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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
以前から語っている通り、自分はaiboやロボホンのようなAI搭載ロボットには大いに興味がありますし、「人間にはできないこと」や「ヒューマンエラー防止」のためにAIを活用することには賛成なのですが…
 
世の中を見ていると、一部のAIの使い方に「ん?」と思ってしまうことがあります。
 
特に疑問に思うのが「趣味」や「生きがい」分野でのAI利用なのですが…
 
…「人間」が楽しむべきことを「AI」にやらせるのって、趣味や生きがいとして本末転倒にもほどがありませんか…?
 
例えるなら「趣味のための道具は用意したけど、後は全部AIにやらせて、自分は傍で見ているだけ」みたいな状態ですけど…
 
それ、本当に「趣味」や「生きがい」として成立しているんでしょうか??
 
「趣味」というものは100%全部が「楽しい作業」だけで構成されているわけではありません。
 
中には面倒な作業や、地道で飽きてしまいそうな作業、しんどい作業や行き詰まってしまう作業もあるでしょう。
 
ですが、それも全部ひっくるめて「自分の手」でやるからこそ、終わった時に「達成感」を味わえるのではないでしょうか?
 
蕎麦屋やコンビニ、スーパーでさえ安価で美味しい蕎麦が簡単に手に入る現代で、それでも蕎麦の「手打ち」に挑みたがる人間が多いのは、そこに「自分の手で作るからこその価値」があるからなのではないでしょうか?
 
あるいは、便利で快適に過ごせる街中を離れ、わざわざ不便な山でキャンプする人が多いのは、そこに「(衣)食住を自分たちの手で組み立てることの価値」があるからなのではないでしょうか?
 
あるいは、完成したところで自己満足以外の何の意味もない数百・数千ピースのパズルを延々と組み立てる人がいるのは、そこに「地道で気の遠くなる作業の果てにしか味わえない何か」があるからなのではないでしょうか?
 
「便利であること」と「幸せであること」はイコールではない、と言います。
 
それは「便利であるはずの現代」で、心の病に苦しむ人や自殺する人がこれほどまでに多いという事実を見れば、明らかなのではないでしょうか?
 
人間は「便利だー!便利だー!」で、すぐ機械やAIに頼りがちですが…
 
便利さと引き換えに、本来なら味わえていたはずの「人間として大切な何か」「人生にとって必要な何か」を棄ててしまってはいませんか?
 
自分は創作を趣味とする人間なので、多少は分かるのですが…
 
とことん困難にぶち当たっても、その壁を「自分の」知恵や工夫で突破できた時の快感は、承認欲求など軽く超えます。
 
(なので自分は、他者の評価をあまり気にしないのかも知れません。)
 
嘘偽り無く「自分の力で」困難を乗り越えたことを、自分自身がその目で見て知っているので、自己肯定感にも繋がります。
 
おそらく「借りものの力で」乗り越えられたとしても、あれほどの喜びは感じられないことでしょう。
 
自分でも予想だにしなかった成果を「自分自身の力で」生み出せた時、人は「自分にはまだこんな可能性があったんだ」「自分もまだまだ棄てたものじゃない」と本気で実感できるのです。
 
子どもの頃「それまでできなかったこと」が1つできるようになるたびに、嬉しくありませんでしたか?
 
ひらがなの「あ」が書けるようになった…逆上がりができるようになった…
 
(「あ」って、ひらがなの一番最初の文字のくせに、いきなり難易度が高過ぎやしませんでしたか?)
 
大人からすれば「そんなことか」と思うようなことでも…自分が一歩一歩「進化」しているように感じられて、わくわくしませんでしたか?
 
人間は本来「できなかったことができるようになる」だけでも喜びを感じられる生き物なのです。
 
「他人に認められないと意味がない」「結果が出ないと意味がない」「できてもこんなレベルじゃ意味がない」と変に理由をつけて、その喜びを自分で「無きもの」にしてしまう人も多いですが…
 
「趣味」や「生きがい」って、本来「そういうもの」なのではないでしょうか?
 
不出来でも、他者に称賛されるクオリティーでなかったとしても、自分のささやかな成長を見出して、自分で自分を褒めてあげられる
 
そのために「自分の力」で何かを為すのが「趣味」「生きがい」なのではないでしょうか?
 
AIに委ねてしまったなら、たとえどんなに素晴らしいクオリティーのものが出来上がったとしても、そこには「自分の力」も「自分の成長」も存在しません。
 
そもそも、そこに「自分の」意思や努力や工夫が存在しないなら、それは「趣味」でも「生きがい」でもなく、単なる「確認作業」で「流れ作業」にしかならないのです。
 
おそらく、今「趣味」や「創作」の分野でAIを利用している人々は、そういった趣味本来の「喜び」を未だ知らない人たちなのではないでしょうか?
 
「達成感」や「喜び」に至る「前の段階」で放り出して、諦めてしまった人…
 
あるいは始める前から「自分の可能性」を諦めてしまっている人…
 
あるいは「AIにやらせるなんてもったいない」と思えるほど打ち込めるものに出逢えていない人、それを探すのを諦めてしまっている人…
 
そういう「趣味をやることの本当の意義や意味」を見出せていない人々だからこそ、「自力」ではなく「他力」の自動生成でも満足できてしまえるのではないでしょうか?
 
昨今、ネットの世界では「自力」で趣味・創作を楽しむ人々と「生成AI」の生成物を“自慢”したがる人々との間での「対立」が散見されます。
 
どうにも生成AI利用者は「自力で趣味を楽しむ人々から反発される理由」が理解できていないようで「生成AI作品だと分かる前は褒めてもらえていたのに、分かってからは何も言われなくなった」という嘆きの声さえ見られるのですが…
 
それって「それはそうなるだろう」という案件なんですよね…。
 
「自力」で趣味を楽しむ人々の前に「他力」の作品を持っていって“自慢”するなんて…
 
例えるなら、「定年したから手打ち蕎麦始めたぞ」と報告してきた人に「こんなに美味くて安く買える良い既製品がありますよ」などと言って機械製麺のパッケージ商品を持って行くくらい「無粋」なことなんですよね…。
 
あるいは、林間学校の野外調理で一生懸命カレーを作った子どもたちに「こっちの方が断然美味いだろ」とレトルトカレーを出してくるくらい「空気が読めない」行為なんですよね…。
 
さらに生成AIの場合、生成物の学習背景に「自力で作品を生み出してきた先達たちの努力や苦悩の結晶」があるため、余計にクリエイターからの心証が悪いというのもあります。
 
生成AI作品を披露したいなら、せめて発表すべき場(※)は「趣味」「創作」のコミュニティではなく、ITやテクノロジー方面のコミュニティであるべきなのですが…その辺りの「棲み分け」や「人間の心の機微」が分かっていない方も多いのでしょうね…。
 
※そもそも「著作権的にどうなのか」まだ国内判例もできていない技術なので、コンプラを気にする自分は発表そのものに「慎重派」ですが(←著作権的に合法か違法かって、世論が決めることでも省庁が決めることでもなく、法を司る「裁判所」が決めることなんですよ…。で、まだ国内での「判断」はされていないという)。
 
(あるいは全てを分かっていて、他者の努力を卑下して嘲笑したいがために生成AI作品の“自慢”をしてくる人もいるのかも知れませんが…そもそも「他力」である以上「自」慢にはなっていないんですよね…。IT・テクノロジーのコミュニティならプロンプトの出来で褒めてくれる人もいるかも知れませんが、趣味・創作コミュニティでそれをされても「それで『君』は何が創れるの?」って話で、そもそも同じ土俵に上がってすらいないんですよね…。「趣味・創作コミュニティを生成AIで荒らしたい人」の言動の裏には「特技を持たないコンプレックスの裏返し」と「特技を持つ者への対抗心・復讐心」めいたものが透けて見えてしまっている気がして、そこが何とも物悲しい気分になるのですが…気のせいでしょうか?)
  
趣味に向き合う態度は人それぞれですし「そんなに壮大な達成感や多幸感なんて味わえなくても、ラクして暇つぶしができればいい」というのも、それはそれで1つの人生なのでしょう。
 
ただ…「もったいない」です。
 
趣味や創作に本気で打ち込んでいると、そこに「自分でも知らなかった自分の一面」を発見することがよくあります。
 
「自分にはこんなことができたんだ」「この歳からでも、こんなに成長できるんだ」と、自分の可能性に気づき、それが自信や自己肯定にも繋がっていくのです。
 
「自力」で何かに打ち込まず、「借りものの他力」だけで全てをこなしてしまう人は、きっと「自分が本当はどんな人間なのか」「どんな秘められた可能性があるのか」を知ることもなく、一生を終えてしまうのでしょう。
 
人間は、ただ食べていくためだけ、ただ金を稼ぐためだけに生きていけるほど単純な生き物ではありません。
 
人間が人間らしく生きていくためには「生きがい」だとか「やりがい」だとか「自己肯定感」だとか「自分探し」だとか「ささやかな幸せ」だとか、そういう「目に見えない何か」が必要なのです。
 
現代人はお金やフォロワー数などの「目に見える数字」ばかり追って、いつの間にかそういう「見えないけれど人生に必要なもの」を追うことを忘れてしまっているのではないでしょうか?
 
だから生きづらくなったり、心の病にかかる人が増えたりしているのではないでしょうか?
 
昭和レトロやアナログ回帰など、過去の時代の「人間味」を求める人が多いのも、そんな現代への反動なのではないでしょうか?
 
技術の進歩は確かに便利で素晴らしいことなのかも知れませんが…
 
それが「人間らしさ」や「人が人として生きること」を否定するものだとしたら、人類の幸福にとっては逆に「退化」なのではないでしょうか?
 
まして「AI作品を賛美して人間が作った作品をばかにする人」のように「人類の価値を人類自身が否定する」なんて、あまりにばかばかし過ぎやしませんか?
 
「他人」を嘲笑するつもりで、いつの間にか自分自身もひっくるめた「人類そのもの」を嘲笑している…
 
「他人の生きがい」を否定しているつもりで、自分自身もひっくるめた「人類そのものの生きがい」をも否定してしまっている…
 
そのことに気づかず、どんどん「自分の生きる世界」を自分自身の手で「生きづらく」してしまっている人が多い気がするのですが…
 
このまま「AIスゴイ!それに比べて人間のやることに価値なんて無い!」という風潮がどんどん加速してしまったら、今後普通に「生きる意味」を見失って鬱に陥る人が激増しませんか?
 
少なくとも自分は、そんなお先真っ暗な世界は真っ平御免です。
 
(うつ病増加→働けない人増加→税収減→社会サービス低下&さらなる増税で、普通に「いいこと無し」ですから…。)
 
なので、焼け石に水だとしても、何とか「人間が人間であることの価値」や「希望」を、細々とでも世に発信していけたらな…と思うのです。

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津籠睦月(つごもりむつき)
【職業】
社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
【趣味】
小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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