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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
「自分を信じろ」「自分を信じることが大事」といった言葉が、この世の中には溢れていますが、「“何を”“どう”信じれば良いのかもハッキリさせないまま、ただ闇雲に“信じろ”ばかり言うのはどうなんだろう?」と、自分はよく疑問に感じてきました。
 
世の中には「盲信」という言葉もありますし、何の根拠もなく闇雲に自分を信じた挙句、目論見が外れて人生に絶望してしまったらどうするのだろう…と。
 
そもそも、自分の中に“信じるべきもの”“信じるに値するもの”なんてあるのだろうか――学生時代の自分なら、まずそんな風に思っただろうと思います。
 
ですが最近、何となく分かってきたことがあります。
 
「自分の中に信じられる何かが無いなら、それをこれから創っていけばいい」のだと…。
 
そして、そうやって自ら創り上げたモノは、初めからフワッと存在していたスペックや、他人からの気まぐれな評価などよりも、よほど「信じるに値するもの」なのだと。
 
自分にとっての“それ”は「挑戦すること」でした。
 
「コレって無理なんじゃないか」「できるわけない」と“自分で”思えるような「ちょっと難しめのミッション」を自らに課し、それを乗り越えることです。
 
ポイントは、それが「達成できればスゴイ」と“偽りなく”“本気で”思える難易度のものであること、です。
 
(もちろん、どんなにスゴくても、悪いことや他人に迷惑をかけることではダメですが。それと、設定するミッションは、できれば形や数値など、客観的に目に見える成果が出るものなら尚良いかと思います。)
 
それは何も「達成するために特別な能力が必要」なものでなくても良く、「日記を毎日、1年間つけ続ける」といった「コツコツ・継続型」のものでも良いのです。
 
人間、ただボンヤリ「こんなこと出来るわけない」と思っているだけでは、それを達成することなどたぶん永遠にできませんが、いざ「これを実現しよう」という目的意識を持ち、それを達成するための具体的な方法を考え始めれば、脳細胞が活性化して思わぬ能力を発揮したりするものです。
 
(うろ覚えですが、目標を持たせたマウスは脳の神経細胞が5倍になったという実験の話を、以前TVで見ました。)
 
そうして設定したミッションがクリアできたなら、そのことを自分の“自信の源”“自分で自分を肯定するための材料”にしていけばいいのです。
 
「俺、あんなに難しいミッションを乗り越えてきたじゃないか」「あのミッションだって、最初は『絶対ムリだ』って思ってたのに、結局クリアできたんだ。今度だって、きっと乗り越えられる」といった風に…。
 
ここであの「“偽りなく・本気で”難しいと思える」というポイントが効いてきます。
 
“自分自身”の感覚で「これは難しいだろう」と思ったことを“達成”できたなら、それは自然と「これが達成できた自分はすごい」という自信に繋がります
 
逆に、妥協して、それほど難しくないミッションをクリアしたところで、心の奥底では「こんなの難しくない」と思っているので、大した自信には繋がりません。
 
それに、そうやって「自分が本気で難しいと思っていたこと」に挑戦して、達成できたという“事実”は「揺らがない」のです。
 
たとえば他人の評価なら、相手次第や“時と場合”次第コロコロ変わることも有り得ますし、運が良かったり、まぐれで獲得した好成績や高評価は、やはり運やまぐれ次第アッサリ失われることも有り得ます。
 
しかし、過去の出来事・客観的事実が覆ることはありません。
 
そして、そんな「揺らがない」「ブレない」自信の源が自分の中にあるなら、他人の評価に怯えることもなく、他人からの称賛や承認が得られないからと言ってイライラすることもないのです。
 
(まぁ、あまり“過去の成果”にこだわり続けるのも、それはそれで良くないので、定期的に新しいミッションをこなしていくべきかとは思いますが…。)
 
そして、そうやって自分の中に揺るぎない“核”のようなものができたなら、以前記事にしたように「自分で自分を否定する」ことも恐くなくなるのではないかと思うのです。
 
自分を否定したくないばかりに、根拠もなく何かを信じたり、それを他人にも押しつけたり、否定されるのではないかと怯えて相手を攻撃したり――それは結局は、目を曇らせてしまったり、他人のヒンシュクを買ってしまったり、自分自身を傷つける結果になってしまうのではないかと思います。
 
自分で自分を“健全に”否定できるようになれば、他人から否定されること対しても「まぁ、そういうこともあるよな」という感じで、ある程度はフワッと受け止められるようになります。
 
…と言うか、“こちらのことなどほとんど知らない他人”からの否定などより、“自分自身のことならほとんど知っている”自分自身からの否定の方が、きっとよほど「痛い」ですから…。



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世の中、「自分を信じること」の大切さは盛んに言われているのに、なぜ「自分を疑うこと」の大切さは誰も教えないのだろう――そう疑問に思うことが、よくあります。
  
個人的には「自分を疑い、否定する」ことは、ダメなことではなく、むしろ「自分を信じる」のと同等か、それ以上に大切なことだと思っているのですが……。
 
「自分を信じる」ということは、一見とても美しく素敵なことのように思えますが、よくよく考えてみると、そこにはある種の“危険”が潜んでいるように思うのです。
 
妄信”という言葉があるように、信じることは時に、大事なものを見失わせます
 
自分を疑うことができなければ、いつの間にか酷い勘違いや過ちを犯していても気づけない危険があります。
 
けれど、自分を疑ったり否定したりすることは、決して“気持ちの良い”ものではありません。
 
むしろ嫌で、不快なことの方が多いでしょう。
 
おまけにそれをし過ぎれば、自信を失ってしまったり、自己嫌悪に陥ってしまったり、になってしまったりする可能性もあるかも知れません。
 
なので、ベストなのは「過剰に自分を否定し過ぎない程度に、ほど良く自分自身を疑うこと」だと思っているのですが…まぁ、そう簡単にできることではないでしょうね…。
 
ただ、この「健全に自分自身を疑い、否定する」ことには大きなメリットがあると思うのです。
 
「自分自身に疑いの目を向け、ダメなものを見つけ出す」スキルは、自分自身の弱点をあぶり出すのに有効です。
 
そして、その見つけた弱点を1つ1つ克服していくことができたなら、常に自分を新しく、より良いものに“バージョン・アップ”していけます。
 
「自分を疑ったり、否定したりすること」が、しばしばネガティブなイメージでとらえられがちなのは、多くの人が、そうやって疑い・否定したものを「そのまま放置」しているからなのではないかと思うのです。
 
疑いを抱いたのなら、何が真実で最善なのかを求めれば良いことですし、「今の自分」を否定したからと言って、その否定されるべき欠点を克服した「未来の自分」まで否定する必要は全くありません
 
そもそも、自分の中に否定されるべき欠点や弱点がいくつかあったとしても、それで自分の全てを否定する必要は無いと思うのです。
 
自分は元々「アレはアレ、コレはコレ」と分けて考える性質なので、そう思ってしまうのかも知れませんが…
 
たとえ否定されるような欠点や弱点があったとしても、人間という生き物は、そういった欠点や弱点だけで構成されているわけではないのですから、「ソレはソレ、コレはコレ」で、悪い所は直し、良い所は伸ばしていけば良いだけだと思うのですが…まぁ、そう簡単にはいかないのが人生というものなのかも知れませんね…。
 
それと、そうやって自分自身を健全に疑い・否定できるようになれば、ある程度、他人から否定されることが恐くなくなったり、「自分を否定されたくないばかりに、逆に相手を否定しようとする衝動」からも逃れられる気がするのですが…
 
(何せ、他人様から否定されるより先に、自分で自分を否定しているわけですから、後で何か言われたところで「今さら?」感がスゴイと思うのですよ…。)

高校時代、大学受験を控え、普通はもっと悲壮感が漂ったり、ピリピリ神経を尖らせたりするような時期、自分はわりとお気楽と言うか、変に「ポジティブ」だったような気がします。
 
それは元々成績が良かったから…ではありません
 
(国語はともかく、歴史は“時代の好き嫌い”や知識のムラのせいで、問題によってかなり偏差値が上下していましたし、英語もわりとムラがありました…。)
 
元々「学校の成績を重視しない(…と言うより「してくれない」)」家庭で育ち、テストの結果や偏差値に、たぶん他のクラスメイトたちほどには価値を置いていなかったせいもあるのでしょうが…
 
何より自分は「今がダメでも受験の時までに良くなればいいじゃん」「苦手な部分が分かっているなら、そこを重点的に克服していけば成績が自動的に伸びるじゃん」という思考でいたのです。
 
これには得意科目の国語が「これ以上、何をどうすれば成績が伸びるのか分からない」という「伸び悩み」状態だったことも影響していると思います。
 
克服すべき弱点や課題すら分からない国語に比べて、他の科目は弱点が目に見えている分、「勉強がやりやすかった」のです。
 
それは勉強以外にも言える気がします。
 
「何をどうすれば良いのか分からない」よりは「欠点や弱点が分かっている」方が、次に何をすれば良いかを考えられるので「良い」と自分は思ってしまうのです。
 
今、現在進行形で欠点や弱点に悩み、思いつめている方々は「とんでもない」と思うでしょうし、欠点や弱点が分かったところで、その克服方法がすぐには見つからないものもあるかも知れません。
 
でも、その欠点や弱点を「克服すれば確実に前へ進める“伸びしろ”」と考えれば、生きるのが少しラクになるのではないかと思うのです。
 
それに「今」の欠点や弱点に打ちひしがれて立ち止まっているより、「未来」を良くできると信じて、その欠点や弱点を克服する方法を探す方が、何となく精神的に“幸せ”な気がするのです。
 
たとえば、今の社会に問題が沢山あって将来が暗いなら、その問題を解決する方法を見つけられれば未来は確実に少し明るくなるわけです。
 
たとえ難しい問題だとしても、どこかに解決の糸口はあるはずです。
 
少なくとも、「問題が見えてすらいない」状態よりは、解決すべき問題が見えている分、「未来を明るく変えるための道が用意されている」のではないかと思うのです。
 
楽観的過ぎるかも知れませんが、ネガティブに生きてもポジティブに生きても良い人生、ポジティブに考えて「より良い」未来が掴めるなら、それに越したことは無いんじゃないか…などと思うのです。

今まで生きてきて、つくづく実感していることがあります。
 
それは、人間が人間に下す評価なんて、所詮は主観的相対的なものであって、客観的絶対的なものなんかじゃない、ということです。
 
類は友を呼ぶ”ということわざがあるように、人間というものはたぶん、自分の“同類”に対する評価は自然と甘くなり、そうでないモノに対しては厳しく批判的になるものなのではないかと、そう思えてならないのです。
 
(場合によっては“同族嫌悪”で逆に同類に対する評価の方が厳しくなるケースもあると思いますが。)
 
あるいは“自分にとって”魅力的な人物であれば、その他大勢の人間から嫌われている人間であっても好感を持ってしまう――そんな部分があるように思えます。
 
つまりは、人間が誰かを好いたり嫌ったりなんていうのは、結局のところ“相性の問題”でしかないように思えてならないのです。
 
ある人間にとっては「真面目で誠実で素晴らしい」人柄に思えても、別の人間には「生真面目でカタブツでツマラナイ」と思われたり……ある人にとっては「チャラくて、ふざけてる」人間に見えても、別の誰かから見れば「ノリが良くて面白い」という評価になったり……。
 
また、ある人間にとっては「そんなことするなんてアリエナイ!」という行為が、べつの人間にとっては「まぁいっか」という程度のことでしかなかったり……。
 
その人の個性を「良い」と思うか「悪い」と思うかは、見る人の感性や価値観次第で、自分がたまたま出会った相手が自分のことを良いと思ってくれる相手か、それとも悪いと思う相手なのかは運でしかない――結局そういう“相性”の問題だと思うのです。
 
他人から嫌われたり、良い評価をもらえなかったりするのは、悲しく悔しいことです。
 
でも、それは必ずしも「全世界的・全人類的に見て自分がダメな人間だ」ということとは限らないのです。
 
たまたまそこにいた相手が、自分とは相性が最悪な人間だったという、それだけの話かも知れないのです。
 
人間が同類を高く評価したがり、その他の異質な人間を見下したがるのは、そうすることで同類である自分も肯定される気がするから、そして異質な人間を否定することで自分たちを優位な立場に置きたいから、という考えが無意識のうちに働いているからなんじゃないかと、そういう気がします。
 
そんな無意識の生存本能的(?)な何かに惑わされて自分の価値を過剰に卑下し、まして命を断とうと思いつめるなんて、勿体ないことだと思うのです。
 
世界は広く、人間は数十億人もいて、それぞれ違う性格を持っています。
中には自分と気が合う人間・自分を受け入れてくれる人間がいるはずです。
 
だから、誰かに嫌われたり、存在を否定されたりしても、そこまで思いつめる必要はない――そう思うのです。
 
まぁ、かと言って、どこまでも自己中心的に、ワガママに振舞って良いか、というと、そういうことではないと思いますが。
 
他人を害したり迷惑をかけたりする行動は、自然と敵を作り、自分の味方になってくれる“相性の良い”人間を、自ら減らしてしまう結果になると思いますので……。

自分の“力”を誇れるかどうかは、実力の程度とはあまり関係がなく、その人の“性格”や“育ってきた環境”による、というのが、自分の経験上の持論です。
 
なぜなら自分は、実際の能力の有無に関わらず、常に自分に対して自信のない子どもだったからです。
 
自分がそんな風に自信無く生きてきた理由は、親に褒められた経験があまり無いことにありました。
 
たとえばテストで良い点をとっても、絵画コンクールで入賞しても、読書感想文でクラスの代表に選ばれても、褒められたという記憶はありません。
 
そもそも両親が共働きで忙しく、子どもの学校生活をいちいち聞いてくれるような時間的余裕がなかったということも理由の一つではありますが、それ以上にうちの親の場合、たとえ子どもが自分自身の力で絵画コンクール入賞できるような腕を持っていようと、感性やセンスが合わなければ容赦なく“ダメ出し”し、むしろ嬉々として「お父さんが手伝ってやる」と、子どもの描いた絵に自分の好きな絵のタッチを“上書き”してくるような性格をしていた、ということに問題があったような気がします。
 
さらには自分の場合、本来なら体力に回すべきエネルギーを全て頭脳に吸い取られたとでも言うように身体が弱く、体育の成績はいつでもクラスの最底辺、1ヶ月に1度はダウンして学校を2~3日休む、という状態だったため、その辺りをいつも責められ、長所を褒められるどころではなかった、ということもあります。
 
それと、自分が得意としていた分野が主に勉強などのインドア方面で、学生時代当時、周囲の人気の的になれるようなジャンルではなかった、ということもあります。
 
逆に、クラス内どころか学年すら超えて周囲から一目置かれていたのがうちの兄弟で、彼は運動会では組別対抗リレーのアンカーに選ばれ、休み時間には鉄棒で大技を次々と決めて周りに人垣を作り、クラブ活動では竹からナイフ一本で耳かきや竹とんぼを作り上げたり、コマ回しやベーゴマの腕で周囲の尊敬を集め(←そういう”昔の遊び”をするクラブに入っていたのです。)、さらには笑いのセンスで人気を集めるという、典型的な“クラスの人気者”タイプで、自分は何かと自分自身と比べてコンプレックスに苛まれたりしていたものでした。
 
そんな環境から、いつしか自分は良い成績をとろうと、校内で表彰されたり何かに選ばれることがあろうと、「こんなことはべつに褒められるようなことじゃない」「自慢できるようなものじゃない」と思うようになっていました。
 
たとえどんな能力を持っていようと、本人がそこに価値を認めなければ、それは自信の根拠になどなりはしません

たとえ、はたから見れば妬ましく思えるような能力をもっていたとしても、本当に喜んで欲しい身近な人間がそれを評価してくれなければ、そこに価値を見出すことはできなかったりするのです。
 
そんな風に長い間、自分に価値を見出すことができずに苦しんでいる時期が、自分にはありました。
 
今思うと、おかしなことだと思います。
 
たとえ大切な人から認めてもらえずとも、そこにはちゃんと、ある種の能力が存在していたのに。
そしてその能力は、たぶん、自分の将来を切り拓くのに役立つような種類の力であったにも関わらず…。
 
そして世の中には逆に何の根拠も無いのに自信満々に堂々と生きているような人も沢山いるというのに。
 
たぶん、“自信の根拠”を他者(特に家族など、自分が心から肯定してもらいたいと思っている相手)に求めてしまっていたのが、いけなかったのではないかと思います。
 
「褒められたい」「認められたい」という欲求ばかりが大きくて、他者からの評価ばかりを求めて、自分の力を自分自身の目で冷静に、客観的に分析・評価することができていなかったのでしょう。
 
たとえ血のつながった親であっても、自分ならぬ他人である以上、価値観はそれぞれ違います。
自分が良いと思ったもの、褒めて欲しいものを、必ずしも認めてもらえるとは限りません。
 
それなのに「親(あるいは大切な誰か)に認めてもらえないから価値のないものなんだ」と自分で自分の能力を否定してしまうのは、ひどくもったいないことだったな、と我ながら思うのです。
 
今は大切な人に認めてもらえなかったとしても、もしかしたら、これから自分と同じような価値観を持つ”大切な誰か”に出会えて、その人は自分の能力を認めてくれるかも知れないのに…。
 
それに自信の有無は、その人の積極性にも影響を与えます。
 
自信に満ちた言動は(たとえその裏に実力が伴っていなかったとしても)見る人に何となく安心感信頼感を与えたりするものです。
 
自分に自信が無くて自己アピールも消極的な人間より、根拠の無い自信であっても自信満々に堂々と自分をPRできる人間の方が、他人に与える印象という点においては何かと有利だったりするように…。
 
そして自分に自信がないことは、行動力にも確実に影響してきます。
 
心の底では「正しい」と思うことでも、自分に自信がないので言えない・行動できない――あるいは会議やゼミなどの場で自分の考えを思うままに発言できず、無難な発言に留めてしまう――そして、自分のやりたいことが思うようにできない等々…。
 
自信の無さは、自分の経験上、確実に人生を蝕んできました。
 
正直、自分に自信を持つということは、学力やその他の能力をUPさせるよりも人生に必要な能力なのではないかと思うほどです。
 
親に褒められることが人生に良い方に作用するかどうかは、その人次第かも知れません。 
もしかしたら変に増長してダメな子に育ってしまうパターンもあるのかも知れません。
 
ただ、自分の場合には、もっと褒めて自信を与えて欲しかったな、と思うのです。
 
そうすれば、少なくとも就活であんなに面接に苦戦することもなかったような気がします。
 
もっとも、ただ何の根拠も無く常に自信満々でいれば良いのかと言うと、決してそうではなく、ちゃんと根拠があった上で自分を信じ、時には適度に自分を疑うことも大事だとは思っているのですが。
 
そして、その”根拠”は必ずしも実力や数値に表れるような”能力”ではなく、自分がそれまでどれだけのことを頑張ってきたのか、他の誰が知らずとも自分自身は知っているそれまでに積み上げてきた努力の過程を、密かに誇って自信にすれば良いと思うのですが。


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津籠睦月(つごもりむつき)
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社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
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小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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