忍者ブログ
日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
AⅠ生成物を「必要なチェック」をしないまま世に出してしまう「間違いだらけのAⅠ導入」について、過去記事で書きましたが…
 
今回はそれとは別タイプ――「AⅠがそぐわない場面にAⅠを持って来る」という形での「間違ったAⅠ利用」について触れていきます。
 
このタイプの「間違ったAⅠ利用」は、かなり深刻です。
 
というのも、このタイプの「間違い」は過去に炎上した事例も多々あり、顧客の満足度や信頼度に直でダメージを与えるものだから、なのですが…
 
これも結構、気づかずに「やらかし」ている企業、多いんですよね…。
 
なお、AⅠにはコンプライアンス上の問題や倫理上の問題などもあるのですが、そこに触れると話が大きくなり過ぎるため、ここではビジネス上のリスクに関してのみ語っていきます。
 

【もくじ】
AⅠの「対極」にある商品にAⅠを使ってしまった炎上事例

商品を宣伝する時って「イメージ」が大切ですよね?
 
「天然水」を売りたいのに、CMの背景に「排気ガスだらけの工業地帯」を選ぶ広報担当者がいるとしたら、センスを疑いませんか?
 
ですが実際、だいぶそれに近いことを「やらかし」て炎上した企業がありました。
 
海外イベントで日本製の「画材」をアピールするのに「AⅠによるイラスト」を使ってしまった企業があったのです。
 
当たり前の話ですが、画材とは人間が手を使って絵を描く際に使う道具です。
 
「AⅠイラスト」はその対極にある「人の手を使わない絵」です。
 
これは「人間」と「機械」くらいの真逆のイメージで、全く「広告」としてのイメージを成していません。
 
それどころか「画材」を宣伝するのに「人の手を使わない絵」を使うということは「人の手で絵を描くこと」を否定しているようにさえ見られてしまうのです。
 
画材を売りたい会社が「絵なんてAⅠに任せておけば良くない?」と受け取られかねない広告を出すって、致命的な想像力不足ですよね…。
 
(なお、話が逸れるためここでは詳しく触れませんが、AⅠと「イラスト」についてはコンプラ面での問題もあります)
 
今の時代は、たとえ海外のイベントで出された海外子会社の独自広告でも、瞬時にSNSで世界中に拡散されます。
 
この件は国内でも物議を醸し、日本にある親会社までが対応に追われる羽目になりました。
 
この件がここまで炎上した背景には、単に「真逆のイメージだった」というだけでなく、そもそもこれが「AⅠにそぐわない分野だった」ことがあります。
 
AⅠ生成物は「人の手を使わない機械生成物」。
 
「人間の手でやることに意味のある分野」「人間のぬくもりが求められる分野」にはそぐわないのです。
 
「人間と最新テクノロジーとのコラボで今までに無い革新を」と考える人もいるかも知れませんが…
 
そこにAⅠを導入するにあたっては「人間だからこその良さを台無しにしない」「人間性を否定しない」という細心の配慮が必要となります。
 
たとえば、学生が「思い出に自分たちの声でオリジナル朗読劇の動画を作ろう」と言い出したとして…
 
そこに「AⅠを使えば好みの声を使い放題で一瞬で作れますよ」なんてことを提案しようものなら、サイコパス過ぎて大炎上じゃないですか。
 
(なお、話が逸れるためここでは詳しく触れませんが、AⅠと「声」についてはコンプラ面での問題もあります)
 
AⅠが何でもできるからと言って、何でもAⅠにやらせれば良いというものではありません。
 
その人々にとっての「大切なもの」を踏みにじるような提案やアピールを行えば、それは企業の倫理感や人間性を疑われ、世間の信頼を失うことになるのです。
 
【→もくじへ戻る】
 
「人間の感覚に訴える分野」で「人間の感覚が持てないAⅠ」に丸投げする意識の低さ

上の例以外にも、AⅠに「向いていない」分野はいくつか存在します。
 
そのうちのひとつが「人間の感覚に訴える分野」です。
 
上でも書きましたが、AⅠ生成物は結局のところ「本物」ではない「機械生成物」。
 
その生成画像に「違和感」を覚える消費者は少なくありません。
 
AⅠ画像による「食べ物」が「おいしそうに見えない」という声は、その典型例かと思われますが…
 
AⅠでどんなにカンタンに宣伝を作れたところで、その画像が人間の食欲を刺激できないなら、宣伝としての効果がありません。
 
同様に、AⅠによる宣伝画像が「気持ち悪くて目にも入れたくない」ものなら、それはただ消費者を不快にするだけの無意味な画像でしかないのです。
 
企業はAⅠを広告に使う前に「AⅠ画像が人に気持ち悪いと思われるのはなぜなのか?」「どうしたら気持ち悪さを消せるのか?」を真剣に研究すべきかと思うのですが…
 
これをせずに「気持ちの悪いAⅠ画像」を垂れ流しにしているのだとしたら、その企業はAⅠによる「業務効率化」にばかり目が行って「消費者の心理」にまるで目が向いていないのでしょうね…。
 
それどころか、もしこれが広告事業者の仕事なのだとしたら、お金を出してくれる広告主にすら意識が向いていないのかも知れません。
 
「無意味なだけの不快な広告」って、お金と手間ヒマをかけたセルフ・ネガティブキャンペーンでしかありませんよね…。
 
過去記事にも書きましたが、AⅠには「知識」はあっても「人間と同様の感覚」はありません。
 
AⅠ独自の感覚ならひょっとして持っているのかも知れませんが…「リアルな人体図に気持ち悪さを覚える」「シワやシミをリアルに描き過ぎると気持ち悪くなるからデフォルメする」といった「人間ならではの感覚」は持っていません。
 
よって、真っ当な感覚を持つ「人間」がその足りない部分を補う必要があります。
 
「人間の感覚を持たないAⅠ」に「人間の感覚に訴える広告」を丸投げしてチェックもしないのは、あまりにも意識が低過ぎるのです。
 
「世の中に、なんだか人間の感覚に合わない気持ちの悪い画像が溢れてきたな」と感じたら、それは「そういうこと」なのかも知れません。
 
【→もくじへ戻る】
 
「本物」を求める人に「AⅠフェイク」を出す不誠実性

AⅠにそぐわない分野は他に「本物が求められる分野・場面」が挙げられます。
 
誰しも「本物」だと信じていた物が「偽物」だと分かったらガッカリするかと思いますが…
 
消費者・顧客が「本物」を求めている分野・場面で「本物と見紛うフェイク」を出すのは、そんな「ガッカリ」「裏切られた心理」を生み出すリスキーな行為なのです。
 
つい最近、他社が販売していた「AⅠ生成によるモデル画像」を「AⅠで盗用」した美容院があり、著作権侵害裁判となりましたが…
 
そこで「AⅠ画像に著作権はあるのか?」という本筋の議論とは別に、ネットで話題になっていたことがありました。
 
それは「AⅠ生成のカットモデルを使うのは、その美容院の実力を偽装する詐欺なのでは?」という疑問の声です。
 
これには「モデル画像はあくまで手本や見本であって実力を示すものではない」「レストランの食品サンプルだってニセモノでは?」といった声もありましたが…
 
ここで企業家が注目すべきなのは「そのAⅠ画像を美容院の実力証明(その美容院で実際にカットされた髪型の写真)と信じてしまう客がいる」という事実と「それが偽物と分かれば、一気に信用失墜につながる」という構図です。
 
某公共広告機構が「ダメな広告の例」として挙げているものに「嘘」「大ゲサ」「まぎらわしい」がありますが…
 
「本物と見紛う画像」「本当は存在しないのに、あたかも存在しているかのような宣材画像」は、「嘘」とまではいかずとも、だいぶ「まぎらわしい」のではないでしょうか?
 
たとえばAⅠモデル画像を使っていたとしても、そこに「AⅠ生成のイメージ画像です」の注意書きがあったなら、それが美容院で実際にカットされたものと誤解する客はいなかったはずです。
 
上の議論で出ていた「食品サンプル」も、明らかに「作りもの」なサンプルを「これがそのまま出て来る」と思う客はいないのではないでしょうか?
 
既にお分かりでしょうが、ここでのAⅠ利用のポイントは「AⅠ画像(動画)で誤解を招いてはいけない」ということです。
 
特にそれが実物より良く「盛られた」ものだった場合、消費者は「騙された」「詐欺だ」という気持ちになります。
 
「今までだってCGで『盛る』ことはあっただろう」という声もあるかと思いますが…
 
いかにもお金のかかったCMや広告なら、視聴者は最初から「盛ってるんだろうな…」という目で見ているのではないでしょうか?
 
たとえキレイに盛られた画像・動画であっても、それが最初から「ニセモノ」と分かっていれば、消費者は嫌悪感を抱きません。
 
問題は「いかにも盛っていなさそうな(本物だと信じてしまうような)リアルな画像・動画」で「フェイク」を出してくることなのです。
 
さらには今の時代、実際にリアルなAⅠフェイク画像・動画を使った「詐欺」が横行しています。
 
そのため、ネットリテラシーの高い人間なら既に「リアルなAⅠ画像・動画」に対して警戒心を抱いています。
 
そんな「詐欺のためのAⅠフェイク」と混同されないため、企業は「我々にはAⅠを使って消費者を騙す意図は無い」と示していく必要があるのです。
 
なお、リアルなAⅠ広告自体を「うさんくさい」と言う声は既にありますし、自分も明らかにAⅠなのにAⅠという表示をしていない広告は、詐欺を疑って一切クリックしません。
 
「本物」を載せられない詐欺集団がAⅠフェイクを使うのは「当たり前」な話ですが、「本物」をいくらでも載せられるはずの公式企業がAⅠフェイクを使うのは、わざわざ信頼性を低下させる「もったいない」やり方に思えてならないのですが…。
 
【→もくじへ戻る】
 
真面目な報道系メディアがAⅠ写真を使わない理由

これは既に起きてしまった失敗事例ではなく、未来の炎上や信頼性低下に備えた「予防」の話なのですが…
 
ニュースメディアでは、報道写真にAⅠ画像を使わないという取り決めを行っている所があります。
 
これ、どういう理由なのかお分かりになるでしょうか?
 
報道の「本来の意義」を考えていただければ、すぐ分かるかと思いますが…
 
ズバリ「報道機関は真実を伝えるのが使命だから」です。
 
昨今、不適切報道だ偏向報道だと騒がれがちなマスメディアですが、その核にある「理想」はあくまでそうなっているはずなのです。
 
現場見取図やグラフなどにはAⅠが利用される可能性もあるかも知れませんが…
 
報道写真にAⅠを使ってしまえば、それはもはや「真実を報道している」状態ではなくなってしまいます。
 
(むしろ、そこでAⅠ加工された画像を安易に使ってくるようなら、その時こそマスメディアの終焉と言って良いでしょう。)
 
「多少見栄えを良くするくらい構わないだろう」と言う人もいるかも知れませんが…
 
人間、一度それを許すと、ズルズルとエスカレートし、しまいには人や現場の「形」まで加工してしまいかねません。
 
そしてAⅠの生成する画像はあくまで「推測」であり「真実」ではないのです。
 
(実際、暗くて見づらい写真をAⅠで見やすくしようとしたところ、元の形とは違う形に生成されたという事例が、過去にありました)
 
さらに言うと、昨今は「真実」の写真であっても、すぐに「AⅠでは?」と疑われる世の中です。
 
マスメディアが普段から平気でAⅠ画像を利用するようになったとしたら、どうなるでしょう?
 
狼少年よろしく、真実の写真を出しても「AⅠでは?」と疑われるのがオチではないでしょうか。
 
さらには昨今「本物の証拠」を「こんなのAⅠでいくらでも作れる」と言って否定してくる「疑惑の当事者」もいます。
 
(最近、音声データでそれがありましたよね?その後、研究機関の調査で「本物のデータ」だと証明されていましたが)
 
AⅠフェイクを常用していると、次第に「リアル」が見分けづらくなっていきます。
 
真実を報道すべきメディアまでそれを多用してしまえば、読者・視聴者は何を信じて良いのか分からなくなります。
 
世の中の「真実」を見えなくしてしまわないために、報道メディアは読者・視聴者に「AⅠ(ニセモノ)だと疑われる余地」を作ってはいけないのです。
 
なお、あくまで個人の見解ですが…たとえ「イメージ写真」であったとしても、見出しのサムネイルや記事のトップ画像に、一見本物のようなAⅠ画像が使われていると「ニセモノか(本当の写真じゃないのか)」と信頼度が下がります。
 
(これも上の項目と同じく「本物」を求めていたのに「フェイク」を出されてガッカリする事例ですね)
 
昨今、本文記事とビミョウに合わない「釣り見出し」も増えているので、そういう「騙しのテクニック」みたいなので釣られてしまうと、どんどん「裏切られた感」が強くなり、信頼感が下がっていくんですよね…。
 
【→もくじへ戻る】
 
AⅠ時代があぶり出す「人間性」

AⅠ時代には「人間性」が求められる――少し前からよく聞くことですが、様々な企業のAⅠ利用失敗事例を見ていると、そのことがよく分かります。
 
AⅠの使い方を間違えて炎上する企業には、ある共通項があります。
 
それは「目先の利益ばかりを追って、見るべき“人”に目を向けていないこと」です。
 
例えば、簡単に安く広告が作れることにばかり目が行って、その広告を見る人間の心理に目が向いていない…
 
人間心理を無視した「効果の無い広告」で、広告主(クライアント)である法人に損失が生まれることに目が向いていない…
 
そして、目先の利益を追った先で自分たちにどんな炎上リスクが待っているのかに目が向いていない…
 
結局のところ、AⅠ利用に失敗する人々は、あまりに狭い範囲で損得を考え「その先にあるもの」が見えていないのです。
 
AⅠによるコスト削減や業務効率化などは、外部の人間にはまるで関係無い「内部事情」です。
 
そんな「内部事情」のために雑に扱われ、不利益を被ったなら、その企業への信頼が揺らぐのも当然ではありませんか?
 
ビジネスは、その企業一社だけで成り立つものでありません。
 
消費者があり、取引先企業があって初めて成り立つものです。
 
古くから伝わる商いの心得に「三方よし」というものがありますが…
 
AⅠ利用に失敗する企業は、自社の「一方さえ良ければ良い」で、他の二方…「客」も「世間」もまるで見えていないのです。
 
AⅠ時代に必要な「人間性」とは、「自分」以外の「客」や「世間」に、きちんと目が向けられること。
 
さらに言えば、その「目を向ける」も「ひとりよがりな押しつけ」ではなく、ちゃんと相手のニーズや不安に耳を傾けることなのです。
 
(「今のままが最善」なのに、クライアントに無駄にAⅠ導入させて、かえって業務を混乱させる企業なんかもありそうですからね…)
 
そもそも真っ当な企業なら、消費者・顧客の「目につく場所」にAⅠを使う場合、まずはAⅠに対する「世間の声」をリサーチするものだと思うのですが…。
 
(たとえば広告に使いたいキャラクター候補にだって、事前にある程度はイメージ調査や好感度調査をやりますよね?)
 
それなのに、過去に炎上やネガティブ意見が出た事例と、ほぼ同パターンの「嫌われる使い方」をする企業があるのって、何なんでしょうね…?
 
(好意的な意見にしか耳を貸していないのか、ネガティブ意見を軽く見ているのか、あるいは炎上覚悟でやるしかないほど予算や時間が無いのか…)
 
AⅠに対する意見を「全て」追うのが難しくても、他社で炎上が起きた際に、その原因と世間の声を調べることくらいはできるはずですし、後学のためにかなり参考になると思うのですが。
 
自分は以前から「AⅠ」は人や企業を測る「リトマス試験紙」だと思ってきました。
 
AⅠをどう扱うかで、その人や企業の「人間性」を窺い知ることができるのです。
 
自己の利益ばかりを追求し、周りの人間や世間への配慮(特に悪影響への対策)が何も無い人や企業というのは、つまりは「そういうこと」なのでしょうね…。
 
自分ばかりを大切にして周囲に目が向かない人や企業というのは、客にとっても取引先にとっても、あまり有難い存在ではありません。
 
あるいはそもそも「人間性」以前に、「思考停止」して何も考えていないだけなのかも知れませんが…。
 
(世間がAⅠに「キャッキャアハハ」している中、思考停止せずAⅠのマイナス面にもちゃんと目を向けるということ自体、実はとんでもなく難易度の高い情報リテラシーなのかも知れませんね…)
 
【→もくじへ戻る】
 


<過去記事一覧(サイトマップ)はコチラ>
PR
ビジネス分野でのAⅠ導入が始まった頃、自分がまず思ったのは「これはチェックするのに人手がかかって大変だ」でした。
 
しかし、実際にAⅠ導入が始まって各企業が始めたのは、その真逆の「人員の整理(リストラ)」や「取引先の整理」でした。
 
それも、自分の感覚からするとどう考えても時期尚早な「まだAⅠが実際のビジネスに『使える』かどうかの経験値も貯まっていない(潜在的なリスクがまだ見えてきていない)」段階での大規模人員整理が目につき…
 
「ひょっとして企業の経営者って、AⅠの弱点と、それを克服するために為すべきことに気づいていないのかな?」と疑問を持ったのですが…
 
実際、企業運営やAⅠ導入に関わる人達って、どこまで『このこと』に気づいていらっしゃるのでしょう?

【もくじ】
人間なら踏み超えない「ライン」をAⅠは平気で超えてくる(コンプラ・モラルの問題)
 
意外と気づいていない人が多そうなのですが、AⅠの最大にして最悪の欠点は「分別を持たないこと」です。
 
なぜなら「分別」はだいたいの場合、「暗黙の了解」や「人間の無意識に刷り込まれたもの」で、明文化されてもいなければデータ化されてもいないからです。
 
AⅠはネット上に存在するデータなら学習することができますが、ネットに上がっていない…ましてデータになりようもないモノは学べません。
 
AⅠって、著作権を侵害するデータや児童ポルノ禁止法違反のデータも、普通に生成してユーザーに渡してしまいますよね?
 
企業の業務を混乱させるようなウイルスも平気で作ってしまいますよね?
 
時に平気で嘘をつき、あやふやな情報でも断定口調で語り、ユーザーに自殺願望を抱かせるようなことを言い、さらには他社にハッキングを仕掛けたりしてきましたよね?
 
でも、AⅠにはそもそも「それをしてはいけない」という分別が無いのです。
 
だから、人間だったら決して超えないボーダーラインを平気で超え、コンプライアンス違反や犯罪さえ引き起こすのです。
 
本来ならその「分別」は、AⅠ事業者がAⅠに「教育」して教えるべきもののはずなのですが…
 
そもそも事業者の側に「それをAⅠに教えなければいけない」という分別があまり無いように見受けられます(AⅠにまつわる現状を見ていると…)。
 
(あるいはAⅠの機能を制限しないため「わざと」分別を教えていないのではないかとさえ思えます。…あるいは、AⅠが既に人間による「教育」を受け付けないモノに育ってしまっている可能性もありますが…。)
 
事業者は何か問題が起き、世間に非難されて初めて、AⅠにルールを課します。
 
しかし批判が出ていない…あるいは出ていても無視できる程度のものだと判断すれば「知らんぷり」してきます。
 
(しかも、その「無視できる程度」のレベルが「国家レベルの非難」だったりするんですよね…。X の画像改変問題の時なども、様々な国からの批判が出てなお、なかなか問題を改善せずグズグズしていた上、一旦は「機能を有料会員だけに限る」など「明後日な方向の対応」さえありましたし…。)
 
これまでの例を見ると、海外の事業者にAⅠの健全化を促すのは「期待するだけ無駄」と思っておいた方が良い気がします。
 
つまりAⅠ利用者は「AⅠには分別が無い」ということを前提にして、人間(ユーザー)の側でそれを補わなければならないのです。
 
本当にコレ、本来は「ユーザー」の仕事ではなく「事業者」の仕事だという気がしてならないんですけどね。
 
聞く耳を持ってくれないとしても、もっと抗議はした方が良い気がするのですが…。
 
(それを「したか・しなかったか」が今後の「信頼」に関わってくることもありますので。←海外などでは特に、抗議を「しない」ことはその現状を「支持している」と見られてしまうことがあります。)
 
【→もくじへ戻る】

 
AⅠが持てない「分別」や「感覚」を代わりに担うのが人間の役目
 
AⅠには分別がありません。
 
よって、その生成物がコンプライアンスやモラルを犯していないかを判断するのは「人間」の役目になります。
 
…ですが、そもそもこのことに気づていないAⅠ利用者が多過ぎる気がしてなりません。
 
皆さん「AⅠのすることには間違いがない」と思い込んで、チェックを怠っていませんか?
 
人間がチェックするべきことは、法令や倫理に関するものばかりではありません。
 
「分別」と同様、明文化もデータ化も不可能なためにAⅠが学べずにいるものは、他にもあります。
 
たとえばそれは「生理的な快・不快」や「デリカシー」です。
 
AⅠの生成する画像が「なんとなく気持ち悪い」「生理的に不快」という感想がよくありますが…
 
人間なら無意識で避ける「気持ちの悪さ」も、AⅠは普通に出力して来ます。
 
なぜなら「無意識の気持ち悪さ」は明文化もデータ化もされていない、AⅠの「学習不能領域」だからです。
 
(これに限らず「人間の無意識」は、そもそも人間自身にも「意識されていない」分、AⅠに学ばせることは困難です。)
 
本来はその「気持ちの悪い画像」は人間がチェック段階で弾いて「AⅠに修正を求める」べきなのですが…
 
それがそのまま公開されているということは、チェックがちゃんと機能していないのでしょうね…。
 
さらに言うとAⅠには「デリカシー(配慮)」も欠けています。
 
AⅠ登場以前、胃腸薬等の広告で「腸」の絵が出て来る時って、ピンクのフワフワのデフォルメされたイラストで表されているのがほとんどでしたよね?
 
なぜそうなっていたのかと言うと、リアルな腸の絵だと、気持ち悪くて嫌悪感を抱かれてしまう可能性があるからです。
 
当たり前の話ですが、広告とは商品や企業の「イメージアップ」のために行うものです。
 
その広告で視聴者に嫌悪感や不快感を与えてしまったら、本末転倒どころの騒ぎではないのです。
 
ですがAⅠにはそういった配慮やデリカシーはありません。
 
そもそも「リアルな人体図は気持ちが悪い」という「感覚」がAⅠには存在しないのです。
 
絵に限らず文章などでも、配慮やデリカシーは必要です。
 
言葉というものは繊細で、ちょっとしたニュアンスの違いや表現の違いで誤解を招き「炎上」することも多々あります。
 
AⅠは文法的に間違いの無い文章や、意味的に間違っていない文章を作ることならいくらでもできるでしょうが、「こういう書き方をしたら一部の人に不快感を与えてしまうかも知れない」といった「人間の感覚」に基づく配慮はできません。
 
なので、当然「人間」がその欠けた部分を補うべきなのですが…
 
おそらく、それができていない…それどころか気づいてすらいない企業が多数ありますよね?
 
【→もくじへ戻る】

 
仕事が速いAⅠの全てを、人間がチェックしきれるのか?
 
AⅠは機械ならではの計算速度で、人間より遥かに速く、多くの作業をこなせます。
 
ですが、そのことがかえってマイナスとなる場合もあります。
 
上の項目で「AⅠが出来ない部分を人間が補う必要がある」ということを語ってきましたが…
 
人間より遥かに速く、多くの仕事を積み上げて行くAⅠの「欠けた部分」を、果たして人間はチェックしきれるのでしょうか?
 
AⅠがたくさんの作業をこなす分、チェック人員が大量に必要となりませんか?
 
それとも、チェックは一切無く、分別無きAⅠの生み出したものを「垂れ流し」にするのでしょうか?
 
理想論を言えば、AⅠの欠陥はそれを作った事業者が正すべきものです。
 
しかし、事業者の側にそれを正す意思は(ほとんど)見えません。
 
それどころか、利用規約などで責任を放棄し、AⅠ利用により起こるトラブルは全て「ユーザーの責任」としている所も多いのです。
 
そんな現状の中、AⅠの「分別の無さ」や「配慮の無さ」が問題や炎上を起こせば、それは全てチェックを怠った企業の責任となります。
 
AⅠが認知できない「無意識の気持ち悪さ」や「配慮の無さ」で嫌悪感や不快感を呼べば、イメージダウンにも繋がります。
 
企業はAⅠを導入し人員を整理する前に「何をAⅠに任せて、何を任せないか」をちゃんと考える必要があるのです。
 
「人間の感覚」に訴える分野では、AⅠに生成させたものを人間がチェックするより、最初から「感覚の優れた人間」に任せた方が合理的な場合があります。
 
(AⅠ生成はギャンブルのようなものですので「感覚的に間違ったもの」を何度も出される可能性を考えると、作業時間が全く読めませんから…。)
 
さらには、当然のことながら、生成物が法令違反を犯していないかのコンプラチェックも必須となります。
 
これらのチェック体制を考えると、AⅠの方が得意な分野であったとしても、あえて作業量をセーブしていく必要もあるかも知れません。
 
そもそもまず、AⅠ生成物の「どこ」を「どう」チェックすべきなのか――どうすれば効率的に、間違いなくチェックができるのか…そこからして考え、知見を積み上げていかなければなりません。
 
現在のAⅠ導入というのは、そういったことをどこまで考慮して進められているのでしょう?
 
ちなみに、AⅠは「AⅠの評価を下げそうな事柄」については嘘をつくという研究結果があります。
 
これ、AⅠを扱う上でかなり気をつけなければいけない事柄だと思うのですが…。
 
まさかと思いますけど、AⅠの精度評価までAⅠに丸投げしていたりはしませんよね…?
 
【→もくじへ戻る】

 
AⅠは凡人よりは優れているが、達人には及ばない
 
世の中の「AⅠに対する評価」を見聞きしていて疑問に思うことがあるのですが…
 
どうも皆さん「自分にできないことができる」からと言ってAⅠを評価している節がありませんか?
 
あるいは「その辺にいる一般人」あるいは「そこそこのレベルのプロ」より優れているからと言って「すごい」と評価していませんか?
 
ですが、そのことをもって「AⅠが人間より優れている」と言うのは間違いです。
 
なぜなら、AⅠにはどう足掻いても学ぶことのできない領域があるからです。
 
たとえば、AⅠは見様見真似で人間の創作物を「真似する」ことはできますが、それは「感覚」無き「ただの真似事」のため、感覚の鋭い鑑賞者ならそこに違和感を見出してしまうのです。
 
AⅠは「感覚が無い」がゆえに、理論上は学習元のオリジナル創作物を100%再現することも可能です(※ただし、それは当然のことながら著作権侵害となります)。
 
(コピー機が絵をコピーできるように、データとして取り込んだものは「同じデータ」を出力さえすれば「同じもの」が出来上がりますから。)
 
オリジナルの再現度が高ければ高いほど、「人間感覚の無さゆえの違和感」は減りますが、それは「オリジナルの作者の感覚」がそのまま出力されているだけであって、AⅠが「人間の感覚を持てるようになった」ということではないのです。
 
(そして当然のことながら、オリジナルの再現度が高ければ高いほど、著作権法違反リスクも高まります。)
 
あるいは、センスのある人間がプロンプトに「感覚」を込めれば「感覚のある生成物」は作れるかも知れません。
 
(感覚を「言語化」して、事細かく具体的に「命令」すれば、AⅠはその通りの生成を行ってくれるでしょうから。)
 
ですがそれも「プロンプトを書いた人物」が「感覚」を持っているのであって、AⅠ自体に「感覚」があるわけではないのです。
 
一方で、プロの中でもごく一握り…「達人」の域まで達した人間は「感覚」を極めています。
 
たとえばそれは美的感覚や言語感覚だけでなく、リスク察知能力、トレンド予測能力、潜在ニーズのキャッチ能力だったりします。
 
AⅠは「既にデータ化されたもの」を処理することは得意ですが、データになっていない「感覚」を察知することはできません。
 
どうも最近の企業家たちはAⅠにばかり夢中で、人間をどんどん疎かにしているように見えてならないのですが…
 
AⅠでは代用できない重要な「感覚」を持った人間まで切り捨ててしまえば、取り返しのつかないものを失ってしまうことになるでしょう。
 
以前、自分はこのブログの記事で「今後、AⅠ導入失敗倒産が増えるかも知れない」と書きましたが…
 
そもそも経営「感覚」を持たない企業経営者は、AⅠの導入失敗で業績が悪化したとしても「それがAⅠのせい(使い方を誤っている)」とは気づかないのかも知れませんね。
 
【→もくじへ戻る】

 
 
なお、この記事で述べたのはあくまでAⅠの「最大にして最悪の欠点」についてのみですので、欠点はこの他にもまだあります。
前の記事で「言論封殺は良くない」「どんな意見もあって良い」ということを書きましたが…
 
こういうことを書くと「勘違い」する人も出て来そうだな…と、ちょっと心配になります…。
 
「言論の自由」と言うと、なぜか「何を言ってもいいんだ」と気が大きくなりがちな人が多い気がするのですが…気のせいでしょうか?
 
確かに「何を言っても自由」ではあるのですが…
 
それは「自由と引き換えに、責任がついて回る」という意味での「自由」です。
 
そしてその「責任」は、発言者が「責任を負う・負わない」を選べるようなものではないのです。
 
たとえ発言者に責任を負う気が無かろうが「炎上」という形で勝手に「責任を取らざるを得なくなる」ものです。
 
令和の現在、世の中にはそんな風に「迂闊な発言で身を滅ぼした事例」が数多くあるというのに…
 
なぜ、それでも失言や無責任発言はなくならないのでしょう?
 

【もくじ】

「発言」にばかり夢中で「言い方」に気を遣わない人々

そもそも世の中「意見を言う」ことにばかり夢中になって「意見の出し方」「言い方」を考えない人が多くないでしょうか?
 
むしろ「正論なら何を言ってもいい」「そもそも『言論の自由』があるのだから、何を言ってもいい」と思っている人が多いような気がします。
 
ですが、コミュニケーションスキルが一定以上ある人間なら、気づいています。
 
どんな意見も「言い方次第」で、受け入れられるか、拒絶されるかが変わってくるということを…。
 
皆さん『北風と太陽』の寓話で既にお気づきでしょうが…人間、冷たく当たってくる人の言葉は素直に受け入れられない一方、優しくしてくれる人の言葉はスッと聞き入れてしまうものです。
 
あまりにも普遍的な人間の心理を突いたこの寓話…知らない人間はほとんどいないと思うのですが…
 
なのになぜか皆さん、それを現代の自分の生き方に“応用”できていないんですよね…。
 
SNSなどを見ていると、自分の意見を語る際、過剰に攻撃的な物言いをしたり、他者を嘲笑する人があまりに多いことに吃驚します。
 
そうして“反発を受けて当然”な“北風対応”をしておきながら、実際に自分の意見が拒絶されると怒り狂うんですよね…。
 
“他者の心理”あるいは“他人の目”をあまりにも意識できていないその言動を、ずっと不思議に思ってきたのですが…
 
ネット空間だと、リアルな人間の顔や目が見えないだけに、そういう意識が薄くなりがちなんですかね…??
 
あるいは自分の意見で別の誰かの意見を「論破」する快感に酔ってしまって「その後のこと(不興を買って意見が拒絶される)」が見えなくなってしまうのでしょうか?
 
…あるいはそもそも発言者は「発言すること」が目的になってしまい、その意見が周囲に受け入れられるかどうかなど、どうでも良くなってしまっているのかも知れません。
 
まして、その意見が他者を傷つけるかも知れないことなど、考えもしないのかも知れません。
 
…ですが、上でも述べた通り、自分の発言の「責任」はブーメランで自分に返って来ます。
 
それは発言の「中身」だけでなく「意見の出し方」「言い方」によっても発生するのです。
 
【→もくじへ戻る】
アルゴリズムで精神的視野が狭くなりがちな現代人

最近のネット空間を見ていると「他者を気遣えない人が増えたな…」と感じるのですが…
 
その原因の1つが、アルゴリズムによる「フィルターバブル(フィルタリングバブル)」なのかも知れません。
 
令和の現代で「知らない」人はさすがにいないでしょうが…
 
インターネットの世界では「アルゴリズム」によって、ユーザーの見たい情報が「最適化」されていきます。
 
動画サイト等で一度「かわいい猫動画」を検索すると、それ以降やたらと猫動画がオススメに上がってくるように…
 
運営はユーザーの行動履歴から、表示する情報を「絞り込んで」くるのです。
 
(自分などはそれを「余計なお世話」と思い、なるべく小まめに履歴削除をしているのですが…最近は削除しても効果がなくなってきていて、そのせいでサイトを一定期間離れるとか、よくありますからね…。「狭い情報」に縛られたくない人間にとってはアルゴリズムなんて邪魔なだけなのですが…それが分からない人間の方が多いのでしょうね…。)
 
絞り込まれた狭いジャンルの情報ばかりが表示されると、ユーザーは「この世界にそのジャンルの情報しか無い」ように錯覚してしまいかねません。
 
本当は世の中には、もっと膨大な情報があるのに「フィルターを通された情報」だけしか目にすることができず、そのフィルターで囲まれた泡のような空間だけを「世界の全て」と思い込んでしまう…
 
それが現代の社会問題のひとつ「フィルターバブル」なのです。
 
この罠に嵌まると、やたらとオススメに上がって来る自分だけのニッチな趣味を「全世界的に流行っている」と勘違いしてしまったり…
 
逆に「実は自分の知らない所で大規模に流行っている」ものでも、全くオススメに上がって来ないと「結局流行らなかったんだ」と勘違いしてしまったりしかねません。
 
(つまりは「現実を読み誤る」可能性が高いので、自分は「アルゴリズムで情報が絞り込まれないサイト」を必ず1つ2つは確保しておくのですが…。)
 
この現象は、当然のことながら人間の「意見」「言論」にも影響を与えて来ます。
 
自分と同じ趣味、同じ意見の情報ばかりがアルゴリズムで表示され、真逆の趣味や意見は表示されない…
 
それは、発言者の気を大きくし、自分と真逆の立場の人々を見えなくしてしまいます。
 
そもそも、そうして同意見の人々ばかりが集まり、意見がエスカレートしていくこと自体、「エコーチェンバー」と呼ばれ、社会問題の1つと見なされているのですが…。
 
現代の多くの人々は、そうして自分の意見や意識が知らず知らずのうちに「狭められてしまっている」ことにすら気づいていないのかも知れません…。
 
【→もくじへ戻る】
アテンション・エコノミー下では「過激な発言」ほど好まれる

令和の現代、やたらと発言が「過激」「攻撃的」になりがちな背景には「アテンション・エコノミー(目立ったもの勝ちな経済)」と呼ばれる社会構造が潜んでいるのかも知れません。
 
SNSなどは特にそうですが…現代社会では何かと「数字」がモノを言います。
 
フォロワー数、閲覧数、インプレッションetc…。
 
数字がそのままその人の「能力」とみなされ、数字の大きい人が「インフルエンサー」としてもてはやされます。
 
そしてその「数字」は、実は「クオリティー」とは関係無く上がることも多いのです。
 
「炎上商法」という言葉をご存知の方は多いと思いますが…
 
世の中、わざと「お騒がせ」発言や行動を起こし、注目を集めることで数字を稼ぐ人もいるのです。
 
地道にコツコツ質を上げる人が数字を伸ばせずにいる中、炎上で数字を稼ぎ、ちゃっかりインフルエンサーになっている人がいる…この状況で「真面目に頑張るのが馬鹿らしい」と感じている人も多いのではないでしょうか?
 
「報われないかも知れない努力を地道にやるより、イチかバチかで過激なモノを出した方がいい」…そんな風に感じる人が増えたせいで、今のネット空間はあんなことになってしまったのではないでしょうか?
 
過激発言で自分を売りたい人々は、それで傷つく人々のことなど考えません。
 
むしろ、それで「賛否両論」な論戦が起きれば「注目度が上がり得をする」とさえ考えているかも知れません。
 
…つまりのところ、過激発言を世に増やしてしまうのは、それにいちいち反応する世間の人々なんですよね…。
 
「許せない」と思う心無い発言、攻撃性の高い発言は、スルーするのが一番有効なのですが…
 
(どうしても反論したいなら、リポストや関連付けは絶対しない方向で発言するのが良いでしょう。)
 
昨今、アルゴリズムでそういう「注目度の高い発言」が勝手に表示されてしまう(表示数が上がってしまう)のが、なんとも言い難くイラッとしますね…。
 
【→もくじへ戻る】
万人に通じる意見も、誰も傷つけない意見も無い

世の中を見ていると、どうにも皆さん「絶対的な正解が世の中に存在する」という前提で物を言っているように思えるのですが…
 
この多様性の時代にそれを考えるのは、相当無理が無いですか?
 
この世の中に「万人に通じる意見」などありません。
 
なので意見は「立場の違う人に反対される」ことを前提に発言した方がラクなのです。
 
過去記事にも書いていますが、意見は「言って終わり」なものではありません。
 
むしろ自分の意見を言った後、他者の意見に耳を傾け、妥協点を探っていくことの方が重要なのです。
 
さらに言えば、皆さん「他人を傷つける意見」に過剰反応しがちな気がするのですが…
 
「他人を傷つける」のがいけないことなのは前提としても…「この世の誰も傷つけない意見」も、そうそうこの世にありません。
 
そもそも「他人を傷つけない」ということ自体、一定以上のEQやコミュニケーションスキルが必要な難易度の高いものですし…
 
「この世の全ての人に配慮したパーフェクトな意見」を言える人がいたとしても、「その人に引け目を感じて傷ついてしまう」ということだってあるのです。
 
他人を傷つける発言に対し「人間として終わってる」と怒り狂うのは「誰も傷つけない人間なんていない」「自分もまた、知らないうちに誰かを傷つけているかも知れない」という事実に目が向いていない証拠です。
 
そもそも怒り狂って相手を叩いたところで『北風と太陽』で良い結果には結びつかないものです。
 
「他人を傷つける発言」に傷ついたなら、するべきことは逆に「他人を傷つけない発言」の手本を示すことです。
 
実際問題、ストレートに叩かれるより、「人間としての格の違い」を見せつけられた方が、よほど精神にダメージを与えられると思うのですが…皆さんどうも、やり方が“素直”ですよね…。
 
【→もくじへ戻る】

SNSをはじめとするネットの世界では、連日、何かしら「賛否両論」のバトルが勃発しています。
 
「皆が自由に意見を言い合う」ことって、普通は「良いこと」のはずなのですが…
 
ネットを見ていると、とてもそんな風には思えません。
 
どうにも「言い合い」が「議論」にならず「言葉の暴力の応酬」「バトるだけバトって終わり」になっている気がしてならないのです。
 
これでは見ていて気持ち良くないですし、SNS疲れする人が増えて当然ですよね…。
 
しかも、様々な意見は出るものの、時が経てば皆の興味も別の話題に移り、忘れ去られてしまいます。
 
皆の心を傷つけてまで意見を言い合ったわりに、何の建設的な結果も得られず「うやむや」になって終わり…
 
そして「うやむや」なままで「何も変わっていない」せいで、そのうちまた似たような過ちを繰り返すことさえあります。
 
…どうしてこうなってしまうのでしょう?
 
そして、ネットの世界のこの「ギスギス」を、どうにか解消する方法は無いものなのでしょうか?
 
他者の意見を拒否する人々(自分の意見しか認めない)
 
過去記事に書いた全肯定しか認めない人々とも重なる話なのですが…
 
ネットの中には「自分の意見しか認めない」「他者の意見には耳も貸さない」人々がいます。
 
「自分の意見」を他者にも押しつけ「全世界がそれを認めなければ許さない」…そんな態度の人々がいます。
 
これではそもそも「議論のテーブルについている」とは言えません。
 
他者の意見を聞ける「覚悟」の無い人間に「議論」はできないのです。
 
「議論」とは「いくつか出た意見のうち、1つを採択して終わり」というものではありません。
 
本来は、並べられた意見の「良いところ」は採用し「悪いところ」は補い合って「意見を調整し、アップデートしていく場」のはずなのです。
 
「相手を言い負かしたら勝ち」というものでもなければ、味方を増やして「多数決で圧し潰せば勝ち」というものでもありません。
 
まして「自分の意見を言いたいだけ言って終わり」の場ではないのです。
 
…そもそも世の人々は「自分の意見を通したい」と思いこそすれ「議論をしたい」なんて思ってもいないのかも知れません。
 
でも、「自分の意見を言うだけ言って終わり」「他の意見なんて聞く気も無い」では、あまりにフェアではありませんよね?
 
それはもう「議論」ではなく、ただの「ワガママな自己主張」なのです。
 
どんな意見もあって良い(○○な奴は喋るなの間違い)
 
この種のバトルでよく散見されるのが「知識の無い奴は喋るな」「初心者は黙ってろ」「思考の歪んだ奴は一生黙ってろ」といった感じの「言論封殺」です。
 
…確かに「見当違い」な意見を持ち込んで場を掻き回す人間は「有益な議論だけしていたい」人々にとって「邪魔」なものでしょう。
 
ですが、たとえ「見当違い」で「邪魔」なものでも、意見は意見なのです。
 
それを「知識が無いから」「初心者だから」と封じてしまうのは、結局は「言論の自由の侵害」と同義なのです。
 
こういう場合の「知識の有る人間」「経験値の多い人間」「思考が健全な人間」の為すべきことは「一旦意見を聞いた上で、間違いを訂正し、歪みを正すこと」です。
 
つまり「言わせるだけ言わせてから、反論する」のが正しいやり方なのです。
 
…それをしない(できない)のは、その手順が「面倒くさい」あるいは「無駄な時間に思えてしまう」せいなんでしょうね…。
 
あるいは昨今は、こちらが「正しい知識で反論」しても、相手側が「聞く耳を持たずに反発してくる」…しかも過剰に反撃してこちらを叩いてくる可能性があるから…というのもあるかも知れません。
 
(それと、昨今は「間違った意見」であってもバズれば広まり、信じてしまう人が増えるので、その「間違った意見」を最初から言わせないようにしたい…というのもあるのかも知れません。)
 
それでも、ある種の人々に対して「意見を言うな」というのは、いずれ自分たちの側にもブーメランで返って来かねない「言論の自由のリスク因子」なのです。
 
それに「物を知らないからこそ出せる意見」というものも、世の中にはあります。
 
先入観や固定観念に縛られないからこそ出てくる「自由な発想」が、凝り固まった議論に風穴を開ける可能性だってあるのです。
 
その可能性を失わせないためにも「言論の自由」は誰にでも開かれていなければならないのです。
 
大事なのは「聞く耳」と、自論にこだわらない「思考力」
 
「聞く耳を持たない人々」が議論を成り立たせなくするなら、その解決策は簡単です。
 
つまり皆が「聞く耳」を持てれば良いのです。
 
そもそも「聞く耳を持たない人々」が、なぜ聞く耳を持てなくなるのか…
 
それはおそらく「自論にこだわり過ぎる」せいなのではないでしょうか?
 
「自分の意見に反対する声は、気分が悪くなるので聞きたくない」あるいは「自論を脅かす意見は、不安になるので聞きたくない」…
 
意図的にしろ無意識にしろ、そんな「拒絶」が「聞く耳」を失わせてしまっているのではないでしょうか?
 
…ですが、思うにたぶん、ここが「知性の分かれ目」なんですよね…。
 
何故なら、本当に賢い人間は「自分の意見が採用されること」にこだわらないからです。
 
だって、周りの声を一切拒絶して自分の意見を貫き通したところで…
 
その意見が「間違っていた」なら、周り中を皆巻き込んで「破滅」するだけじゃないですか。
 
本当に賢い人間は「自分の意見を通す」ことよりもまず「自分が意見を間違わないこと(間違っていたなら素早く修正すること)」を優先させるのです。
 
どんなに知能の高い人間も、ピースのそろっていないパズルでは答えを間違えることがあります。
 
だから賢い人間は、常に「足りない」ことを恐れ、情報を求めます。
 
自分の持っていない視点を、他の誰かが見つけてはいないかと、むしろ異論を漁るのです。
 
異論を「一旦受け止めた上で矛盾点を指摘する」ならともかく…
 
「頭ごなしに拒絶する」のは、そもそも思慮の足りていない人間のすることです。
 
そこに気づかず意固地に異論を拒絶している時点で、見る人には「あぁ…その程度の人間なんだな…」というのが分かってしまうのですが…
 
恥ずかしげもなくその「足りなさ」を見せつけている人間が多いのを見ると…
 
そこに気づけている人間って、意外と多くないということなのでしょうか…?
 
「頭が良い」と思われている人の中にも「そういう人」がいることを、常々不思議に思ってきたのですが…
 
ひょっとしたらこれって、IQではなくEQの領域の話なのかも知れませんね…。
 
そもそも議論が「うやむや」に終わってしまうのも、皆が皆「自論」にばかりこだわって「妥協点」すら見出せていないせいです。
 
「自論」を棄てて思考が自由に開かれれば、他の道も見えてくるはずなのですが…。
 
自論にこだわって、それを「疑うこともできない」のって、結局、思考を狭める「足枷」でしかないんですよね…。
 
そんなことで思考力を低下させ、その分「愚かな人間」になってしまうのは、とても「もったいない」ことだと思うのですが…
 
皆さん「自論」にこだわるわりに、自分の「賢さ・愚かさ」に関しては、あまりこだわりが無いのでしょうか?



<関連記事>
 
・「自分と違う意見」を「おもしろい異論」と思えない人の危機感の無さ

「何だか最近、世の人々の思考力が低下していないか?」…この頃ますます、そんな不安に襲われることが増えました。
 
SNSなどのネットの世界では「思考の浅い人」の意見ほど目立ちやすい傾向があるので、そう思ってしまうだけなのかも知れませんが…
 
(ネットでは「声のデカい人」の意見ほど目立つものですし、「声のデカい人」は往々にして「慎重さに欠ける」「深く考えずに物を言う」所があるので…。)
 
ひとつ気になっているのは「最近『思考』ができていない人が増えているのでは?」ということです。
 
物事や意見を、自分の「好き嫌い」だけで選んで「それが正しいのかどうか」を考えようとしない…
 
その物事や意見が「どうしてそうなったのか」「この先どうなるのか」を考えようとしない…
 
あるいはそもそも「自分の」好き嫌いですら選ばず「皆がこうしているから」で「大きな流れに身を任せるだけ」…
 
世の人々が「そんな風」に見えてしまうのは、自分だけなのでしょうか?
 
「そんな風」に生きるのは、ある意味「ラク」な生き方なのかも知れませんが…
 
自分には「とてもじゃないけど選べない、恐過ぎる生き方」に思えてなりません。
 
だって、普通に考えて「自分の好き」がいつも「正しい」とは限らないじゃないですか。
 
「どうしてこうなっているのか」「この先に何が起こりそうなのか」も考えずに物を選ぶのって、普通に怖いじゃないですか。
 
「皆がそうしている」大きな時代の流れが、とんでもない地獄を招いた事例なんて、歴史に山ほどあるじゃないですか。
 
それなのに「そういう生き方を選ぶ」って、自分で自分の人生に破滅フラグを立てるようなものじゃないですか?
 
…これって「意識が平和ボケしている」か否かの問題なのでしょうか?
 
日本は「皆の真似して大きなレールに乗っていれば生涯安泰な暮らしが送れる」時代が、そこそこ長く続いていました。
 
なので「自分の人生は自分で守らなければならない」という感覚がマヒしてしまっている人が多いのでしょうか?
 
あるいは、そもそも現代人は「思考する」という習慣を、いつの間にか失ってしまっているのでしょうか?
 
現代は「知識」や「情報」に溢れています。
 
チョロッと調べればノウハウが見つかるこの時代では「考える」必要が減ってしまっているのかも知れません。
 
でも「筋肉は使わなければ衰える」のと一緒で「脳も使わなければ衰える」んですよね…。
 
どうも最近、「考えて自分の意見を出す」人が減り「ネットで見つけた『好みな意見』に賛同するだけ」の人が増えているような気がするのですが…気のせいでしょうか?
 
「自分の意見を言っている」フリをしながら、実は「ネットで見かけた意見や知識の受け売りをしているだけ」だったり…
 
議論しているフリをしながら「言葉の揚げ足とり」に終わって、本質にまるで触れられていなかったり…
 
(…まぁ、コレについては「国会」でさえ「よく見られること」ですのでアレなのですが…。)
 
最悪、感情的に他者の意見を「肯定」or「否定」するだけで終わっていたり…
 
世の中がこんな「思考できない」人間ばかりになってしまったら、どうなってしまうのか…そんな不安に駆られてしまいます。
 
個人的に、「思考」のポイントって「前提を疑ってみること」だと思っているのですが…
 
どうも世の中、これが「できる」人って稀少な気がするんですよね…。
 
与えられた知識や情報を「わー、そうなんだ」と受け入れるばかりで、何も疑問に思わない人の方が多いように思えます。
 
自分は小学生の時から「なるべく先入観を持たないように生きる」ことを心掛け、結果「何事にも疑問の目を向ける」習慣が身についたのですが…
 
…こんな生き方をしている人間って、かなり奇特な部類に入るのでしょうね…。
 
(なお思考力が上がった結果、「問題解決力が上がる」「学力が爆伸びする」という「副産物」も派生し、人生を大いに助けてくれました。高校時代、人間不信でやさぐれていても、周囲からちょっぴり一目置かれて3年間を乗り切れたのは、たぶんコレのおかげ。)
 
過去記事でもちょこちょこ書いていますが「疑う」という行為はべつに、ネガティブなだけのモノでは無いのです。
 
一旦疑って、様々な反論をシミュレーションしてみたけれど「やっぱり正しかった」と、より「肯定感」が増すこともありますし…
 
疑わなければ「欠点」「弱点」「落とし穴」の洗い出しもできません。
 
「疑い」がネガティブに捉えられがちなのは、その「疑い」を自分の「嫌いなもの」「不審に思うもの」にばかり向けるからです。
 
(さらに言うと、それを「否定的」な方向にばかり疑うせいです。「もしかしたら正しいのかも知れない」と「肯定的」な方向に疑うこともできるはずなのに…。)
 
「疑い」はむしろ、自分の「好きなもの」「信じるもの」にこそ向けないと、人生の大切な選択を間違えかねないのです。
 
<関連記事:自分を“健全に”疑い否定する技術>
ブログ内検索
管理人プロフィール
【HN(ハンドル・ネーム)】
津籠睦月(つごもりむつき)
【職業】
社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
【趣味】
小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
ブログ更新&チェックについて。

このブログは管理人に時間の余裕がある時にちょこっとずつ更新していく予定ですので、更新やチェックの頻度はおそらく数週間に1回~下手をすると1ヶ月以上の間が空いてしまう可能性も…。
もし更新が滞ったても「あぁ、仕事が忙し過ぎて時間が無いんだな」と気長にお待ちいただければ幸いです。

カウンター
参加ランキング
相互RSS
P R
忍者ブログ [PR]