日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
「将来、何になったら良いのか分からない」「自分に何が向いているのか分からない」「人生計画や進路が全く見えない」――こんな悩みを抱えている人は、結構多いのではないでしょうか。
十歳にも満たない幼い頃なら、無邪気に「〇〇になりたい!」なんて言っていられたのに…
十代以降になり、現実が見え始めると、途端に自分の将来を見失ってしまったりします。
また、学校の成績が悪かったり、他人からの評価が低かったりすると、「自分はどうせ、大したものになれないんだ」と落ち込んで、ますます先が見えなくなってしまったりします。
そんな時、どう生きればいいのか――?
個人的には、「好きなことを1つでも見つけて、それに打ち込む」ことが大事だと思います。
それはもちろん、勉強でも運動でも良いですし、勉強以外の遊び・趣味だって全然かまわないと思います。
(ただしもちろん、「他人に迷惑をかけないこと」というのが前提で。)
大切なのは、それを「心から好き」でいること。
なぜなら「好き」という気持ちは「がんばることがイヤじゃない」と思えるようになる“魔法の感情”だからです。
それどころか「がんばっている」という意識すらなく、いつの間にか知識やスキル(技術)が身についていたりします。
嫌いな科目の勉強は全く覚えられないのに、好きなゲームのキャラクターの名前はいくらでも覚えられたり、恐竜好きな子が恐竜の名前をいくらでも暗記していられるのは、そこに「好き」という気持ちがあるからです。
大人になると分かることですが、イヤイヤ覚えた知識はいつの間にか忘れてしまうのに、好きだったものや“遊び”の中で覚えた知識はしっかりと身について、いつまでも覚えていられたりするものです。
そうして「好きで覚えた知識やスキル」が将来につながれば、もちろん言うことは無いのですが…
もし、将来の職業に結びつかなかったとしても、「好きなこと」は人生に生きがいや充実感を与えてくれます。
たとえ学校や家や毎日の中で、何かイヤなことがあったとしても、「好きなこと」をしていれば、そのイヤなことを忘れられたり、その「好きなこと」のために毎日をがんばろうと思えたりします。
また、その「好きなこと」を通して、それまで出会えなかった人に出会えたり、知らなかったことを知ることができたりと、自分の世界が広がっていったりもします。
少なくとも、「自分には何も無いんだ」と絶望して何もせずにいるよりも、「好きなこと」を見つけて何かをしていた方が、将来の可能性は広がると思います。
たとえそれがムダに終わったとしても、「好きなことに打ちこんでいた」という思い出だけは残りますし…。
――ただ、「好きなこと」を「好きなままでいる」というのも、実は、なかなかに難しいことだったりします。
たとえば、好きで始めたスポーツでも、思うような結果が出なかったり、練習が苦しかったりすると、好きという気持ちを見失ってしまったり…
あるいは、好きなものを他人にけなされた時、何となく、それを「そのまま好きでいる」ことが難しくなってしまったり…
また、周りの人間の理解を得られず「そんなことしてないで勉強しなさい!」と叱られてしまったり…
そういったモノに負けないためには、自分の中でしっかりと「好き」の気持ちを強く育て、「この気持ちは自分にとって大切で、なくしちゃいけないものなんだ」と自分で自分に言い聞かせていくしかないと思います。
(できることなら、「好きなこと」をしていても文句を言われないように、学校の成績などをしっかりとっておくと、親からの攻撃はある程度減らせるかと思います。…あとは、隠れてこっそり「好きなこと」を続けるとか…。)
世界はシビアで残酷で、イヤなことや辛いことがたくさんあります。
そんな世界の中で「好きなこと」が1つでもあるということは、とても大事でかけがえのないことなのです。
なぜなら、純粋な「好き」の気持ちは「楽しい」や「幸せ」といったプラスの感情を生んで、人生を明るく彩ってくれるから…。
だから、既に「好きなこと」を見つけている人は、その気持ちを大切に…
そして、まだ見つけられていない人は、世の中を「つまらないもの」とあきらめてしまわずに、何か1つでも心動かされるものがないか、自分の気持ちにより深く注目してみると良いのではないかと思います。
そして、他人の「好きなこと」をけなさないこと。
たとえ他の人間の目から見たら「つまらないこと」「意味が無いこと」に見えたとしても、もしかしたらその人は、その「好きなこと」を心の支えにして、つらい毎日をかろうじて乗り越えているのかも知れません。
それを軽い気持ちでけなして、その人が「好き」という気持ちを失ってしまったら、その人の心はポッキリ折れてしまうかも知れません。
「好き」という気持ちはそれほどに大切で、だからこそ、それをわざと奪うことは、とても業の深いことだと思うのです。
十歳にも満たない幼い頃なら、無邪気に「〇〇になりたい!」なんて言っていられたのに…
十代以降になり、現実が見え始めると、途端に自分の将来を見失ってしまったりします。
また、学校の成績が悪かったり、他人からの評価が低かったりすると、「自分はどうせ、大したものになれないんだ」と落ち込んで、ますます先が見えなくなってしまったりします。
そんな時、どう生きればいいのか――?
個人的には、「好きなことを1つでも見つけて、それに打ち込む」ことが大事だと思います。
それはもちろん、勉強でも運動でも良いですし、勉強以外の遊び・趣味だって全然かまわないと思います。
(ただしもちろん、「他人に迷惑をかけないこと」というのが前提で。)
大切なのは、それを「心から好き」でいること。
なぜなら「好き」という気持ちは「がんばることがイヤじゃない」と思えるようになる“魔法の感情”だからです。
それどころか「がんばっている」という意識すらなく、いつの間にか知識やスキル(技術)が身についていたりします。
嫌いな科目の勉強は全く覚えられないのに、好きなゲームのキャラクターの名前はいくらでも覚えられたり、恐竜好きな子が恐竜の名前をいくらでも暗記していられるのは、そこに「好き」という気持ちがあるからです。
大人になると分かることですが、イヤイヤ覚えた知識はいつの間にか忘れてしまうのに、好きだったものや“遊び”の中で覚えた知識はしっかりと身について、いつまでも覚えていられたりするものです。
そうして「好きで覚えた知識やスキル」が将来につながれば、もちろん言うことは無いのですが…
もし、将来の職業に結びつかなかったとしても、「好きなこと」は人生に生きがいや充実感を与えてくれます。
たとえ学校や家や毎日の中で、何かイヤなことがあったとしても、「好きなこと」をしていれば、そのイヤなことを忘れられたり、その「好きなこと」のために毎日をがんばろうと思えたりします。
また、その「好きなこと」を通して、それまで出会えなかった人に出会えたり、知らなかったことを知ることができたりと、自分の世界が広がっていったりもします。
少なくとも、「自分には何も無いんだ」と絶望して何もせずにいるよりも、「好きなこと」を見つけて何かをしていた方が、将来の可能性は広がると思います。
たとえそれがムダに終わったとしても、「好きなことに打ちこんでいた」という思い出だけは残りますし…。
――ただ、「好きなこと」を「好きなままでいる」というのも、実は、なかなかに難しいことだったりします。
たとえば、好きで始めたスポーツでも、思うような結果が出なかったり、練習が苦しかったりすると、好きという気持ちを見失ってしまったり…
あるいは、好きなものを他人にけなされた時、何となく、それを「そのまま好きでいる」ことが難しくなってしまったり…
また、周りの人間の理解を得られず「そんなことしてないで勉強しなさい!」と叱られてしまったり…
そういったモノに負けないためには、自分の中でしっかりと「好き」の気持ちを強く育て、「この気持ちは自分にとって大切で、なくしちゃいけないものなんだ」と自分で自分に言い聞かせていくしかないと思います。
(できることなら、「好きなこと」をしていても文句を言われないように、学校の成績などをしっかりとっておくと、親からの攻撃はある程度減らせるかと思います。…あとは、隠れてこっそり「好きなこと」を続けるとか…。)
世界はシビアで残酷で、イヤなことや辛いことがたくさんあります。
そんな世界の中で「好きなこと」が1つでもあるということは、とても大事でかけがえのないことなのです。
なぜなら、純粋な「好き」の気持ちは「楽しい」や「幸せ」といったプラスの感情を生んで、人生を明るく彩ってくれるから…。
だから、既に「好きなこと」を見つけている人は、その気持ちを大切に…
そして、まだ見つけられていない人は、世の中を「つまらないもの」とあきらめてしまわずに、何か1つでも心動かされるものがないか、自分の気持ちにより深く注目してみると良いのではないかと思います。
そして、他人の「好きなこと」をけなさないこと。
たとえ他の人間の目から見たら「つまらないこと」「意味が無いこと」に見えたとしても、もしかしたらその人は、その「好きなこと」を心の支えにして、つらい毎日をかろうじて乗り越えているのかも知れません。
それを軽い気持ちでけなして、その人が「好き」という気持ちを失ってしまったら、その人の心はポッキリ折れてしまうかも知れません。
「好き」という気持ちはそれほどに大切で、だからこそ、それをわざと奪うことは、とても業の深いことだと思うのです。
<関連記事:嫌なことだらけの世の中でも、好きなものだけ好きでいればいい。>
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人間には誰しも「他人から認められたい」「他人にスゴいと思われたい」という欲求が、多かれ少なかれ有るようです。
特に昨今のネット社会ではそれが顕著に出ているように思えますし、その他の場所でもちらほらと「承認欲求に苦しめられる」「他人に認めてもらえないと、生きている価値がないように思える」という話を聞くことがあります。
自分にも、そうやって「自分の存在意義を他人に求めていた」時代があったように思います。
しかし、今はあまり、そう思っていません。
そういう心境になったのには、おそらく幾つかの理由があるのですが…
まず1つは、大学に入り東京に出たことで「人間は他人のことなんて、あまり見ていない」という事実に気づかされたからです。
もちろん、親しい家族や友人なら、ある程度はこちらを“見て”くれていることでしょう。
(まぁ、どんなに“近い”間柄でも、見てくれない人は見てくれないものですが。)
しかし、人が“赤の他人”に対して向ける注意や関心は本当に低く気まぐれで、残酷なほどにシビアなものなのだと、自分は感じました。
自分がどれほど「認められたい」とアピールしたところで、他人はそれを、こちらが思うほど真剣に受け止めてはくれません。
他人が評価をつけるポイントは、だいたいの場合、品質の優劣でも重要性でも、そこに籠められた情熱の程度でもなく、ただ単純に「興味を惹かれたかどうか」「自分の好みかどうか」ということです。
認められたい本人からすれば、あまりに悲しい事実ですが、それもある種、仕方が無いことなのかも知れません。
現代社会には情報があまりにも溢れ過ぎていて、とても全ての情報を処理しきることはできず、自分にとって“大事でない情報”はスルーせざるを得ません。
たとえその情報が、ある人にとっては死ぬほど大事な「認められたいアピール」であったとしても、情報の受け手にとってはそんな背景事情はどうでも良い“他人事”でしょうし、そもそもそんな事情は“見えない”ものですから…。
そんな、他人に対して無関心な人間が多い現代社会で、こちらに目もくれずに通り過ぎていく人々に向かって、必死に「認めてください」アピールをし続けるなんて、あまりにも空しいことだと思いませんか?
少なくとも自分は、空しさを覚えました。
なので自然と、そんな「認められたいアピール」自体が、嫌になっていきました。
もう1つの理由は、たとえ認められたとしても、その承認が「自分が思い描いていたものと違う」ことに気づいたからです。
自分の「ここ」を見て欲しい、「こういう所」を認めて欲しいと願っても、他人が認めてくれるのは、それとは別の、もっと分かりやすく目立った長所ばかりだったりします。
あるいは、あまり「中身」を伴わない、「すごいね」程度の、ごくごく単純な称賛に過ぎなかったりします。
考えてみれば自分は、ただ単純に「認められたい」わけではなく、自分の行った努力や工夫に対する「報い」が欲しいのです。
なので、その努力や工夫を一切評価されずに、場合によってはそれに気づかれることすらなく、ただ承認や称賛を与えられても、そこはかとない「虚しさ」を覚えてしまうのです。
さらには、他者からの承認そのものが、あまり「実体」を伴わない、儚く消える「幻」のように思えてならないことがあります。
たとえ一時の承認・称賛を得られたとしても、情報の新陳代謝の速い現代社会では、そんなものはあっと言う間に忘れ去られてしまいます。
たとえ本人は過去の栄光を忘れず、それに縋っていたとしても、周りはとっくにそれを忘れ去っているのです。
にも関わらず、そんな儚い承認を必死に求めて足掻き続ける…そのこと自体、あまりに滑稽で哀しいと思いませんか?
そんな思いから、今では自分は「他者からの承認なんて、どうでもいい」という心境で生きています。
すると、驚くほどに生きるのがラクになるのです。
「他人から認められるため」ではなく、ただ「自分にとって悔いの無い人生を追求する」…それだけで、人生は全く質の違うものに変わるのです。
特に昨今のネット社会ではそれが顕著に出ているように思えますし、その他の場所でもちらほらと「承認欲求に苦しめられる」「他人に認めてもらえないと、生きている価値がないように思える」という話を聞くことがあります。
自分にも、そうやって「自分の存在意義を他人に求めていた」時代があったように思います。
しかし、今はあまり、そう思っていません。
そういう心境になったのには、おそらく幾つかの理由があるのですが…
まず1つは、大学に入り東京に出たことで「人間は他人のことなんて、あまり見ていない」という事実に気づかされたからです。
もちろん、親しい家族や友人なら、ある程度はこちらを“見て”くれていることでしょう。
(まぁ、どんなに“近い”間柄でも、見てくれない人は見てくれないものですが。)
しかし、人が“赤の他人”に対して向ける注意や関心は本当に低く気まぐれで、残酷なほどにシビアなものなのだと、自分は感じました。
自分がどれほど「認められたい」とアピールしたところで、他人はそれを、こちらが思うほど真剣に受け止めてはくれません。
他人が評価をつけるポイントは、だいたいの場合、品質の優劣でも重要性でも、そこに籠められた情熱の程度でもなく、ただ単純に「興味を惹かれたかどうか」「自分の好みかどうか」ということです。
認められたい本人からすれば、あまりに悲しい事実ですが、それもある種、仕方が無いことなのかも知れません。
現代社会には情報があまりにも溢れ過ぎていて、とても全ての情報を処理しきることはできず、自分にとって“大事でない情報”はスルーせざるを得ません。
たとえその情報が、ある人にとっては死ぬほど大事な「認められたいアピール」であったとしても、情報の受け手にとってはそんな背景事情はどうでも良い“他人事”でしょうし、そもそもそんな事情は“見えない”ものですから…。
そんな、他人に対して無関心な人間が多い現代社会で、こちらに目もくれずに通り過ぎていく人々に向かって、必死に「認めてください」アピールをし続けるなんて、あまりにも空しいことだと思いませんか?
少なくとも自分は、空しさを覚えました。
なので自然と、そんな「認められたいアピール」自体が、嫌になっていきました。
もう1つの理由は、たとえ認められたとしても、その承認が「自分が思い描いていたものと違う」ことに気づいたからです。
自分の「ここ」を見て欲しい、「こういう所」を認めて欲しいと願っても、他人が認めてくれるのは、それとは別の、もっと分かりやすく目立った長所ばかりだったりします。
あるいは、あまり「中身」を伴わない、「すごいね」程度の、ごくごく単純な称賛に過ぎなかったりします。
考えてみれば自分は、ただ単純に「認められたい」わけではなく、自分の行った努力や工夫に対する「報い」が欲しいのです。
なので、その努力や工夫を一切評価されずに、場合によってはそれに気づかれることすらなく、ただ承認や称賛を与えられても、そこはかとない「虚しさ」を覚えてしまうのです。
さらには、他者からの承認そのものが、あまり「実体」を伴わない、儚く消える「幻」のように思えてならないことがあります。
たとえ一時の承認・称賛を得られたとしても、情報の新陳代謝の速い現代社会では、そんなものはあっと言う間に忘れ去られてしまいます。
たとえ本人は過去の栄光を忘れず、それに縋っていたとしても、周りはとっくにそれを忘れ去っているのです。
にも関わらず、そんな儚い承認を必死に求めて足掻き続ける…そのこと自体、あまりに滑稽で哀しいと思いませんか?
そんな思いから、今では自分は「他者からの承認なんて、どうでもいい」という心境で生きています。
すると、驚くほどに生きるのがラクになるのです。
「他人から認められるため」ではなく、ただ「自分にとって悔いの無い人生を追求する」…それだけで、人生は全く質の違うものに変わるのです。
就職活動で「自己分析」を経験した方、結構いらっしゃると思います。
自分の長所・短所を見つめ直し、面接で上手くPRできるように、自分自身について分析をするわけですが…
社会人になった今にして思うと、学生時代にやった「自己分析」は、まるで「なっていなかった」と感じます。
「自己分析」という字面からして、「自分自身」だけを分析すれば良いような気がしてしまいますが…
本当の意味で「自分自身を知る」には、「自分を知っている」だけでは駄目なのです。
知らなければならないのは「自分と他人との違い」です。
他人と比べて自分が勝っているものは何か、そして逆に劣っている部分は何なのか…。
そしてそんな「自分と他人との違い」を知るには、過小評価でも過大評価でもない「リアルで正確な他人の姿」を知らなければならないのです。
自己評価をする際、無意識のうちに他人の能力を低く見積もり、「自分はこんなにスゴいんだ」と偉ぶったりはしていませんか?
あるいは逆に、自分が周りと比べてひどく劣っているような気がして、委縮したりはしてしませんか?
他人の姿を色眼鏡無しに真っ直ぐ見つめるということは、そんなに簡単なことではないのです。
そもそも「自分から見える他人の姿」は、その人のほんの一部分――“氷山の一角”でしかありません。
実はとてつもない能力を隠し持っているかも知れませんし、逆に見栄を張って自分を大きく見せようとしているかも知れません。
そんな「目には見えない部分」も考慮した上で、他人と自分との「違い」を見つめていかなければなりません。
正直、非常に難しく、社会人になった今でも、ちゃんとできるかどうか、自信はありません。
しかし、他人を知り、自分を知るということは、就職活動のみならず、人生を生きる上でも非常に役立ちます。
就職活動のためだけのものと思わず、人生のふとした場面で、自己分析してみるのはいかがでしょうか。
自分の長所・短所を見つめ直し、面接で上手くPRできるように、自分自身について分析をするわけですが…
社会人になった今にして思うと、学生時代にやった「自己分析」は、まるで「なっていなかった」と感じます。
「自己分析」という字面からして、「自分自身」だけを分析すれば良いような気がしてしまいますが…
本当の意味で「自分自身を知る」には、「自分を知っている」だけでは駄目なのです。
知らなければならないのは「自分と他人との違い」です。
他人と比べて自分が勝っているものは何か、そして逆に劣っている部分は何なのか…。
そしてそんな「自分と他人との違い」を知るには、過小評価でも過大評価でもない「リアルで正確な他人の姿」を知らなければならないのです。
自己評価をする際、無意識のうちに他人の能力を低く見積もり、「自分はこんなにスゴいんだ」と偉ぶったりはしていませんか?
あるいは逆に、自分が周りと比べてひどく劣っているような気がして、委縮したりはしてしませんか?
他人の姿を色眼鏡無しに真っ直ぐ見つめるということは、そんなに簡単なことではないのです。
そもそも「自分から見える他人の姿」は、その人のほんの一部分――“氷山の一角”でしかありません。
実はとてつもない能力を隠し持っているかも知れませんし、逆に見栄を張って自分を大きく見せようとしているかも知れません。
そんな「目には見えない部分」も考慮した上で、他人と自分との「違い」を見つめていかなければなりません。
正直、非常に難しく、社会人になった今でも、ちゃんとできるかどうか、自信はありません。
しかし、他人を知り、自分を知るということは、就職活動のみならず、人生を生きる上でも非常に役立ちます。
就職活動のためだけのものと思わず、人生のふとした場面で、自己分析してみるのはいかがでしょうか。
自分が常日頃から心がけていることの一つに「信ぴょう性の高いものでも、何%かは疑う余地を残しておく」ことと、逆に「信じ難いものであっても、何%かは信じる余地を残しておく」ということがあります。
それは自分自身も含めて「人間の真実を見抜く目なんて全くアテにはならない」と思っているから、でもあるのですが…。
たとえば今では一笑に付される「天動説」や中世の迷信だって、当時は「当たり前の常識」「疑いようのない真実」くらいのレベルで多くの人間に信じられてきた事柄です。
それと同じように、今この時代で当たり前に信じられていること、常識だと思われていることが、いつかの未来にアッサリ覆されることは充分にあり得ることだと思うのです。
そもそも人類は、自分たちが生きるこの世界についてさえ100%全部を知っているわけではありません。
「天才的頭脳を持つ科学者・数学者だって、この世界の謎を全て解き明かせたわけではないというのに、自分のようなごく普通の一般人が、どれほどの真実を知ることができるのだろう」――自分は常日頃、そんな風に思っています。
なので、ある日突然「それまで信じてきた常識がコロッと変わってしまう」ことがあっても柔軟に対応できるように、その変化を受け入れる心の余裕を常に持っておきたいと思うのです。
あるいは「皆が安全だと信じ込んでしまっている、実は危険な何か」に、真っ先に「あやしい」と気づいて安全策がとれるように…。
権威のある人や多数派が「正しい」と言えばそれを信じて流されてしまうというのは、特に日本人には多い傾向なのかも知れませんが、「安全だ」と言い続けられてきたものが実は危険だったという実例が過去にいろいろある以上、鵜呑みにせずに何%かは疑う余地を残しておいた方が自分自身のためだと思うのです。
逆に、皆が「間違いだ」と思ってスルーしているものの中にも、人生の役に立つ「真実」があったりするかも知れません。
なので、全てを信じるのでなく全てを疑うのでもなく、常に「半信半疑」……あるいは「九信一疑」「一信九疑」等でも良いかも知れませんが……とにかく、白か黒かをスパッと決めてしまいたくはないのです。
人によっては「どっちつかず」だとか「日和見主義」と馬鹿にされてしまうスタンスかも知れませんが……結局はこのスタンスが一番、効率的で安全性の高い生き方だという気がするのです。
それは自分自身も含めて「人間の真実を見抜く目なんて全くアテにはならない」と思っているから、でもあるのですが…。
たとえば今では一笑に付される「天動説」や中世の迷信だって、当時は「当たり前の常識」「疑いようのない真実」くらいのレベルで多くの人間に信じられてきた事柄です。
それと同じように、今この時代で当たり前に信じられていること、常識だと思われていることが、いつかの未来にアッサリ覆されることは充分にあり得ることだと思うのです。
そもそも人類は、自分たちが生きるこの世界についてさえ100%全部を知っているわけではありません。
「天才的頭脳を持つ科学者・数学者だって、この世界の謎を全て解き明かせたわけではないというのに、自分のようなごく普通の一般人が、どれほどの真実を知ることができるのだろう」――自分は常日頃、そんな風に思っています。
なので、ある日突然「それまで信じてきた常識がコロッと変わってしまう」ことがあっても柔軟に対応できるように、その変化を受け入れる心の余裕を常に持っておきたいと思うのです。
あるいは「皆が安全だと信じ込んでしまっている、実は危険な何か」に、真っ先に「あやしい」と気づいて安全策がとれるように…。
権威のある人や多数派が「正しい」と言えばそれを信じて流されてしまうというのは、特に日本人には多い傾向なのかも知れませんが、「安全だ」と言い続けられてきたものが実は危険だったという実例が過去にいろいろある以上、鵜呑みにせずに何%かは疑う余地を残しておいた方が自分自身のためだと思うのです。
逆に、皆が「間違いだ」と思ってスルーしているものの中にも、人生の役に立つ「真実」があったりするかも知れません。
なので、全てを信じるのでなく全てを疑うのでもなく、常に「半信半疑」……あるいは「九信一疑」「一信九疑」等でも良いかも知れませんが……とにかく、白か黒かをスパッと決めてしまいたくはないのです。
人によっては「どっちつかず」だとか「日和見主義」と馬鹿にされてしまうスタンスかも知れませんが……結局はこのスタンスが一番、効率的で安全性の高い生き方だという気がするのです。
以前から思っていたことがあります。
「その人を好きか嫌いか」と「その人に、この問題を解決する能力があるか」は全く別の問題だと。
抱えていた問題を、心から信頼する人間に相談したとして、その人がその問題を解決してくれるとは限らない、と。
本当に「問題の解決」を望むのであれば、「その問題を解決できる能力を持った人」を頼らなければ意味が無いのだと。
自分は小学校時代の虐め問題を、一旦は家族に相談したものの、その後の対応を見てすぐに家族を頼ることをやめました。
それは家族のことが嫌いだったからではありません。
「信頼していたかどうか」ということになると、「家族としての信頼」はそれなりにあったものの、「この問題を解決できるという信頼」は持っていませんでした。
「この人たちを頼っても、この問題は解決しないだろう」と冷静に判断し、問題を解決できる最適な手段を自分で選択したのです。
それはドライ過ぎる選択だったかも知れません。
ですが、学校が世界の全てと言っても良かった小学校時代において、自分に対する虐めを「なくす」ことが、その時の自分にとって最優先事項だったのです。
能力の無い人間にいつまでも頼り続けることは、問題を長引かせるだけでなく、かえって危険を招くこともあります。
相談に乗ってもらった相手が「善かれ」と思ってしたことが、かえって問題をややこしくし、相談者を追いつめる…そんなことはザラにあります。
しかも、相手はあくまでも善意で行っているので、余計に相談者が苦しむことになるのです。
「信頼して相談したのに、結局助けてもらえなかった」という台詞は、きっと、相手に「助ける能力」があった時だけ通用する台詞なのだと思います。
「誰かを助ける能力」は、残念ながら、誰にでも備わっているものではありません。
それには知識(時には問題に応じた専門知識)や行動力、コミュニケーション能力や調整力など、様々なスキルが必要となるものなのです。
けれど、これは「人柄は良いけど能力は無い人」が「必要ない」という話ではありません。
「信頼できる人」「人柄の良い人」は、「問題を解決」してはくれなくても、「話を聞いてくれる」ことはできます。
現実に問題が解決していなくても、誰かに話を聞いてもらい、気持ちを分かってもらうことで「心が楽になる」ことはあります。
「現実に問題を解決したいのか」「誰かに話を聞いてもらって心が楽になりたいのか」その区別・線引きをしっかりしておけば良い話なのです。
そこを一緒くたにして、能力の無い相手に「この人に相談すれば、もう安心」と思ってしまうのは危険です。
<関連記事>
・いざと言う時に他人頼みだと普通に命が危ないと思うんだ
・虐め(いじめ)対処の実例~小学生の時~
「その人を好きか嫌いか」と「その人に、この問題を解決する能力があるか」は全く別の問題だと。
抱えていた問題を、心から信頼する人間に相談したとして、その人がその問題を解決してくれるとは限らない、と。
本当に「問題の解決」を望むのであれば、「その問題を解決できる能力を持った人」を頼らなければ意味が無いのだと。
自分は小学校時代の虐め問題を、一旦は家族に相談したものの、その後の対応を見てすぐに家族を頼ることをやめました。
それは家族のことが嫌いだったからではありません。
「信頼していたかどうか」ということになると、「家族としての信頼」はそれなりにあったものの、「この問題を解決できるという信頼」は持っていませんでした。
「この人たちを頼っても、この問題は解決しないだろう」と冷静に判断し、問題を解決できる最適な手段を自分で選択したのです。
それはドライ過ぎる選択だったかも知れません。
ですが、学校が世界の全てと言っても良かった小学校時代において、自分に対する虐めを「なくす」ことが、その時の自分にとって最優先事項だったのです。
能力の無い人間にいつまでも頼り続けることは、問題を長引かせるだけでなく、かえって危険を招くこともあります。
相談に乗ってもらった相手が「善かれ」と思ってしたことが、かえって問題をややこしくし、相談者を追いつめる…そんなことはザラにあります。
しかも、相手はあくまでも善意で行っているので、余計に相談者が苦しむことになるのです。
「信頼して相談したのに、結局助けてもらえなかった」という台詞は、きっと、相手に「助ける能力」があった時だけ通用する台詞なのだと思います。
「誰かを助ける能力」は、残念ながら、誰にでも備わっているものではありません。
それには知識(時には問題に応じた専門知識)や行動力、コミュニケーション能力や調整力など、様々なスキルが必要となるものなのです。
けれど、これは「人柄は良いけど能力は無い人」が「必要ない」という話ではありません。
「信頼できる人」「人柄の良い人」は、「問題を解決」してはくれなくても、「話を聞いてくれる」ことはできます。
現実に問題が解決していなくても、誰かに話を聞いてもらい、気持ちを分かってもらうことで「心が楽になる」ことはあります。
「現実に問題を解決したいのか」「誰かに話を聞いてもらって心が楽になりたいのか」その区別・線引きをしっかりしておけば良い話なのです。
そこを一緒くたにして、能力の無い相手に「この人に相談すれば、もう安心」と思ってしまうのは危険です。
本当にその問題を解決したいなら、「信頼できる人に話を聞いてもらって心をラクにする」のとはまた別に、専門家を頼ったり能力を持った相手を探す…それが、ベストな選択だと思うのです。
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- 【HN(ハンドル・ネーム)】
- 津籠睦月(つごもりむつき)
- 【職業】
- 社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
- 【趣味】
- 小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
- 【好きな小説ジャンル】
- ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
- 【備考】
- 漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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もし更新が滞ったても「あぁ、仕事が忙し過ぎて時間が無いんだな」と気長にお待ちいただければ幸いです。
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