日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
SNSをはじめとするネットの世界では、連日、何かしら「賛否両論」のバトルが勃発しています。
「皆が自由に意見を言い合う」ことって、普通は「良いこと」のはずなのですが…
ネットを見ていると、とてもそんな風には思えません。
どうにも「言い合い」が「議論」にならず「言葉の暴力の応酬」「バトるだけバトって終わり」になっている気がしてならないのです。
これでは見ていて気持ち良くないですし、SNS疲れする人が増えて当然ですよね…。
しかも、様々な意見は出るものの、時が経てば皆の興味も別の話題に移り、忘れ去られてしまいます。
皆の心を傷つけてまで意見を言い合ったわりに、何の建設的な結果も得られず「うやむや」になって終わり…
そして「うやむや」なままで「何も変わっていない」せいで、そのうちまた似たような過ちを繰り返すことさえあります。
…どうしてこうなってしまうのでしょう?
そして、ネットの世界のこの「ギスギス」を、どうにか解消する方法は無いものなのでしょうか?
<関連記事>
・「自分と違う意見」を「おもしろい異論」と思えない人の危機感の無さ
「皆が自由に意見を言い合う」ことって、普通は「良いこと」のはずなのですが…
ネットを見ていると、とてもそんな風には思えません。
どうにも「言い合い」が「議論」にならず「言葉の暴力の応酬」「バトるだけバトって終わり」になっている気がしてならないのです。
これでは見ていて気持ち良くないですし、SNS疲れする人が増えて当然ですよね…。
しかも、様々な意見は出るものの、時が経てば皆の興味も別の話題に移り、忘れ去られてしまいます。
皆の心を傷つけてまで意見を言い合ったわりに、何の建設的な結果も得られず「うやむや」になって終わり…
そして「うやむや」なままで「何も変わっていない」せいで、そのうちまた似たような過ちを繰り返すことさえあります。
…どうしてこうなってしまうのでしょう?
そして、ネットの世界のこの「ギスギス」を、どうにか解消する方法は無いものなのでしょうか?
- 他者の意見を拒否する人々(自分の意見しか認めない)
-
過去記事に書いた全肯定しか認めない人々とも重なる話なのですが…
ネットの中には「自分の意見しか認めない」「他者の意見には耳も貸さない」人々がいます。
「自分の意見」を他者にも押しつけ「全世界がそれを認めなければ許さない」…そんな態度の人々がいます。
これではそもそも「議論のテーブルについている」とは言えません。
他者の意見を聞ける「覚悟」の無い人間に「議論」はできないのです。
「議論」とは「いくつか出た意見のうち、1つを採択して終わり」というものではありません。
本来は、並べられた意見の「良いところ」は採用し「悪いところ」は補い合って「意見を調整し、アップデートしていく場」のはずなのです。
「相手を言い負かしたら勝ち」というものでもなければ、味方を増やして「多数決で圧し潰せば勝ち」というものでもありません。
まして「自分の意見を言いたいだけ言って終わり」の場ではないのです。
…そもそも世の人々は「自分の意見を通したい」と思いこそすれ「議論をしたい」なんて思ってもいないのかも知れません。
でも、「自分の意見を言うだけ言って終わり」「他の意見なんて聞く気も無い」では、あまりにフェアではありませんよね?
それはもう「議論」ではなく、ただの「ワガママな自己主張」なのです。
- どんな意見もあって良い(○○な奴は喋るなの間違い)
-
この種のバトルでよく散見されるのが「知識の無い奴は喋るな」「初心者は黙ってろ」「思考の歪んだ奴は一生黙ってろ」といった感じの「言論封殺」です。
…確かに「見当違い」な意見を持ち込んで場を掻き回す人間は「有益な議論だけしていたい」人々にとって「邪魔」なものでしょう。
ですが、たとえ「見当違い」で「邪魔」なものでも、意見は意見なのです。
それを「知識が無いから」「初心者だから」と封じてしまうのは、結局は「言論の自由の侵害」と同義なのです。
こういう場合の「知識の有る人間」「経験値の多い人間」「思考が健全な人間」の為すべきことは「一旦意見を聞いた上で、間違いを訂正し、歪みを正すこと」です。
つまり「言わせるだけ言わせてから、反論する」のが正しいやり方なのです。
…それをしない(できない)のは、その手順が「面倒くさい」あるいは「無駄な時間に思えてしまう」せいなんでしょうね…。
あるいは昨今は、こちらが「正しい知識で反論」しても、相手側が「聞く耳を持たずに反発してくる」…しかも過剰に反撃してこちらを叩いてくる可能性があるから…というのもあるかも知れません。
(それと、昨今は「間違った意見」であってもバズれば広まり、信じてしまう人が増えるので、その「間違った意見」を最初から言わせないようにしたい…というのもあるのかも知れません。)
それでも、ある種の人々に対して「意見を言うな」というのは、いずれ自分たちの側にもブーメランで返って来かねない「言論の自由のリスク因子」なのです。
それに「物を知らないからこそ出せる意見」というものも、世の中にはあります。
先入観や固定観念に縛られないからこそ出てくる「自由な発想」が、凝り固まった議論に風穴を開ける可能性だってあるのです。
その可能性を失わせないためにも「言論の自由」は誰にでも開かれていなければならないのです。
- 大事なのは「聞く耳」と、自論にこだわらない「思考力」
-
「聞く耳を持たない人々」が議論を成り立たせなくするなら、その解決策は簡単です。
つまり皆が「聞く耳」を持てれば良いのです。
そもそも「聞く耳を持たない人々」が、なぜ聞く耳を持てなくなるのか…
それはおそらく「自論にこだわり過ぎる」せいなのではないでしょうか?
「自分の意見に反対する声は、気分が悪くなるので聞きたくない」あるいは「自論を脅かす意見は、不安になるので聞きたくない」…
意図的にしろ無意識にしろ、そんな「拒絶」が「聞く耳」を失わせてしまっているのではないでしょうか?
…ですが、思うにたぶん、ここが「知性の分かれ目」なんですよね…。
何故なら、本当に賢い人間は「自分の意見が採用されること」にこだわらないからです。
だって、周りの声を一切拒絶して自分の意見を貫き通したところで…
その意見が「間違っていた」なら、周り中を皆巻き込んで「破滅」するだけじゃないですか。
本当に賢い人間は「自分の意見を通す」ことよりもまず「自分が意見を間違わないこと(間違っていたなら素早く修正すること)」を優先させるのです。
どんなに知能の高い人間も、ピースのそろっていないパズルでは答えを間違えることがあります。
だから賢い人間は、常に「足りない」ことを恐れ、情報を求めます。
自分の持っていない視点を、他の誰かが見つけてはいないかと、むしろ異論を漁るのです。
異論を「一旦受け止めた上で矛盾点を指摘する」ならともかく…
「頭ごなしに拒絶する」のは、そもそも思慮の足りていない人間のすることです。
そこに気づかず意固地に異論を拒絶している時点で、見る人には「あぁ…その程度の人間なんだな…」というのが分かってしまうのですが…
恥ずかしげもなくその「足りなさ」を見せつけている人間が多いのを見ると…
そこに気づけている人間って、意外と多くないということなのでしょうか…?
「頭が良い」と思われている人の中にも「そういう人」がいることを、常々不思議に思ってきたのですが…
ひょっとしたらこれって、IQではなくEQの領域の話なのかも知れませんね…。
そもそも議論が「うやむや」に終わってしまうのも、皆が皆「自論」にばかりこだわって「妥協点」すら見出せていないせいです。
「自論」を棄てて思考が自由に開かれれば、他の道も見えてくるはずなのですが…。
自論にこだわって、それを「疑うこともできない」のって、結局、思考を狭める「足枷」でしかないんですよね…。
そんなことで思考力を低下させ、その分「愚かな人間」になってしまうのは、とても「もったいない」ことだと思うのですが…
皆さん「自論」にこだわるわりに、自分の「賢さ・愚かさ」に関しては、あまりこだわりが無いのでしょうか?
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「何だか最近、世の人々の思考力が低下していないか?」…この頃ますます、そんな不安に襲われることが増えました。
SNSなどのネットの世界では「思考の浅い人」の意見ほど目立ちやすい傾向があるので、そう思ってしまうだけなのかも知れませんが…
(ネットでは「声のデカい人」の意見ほど目立つものですし、「声のデカい人」は往々にして「慎重さに欠ける」「深く考えずに物を言う」所があるので…。)
ひとつ気になっているのは「最近『思考』ができていない人が増えているのでは?」ということです。
物事や意見を、自分の「好き嫌い」だけで選んで「それが正しいのかどうか」を考えようとしない…
その物事や意見が「どうしてそうなったのか」「この先どうなるのか」を考えようとしない…
あるいはそもそも「自分の」好き嫌いですら選ばず「皆がこうしているから」で「大きな流れに身を任せるだけ」…
世の人々が「そんな風」に見えてしまうのは、自分だけなのでしょうか?
「そんな風」に生きるのは、ある意味「ラク」な生き方なのかも知れませんが…
自分には「とてもじゃないけど選べない、恐過ぎる生き方」に思えてなりません。
だって、普通に考えて「自分の好き」がいつも「正しい」とは限らないじゃないですか。
「どうしてこうなっているのか」「この先に何が起こりそうなのか」も考えずに物を選ぶのって、普通に怖いじゃないですか。
「皆がそうしている」大きな時代の流れが、とんでもない地獄を招いた事例なんて、歴史に山ほどあるじゃないですか。
それなのに「そういう生き方を選ぶ」って、自分で自分の人生に破滅フラグを立てるようなものじゃないですか?
…これって「意識が平和ボケしている」か否かの問題なのでしょうか?
日本は「皆の真似して大きなレールに乗っていれば生涯安泰な暮らしが送れる」時代が、そこそこ長く続いていました。
なので「自分の人生は自分で守らなければならない」という感覚がマヒしてしまっている人が多いのでしょうか?
あるいは、そもそも現代人は「思考する」という習慣を、いつの間にか失ってしまっているのでしょうか?
現代は「知識」や「情報」に溢れています。
チョロッと調べればノウハウが見つかるこの時代では「考える」必要が減ってしまっているのかも知れません。
でも「筋肉は使わなければ衰える」のと一緒で「脳も使わなければ衰える」んですよね…。
どうも最近、「考えて自分の意見を出す」人が減り「ネットで見つけた『好みな意見』に賛同するだけ」の人が増えているような気がするのですが…気のせいでしょうか?
「自分の意見を言っている」フリをしながら、実は「ネットで見かけた意見や知識の受け売りをしているだけ」だったり…
議論しているフリをしながら「言葉の揚げ足とり」に終わって、本質にまるで触れられていなかったり…
(…まぁ、コレについては「国会」でさえ「よく見られること」ですのでアレなのですが…。)
最悪、感情的に他者の意見を「肯定」or「否定」するだけで終わっていたり…
世の中がこんな「思考できない」人間ばかりになってしまったら、どうなってしまうのか…そんな不安に駆られてしまいます。
個人的に、「思考」のポイントって「前提を疑ってみること」だと思っているのですが…
どうも世の中、これが「できる」人って稀少な気がするんですよね…。
与えられた知識や情報を「わー、そうなんだ」と受け入れるばかりで、何も疑問に思わない人の方が多いように思えます。
自分は小学生の時から「なるべく先入観を持たないように生きる」ことを心掛け、結果「何事にも疑問の目を向ける」習慣が身についたのですが…
…こんな生き方をしている人間って、かなり奇特な部類に入るのでしょうね…。
(なお思考力が上がった結果、「問題解決力が上がる」「学力が爆伸びする」という「副産物」も派生し、人生を大いに助けてくれました。高校時代、人間不信でやさぐれていても、周囲からちょっぴり一目置かれて3年間を乗り切れたのは、たぶんコレのおかげ。)
過去記事でもちょこちょこ書いていますが「疑う」という行為はべつに、ネガティブなだけのモノでは無いのです。
一旦疑って、様々な反論をシミュレーションしてみたけれど「やっぱり正しかった」と、より「肯定感」が増すこともありますし…
疑わなければ「欠点」「弱点」「落とし穴」の洗い出しもできません。
「疑い」がネガティブに捉えられがちなのは、その「疑い」を自分の「嫌いなもの」「不審に思うもの」にばかり向けるからです。
(さらに言うと、それを「否定的」な方向にばかり疑うせいです。「もしかしたら正しいのかも知れない」と「肯定的」な方向に疑うこともできるはずなのに…。)
「疑い」はむしろ、自分の「好きなもの」「信じるもの」にこそ向けないと、人生の大切な選択を間違えかねないのです。
<関連記事:自分を“健全に”疑い否定する技術>
SNSなどのネットの世界では「思考の浅い人」の意見ほど目立ちやすい傾向があるので、そう思ってしまうだけなのかも知れませんが…
(ネットでは「声のデカい人」の意見ほど目立つものですし、「声のデカい人」は往々にして「慎重さに欠ける」「深く考えずに物を言う」所があるので…。)
ひとつ気になっているのは「最近『思考』ができていない人が増えているのでは?」ということです。
物事や意見を、自分の「好き嫌い」だけで選んで「それが正しいのかどうか」を考えようとしない…
その物事や意見が「どうしてそうなったのか」「この先どうなるのか」を考えようとしない…
あるいはそもそも「自分の」好き嫌いですら選ばず「皆がこうしているから」で「大きな流れに身を任せるだけ」…
世の人々が「そんな風」に見えてしまうのは、自分だけなのでしょうか?
「そんな風」に生きるのは、ある意味「ラク」な生き方なのかも知れませんが…
自分には「とてもじゃないけど選べない、恐過ぎる生き方」に思えてなりません。
だって、普通に考えて「自分の好き」がいつも「正しい」とは限らないじゃないですか。
「どうしてこうなっているのか」「この先に何が起こりそうなのか」も考えずに物を選ぶのって、普通に怖いじゃないですか。
「皆がそうしている」大きな時代の流れが、とんでもない地獄を招いた事例なんて、歴史に山ほどあるじゃないですか。
それなのに「そういう生き方を選ぶ」って、自分で自分の人生に破滅フラグを立てるようなものじゃないですか?
…これって「意識が平和ボケしている」か否かの問題なのでしょうか?
日本は「皆の真似して大きなレールに乗っていれば生涯安泰な暮らしが送れる」時代が、そこそこ長く続いていました。
なので「自分の人生は自分で守らなければならない」という感覚がマヒしてしまっている人が多いのでしょうか?
あるいは、そもそも現代人は「思考する」という習慣を、いつの間にか失ってしまっているのでしょうか?
現代は「知識」や「情報」に溢れています。
チョロッと調べればノウハウが見つかるこの時代では「考える」必要が減ってしまっているのかも知れません。
でも「筋肉は使わなければ衰える」のと一緒で「脳も使わなければ衰える」んですよね…。
どうも最近、「考えて自分の意見を出す」人が減り「ネットで見つけた『好みな意見』に賛同するだけ」の人が増えているような気がするのですが…気のせいでしょうか?
「自分の意見を言っている」フリをしながら、実は「ネットで見かけた意見や知識の受け売りをしているだけ」だったり…
議論しているフリをしながら「言葉の揚げ足とり」に終わって、本質にまるで触れられていなかったり…
(…まぁ、コレについては「国会」でさえ「よく見られること」ですのでアレなのですが…。)
最悪、感情的に他者の意見を「肯定」or「否定」するだけで終わっていたり…
世の中がこんな「思考できない」人間ばかりになってしまったら、どうなってしまうのか…そんな不安に駆られてしまいます。
個人的に、「思考」のポイントって「前提を疑ってみること」だと思っているのですが…
どうも世の中、これが「できる」人って稀少な気がするんですよね…。
与えられた知識や情報を「わー、そうなんだ」と受け入れるばかりで、何も疑問に思わない人の方が多いように思えます。
自分は小学生の時から「なるべく先入観を持たないように生きる」ことを心掛け、結果「何事にも疑問の目を向ける」習慣が身についたのですが…
…こんな生き方をしている人間って、かなり奇特な部類に入るのでしょうね…。
(なお思考力が上がった結果、「問題解決力が上がる」「学力が爆伸びする」という「副産物」も派生し、人生を大いに助けてくれました。高校時代、人間不信でやさぐれていても、周囲からちょっぴり一目置かれて3年間を乗り切れたのは、たぶんコレのおかげ。)
過去記事でもちょこちょこ書いていますが「疑う」という行為はべつに、ネガティブなだけのモノでは無いのです。
一旦疑って、様々な反論をシミュレーションしてみたけれど「やっぱり正しかった」と、より「肯定感」が増すこともありますし…
疑わなければ「欠点」「弱点」「落とし穴」の洗い出しもできません。
「疑い」がネガティブに捉えられがちなのは、その「疑い」を自分の「嫌いなもの」「不審に思うもの」にばかり向けるからです。
(さらに言うと、それを「否定的」な方向にばかり疑うせいです。「もしかしたら正しいのかも知れない」と「肯定的」な方向に疑うこともできるはずなのに…。)
「疑い」はむしろ、自分の「好きなもの」「信じるもの」にこそ向けないと、人生の大切な選択を間違えかねないのです。
<関連記事:自分を“健全に”疑い否定する技術>
この頃、どうにも世の中がギスギスして息苦しい…
それが何故なのか考えてみた時、ひとつ「これが原因なのでは?」と思い当たるものがありました。
それが何故なのか考えてみた時、ひとつ「これが原因なのでは?」と思い当たるものがありました。
| もちろん、原因は1つではなく、複数の要因が複雑に絡み合って「世の空気」を悪くしているのでしょうが…。 全部を挙げていくと大変なことになるので、ここではとりあえず1つの説だけ取り上げています。 |
それはズバリ「全肯定しか許さないマン」が増えていることです。
- 異論や疑問を極端に嫌う「全肯定しか許さない」人々
SNSや動画のコメント欄では、意見の違うユーザー同士がバチバチに火花を散らし合っている様がよく見受けられます。
こういった「意見の対立」自体は、古くから…それこそネットができる前からよくあることでしょうし…
「人間が大勢生きていれば、どうしても起きてしまう宿命」ですので、どうしようもないことではあるのですが…
最近どうにも気になっているのは、それが「議論」を生まずに、ただ意見の違う相手を「非難し合う」だけで終わっていることです。
中にはちゃんと「その意見に至った理由」を述べて、相手を「納得」させようと試みている方もいらっしゃいますが、数はそんなに多くない印象ですね(そもそも言語化能力が高くないと無理なことですので、そういう意味でも数が少なくなってしまうのかも知れませんが)…。
むしろ最近は「非難する」どころか、相手を貶め、嘲笑するだけのコメントも多いですよね…。
嫌な(いじめ等やらかす系の)小学生男子ノリを感じてビミョウな気持ちになるのですが…まぁ、匿名性の高いネット世界だと、もしかしたら本当に低年齢なユーザーが書いている可能性も無いわけではないですよね…。
最近のSNSや様々なメディアを見ていると、どうも「自分の推しているモノに少しでも文句を言う奴は許さない」「疑問を持つことさえ許さない」「異論は認めない」という感じで「全肯定しか認めない」人々が増えているように見えます。
「違う意見」が出てくると、即座に反論して叩き潰そうとしていく…
そうやって「疑問」や「異論」を圧力で封殺しようとするムーブが、様々なところで起きているように見受けられるのです。
「全肯定しか許さない」人々は、そうやって「自分の好きなもの」を「守りたい」のでしょうが…
それが逆に、その「好きなもの」のイメージダウンに繋がってしまっている例も、現実にはよくあります。
いわゆる「ファンの民度が低いから」嫌になってしまうパターンです。
もちろん、ファンはあくまでファンで、その人々が推しているコンテンツなりアーティストなりとは「別物」なのですが…
それを切り離して考えることができず、「空気が悪いから去っていく」という人々は、確実に存在するのです。
…まぁ、それでそのコンテンツなりアーティストなりの人気がなくなったとしても、「全肯定しか許さないマン」たちは「最初に異論を言ってきた方が悪い」と言うのかも知れませんが…。
- 「全肯定しか許さない」が異論の「全否定」に繋がってしまう
-
「全肯定しか許さない」の何が悪いのかと言うと、それがそのまま相手の意見の「全否定」になっているから、なのです。
反対側の立場に立って考えてみれば分かると思うのですが…
自分の言うことを、頭ごなしに「それは駄目だ」と否定されたら、ムッとしますよね?
一旦意見を聞いた上で「こういう理由があるから、それは違うんだ」と言われるならまだしも…聞く耳も持たずに拒絶されれば、嫌な気持ちになりますよね?
拒絶された本人も不満を抱くでしょうし、時には傍でそれを見ていた人が「それはひどい」「その言い方はあんまりなんじゃないか」と口を出してくることもあるでしょう。
「全肯定しか許さないマン」の反論で対立が激化しやすいのは、おそらく、そういうことなのではないでしょうか?
そしてさらに問題をややこしくするのが、「異論」や「疑問」を意見する人の中にも「自分の意見には全肯定しか許さない」という人がいることです…。
「全肯定しか許さない」VS「全肯定しか許さない」は、当然「平行線」にしかなりません。
つまり問題は「相手の意見に耳を傾ける」ということが「できていない」人だらけなのがマズい…ということなんですよね…。
- 「異なる意見」を「攻撃」と捉える人々の過剰反応
-
なぜ昨今は「相手の意見を聞けない」人が増えているのか…
原因は、自分と異なる意見を「攻撃」と受け止め、過剰反応してしまう人が多いからかと思われます。
あるいは「自分の好きなもの」「自分の意見」が「認められない」「受け入れられない」こと自体を「攻撃」と受け取る人も増えているのではないかと…。
世の中には様々な種類の人間がいて、そこには必ず自分とは「異なる」意見の人もいます。
自分とは真逆の趣味嗜好を持っていて、自分の「好きなもの」を好きになってくれない人もいます。
それが「多様性」ですし、個人でどうこうできるものではない「この世の理」なのですが…
まず、そこからして理解できず「なんでこの意見が通らないんだ!?」「ひどい!」「攻撃された!」となってしまっている人が多いように見えるのです。
この構図、もっと単純化して見てみれば、どういうことなのかすごく分かりやすいと思うんですけどね…。
たとえば世の中、納豆が好きな人もいれば、嫌いな人もいます。
好きな人は「健康にも良くて、おいしくて、こんな最高な食べ物、他に無い!」くらいに言うかも知れませんが…
嫌いな人は「匂いだけでもう無理。ネバネバしてるのもキモチワルイ」と拒否してくることでしょう。
どうしても受け付けない人に、無理に納豆を勧めても嫌われるだけです。
納豆推しの人だって「こんなに美味しいのに勿体ない」と思いこそすれ「納豆を認めないなんて許せない!」とはならないのではないでしょうか?
なのに、なぜ「意見」や「推しのコンテンツorアーティスト」では皆が意固地になってしまうのか…
それはおそらく無意識のうちに、自分の「意見」や「推し」を「絶対視」してしまっているからではないでしょうか?
食べ物の好き嫌いのように「そりゃ好きな人もいれば嫌いな人もいるよね」という方向へ行けず、「みんな絶対これを好きになるはず」「これを嫌いになるなんて頭おかしい」という方向に、思考が「歪んで」しまっているのではないかと…。
よく「恋は盲目」と言いますが、それと似た形で、何かが「見えなくなってしまっている」のではないでしょうか?
…まぁ、中には「分かっていて」それでも「自分の意見が通らないなんて嫌だ!」という我の強い人もいるのでしょうけど…。
あと、現代社会が既に誹謗中傷だらけの「ストレス社会」になってしまっていることも一因なのかも知れないな…と。
SNS等あちこちで「他者をディスる」発言が散見され、人々がナーバスになってしまっているため、「ディスり」の意図の無い発言さえも「攻撃」と思い込み、過敏に反応してしまうのではないかと。
言葉は意外と感情や本心を伝えにくいもので、「読み手」の読み取り方次第なところもあるので…。
(だからスタンプや絵文字など「感情を補助」して「誤解を生まない」ためのツールがあるのでしょうけど…。なぜかこの便利機能「古い」というだけで使われなくなってきていますよね?絵文字発祥の日本より、最近はむしろ海外でよく使われている印象があります。何故なんでしょうね…?) -
「他人の意見の受け止め方」を知らない人々
-
好きなものを否定されれば、誰だって気分が悪くなります。
なので、それを否定してくる人の発言になど一切耳を貸したくない…そう思ってしまうのは、ごく当たり前な「感情」です。
ですが、それをそのまま「感情」で返せば、ただ醜い争いが生まれるだけです。
自分が人生でたびたび思い巡らせるテーマのひとつに「頭の良い人と、そうでない人との違いは何なのか?」があるのですが…
個人的に思っている1つの「答え」が、「頭の良い人は“自分にとって気分の良くない意見”にも、ちゃんと耳を傾ける」ということです。
たとえ自分の好きなモノを否定する意見であったとしても…
自分の信じてきたものを揺るがすような発言であったとしても…
端からシャットアウトすることはせず、「この意見は正しいのだろうか?」「何を根拠にこの考えに至ったのだろうか?」を考えるのです。
逆に「中途半端に頭の良い人」がやらかしがちなミスに「『自分の意見は正しいのだから、必ず受け入れてもらえる』と信じ込んでしまう」ことがあります。
「正論が常に受け容れられるとは限らない」は、よく言われることですが…
そもそも人は上にも書いたように「自分にとって気分の良くない意見」には心を閉ざしてしまうものなのです。
相手の意見を正論で論破したとしても、ただ一時的に憂さが晴れるだけで、相手からは恨みを買うばかり。納得も何も得られない可能性は高いです。
本気で相手を説得したいなら、まずはその相手がどういう人なのか――どういう人物で、どういう背景があってその思考・発言に至ったのか――それを見極め、相手の心に確実に刺さる言葉を選ばなければなりません。
…ですが、どうも世の中「感情をぶつける」だけで気が済んでしまう人が多いようで…
結果、ただ互いに傷つけ合うばかりで、建設的な議論も妥協点を見出すことも、何もできずに終わってしまっているんですよね…。
1つ、推測していることがあるのですが…
否定的な意見や異論を受け止められない人って、「それに耳を貸すだけで、それを認めたことになってしまう」と思い込んではいないでしょうか?
「理解」し「分析」することと、それを「肯定」し「認める」こととは別物なのですが…
そこをゴッチャにして「全否定」「全拒絶」してしまっている人が多いのではないかと。
否定派の意見や異論を聞く時に大事な心構えは「へぇ~。世の中にはそういう意見もあるんだな」の姿勢です。
肯定するでもなく否定するでもなく「有るものは有る」と、ありのままに認めることです。
そこからして拒絶して目をつぶったところで、否定的意見も異論もなくなりはしません。
大切なのは、異なる意見が多様に存在するこの世界で、どうやってバランスを取っていくのかということ。
相手の意見を封殺することでも、多数決で押し潰すのでもなく、どう妥協点を見つけて意見を調整していくか、なのです。
- 「全肯定」が「妄信」に繋がるリスク
-
自分が「自分にとって気分の良くない意見」にも耳を傾けるのは、自分の好きなものを「全肯定」することが「妄信」に繋がりかねないことを知っているからです。
物事には何でも良い面と悪い面があります。
それなのに「全部を肯定する」ということは、悪い面から目を逸らし、弱点を弱点のまま放置するということです。
その弱点は、いずれ全体を蝕む病巣ともなりかねません。
早い段階で気づいて処置できれば、その弱点をも克服し、全体的にもっとレベルを上げられるかも知れないのに…
「妄信」は成長の機会を奪い、なくせたはずのリスクを「そのまま」にしてしまうのです。
(人間関係でも、周りが「イエスマン」ばかりだと良くないと言いますよね?)
「妄信」というものがどれほど恐ろしいかは、歴史の数々が物語っています。
だから自分は、自分の「好きなもの」「大事なもの」にこそ、必ず「疑問の目」を向けるようにしています。
「疑い」は、必ずしもネガティブな感情ではありません。
疑って、弱点や欠点に気づいても、それを「好きなまま」でいることはできるのです。
…むしろ「全肯定」しかできない人というのは、弱点や欠点に「気づかされて」しまったら、「好きの気持ち」が消えていってしまう愛の薄い人々なのでしょうか?
「好きなもの」でも全部を全部「肯定」する必要はありませんし、「嫌いなもの」「意見の合わないもの」でも、全部を全部「否定」する必要は無いのです。
…どうにも今の世の中、そういう「分けて考える」ことができない不器用な人が多そうですよね…。
つい先ごろ、X(旧Twitter)で「X上の画像を自他問わずAI編集できる機能」が実装され、物議を醸していますが…
これ、実はXユーザーだけの問題ではないんですよね。
それどころか、全世界・全人類がAIフェイクの被害者となり得る、あまりにも無責任な機能実装なのですが…
これ、気づかずにやっているとしたら経営者としての想像力が無さ過ぎますし、分かった上でやっているとしたら企業としてのタチが悪過ぎるのですが…
皆さん、ひょっとして、まだこのことには気づいていないのでしょうか?
これ、実はXユーザーだけの問題ではないんですよね。
それどころか、全世界・全人類がAIフェイクの被害者となり得る、あまりにも無責任な機能実装なのですが…
これ、気づかずにやっているとしたら経営者としての想像力が無さ過ぎますし、分かった上でやっているとしたら企業としてのタチが悪過ぎるのですが…
皆さん、ひょっとして、まだこのことには気づいていないのでしょうか?
- 本人がXユーザーでなくとも、Xユーザーに画像UPされてしまえば「終わり」
こういった「悪用されかねない機能」が実装された場合、よく言われるのが「嫌ならそのSNSを出て行けばいいじゃないか」ですが…
今回の機能実装の場合、Xを退会したからと言ってリスクがなくなるわけではありません。
なぜなら、本人がXユーザーでなかったとしても、Xの現役ユーザーに無断・無許可で画像投稿されてしまえば「終わり」だからです。
たとえば時々「有名人がネットに勝手にプライベート写真を載せられた」という炎上事案、ありますよね?
勝手に盗撮された上、それをX上でAIフェイク加工されてしまうとしたら…あまりにもあんまり過ぎやしませんか?
(そもそも有名人なら、ニュースメディアの記事で顔写真が載っている可能性も高いですし…。)
もちろん被害者は有名人に限りません。
ママ友に勝手に子どもの写真を投稿された…という事例も聞いた(読んだ)ことがありますし…
たまたまそこに写り込んでしまっただけの一般人だって、被害者になり得るのです。
それに、展示会などで撮った他者のアート作品、本の表紙や、お気に入りの小物etc…
X上に投稿されたあらゆるモノが、AIフェイクのリスクに晒されます。
それも、当事者のあずかり知らぬところで、いつの間にかフェイク画像を作られかねないのです。
その他にも…Xにはよく、アニメの感想がその場面のスクショ画像と共に投稿されていたりします。
そもそもそのスクショ画像投稿自体が無断・無許可で著作権的にアウトな可能性大なのですが…
これまでは「SNSで盛り上がってくれる分には構わない」ということで、著作権者に「黙認」されてきたところがあるのではないでしょうか?
実写作品やアニメのスクショを使った「大喜利」や、画像つき「ネットミーム」などもそんな感じで「本来ならアウトだけど目をつぶってもらえていた」部分があるのではないでしょうか?
…ですが、そんな版権画像がAIで改変可能だとなったら、どうでしょう?
「もうスクショ画像はUPするな」あるいは「Xに投稿するのだけはやめてくれ」という感じで、規制が厳しくなってしまう可能性もあると思いませんか?
- 法令違反の責任はユーザーに丸投げな企業姿勢
言うまでもない話なのですが、生成AIを間に挟もうと何だろうと、著作権侵害は著作権侵害で、肖像権侵害は肖像権侵害です。
…が、昨今はその種の法令違反の責任を、ユーザー側だけに負わせようとするAI事業者も多いのです。
法律についての知識も無ければ、プラットフォームの利用規定やガイドラインもロクに読み込まない…そんな利用者は、数多いと思われます。
(利用規定やガイドラインって、大概細かい文字がビッッッシリで、読むのが嫌になるものばかりですからね…。いつの間にか改訂されていて、その変更内容を追えていないパターンもありますし…。)
そういう利用者がプラットフォームに新たな機能を見つけたら「これ、使っても良いんだ」「これで何でもやって良いんだ」という誤解をしかねません。
…ですが、例えばそれで著作権侵害が起きたとしても、それは「利用者の責任」「我々は一切責任を負いません」というのが、企業側の姿勢です。
(Xは来年1月に利用規定を改定しますが、そこにそういう姿勢が明示される(ユーザーが責任を負うことがより明確に反映される)予定のようです。)
Xについてもそうですが、動画生成AI「Sora」を有するオープンAI社も著作権侵害に対してはそんな姿勢なんですよね…。
オープンAIはそもそも、ユーザーの法令違反どころか、著作権保護さえ著作権者に丸投げしようとして批判を浴びた過去があります。
Sora2がリリースされた際、著作権がオプトアウト方式という「著作権者が拒否の申し立てをしない限り、著作物をAIで自由に使われてしまう」というシステムが問題となりました。
恐ろしいことにコレ、Sora2の利用者だけの話ではないのです。
全世界の著作物が、拒否申請しない限り「勝手にAI生成動画に使われてしまう」という話だったのです。
(中にはSora2の存在自体「気づいていない」著作権者もいるでしょうに…。)
実際、Sora2ではポケ○ンやドラゴンボー○などの日本のコンテンツも勝手に生成され、各所から批判が出ました。
(そんなこともあり、現在はオプトイン方式に変更されたとか…。)
海外のAI事業者はそんな感じで「これで批判が出ないとでも思ってたのか?」くらいなシステムや機能を平気で出して来ることが多々あります。
日本に住んでいる我々は「企業が出してくれているからには使って良いものなのだろう」「サービスとして世に出ているものなのだから合法で安全なのだろう」と勝手に思い込んでしまっている所があるのではないでしょうか?
ですが海外の企業は日本の企業とは考え方がまるで違います。
「使って良いのだろう」と勝手に思い込んで安易に使うと痛い目を見ます。
(オンラインカジノなども、そんな感じで「使って良いと思っていた」「違法だとは知らなかった」で逮捕されてしまった例も多いと聞きますし…。)
なので、ちゃんと知識を学んで自分で自分を守らなければなりません。
つまりは、法令違反しないための著作権法の学習なども、ユーザーの側が負わなければならないということなのです。
(これが「タダより高いものはない」なんでしょうね…。だから、そこら辺の意識がしっかりしていて「三方よし」な精神を守ってくれる日本企業がAIで覇権を獲ってくれないかと思ってしまうのです…。まぁ最近は国内企業だからと言って安心しきれない部分もありますが…。)
- 性善説前提のシステムなんて、もう無理なのでは?
上の項目を読んでもお分かりかと思いますが…
事業者は「我々は機能をリリースしただけ。悪用されても、悪用する人間が悪いだけ」というスタンスです。
まるで悪用する人間など「ほとんどいない」とでも言いたげな姿勢ですが…
過去の事例を見れば、SNSの悪用事例なんて、AIが浸透する前から既に山ほどあるんですよね…。
大災害が起きた際に災害に関するフェイクニュースが流れたり、被災者を装って助けを求める投稿があったり…
X上でもかなりありましたし、問題にもなりましたので、運営が把握していないとは思えないのですが…
それでも事業者は「悪用されたらとんでもないことになる機能」を平気で世に出すのでしょうか?
今の世の中を見ていると「性善説」…すなわち「人は元々善だから、悪いことなんてしない」を前提としたシステムなんて、もう無理があるように見えます。
…というよりそもそもコレは、性善説を隠れ蓑にした企業側の責任放棄なのではないでしょうか?
自分は一応、大学で法律を学んできた人間ですので「権利と義務は表裏一体」という考えを持っています。
企業として利益を得ておきながら、そのサービスによって生み出される実害は「我関せず」というのは、許されるものなのでしょうか?
サービスを提供するなら、そのサービスが「世にもたらすもの」について、ある程度の責任や義務を負うのは「当たり前」なのではないでしょうか?
…むしろ世の人々は、もっとそこの部分(責任を丸投げされている件)を怒って良いと思うのですが…。
ちなみに、この手の議論でよく言われるのが「包丁だって良いことにも悪いことにも使える」ですが…
日本では6cmを超える長さの刃物って、銃刀法違反でそうそう持ち歩けないんですよね。
猟銃なども免許や保管方法が厳しく法令で決められています。
そういう「危ないモノが危ない目的に使われないように」というルールって、ちゃんと考えられて整備されているのです(それでも防げない事件はありますが…)。
…ですが、AIはまだ技術的に新し過ぎて法律も規制も間に合っていません。
今のAI事業者たちのやり口って、そういう「ルールが間に合っていない」ことを逆手に取った「暴走」なんですよね…。
こんな事業者ばかりが覇権を争い合っているAI業界って、本当に何だか嫌になるんですが…。
- AI改変機能がある限り「X上の画像はとりあえず全て疑ってかかる」が原則になる
上でも書いたSora2では、あまりにもリアルなフェイク動画が作れてしまうことも問題となっています。
一応ロゴは出るのですが、ずっと出続けるわけでも、そこまで目立つわけでもなく、加工で消されてしまっている例すらあります。
そもそもSora自体を知らない人にとっては、そのロゴだけでAIだと気づくこともできないため、いろいろと問題なのです。
そんなこともあって、近頃はAIでのフェイク動画/画像に嫌悪感や拒否感を持つ人も増えている印象があります。
…それはそうですよね。
本物だと思って信じていたら「実は存在しなかった」って…普通に「騙された」と、ネガティブ感情を抱く案件じゃないですか。
個人的なことを言わせてもらえば、自分は「リアルに存在する猫」を愛でたいのであって、どんなに可愛く利口な猫でも「存在しない猫」を愛でさせられたくはないのです。
存在しない猫を一瞬でも「わ~、可愛いネコチャン♪」などと思ってしまった日には、その感情の行き場がなくなり、どうにもならないモヤモヤばかりが残ってしまうのです。
(最初から存在しないと分かりきっている「あきらかCGな猫」や「アニメやイラストな猫」は当然、話が別です。)
…で、話を戻してXの件ですが…
Xの件の新機能は、そんなAI画像を、お手軽に作れてUPできてしまう機能です。
(しかも、自分の画像だけでなく、他人の画像も使えてしまう点がタチが悪すぎるのです。)
つまりは今後、X上には相当数のAIフェイク画像が溢れてしまう可能性がある、ということです。
AIフェイクは悪用だろうと悪用ではなかろうと、見る人を混乱させる可能性が高いシロモノです。
うっかりそれを「本物」だと信じてしまうと、痛い目に遭いかねないのです。
(AIで「盛りに盛った」人物画像や商品画像を「リアル」と勘違いした後、本物を見てガッカリ…というパターンは出てくるでしょうし…。上でも書いたように「勝手にUPされた有名人の画像」も加工できてしまうとなると、既に問題となっているような「有名人を使った詐欺広告」も簡単に作れてしまうわけです。)
今後、X上に上がっている画像はとりあえず、一旦全て疑ってかからなければならないのかも知れません。
…これも事業者がユーザーに押しつけている「責任」なのかも知れませんね。
正直、こんな企業姿勢という時点で、見限る理由が山ほどあるのですが…
そろそろ本気でX離れを考えてみる時期なのでしょうか…?
このまま行くと、AIの進化は確実に止まる――自分がそう危惧しているのには、理由があります。
それは、多くのAI事業者が利用者を「囲い込む」ことに夢中になり、AIの「外」に人を送り出していないからです。
…と、ここまで言っても、多くの人々は「それで何故AIの進化が止まるのか」ピンと来ないことでしょう。
下手をするとAIを運営する「事業者」ですら、そこへの想像が働いていないのかも知れません。
…だって、そこの想像力が真っ当に働くなら、こんなあからさまな「自滅行動(消極的な自殺行為)」を取っているはずがありませんので…。
それは、多くのAI事業者が利用者を「囲い込む」ことに夢中になり、AIの「外」に人を送り出していないからです。
…と、ここまで言っても、多くの人々は「それで何故AIの進化が止まるのか」ピンと来ないことでしょう。
下手をするとAIを運営する「事業者」ですら、そこへの想像が働いていないのかも知れません。
…だって、そこの想像力が真っ当に働くなら、こんなあからさまな「自滅行動(消極的な自殺行為)」を取っているはずがありませんので…。
- どんなにAI精度が進化しても、学ぶべき情報が無ければ意味が無い
どうにも皆さん「AI」と言うと「半導体」ですとか「データセンター」ですとか「AIモデル」ですとか、ハード面やシステム面の進化や精度ばかり気にしているようですが…
そもそもAIって「情報」を「深層学習」することによって進化しているものですよね?
AIそのものの精度をどれほど上げたところで、学ぶべき「情報」が存在しないなら、まるで意味が無いはずなのですが…
なぜか昨今のAI事業者たちは、その情報源を「減滅させる」方向に動いています。
皆さんもご存知の通り、昨今の大手AI事業者は「ネット上の情報」を学習させることでAIの開発コストを抑えているのですが…
そうやって出来上がったAIは、情報源から得た情報を「要約」して出しはするものの、情報源へのリンクを出さなかったり、出しても目立たせなかったりして、利用者をAIの「外」へ出さないように「囲い込んで」います。
(なお、AI事業者は情報源への正当な対価を支払っていないことでも度々問題(訴訟)になっています。某検索サイトGのAIモードがEUから競争法違反の疑いで調査されていたり…。)
実際、国内での某検索サイトG経由のサイト訪問は、ここ2年で33%も減少しています。
実はこれ、AI学習の「情報源の崩壊」の一歩手前な状況なのですが…
このまま行くと数年後にはAIの学習すべき情報が枯渇するか、あったとしても相当に質の低いものばかりになり、AIの存在意義自体が危ぶまれることになりかねないのですが…
皆さん、本気でこの状況の意味するものに気づいていないのでしょうか???
- サイトやブログは訪問者あってのもの
日本には質の高い情報を提供してくれるサイトやブログがたくさんあります。
それは決して「大手」のマスコミや企業のものばかりでなく、中小企業や個人のものでさえ、きめ細やかな「お役立ち情報」を出してくれています。
実際自分も、冠婚葬祭の折、ブライダル事業者や葬儀社のサイトにどれだけ助けてもらったか知れません。
でも、この種の「お役立ち情報」…べつに「ボランティア」で提供されているわけではないのです。
もちろん「世の役に立とう」という意識はあるでしょうが、その最大の目的は「その情報によって人を呼ぶこと」。
サイトやブログに人を集めることが目的なのです。
たとえ受注につながらない遠い地方からの閲覧だとしても、訪問者数が増えれば評価が上がり、検索上位表示される可能性が上がります。
そうやって利用者と情報提供者のWin-Winの相互利益関係で回っていたのが、今までのネットの世界だったのです。
ですがAIの登場は、この関係性を崩します。
皆が皆AI回答やAI要約だけで満足して、サイトやブログに行かなくなってしまったら…
わざわざ時間と手間をかけてネットに情報提供しても、何の意味もなくなってしまいますよね?
ビジネス系サイトのみならず、個人の趣味のサイトも同様です。
HPやブログ、動画サイトなどで様々な趣味のノウハウを紹介してくれている方は多いですが…
どれもこれも「見てくれる人がいるから続けていられる」のではないでしょうか?
苦労して記事や動画をまとめてUPしても、見てくれる人もなく、反応も無い…そんな状況が続けば、心が折れてやめてしまう人も多く出て来るのではないでしょうか?
(さらには自分のUPした「人のためになる情報」をAIに「横取り」されて、得られるはずだった「反応」も「報い」も全て持って行かれていると知ってしまったら、絶望以外の何ものでもありませんよね?)
AIがユーザーを囲い込んでネットへの流入を阻めば阻むほど、ネットは不活性化し、有益な情報がどんどん消えていきます。
いわばAI事業者がやっていることは「立派なダムを作って水を貯めたけれど、水源を枯らそうとしている」行為なわけですが…
…本当に何故、こんな自滅行動に走っているのでしょう?
そもそもAIユーザーの何割かは「ネットで集客するためのコンテンツをAIで作りたい」という人々でしょうが…
AIで優れたコンテンツを作れたところで、そのコンテンツへの集客自体をAIによって阻まれてしまうなら、何の意味もないですよね?
むしろ、ただ無駄にAIに時間(あるいは利用料も)を取られただけになってしまいますよね?
広告主に「AIモードができてもサイトへのトラフィックは減りませんから大丈夫ですよ」的なことを言っておきながら、実際ガッツリ流入を減らしている某検索サイトといい、どうしてAI事業者って、そういうことをするんでしょうね?- 真っ当な事業者は「持続可能性」を求める
もしかしたらAI事業者は「AIに必要な情報は既に得た。あとは用済みだ」とでも言うつもりなのかも知れませんが…
それだとAI開発当時のネット情報を永遠に擦り続けるばかりで、時代に合わせたバージョンアップもできません。
(世の常識やマナーは時代によって変化していくものです。新しい情報が得られなければ、AI回答は古い情報のままで「いつの時代の話?」ということになってしまいます。)
あるいはAI事業者は「どれだけ水源を荒らそうと、どこからか水は湧き出るものさ」と楽天的な考えでいるのかも知れませんが…
その「水」が「以前と同じ質」とは限りません。
むしろ「AI生成コンテンツ」ばかり増えて「既にAIが知っている情報」をAIが「再学習」するという、新たなフェーズの「AI狂牛病(モデル自食症:Model Autophagy Disorder)」が発生するだけかも知れません。
今ならまだ、確実に質が高いと分かっている情報源を、確実に守ることができるのに…
わざわざそれを潰して、質がどうかも分からない、湧き出るかも分からない「次」に期待するなんて、あまりにも非合理的です。
…この非合理的な企業姿勢を見てふと思ったのが「もしかして、海外に寿命の長い企業が少ないのは、そういうことだったのか?」ということでした。
たとえば日本の企業は、山から木を伐採した分、また新たな苗木を植えて森を育てたりしますよね?
木を伐るだけ伐ってそこで「おしまい」ではなく、この先もずっとそれを続けられるよう、持続可能なサイクルを作っているのです。
海外のビジネス事情には詳しくありませんが、そういう考えを持っている企業って、海外では少ないのでしょうか?
目先の利益を取るだけ取って、数年後の自分たちの首を自分で締めて破滅しても「時代の流れが悪かった」で終わりなのでしょうか?
その数年後の破滅を回避するために「今」できることがあるのに…
そこに想像を働かせ行動しようという意識を、まるで持っていないのでしょうか?
- AIとネット文化が「共存」する道は普通にある
AIの進化を止めず、ネット文化の衰退も防ぐ…その方法は、普通に存在します。
言うまでもないことですが…AIがむしろ積極的に、ネットの各サイト・ブログへの人の流出を推し進めれば良いのです。
いわば、これまでの検索サイトの「上位互換」になれば良いわけですが…
これが出来ていないのって、AI事業者が「そんなことをしたらAIの利用時間が減るじゃないか!」「AIに人が戻って来なくなったらどうする!?」と過剰に身構えてしまっているからなのでしょうか?
…それでAIの進化が止まって使い物にならなくなったら本末転倒なのですが…
人ってそこまでして、他者に利益を持たせたがらないものなんですかね??
自分だけが利益を独占して、結果それで首が回らなくなっても良いのでしょうか??
むしろ、AIとネットの各サイト・ブログとの間にWin-Winな相互利益関係が生まれれば、どちらも共に寿命を延ばしていけるはずなのですが…。
AI事業者が閉ざそうとしているものは、もしかしたらAIの未来のみならず、人類そのものの未来なのかも知れませんよね…。
ちなみに、AI事業者によるコンテンツの無断学習&利用問題については、最近ニュース記事で見たKDDIとGoogle Cloudの戦略提携の話が、個人的に気になっています。
予め許諾を得たコンテンツを生成AIへ提供し、それをユーザーが使えば収益が分配される仕組みを想定しているようですが…。
記事の内容だけでは、その仕組みで「どこまで」のコンテンツ提供者をカバーできるのかは分かりませんでしたが…。
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