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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
今まで生きてきて、つくづく実感していることがあります。
 
それは、人間が人間に下す評価なんて、所詮は主観的相対的なものであって、客観的絶対的なものなんかじゃない、ということです。
 
類は友を呼ぶ”ということわざがあるように、人間というものはたぶん、自分の“同類”に対する評価は自然と甘くなり、そうでないモノに対しては厳しく批判的になるものなのではないかと、そう思えてならないのです。
 
(場合によっては“同族嫌悪”で逆に同類に対する評価の方が厳しくなるケースもあると思いますが。)
 
あるいは“自分にとって”魅力的な人物であれば、その他大勢の人間から嫌われている人間であっても好感を持ってしまう――そんな部分があるように思えます。
 
つまりは、人間が誰かを好いたり嫌ったりなんていうのは、結局のところ“相性の問題”でしかないように思えてならないのです。
 
ある人間にとっては「真面目で誠実で素晴らしい」人柄に思えても、別の人間には「生真面目でカタブツでツマラナイ」と思われたり……ある人にとっては「チャラくて、ふざけてる」人間に見えても、別の誰かから見れば「ノリが良くて面白い」という評価になったり……。
 
また、ある人間にとっては「そんなことするなんてアリエナイ!」という行為が、べつの人間にとっては「まぁいっか」という程度のことでしかなかったり……。
 
その人の個性を「良い」と思うか「悪い」と思うかは、見る人の感性や価値観次第で、自分がたまたま出会った相手が自分のことを良いと思ってくれる相手か、それとも悪いと思う相手なのかは運でしかない――結局そういう“相性”の問題だと思うのです。
 
他人から嫌われたり、良い評価をもらえなかったりするのは、悲しく悔しいことです。
 
でも、それは必ずしも「全世界的・全人類的に見て自分がダメな人間だ」ということとは限らないのです。
 
たまたまそこにいた相手が、自分とは相性が最悪な人間だったという、それだけの話かも知れないのです。
 
人間が同類を高く評価したがり、その他の異質な人間を見下したがるのは、そうすることで同類である自分も肯定される気がするから、そして異質な人間を否定することで自分たちを優位な立場に置きたいから、という考えが無意識のうちに働いているからなんじゃないかと、そういう気がします。
 
そんな無意識の生存本能的(?)な何かに惑わされて自分の価値を過剰に卑下し、まして命を断とうと思いつめるなんて、勿体ないことだと思うのです。
 
世界は広く、人間は数十億人もいて、それぞれ違う性格を持っています。
中には自分と気が合う人間・自分を受け入れてくれる人間がいるはずです。
 
だから、誰かに嫌われたり、存在を否定されたりしても、そこまで思いつめる必要はない――そう思うのです。
 
まぁ、かと言って、どこまでも自己中心的に、ワガママに振舞って良いか、というと、そういうことではないと思いますが。
 
他人を害したり迷惑をかけたりする行動は、自然と敵を作り、自分の味方になってくれる“相性の良い”人間を、自ら減らしてしまう結果になると思いますので……。

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自分の“力”を誇れるかどうかは、実力の程度とはあまり関係がなく、その人の“性格”や“育ってきた環境”による、というのが、自分の経験上の持論です。
 
なぜなら自分は、実際の能力の有無に関わらず、常に自分に対して自信のない子どもだったからです。
 
自分がそんな風に自信無く生きてきた理由は、親に褒められた経験があまり無いことにありました。
 
たとえばテストで良い点をとっても、絵画コンクールで入賞しても、読書感想文でクラスの代表に選ばれても、褒められたという記憶はありません。
 
そもそも両親が共働きで忙しく、子どもの学校生活をいちいち聞いてくれるような時間的余裕がなかったということも理由の一つではありますが、それ以上にうちの親の場合、たとえ子どもが自分自身の力で絵画コンクール入賞できるような腕を持っていようと、感性やセンスが合わなければ容赦なく“ダメ出し”し、むしろ嬉々として「お父さんが手伝ってやる」と、子どもの描いた絵に自分の好きな絵のタッチを“上書き”してくるような性格をしていた、ということに問題があったような気がします。
 
さらには自分の場合、本来なら体力に回すべきエネルギーを全て頭脳に吸い取られたとでも言うように身体が弱く、体育の成績はいつでもクラスの最底辺、1ヶ月に1度はダウンして学校を2~3日休む、という状態だったため、その辺りをいつも責められ、長所を褒められるどころではなかった、ということもあります。
 
それと、自分が得意としていた分野が主に勉強などのインドア方面で、学生時代当時、周囲の人気の的になれるようなジャンルではなかった、ということもあります。
 
逆に、クラス内どころか学年すら超えて周囲から一目置かれていたのがうちの兄弟で、彼は運動会では組別対抗リレーのアンカーに選ばれ、休み時間には鉄棒で大技を次々と決めて周りに人垣を作り、クラブ活動では竹からナイフ一本で耳かきや竹とんぼを作り上げたり、コマ回しやベーゴマの腕で周囲の尊敬を集め(←そういう”昔の遊び”をするクラブに入っていたのです。)、さらには笑いのセンスで人気を集めるという、典型的な“クラスの人気者”タイプで、自分は何かと自分自身と比べてコンプレックスに苛まれたりしていたものでした。
 
そんな環境から、いつしか自分は良い成績をとろうと、校内で表彰されたり何かに選ばれることがあろうと、「こんなことはべつに褒められるようなことじゃない」「自慢できるようなものじゃない」と思うようになっていました。
 
たとえどんな能力を持っていようと、本人がそこに価値を認めなければ、それは自信の根拠になどなりはしません

たとえ、はたから見れば妬ましく思えるような能力をもっていたとしても、本当に喜んで欲しい身近な人間がそれを評価してくれなければ、そこに価値を見出すことはできなかったりするのです。
 
そんな風に長い間、自分に価値を見出すことができずに苦しんでいる時期が、自分にはありました。
 
今思うと、おかしなことだと思います。
 
たとえ大切な人から認めてもらえずとも、そこにはちゃんと、ある種の能力が存在していたのに。
そしてその能力は、たぶん、自分の将来を切り拓くのに役立つような種類の力であったにも関わらず…。
 
そして世の中には逆に何の根拠も無いのに自信満々に堂々と生きているような人も沢山いるというのに。
 
たぶん、“自信の根拠”を他者(特に家族など、自分が心から肯定してもらいたいと思っている相手)に求めてしまっていたのが、いけなかったのではないかと思います。
 
「褒められたい」「認められたい」という欲求ばかりが大きくて、他者からの評価ばかりを求めて、自分の力を自分自身の目で冷静に、客観的に分析・評価することができていなかったのでしょう。
 
たとえ血のつながった親であっても、自分ならぬ他人である以上、価値観はそれぞれ違います。
自分が良いと思ったもの、褒めて欲しいものを、必ずしも認めてもらえるとは限りません。
 
それなのに「親(あるいは大切な誰か)に認めてもらえないから価値のないものなんだ」と自分で自分の能力を否定してしまうのは、ひどくもったいないことだったな、と我ながら思うのです。
 
今は大切な人に認めてもらえなかったとしても、もしかしたら、これから自分と同じような価値観を持つ”大切な誰か”に出会えて、その人は自分の能力を認めてくれるかも知れないのに…。
 
それに自信の有無は、その人の積極性にも影響を与えます。
 
自信に満ちた言動は(たとえその裏に実力が伴っていなかったとしても)見る人に何となく安心感信頼感を与えたりするものです。
 
自分に自信が無くて自己アピールも消極的な人間より、根拠の無い自信であっても自信満々に堂々と自分をPRできる人間の方が、他人に与える印象という点においては何かと有利だったりするように…。
 
そして自分に自信がないことは、行動力にも確実に影響してきます。
 
心の底では「正しい」と思うことでも、自分に自信がないので言えない・行動できない――あるいは会議やゼミなどの場で自分の考えを思うままに発言できず、無難な発言に留めてしまう――そして、自分のやりたいことが思うようにできない等々…。
 
自信の無さは、自分の経験上、確実に人生を蝕んできました。
 
正直、自分に自信を持つということは、学力やその他の能力をUPさせるよりも人生に必要な能力なのではないかと思うほどです。
 
親に褒められることが人生に良い方に作用するかどうかは、その人次第かも知れません。 
もしかしたら変に増長してダメな子に育ってしまうパターンもあるのかも知れません。
 
ただ、自分の場合には、もっと褒めて自信を与えて欲しかったな、と思うのです。
 
そうすれば、少なくとも就活であんなに面接に苦戦することもなかったような気がします。
 
もっとも、ただ何の根拠も無く常に自信満々でいれば良いのかと言うと、決してそうではなく、ちゃんと根拠があった上で自分を信じ、時には適度に自分を疑うことも大事だとは思っているのですが。
 
そして、その”根拠”は必ずしも実力や数値に表れるような”能力”ではなく、自分がそれまでどれだけのことを頑張ってきたのか、他の誰が知らずとも自分自身は知っているそれまでに積み上げてきた努力の過程を、密かに誇って自信にすれば良いと思うのですが。


世の中、何でも一緒くたにせず、分けて考えればラクになることがたくさんあるのにな、と思うことがあります。
 
たとえば人間トラブルに遭って、社会や人間自体が嫌になってしまっても、この世界はべつに人間だけで構成されているわけではないのだから、人間以外の部分――空だとか、花だとか、川辺の景色だとか、近所の猫たちだとか、電線のスズメだとか…とりあえずは、そういう自分が好きになれる綺麗な部分だけ愛していけばいいんじゃないかな、と思ったりするのです。
 
何か嫌なことがあっても、辛いことがあっても、それはこの世界のほんの一部分でしかなく、その他の部分には、自分が好きになれる何かが埋まっているのかも知れない――そんな風に思って生きていくのは、気休めに過ぎないのでしょうか?
 
自分は昔から、景色を見るのが好きでした。
 
それも、観光地になっているような“絶景”ではなく、日常の中のほんのささやかな風景に惹かれてきました。
 
たとえば、通学路の両脇に茂った木が天然の緑のトンネルを作っているのを見てわくわくしたり、雨の日に川の水面にいくつも波紋が広がっていくのを見てどきどきしたり……今も、通勤途中の脇道にノラ猫さんたちが丸くなっているのを見てはほっこりしています。
 
たとえ学校や家などで嫌なことがあっても、世界には心を癒してくれる綺麗な景色が沢山あった――そのことが、随分と自分の心の慰め支えになってくれていた気がします。
 
それと、素敵な世界は外の景色だけでなく、本の中にもありました。
 
自分は完全なインドア人間なので、物心ついた時から本ばかり読んで育ってきました。
 
本の中には、現実ではなかなか巡り会えないような理想的な大人や魅力的な人物、こことは違う別の世界が沢山存在していました。
 
本の中のそんな世界に浸り、一時でも現実を忘れることで、やはり随分と心が癒されていたように思います。
 
(ちなみに本に限らずゲームなど、一時的に別の世界に没頭して現実逃避をするのはストレス解消の手段の一つとして有効だと以前テレビで見たことがあります。もっともそれだけではなく、ストレスの源に立ち向かうことや買い物やカラオケなど他の手段で発散するなど、他の方法とも組み合わせていくことが重要だと言っていた気がしますが。←ややうろ覚えです。)
 
たぶん、この世界の中に好きなものが沢山あればあるほど生きるのがラクになるのではないかと思います。
 
この世界の何もかも全てが嫌いになってしまったら、きっと毎日が辛くて仕方がなくなるのではないでしょうか。
 
だからこの世界の全てを嫌いになってしまわないように、常日頃からこの世界の中の小さな「好き」を見つけて、自分の心の中に貯め込んでいけば良いと思うのです。
 
お金や物は奪えても、人間の心の中にあるものまでは誰にも奪えません。
 
たとえ他の誰かに「そんなものが好きだなんて変」「そんなもの、くだらない」と言われても、自分さえ「好き」の気持ちを変えずにいたなら、それは失われることなく心に残り続けます。
 
そして日々の生活の中でそんなささやかな「好き」に出会えたなら、ほんのり幸せを感じれば良いのです。
 
たとえば自分はよく空を見上げます。
 
同じように見えても、空は毎日少しずつ色や形を変え、一日として同じものはありません。
 
そんな、その日にしか出会えない空を見つめ、その美しさにほっこりするのです。
 
他人から見れば、くだらないかも知れませんし、時間の無駄かも知れません。
 
でも、そんな日々のささやかな「ほっこり」が、何だかんだでちょっとしたストレス解消になっていて、そんなちょっとしたストレス解消でも、積み重ねて人生全体で見てみれば、かなりの効果を上げているのではないかと思ったりするのです。

小学生の頃、大人になるのが嫌で仕方のない時期がありました。
 
当時“大人”は“子ども”とは全く違う存在に見えていて、しかも子どもの心を全く理解しない生き物に思えて、そんなものになりたくないと強く思っていました。
 
でも、時の流れは止めようがなく、身体も年齢も勝手に大人に近づいていく……ならば、どうすれば良いのか。
 
自分が出した結論は「せめて、子どものままの今の心を忘れずに生きていこう」ということでした。
 
小学生の自分が、何を見て、どう感じてきたのか。
何を考えて生きていたのか――その心の在り方を、そのまま“保存”していこうと考えたのです。
 
人間は、大切な思い出すら時の流れの中で曖昧になって忘れていってしまうものです。
それを忘れないようにするためには“工夫”が要ります。
 
自分が子ども心を忘れないためにとった手段――まずひとつは、とにかく記憶を反芻(反復)することでした。
特に忘れたくないと思った想いや記憶を、繰り返し脳内に蘇らせるという作業を、折に触れ何度も行ってきました。
 
…と言っても、義務的に、無理をしてやっていたわけではありません。
自分の生活範囲の中で“ここを通った時にはこの記憶を思い出す”という地点を何箇所か決めておいて、そこを通りかかった時にうすらぼんやりと過去の記憶を蘇らせるという、“習慣”というか“クセ”のような感じで行っていました。
 
それともうひとつは、記憶を引き出すトリガー(引きがね)となる“物”を残しておくことです。
 
思い出の品や写真でも良いのですが、一番有効だったのは自分で書き残した文章――日記でした。
 
日記は「毎日つけるもの」として義務化すると、なかなか続けられず書くこと自体をやめてしまったりするものですが、「忘れたくないことがあった時にだけ書き残しておく」と決めて書く分には、後々に「この時こんなことがあったんだっけ」「この時こんなことを思ったんだっけ」と思い出すための重要アイテムとして役立ちます。
 
とは言え、高校・大学と進学し、生活範囲が変われば“記憶を反芻する地点”を通ること自体が少なくなり、徐々に記憶は劣化していったように思います。
 
日記も、あまりにも過去のものになると「本当に自分の書いた文章なんだろうか」と思うほど忘れてしまっているページもあったりします。
 
正直、今も心の中に小学校時代の自分がそのまま棲んでいるのかと問われれば「完全に同じ存在ではなく、ちょっと別物に変わってしまっているかも知れない」と、そう答えざるをえないでしょう。
 
けれど、それでも時々、ふっと小学生の自分の視線を感じることがあります。
 
それは“現在の自分”の言動を監視していて、時折「それでいいの?」「それだと、あの頃、嫌っていた“汚い大人”と一緒になってしまうよ」と心の中で囁きかけてくるのです。
 
自分は完璧な人間ではありませんし、できないこと、妥協してしまっていることも多々あります。
でも、それでも、胸の中にいる“小学生の自分”を失望させない自分でありたいと、今でも思っています。
 
幼いがゆえに真っ直ぐだった“小学生当時の自分”の想いは、時にどんな他人の言葉よりも鋭く厳しく胸に突き刺さります。
しかも“過去の自分”とは言え“自分自身”には変わりがないので、否定しようとすれば、その否定がそのまま自分自身にブーメランで返ってくるという逃げ場の無い苦しみです。
 
でも、それでも自分は心の中に居る小学生の自分の心を棄ててしまいたくはないのです。
 
小学生の頃は、あんなになりたくなかった“汚い大人”に、気付けばあっさりなってしまっていて、それを恥にも思わずにいるとしたら、その方が何だか“救われない”気がしてならないので…。

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津籠睦月(つごもりむつき)
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【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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