忍者ブログ
日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
ビジネス分野でのAⅠ導入が始まった頃、自分がまず思ったのは「これはチェックするのに人手がかかって大変だ」でした。
 
しかし、実際にAⅠ導入が始まって各企業が始めたのは、その真逆の「人員の整理(リストラ)」や「取引先の整理」でした。
 
それも、自分の感覚からするとどう考えても時期尚早な「まだAⅠが実際のビジネスに『使える』かどうかの経験値も貯まっていない(潜在的なリスクがまだ見えてきていない)」段階での大規模人員整理が目につき…
 
「ひょっとして企業の経営者って、AⅠの弱点と、それを克服するために為すべきことに気づいていないのかな?」と疑問を持ったのですが…
 
実際、企業運営やAⅠ導入に関わる人達って、どこまで『このこと』に気づいていらっしゃるのでしょう?

【もくじ】
人間なら踏み超えない「ライン」をAⅠは平気で超えてくる(コンプラ・モラルの問題)
意外と気づいていない人が多そうなのですが、AⅠの最大にして最悪の欠点は「分別を持たないこと」です。
 
なぜなら「分別」はだいたいの場合、「暗黙の了解」や「人間の無意識に刷り込まれたもの」で、明文化されてもいなければデータ化されてもいないからです。
 
AⅠはネット上に存在するデータなら学習することができますが、ネットに上がっていない…ましてデータになりようもないモノは学べません。
 
AⅠって、著作権を侵害するデータや児童ポルノ禁止法違反のデータも、普通に生成してユーザーに渡してしまいますよね?
 
企業の業務を混乱させるようなウイルスも平気で作ってしまいますよね?
 
時に平気で嘘をつき、あやふやな情報でも断定口調で語り、ユーザーに自殺願望を抱かせるようなことを言い、さらには他社にハッキングを仕掛けたりしてきましたよね?
 
でも、AⅠにはそもそも「それをしてはいけない」という分別が無いのです。
 
だから、人間だったら決して超えないボーダーラインを平気で超え、コンプライアンス違反や犯罪さえ引き起こすのです。
 
本来ならその「分別」は、AⅠ事業者がAⅠに「教育」して教えるべきもののはずなのですが…
 
そもそも事業者の側に「それをAⅠに教えなければいけない」という分別があまり無いように見受けられます(AⅠにまつわる現状を見ていると…)
 
(あるいはAⅠの機能を制限しないため「わざと」分別を教えていないのではないかとさえ思えます。…あるいは、AⅠが既に人間による「教育」を受け付けないモノに育ってしまっている可能性もありますが…。)
 
事業者は何か問題が起き、世間に非難されて初めて、AⅠにルールを課します。
 
しかし批判が出ていない…あるいは出ていても無視できる程度のものだと判断すれば「知らんぷり」してきます。
 
(しかも、その「無視できる程度」のレベルが「国家レベルの非難」だったりするんですよね…。X の画像改変問題の時なども、様々な国からの批判が出てなお、なかなか問題を改善せずグズグズしていた上、一旦は「機能を有料会員だけに限る」など「明後日な方向の対応」さえありましたし…。)
 
これまでの例を見ると、海外の事業者にAⅠの健全化を促すのは「期待するだけ無駄」と思っておいた方が良い気がします。
 
つまりAⅠ利用者は「AⅠには分別が無い」ということを前提にして、人間(ユーザー)の側でそれを補わなければならないのです。
 
本当にコレ、本来は「ユーザー」の仕事ではなく「事業者」の仕事だという気がしてならないんですけどね。
 
聞く耳を持ってくれないとしても、もっと抗議はした方が良い気がするのですが…。
 
(それを「したか・しなかったか」が今後の「信頼」に関わってくることもありますので。←海外などでは特に、抗議を「しない」ことはその現状を「支持している」と見られてしまうことがあります。)
 
【→もくじへ戻る】
AⅠが持てない「分別」や「感覚」を代わりに担うのが人間の役目
AⅠには分別がありません。
 
よって、その生成物がコンプライアンスやモラルを犯していないかを判断するのは「人間」の役目になります。
 
…ですが、そもそもこのことに気づていないAⅠ利用者が多過ぎる気がしてなりません。
 
皆さん「AⅠのすることには間違いがない」と思い込んで、チェックを怠っていませんか?
 
人間がチェックするべきことは、法令や倫理に関するものばかりではありません。
 
「分別」と同様、明文化もデータ化も不可能なためにAⅠが学べずにいるものは、他にもあります。
 
たとえばそれは「生理的な快・不快」や「デリカシー」です。
 
AⅠの生成する画像が「なんとなく気持ち悪い」「生理的に不快」という感想がよくありますが…
 
人間なら無意識で避ける「気持ちの悪さ」も、AⅠは普通に出力して来ます。
 
なぜなら「無意識の気持ち悪さ」は明文化もデータ化もされていない、AⅠの「学習不能領域」だからです。
 
(これに限らず「人間の無意識」は、そもそも人間自身にも「意識されていない」分、AⅠに学ばせることは困難です。)
 
本来はその「気持ちの悪い画像」は人間がチェック段階で弾いて「AⅠに修正を求める」べきなのですが…
 
それがそのまま公開されているということは、チェックがちゃんと機能していないのでしょうね…。
 
さらに言うとAⅠには「デリカシー(配慮)」も欠けています。
 
AⅠ登場以前、胃腸薬等の広告で「腸」の絵が出て来る時って、ピンクのフワフワのデフォルメされたイラストで表されているのがほとんどでしたよね?
 
なぜそうなっていたのかと言うと、リアルな腸の絵だと、気持ち悪くて嫌悪感を抱かれてしまう可能性があるからです。
 
当たり前の話ですが、広告とは商品や企業の「イメージアップ」のために行うものです。
 
その広告で視聴者に嫌悪感や不快感を与えてしまったら、本末転倒どころの騒ぎではないのです。
 
ですがAⅠにはそういった配慮やデリカシーはありません。
 
そもそも「リアルな人体図は気持ちが悪い」という「感覚」がAⅠには存在しないのです。
 
絵に限らず文章などでも、配慮やデリカシーは必要です。
 
言葉というものは繊細で、ちょっとしたニュアンスの違いや表現の違いで誤解を招き「炎上」することも多々あります。
 
AⅠは文法的に間違いの無い文章や、意味的に間違っていない文章を作ることならいくらでもできるでしょうが、「こういう書き方をしたら一部の人に不快感を与えてしまうかも知れない」といった「人間の感覚」に基づく配慮はできません。
 
なので、当然「人間」がその欠けた部分を補うべきなのですが…
 
おそらく、それができていない…それどころか気づいてすらいない企業が多数ありますよね?
 
【→もくじへ戻る】
仕事が速いAⅠの全てを、人間がチェックしきれるのか?
AⅠは機械ならではの計算速度で、人間より遥かに速く、多くの作業をこなせます。
 
ですが、そのことがかえってマイナスとなる場合もあります。
 
上の項目で「AⅠが出来ない部分を人間が補う必要がある」ということを語ってきましたが…
 
人間より遥かに速く、多くの仕事を積み上げて行くAⅠの「欠けた部分」を、果たして人間はチェックしきれるのでしょうか?
 
AⅠがたくさんの作業をこなす分、チェック人員が大量に必要となりませんか?
 
それとも、チェックは一切無く、分別無きAⅠの生み出したものを「垂れ流し」にするのでしょうか?
 
理想論を言えば、AⅠの欠陥はそれを作った事業者が正すべきものです。
 
しかし、事業者の側にそれを正す意思は(ほとんど)見えません。
 
それどころか、利用規約などで責任を放棄し、AⅠ利用により起こるトラブルは全て「ユーザーの責任」としている所も多いのです。
 
そんな現状の中、AⅠの「分別の無さ」や「配慮の無さ」が問題や炎上を起こせば、それは全てチェックを怠った企業の責任となります。
 
AⅠが認知できない「無意識の気持ち悪さ」や「配慮の無さ」で嫌悪感や不快感を呼べば、イメージダウンにも繋がります。
 
企業はAⅠを導入し人員を整理する前に「何をAⅠに任せて、何を任せないか」をちゃんと考える必要があるのです。
 
「人間の感覚」に訴える分野では、AⅠに生成させたものを人間がチェックするより、最初から「感覚の優れた人間」に任せた方が合理的な場合があります。
 
(AⅠ生成はギャンブルのようなものですので「感覚的に間違ったもの」を何度も出される可能性を考えると、作業時間が全く読めませんから…。)
 
さらには、当然のことながら、生成物が法令違反を犯していないかのコンプラチェックも必須となります。
 
これらのチェック体制を考えると、AⅠの方が得意な分野であったとしても、あえて作業量をセーブしていく必要もあるかも知れません。
 
そもそもまず、AⅠ生成物の「どこ」を「どう」チェックすべきなのか――どうすれば効率的に、間違いなくチェックができるのか…そこからして考え、知見を積み上げていかなければなりません。
 
現在のAⅠ導入というのは、そういったことをどこまで考慮して進められているのでしょう?
 
ちなみに、AⅠは「AⅠの評価を下げそうな事柄」については嘘をつくという研究結果があります。
 
これ、AⅠを扱う上でかなり気をつけなければいけない事柄だと思うのですが…。
 
まさかと思いますけど、AⅠの精度評価までAⅠに丸投げしていたりはしませんよね…?
 
【→もくじへ戻る】
AⅠは凡人よりは優れているが、達人には及ばない
世の中の「AⅠに対する評価」を見聞きしていて疑問に思うことがあるのですが…
 
どうも皆さん「自分にできないことができる」からと言ってAⅠを評価している節がありませんか?
 
あるいは「その辺にいる一般人」あるいは「そこそこのレベルのプロ」より優れているからと言って「すごい」と評価していませんか?
 
ですが、そのことをもって「AⅠが人間より優れている」と言うのは間違いです。
 
なぜなら、AⅠにはどう足掻いても学ぶことのできない領域があるからです。
 
たとえば、AⅠは見様見真似で人間の創作物を「真似する」ことはできますが、それは「感覚」無き「ただの真似事」のため、感覚の鋭い鑑賞者ならそこに違和感を見出してしまうのです。
 
AⅠは「感覚が無い」がゆえに、理論上は学習元のオリジナル創作物を100%再現することも可能です(※ただし、それは当然のことながら著作権侵害となります)
 
(コピー機が絵をコピーできるように、データとして取り込んだものは「同じデータ」を出力さえすれば「同じもの」が出来上がりますから。)
 
オリジナルの再現度が高ければ高いほど、「人間感覚の無さゆえの違和感」は減りますが、それは「オリジナルの作者の感覚」がそのまま出力されているだけであって、AⅠが「人間の感覚を持てるようになった」ということではないのです。
 
(そして当然のことながら、オリジナルの再現度が高ければ高いほど、著作権法違反リスクも高まります。)
 
あるいは、センスのある人間がプロンプトに「感覚」を込めれば「感覚のある生成物」は作れるかも知れません。
 
(感覚を「言語化」して、事細かく具体的に「命令」すれば、AⅠはその通りの生成を行ってくれるでしょうから。)
 
ですがそれも「プロンプトを書いた人物」が「感覚」を持っているのであって、AⅠ自体に「感覚」があるわけではないのです。
 
一方で、プロの中でもごく一握り…「達人」の域まで達した人間は「感覚」を極めています。
 
たとえばそれは美的感覚や言語感覚だけでなく、リスク察知能力、トレンド予測能力、潜在ニーズのキャッチ能力だったりします。
 
AⅠは「既にデータ化されたもの」を処理することは得意ですが、データになっていない「感覚」を察知することはできません。
 
どうも最近の企業家たちはAⅠにばかり夢中で、人間をどんどん疎かにしているように見えてならないのですが…
 
AⅠでは代用できない重要な「感覚」を持った人間まで切り捨ててしまえば、取り返しのつかないものを失ってしまうことになるでしょう。
 
以前、自分はこのブログの記事で「今後、AⅠ導入失敗倒産が増えるかも知れない」と書きましたが…
 
そもそも経営「感覚」を持たない企業経営者は、AⅠの導入失敗で業績が悪化したとしても「それがAⅠのせい(使い方を誤っている)」とは気づかないのかも知れませんね。
 
【→もくじへ戻る】
 
なお、この記事で述べたのはあくまでAⅠの「最大にして最悪の欠点」についてのみですので、欠点はこの他にもまだあります。
PR
前の記事で「言論封殺は良くない」「どんな意見もあって良い」ということを書きましたが…
 
こういうことを書くと「勘違い」する人も出て来そうだな…と、ちょっと心配になります…。
 
言論の自由」と言うと、なぜか「何を言ってもいいんだ」と気が大きくなりがちな人が多い気がするのですが…気のせいでしょうか?
 
確かに「何を言っても自由」ではあるのですが…
 
それは「自由と引き換えに、責任がついて回る」という意味での「自由」です。
 
そしてその「責任」は、発言者が「責任を負う・負わない」を選べるようなものではないのです。
 
たとえ発言者に責任を負う気が無かろうが「炎上」という形で勝手に「責任を取らざるを得なくなる」ものです。
 
令和の現在、世の中にはそんな風に「迂闊な発言で身を滅ぼした事例」が数多くあるというのに…
 
なぜ、それでも失言や無責任発言はなくならないのでしょう?
 

【もくじ】

「発言」にばかり夢中で「言い方」に気を遣わない人々

そもそも世の中「意見を言う」ことにばかり夢中になって「意見の出し方」「言い方」を考えない人が多くないでしょうか?
 
むしろ「正論なら何を言ってもいい」「そもそも『言論の自由』があるのだから、何を言ってもいい」と思っている人が多いような気がします。
 
ですが、コミュニケーションスキルが一定以上ある人間なら、気づいています。
 
どんな意見も「言い方次第」で、受け入れられるか、拒絶されるかが変わってくるということを…。
 
皆さん『北風と太陽』の寓話で既にお気づきでしょうが…人間、冷たく当たってくる人の言葉は素直に受け入れられない一方、優しくしてくれる人の言葉はスッと聞き入れてしまうものです。
 
あまりにも普遍的な人間の心理を突いたこの寓話…知らない人間はほとんどいないと思うのですが…
 
なのになぜか皆さん、それを現代の自分の生き方に“応用”できていないんですよね…。
 
SNSなどを見ていると、自分の意見を語る際、過剰に攻撃的な物言いをしたり、他者を嘲笑する人があまりに多いことに吃驚します。
 
そうして“反発を受けて当然”な“北風対応”をしておきながら、実際に自分の意見が拒絶されると怒り狂うんですよね…。
 
“他者の心理”あるいは“他人の目”をあまりにも意識できていないその言動を、ずっと不思議に思ってきたのですが…
 
ネット空間だと、リアルな人間の顔や目が見えないだけに、そういう意識が薄くなりがちなんですかね…??
 
あるいは自分の意見で別の誰かの意見を「論破」する快感に酔ってしまって「その後のこと(不興を買って意見が拒絶される)」が見えなくなってしまうのでしょうか?
 
…あるいはそもそも発言者は「発言すること」が目的になってしまい、その意見が周囲に受け入れられるかどうかなど、どうでも良くなってしまっているのかも知れません。
 
まして、その意見が他者を傷つけるかも知れないことなど、考えもしないのかも知れません。
 
…ですが、上でも述べた通り、自分の発言の「責任」はブーメランで自分に返って来ます。
 
それは発言の「中身」だけでなく「意見の出し方」「言い方」によっても発生するのです。
 
【→もくじへ戻る】
アルゴリズムで精神的視野が狭くなりがちな現代人

最近のネット空間を見ていると「他者を気遣えない人が増えたな…」と感じるのですが…
 
その原因の1つが、アルゴリズムによる「フィルターバブル(フィルタリングバブル)」なのかも知れません。
 
令和の現代で「知らない」人はさすがにいないでしょうが…
 
インターネットの世界では「アルゴリズム」によって、ユーザーの見たい情報が「最適化」されていきます。
 
動画サイト等で一度「かわいい猫動画」を検索すると、それ以降やたらと猫動画がオススメに上がってくるように…
 
運営はユーザーの行動履歴から、表示する情報を「絞り込んで」くるのです。
 
(自分などはそれを「余計なお世話」と思い、なるべく小まめに履歴削除をしているのですが…最近は削除しても効果がなくなってきていて、そのせいでサイトを一定期間離れるとか、よくありますからね…。「狭い情報」に縛られたくない人間にとってはアルゴリズムなんて邪魔なだけなのですが…それが分からない人間の方が多いのでしょうね…。)
 
絞り込まれた狭いジャンルの情報ばかりが表示されると、ユーザーは「この世界にそのジャンルの情報しか無い」ように錯覚してしまいかねません。
 
本当は世の中には、もっと膨大な情報があるのに「フィルターを通された情報」だけしか目にすることができず、そのフィルターで囲まれた泡のような空間だけを「世界の全て」と思い込んでしまう…
 
それが現代の社会問題のひとつ「フィルターバブル」なのです。
 
この罠に嵌まると、やたらとオススメに上がって来る自分だけのニッチな趣味を「全世界的に流行っている」と勘違いしてしまったり…
 
逆に「実は自分の知らない所で大規模に流行っている」ものでも、全くオススメに上がって来ないと「結局流行らなかったんだ」と勘違いしてしまったりしかねません。
 
(つまりは「現実を読み誤る」可能性が高いので、自分は「アルゴリズムで情報が絞り込まれないサイト」を必ず1つ2つは確保しておくのですが…。)
 
この現象は、当然のことながら人間の「意見」「言論」にも影響を与えて来ます。
 
自分と同じ趣味、同じ意見の情報ばかりがアルゴリズムで表示され、真逆の趣味や意見は表示されない…
 
それは、発言者の気を大きくし、自分と真逆の立場の人々を見えなくしてしまいます。
 
そもそも、そうして同意見の人々ばかりが集まり、意見がエスカレートしていくこと自体、「エコーチェンバー」と呼ばれ、社会問題の1つと見なされているのですが…。
 
現代の多くの人々は、そうして自分の意見や意識が知らず知らずのうちに「狭められてしまっている」ことにすら気づいていないのかも知れません…。
 
【→もくじへ戻る】
アテンション・エコノミー下では「過激な発言」ほど好まれる

令和の現代、やたらと発言が「過激」「攻撃的」になりがちな背景には「アテンション・エコノミー(目立ったもの勝ちな経済)」と呼ばれる社会構造が潜んでいるのかも知れません。
 
SNSなどは特にそうですが…現代社会では何かと「数字」がモノを言います。
 
フォロワー数、閲覧数、インプレッションetc…。
 
数字がそのままその人の「能力」とみなされ、数字の大きい人が「インフルエンサー」としてもてはやされます。
 
そしてその「数字」は、実は「クオリティー」とは関係無く上がることも多いのです。
 
「炎上商法」という言葉をご存知の方は多いと思いますが…
 
世の中、わざと「お騒がせ」発言や行動を起こし、注目を集めることで数字を稼ぐ人もいるのです。
 
地道にコツコツ質を上げる人が数字を伸ばせずにいる中、炎上で数字を稼ぎ、ちゃっかりインフルエンサーになっている人がいる…この状況で「真面目に頑張るのが馬鹿らしい」と感じている人も多いのではないでしょうか?
 
「報われないかも知れない努力を地道にやるより、イチかバチかで過激なモノを出した方がいい」…そんな風に感じる人が増えたせいで、今のネット空間はあんなことになってしまったのではないでしょうか?
 
過激発言で自分を売りたい人々は、それで傷つく人々のことなど考えません。
 
むしろ、それで「賛否両論」な論戦が起きれば「注目度が上がり得をする」とさえ考えているかも知れません。
 
…つまりのところ、過激発言を世に増やしてしまうのは、それにいちいち反応する世間の人々なんですよね…。
 
「許せない」と思う心無い発言、攻撃性の高い発言は、スルーするのが一番有効なのですが…
 
(どうしても反論したいなら、リポストや関連付けは絶対しない方向で発言するのが良いでしょう。)
 
昨今、アルゴリズムでそういう「注目度の高い発言」が勝手に表示されてしまう(表示数が上がってしまう)のが、なんとも言い難くイラッとしますね…。
 
【→もくじへ戻る】
万人に通じる意見も、誰も傷つけない意見も無い

世の中を見ていると、どうにも皆さん「絶対的な正解が世の中に存在する」という前提で物を言っているように思えるのですが…
 
この多様性の時代にそれを考えるのは、相当無理が無いですか?
 
この世の中に「万人に通じる意見」などありません。
 
なので意見は「立場の違う人に反対される」ことを前提に発言した方がラクなのです。
 
過去記事にも書いていますが、意見は「言って終わり」なものではありません。
 
むしろ自分の意見を言った後、他者の意見に耳を傾け、妥協点を探っていくことの方が重要なのです。
 
さらに言えば、皆さん「他人を傷つける意見」に過剰反応しがちな気がするのですが…
 
「他人を傷つける」のがいけないことなのは前提としても…「この世の誰も傷つけない意見」も、そうそうこの世にありません。
 
そもそも「他人を傷つけない」ということ自体、一定以上のEQやコミュニケーションスキルが必要な難易度の高いものですし…
 
「この世の全ての人に配慮したパーフェクトな意見」を言える人がいたとしても、「その人に引け目を感じて傷ついてしまう」ということだってあるのです。
 
他人を傷つける発言に対し「人間として終わってる」と怒り狂うのは「誰も傷つけない人間なんていない」「自分もまた、知らないうちに誰かを傷つけているかも知れない」という事実に目が向いていない証拠です。
 
そもそも怒り狂って相手を叩いたところで『北風と太陽』で良い結果には結びつかないものです。
 
「他人を傷つける発言」に傷ついたなら、するべきことは逆に「他人を傷つけない発言」の手本を示すことです。
 
実際問題、ストレートに叩かれるより、「人間としての格の違い」を見せつけられた方が、よほど精神にダメージを与えられると思うのですが…皆さんどうも、やり方が“素直”ですよね…。
 
【→もくじへ戻る】

SNSをはじめとするネットの世界では、連日、何かしら「賛否両論」のバトルが勃発しています。
 
「皆が自由に意見を言い合う」ことって、普通は「良いこと」のはずなのですが…
 
ネットを見ていると、とてもそんな風には思えません。
 
どうにも「言い合い」が「議論」にならず「言葉の暴力の応酬」「バトるだけバトって終わり」になっている気がしてならないのです。
 
これでは見ていて気持ち良くないですし、SNS疲れする人が増えて当然ですよね…。
 
しかも、様々な意見は出るものの、時が経てば皆の興味も別の話題に移り、忘れ去られてしまいます。
 
皆の心を傷つけてまで意見を言い合ったわりに、何の建設的な結果も得られず「うやむや」になって終わり…
 
そして「うやむや」なままで「何も変わっていない」せいで、そのうちまた似たような過ちを繰り返すことさえあります。
 
…どうしてこうなってしまうのでしょう?
 
そして、ネットの世界のこの「ギスギス」を、どうにか解消する方法は無いものなのでしょうか?
 
他者の意見を拒否する人々(自分の意見しか認めない)
 
過去記事に書いた全肯定しか認めない人々とも重なる話なのですが…
 
ネットの中には「自分の意見しか認めない」「他者の意見には耳も貸さない」人々がいます。
 
「自分の意見」を他者にも押しつけ「全世界がそれを認めなければ許さない」…そんな態度の人々がいます。
 
これではそもそも「議論のテーブルについている」とは言えません。
 
他者の意見を聞ける「覚悟」の無い人間に「議論」はできないのです。
 
「議論」とは「いくつか出た意見のうち、1つを採択して終わり」というものではありません。
 
本来は、並べられた意見の「良いところ」は採用し「悪いところ」は補い合って「意見を調整し、アップデートしていく場」のはずなのです。
 
「相手を言い負かしたら勝ち」というものでもなければ、味方を増やして「多数決で圧し潰せば勝ち」というものでもありません。
 
まして「自分の意見を言いたいだけ言って終わり」の場ではないのです。
 
…そもそも世の人々は「自分の意見を通したい」と思いこそすれ「議論をしたい」なんて思ってもいないのかも知れません。
 
でも、「自分の意見を言うだけ言って終わり」「他の意見なんて聞く気も無い」では、あまりにフェアではありませんよね?
 
それはもう「議論」ではなく、ただの「ワガママな自己主張」なのです。
 
どんな意見もあって良い(○○な奴は喋るなの間違い)
 
この種のバトルでよく散見されるのが「知識の無い奴は喋るな」「初心者は黙ってろ」「思考の歪んだ奴は一生黙ってろ」といった感じの「言論封殺」です。
 
…確かに「見当違い」な意見を持ち込んで場を掻き回す人間は「有益な議論だけしていたい」人々にとって「邪魔」なものでしょう。
 
ですが、たとえ「見当違い」で「邪魔」なものでも、意見は意見なのです。
 
それを「知識が無いから」「初心者だから」と封じてしまうのは、結局は「言論の自由の侵害」と同義なのです。
 
こういう場合の「知識の有る人間」「経験値の多い人間」「思考が健全な人間」の為すべきことは「一旦意見を聞いた上で、間違いを訂正し、歪みを正すこと」です。
 
つまり「言わせるだけ言わせてから、反論する」のが正しいやり方なのです。
 
…それをしない(できない)のは、その手順が「面倒くさい」あるいは「無駄な時間に思えてしまう」せいなんでしょうね…。
 
あるいは昨今は、こちらが「正しい知識で反論」しても、相手側が「聞く耳を持たずに反発してくる」…しかも過剰に反撃してこちらを叩いてくる可能性があるから…というのもあるかも知れません。
 
(それと、昨今は「間違った意見」であってもバズれば広まり、信じてしまう人が増えるので、その「間違った意見」を最初から言わせないようにしたい…というのもあるのかも知れません。)
 
それでも、ある種の人々に対して「意見を言うな」というのは、いずれ自分たちの側にもブーメランで返って来かねない「言論の自由のリスク因子」なのです。
 
それに「物を知らないからこそ出せる意見」というものも、世の中にはあります。
 
先入観や固定観念に縛られないからこそ出てくる「自由な発想」が、凝り固まった議論に風穴を開ける可能性だってあるのです。
 
その可能性を失わせないためにも「言論の自由」は誰にでも開かれていなければならないのです。
 
大事なのは「聞く耳」と、自論にこだわらない「思考力」
 
「聞く耳を持たない人々」が議論を成り立たせなくするなら、その解決策は簡単です。
 
つまり皆が「聞く耳」を持てれば良いのです。
 
そもそも「聞く耳を持たない人々」が、なぜ聞く耳を持てなくなるのか…
 
それはおそらく「自論にこだわり過ぎる」せいなのではないでしょうか?
 
「自分の意見に反対する声は、気分が悪くなるので聞きたくない」あるいは「自論を脅かす意見は、不安になるので聞きたくない」…
 
意図的にしろ無意識にしろ、そんな「拒絶」が「聞く耳」を失わせてしまっているのではないでしょうか?
 
…ですが、思うにたぶん、ここが「知性の分かれ目」なんですよね…。
 
何故なら、本当に賢い人間は「自分の意見が採用されること」にこだわらないからです。
 
だって、周りの声を一切拒絶して自分の意見を貫き通したところで…
 
その意見が「間違っていた」なら、周り中を皆巻き込んで「破滅」するだけじゃないですか。
 
本当に賢い人間は「自分の意見を通す」ことよりもまず「自分が意見を間違わないこと(間違っていたなら素早く修正すること)」を優先させるのです。
 
どんなに知能の高い人間も、ピースのそろっていないパズルでは答えを間違えることがあります。
 
だから賢い人間は、常に「足りない」ことを恐れ、情報を求めます。
 
自分の持っていない視点を、他の誰かが見つけてはいないかと、むしろ異論を漁るのです。
 
異論を「一旦受け止めた上で矛盾点を指摘する」ならともかく…
 
「頭ごなしに拒絶する」のは、そもそも思慮の足りていない人間のすることです。
 
そこに気づかず意固地に異論を拒絶している時点で、見る人には「あぁ…その程度の人間なんだな…」というのが分かってしまうのですが…
 
恥ずかしげもなくその「足りなさ」を見せつけている人間が多いのを見ると…
 
そこに気づけている人間って、意外と多くないということなのでしょうか…?
 
「頭が良い」と思われている人の中にも「そういう人」がいることを、常々不思議に思ってきたのですが…
 
ひょっとしたらこれって、IQではなくEQの領域の話なのかも知れませんね…。
 
そもそも議論が「うやむや」に終わってしまうのも、皆が皆「自論」にばかりこだわって「妥協点」すら見出せていないせいです。
 
「自論」を棄てて思考が自由に開かれれば、他の道も見えてくるはずなのですが…。
 
自論にこだわって、それを「疑うこともできない」のって、結局、思考を狭める「足枷」でしかないんですよね…。
 
そんなことで思考力を低下させ、その分「愚かな人間」になってしまうのは、とても「もったいない」ことだと思うのですが…
 
皆さん「自論」にこだわるわりに、自分の「賢さ・愚かさ」に関しては、あまりこだわりが無いのでしょうか?



<関連記事>
 
「自分と違う意見」を「おもしろい異論」と思えない人の危機感の無さ

「何だか最近、世の人々の思考力が低下していないか?」…この頃ますます、そんな不安に襲われることが増えました。
 
SNSなどのネットの世界では「思考の浅い人」の意見ほど目立ちやすい傾向があるので、そう思ってしまうだけなのかも知れませんが…
 
(ネットでは「声のデカい人」の意見ほど目立つものですし、「声のデカい人」は往々にして「慎重さに欠ける」「深く考えずに物を言う」所があるので…。)
 
ひとつ気になっているのは「最近『思考』ができていない人が増えているのでは?」ということです。
 
物事や意見を、自分の「好き嫌い」だけで選んで「それが正しいのかどうか」を考えようとしない…
 
その物事や意見が「どうしてそうなったのか」「この先どうなるのか」を考えようとしない…
 
あるいはそもそも「自分の」好き嫌いですら選ばず「皆がこうしているから」で「大きな流れに身を任せるだけ」…
 
世の人々が「そんな風」に見えてしまうのは、自分だけなのでしょうか?
 
「そんな風」に生きるのは、ある意味「ラク」な生き方なのかも知れませんが…
 
自分には「とてもじゃないけど選べない、恐過ぎる生き方」に思えてなりません。
 
だって、普通に考えて「自分の好き」がいつも「正しい」とは限らないじゃないですか。
 
「どうしてこうなっているのか」「この先に何が起こりそうなのか」も考えずに物を選ぶのって、普通に怖いじゃないですか。
 
「皆がそうしている」大きな時代の流れが、とんでもない地獄を招いた事例なんて、歴史に山ほどあるじゃないですか。
 
それなのに「そういう生き方を選ぶ」って、自分で自分の人生に破滅フラグを立てるようなものじゃないですか?
 
…これって「意識が平和ボケしている」か否かの問題なのでしょうか?
 
日本は「皆の真似して大きなレールに乗っていれば生涯安泰な暮らしが送れる」時代が、そこそこ長く続いていました。
 
なので「自分の人生は自分で守らなければならない」という感覚がマヒしてしまっている人が多いのでしょうか?
 
あるいは、そもそも現代人は「思考する」という習慣を、いつの間にか失ってしまっているのでしょうか?
 
現代は「知識」や「情報」に溢れています。
 
チョロッと調べればノウハウが見つかるこの時代では「考える」必要が減ってしまっているのかも知れません。
 
でも「筋肉は使わなければ衰える」のと一緒で「脳も使わなければ衰える」んですよね…。
 
どうも最近、「考えて自分の意見を出す」人が減り「ネットで見つけた『好みな意見』に賛同するだけ」の人が増えているような気がするのですが…気のせいでしょうか?
 
「自分の意見を言っている」フリをしながら、実は「ネットで見かけた意見や知識の受け売りをしているだけ」だったり…
 
議論しているフリをしながら「言葉の揚げ足とり」に終わって、本質にまるで触れられていなかったり…
 
(…まぁ、コレについては「国会」でさえ「よく見られること」ですのでアレなのですが…。)
 
最悪、感情的に他者の意見を「肯定」or「否定」するだけで終わっていたり…
 
世の中がこんな「思考できない」人間ばかりになってしまったら、どうなってしまうのか…そんな不安に駆られてしまいます。
 
個人的に、「思考」のポイントって「前提を疑ってみること」だと思っているのですが…
 
どうも世の中、これが「できる」人って稀少な気がするんですよね…。
 
与えられた知識や情報を「わー、そうなんだ」と受け入れるばかりで、何も疑問に思わない人の方が多いように思えます。
 
自分は小学生の時から「なるべく先入観を持たないように生きる」ことを心掛け、結果「何事にも疑問の目を向ける」習慣が身についたのですが…
 
…こんな生き方をしている人間って、かなり奇特な部類に入るのでしょうね…。
 
(なお思考力が上がった結果、「問題解決力が上がる」「学力が爆伸びする」という「副産物」も派生し、人生を大いに助けてくれました。高校時代、人間不信でやさぐれていても、周囲からちょっぴり一目置かれて3年間を乗り切れたのは、たぶんコレのおかげ。)
 
過去記事でもちょこちょこ書いていますが「疑う」という行為はべつに、ネガティブなだけのモノでは無いのです。
 
一旦疑って、様々な反論をシミュレーションしてみたけれど「やっぱり正しかった」と、より「肯定感」が増すこともありますし…
 
疑わなければ「欠点」「弱点」「落とし穴」の洗い出しもできません。
 
「疑い」がネガティブに捉えられがちなのは、その「疑い」を自分の「嫌いなもの」「不審に思うもの」にばかり向けるからです。
 
(さらに言うと、それを「否定的」な方向にばかり疑うせいです。「もしかしたら正しいのかも知れない」と「肯定的」な方向に疑うこともできるはずなのに…。)
 
「疑い」はむしろ、自分の「好きなもの」「信じるもの」にこそ向けないと、人生の大切な選択を間違えかねないのです。
 
<関連記事:自分を“健全に”疑い否定する技術
この頃、どうにも世の中がギスギスして息苦しい…
 
それが何故なのか考えてみた時、ひとつ「これが原因なのでは?」と思い当たるものがありました。
 
もちろん、原因は1つではなく、複数の要因が複雑に絡み合って「世の空気」を悪くしているのでしょうが…。

全部を挙げていくと大変なことになるので、ここではとりあえず1つの説だけ取り上げています。
 
 
それはズバリ「全肯定しか許さないマン」が増えていることです。
   
異論や疑問を極端に嫌う「全肯定しか許さない」人々

 
SNSや動画のコメント欄では、意見の違うユーザー同士がバチバチに火花を散らし合っている様がよく見受けられます。
 
こういった「意見の対立」自体は、古くから…それこそネットができる前からよくあることでしょうし…
 
「人間が大勢生きていれば、どうしても起きてしまう宿命」ですので、どうしようもないことではあるのですが…
 
最近どうにも気になっているのは、それが「議論」を生まずに、ただ意見の違う相手を「非難し合う」だけで終わっていることです。
 
中にはちゃんと「その意見に至った理由」を述べて、相手を「納得」させようと試みている方もいらっしゃいますが、数はそんなに多くない印象ですね(そもそも言語化能力が高くないと無理なことですので、そういう意味でも数が少なくなってしまうのかも知れませんが)…。
 
むしろ最近は「非難する」どころか、相手を貶め、嘲笑するだけのコメントも多いですよね…。
 
嫌な(いじめ等やらかす系の)小学生男子ノリを感じてビミョウな気持ちになるのですが…まぁ、匿名性の高いネット世界だと、もしかしたら本当に低年齢なユーザーが書いている可能性も無いわけではないですよね…。
 
最近のSNSや様々なメディアを見ていると、どうも「自分の推しているモノに少しでも文句を言う奴は許さない」「疑問を持つことさえ許さない」「異論は認めない」という感じで「全肯定しか認めない」人々が増えているように見えます。
 
「違う意見」が出てくると、即座に反論して叩き潰そうとしていく…
 
そうやって「疑問」や「異論」を圧力で封殺しようとするムーブが、様々なところで起きているように見受けられるのです。
 
「全肯定しか許さない」人々は、そうやって「自分の好きなもの」を「守りたい」のでしょうが…
 
それが逆に、その「好きなもの」のイメージダウンに繋がってしまっている例も、現実にはよくあります。
 
いわゆる「ファンの民度が低いから」嫌になってしまうパターンです。
 
もちろん、ファンはあくまでファンで、その人々が推しているコンテンツなりアーティストなりとは「別物」なのですが…
 
それを切り離して考えることができず、「空気が悪いから去っていく」という人々は、確実に存在するのです。
 
…まぁ、それでそのコンテンツなりアーティストなりの人気がなくなったとしても、「全肯定しか許さないマン」たちは「最初に異論を言ってきた方が悪い」と言うのかも知れませんが…。
 
「全肯定しか許さない」が異論の「全否定」に繋がってしまう
 
「全肯定しか許さない」の何が悪いのかと言うと、それがそのまま相手の意見の「全否定」になっているから、なのです。
 
反対側の立場に立って考えてみれば分かると思うのですが…
 
自分の言うことを、頭ごなしに「それは駄目だ」と否定されたら、ムッとしますよね?
 
一旦意見を聞いた上で「こういう理由があるから、それは違うんだ」と言われるならまだしも…聞く耳も持たずに拒絶されれば、嫌な気持ちになりますよね?
 
拒絶された本人も不満を抱くでしょうし、時には傍でそれを見ていた人が「それはひどい」「その言い方はあんまりなんじゃないか」と口を出してくることもあるでしょう。
 
「全肯定しか許さないマン」の反論で対立が激化しやすいのは、おそらく、そういうことなのではないでしょうか?
 
そしてさらに問題をややこしくするのが、「異論」や「疑問」を意見する人の中にも「自分の意見には全肯定しか許さない」という人がいることです…。
 
「全肯定しか許さない」VS「全肯定しか許さない」は、当然「平行線」にしかなりません。
 
つまり問題は「相手の意見に耳を傾ける」ということが「できていない」人だらけなのがマズい…ということなんですよね…。
 
「異なる意見」を「攻撃」と捉える人々の過剰反応
 
なぜ昨今は「相手の意見を聞けない」人が増えているのか…
 
原因は、自分と異なる意見を「攻撃」と受け止め、過剰反応してしまう人が多いからかと思われます。
 
あるいは「自分の好きなもの」「自分の意見」が「認められない」「受け入れられない」こと自体を「攻撃」と受け取る人も増えているのではないかと…。
 
世の中には様々な種類の人間がいて、そこには必ず自分とは「異なる」意見の人もいます。
 
自分とは真逆の趣味嗜好を持っていて、自分の「好きなもの」を好きになってくれない人もいます。
 
それが「多様性」ですし、個人でどうこうできるものではない「この世の理」なのですが…
 
まず、そこからして理解できず「なんでこの意見が通らないんだ!?」「ひどい!」「攻撃された!」となってしまっている人が多いように見えるのです。
 
この構図、もっと単純化して見てみれば、どういうことなのかすごく分かりやすいと思うんですけどね…。
 
たとえば世の中、納豆が好きな人もいれば、嫌いな人もいます。
 
好きな人は「健康にも良くて、おいしくて、こんな最高な食べ物、他に無い!」くらいに言うかも知れませんが…
 
嫌いな人は「匂いだけでもう無理。ネバネバしてるのもキモチワルイ」と拒否してくることでしょう。
 
どうしても受け付けない人に、無理に納豆を勧めても嫌われるだけです。
 
納豆推しの人だって「こんなに美味しいのに勿体ない」と思いこそすれ「納豆を認めないなんて許せない!」とはならないのではないでしょうか?
 
なのに、なぜ「意見」や「推しのコンテンツorアーティスト」では皆が意固地になってしまうのか…
 
それはおそらく無意識のうちに、自分の「意見」や「推し」を「絶対視」してしまっているからではないでしょうか?
 
食べ物の好き嫌いのように「そりゃ好きな人もいれば嫌いな人もいるよね」という方向へ行けず、「みんな絶対これを好きになるはず」「これを嫌いになるなんて頭おかしい」という方向に、思考が「歪んで」しまっているのではないかと…。
 
よく「恋は盲目」と言いますが、それと似た形で、何かが「見えなくなってしまっている」のではないでしょうか?
 
…まぁ、中には「分かっていて」それでも「自分の意見が通らないなんて嫌だ!」という我の強い人もいるのでしょうけど…。
 
あと、現代社会が既に誹謗中傷だらけの「ストレス社会」になってしまっていることも一因なのかも知れないな…と。
 
SNS等あちこちで「他者をディスる」発言が散見され、人々がナーバスになってしまっているため、「ディスり」の意図の無い発言さえも「攻撃」と思い込み、過敏に反応してしまうのではないかと。
 
言葉は意外と感情や本心を伝えにくいもので、「読み手」の読み取り方次第なところもあるので…。
 
(だからスタンプや絵文字など「感情を補助」して「誤解を生まない」ためのツールがあるのでしょうけど…。なぜかこの便利機能「古い」というだけで使われなくなってきていますよね?絵文字発祥の日本より、最近はむしろ海外でよく使われている印象があります。何故なんでしょうね…?)
 
「他人の意見の受け止め方」を知らない人々
 
好きなものを否定されれば、誰だって気分が悪くなります。
 
なので、それを否定してくる人の発言になど一切耳を貸したくない…そう思ってしまうのは、ごく当たり前な「感情」です。
 
ですが、それをそのまま「感情」で返せば、ただ醜い争いが生まれるだけです。
 
自分が人生でたびたび思い巡らせるテーマのひとつに「頭の良い人と、そうでない人との違いは何なのか?」があるのですが…
 
個人的に思っている1つの「答え」が、「頭の良い人は“自分にとって気分の良くない意見”にも、ちゃんと耳を傾ける」ということです。
 
たとえ自分の好きなモノを否定する意見であったとしても…
 
自分の信じてきたものを揺るがすような発言であったとしても…
 
端からシャットアウトすることはせず、「この意見は正しいのだろうか?」「何を根拠にこの考えに至ったのだろうか?」を考えるのです。
 
逆に「中途半端に頭の良い人」がやらかしがちなミスに「『自分の意見は正しいのだから、必ず受け入れてもらえる』と信じ込んでしまう」ことがあります。
 
「正論が常に受け容れられるとは限らない」は、よく言われることですが…
 
そもそも人は上にも書いたように「自分にとって気分の良くない意見」には心を閉ざしてしまうものなのです。
 
相手の意見を正論で論破したとしても、ただ一時的に憂さが晴れるだけで、相手からは恨みを買うばかり。納得も何も得られない可能性は高いです。
 
本気で相手を説得したいなら、まずはその相手がどういう人なのか――どういう人物で、どういう背景があってその思考・発言に至ったのか――それを見極め、相手の心に確実に刺さる言葉を選ばなければなりません。
 
…ですが、どうも世の中「感情をぶつける」だけで気が済んでしまう人が多いようで…
 
結果、ただ互いに傷つけ合うばかりで、建設的な議論も妥協点を見出すことも、何もできずに終わってしまっているんですよね…。
 
1つ、推測していることがあるのですが…
 
否定的な意見や異論を受け止められない人って、「それに耳を貸すだけで、それを認めたことになってしまう」と思い込んではいないでしょうか?
 
「理解」し「分析」することと、それを「肯定」し「認める」こととは別物なのですが…
 
そこをゴッチャにして「全否定」「全拒絶」してしまっている人が多いのではないかと。
 
否定派の意見や異論を聞く時に大事な心構えは「へぇ~。世の中にはそういう意見もあるんだな」の姿勢です。
 
肯定するでもなく否定するでもなく「有るものは有る」と、ありのままに認めることです。
 
そこからして拒絶して目をつぶったところで、否定的意見も異論もなくなりはしません。
 
大切なのは、異なる意見が多様に存在するこの世界で、どうやってバランスを取っていくのかということ。
 
相手の意見を封殺することでも、多数決で押し潰すのでもなく、どう妥協点を見つけて意見を調整していくか、なのです。
 
「全肯定」が「妄信」に繋がるリスク
 
自分が「自分にとって気分の良くない意見」にも耳を傾けるのは、自分の好きなものを「全肯定」することが「妄信」に繋がりかねないことを知っているからです。
 
物事には何でも良い面と悪い面があります。
 
それなのに「全部を肯定する」ということは、悪い面から目を逸らし、弱点を弱点のまま放置するということです。
 
その弱点は、いずれ全体を蝕む病巣ともなりかねません。
 
早い段階で気づいて処置できれば、その弱点をも克服し、全体的にもっとレベルを上げられるかも知れないのに…
 
「妄信」は成長の機会を奪い、なくせたはずのリスクを「そのまま」にしてしまうのです。
 
(人間関係でも、周りが「イエスマン」ばかりだと良くないと言いますよね?)
 
「妄信」というものがどれほど恐ろしいかは、歴史の数々が物語っています。
 
だから自分は、自分の「好きなもの」「大事なもの」にこそ、必ず「疑問の目」を向けるようにしています。
 
「疑い」は、必ずしもネガティブな感情ではありません。
 
疑って、弱点や欠点に気づいても、それを「好きなまま」でいることはできるのです。
 
…むしろ「全肯定」しかできない人というのは、弱点や欠点に「気づかされて」しまったら、「好きの気持ち」が消えていってしまう愛の薄い人々なのでしょうか?
 
「好きなもの」でも全部を全部「肯定」する必要はありませんし、「嫌いなもの」「意見の合わないもの」でも、全部を全部「否定」する必要は無いのです。
 
…どうにも今の世の中、そういう「分けて考える」ことができない不器用な人が多そうですよね…。
 

ブログ内検索
管理人プロフィール
【HN(ハンドル・ネーム)】
津籠睦月(つごもりむつき)
【職業】
社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
【趣味】
小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
ブログ更新&チェックについて。

このブログは管理人に時間の余裕がある時にちょこっとずつ更新していく予定ですので、更新やチェックの頻度はおそらく数週間に1回~下手をすると1ヶ月以上の間が空いてしまう可能性も…。
もし更新が滞ったても「あぁ、仕事が忙し過ぎて時間が無いんだな」と気長にお待ちいただければ幸いです。

カウンター
参加ランキング
相互RSS
P R
忍者ブログ [PR]