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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
人間には誰しも「他人から認められたい」「他人にスゴいと思われたい」という欲求が、多かれ少なかれ有るようです。
 
特に昨今のネット社会ではそれが顕著に出ているように思えますし、その他の場所でもちらほらと「承認欲求に苦しめられる」「他人に認めてもらえないと、生きている価値がないように思える」という話を聞くことがあります。
 
自分にも、そうやって「自分の存在意義を他人に求めていた」時代があったように思います。
 
しかし、今はあまり、そう思っていません。
 
そういう心境になったのには、おそらく幾つかの理由があるのですが…
 
まず1つは、大学に入り東京に出たことで「人間は他人のことなんて、あまり見ていない」という事実に気づかされたからです。
 
もちろん、親しい家族や友人なら、ある程度はこちらを“見て”くれていることでしょう。
 
(まぁ、どんなに“近い”間柄でも、見てくれない人は見てくれないものですが。)
 
しかし、人が“赤の他人”に対して向ける注意や関心は本当に低く気まぐれで、残酷なほどにシビアなものなのだと、自分は感じました。
 
自分がどれほど「認められたい」とアピールしたところで、他人はそれを、こちらが思うほど真剣に受け止めてはくれません。
 
他人が評価をつけるポイントは、だいたいの場合、品質の優劣でも重要性でも、そこに籠められた情熱の程度でもなく、ただ単純に「興味を惹かれたかどうか」「自分の好みかどうか」ということです。
 
認められたい本人からすれば、あまりに悲しい事実ですが、それもある種、仕方が無いことなのかも知れません。
 
現代社会には情報があまりにも溢れ過ぎていて、とても全ての情報を処理しきることはできず、自分にとって“大事でない情報”はスルーせざるを得ません。
 
たとえその情報が、ある人にとっては死ぬほど大事な「認められたいアピール」であったとしても、情報の受け手にとってはそんな背景事情はどうでも良い“他人事”でしょうし、そもそもそんな事情は“見えない”ものですから…。
 
そんな、他人に対して無関心な人間が多い現代社会で、こちらに目もくれずに通り過ぎていく人々に向かって、必死に「認めてください」アピールをし続けるなんて、あまりにも空しいことだと思いませんか?
 
少なくとも自分は、空しさを覚えました。
 
なので自然と、そんな「認められたいアピール」自体が、嫌になっていきました。
 
もう1つの理由は、たとえ認められたとしても、その承認が「自分が思い描いていたものと違う」ことに気づいたからです。
 
自分の「ここ」を見て欲しい、「こういう所」を認めて欲しいと願っても、他人が認めてくれるのは、それとは別の、もっと分かりやすく目立った長所ばかりだったりします。
 
あるいは、あまり「中身」を伴わない、「すごいね」程度の、ごくごく単純な称賛に過ぎなかったりします。
 
考えてみれば自分は、ただ単純に「認められたい」わけではなく、自分の行った努力や工夫に対する「報い」が欲しいのです。
 
なので、その努力や工夫を一切評価されずに、場合によってはそれに気づかれることすらなく、ただ承認や称賛を与えられても、そこはかとない「虚しさ」を覚えてしまうのです。
 
さらには、他者からの承認そのものが、あまり「実体」を伴わない、儚く消える「」のように思えてならないことがあります。
 
たとえ一時の承認・称賛を得られたとしても、情報の新陳代謝の速い現代社会では、そんなものはあっと言う間に忘れ去られてしまいます。
 
たとえ本人は過去の栄光を忘れず、それに縋っていたとしても、周りはとっくにそれを忘れ去っているのです。
 
にも関わらず、そんな儚い承認を必死に求めて足掻き続ける…そのこと自体、あまりに滑稽で哀しいと思いませんか?
 
そんな思いから、今では自分は「他者からの承認なんて、どうでもいい」という心境で生きています。
 
すると、驚くほどに生きるのがラクになるのです。
 
「他人から認められるため」ではなく、ただ「自分にとって悔いの無い人生を追求する」…それだけで、人生は全く質の違うものに変わるのです。
 

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就職活動で「自己分析」を経験した方、結構いらっしゃると思います。
 
自分の長所短所を見つめ直し、面接で上手くPRできるように、自分自身について分析をするわけですが…
 
社会人になった今にして思うと、学生時代にやった「自己分析」は、まるで「なっていなかった」と感じます。
 
「自己分析」という字面からして、「自分自身」だけを分析すれば良いような気がしてしまいますが…
 
本当の意味で「自分自身を知る」には、「自分を知っている」だけでは駄目なのです。
 
知らなければならないのは「自分と他人との違い」です。
 
他人と比べて自分が勝っているものは何か、そして逆に劣っている部分は何なのか…。
 
そしてそんな「自分と他人との違い」を知るには、過小評価でも過大評価でもない「リアルで正確な他人の姿」を知らなければならないのです。
 
自己評価をする際、無意識のうちに他人の能力を低く見積もり、「自分はこんなにスゴいんだ」と偉ぶったりはしていませんか?
 
あるいは逆に、自分が周りと比べてひどく劣っているような気がして、委縮したりはしてしませんか?
 
他人の姿を色眼鏡無しに真っ直ぐ見つめるということは、そんなに簡単なことではないのです。
 
そもそも「自分から見える他人の姿」は、その人のほんの一部分――“氷山の一角”でしかありません。
 
実はとてつもない能力を隠し持っているかも知れませんし、逆に見栄を張って自分を大きく見せようとしているかも知れません。
 
そんな「目には見えない部分」も考慮した上で、他人と自分との「違い」を見つめていかなければなりません。
 
正直、非常に難しく、社会人になった今でも、ちゃんとできるかどうか、自信はありません。
 
しかし、他人を知り、自分を知るということは、就職活動のみならず、人生を生きる上でも非常に役立ちます。
 
就職活動のためだけのものと思わず、人生のふとした場面で、自己分析してみるのはいかがでしょうか。


自分が常日頃から心がけていることの一つに「信ぴょう性の高いものでも、何%かは疑う余地を残しておく」ことと、逆に「信じ難いものであっても、何%かは信じる余地を残しておく」ということがあります。
 
それは自分自身も含めて「人間の真実を見抜く目なんて全くアテにはならない」と思っているから、でもあるのですが…。
 
たとえば今では一笑に付される「天動説」や中世の迷信だって、当時は「当たり前の常識」「疑いようのない真実」くらいのレベルで多くの人間に信じられてきた事柄です。
 
それと同じように、今この時代で当たり前に信じられていること、常識だと思われていることが、いつかの未来にアッサリ覆されることは充分にあり得ることだと思うのです。
 
そもそも人類は、自分たちが生きるこの世界についてさえ100%全部を知っているわけではありません。
 
「天才的頭脳を持つ科学者・数学者だって、この世界の謎を全て解き明かせたわけではないというのに、自分のようなごく普通の一般人が、どれほどの真実を知ることができるのだろう」――自分は常日頃、そんな風に思っています。
 
なので、ある日突然「それまで信じてきた常識がコロッと変わってしまう」ことがあっても柔軟に対応できるように、その変化を受け入れる心の余裕を常に持っておきたいと思うのです。
 
あるいは「皆が安全だと信じ込んでしまっている、実は危険な何か」に、真っ先に「あやしい」と気づいて安全策がとれるように…。
 
権威のある人や多数派が「正しい」と言えばそれを信じて流されてしまうというのは、特に日本人には多い傾向なのかも知れませんが、「安全だ」と言い続けられてきたものが実は危険だったという実例が過去にいろいろある以上、鵜呑みにせずに何%かは疑う余地を残しておいた方が自分自身のためだと思うのです。
 
逆に、皆が「間違いだ」と思ってスルーしているものの中にも、人生の役に立つ「真実」があったりするかも知れません。
 
なので、全てを信じるのでなく全てを疑うのでもなく、常に「半信半疑」……あるいは「九信一疑」「一信九疑」等でも良いかも知れませんが……とにかく、白か黒かをスパッと決めてしまいたくはないのです。
 
人によっては「どっちつかず」だとか「日和見主義」と馬鹿にされてしまうスタンスかも知れませんが……結局はこのスタンスが一番、効率的で安全性の高い生き方だという気がするのです。

以前から思っていたことがあります。
 
「その人を好きか嫌いか」と「その人に、この問題を解決する能力があるか」は全く別の問題だと。
 
抱えていた問題を、心から信頼する人間に相談したとして、その人がその問題を解決してくれるとは限らない、と。
 
本当に「問題の解決」を望むのであれば、「その問題を解決できる能力を持った人」を頼らなければ意味が無いのだと。
 
自分は小学校時代の虐め問題を、一旦は家族に相談したものの、その後の対応を見てすぐに家族を頼ることをやめました。
 
それは家族のことが嫌いだったからではありません。
 
「信頼していたかどうか」ということになると、「家族としての信頼」はそれなりにあったものの、「この問題を解決できるという信頼」は持っていませんでした。
 
「この人たちを頼っても、この問題は解決しないだろう」と冷静に判断し、問題を解決できる最適な手段を自分で選択したのです。
 
それはドライ過ぎる選択だったかも知れません。
 
ですが、学校が世界の全てと言っても良かった小学校時代において、自分に対する虐めを「なくす」ことが、その時の自分にとって最優先事項だったのです。
 
能力の無い人間にいつまでも頼り続けることは、問題を長引かせるだけでなく、かえって危険を招くこともあります。
 
相談に乗ってもらった相手が「善かれ」と思ってしたことが、かえって問題をややこしくし、相談者を追いつめる…そんなことはザラにあります。
 
しかも、相手はあくまでも善意で行っているので、余計に相談者が苦しむことになるのです。
 
「信頼して相談したのに、結局助けてもらえなかった」という台詞は、きっと、相手に「助ける能力」があった時だけ通用する台詞なのだと思います。
 
「誰かを助ける能力」は、残念ながら、誰にでも備わっているものではありません。
 
それには知識(時には問題に応じた専門知識)や行動力、コミュニケーション能力や調整力など、様々なスキルが必要となるものなのです。
 
けれど、これは「人柄は良いけど能力は無い人」が「必要ない」という話ではありません。
 
「信頼できる人」「人柄の良い人」は、「問題を解決」してはくれなくても、「話を聞いてくれる」ことはできます。
 
現実に問題が解決していなくても、誰かに話を聞いてもらい、気持ちを分かってもらうことで「心が楽になる」ことはあります。
 
「現実に問題を解決したいのか」「誰かに話を聞いてもらって心が楽になりたいのか」その区別・線引きをしっかりしておけば良い話なのです。
 
そこを一緒くたにして、能力の無い相手に「この人に相談すれば、もう安心」と思ってしまうのは危険です。
 
本当にその問題を解決したいなら、「信頼できる人に話を聞いてもらって心をラクにする」のとはまた別に、専門家を頼ったり能力を持った相手を探す…それが、ベストな選択だと思うのです。
 

<関連記事>
いざと言う時に他人頼みだと普通に命が危ないと思うんだ
虐め(いじめ)対処の実例~小学生の時~

個人的に普段から心がけている「怒りで身を滅ぼさない」ための心得その3です。
 
あくまで“自分用”に考えてきた独自の心得ですし、“誰にでも・どんな怒りにでも”通用するものではないと思いますが、参考程度にご覧ください。
 
(項目が多くて長くなりそうなので、何回かに分けて書いています。)
世界や他人に過剰に期待・依存しない
怒りの原因のひとつに「自分の思い通りにいかなかった」「期待を裏切られた」といったことが挙げられると思います。
 
周囲や社会に期待すれば期待した分だけ、その期待が裏切られれば、マイナスの感情が膨れ上がります。
 
しかし、その期待は果たして「何か根拠のある」ものだったのでしょうか?
 
相手の能力限界も考えずに「過剰な期待」をしてはいなかったでしょうか?
 
少し考えれば分かることかと思いますが、誰だって「できないことはできない」のです。
 
英語を習ったことも無い人間に「通訳をやれ」と言っても無理なように、あるいはパソコンが苦手で30分で400字詰め原稿用紙1枚分の文字入力しかできない人間に「1時間以内に30枚分の入力を終えろ」と言っても無理なように…。
 
世の中を見渡してみると、相手のスペックを確認もせずに無茶な要求をし、結果、思い通りの成果が得られずに怒っている人間のなんと多いことかと思います。
 
中には「できないなら努力して“できるように”なるべきだ」という方もいることでしょう。
 
ですが努力は必ずしも報われるものではありませんし、報われたとしても一朝一夕に実現するものではありません
 
「できない」人間に、それでもなお結果を求め続けることは現実的ではありませんし、エネルギーの無駄だと思いませんか?
 
世の中、何でもパーフェクトにこなせる完璧人間などそうそういるものではありませんし、むしろ自分の周りがそんな完璧超人だらけだったら、自分の能力の低さが身に染みて嫌な思いをするのではないでしょうか。
 
完璧な人間がそうそういない以上、この世の中が理不尽思い通りにいかないのは、むしろ「当たり前」のことなのです。
 
完璧でも何でもない未熟な人間たちが、頻繁に失敗や間違いを繰り返しながら動かしているのがこの世の中、ということなのですから…。
 
世の中や周囲の人間に過剰な期待をして「裏切られた」と怒る前に、この世の中や現代に生きる人間が「どういうものなのか」をちゃんと把握しておくべきなのではないでしょうか。
 
「こういう世の中であって欲しい」「こういうことをして欲しい」と頭の中でどれだけ願ったところで、そんな願いをすぐに叶えてくれる“魔法使い”は存在しません。
 
もしも本気で叶えたい希望があるなら、夢や理想に目をくもらせて世の中を過大評価したりせずに、現実を直視し、「問題点」を洗い出し、その問題を解決する方法を考察→実行していかなければいけません。
 
そもそも周囲に「期待」するということは、自分がそれだけ周囲の能力を「上」だと見積もっている、ということです。
 
口では怒って相手を罵倒するくせに、実は無意識に相手を過大評価している……だとしたら、よく分からない矛盾が生じている気がします。
 
怒らずに問題解決する能力を身につけよう
自分は他の人に比べて怒りの沸点が高い(滅多に怒らない)方だと思うのですが、その理由を考えてみた時、思い当たるものが1つあります。
 
それは自分が「怒りという感情を爆発させる」ことより、「怒りの原因となった“問題”を解決する」方を優先しているからです。
 
「怒り」というものには当然、原因や理由が存在します。
 
けれど、その原因や理由に対して「怒った」ところで、果たして問題は解決するでしょうか?
 
感情を爆発させれば、怒りの原因となった相手がこちらの言い分を聞いてくれるでしょうか?
 
それとも周りにいる誰かが問題解決のために動いてくれるでしょうか?
 
もちろん現実には、それで事態が動くケースも無いわけではありません
 
しかし100%それで解決するかと言えば答えはNOですし、自分の社会的評価が下がるリスクもあります。
 
それに、相手や状況によっては、逆に事態が自分が望まない方向へ動いてしまう危険もあります。
 
そんな諸々の事情を考えると、どうしても「どんな能力を持っているかも分からない他人に期待するより、自分で解決策を練った方が手っ取り早くて安心だな」と思ってしまうのです。
 
怒りには「爆発させることによって溜め込んだストレスを一度スッキリさせる」という効能もあるのかも知れません。
 
でも一時的に感情がスッキリしたところで、問題が解決していなければ新たなストレスが発生しかねません。
 
自分は目先の感情より実利を優先するシビアなタイプの人間ですので、怒りを感じるよりも先に「これを解決するにはどうしたらいいだろう」ということに頭が行ってしまい「怒っている暇もエネルギーも無い」のです。
 
そもそも怒りに心を囚われてしまうと、目がくもり、思考が鈍って、真っ当な解決策が思いつけなくなります。
 
冷静にものを考えられていれば思いつけたはずの解決策を、怒りによって時間とエネルギーを無駄に消費していたせいで見出せなかったとしたら、それは人生においてマイナスでしかない気がしてならないのです。
 
もちろん、問題を解決するには、それ相応の能力が要ります。
 
そもそも「何が問題なのか」を見つける視点さえ、ある程度脳を鍛えていなければ得られないものかと思います。
 
ですが「周囲に完璧な人間なんてそうそういない、あてにならない世の中」で生き抜いていこうとするなら、問題解決能力を磨くことは必須だと思うのです。
 
どんなに文明が進歩しても、この世が理不尽で弱肉強食な世の中であることに変わりはありません。
 
以前このブログの記事にも書きましたが「いざという時に周囲をアテにしないで自分で解決できる」ようにしておかなければ、あっさり命さえ失いかねないと思うのです。
 
関連記事>いざと言う時に他人頼みだと普通に命が危ないと思うんだ


関連記事>怒りの感情のコントロール方法(その1)(その2)
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