日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
革命や変革が怒りの爆発によって起こるように、「怒り」は時に世界を変えるエネルギーを生む、人類にとって不可欠な感情ではあります。
でも、それはたまにしか起こらないレアなケース。
普通の日常生活の中での「怒り」は大概の場合、人間関係を壊してしまったり、トラブルの発端となったり、厄介事の原因になってしまっているのではないでしょうか。
怒りは人生を悪い方向に転がしてしまいかねない、危険な感情でもあります。
自分の人生をうっかり破滅させたくないのであれば「怒りに我を忘れないように」感情のコントロールを考えていく必要があると思います。
以下に書いているのは、自分が普段から心がけている「怒りで身を滅ぼさない」ための心得です。
あくまで“自分用”に考えてきた独自の心得ですし、“誰にでも・どんな怒りにでも”通用するものではないと思いますが、参考程度にご覧ください。
(項目が多くて長くなりそうなので、何回かに分けて書いていこうと思います。)
でも、それはたまにしか起こらないレアなケース。
普通の日常生活の中での「怒り」は大概の場合、人間関係を壊してしまったり、トラブルの発端となったり、厄介事の原因になってしまっているのではないでしょうか。
怒りは人生を悪い方向に転がしてしまいかねない、危険な感情でもあります。
自分の人生をうっかり破滅させたくないのであれば「怒りに我を忘れないように」感情のコントロールを考えていく必要があると思います。
以下に書いているのは、自分が普段から心がけている「怒りで身を滅ぼさない」ための心得です。
あくまで“自分用”に考えてきた独自の心得ですし、“誰にでも・どんな怒りにでも”通用するものではないと思いますが、参考程度にご覧ください。
(項目が多くて長くなりそうなので、何回かに分けて書いていこうと思います。)
- 自分の怒りやイラつきを“自覚”する
-
誰にだって気分の上がり下がりがあります。
特に理由があるわけでもないのに気分が悪い、心がざわつく時だってあると思います。
大切なのは、そんな時に自分自身の状態を“自覚”しておくことです。
「あぁ、今日は何だか、ささいなことでイラつく日だな」「自分、怒りっぽくなってるな」ということに、ちゃんと自分で気づいておくことです。
その、ちょっとした自覚の差が、怒りに駆られて何かをしそうになった時のストッパーになってくれることがあります。
「この人が悪いわけじゃない。嫌なことが重なって怒りっぽくなってるからだ」「前に他の人に同じことされた時には怒らなかったのに、今日は怒るなんて不公平じゃないか」―そんな風に、自分自身の心の声が歯止めとなって、怒りをやわらげてくれることがあります。
- 怒り方の“ルール”を決めておく
- 怒りにまかせて取り返しのつかない失敗をしてしまうタイプの人は、そもそも「怒り方のルール」を決めていないのではないでしょうか?
人間誰しも、怒りに心を支配されてしまう可能性はあります。
そしてそんな風に怒りに支配された時、頭はまともに働きません。
怒りにエネルギーを奪われている分、思考は普段とは比べ物にならないほど鈍くなり、いつもなら当たり前に気づくようなことに気づけないので、うっかり言ってはいけないことを口にしてしまったり、相手を取り返しもつかないほど傷つけてしまったりするものです。
ならば、冷静に頭が働く平常時に、あらかじめ怒り方のルールを決めておいてしまえば良いのです。
怒りに鈍った頭でも、既にあるルールを実行するだけなら難しくありません。
たとえば自分の場合「怒っても“生物”には絶対にあたらない」「罵倒であっても、命を軽視する発言はしない」というルールを決めています。
怒りにまかせて生物に暴力をふるっては取り返しがつきません。
なので、どうしても当たり散らしたくなったら「無機物」もしくは「概念」や「システム」に怒りをぶつけるようにしています。
それも、なるべく手を出すのではなく口を出す方向で怒りを発散させるようにしています(そもそも形の無い概念に手は出せないですけどね…)。
さらには、ただ罵詈雑言をぶつけるのではなく、どこがどんな風に駄目なのか、その駄目な部分を改善するにはどうすればいいのか具体的に文句をぶつけるようにしています(あくまでひとりごとですが)。
たとえば「なんって分かりづらいサイトなんだ!?これを作った人間はユーザー目線を全く意識していないのか!?」から始まり「ここにこういう文言を書いておけば分かりやすいのに!」「ワンクリックで目的のページへ跳べるようにしておけば余計な手間がなくてカンタンなのに!」という風に文句を連ねていくわけですが…
こういうやり方をすると、その「こうすればいいのに!」という文句が、そのうち自分でサイトを制作する際に活かせたりと、自分自身に“応用”できるので非常に建設的でオススメです。
「命を軽視した発言をしない」の方は、自分が「世にも奇妙な物〇」的な思考回路の持ち主というのも関係していると思いますが…
たとえば「相手に『しね』と言ってしまった後、本当に相手が何らかの理由で命を落としてしまったらどうしよう」ということを想像してしまうので、基本的にそういうことは言いたくないのです。
それに、軽い気持ちであろうが、売り言葉に買い言葉であろうが、酒に酔っての言動であろうが、“誰かから死を望む発言をされた”という事実は、なかなか忘れられないものだと思うのです。
それが家族や友人など身近な人物であればあるほど、余計に…。
(少なくとも自分は忘れられないタイプなので。)
なので、自分自身、ふとしたきっかけでうっかりそんな言葉を発してしまわないよう、普段から生死に関わる言葉には気をつけているのです。
関連記事>怒りの感情のコントロール方法(その2)/(その3)
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ネット通販で注文していない商品が入っていただとか、シリーズもののDVDの“3巻目”を買おうとレジに空箱を持っていったのに、家に帰って袋を開けてみたら発売されたばかりの“5巻目”が入っていただとか…
人間生きていれば、時にはそんなトラブルに見舞われ、クレームをつけなければいけない事態になったりするものです。
そんな時、自分がまず感じるのは「嫌だなぁ」です。
もちろん「面倒くさい」という意味での「嫌だなぁ」もあります。
でも、それよりも精神的に嫌だと感じるのは「このクレームを受けた人は嫌な思いをするんだろうなぁ。嫌なクレーマーだと思われたら嫌だなぁ」です。
元々自分には、相手の気持ちを想像してしまうクセがあります。
そのクセにより、自分のクレームを受ける担当者の気持ちを想像して、クレームをつける自分の存在を「なんとなく嫌なもの」だと感じてしまうのです。
「このクレームを受ける相手が、このクレームにつながった“問題”を起こした当人でもないのに、謝らなきゃいけないなんて理不尽で不憫だよなぁ」「傷つけるような言い方はしたくないけど、でも問題はしっかり解決してもらわなきゃいけないしなぁ」などということを、実際にクレームをつける前にぐるぐる考えたりするのです。
結果、実際にクレームをつける時、だいたい最初は穏やかな言い方で始めます。
(メールなどでクレームをつける場合には、大概、いつも利用させてもらっている感謝の言葉を一言添えて始めます。)
そして、ほとんど感情は交えずに事実だけを簡潔に伝え、問題を解決してくれるように依頼します。
(最後に少しだけ「残念に感じた」こと、「次はこんなことを起こさないで欲しい」という一言を添える場合はあります。それと、悲しいことに、相手によっては、こちらの出方が丁寧でおとなしいと(下手に出ていると思われるのか)、こちら側に不利な条件を押しつけられそうになることもあるので(完全に相手方のミスであるにも関わらず、交換のために送り返す商品の送料をこちら持ちにさせられそうになったり…)そういう道理に合わないことは、きっぱりと断るようにしていますが…。)
モラルがどうの、倫理観がどうのということではなく、きっと自分はただ単に「他人に嫌われたくない」あるいは「嫌な人間になりたくない」だけなのだと思います。
自分が嫌な目に遭ったからと言って、それが誰かを攻撃して良いことの理由にはなりません。
ましてクレームをつける相手は、その嫌なトラブルを起こした“当人”ではないかも知れないのに…
嫌な目に遭ったイライラを、ちょうど良いからと言ってクレーム担当者にぶつけるのは、八つ当たりにも似た行為だと思うのです。
…ただ、自分がそう思うのは、自分が求めているものが単に「トラブルの解決」であって、「そのトラブルによって受けた心のダメージの回復」ではないから、というのもあるかも知れません。
(自分の場合、そもそも「めんどくさい」と思うだけで、ダメージというほどの傷やストレスを負わないことがほとんどですので…。)
クレーム担当者に怒鳴りつけたりする人間が「どうして」怒鳴りつけるのかと言うと、おそらく「そのトラブルによって傷つけられた気持ちをどうにかして欲しいから」なのだと思います。
「どうにかして欲しい」けど「自分ではどうにもできない」し「どうにかする方法も分からない」から、分かりやすい相談窓口であるところのクレーム担当に、その気持ちをぶつけるのではないかと思われます。
(とは言えトラブルの内容もクレームの内容も十人十色でしょうから、必ずしもそればかりとは限りませんが。)
ただ…昨今の世の中を見ていると、どうにもその「気持ちのぶつけ方」が“過剰”になってきている気がして心配なのですが…。
長時間怒鳴り続けたり、業務を妨害したり、土下座を強要したり…
そこまでしても気が済まないというのなら、もはや問題はクレームの元となったトラブルではなく、感情のコントロールの方にあるのではないでしょうか。
怒りや苛立ちに心が支配され、「自分のやっていることが度を越していないか」「他人から見て今、自分がどう見えるか」を考える精神的余裕もなくなってしまっている…
今目の前にある「ストレスの発散」ばかりに心が向いて、その行為が後にどんな事態を呼ぶのか、自分が社会からどう評価されるのかに目が行かなくなってしまっている…
それは結果的に、クレーマーさん本人を社会から孤立させ、生きづらくしていってしまうのではないかと思えてならないのです。
人間、誰にでも失敗はあります。
そんな誰かの失敗が、たまたま自分にトラブルとなってふりかかることはあります。
それに怒りを爆発させ、一切の許容ができないと言うなら、きっと、いつかの未来に自分が犯すであろう失敗も、世の中から受け入れられなくなっていくことでしょう。
他人の失敗と自分の失敗は別物――そんな幻想は、社会の在り方が歪んでいたり、よほどの権力を持っていたりでもしない限り、成立し得ないことなのですから。
怒りに駆られてクレームしそうになった時には、一旦立ち止まって、自分が過去に犯した失敗や他人にかけた迷惑を思い出したり、「もし自分がトラブルを起こした側の立場だったら」を考えてみると良いかも知れません。
“感情”ではなく、あくまで“理性”的にトラブルの解決を図ることは、ただ怒りのままにクレームをつけるより、よほど器が大きくてカッコイイ人間の姿だと、個人的には思っていますので。
人間生きていれば、時にはそんなトラブルに見舞われ、クレームをつけなければいけない事態になったりするものです。
そんな時、自分がまず感じるのは「嫌だなぁ」です。
もちろん「面倒くさい」という意味での「嫌だなぁ」もあります。
でも、それよりも精神的に嫌だと感じるのは「このクレームを受けた人は嫌な思いをするんだろうなぁ。嫌なクレーマーだと思われたら嫌だなぁ」です。
元々自分には、相手の気持ちを想像してしまうクセがあります。
そのクセにより、自分のクレームを受ける担当者の気持ちを想像して、クレームをつける自分の存在を「なんとなく嫌なもの」だと感じてしまうのです。
「このクレームを受ける相手が、このクレームにつながった“問題”を起こした当人でもないのに、謝らなきゃいけないなんて理不尽で不憫だよなぁ」「傷つけるような言い方はしたくないけど、でも問題はしっかり解決してもらわなきゃいけないしなぁ」などということを、実際にクレームをつける前にぐるぐる考えたりするのです。
結果、実際にクレームをつける時、だいたい最初は穏やかな言い方で始めます。
(メールなどでクレームをつける場合には、大概、いつも利用させてもらっている感謝の言葉を一言添えて始めます。)
そして、ほとんど感情は交えずに事実だけを簡潔に伝え、問題を解決してくれるように依頼します。
(最後に少しだけ「残念に感じた」こと、「次はこんなことを起こさないで欲しい」という一言を添える場合はあります。それと、悲しいことに、相手によっては、こちらの出方が丁寧でおとなしいと(下手に出ていると思われるのか)、こちら側に不利な条件を押しつけられそうになることもあるので(完全に相手方のミスであるにも関わらず、交換のために送り返す商品の送料をこちら持ちにさせられそうになったり…)そういう道理に合わないことは、きっぱりと断るようにしていますが…。)
モラルがどうの、倫理観がどうのということではなく、きっと自分はただ単に「他人に嫌われたくない」あるいは「嫌な人間になりたくない」だけなのだと思います。
自分が嫌な目に遭ったからと言って、それが誰かを攻撃して良いことの理由にはなりません。
ましてクレームをつける相手は、その嫌なトラブルを起こした“当人”ではないかも知れないのに…
嫌な目に遭ったイライラを、ちょうど良いからと言ってクレーム担当者にぶつけるのは、八つ当たりにも似た行為だと思うのです。
…ただ、自分がそう思うのは、自分が求めているものが単に「トラブルの解決」であって、「そのトラブルによって受けた心のダメージの回復」ではないから、というのもあるかも知れません。
(自分の場合、そもそも「めんどくさい」と思うだけで、ダメージというほどの傷やストレスを負わないことがほとんどですので…。)
クレーム担当者に怒鳴りつけたりする人間が「どうして」怒鳴りつけるのかと言うと、おそらく「そのトラブルによって傷つけられた気持ちをどうにかして欲しいから」なのだと思います。
「どうにかして欲しい」けど「自分ではどうにもできない」し「どうにかする方法も分からない」から、分かりやすい相談窓口であるところのクレーム担当に、その気持ちをぶつけるのではないかと思われます。
(とは言えトラブルの内容もクレームの内容も十人十色でしょうから、必ずしもそればかりとは限りませんが。)
ただ…昨今の世の中を見ていると、どうにもその「気持ちのぶつけ方」が“過剰”になってきている気がして心配なのですが…。
長時間怒鳴り続けたり、業務を妨害したり、土下座を強要したり…
そこまでしても気が済まないというのなら、もはや問題はクレームの元となったトラブルではなく、感情のコントロールの方にあるのではないでしょうか。
怒りや苛立ちに心が支配され、「自分のやっていることが度を越していないか」「他人から見て今、自分がどう見えるか」を考える精神的余裕もなくなってしまっている…
今目の前にある「ストレスの発散」ばかりに心が向いて、その行為が後にどんな事態を呼ぶのか、自分が社会からどう評価されるのかに目が行かなくなってしまっている…
それは結果的に、クレーマーさん本人を社会から孤立させ、生きづらくしていってしまうのではないかと思えてならないのです。
人間、誰にでも失敗はあります。
そんな誰かの失敗が、たまたま自分にトラブルとなってふりかかることはあります。
それに怒りを爆発させ、一切の許容ができないと言うなら、きっと、いつかの未来に自分が犯すであろう失敗も、世の中から受け入れられなくなっていくことでしょう。
他人の失敗と自分の失敗は別物――そんな幻想は、社会の在り方が歪んでいたり、よほどの権力を持っていたりでもしない限り、成立し得ないことなのですから。
怒りに駆られてクレームしそうになった時には、一旦立ち止まって、自分が過去に犯した失敗や他人にかけた迷惑を思い出したり、「もし自分がトラブルを起こした側の立場だったら」を考えてみると良いかも知れません。
“感情”ではなく、あくまで“理性”的にトラブルの解決を図ることは、ただ怒りのままにクレームをつけるより、よほど器が大きくてカッコイイ人間の姿だと、個人的には思っていますので。
子どもの頃、ひどく「生きづらい」と感じていた時期があります。
思い返してみればその頃、自分は、世界を見るのも他人を見るのも、何でも“自分”をモノサシにしていました。
人間の物の考え方など十人十色で一人一人違って当たり前なのに、あの頃は無意識のうちに、他人も自分と“同じ”ように物を考え行動すると思い込んで、その予想から外れた言動をされると、ひどく動揺していました。
たとえば、自分はいわゆる“繊細”なタイプで、ささいな言葉ひとつに傷つく性格だったので、「これを言ったら相手を傷つけてしまうかな」「これをしたら嫌われるかな」と言動の一つ一つに気を遣ってきました。
けれど、世の中そういうタイプの人間ばかりではないので、こちらが傷つくようなデリカシーの無い言葉を平気で使って来る人はたくさんいます。
そんな時、「自分は嫌われているんだろうか」「自分が何か悪いことをしたんだろうか」と凹んでいたりしましたが…今にして思えば、おそらく“そういうこと”ではなかったのだと思います。
自分はたまたま「言葉が相手に与える影響」を気にし、考えたことをすぐには口にせず一度頭の中で反芻してから話すタイプの子どもでしたが、そういうものを全く気にせず、言いたいことを即座にポンポン口にする人間はたくさんいます。
それはべつに悪意や悪気があるわけではなく「それにより相手が傷つくかも知れない」という可能性をあまり考えたことがない人間だから、なのだと思います。
(中には自分を優位に立たせたいがために、わざと相手を屈辱的な言葉で貶めたがるタイプの人間もいますが…。)
“他人”という生き物は、“自分”とは性格も思考のタイプも全く違う生き物なのですから、「自分だったら、こういう時には、こういう行動をするのにな」という“予想”と全く違う“結果”が出て来るのは当たり前です。
そして、そんな予想外の言動を“自分の価値観”に当てはめて「なんでこの人はこんなことをするんだろう」と悩んでみたところで“正解”など分からないのです。
だから、すぐに「自分だったら、こんな言葉は嫌いな相手にしか使わない→だから、相手は自分のことが嫌いなんだ」と思い込んでしまうのは危険です。
相手は本当に悪気無く、ただただ軽い気持ちでその言葉を使っただけかも知れないのですから…。
本当に嫌われたわけでもないのに「嫌われた」と思い込んで傷つくのも、攻撃の意思のない言葉に勝手に攻撃性を読み取って反撃しようとするのも、無駄に人生を生きづらくする“もったいない”行為です。
中には「そもそも、そんな風に相手の気持ちを考えずに言葉を使ったり行動したりする相手の方が悪い」と思う人もいるかも知れません。
ですが、人間の性格というものは育ってきた環境によっても左右されるものです。
もしもそれまでその人の周りにいたのが「ちょっとした悪口くらいなら軽口で返してくるようなノリの人間ばかりだった」のだとしたら、「それによって傷つく人間もいる」のだということを知らないまま、気づかないまま育ってしまったとしても仕方のないことなのかも知れません。
(そして、その後もそんなノリの人間ばかり周りにいるなら、そういう性格のままだったとしても特に問題が無いのかも知れません。)
以前の記事にも書きましたが、人が相手の性格を好ましく思うか嫌いだと思うかは“相性”の問題であって、そこに絶対的な評価や価値観など存在しません。
どうしても“合わない”性格の人間もいると思います。
そういう時は、「何でこの人はこんな言動をとるんだ。自分なら絶対しないのに」とイライラしながらつき合い続けるより、そっと離れていくか、「この人はこういう人なんだから仕方ない」と受け流すのが、精神衛生のためには良いと思うのです。
ある程度の年齢まで育ってしまった人間の性格や思考回路を変えていくのは容易なことではありません。
ですので、そのエネルギーを消費するのに値しない相手なら、わざわざそんな苦労をする必要も理由も無いと思うのです。
今の世の中、他人の言動を無理矢理“自分の”モノサシで測ろうとして、その挙句に誤解して、する必要のない争いやトラブルを起こしている例が多い気がしてなりません。
“自分”と“他人”は物の考え方が違う――そのことさえ、きっちり押さえていたなら、そんな“ムダな”争いやトラブルも減り、社会に満ちたストレスも少しは減らせる気がするのですが…。
思い返してみればその頃、自分は、世界を見るのも他人を見るのも、何でも“自分”をモノサシにしていました。
人間の物の考え方など十人十色で一人一人違って当たり前なのに、あの頃は無意識のうちに、他人も自分と“同じ”ように物を考え行動すると思い込んで、その予想から外れた言動をされると、ひどく動揺していました。
たとえば、自分はいわゆる“繊細”なタイプで、ささいな言葉ひとつに傷つく性格だったので、「これを言ったら相手を傷つけてしまうかな」「これをしたら嫌われるかな」と言動の一つ一つに気を遣ってきました。
けれど、世の中そういうタイプの人間ばかりではないので、こちらが傷つくようなデリカシーの無い言葉を平気で使って来る人はたくさんいます。
そんな時、「自分は嫌われているんだろうか」「自分が何か悪いことをしたんだろうか」と凹んでいたりしましたが…今にして思えば、おそらく“そういうこと”ではなかったのだと思います。
自分はたまたま「言葉が相手に与える影響」を気にし、考えたことをすぐには口にせず一度頭の中で反芻してから話すタイプの子どもでしたが、そういうものを全く気にせず、言いたいことを即座にポンポン口にする人間はたくさんいます。
それはべつに悪意や悪気があるわけではなく「それにより相手が傷つくかも知れない」という可能性をあまり考えたことがない人間だから、なのだと思います。
(中には自分を優位に立たせたいがために、わざと相手を屈辱的な言葉で貶めたがるタイプの人間もいますが…。)
“他人”という生き物は、“自分”とは性格も思考のタイプも全く違う生き物なのですから、「自分だったら、こういう時には、こういう行動をするのにな」という“予想”と全く違う“結果”が出て来るのは当たり前です。
そして、そんな予想外の言動を“自分の価値観”に当てはめて「なんでこの人はこんなことをするんだろう」と悩んでみたところで“正解”など分からないのです。
だから、すぐに「自分だったら、こんな言葉は嫌いな相手にしか使わない→だから、相手は自分のことが嫌いなんだ」と思い込んでしまうのは危険です。
相手は本当に悪気無く、ただただ軽い気持ちでその言葉を使っただけかも知れないのですから…。
本当に嫌われたわけでもないのに「嫌われた」と思い込んで傷つくのも、攻撃の意思のない言葉に勝手に攻撃性を読み取って反撃しようとするのも、無駄に人生を生きづらくする“もったいない”行為です。
中には「そもそも、そんな風に相手の気持ちを考えずに言葉を使ったり行動したりする相手の方が悪い」と思う人もいるかも知れません。
ですが、人間の性格というものは育ってきた環境によっても左右されるものです。
もしもそれまでその人の周りにいたのが「ちょっとした悪口くらいなら軽口で返してくるようなノリの人間ばかりだった」のだとしたら、「それによって傷つく人間もいる」のだということを知らないまま、気づかないまま育ってしまったとしても仕方のないことなのかも知れません。
(そして、その後もそんなノリの人間ばかり周りにいるなら、そういう性格のままだったとしても特に問題が無いのかも知れません。)
以前の記事にも書きましたが、人が相手の性格を好ましく思うか嫌いだと思うかは“相性”の問題であって、そこに絶対的な評価や価値観など存在しません。
どうしても“合わない”性格の人間もいると思います。
そういう時は、「何でこの人はこんな言動をとるんだ。自分なら絶対しないのに」とイライラしながらつき合い続けるより、そっと離れていくか、「この人はこういう人なんだから仕方ない」と受け流すのが、精神衛生のためには良いと思うのです。
ある程度の年齢まで育ってしまった人間の性格や思考回路を変えていくのは容易なことではありません。
ですので、そのエネルギーを消費するのに値しない相手なら、わざわざそんな苦労をする必要も理由も無いと思うのです。
今の世の中、他人の言動を無理矢理“自分の”モノサシで測ろうとして、その挙句に誤解して、する必要のない争いやトラブルを起こしている例が多い気がしてなりません。
“自分”と“他人”は物の考え方が違う――そのことさえ、きっちり押さえていたなら、そんな“ムダな”争いやトラブルも減り、社会に満ちたストレスも少しは減らせる気がするのですが…。
自分には、未だに忘れられない光景があります。
中学時代、散々嫌がらせをされてきた“天敵”に、無理矢理手をつかまれ学校の廊下を引きずられていく光景。
周りには何人も同級生たちがいたのに、誰一人、助けてくれず、声をかけてさえくれなかった光景。
…もしかしたら、自分が「助けて」と声を上げていれば、少しは状況が変わっていたのかも知れません。
が、当時はそんな風に“嫌がらせされている”姿を他人に見られること自体、恥ずかしいと思っていましたし、まして周りに助けを求めることなんてできませんでした。
結局この頃は同級生の誰かどころか先生でさえ助けてはくれず、自分で状況を変えていくしかなかったわけですが…
(関連記事>ハブられ状態脱出の実例~中学生の時~)
この時を境に、自分の中には「人間不信」が芽生えてしまいました。
仲の良い友達ができたって、一番助けて欲しい時に助けてくれない、それどころか裏切って心を傷つけてきたりする――だったら、友人を作る意味とは何なのだろう…
あからさまに窮地に陥っている人間がいるのに、誰も手を差し伸べてくれない――こんな冷たい人間ばかりの世界で、他人を求める意味はあるのだろうか…
そんな想いが渦巻いて、しばらくの間は、新たに人間関係を築くこと自体が嫌になりました。
(ちなみに嫌がらせをしてきた“天敵”自体が、実は小学校時代の友人だったという、さらなるトラウマがあったりします。)
けれど、学校という空間で「友達を作らず」「ひとりでいる」というのは、とても難しく、キツいことです。
修学旅行の班決め、給食で一緒に食事するグループ、体育の授業でのペア…学校では二人以上の団体行動を要求してくる場面がしょっちゅうあります。
そこで友人がいない「余りもの」状態だと、たとえ人数合わせでどこかのグループに入れてもらえたとしても、とても気まずく、いたたまれない想いをします。
中学2年で天敵を拒絶し、結果クラス内で孤立し、3年になってからも、元々親しい人間が1人もいないクラスで新たに友人を作らなかった自分は、そんな“いたたまれない”想いを年中していました。
(部活では普通に友人がいましたが、誰一人として同じ組にはならなかったのです…。)
それでも自分は、“信じられない友人”を嫌々作るより、その“いたたまれなさ”に耐える方がよほどマシだと思っていたのです。
(どうしてそこまでして友人を作るのが嫌だったのかは、“天敵”の件と絡めて後々書いていくかも知れません。)
中学を卒業し、高校に入ってからも、自分の「友達作りたくない病」は変わらず、親しい友人を新たに作ることなく、中学時代の友人(部活で仲の良かった友人)とばかり、つるんでいました。
しかし、高校では断然クラスの中での“過ごしやすさ”が違っていました。
なぜなら自分の進学した高校は、成績順にクラス分けがされるような進学校で、朝と帰りには毎日小テストがあり、生徒は休み時間でも参考書を開いているような人間がほとんどだったからです。
学校の旅行の部屋割やグループ分けなども、氏名の順に学校側が決めることが多く、特別に仲の良い友人を作らなくてもやっていけましたし、ひとりでいても“浮く”ことがなかったのです。
クラスメイトたちも、普段はあまり喋ったりしていなくても、球技大会や体育祭、文化祭などの行事では皆で団結して協力し合うという雰囲気があり、「必要な時だけ団体行動をして、その他の時にはひとりでいてもいい」という空気が、とても居心地が良かったのです。
結局、高校の三年間、親しい友人という存在は特にいませんでしたが、その三年間が自分にとっては必要な“心の休養期間”だったのではないか――今になってみると、そう思えます。
きっとあの頃、人間不信のピーク状態のままで無理矢理友人を作ったとしても、ますます人間不信をこじらせ、心が疲弊するばかりだったのではないかと思うのです。
無理に友人を作る必要もなく、不登校になることもなく“普通に学校に行けた”三年間は、自分にとって“とてもラク”で、心が休まる期間でした。
その三年間で自分は好きな読書にのめり込み、知識の幅と自分の世界を広げていきました。
そして高校を卒業し大学に入る頃には、「知っている人の誰もいない学校だし、この機会にボチボチ友達でも作っていこうか」という気分になれていたのです。
「友達がいない」「ハブられている」「ひとりぼっち」という状態は、不登校につながりかねない辛い状況です。
しかし、それは単に「寂しい」「ひとりが嫌」というだけでなく、「周囲の目が気になる」「周りから浮いているのが怖い」「変な目で見られたり、かわいそうな目で見られたくない」という面もあるのではないでしょうか。
「ひとり」でいる人間が、必ずしも仲間や友人を求めているわけではありません。
中には、心にひどい傷を負い過ぎて「今は誰とも関わりたくない」「そっとしておいて欲しい」という人もいるのではないでしょうか。
(それで放置するのが良いのか、むしろ積極的に関わっていった方が良いのかは、個人個人でケースが違ってくるのでしょうが…。)
個人的には、学校という空間が、もっと「ひとりでいても大丈夫」な場になれば、学校にいるのが苦痛という人が減るのではないかと思います。
「ひとりでいてもおかしくない」「ひとりでいるのは普通のこと」だったら、嫌いな友達と無理につき合う必要もなく、ハブられてもそこまで絶望する必要はなく、虐めに耐えてまでグループ内に居場所を求める必要もありません。
「友達がいないとダメ」「無理にでもグループを組まなければならない」という学校の暗黙のシステムが、余計に人間関係を歪にしているような…そんな気がするのです。
(まぁ、全てが全て個人主義になってしまったら、それはそれで新たな問題が発生していくのかも知れませんが…。)

中学時代、散々嫌がらせをされてきた“天敵”に、無理矢理手をつかまれ学校の廊下を引きずられていく光景。
周りには何人も同級生たちがいたのに、誰一人、助けてくれず、声をかけてさえくれなかった光景。
…もしかしたら、自分が「助けて」と声を上げていれば、少しは状況が変わっていたのかも知れません。
が、当時はそんな風に“嫌がらせされている”姿を他人に見られること自体、恥ずかしいと思っていましたし、まして周りに助けを求めることなんてできませんでした。
結局この頃は同級生の誰かどころか先生でさえ助けてはくれず、自分で状況を変えていくしかなかったわけですが…
(関連記事>ハブられ状態脱出の実例~中学生の時~)
この時を境に、自分の中には「人間不信」が芽生えてしまいました。
仲の良い友達ができたって、一番助けて欲しい時に助けてくれない、それどころか裏切って心を傷つけてきたりする――だったら、友人を作る意味とは何なのだろう…
あからさまに窮地に陥っている人間がいるのに、誰も手を差し伸べてくれない――こんな冷たい人間ばかりの世界で、他人を求める意味はあるのだろうか…
そんな想いが渦巻いて、しばらくの間は、新たに人間関係を築くこと自体が嫌になりました。
(ちなみに嫌がらせをしてきた“天敵”自体が、実は小学校時代の友人だったという、さらなるトラウマがあったりします。)
けれど、学校という空間で「友達を作らず」「ひとりでいる」というのは、とても難しく、キツいことです。
修学旅行の班決め、給食で一緒に食事するグループ、体育の授業でのペア…学校では二人以上の団体行動を要求してくる場面がしょっちゅうあります。
そこで友人がいない「余りもの」状態だと、たとえ人数合わせでどこかのグループに入れてもらえたとしても、とても気まずく、いたたまれない想いをします。
中学2年で天敵を拒絶し、結果クラス内で孤立し、3年になってからも、元々親しい人間が1人もいないクラスで新たに友人を作らなかった自分は、そんな“いたたまれない”想いを年中していました。
(部活では普通に友人がいましたが、誰一人として同じ組にはならなかったのです…。)
それでも自分は、“信じられない友人”を嫌々作るより、その“いたたまれなさ”に耐える方がよほどマシだと思っていたのです。
(どうしてそこまでして友人を作るのが嫌だったのかは、“天敵”の件と絡めて後々書いていくかも知れません。)
中学を卒業し、高校に入ってからも、自分の「友達作りたくない病」は変わらず、親しい友人を新たに作ることなく、中学時代の友人(部活で仲の良かった友人)とばかり、つるんでいました。
しかし、高校では断然クラスの中での“過ごしやすさ”が違っていました。
なぜなら自分の進学した高校は、成績順にクラス分けがされるような進学校で、朝と帰りには毎日小テストがあり、生徒は休み時間でも参考書を開いているような人間がほとんどだったからです。
学校の旅行の部屋割やグループ分けなども、氏名の順に学校側が決めることが多く、特別に仲の良い友人を作らなくてもやっていけましたし、ひとりでいても“浮く”ことがなかったのです。
クラスメイトたちも、普段はあまり喋ったりしていなくても、球技大会や体育祭、文化祭などの行事では皆で団結して協力し合うという雰囲気があり、「必要な時だけ団体行動をして、その他の時にはひとりでいてもいい」という空気が、とても居心地が良かったのです。
結局、高校の三年間、親しい友人という存在は特にいませんでしたが、その三年間が自分にとっては必要な“心の休養期間”だったのではないか――今になってみると、そう思えます。
きっとあの頃、人間不信のピーク状態のままで無理矢理友人を作ったとしても、ますます人間不信をこじらせ、心が疲弊するばかりだったのではないかと思うのです。
無理に友人を作る必要もなく、不登校になることもなく“普通に学校に行けた”三年間は、自分にとって“とてもラク”で、心が休まる期間でした。
その三年間で自分は好きな読書にのめり込み、知識の幅と自分の世界を広げていきました。
そして高校を卒業し大学に入る頃には、「知っている人の誰もいない学校だし、この機会にボチボチ友達でも作っていこうか」という気分になれていたのです。
「友達がいない」「ハブられている」「ひとりぼっち」という状態は、不登校につながりかねない辛い状況です。
しかし、それは単に「寂しい」「ひとりが嫌」というだけでなく、「周囲の目が気になる」「周りから浮いているのが怖い」「変な目で見られたり、かわいそうな目で見られたくない」という面もあるのではないでしょうか。
「ひとり」でいる人間が、必ずしも仲間や友人を求めているわけではありません。
中には、心にひどい傷を負い過ぎて「今は誰とも関わりたくない」「そっとしておいて欲しい」という人もいるのではないでしょうか。
(それで放置するのが良いのか、むしろ積極的に関わっていった方が良いのかは、個人個人でケースが違ってくるのでしょうが…。)
個人的には、学校という空間が、もっと「ひとりでいても大丈夫」な場になれば、学校にいるのが苦痛という人が減るのではないかと思います。
「ひとりでいてもおかしくない」「ひとりでいるのは普通のこと」だったら、嫌いな友達と無理につき合う必要もなく、ハブられてもそこまで絶望する必要はなく、虐めに耐えてまでグループ内に居場所を求める必要もありません。
「友達がいないとダメ」「無理にでもグループを組まなければならない」という学校の暗黙のシステムが、余計に人間関係を歪にしているような…そんな気がするのです。
(まぁ、全てが全て個人主義になってしまったら、それはそれで新たな問題が発生していくのかも知れませんが…。)
学生時代、何となく周りに漂っているような気がして、それを感じるたびに嫌な気持ちになっていたモノがあります。
それは“真面目を馬鹿にする空気”とでも言うようなモノです。
真面目に勉強すること、真面目に何かに打ち込むこと――そういったものを卑下し、馬鹿にして、「そんな風にマジメに生きるよりも、面白いことや楽しいことだけをしてラクに生きる方がよほど優れた生き方なのだ」と押しつけてくる、無言の圧力です。
“まじめ”という言葉は、本来決して悪い意味ではないはずなのに、学生時代のあの頃は“まじめ”という言葉自体が“ウザい”だとか“つまらない”といった悪口と同義な気がして、そういうレッテルを貼られることを恐れていたような気がします。
真面目だと思われたくなくて、「勉強なんてしてないよ」アピールをしてみたり、わざと自分の不真面目な部分を大袈裟にアピールしてみたり…
集団生活が基本の学校という空間では、友人に疎まれたり敬遠されたりするのは、孤立に繋がりかねないとても恐ろしいものです。
そして真面目な人間よりも、ちょっと不真面目なくらいの人間の方がウケが良いということは、学生たちの間ではよくあることだと思います。
そうして周囲に合わせて“ちょっと不真面目”を装っているうちに、成績が落ちてしまったり、どんどん“自分の望む自分の姿”とかけ離れていき、自分で自分のことが嫌になってきたり…
そういうのが、本当に嫌だと思ってきました。
確かに“まじめ”という言葉には、どこか“融通がきかない”だとか“冷たい”だとか、マイナスのイメージがつきまとっているのかも知れません。
けれど、物事に対して真剣に向き合い、取り組むことの何がいけないのかと、自分は思うのです。
逆に、真面目に真剣にやらなければダメなことが、世の中にはたくさんある気がしてなりません。
進路、受験、就職、お金のやりくり、病気や怪我の予防や対処…
望むと望まないとに関わらず否応なしに突きつけられる人生の重大事に、フラフラ不真面目なままでは対応しきれるはずもないのに、それでも“真面目を嫌う”人たちは“真面目”に考えることを拒否し続けるのでしょうか。
…そもそも、学生時代に感じてきた“真面目を馬鹿にする空気”に、自分は別の“闇”を感じてもいました。
それは、この“真面目を馬鹿にする空気”自体が、実は“足の引っ張り合い”でしかないのではないか、という疑念でした。
真面目に生きることを拒否して、結果、成績が伸び悩んだり、人生何と上手くいっていない人たちが、周りにいる人間を自分たちと同じ次元の場所に引っ張り込もうとして、「真面目は良くない」「真面目に生きるなんてくだらない」とネガティブ・キャンペーンを展開しているだけなのではないだろうか、と。
他人の向上心を妨害し、逆に堕落させ引きずり下ろすことで安心したり、自分を優位に保とうとする人間は世の中、結構いるものです。
しかも、それが悪意からというわけでもなく、「仲間なんだから、一緒に不真面目でいようよー」とばかりに、軽い気持ちで、あるいは無意識にそれをやっている人間も結構います。
学校という閉鎖空間において、友人というのはとても重要な存在で、おまけにクラスあるいは部活内の限られた人数の中では、必ずしも友人を“選ぶ”こともできません。
そんな中で周りに流されずに自分を保つのは、簡単なことではありません。
けれど、そこで「皆も真面目に生きてないから大丈夫」と流されてしまうのは、後々人生の破滅にもつながりかねない危険な選択です。
個人的にオススメするのは、たとえ表面上は周りに合わせていても、裏ではちゃんと真面目に自分の人生と向き合っておくことです。
(周囲に合わせないというだけで「空気が読めない」扱いされて虐めにつながるケースを考えれば、表面上は周りに合わせざるをえない部分もあるかと思いますので…。)
不真面目に、やりたいことだけをやって生きるという生き方は、真面目に生きるより“ラク”な生き方ではあります。
なので一旦そういう生き方に染まってしまうと“クセ”になってしまい、いざ真面目にしなければいけない場面で「どうすれば良いのか分からない」状態になり、どうにもならずに人生が詰んでしまう危険があります。
それに、そもそもの話ですが、真面目な人間が一定数以上いないことには、この世の中、上手く回っていかないと思うのです。
国が真っ当に機能していくためには、真面目に働いて真面目に税金を納める人間が一定数以上いないとどうにもならないわけですし、インフラも金融もその他諸々のサービスも、そこで真面目に働いている人間がいるからこそ正常に機能しているわけです。
それに仕事の取引相手や家族や人生のパートナーも、不真面目な人よりは真面目な人の方がよほど頼りになるはずです。
だから、安易に“真面目”に対するマイナス・イメージをまき散らすのは、本当にやめて欲しいな、と個人的には思うのです。
中には「不真面目なのは学生のうちだけで、社会人になったらちゃんと真面目になるさ」という人もいるかも知れません。
でも、一度ついてしまった心のクセが、そう簡単に修正されるものなのか、自分は疑問に思います。
表面上をどんなに真面目そうに取り繕っていても、心の根っこの方に「真面目に生きるなんて、やっぱり馬鹿らしい」という思いがあったなら、それはふとした瞬間にどこかで顔を出し、仕事の適当さにつながったり、不誠実さにつながったり、思わぬミスや失敗につながったりするのではないか…そんな風に思うのです。

それは“真面目を馬鹿にする空気”とでも言うようなモノです。
真面目に勉強すること、真面目に何かに打ち込むこと――そういったものを卑下し、馬鹿にして、「そんな風にマジメに生きるよりも、面白いことや楽しいことだけをしてラクに生きる方がよほど優れた生き方なのだ」と押しつけてくる、無言の圧力です。
“まじめ”という言葉は、本来決して悪い意味ではないはずなのに、学生時代のあの頃は“まじめ”という言葉自体が“ウザい”だとか“つまらない”といった悪口と同義な気がして、そういうレッテルを貼られることを恐れていたような気がします。
真面目だと思われたくなくて、「勉強なんてしてないよ」アピールをしてみたり、わざと自分の不真面目な部分を大袈裟にアピールしてみたり…
集団生活が基本の学校という空間では、友人に疎まれたり敬遠されたりするのは、孤立に繋がりかねないとても恐ろしいものです。
そして真面目な人間よりも、ちょっと不真面目なくらいの人間の方がウケが良いということは、学生たちの間ではよくあることだと思います。
そうして周囲に合わせて“ちょっと不真面目”を装っているうちに、成績が落ちてしまったり、どんどん“自分の望む自分の姿”とかけ離れていき、自分で自分のことが嫌になってきたり…
そういうのが、本当に嫌だと思ってきました。
確かに“まじめ”という言葉には、どこか“融通がきかない”だとか“冷たい”だとか、マイナスのイメージがつきまとっているのかも知れません。
けれど、物事に対して真剣に向き合い、取り組むことの何がいけないのかと、自分は思うのです。
逆に、真面目に真剣にやらなければダメなことが、世の中にはたくさんある気がしてなりません。
進路、受験、就職、お金のやりくり、病気や怪我の予防や対処…
望むと望まないとに関わらず否応なしに突きつけられる人生の重大事に、フラフラ不真面目なままでは対応しきれるはずもないのに、それでも“真面目を嫌う”人たちは“真面目”に考えることを拒否し続けるのでしょうか。
…そもそも、学生時代に感じてきた“真面目を馬鹿にする空気”に、自分は別の“闇”を感じてもいました。
それは、この“真面目を馬鹿にする空気”自体が、実は“足の引っ張り合い”でしかないのではないか、という疑念でした。
真面目に生きることを拒否して、結果、成績が伸び悩んだり、人生何と上手くいっていない人たちが、周りにいる人間を自分たちと同じ次元の場所に引っ張り込もうとして、「真面目は良くない」「真面目に生きるなんてくだらない」とネガティブ・キャンペーンを展開しているだけなのではないだろうか、と。
他人の向上心を妨害し、逆に堕落させ引きずり下ろすことで安心したり、自分を優位に保とうとする人間は世の中、結構いるものです。
しかも、それが悪意からというわけでもなく、「仲間なんだから、一緒に不真面目でいようよー」とばかりに、軽い気持ちで、あるいは無意識にそれをやっている人間も結構います。
学校という閉鎖空間において、友人というのはとても重要な存在で、おまけにクラスあるいは部活内の限られた人数の中では、必ずしも友人を“選ぶ”こともできません。
そんな中で周りに流されずに自分を保つのは、簡単なことではありません。
けれど、そこで「皆も真面目に生きてないから大丈夫」と流されてしまうのは、後々人生の破滅にもつながりかねない危険な選択です。
個人的にオススメするのは、たとえ表面上は周りに合わせていても、裏ではちゃんと真面目に自分の人生と向き合っておくことです。
(周囲に合わせないというだけで「空気が読めない」扱いされて虐めにつながるケースを考えれば、表面上は周りに合わせざるをえない部分もあるかと思いますので…。)
不真面目に、やりたいことだけをやって生きるという生き方は、真面目に生きるより“ラク”な生き方ではあります。
なので一旦そういう生き方に染まってしまうと“クセ”になってしまい、いざ真面目にしなければいけない場面で「どうすれば良いのか分からない」状態になり、どうにもならずに人生が詰んでしまう危険があります。
それに、そもそもの話ですが、真面目な人間が一定数以上いないことには、この世の中、上手く回っていかないと思うのです。
国が真っ当に機能していくためには、真面目に働いて真面目に税金を納める人間が一定数以上いないとどうにもならないわけですし、インフラも金融もその他諸々のサービスも、そこで真面目に働いている人間がいるからこそ正常に機能しているわけです。
それに仕事の取引相手や家族や人生のパートナーも、不真面目な人よりは真面目な人の方がよほど頼りになるはずです。
だから、安易に“真面目”に対するマイナス・イメージをまき散らすのは、本当にやめて欲しいな、と個人的には思うのです。
中には「不真面目なのは学生のうちだけで、社会人になったらちゃんと真面目になるさ」という人もいるかも知れません。
でも、一度ついてしまった心のクセが、そう簡単に修正されるものなのか、自分は疑問に思います。
表面上をどんなに真面目そうに取り繕っていても、心の根っこの方に「真面目に生きるなんて、やっぱり馬鹿らしい」という思いがあったなら、それはふとした瞬間にどこかで顔を出し、仕事の適当さにつながったり、不誠実さにつながったり、思わぬミスや失敗につながったりするのではないか…そんな風に思うのです。
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- 【HN(ハンドル・ネーム)】
- 津籠睦月(つごもりむつき)
- 【職業】
- 社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
- 【趣味】
- 小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
- 【好きな小説ジャンル】
- ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
- 【備考】
- 漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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このブログは管理人に時間の余裕がある時にちょこっとずつ更新していく予定ですので、更新やチェックの頻度はおそらく数週間に1回~下手をすると1ヶ月以上の間が空いてしまう可能性も…。
もし更新が滞ったても「あぁ、仕事が忙し過ぎて時間が無いんだな」と気長にお待ちいただければ幸いです。
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