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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。

自分が今までの人生を通して学んだことの一つに「能力の無い相手にその能力を求めても意味がない」ということがあります。
 
英語の成績が最悪だった人間に「通訳をやれ」と言っても無理なように、あるいはピアノを習ったことのない人間に「伴奏をやれ」と言っても無理なように、当たり前の話ですが“スキルが無ければできないものできない”のです。
 
そしてそれは単純に技能の話だけでなく、思考の分野にしても同じことだと思うのです。
 
たとえば…残念ながら、“思いやり”や“気遣い”というものにも程度の差があり、一人一人、そのレベルは違います
 
こちらが何も言わなくても、ひとりでに察して配慮してくれる人間もいれば、こちらから求めても根本的なところを理解してくれず、かゆい所に手が届かないような対応をしてくる人間もいます。
 
それはその人のそれまで育ってきた環境や、本人の努力・習慣によって「思いやり・気遣い」の習熟度に差ができているということで、一朝一夕でどうにかなるものではないと思うのです。
 
だから――たとえ親や家族であっても「こういう時にこうして欲しいのに」という願いが叶わないというのは、ある種「当たり前」のことで、諦めざるを得ないものなのかも知れない、と……
 
個人的経験から思うのですが、子というものは無意識のうちに、親に「理想の母親像」や「理想の父親像」を求めがちな生き物なのかも知れません。
 
たとえばドラマやマンガのように「親子なんだから、何も言わなくても“分かってる”」という関係を夢見たり…
 
子が辛い目に遭っていれば、全力で解決に動いてくれる“スーパーマンのような親”を夢見たり…といった風に。
 
だけど現実には、ある程度態度に出してシグナルを送っても心の悲鳴に気づいてもらえなかったり、口に出して助けを求めた結果、逆に事態が“こちらが全く望んでいなかった方向”に動いてしまったりもします(経験談です)
 
それは親が子を愛していないからだとか、愛情が足りないからだとかいうことではなく…きっと、ただ単純に「能力が足りていない」だけなのです。
 
たとえ血の繋がった親子だとしても“自分ならぬ他人”の心を知るためには、それ相応の“感受性”が必要です。
 
そして、子が巻き込まれたトラブルを解決するためには、やはり親にそれ相応の“問題解決能力”が必要なのです。
 
どれだけ“理想”を夢見たところで、現実問題、自分の親に“それ”が備わっているとは限りません。
 
理想と現実のギャップに打ちひしがれて「どうしてウチの親は何も分かってくれないんだ」「ウチの親はなんでこんななんだ」と嘆いたところで、親のスキルが急激にアップするなんてことはありませんし、自分の生まれを変えることもできません
 
…ただ、個人の経験として「そういうモノだと諦めてしまえば、ある程度ラクになれる」ということはあります。
 
叶えられない「無いものねだり」を続けるのは、精神が疲弊するばかりで、良いことはありません。
 
それは極論を言えば「どうしてウチの親は王様じゃないんだ。何不自由ない暮らしがしたかったのに」と嘆き続けるようなものです。
 
覆せない過去や自分の生まれた運命を、どんなに嘆いたところで、今、自分が置かれた状況は変わりません
 
だから、“理想的な親や家庭”など、“得られなかったモノ”を数えて嘆くより「この自分に生まれたから得られたもの」を探して愛しむ方が、よほど人生を有意義に生きられると思うのです。
 
たとえば自分の場合、放任主義な親の元、学校でどれだけ良い成績を取ろうが興味を持たれず(逆に、成績が悪くなれば、さすがにいろいろ言われたりしましたが…)、高校時代は学校生活や進路に関する大事な話さえ、ほとんどしなかったように記憶しています。
 
(親の関心が長男の方にばかり集中していたのも、自分が放任されていた理由のひとつかと思います。)
 
ですが自分は「逆に自由にできていいや」と、「親に関心を持たれていない」「進路に興味を持たれていない」のをいいことに「自分の好きなことしかやらない」高校時代を過ごしていました。
 
具体的には「勉強は必要最低限しかしない」「高校で友達を作らない(←高校時代の自分は中学時代の人間トラブルを原因とした“人間不信こじらせ期”のピークで、新規に友人を作る気ゼロでした。その代わり、中学時代の友人とばかりつるんでいたりしました。)」「好きな本ばかり読んで過ごす」といった感じでしたが…
 
(ちなみに高校はかなりの進学校で、周り中、休み時間もひとりで参考書を読んでいるような生徒ばかりでしたので、特に親しい友人を作らなくても何とかなっていたのです。)
 
今になって振り返れば、自分でも自分が心配になるレベルの高校時代を過ごしていましたが、親たちはそんな状況を知りもせずにいたので、特に心配されることも口出しされることもありませんでした。
 
(「勉強はしなかった」ものの「成績だけは、一応それほどヒドくない結果を残していた」というのも、口出しされなかった理由のひとつではあると思いますが…。勉強は宿題と英語の予習(←授業で当てられるかも知れないので)と毎日ある小テストの対策くらいしかしませんでしたが、その分、趣味で読んでいた本から知識と国語力は得ていましたので…。)
 
結果として、この高校時代だけで相当な“国語力”を積み上げることができ(←数値的なものはブログ右サイドの自己紹介備考参照)、それは後々、様々な場面で人生の役に立っています。
 
(単に文章作成に役立つというだけでなく、“読解力”は取扱説明書や専門書・解説書を読み込むのにも役立ちますので、独学で何かを習得するのにも役立ちます。実際、初めて制作したホームページがあんなことになっているのも、この能力が相当影響していると思います。)
 
要は、自分に与えられた環境に腐らずに、そこから少しでもポジティブな要素を拾い上げ「いいとこ取り」をして人生を有利に進めて行けば良い、ということなのだと思います。
 
人間万事塞翁が馬」「禍福はあざなえる縄のごとし」という言葉があるように「良いこと」と「悪いこと」は表裏一体であり、一見マイナスしかないように見える人生にも、探してみれば何らかのプラスはあると思うのです。
 
…まぁ、その「プラスを探す」ということ自体、「思考の柔軟さ」や「ポジティブ・シンキング」といったスキルやコツが必要なことかも知れませんので、そうそう簡単には行かないのかも分かりませんが…。


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小学時代に虐め(いじめ)に遭っても、中学時代に虐め紛いの酷い人間トラブルに巻き込まれても、自分は自殺を考えたことは一度もありませんでした。
 
それは「死を考えるほどの辛さではなかった」わけではなく、「そもそも初めから自分の中に自殺という選択肢が無かった」からです。
 
自分がソレを選択肢から外したのは、確か小学校3年か4年の頃のことでした。
 
虐めだとか人生だとか難しいことをボンヤリ考えていた時にふと「この先、何があっても、自殺という道だけは選ばないでおこう。取り返しがつかないから」と思ったのです。
 
そもそも自分は「死」への恐怖より先に「永遠」に対する恐怖を覚え、「いつか来る死を否定しない代わり、一日、一秒でも長く、精一杯生きよう」と物心ついた時から思っていたような人間だったので、そんな精神性も影響していたと思います。
 
小学校3~4年当時の自分は、幼くても、自分のこれからの人生に、幸せなだけではないアレコレが襲ってくるであろうことを予測していたのだと思います。
 
そしてその上で先回りして「そうなった時に最悪の道を選ばないように」自分で自分に約束事を作っておいたのです。
 
思えば、他の誰かから押しつけられた決めごとではなく、倫理的理由でも宗教的理由でもなく、自分の内から自然と生まれた“ルール”だったからこそ、自分はソレを素直に受け入れられたのだと思います。
 
そしてこの「自分ルール」は、その後、何度も自分の人生を救ってくれました。
 
たぶん、選択肢の中に自殺という「人生そのものからリタイアする」道が存在してしまうと、今自分がいる状況に耐えられなくなった時、「この辛い人生をこれ以上続けたくない」「とにかく逃げたい」とそのことにばかり頭を囚われてそれ以上頭が動かなくなってしまうのではないかと思うのです。
 
けれど、その選択肢が初めから存在しないとなると「逃げられないその人生の中で、今の自分の状況を少しでも良くする方法を探すしかない」ことになります。
 
自分がかつて(完璧な方法とは言えないまでも)どうにか自分で虐めを解決する方法を見つけてこられたのは、そうやって必死に頭を働かせ、自分で問題解決手段を考えてきたおかげだと思っています。
 
きっと、もしその方法を自分で見つけられなかったとしても、誰か別の人間が提示してくれている虐め解決法の情報を探し回るなり、死以外の方法で上手く現在置かれた状況から“逃げる”手段を探すなりしたと思います。
 
また、死という選択肢をなくしておいたおかげで、普段ならあまり気が進まない、実行するのに勇気を要するような手段も「他に選択肢が無いんだから仕方ない」と、しぶしぶながら実行することができました。
 
そうやって、苦しみ、悩み、嫌なことを乗り越えながら“死以外の選択”を続けてきた結果、今では「死に逃げなくても、人生、案外いろいろ逃げ道がある・自分を救う道がある」と思えるようになりました。
 
きっと、人生で辛い目に遭った時にマズいのは、「それを解決する方法を考えられない」「考えたくない」「死に逃げることしか考えられない」状況に陥ってしまうことなのではないかと思います。
 
自殺という選択肢を予め自分の中から奪っておくことは、乱暴かも知れませんが、死へと向かいがちな目を逸らし、別の方向へ向けるという意味で、有効なのかも知れません。
 
ただ、そうして必死に解決策を考えたところで、それを思いつけないこともあるでしょう。
 
だから、できることなら、なるべく多くの“人生を救う智慧”を集めた“何か”が、未成年の子どもでも、お金が無くても見られるような“場”に、在ればいいのにな、と常日頃ぼんやり思ったりします。
 
実際に虐めに遭ってきた人の経験談(特に、どうやって虐めから解放されたのかの具体例)、傷ついた心を救ってくれる言葉、過去の偉人の名言や、現代の成功者が人生を切り拓いてきたメソッド……精神論から具体例まで、悩んでいる人間が「自分が今心から欲している何か」を、ピンポイントに検索して見つけられるシステムが、今のこの世の中に欲しいなぁ、なんて思うのです。
 
(現代の技術をもってしても難しいとは思いますが…。特に検索の面において。)
 
“図書館”とかは、ある意味既にソレなのですが、逆に本があり過ぎて、自分が必要な情報をピンポイントに探すのは、案外難しかったりするので…。

自分は子どもの頃から「他の人は何とも思わない、ごく普通の景色」に「見惚れる」ことが多くあります。
 
むしろ、ガイドブックに紹介されているような「美景」「絶景」には感動して写真を撮りまくったりするのに、日常の中に潜んだ「ふとした美しさ」には無頓着な人たちを、不思議に思ったりもしてきました。
 
窓辺に舞う塵だって光に当たれば七色に輝いて見えますし、毎日の通学・通勤風景の中にだって、季節によって移り変わる“その時だけの美しい景色”が混ざっていたりします。
 
「珍しくもない、ありふれたもの」だからと言って、「それを綺麗だと思ってはいけない」という法など無いはずですし、美しいものをたくさん見つけられれば、それと同じ数だけ、心が幸せを感じます。
 
だから、普段から“自分を取り囲む世界”に目を向け、1つでも多くの綺麗な景色・面白い景色を見つけようと、心の感度を鋭くしているのです。
 
そうして物心ついた頃からずっと「身の回りの綺麗な景色」を探し続けてきた結果、時々「自分はもしかして、他人より幸福な人生を送ってきたのではないか」と思うことがあります。
 
人生の軌跡を振り返れば、あと数歩で死んでいたようなことも何回かあれば(←過去の記事をご参照ください)、小学生の時にはいじめに遭ったりもしていたわけですが(←同じく、過去の記事をご参照ください)、過去を振り返ると、頭の中には、“それでも美しかった世界の記憶”が残されているのです。
 
通学路の川が、雨の日には、水面にレースのように繊細な波紋をいくつも描いて美しかったこと。
 
黄色い傘に当たる雨の音が「ぱりぱり」と心地よくて好きだったこと。
 
それらが、ただ単に景色や音の情報だけでなく、その時の「綺麗」「好き」という気持ちと一緒に記憶されているのです。
 
それは思い出すたびに、その時の「綺麗」や「好き」の気持ちを蘇らせて、心をほんのり幸せにしてくれます。
 
幸福は心の持ち方次第」ということはよく言われていますが、その「心の持ち方」の具体的な方法の1つが、この「日常の中にたくさんの“綺麗”や“好き”を見つけること」なのではないかと思います。
 
世の中、嫌なことはたくさんありますし、気分が沈むこともよくあります。
 
でも、毎日の何気ない暮らしの中に、ちょこちょこ“綺麗なもの”“好きなもの”を発見し、それを見ている時・感じている時くらいは、その嫌なことを忘れて、心をほっこりさせていったら良いのではないかと思います。
 
そうして毎日毎日、少しずつでも“綺麗なもの”“好きなもの”の記憶を増やしていけば、それはきっと、自分の心の財産になる気がするのです。
 
ふと人生に疲れて過去を振り返った時、嫌なものの記憶しか無いより、そこに綺麗なものや好きなものの記憶がたくさん混じっていてくれた方が、きっと幸せの可能性は高くなります。
 
それに、そうやって脳にせっせと貯め込んだ“好き”の記憶は、お金などの目に見える財産(電子マネーは目に見えないですけど、ここでは置いておきます。)と違って、他人に奪われることはないのです。
 
何のために生きているのか分からない」という言葉も、ちょくちょく世間で耳にしますが、自分はよく「この景色を見るためだけに生きているのだとしても、いいかなー」などと思ったりします。
 
今、目に映る空が綺麗だから。今、ここにいる猫が可愛いから。今、食べているゴハンがおいしいから。
そんなささやかな好きや幸せを日々感じるために生きている――それだけでもいいじゃないか、大層な“生きる意義”なんて見つからなくてもべつにいいんじゃないか…
 
そんな風にフワッと生きているからこそ、自分はきっと、他の人なら死ぬほど悩むような目に遭っても、それほど悩むことなく済んでいるのではないかと思うのです。
  


「自分を信じろ」「自分を信じることが大事」といった言葉が、この世の中には溢れていますが、「“何を”“どう”信じれば良いのかもハッキリさせないまま、ただ闇雲に“信じろ”ばかり言うのはどうなんだろう?」と、自分はよく疑問に感じてきました。
 
世の中には「盲信」という言葉もありますし、何の根拠もなく闇雲に自分を信じた挙句、目論見が外れて人生に絶望してしまったらどうするのだろう…と。
 
そもそも、自分の中に“信じるべきもの”“信じるに値するもの”なんてあるのだろうか――学生時代の自分なら、まずそんな風に思っただろうと思います。
 
ですが最近、何となく分かってきたことがあります。
 
「自分の中に信じられる何かが無いなら、それをこれから創っていけばいい」のだと…。
 
そして、そうやって自ら創り上げたモノは、初めからフワッと存在していたスペックや、他人からの気まぐれな評価などよりも、よほど「信じるに値するもの」なのだと。
 
自分にとっての“それ”は「挑戦すること」でした。
 
「コレって無理なんじゃないか」「できるわけない」と“自分で”思えるような「ちょっと難しめのミッション」を自らに課し、それを乗り越えることです。
 
ポイントは、それが「達成できればスゴイ」と“偽りなく”“本気で”思える難易度のものであること、です。
 
(もちろん、どんなにスゴくても、悪いことや他人に迷惑をかけることではダメですが。それと、設定するミッションは、できれば形や数値など、客観的に目に見える成果が出るものなら尚良いかと思います。)
 
それは何も「達成するために特別な能力が必要」なものでなくても良く、「日記を毎日、1年間つけ続ける」といった「コツコツ・継続型」のものでも良いのです。
 
人間、ただボンヤリ「こんなこと出来るわけない」と思っているだけでは、それを達成することなどたぶん永遠にできませんが、いざ「これを実現しよう」という目的意識を持ち、それを達成するための具体的な方法を考え始めれば、脳細胞が活性化して思わぬ能力を発揮したりするものです。
 
(うろ覚えですが、目標を持たせたマウスは脳の神経細胞が5倍になったという実験の話を、以前TVで見ました。)
 
そうして設定したミッションがクリアできたなら、そのことを自分の“自信の源”“自分で自分を肯定するための材料”にしていけばいいのです。
 
「俺、あんなに難しいミッションを乗り越えてきたじゃないか」「あのミッションだって、最初は『絶対ムリだ』って思ってたのに、結局クリアできたんだ。今度だって、きっと乗り越えられる」といった風に…。
 
ここであの「“偽りなく・本気で”難しいと思える」というポイントが効いてきます。
 
“自分自身”の感覚で「これは難しいだろう」と思ったことを“達成”できたなら、それは自然と「これが達成できた自分はすごい」という自信に繋がります
 
逆に、妥協して、それほど難しくないミッションをクリアしたところで、心の奥底では「こんなの難しくない」と思っているので、大した自信には繋がりません。
 
それに、そうやって「自分が本気で難しいと思っていたこと」に挑戦して、達成できたという“事実”は「揺らがない」のです。
 
たとえば他人の評価なら、相手次第や“時と場合”次第コロコロ変わることも有り得ますし、運が良かったり、まぐれで獲得した好成績や高評価は、やはり運やまぐれ次第アッサリ失われることも有り得ます。
 
しかし、過去の出来事・客観的事実が覆ることはありません。
 
そして、そんな「揺らがない」「ブレない」自信の源が自分の中にあるなら、他人の評価に怯えることもなく、他人からの称賛や承認が得られないからと言ってイライラすることもないのです。
 
(まぁ、あまり“過去の成果”にこだわり続けるのも、それはそれで良くないので、定期的に新しいミッションをこなしていくべきかとは思いますが…。)
 
そして、そうやって自分の中に揺るぎない“核”のようなものができたなら、以前記事にしたように「自分で自分を否定する」ことも恐くなくなるのではないかと思うのです。
 
自分を否定したくないばかりに、根拠もなく何かを信じたり、それを他人にも押しつけたり、否定されるのではないかと怯えて相手を攻撃したり――それは結局は、目を曇らせてしまったり、他人のヒンシュクを買ってしまったり、自分自身を傷つける結果になってしまうのではないかと思います。
 
自分で自分を“健全に”否定できるようになれば、他人から否定されること対しても「まぁ、そういうこともあるよな」という感じで、ある程度はフワッと受け止められるようになります。
 
…と言うか、“こちらのことなどほとんど知らない他人”からの否定などより、“自分自身のことならほとんど知っている”自分自身からの否定の方が、きっとよほど「痛い」ですから…。



世の中、「自分を信じること」の大切さは盛んに言われているのに、なぜ「自分を疑うこと」の大切さは誰も教えないのだろう――そう疑問に思うことが、よくあります。
  
個人的には「自分を疑い、否定する」ことは、ダメなことではなく、むしろ「自分を信じる」のと同等か、それ以上に大切なことだと思っているのですが……。
 
「自分を信じる」ということは、一見とても美しく素敵なことのように思えますが、よくよく考えてみると、そこにはある種の“危険”が潜んでいるように思うのです。
 
妄信”という言葉があるように、信じることは時に、大事なものを見失わせます
 
自分を疑うことができなければ、いつの間にか酷い勘違いや過ちを犯していても気づけない危険があります。
 
けれど、自分を疑ったり否定したりすることは、決して“気持ちの良い”ものではありません。
 
むしろ嫌で、不快なことの方が多いでしょう。
 
おまけにそれをし過ぎれば、自信を失ってしまったり、自己嫌悪に陥ってしまったり、になってしまったりする可能性もあるかも知れません。
 
なので、ベストなのは「過剰に自分を否定し過ぎない程度に、ほど良く自分自身を疑うこと」だと思っているのですが…まぁ、そう簡単にできることではないでしょうね…。
 
ただ、この「健全に自分自身を疑い、否定する」ことには大きなメリットがあると思うのです。
 
「自分自身に疑いの目を向け、ダメなものを見つけ出す」スキルは、自分自身の弱点をあぶり出すのに有効です。
 
そして、その見つけた弱点を1つ1つ克服していくことができたなら、常に自分を新しく、より良いものに“バージョン・アップ”していけます。
 
「自分を疑ったり、否定したりすること」が、しばしばネガティブなイメージでとらえられがちなのは、多くの人が、そうやって疑い・否定したものを「そのまま放置」しているからなのではないかと思うのです。
 
疑いを抱いたのなら、何が真実で最善なのかを求めれば良いことですし、「今の自分」を否定したからと言って、その否定されるべき欠点を克服した「未来の自分」まで否定する必要は全くありません
 
そもそも、自分の中に否定されるべき欠点や弱点がいくつかあったとしても、それで自分の全てを否定する必要は無いと思うのです。
 
自分は元々「アレはアレ、コレはコレ」と分けて考える性質なので、そう思ってしまうのかも知れませんが…
 
たとえ否定されるような欠点や弱点があったとしても、人間という生き物は、そういった欠点や弱点だけで構成されているわけではないのですから、「ソレはソレ、コレはコレ」で、悪い所は直し、良い所は伸ばしていけば良いだけだと思うのですが…まぁ、そう簡単にはいかないのが人生というものなのかも知れませんね…。
 
それと、そうやって自分自身を健全に疑い・否定できるようになれば、ある程度、他人から否定されることが恐くなくなったり、「自分を否定されたくないばかりに、逆に相手を否定しようとする衝動」からも逃れられる気がするのですが…
 
(何せ、他人様から否定されるより先に、自分で自分を否定しているわけですから、後で何か言われたところで「今さら?」感がスゴイと思うのですよ…。)

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【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
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漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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