”性格の人間もいると思います。
 
そういう時は、「何でこの人はこんな言動をとるんだ。自分なら絶対しないのに」とイライラしながらつき合い続けるより、そっと離れていくか、「この人はこういう人なんだから仕方ない」と受け流すのが、精神衛生のためには良いと思うのです。
 
ある程度の年齢まで育ってしまった人間の性格や思考回路を変えていくのは容易なことではありません。
 
ですので、そのエネルギーを消費するのに値しない相手なら、わざわざそんな苦労をする必要も理由も無いと思うのです。
 
今の世の中、他人の言動を無理矢理“自分の”モノサシで測ろうとして、その挙句に誤解して、する必要のない争いやトラブルを起こしている例が多い気がしてなりません。
 
“自分”と“他人”は物の考え方が違う――そのことさえ、きっちり押さえていたなら、そんな“ムダな”争いやトラブルも減り、社会に満ちたストレスも少しは減らせる気がするのですが…。

自分が今までの人生を通して学んだことの一つに「能力の無い相手にその能力を求めても意味がない」ということがあります。
 
英語の成績が最悪だった人間に「通訳をやれ」と言っても無理なように、あるいはピアノを習ったことのない人間に「伴奏をやれ」と言っても無理なように、当たり前の話ですが“スキルが無ければできないものできない”のです。
 
そしてそれは単純に技能の話だけでなく、思考の分野にしても同じことだと思うのです。
 
たとえば…残念ながら、“思いやり”や“気遣い”というものにも程度の差があり、一人一人、そのレベルは違います
 
こちらが何も言わなくても、ひとりでに察して配慮してくれる人間もいれば、こちらから求めても根本的なところを理解してくれず、かゆい所に手が届かないような対応をしてくる人間もいます。
 
それはその人のそれまで育ってきた環境や、本人の努力・習慣によって「思いやり・気遣い」の習熟度に差ができているということで、一朝一夕でどうにかなるものではないと思うのです。
 
だから――たとえ親や家族であっても「こういう時にこうして欲しいのに」という願いが叶わないというのは、ある種「当たり前」のことで、諦めざるを得ないものなのかも知れない、と……
 
個人的経験から思うのですが、子というものは無意識のうちに、親に「理想の母親像」や「理想の父親像」を求めがちな生き物なのかも知れません。
 
たとえばドラマやマンガのように「親子なんだから、何も言わなくても“分かってる”」という関係を夢見たり…
 
子が辛い目に遭っていれば、全力で解決に動いてくれる“スーパーマンのような親”を夢見たり…といった風に。
 
だけど現実には、ある程度態度に出してシグナルを送っても心の悲鳴に気づいてもらえなかったり、口に出して助けを求めた結果、逆に事態が“こちらが全く望んでいなかった方向”に動いてしまったりもします(経験談です)
 
それは親が子を愛していないからだとか、愛情が足りないからだとかいうことではなく…きっと、ただ単純に「能力が足りていない」だけなのです。
 
たとえ血の繋がった親子だとしても“自分ならぬ他人”の心を知るためには、それ相応の“感受性”が必要です。
 
そして、子が巻き込まれたトラブルを解決するためには、やはり親にそれ相応の“問題解決能力”が必要なのです。
 
どれだけ“理想”を夢見たところで、現実問題、自分の親に“それ”が備わっているとは限りません。
 
理想と現実のギャップに打ちひしがれて「どうしてウチの親は何も分かってくれないんだ」「ウチの親はなんでこんななんだ」と嘆いたところで、親のスキルが急激にアップするなんてことはありませんし、自分の生まれを変えることもできません
 
…ただ、個人の経験として「そういうモノだと諦めてしまえば、ある程度ラクになれる」ということはあります。
 
叶えられない「無いものねだり」を続けるのは、精神が疲弊するばかりで、良いことはありません。
 
それは極論を言えば「どうしてウチの親は王様じゃないんだ。何不自由ない暮らしがしたかったのに」と嘆き続けるようなものです。
 
覆せない過去や自分の生まれた運命を、どんなに嘆いたところで、今、自分が置かれた状況は変わりません
 
だから、“理想的な親や家庭”など、“得られなかったモノ”を数えて嘆くより「この自分に生まれたから得られたもの」を探して愛しむ方が、よほど人生を有意義に生きられると思うのです。
 
たとえば自分の場合、放任主義な親の元、学校でどれだけ良い成績を取ろうが興味を持たれず(逆に、成績が悪くなれば、さすがにいろいろ言われたりしましたが…)、高校時代は学校生活や進路に関する大事な話さえ、ほとんどしなかったように記憶しています。
 
(親の関心が長男の方にばかり集中していたのも、自分が放任されていた理由のひとつかと思います。)
 
ですが自分は「逆に自由にできていいや」と、「親に関心を持たれていない」「進路に興味を持たれていない」のをいいことに「自分の好きなことしかやらない」高校時代を過ごしていました。
 
具体的には「勉強は必要最低限しかしない」「高校で友達を作らない(←高校時代の自分は中学時代の人間トラブルを原因とした“人間不信こじらせ期”のピークで、新規に友人を作る気ゼロでした。その代わり、中学時代の友人とばかりつるんでいたりしました。)」「好きな本ばかり読んで過ごす」といった感じでしたが…
 
(ちなみに高校はかなりの進学校で、周り中、休み時間もひとりで参考書を読んでいるような生徒ばかりでしたので、特に親しい友人を作らなくても何とかなっていたのです。)
 
今になって振り返れば、自分でも自分が心配になるレベルの高校時代を過ごしていましたが、親たちはそんな状況を知りもせずにいたので、特に心配されることも口出しされることもありませんでした。
 
(「勉強はしなかった」ものの「成績だけは、一応それほどヒドくない結果を残していた」というのも、口出しされなかった理由のひとつではあると思いますが…。勉強は宿題と英語の予習(←授業で当てられるかも知れないので)と毎日ある小テストの対策くらいしかしませんでしたが、その分、趣味で読んでいた本から知識と国語力は得ていましたので…。)
 
結果として、この高校時代だけで相当な“国語力”を積み上げることができ(←数値的なものはブログ右サイドの自己紹介備考参照)、それは後々、様々な場面で人生の役に立っています。
 
(単に文章作成に役立つというだけでなく、“読解力”は取扱説明書や専門書・解説書を読み込むのにも役立ちますので、独学で何かを習得するのにも役立ちます。実際、初めて制作したホームページがあんなことになっているのも、この能力が相当影響していると思います。)
 
要は、自分に与えられた環境に腐らずに、そこから少しでもポジティブな要素を拾い上げ「いいとこ取り」をして人生を有利に進めて行けば良い、ということなのだと思います。
 
人間万事塞翁が馬」「禍福はあざなえる縄のごとし」という言葉があるように「良いこと」と「悪いこと」は表裏一体であり、一見マイナスしかないように見える人生にも、探してみれば何らかのプラスはあると思うのです。
 
…まぁ、その「プラスを探す」ということ自体、「思考の柔軟さ」や「ポジティブ・シンキング」といったスキルやコツが必要なことかも知れませんので、そうそう簡単には行かないのかも分かりませんが…。


小学時代に虐め(いじめ)に遭っても、中学時代に虐め紛いの酷い人間トラブルに巻き込まれても、自分は自殺を考えたことは一度もありませんでした。
 
それは「死を考えるほどの辛さではなかった」わけではなく、「そもそも初めから自分の中に自殺という選択肢が無かった」からです。
 
自分がソレを選択肢から外したのは、確か小学校3年か4年の頃のことでした。
 
虐めだとか人生だとか難しいことをボンヤリ考えていた時にふと「この先、何があっても、自殺という道だけは選ばないでおこう。取り返しがつかないから」と思ったのです。
 
そもそも自分は「死」への恐怖より先に「永遠」に対する恐怖を覚え、「いつか来る死を否定しない代わり、一日、一秒でも長く、精一杯生きよう」と物心ついた時から思っていたような人間だったので、そんな精神性も影響していたと思います。
 
小学校3~4年当時の自分は、幼くても、自分のこれからの人生に、幸せなだけではないアレコレが襲ってくるであろうことを予測していたのだと思います。
 
そしてその上で先回りして「そうなった時に最悪の道を選ばないように」自分で自分に約束事を作っておいたのです。
 
思えば、他の誰かから押しつけられた決めごとではなく、倫理的理由でも宗教的理由でもなく、自分の内から自然と生まれた“ルール”だったからこそ、自分はソレを素直に受け入れられたのだと思います。
 
そしてこの「自分ルール」は、その後、何度も自分の人生を救ってくれました。
 
たぶん、選択肢の中に自殺という「人生そのものからリタイアする」道が存在してしまうと、今自分がいる状況に耐えられなくなった時、「この辛い人生をこれ以上続けたくない」「とにかく逃げたい」とそのことにばかり頭を囚われてそれ以上頭が動かなくなってしまうのではないかと思うのです。
 
けれど、その選択肢が初めから存在しないとなると「逃げられないその人生の中で、今の自分の状況を少しでも良くする方法を探すしかない」ことになります。
 
自分がかつて(完璧な方法とは言えないまでも)どうにか自分で虐めを解決する方法を見つけてこられたのは、そうやって必死に頭を働かせ、自分で問題解決手段を考えてきたおかげだと思っています。
 
きっと、もしその方法を自分で見つけられなかったとしても、誰か別の人間が提示してくれている虐め解決法の情報を探し回るなり、死以外の方法で上手く現在置かれた状況から“逃げる”手段を探すなりしたと思います。
 
また、死という選択肢をなくしておいたおかげで、普段ならあまり気が進まない、実行するのに勇気を要するような手段も「他に選択肢が無いんだから仕方ない」と、しぶしぶながら実行することができました。
 
そうやって、苦しみ、悩み、嫌なことを乗り越えながら“死以外の選択”を続けてきた結果、今では「死に逃げなくても、人生、案外いろいろ逃げ道がある・自分を救う道がある」と思えるようになりました。
 
きっと、人生で辛い目に遭った時にマズいのは、「それを解決する方法を考えられない」「考えたくない」「死に逃げることしか考えられない」状況に陥ってしまうことなのではないかと思います。
 
自殺という選択肢を予め自分の中から奪っておくことは、乱暴かも知れませんが、死へと向かいがちな目を逸らし、別の方向へ向けるという意味で、有効なのかも知れません。
 
ただ、そうして必死に解決策を考えたところで、それを思いつけないこともあるでしょう。
 
だから、できることなら、なるべく多くの“人生を救う智慧”を集めた“何か”が、未成年の子どもでも、お金が無くても見られるような“場”に、在ればいいのにな、と常日頃ぼんやり思ったりします。
 
実際に虐めに遭ってきた人の経験談(特に、どうやって虐めから解放されたのかの具体例)、傷ついた心を救ってくれる言葉、過去の偉人の名言や、現代の成功者が人生を切り拓いてきたメソッド……精神論から具体例まで、悩んでいる人間が「自分が今心から欲している何か」を、ピンポイントに検索して見つけられるシステムが、今のこの世の中に欲しいなぁ、なんて思うのです。
 
(現代の技術をもってしても難しいとは思いますが…。特に検索の面において。)
 
“図書館”とかは、ある意味既にソレなのですが、逆に本があり過ぎて、自分が必要な情報をピンポイントに探すのは、案外難しかったりするので…。

自分は子どもの頃から「他の人は何とも思わない、ごく普通の景色」に「見惚れる」ことが多くあります。
 
むしろ、ガイドブックに紹介されているような「美景」「絶景」には感動して写真を撮りまくったりするのに、日常の中に潜んだ「ふとした美しさ」には無頓着な人たちを、不思議に思ったりもしてきました。
 
窓辺に舞う塵だって光に当たれば七色に輝いて見えますし、毎日の通学・通勤風景の中にだって、季節によって移り変わる“その時だけの美しい景色”が混ざっていたりします。
 
「珍しくもない、ありふれたもの」だからと言って、「それを綺麗だと思ってはいけない」という法など無いはずですし、美しいものをたくさん見つけられれば、それと同じ数だけ、心が幸せを感じます。
 
だから、普段から“自分を取り囲む世界”に目を向け、1つでも多くの綺麗な景色・面白い景色を見つけようと、心の感度を鋭くしているのです。
 
そうして物心ついた頃からずっと「身の回りの綺麗な景色」を探し続けてきた結果、時々「自分はもしかして、他人より幸福な人生を送ってきたのではないか」と思うことがあります。
 
人生の軌跡を振り返れば、あと数歩で死んでいたようなことも何回かあれば(←過去の記事をご参照ください)、小学生の時にはいじめに遭ったりもしていたわけですが(←同じく、過去の記事をご参照ください)、過去を振り返ると、頭の中には、“それでも美しかった世界の記憶”が残されているのです。
 
通学路の川が、雨の日には、水面にレースのように繊細な波紋をいくつも描いて美しかったこと。
 
黄色い傘に当たる雨の音が「ぱりぱり」と心地よくて好きだったこと。
 
それらが、ただ単に景色や音の情報だけでなく、その時の「綺麗」「好き」という気持ちと一緒に記憶されているのです。
 
それは思い出すたびに、その時の「綺麗」や「好き」の気持ちを蘇らせて、心をほんのり幸せにしてくれます。
 
幸福は心の持ち方次第」ということはよく言われていますが、その「心の持ち方」の具体的な方法の1つが、この「日常の中にたくさんの“綺麗”や“好き”を見つけること」なのではないかと思います。
 
世の中、嫌なことはたくさんありますし、気分が沈むこともよくあります。
 
でも、毎日の何気ない暮らしの中に、ちょこちょこ“綺麗なもの”“好きなもの”を発見し、それを見ている時・感じている時くらいは、その嫌なことを忘れて、心をほっこりさせていったら良いのではないかと思います。
 
そうして毎日毎日、少しずつでも“綺麗なもの”“好きなもの”の記憶を増やしていけば、それはきっと、自分の心の財産になる気がするのです。
 
ふと人生に疲れて過去を振り返った時、嫌なものの記憶しか無いより、そこに綺麗なものや好きなものの記憶がたくさん混じっていてくれた方が、きっと幸せの可能性は高くなります。
 
それに、そうやって脳にせっせと貯め込んだ“好き”の記憶は、お金などの目に見える財産(電子マネーは目に見えないですけど、ここでは置いておきます。)と違って、他人に奪われることはないのです。
 
何のために生きているのか分からない」という言葉も、ちょくちょく世間で耳にしますが、自分はよく「この景色を見るためだけに生きているのだとしても、いいかなー」などと思ったりします。
 
今、目に映る空が綺麗だから。今、ここにいる猫が可愛いから。今、食べているゴハンがおいしいから。
そんなささやかな好きや幸せを日々感じるために生きている――それだけでもいいじゃないか、大層な“生きる意義”なんて見つからなくてもべつにいいんじゃないか…
 
そんな風にフワッと生きているからこそ、自分はきっと、他の人なら死ぬほど悩むような目に遭っても、それほど悩むことなく済んでいるのではないかと思うのです。
  


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社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
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小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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