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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
世の中、何でも一緒くたにせず、分けて考えればラクになることがたくさんあるのにな、と思うことがあります。
 
たとえば人間トラブルに遭って、社会や人間自体が嫌になってしまっても、この世界はべつに人間だけで構成されているわけではないのだから、人間以外の部分――空だとか、花だとか、川辺の景色だとか、近所の猫たちだとか、電線のスズメだとか…とりあえずは、そういう自分が好きになれる綺麗な部分だけ愛していけばいいんじゃないかな、と思ったりするのです。
 
何か嫌なことがあっても、辛いことがあっても、それはこの世界のほんの一部分でしかなく、その他の部分には、自分が好きになれる何かが埋まっているのかも知れない――そんな風に思って生きていくのは、気休めに過ぎないのでしょうか?
 
自分は昔から、景色を見るのが好きでした。
 
それも、観光地になっているような“絶景”ではなく、日常の中のほんのささやかな風景に惹かれてきました。
 
たとえば、通学路の両脇に茂った木が天然の緑のトンネルを作っているのを見てわくわくしたり、雨の日に川の水面にいくつも波紋が広がっていくのを見てどきどきしたり……今も、通勤途中の脇道にノラ猫さんたちが丸くなっているのを見てはほっこりしています。
 
たとえ学校や家などで嫌なことがあっても、世界には心を癒してくれる綺麗な景色が沢山あった――そのことが、随分と自分の心の慰め支えになってくれていた気がします。
 
それと、素敵な世界は外の景色だけでなく、本の中にもありました。
 
自分は完全なインドア人間なので、物心ついた時から本ばかり読んで育ってきました。
 
本の中には、現実ではなかなか巡り会えないような理想的な大人や魅力的な人物、こことは違う別の世界が沢山存在していました。
 
本の中のそんな世界に浸り、一時でも現実を忘れることで、やはり随分と心が癒されていたように思います。
 
(ちなみに本に限らずゲームなど、一時的に別の世界に没頭して現実逃避をするのはストレス解消の手段の一つとして有効だと以前テレビで見たことがあります。もっともそれだけではなく、ストレスの源に立ち向かうことや買い物やカラオケなど他の手段で発散するなど、他の方法とも組み合わせていくことが重要だと言っていた気がしますが。←ややうろ覚えです。)
 
たぶん、この世界の中に好きなものが沢山あればあるほど生きるのがラクになるのではないかと思います。
 
この世界の何もかも全てが嫌いになってしまったら、きっと毎日が辛くて仕方がなくなるのではないでしょうか。
 
だからこの世界の全てを嫌いになってしまわないように、常日頃からこの世界の中の小さな「好き」を見つけて、自分の心の中に貯め込んでいけば良いと思うのです。
 
お金や物は奪えても、人間の心の中にあるものまでは誰にも奪えません。
 
たとえ他の誰かに「そんなものが好きだなんて変」「そんなもの、くだらない」と言われても、自分さえ「好き」の気持ちを変えずにいたなら、それは失われることなく心に残り続けます。
 
そして日々の生活の中でそんなささやかな「好き」に出会えたなら、ほんのり幸せを感じれば良いのです。
 
たとえば自分はよく空を見上げます。
 
同じように見えても、空は毎日少しずつ色や形を変え、一日として同じものはありません。
 
そんな、その日にしか出会えない空を見つめ、その美しさにほっこりするのです。
 
他人から見れば、くだらないかも知れませんし、時間の無駄かも知れません。
 
でも、そんな日々のささやかな「ほっこり」が、何だかんだでちょっとしたストレス解消になっていて、そんなちょっとしたストレス解消でも、積み重ねて人生全体で見てみれば、かなりの効果を上げているのではないかと思ったりするのです。

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小学生の頃、大人になるのが嫌で仕方のない時期がありました。
 
当時“大人”は“子ども”とは全く違う存在に見えていて、しかも子どもの心を全く理解しない生き物に思えて、そんなものになりたくないと強く思っていました。
 
でも、時の流れは止めようがなく、身体も年齢も勝手に大人に近づいていく……ならば、どうすれば良いのか。
 
自分が出した結論は「せめて、子どものままの今の心を忘れずに生きていこう」ということでした。
 
小学生の自分が、何を見て、どう感じてきたのか。
何を考えて生きていたのか――その心の在り方を、そのまま“保存”していこうと考えたのです。
 
人間は、大切な思い出すら時の流れの中で曖昧になって忘れていってしまうものです。
それを忘れないようにするためには“工夫”が要ります。
 
自分が子ども心を忘れないためにとった手段――まずひとつは、とにかく記憶を反芻(反復)することでした。
特に忘れたくないと思った想いや記憶を、繰り返し脳内に蘇らせるという作業を、折に触れ何度も行ってきました。
 
…と言っても、義務的に、無理をしてやっていたわけではありません。
自分の生活範囲の中で“ここを通った時にはこの記憶を思い出す”という地点を何箇所か決めておいて、そこを通りかかった時にうすらぼんやりと過去の記憶を蘇らせるという、“習慣”というか“クセ”のような感じで行っていました。
 
それともうひとつは、記憶を引き出すトリガー(引きがね)となる“物”を残しておくことです。
 
思い出の品や写真でも良いのですが、一番有効だったのは自分で書き残した文章――日記でした。
 
日記は「毎日つけるもの」として義務化すると、なかなか続けられず書くこと自体をやめてしまったりするものですが、「忘れたくないことがあった時にだけ書き残しておく」と決めて書く分には、後々に「この時こんなことがあったんだっけ」「この時こんなことを思ったんだっけ」と思い出すための重要アイテムとして役立ちます。
 
とは言え、高校・大学と進学し、生活範囲が変われば“記憶を反芻する地点”を通ること自体が少なくなり、徐々に記憶は劣化していったように思います。
 
日記も、あまりにも過去のものになると「本当に自分の書いた文章なんだろうか」と思うほど忘れてしまっているページもあったりします。
 
正直、今も心の中に小学校時代の自分がそのまま棲んでいるのかと問われれば「完全に同じ存在ではなく、ちょっと別物に変わってしまっているかも知れない」と、そう答えざるをえないでしょう。
 
けれど、それでも時々、ふっと小学生の自分の視線を感じることがあります。
 
それは“現在の自分”の言動を監視していて、時折「それでいいの?」「それだと、あの頃、嫌っていた“汚い大人”と一緒になってしまうよ」と心の中で囁きかけてくるのです。
 
自分は完璧な人間ではありませんし、できないこと、妥協してしまっていることも多々あります。
でも、それでも、胸の中にいる“小学生の自分”を失望させない自分でありたいと、今でも思っています。
 
幼いがゆえに真っ直ぐだった“小学生当時の自分”の想いは、時にどんな他人の言葉よりも鋭く厳しく胸に突き刺さります。
しかも“過去の自分”とは言え“自分自身”には変わりがないので、否定しようとすれば、その否定がそのまま自分自身にブーメランで返ってくるという逃げ場の無い苦しみです。
 
でも、それでも自分は心の中に居る小学生の自分の心を棄ててしまいたくはないのです。
 
小学生の頃は、あんなになりたくなかった“汚い大人”に、気付けばあっさりなってしまっていて、それを恥にも思わずにいるとしたら、その方が何だか“救われない”気がしてならないので…。

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【HN(ハンドル・ネーム)】
津籠睦月(つごもりむつき)
【職業】
社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
【趣味】
小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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