日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
以前から語っている通り、自分はaiboやロボホンのようなAI搭載ロボットには大いに興味がありますし、「人間にはできないこと」や「ヒューマンエラー防止」のためにAIを活用することには賛成なのですが…
世の中を見ていると、一部のAIの使い方に「ん?」と思ってしまうことがあります。
特に疑問に思うのが「趣味」や「生きがい」分野でのAI利用なのですが…
…「人間」が楽しむべきことを「AI」にやらせるのって、趣味や生きがいとして本末転倒にもほどがありませんか…?
例えるなら「趣味のための道具は用意したけど、後は全部AIにやらせて、自分は傍で見ているだけ」みたいな状態ですけど…
それ、本当に「趣味」や「生きがい」として成立しているんでしょうか??
「趣味」というものは100%全部が「楽しい作業」だけで構成されているわけではありません。
中には面倒な作業や、地道で飽きてしまいそうな作業、しんどい作業や行き詰まってしまう作業もあるでしょう。
ですが、それも全部ひっくるめて「自分の手」でやるからこそ、終わった時に「達成感」を味わえるのではないでしょうか?
蕎麦屋やコンビニ、スーパーでさえ安価で美味しい蕎麦が簡単に手に入る現代で、それでも蕎麦の「手打ち」に挑みたがる人間が多いのは、そこに「自分の手で作るからこその価値」があるからなのではないでしょうか?
あるいは、便利で快適に過ごせる街中を離れ、わざわざ不便な山でキャンプする人が多いのは、そこに「(衣)食住を自分たちの手で組み立てることの価値」があるからなのではないでしょうか?
あるいは、完成したところで自己満足以外の何の意味もない数百・数千ピースのパズルを延々と組み立てる人がいるのは、そこに「地道で気の遠くなる作業の果てにしか味わえない何か」があるからなのではないでしょうか?
「便利であること」と「幸せであること」はイコールではない、と言います。
それは「便利であるはずの現代」で、心の病に苦しむ人や自殺する人がこれほどまでに多いという事実を見れば、明らかなのではないでしょうか?
人間は「便利だー!便利だー!」で、すぐ機械やAIに頼りがちですが…
便利さと引き換えに、本来なら味わえていたはずの「人間として大切な何か」「人生にとって必要な何か」を棄ててしまってはいませんか?
自分は創作を趣味とする人間なので、多少は分かるのですが…
とことん困難にぶち当たっても、その壁を「自分の」知恵や工夫で突破できた時の快感は、承認欲求など軽く超えます。
(なので自分は、他者の評価をあまり気にしないのかも知れません。)
嘘偽り無く「自分の力で」困難を乗り越えたことを、自分自身がその目で見て知っているので、自己肯定感にも繋がります。
おそらく「借りものの力で」乗り越えられたとしても、あれほどの喜びは感じられないことでしょう。
自分でも予想だにしなかった成果を「自分自身の力で」生み出せた時、人は「自分にはまだこんな可能性があったんだ」「自分もまだまだ棄てたものじゃない」と本気で実感できるのです。
子どもの頃「それまでできなかったこと」が1つできるようになるたびに、嬉しくありませんでしたか?
ひらがなの「あ」が書けるようになった…逆上がりができるようになった…
(「あ」って、ひらがなの一番最初の文字のくせに、いきなり難易度が高過ぎやしませんでしたか?)
大人からすれば「そんなことか」と思うようなことでも…自分が一歩一歩「進化」しているように感じられて、わくわくしませんでしたか?
人間は本来「できなかったことができるようになる」だけでも喜びを感じられる生き物なのです。
「他人に認められないと意味がない」「結果が出ないと意味がない」「できてもこんなレベルじゃ意味がない」と変に理由をつけて、その喜びを自分で「無きもの」にしてしまう人も多いですが…
「趣味」や「生きがい」って、本来「そういうもの」なのではないでしょうか?
不出来でも、他者に称賛されるクオリティーでなかったとしても、自分のささやかな成長を見出して、自分で自分を褒めてあげられる…
そのために「自分の力」で何かを為すのが「趣味」「生きがい」なのではないでしょうか?
AIに委ねてしまったなら、たとえどんなに素晴らしいクオリティーのものが出来上がったとしても、そこには「自分の力」も「自分の成長」も存在しません。
そもそも、そこに「自分の」意思や努力や工夫が存在しないなら、それは「趣味」でも「生きがい」でもなく、単なる「確認作業」で「流れ作業」にしかならないのです。
おそらく、今「趣味」や「創作」の分野でAIを利用している人々は、そういった趣味本来の「喜び」を未だ知らない人たちなのではないでしょうか?
「達成感」や「喜び」に至る「前の段階」で放り出して、諦めてしまった人…
あるいは始める前から「自分の可能性」を諦めてしまっている人…
あるいは「AIにやらせるなんてもったいない」と思えるほど打ち込めるものに出逢えていない人、それを探すのを諦めてしまっている人…
そういう「趣味をやることの本当の意義や意味」を見出せていない人々だからこそ、「自力」ではなく「他力」の自動生成でも満足できてしまえるのではないでしょうか?
昨今、ネットの世界では「自力」で趣味・創作を楽しむ人々と「生成AI」の生成物を“自慢”したがる人々との間での「対立」が散見されます。
どうにも生成AI利用者は「自力で趣味を楽しむ人々から反発される理由」が理解できていないようで「生成AI作品だと分かる前は褒めてもらえていたのに、分かってからは何も言われなくなった」という嘆きの声さえ見られるのですが…
それって「それはそうなるだろう」という案件なんですよね…。
「自力」で趣味を楽しむ人々の前に「他力」の作品を持っていって“自慢”するなんて…
例えるなら、「定年したから手打ち蕎麦始めたぞ」と報告してきた人に「こんなに美味くて安く買える良い既製品がありますよ」などと言って機械製麺のパッケージ商品を持って行くくらい「無粋」なことなんですよね…。
あるいは、林間学校の野外調理で一生懸命カレーを作った子どもたちに「こっちの方が断然美味いだろ」とレトルトカレーを出してくるくらい「空気が読めない」行為なんですよね…。
さらに生成AIの場合、生成物の学習背景に「自力で作品を生み出してきた先達たちの努力や苦悩の結晶」があるため、余計にクリエイターからの心証が悪いというのもあります。
生成AI作品を披露したいなら、せめて発表すべき場(※)は「趣味」「創作」のコミュニティではなく、ITやテクノロジー方面のコミュニティであるべきなのですが…その辺りの「棲み分け」や「人間の心の機微」が分かっていない方も多いのでしょうね…。
※そもそも「著作権的にどうなのか」まだ国内判例もできていない技術なので、コンプラを気にする自分は発表そのものに「慎重派」ですが(←著作権的に合法か違法かって、世論が決めることでも省庁が決めることでもなく、法を司る「裁判所」が決めることなんですよ…。で、まだ国内での「判断」はされていないという)。
(あるいは全てを分かっていて、他者の努力を卑下して嘲笑したいがために生成AI作品の“自慢”をしてくる人もいるのかも知れませんが…そもそも「他力」である以上「自」慢にはなっていないんですよね…。IT・テクノロジーのコミュニティならプロンプトの出来で褒めてくれる人もいるかも知れませんが、趣味・創作コミュニティでそれをされても「それで『君』は何が創れるの?」って話で、そもそも同じ土俵に上がってすらいないんですよね…。「趣味・創作コミュニティを生成AIで荒らしたい人」の言動の裏には「特技を持たないコンプレックスの裏返し」と「特技を持つ者への対抗心・復讐心」めいたものが透けて見えてしまっている気がして、そこが何とも物悲しい気分になるのですが…気のせいでしょうか?)
趣味に向き合う態度は人それぞれですし「そんなに壮大な達成感や多幸感なんて味わえなくても、ラクして暇つぶしができればいい」というのも、それはそれで1つの人生なのでしょう。
ただ…「もったいない」です。
趣味や創作に本気で打ち込んでいると、そこに「自分でも知らなかった自分の一面」を発見することがよくあります。
「自分にはこんなことができたんだ」「この歳からでも、こんなに成長できるんだ」と、自分の可能性に気づき、それが自信や自己肯定にも繋がっていくのです。
「自力」で何かに打ち込まず、「借りものの他力」だけで全てをこなしてしまう人は、きっと「自分が本当はどんな人間なのか」「どんな秘められた可能性があるのか」を知ることもなく、一生を終えてしまうのでしょう。
人間は、ただ食べていくためだけ、ただ金を稼ぐためだけに生きていけるほど単純な生き物ではありません。
人間が人間らしく生きていくためには「生きがい」だとか「やりがい」だとか「自己肯定感」だとか「自分探し」だとか「ささやかな幸せ」だとか、そういう「目に見えない何か」が必要なのです。
現代人はお金やフォロワー数などの「目に見える数字」ばかり追って、いつの間にかそういう「見えないけれど人生に必要なもの」を追うことを忘れてしまっているのではないでしょうか?
だから生きづらくなったり、心の病にかかる人が増えたりしているのではないでしょうか?
昭和レトロやアナログ回帰など、過去の時代の「人間味」を求める人が多いのも、そんな現代への反動なのではないでしょうか?
技術の進歩は確かに便利で素晴らしいことなのかも知れませんが…
それが「人間らしさ」や「人が人として生きること」を否定するものだとしたら、人類の幸福にとっては逆に「退化」なのではないでしょうか?
まして「AI作品を賛美して人間が作った作品をばかにする人」のように「人類の価値を人類自身が否定する」なんて、あまりにばかばかし過ぎやしませんか?
「他人」を嘲笑するつもりで、いつの間にか自分自身もひっくるめた「人類そのもの」を嘲笑している…
「他人の生きがい」を否定しているつもりで、自分自身もひっくるめた「人類そのものの生きがい」をも否定してしまっている…
そのことに気づかず、どんどん「自分の生きる世界」を自分自身の手で「生きづらく」してしまっている人が多い気がするのですが…
このまま「AIスゴイ!それに比べて人間のやることに価値なんて無い!」という風潮がどんどん加速してしまったら、今後普通に「生きる意味」を見失って鬱に陥る人が激増しませんか?
少なくとも自分は、そんなお先真っ暗な世界は真っ平御免です。
(うつ病増加→働けない人増加→税収減→社会サービス低下&さらなる増税で、普通に「いいこと無し」ですから…。)
なので、焼け石に水だとしても、何とか「人間が人間であることの価値」や「希望」を、細々とでも世に発信していけたらな…と思うのです。
世の中を見ていると、一部のAIの使い方に「ん?」と思ってしまうことがあります。
特に疑問に思うのが「趣味」や「生きがい」分野でのAI利用なのですが…
…「人間」が楽しむべきことを「AI」にやらせるのって、趣味や生きがいとして本末転倒にもほどがありませんか…?
例えるなら「趣味のための道具は用意したけど、後は全部AIにやらせて、自分は傍で見ているだけ」みたいな状態ですけど…
それ、本当に「趣味」や「生きがい」として成立しているんでしょうか??
「趣味」というものは100%全部が「楽しい作業」だけで構成されているわけではありません。
中には面倒な作業や、地道で飽きてしまいそうな作業、しんどい作業や行き詰まってしまう作業もあるでしょう。
ですが、それも全部ひっくるめて「自分の手」でやるからこそ、終わった時に「達成感」を味わえるのではないでしょうか?
蕎麦屋やコンビニ、スーパーでさえ安価で美味しい蕎麦が簡単に手に入る現代で、それでも蕎麦の「手打ち」に挑みたがる人間が多いのは、そこに「自分の手で作るからこその価値」があるからなのではないでしょうか?
あるいは、便利で快適に過ごせる街中を離れ、わざわざ不便な山でキャンプする人が多いのは、そこに「(衣)食住を自分たちの手で組み立てることの価値」があるからなのではないでしょうか?
あるいは、完成したところで自己満足以外の何の意味もない数百・数千ピースのパズルを延々と組み立てる人がいるのは、そこに「地道で気の遠くなる作業の果てにしか味わえない何か」があるからなのではないでしょうか?
「便利であること」と「幸せであること」はイコールではない、と言います。
それは「便利であるはずの現代」で、心の病に苦しむ人や自殺する人がこれほどまでに多いという事実を見れば、明らかなのではないでしょうか?
人間は「便利だー!便利だー!」で、すぐ機械やAIに頼りがちですが…
便利さと引き換えに、本来なら味わえていたはずの「人間として大切な何か」「人生にとって必要な何か」を棄ててしまってはいませんか?
自分は創作を趣味とする人間なので、多少は分かるのですが…
とことん困難にぶち当たっても、その壁を「自分の」知恵や工夫で突破できた時の快感は、承認欲求など軽く超えます。
(なので自分は、他者の評価をあまり気にしないのかも知れません。)
嘘偽り無く「自分の力で」困難を乗り越えたことを、自分自身がその目で見て知っているので、自己肯定感にも繋がります。
おそらく「借りものの力で」乗り越えられたとしても、あれほどの喜びは感じられないことでしょう。
自分でも予想だにしなかった成果を「自分自身の力で」生み出せた時、人は「自分にはまだこんな可能性があったんだ」「自分もまだまだ棄てたものじゃない」と本気で実感できるのです。
子どもの頃「それまでできなかったこと」が1つできるようになるたびに、嬉しくありませんでしたか?
ひらがなの「あ」が書けるようになった…逆上がりができるようになった…
(「あ」って、ひらがなの一番最初の文字のくせに、いきなり難易度が高過ぎやしませんでしたか?)
大人からすれば「そんなことか」と思うようなことでも…自分が一歩一歩「進化」しているように感じられて、わくわくしませんでしたか?
人間は本来「できなかったことができるようになる」だけでも喜びを感じられる生き物なのです。
「他人に認められないと意味がない」「結果が出ないと意味がない」「できてもこんなレベルじゃ意味がない」と変に理由をつけて、その喜びを自分で「無きもの」にしてしまう人も多いですが…
「趣味」や「生きがい」って、本来「そういうもの」なのではないでしょうか?
不出来でも、他者に称賛されるクオリティーでなかったとしても、自分のささやかな成長を見出して、自分で自分を褒めてあげられる…
そのために「自分の力」で何かを為すのが「趣味」「生きがい」なのではないでしょうか?
AIに委ねてしまったなら、たとえどんなに素晴らしいクオリティーのものが出来上がったとしても、そこには「自分の力」も「自分の成長」も存在しません。
そもそも、そこに「自分の」意思や努力や工夫が存在しないなら、それは「趣味」でも「生きがい」でもなく、単なる「確認作業」で「流れ作業」にしかならないのです。
おそらく、今「趣味」や「創作」の分野でAIを利用している人々は、そういった趣味本来の「喜び」を未だ知らない人たちなのではないでしょうか?
「達成感」や「喜び」に至る「前の段階」で放り出して、諦めてしまった人…
あるいは始める前から「自分の可能性」を諦めてしまっている人…
あるいは「AIにやらせるなんてもったいない」と思えるほど打ち込めるものに出逢えていない人、それを探すのを諦めてしまっている人…
そういう「趣味をやることの本当の意義や意味」を見出せていない人々だからこそ、「自力」ではなく「他力」の自動生成でも満足できてしまえるのではないでしょうか?
昨今、ネットの世界では「自力」で趣味・創作を楽しむ人々と「生成AI」の生成物を“自慢”したがる人々との間での「対立」が散見されます。
どうにも生成AI利用者は「自力で趣味を楽しむ人々から反発される理由」が理解できていないようで「生成AI作品だと分かる前は褒めてもらえていたのに、分かってからは何も言われなくなった」という嘆きの声さえ見られるのですが…
それって「それはそうなるだろう」という案件なんですよね…。
「自力」で趣味を楽しむ人々の前に「他力」の作品を持っていって“自慢”するなんて…
例えるなら、「定年したから手打ち蕎麦始めたぞ」と報告してきた人に「こんなに美味くて安く買える良い既製品がありますよ」などと言って機械製麺のパッケージ商品を持って行くくらい「無粋」なことなんですよね…。
あるいは、林間学校の野外調理で一生懸命カレーを作った子どもたちに「こっちの方が断然美味いだろ」とレトルトカレーを出してくるくらい「空気が読めない」行為なんですよね…。
さらに生成AIの場合、生成物の学習背景に「自力で作品を生み出してきた先達たちの努力や苦悩の結晶」があるため、余計にクリエイターからの心証が悪いというのもあります。
生成AI作品を披露したいなら、せめて発表すべき場(※)は「趣味」「創作」のコミュニティではなく、ITやテクノロジー方面のコミュニティであるべきなのですが…その辺りの「棲み分け」や「人間の心の機微」が分かっていない方も多いのでしょうね…。
※そもそも「著作権的にどうなのか」まだ国内判例もできていない技術なので、コンプラを気にする自分は発表そのものに「慎重派」ですが(←著作権的に合法か違法かって、世論が決めることでも省庁が決めることでもなく、法を司る「裁判所」が決めることなんですよ…。で、まだ国内での「判断」はされていないという)。
(あるいは全てを分かっていて、他者の努力を卑下して嘲笑したいがために生成AI作品の“自慢”をしてくる人もいるのかも知れませんが…そもそも「他力」である以上「自」慢にはなっていないんですよね…。IT・テクノロジーのコミュニティならプロンプトの出来で褒めてくれる人もいるかも知れませんが、趣味・創作コミュニティでそれをされても「それで『君』は何が創れるの?」って話で、そもそも同じ土俵に上がってすらいないんですよね…。「趣味・創作コミュニティを生成AIで荒らしたい人」の言動の裏には「特技を持たないコンプレックスの裏返し」と「特技を持つ者への対抗心・復讐心」めいたものが透けて見えてしまっている気がして、そこが何とも物悲しい気分になるのですが…気のせいでしょうか?)
趣味に向き合う態度は人それぞれですし「そんなに壮大な達成感や多幸感なんて味わえなくても、ラクして暇つぶしができればいい」というのも、それはそれで1つの人生なのでしょう。
ただ…「もったいない」です。
趣味や創作に本気で打ち込んでいると、そこに「自分でも知らなかった自分の一面」を発見することがよくあります。
「自分にはこんなことができたんだ」「この歳からでも、こんなに成長できるんだ」と、自分の可能性に気づき、それが自信や自己肯定にも繋がっていくのです。
「自力」で何かに打ち込まず、「借りものの他力」だけで全てをこなしてしまう人は、きっと「自分が本当はどんな人間なのか」「どんな秘められた可能性があるのか」を知ることもなく、一生を終えてしまうのでしょう。
人間は、ただ食べていくためだけ、ただ金を稼ぐためだけに生きていけるほど単純な生き物ではありません。
人間が人間らしく生きていくためには「生きがい」だとか「やりがい」だとか「自己肯定感」だとか「自分探し」だとか「ささやかな幸せ」だとか、そういう「目に見えない何か」が必要なのです。
現代人はお金やフォロワー数などの「目に見える数字」ばかり追って、いつの間にかそういう「見えないけれど人生に必要なもの」を追うことを忘れてしまっているのではないでしょうか?
だから生きづらくなったり、心の病にかかる人が増えたりしているのではないでしょうか?
昭和レトロやアナログ回帰など、過去の時代の「人間味」を求める人が多いのも、そんな現代への反動なのではないでしょうか?
技術の進歩は確かに便利で素晴らしいことなのかも知れませんが…
それが「人間らしさ」や「人が人として生きること」を否定するものだとしたら、人類の幸福にとっては逆に「退化」なのではないでしょうか?
まして「AI作品を賛美して人間が作った作品をばかにする人」のように「人類の価値を人類自身が否定する」なんて、あまりにばかばかし過ぎやしませんか?
「他人」を嘲笑するつもりで、いつの間にか自分自身もひっくるめた「人類そのもの」を嘲笑している…
「他人の生きがい」を否定しているつもりで、自分自身もひっくるめた「人類そのものの生きがい」をも否定してしまっている…
そのことに気づかず、どんどん「自分の生きる世界」を自分自身の手で「生きづらく」してしまっている人が多い気がするのですが…
このまま「AIスゴイ!それに比べて人間のやることに価値なんて無い!」という風潮がどんどん加速してしまったら、今後普通に「生きる意味」を見失って鬱に陥る人が激増しませんか?
少なくとも自分は、そんなお先真っ暗な世界は真っ平御免です。
(うつ病増加→働けない人増加→税収減→社会サービス低下&さらなる増税で、普通に「いいこと無し」ですから…。)
なので、焼け石に水だとしても、何とか「人間が人間であることの価値」や「希望」を、細々とでも世に発信していけたらな…と思うのです。
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最近、何かと「○○をブッ壊せ」と言う過激な人たちが増えている気がします。
「古くて時代に合わないもの」 「長い時間の間に腐敗してしまったもの」が「邪魔」で「不要」だという理屈は分かるのですが…
ひとつ疑問に思うのが「それを壊した“後”のことをちゃんと考えている人が、どれくらいいるのだろう?」ということです。
「古く強大な何か」に立ち向かい、それを打ち壊すことには「カタルシス」があります。
そもそも人は「激情に任せて」行動したり、「多くの人々と一体になって何かを動かす」ことに「気持ち良さ」を覚える生き物なのです。
しかしその「気持ち良さ」に酔って、後先を何も考えずに暴走する人がどれほど多いことか…。
そもそも「古くて強大な何か」を壊したからと言って、世界が今までより「良くなる」とは限りません。
それは、歴史を見ればよく分かります。
フランス革命しかり、アラブの春しかり…「強大な何か」を壊せても、その後が上手くいかなかった例って、山ほどあるんですよね…。
むしろ、壊す前より酷い「地獄」を招いてしまった例さえあります。
それは何故なのか……答えは簡単。
「壊した後に、その“代わり”を上手く創り出すことができなかったから」です。
自分のあまり好きでない「ことわざ」に「悪法は無法に勝る」というものがあるのですが…
この世で一番「最悪」なのは「仕組みや秩序が何も無いこと」。
それに比べれば、欠陥のある仕組みや秩序でも「無いよりはマシ」ということです。
(最初にこの「ことわざ」を知った時には「何で?」と思いましたが……今のモラル崩壊した時代を見ていれば分かります。「法の抜け穴」「モラルには反するが違法ではないグレーゾーン」があると、他人の迷惑も顧みずにやりたい放題する人が多いってことなんですよね…。たとえ「悪法」であっても「法」が有れば悪い人々に対して「抑え」が効く、あるいはたとえ「悪法」であっても「ルールはルール」なので、その「法」を学びさえすれば「対策」のしようがあるが、やりたい放題の「無法者」には対策のしようが無いということなんでしょうね…。)
もしも「それまで在った社会の仕組みや秩序」を全て破壊してしまったなら、早急にその代わりの「新しい仕組みや秩序」を組み立てなければ、世の中が回らなくなってしまうわけですが…
社会の「仕組み」や「秩序」を創るには「智恵」や「知識」が要ります。
そもそも世の中、「壊す」よりも「創る」「生み出す」方がよほど難しいのです。
壊すことなら誰にでもできますが、創るには「能力」が要ります。
今ある仕組みをただ「ブッ壊したい」だけの人たちに、果たしてその能力はあるのでしょうか?
そもそも「ブッ壊す」ことに成功した「一部の人々」に「自分たちにだけ都合の良い仕組みや秩序」ではなく「全ての人のための仕組みや秩序」を創れる「思慮深さ」があるでしょうか?
…実際、それが「無かったから」歴史上の数々の革命が、後に「地獄」を招いてしまったのでしょうが…。
「壊した後のこと」を何も語らず、ただ「壊せ壊せ」だけ言う人々に乗せられれば、地獄へ連れて行かれるだけです。
さらに言えば「後のこと」を語っていても、それが「実現不可能な夢物語」ならば結局は「同じこと」です。
閉塞感に満ちた現代では「壊す」「打ち破る」と語る人間の方が、どうしても「魅力的」に見えてしまうものですが…
それでも冷静にその言動の「後先」を見極めなければ、未来への選択をとんでもなく間違えてしまう可能性があります。
…そもそも、今あるもの「全部」を壊すって、人類が「やりがち」なことですけど、普通に効率が悪過ぎるんですよね…。
普通に考えて「新しいものが出来上がるまで、使えるものは残しておいた方が良い」じゃないですか。
「使えるもの」が無くなるまで、徹底的に全てを壊すなんて、後先を考えていないにもほどがあるじゃないですか。
全てを壊せばそれで「何もかも終わり」ではなく、その後の「何も無くなった世界」でも、人は生きていかなければいけないというのに…。
…たぶん、中途半端に「今まであったもの」を残すと「物事が刷新した感が出ない」せいで、皆が皆「全部壊す」をやりたがるんでしょうけど…。
そんなイメージ戦略のために地獄を招かれたら、一般市民がたまったものではないんですよね…。
(元々は「イメージでしか物を見ない」一般大衆が悪いと言えば悪いのですが…。)
「古くて時代に合わないもの」 「長い時間の間に腐敗してしまったもの」が「邪魔」で「不要」だという理屈は分かるのですが…
ひとつ疑問に思うのが「それを壊した“後”のことをちゃんと考えている人が、どれくらいいるのだろう?」ということです。
「古く強大な何か」に立ち向かい、それを打ち壊すことには「カタルシス」があります。
そもそも人は「激情に任せて」行動したり、「多くの人々と一体になって何かを動かす」ことに「気持ち良さ」を覚える生き物なのです。
しかしその「気持ち良さ」に酔って、後先を何も考えずに暴走する人がどれほど多いことか…。
そもそも「古くて強大な何か」を壊したからと言って、世界が今までより「良くなる」とは限りません。
それは、歴史を見ればよく分かります。
フランス革命しかり、アラブの春しかり…「強大な何か」を壊せても、その後が上手くいかなかった例って、山ほどあるんですよね…。
むしろ、壊す前より酷い「地獄」を招いてしまった例さえあります。
それは何故なのか……答えは簡単。
「壊した後に、その“代わり”を上手く創り出すことができなかったから」です。
自分のあまり好きでない「ことわざ」に「悪法は無法に勝る」というものがあるのですが…
この世で一番「最悪」なのは「仕組みや秩序が何も無いこと」。
それに比べれば、欠陥のある仕組みや秩序でも「無いよりはマシ」ということです。
(最初にこの「ことわざ」を知った時には「何で?」と思いましたが……今のモラル崩壊した時代を見ていれば分かります。「法の抜け穴」「モラルには反するが違法ではないグレーゾーン」があると、他人の迷惑も顧みずにやりたい放題する人が多いってことなんですよね…。たとえ「悪法」であっても「法」が有れば悪い人々に対して「抑え」が効く、あるいはたとえ「悪法」であっても「ルールはルール」なので、その「法」を学びさえすれば「対策」のしようがあるが、やりたい放題の「無法者」には対策のしようが無いということなんでしょうね…。)
もしも「それまで在った社会の仕組みや秩序」を全て破壊してしまったなら、早急にその代わりの「新しい仕組みや秩序」を組み立てなければ、世の中が回らなくなってしまうわけですが…
社会の「仕組み」や「秩序」を創るには「智恵」や「知識」が要ります。
そもそも世の中、「壊す」よりも「創る」「生み出す」方がよほど難しいのです。
壊すことなら誰にでもできますが、創るには「能力」が要ります。
今ある仕組みをただ「ブッ壊したい」だけの人たちに、果たしてその能力はあるのでしょうか?
そもそも「ブッ壊す」ことに成功した「一部の人々」に「自分たちにだけ都合の良い仕組みや秩序」ではなく「全ての人のための仕組みや秩序」を創れる「思慮深さ」があるでしょうか?
…実際、それが「無かったから」歴史上の数々の革命が、後に「地獄」を招いてしまったのでしょうが…。
「壊した後のこと」を何も語らず、ただ「壊せ壊せ」だけ言う人々に乗せられれば、地獄へ連れて行かれるだけです。
さらに言えば「後のこと」を語っていても、それが「実現不可能な夢物語」ならば結局は「同じこと」です。
閉塞感に満ちた現代では「壊す」「打ち破る」と語る人間の方が、どうしても「魅力的」に見えてしまうものですが…
それでも冷静にその言動の「後先」を見極めなければ、未来への選択をとんでもなく間違えてしまう可能性があります。
…そもそも、今あるもの「全部」を壊すって、人類が「やりがち」なことですけど、普通に効率が悪過ぎるんですよね…。
普通に考えて「新しいものが出来上がるまで、使えるものは残しておいた方が良い」じゃないですか。
「使えるもの」が無くなるまで、徹底的に全てを壊すなんて、後先を考えていないにもほどがあるじゃないですか。
全てを壊せばそれで「何もかも終わり」ではなく、その後の「何も無くなった世界」でも、人は生きていかなければいけないというのに…。
…たぶん、中途半端に「今まであったもの」を残すと「物事が刷新した感が出ない」せいで、皆が皆「全部壊す」をやりたがるんでしょうけど…。
そんなイメージ戦略のために地獄を招かれたら、一般市民がたまったものではないんですよね…。
(元々は「イメージでしか物を見ない」一般大衆が悪いと言えば悪いのですが…。)
我が家のネコさんたちはオテンバ&ヤンチャなため、首輪がすぐにボロボロになります。
首輪は100均のお安いものを使っていますが、それでもすごい勢いで消耗していくので、何となく「もったいないな…」と感じています。
そこで、ボロになった首輪をなんとか「見られる」ようにリメイクするようになりました。
たとえば、首輪のワンポイントのリボンなど、すぐに取れたり千切れたりするのですが…
その部分に、手芸用の装飾パーツ(100均の手芸コーナーによく売っています)を代わりに付けたりします。
あと「全体的なボロさ」を誤魔化すには、全体に別布を貼り付けると、良い感じに誤魔化せます。
縫いつけるには首輪の生地が厚くて大変なので、布用接着剤など使うことが多いのですが…
全体に貼り付ける際には、接着した後、大きめのクリップなどで留めて乾くまで固定しておいた方が良いです。
(動いてズレてしまうので。)
ちなみに上のレース(を貼り付けた)首輪は、作ったは良いものの日常使いには向かないので「撮影用のおめかし首輪」になっています…。
(かわいさ重視で作ってしまうと、いろいろ失敗しがちです…。)
首輪は100均のお安いものを使っていますが、それでもすごい勢いで消耗していくので、何となく「もったいないな…」と感じています。
そこで、ボロになった首輪をなんとか「見られる」ようにリメイクするようになりました。
たとえば、首輪のワンポイントのリボンなど、すぐに取れたり千切れたりするのですが…
その部分に、手芸用の装飾パーツ(100均の手芸コーナーによく売っています)を代わりに付けたりします。
あと「全体的なボロさ」を誤魔化すには、全体に別布を貼り付けると、良い感じに誤魔化せます。
縫いつけるには首輪の生地が厚くて大変なので、布用接着剤など使うことが多いのですが…
全体に貼り付ける際には、接着した後、大きめのクリップなどで留めて乾くまで固定しておいた方が良いです。
(動いてズレてしまうので。)
ちなみに上のレース(を貼り付けた)首輪は、作ったは良いものの日常使いには向かないので「撮影用のおめかし首輪」になっています…。
(かわいさ重視で作ってしまうと、いろいろ失敗しがちです…。)
この頃、某検索サイトの検索結果に自動的に「AIによる回答」が表示されるようになりました。
こちらの意思に関わらず、有無を言わさず最上部に表示されるこのAI回答(概要)…
時々「誰がどう見ても間違えているだろう」というモノが出てくるのですが…
この前、ある猫種(と言っても、通称名で、正式名称ではありませんが)について検索した時、この「AIの誤回答の原因」がうっすら見えたような気がします。
それは、一部界隈では有名な「笹かま猫」の写真を見ようとググってみた時のこと…
(写真目的だったので、べつに「笹かま猫とはどういう猫なのか?」という答えを求めていたわけではないのですが…。)
うっかり目に入ったAIの回答に、思わずツッコミを入れたくなるような文言が入っていたのです。
「笹かま猫とは笹かまぼこのような“形”をした猫で…」という…。
「いや、そんなサーフボードみたいな形状の猫がいてたまるか!UMAか!?」とツッコみたくなりますよね?
翌日に再度検索したところ、若干回答内容が変化していたのですが…
(初日は「スクショを撮る」ということが頭に無かったため、画像がありません(記憶頼りで書いているので、細部は違うかも知れません)。AI生成物は(人間が関わった部分以外は)著作権で保護されないというのが米国著作権局での見解のようですので(2025年の報告書)、とりあえずアイコンなど除いた文章部分をそのまんま載せています。なお、そもそもが誤回答のため、AIが既存記事の著作権を犯していることもないだろうという判断。)
それでもなお「正解」には辿り着けていませんでした…。
この「何故こんな変な答えを出してしまうのか?」について、検索結果を見ていて思い当たる点がありました。
それは「ネットに上がっている『笹かま猫』の情報のほとんどが、その『名の由来』について語っていない」ということです。
…なぜなら、由来も何も「写真を見れば一目瞭然だから」です。
(首輪は100均の猫用首輪にレースのシュシュを貼り付けたオリジナルアレンジ)
笹かま猫の写真を見れば、ほとんどの人が「ああ、確かに笹かまぼこに似ているね」と思うことでしょう。
(写真は純粋な笹かまぼこでなくチーズ入り笹かまぼこのため、微妙にイメージが違うかも知れませんが…。)
ですが「何が」笹かまぼこに似ているのか、あえて言葉にしたりはしないでしょう。
人間は「言わなくても分かること」をわざわざ言葉で説明したりはしないからです。
ですがAIは「言語化されていない情報」は永遠に学ぶことができません(少なくとも言語モデルのAIは)。
たとえそれが、パッと見れば分かるレベルの「明白過ぎる」事実であっても…。
つまりAIは「暗黙の了解」や「言葉で言うまでもない常識」「見れば分かること(だから言葉にしないこと)」には弱いのです。
そして人間の方でも「それがAIの弱点」ということに、意外と気づいていないのではないでしょうか?
そもそもそれらの「言語化していない常識」が人間にとって「当たり前のこと」過ぎて、それを「AIに教えなければならない」ということ自体に、なかなか気づけないのではないでしょうか?
なにげにこの「言葉にしなければ伝わらないこと」って、人間とAIの間だけでなく、人間同士の間でも「誤解の元」「争いの元」になり得る問題なんですよね…。
皆さんも経験がありませんか?
学校や職場など、一部の人間の中で「暗黙のルール」となっていることを、最初のうちは知らずにいて、言われて初めて「そんなの初耳だよ!」となったことなど…。
「言葉で教えなければ伝わらないこと」を放置すると、それは時に重大なミスやエラーにも繋がりかねません。
なのでAIにはそういう「言語化されていない未知の情報(AIが知らずにいること)」を言語化して教える機会が必要だったりするのではないでしょうか?
ちなみに自分だったら、まず教えるのは「情報の真偽が分からないものについては、具体的な言及・詳細な説明は避け、シンプルな回答に徹するべき(後のことはユーザー自身で調べて自己責任で判断するよう誘導すべし)」というリテラシーですね。
今後「誤回答」を信じた人間が心身に被害を受けるような事態が起きた場合、その責任はどこが負うのか?という問題が出て来ますので。
(特に医療・健康分野で「誤回答」があるとシャレになりませんので。)
P.S.
ちなみに「笹かま猫」の検索結果で出てくる記事に「名の由来」に関する記述が全く無かったわけではないのですが…
どれもサラッとしていて「メイン」というよりは「おまけ」や「補足」のような書き方でした。
むしろ記事タイトルが「笹かま猫の美フォルム」だったり、「背中のシルエット」がたまたま「笹かまぼこの形」に似ていたという記述があったりでそちらの方が目立っていたため、AIが混乱したのではないかと思われます。
「笹かまぼこのような猫」で「(全体的な)形」でも「模様の形」でもなく「色」に行くって、AIにとってはかなり難しいことだったんでしょうね…。
(…というより、笹かまぼこのような“形”の猫が存在し得るという認識がAIの中にあったということが、まず衝撃でしたけど…。)
今後、記事や情報が増えていけばAIの認識も変わり、回答精度も上がっていくのでしょうが(この記事も含めて)…
AIのことは「口が達者な赤ちゃん(言語能力は高いが当たり前のことを意外と知らない)」くらいに思って、あまり万能視しない(参考程度にしか見ない)のが賢いつき合い方なのではないでしょうか(実際、生まれたばかりの技術なわけですし)。
(自分は元々アテにしていないので、なるべく見ないようにしています(目に入ってしまっても、Wikiなどの個別ページに跳んで「ウラを取る」ようにしています)。個人的に「検索サイトのAI」がすべきことはネット情報の「まとめ」ではなく「欲しい情報に的確に導いてくれるコンシェルジュ的役割」だと思っていますので。←「まとめ」にしてしまうとG○ogleなど「検索」サイトの存在意義自体がなくなってしまいますし(人々が「まとめ」しか見なくなって各サイト・ブログに行かなくなってしまうので)…。Go○gleさんの今のAI導入の仕方って、自分で自分の存在意義を消す「ゆるやかな自殺行為」に見えて仕方ないのですが、気のせいでしょうか(まだ「試験運用中」みたいなので今後この形で導入されるかは分からないわけですが)…?)
こちらの意思に関わらず、有無を言わさず最上部に表示されるこのAI回答(概要)…
時々「誰がどう見ても間違えているだろう」というモノが出てくるのですが…
この前、ある猫種(と言っても、通称名で、正式名称ではありませんが)について検索した時、この「AIの誤回答の原因」がうっすら見えたような気がします。
それは、一部界隈では有名な「笹かま猫」の写真を見ようとググってみた時のこと…
(写真目的だったので、べつに「笹かま猫とはどういう猫なのか?」という答えを求めていたわけではないのですが…。)
うっかり目に入ったAIの回答に、思わずツッコミを入れたくなるような文言が入っていたのです。
「笹かま猫とは笹かまぼこのような“形”をした猫で…」という…。
「いや、そんなサーフボードみたいな形状の猫がいてたまるか!UMAか!?」とツッコみたくなりますよね?
翌日に再度検索したところ、若干回答内容が変化していたのですが…
(初日は「スクショを撮る」ということが頭に無かったため、画像がありません(記憶頼りで書いているので、細部は違うかも知れません)。AI生成物は(人間が関わった部分以外は)著作権で保護されないというのが米国著作権局での見解のようですので(2025年の報告書)、とりあえずアイコンなど除いた文章部分をそのまんま載せています。なお、そもそもが誤回答のため、AIが既存記事の著作権を犯していることもないだろうという判断。)
それでもなお「正解」には辿り着けていませんでした…。
この「何故こんな変な答えを出してしまうのか?」について、検索結果を見ていて思い当たる点がありました。
それは「ネットに上がっている『笹かま猫』の情報のほとんどが、その『名の由来』について語っていない」ということです。
…なぜなら、由来も何も「写真を見れば一目瞭然だから」です。
(首輪は100均の猫用首輪にレースのシュシュを貼り付けたオリジナルアレンジ)
笹かま猫の写真を見れば、ほとんどの人が「ああ、確かに笹かまぼこに似ているね」と思うことでしょう。
(写真は純粋な笹かまぼこでなくチーズ入り笹かまぼこのため、微妙にイメージが違うかも知れませんが…。)
ですが「何が」笹かまぼこに似ているのか、あえて言葉にしたりはしないでしょう。
人間は「言わなくても分かること」をわざわざ言葉で説明したりはしないからです。
ですがAIは「言語化されていない情報」は永遠に学ぶことができません(少なくとも言語モデルのAIは)。
たとえそれが、パッと見れば分かるレベルの「明白過ぎる」事実であっても…。
つまりAIは「暗黙の了解」や「言葉で言うまでもない常識」「見れば分かること(だから言葉にしないこと)」には弱いのです。
そして人間の方でも「それがAIの弱点」ということに、意外と気づいていないのではないでしょうか?
そもそもそれらの「言語化していない常識」が人間にとって「当たり前のこと」過ぎて、それを「AIに教えなければならない」ということ自体に、なかなか気づけないのではないでしょうか?
なにげにこの「言葉にしなければ伝わらないこと」って、人間とAIの間だけでなく、人間同士の間でも「誤解の元」「争いの元」になり得る問題なんですよね…。
皆さんも経験がありませんか?
学校や職場など、一部の人間の中で「暗黙のルール」となっていることを、最初のうちは知らずにいて、言われて初めて「そんなの初耳だよ!」となったことなど…。
「言葉で教えなければ伝わらないこと」を放置すると、それは時に重大なミスやエラーにも繋がりかねません。
なのでAIにはそういう「言語化されていない未知の情報(AIが知らずにいること)」を言語化して教える機会が必要だったりするのではないでしょうか?
ちなみに自分だったら、まず教えるのは「情報の真偽が分からないものについては、具体的な言及・詳細な説明は避け、シンプルな回答に徹するべき(後のことはユーザー自身で調べて自己責任で判断するよう誘導すべし)」というリテラシーですね。
今後「誤回答」を信じた人間が心身に被害を受けるような事態が起きた場合、その責任はどこが負うのか?という問題が出て来ますので。
(特に医療・健康分野で「誤回答」があるとシャレになりませんので。)
P.S.
ちなみに「笹かま猫」の検索結果で出てくる記事に「名の由来」に関する記述が全く無かったわけではないのですが…
どれもサラッとしていて「メイン」というよりは「おまけ」や「補足」のような書き方でした。
むしろ記事タイトルが「笹かま猫の美フォルム」だったり、「背中のシルエット」がたまたま「笹かまぼこの形」に似ていたという記述があったりでそちらの方が目立っていたため、AIが混乱したのではないかと思われます。
「笹かまぼこのような猫」で「(全体的な)形」でも「模様の形」でもなく「色」に行くって、AIにとってはかなり難しいことだったんでしょうね…。
(…というより、笹かまぼこのような“形”の猫が存在し得るという認識がAIの中にあったということが、まず衝撃でしたけど…。)
今後、記事や情報が増えていけばAIの認識も変わり、回答精度も上がっていくのでしょうが(この記事も含めて)…
AIのことは「口が達者な赤ちゃん(言語能力は高いが当たり前のことを意外と知らない)」くらいに思って、あまり万能視しない(参考程度にしか見ない)のが賢いつき合い方なのではないでしょうか(実際、生まれたばかりの技術なわけですし)。
(自分は元々アテにしていないので、なるべく見ないようにしています(目に入ってしまっても、Wikiなどの個別ページに跳んで「ウラを取る」ようにしています)。個人的に「検索サイトのAI」がすべきことはネット情報の「まとめ」ではなく「欲しい情報に的確に導いてくれるコンシェルジュ的役割」だと思っていますので。←「まとめ」にしてしまうとG○ogleなど「検索」サイトの存在意義自体がなくなってしまいますし(人々が「まとめ」しか見なくなって各サイト・ブログに行かなくなってしまうので)…。Go○gleさんの今のAI導入の仕方って、自分で自分の存在意義を消す「ゆるやかな自殺行為」に見えて仕方ないのですが、気のせいでしょうか(まだ「試験運用中」みたいなので今後この形で導入されるかは分からないわけですが)…?)
昔から何となく「真面目な人間に対する風当たり、キツくないかな?」というのは感じていたのですが…
最近は特に「真面目」を馬鹿にする風潮を強く感じます。
「真面目に生きるより、ラクしてトクに生きる方が良い」「真面目に生きると馬鹿を見る」――そんな論調が増えている気がします。
それを見聞きするたびに思っていたのですが…今の世の中って、そんなにも、自滅願望をお持ちの方が多いのでしょうか?
皆さん、秩序や倫理の崩壊した終末世界で生きたい願望でもあるのでしょうか?
(そして、そんな世界でなぜか「自分だけは何の傷も負わずに生き残っていける」と本気で思っている楽観主義人間が多いのでしょうか?)
ちょっと考えていただければ分かることだと思うのですが…
世の中から「真面目」が消えてしまえば、「まとも」な国家運営も、「真っ当」な社会インフラも、何もかもが成り立たなくなってしまうのに…
皆さん、そんなにも「不真面目」な社会で暮らしていきたいのでしょうか?
「当たり前」のことも「当たり前」に行われない、行政も警察も医療機関も金融機関も交通機関も教育機関も皆が皆、自分が「得」することしか考えない、小ズルくルーズな「怠け者」ばかりの世界――そんな狂った世界で生きていたいのでしょうか?
少なくとも、自分はそんな世界は真っ平御免です。
仕事を組むなら「真面目じゃない人間」よりも「真面目な人間」の方が良いに決まっていますし…
(実際、コンプラに「不真面目」な相手と組むと、後々そのせいでプロジェクトが「おじゃん」になるリスクがありますし…。)
「真面目に生きていない人間」で溢れかえった時代なんて、普通にゾッとします。
むしろ、今の時代がこんなにも「どうしようもなく」なってしまっているのは、そうやって長い間「真面目」に対するネガティブ・キャンペーンが行われ続けた結果なのではないか?とすら思っています。
どうにも世の中、考え無しに何かを「攻撃(口撃)」して、結果、自分で自分の首を絞めている人が多い気がするのですが…
学生時代に「ふざけたがり」の人間が、自分と対極にある人間を煙たがって「馬鹿真面目」とからかう――あの手の「学生ノリ」に囚われたままの人が多いのでしょうか?
人生「お気楽にふざけてばかりでは生きられない」なんてこと、ある程度歳を重ねていけば気づくものだと思っていたのですが…
年を経てもなお「自分がふざけていたいばかりに、真面目をつついて攻撃する」大人げない大人が増えているとでも言うのでしょうか?
はっきり言って「社会(秩序)」に本当に求められているのは「不真面目にズルする人間」より「真面目に生きる人間」です。
(上にも書いたように、社会を支える重要な機関に「真面目な人間」がいないと、社会が「まとも」に機能しなくなってしまいますから。)
ですが、肝心の「社会に生きる人間」が、意外と「不真面目」な側を支持してしまったりするんですよね…。
「真面目じゃない」人間には「自由」「破天荒」「他人の裏をかく成功者」のイメージもありますから、憧れてしまう心理も分からないではないのですが…
そういう人達を「支持」したところで、自分が「そうなれる」わけでも何でもないんですよね…。
むしろ自分たちが「裏をかかれ」「ズルをされ」損をしていくばかりなのですが…
妄信的に「憧れ」を持ってしまっている人達は、その知らず知らずのうちに負わされている「損」にさえ気づかないのでしょう。
そもそも「真面目」って本来は、悪い意味の言葉ではないはずなのです。
だって、「真面目に生きる」って、「真剣に、本気で人生と向き合う」ってことじゃないですか。
逆に「真剣に人生と向き合わない人間って何なんだ?」って感じになりませんか?
なのに「真面目」には、度重なるネガキャンのせいで、いつの間にか「馬鹿真面目」「クソ真面目」など、「融通が利かない」「頑固者」といった変なイメージがプラスされてしまっています。
(これも「融通が利かない」は「融通を利かせて欲しかったけど叶わなかった人」が逆恨みで言っただけとも考えられますし、「頑固者」は逆に「一本筋が通ったブレない人間」で良いイメージなのではないかとさえ考えられますが。)
そのせいで今の世の中「真面目と思われたくない」「真面目だと馬鹿にされる」とビクビクしている人も多いのではないでしょうか?
本来は「真面目」だったはずなのに、周囲の目を恐れてそれを隠したり、せっかくのその「長所」を自ら棄ててしまう人すらいるのではないでしょうか?
(世の中何かと「真面目=おもしろくない」というイメージを持たれがちですけど、「真面目」と「おもしろい」って普通に両立できるものなんですけどね。)
まだ世の中を知らない未熟な学生ならともかく、良い歳をした社会人なら、もっと「真面目」を評価して伸ばしていくべきだと思うのですが…。
少なくとも自分は「不真面目」をアゲて「真面目」をサゲる気にはなれません。
小ズルい犯罪者(もしくはギリギリを攻める犯罪者予備軍)ばかりで治安の悪い社会より、真っ当な社会システムの動く「まとも」な社会に生きていたいですから…。
…と言うか、たとえ「不真面目」な人間であっても、真っ当な頭脳があるなら「真面目」へのネガキャンなんてやらないはずなんですけど…
(たとえ「不真面目」な生き方で成功できたとしても、社会が「まとも」じゃなかったら恩恵も何も受けられませんし、何なら成功して得た富も「別の不真面目な誰か」にかすめ取られてしまうわけですから…。)
世の中、その場その場のノリだけで「真面目に物を考えない」人間が多いってことなんでしょうか?
最近は特に「真面目」を馬鹿にする風潮を強く感じます。
「真面目に生きるより、ラクしてトクに生きる方が良い」「真面目に生きると馬鹿を見る」――そんな論調が増えている気がします。
それを見聞きするたびに思っていたのですが…今の世の中って、そんなにも、自滅願望をお持ちの方が多いのでしょうか?
皆さん、秩序や倫理の崩壊した終末世界で生きたい願望でもあるのでしょうか?
(そして、そんな世界でなぜか「自分だけは何の傷も負わずに生き残っていける」と本気で思っている楽観主義人間が多いのでしょうか?)
ちょっと考えていただければ分かることだと思うのですが…
世の中から「真面目」が消えてしまえば、「まとも」な国家運営も、「真っ当」な社会インフラも、何もかもが成り立たなくなってしまうのに…
皆さん、そんなにも「不真面目」な社会で暮らしていきたいのでしょうか?
「当たり前」のことも「当たり前」に行われない、行政も警察も医療機関も金融機関も交通機関も教育機関も皆が皆、自分が「得」することしか考えない、小ズルくルーズな「怠け者」ばかりの世界――そんな狂った世界で生きていたいのでしょうか?
少なくとも、自分はそんな世界は真っ平御免です。
仕事を組むなら「真面目じゃない人間」よりも「真面目な人間」の方が良いに決まっていますし…
(実際、コンプラに「不真面目」な相手と組むと、後々そのせいでプロジェクトが「おじゃん」になるリスクがありますし…。)
「真面目に生きていない人間」で溢れかえった時代なんて、普通にゾッとします。
むしろ、今の時代がこんなにも「どうしようもなく」なってしまっているのは、そうやって長い間「真面目」に対するネガティブ・キャンペーンが行われ続けた結果なのではないか?とすら思っています。
どうにも世の中、考え無しに何かを「攻撃(口撃)」して、結果、自分で自分の首を絞めている人が多い気がするのですが…
学生時代に「ふざけたがり」の人間が、自分と対極にある人間を煙たがって「馬鹿真面目」とからかう――あの手の「学生ノリ」に囚われたままの人が多いのでしょうか?
人生「お気楽にふざけてばかりでは生きられない」なんてこと、ある程度歳を重ねていけば気づくものだと思っていたのですが…
年を経てもなお「自分がふざけていたいばかりに、真面目をつついて攻撃する」大人げない大人が増えているとでも言うのでしょうか?
はっきり言って「社会(秩序)」に本当に求められているのは「不真面目にズルする人間」より「真面目に生きる人間」です。
(上にも書いたように、社会を支える重要な機関に「真面目な人間」がいないと、社会が「まとも」に機能しなくなってしまいますから。)
ですが、肝心の「社会に生きる人間」が、意外と「不真面目」な側を支持してしまったりするんですよね…。
「真面目じゃない」人間には「自由」「破天荒」「他人の裏をかく成功者」のイメージもありますから、憧れてしまう心理も分からないではないのですが…
そういう人達を「支持」したところで、自分が「そうなれる」わけでも何でもないんですよね…。
むしろ自分たちが「裏をかかれ」「ズルをされ」損をしていくばかりなのですが…
妄信的に「憧れ」を持ってしまっている人達は、その知らず知らずのうちに負わされている「損」にさえ気づかないのでしょう。
そもそも「真面目」って本来は、悪い意味の言葉ではないはずなのです。
だって、「真面目に生きる」って、「真剣に、本気で人生と向き合う」ってことじゃないですか。
逆に「真剣に人生と向き合わない人間って何なんだ?」って感じになりませんか?
なのに「真面目」には、度重なるネガキャンのせいで、いつの間にか「馬鹿真面目」「クソ真面目」など、「融通が利かない」「頑固者」といった変なイメージがプラスされてしまっています。
(これも「融通が利かない」は「融通を利かせて欲しかったけど叶わなかった人」が逆恨みで言っただけとも考えられますし、「頑固者」は逆に「一本筋が通ったブレない人間」で良いイメージなのではないかとさえ考えられますが。)
そのせいで今の世の中「真面目と思われたくない」「真面目だと馬鹿にされる」とビクビクしている人も多いのではないでしょうか?
本来は「真面目」だったはずなのに、周囲の目を恐れてそれを隠したり、せっかくのその「長所」を自ら棄ててしまう人すらいるのではないでしょうか?
(世の中何かと「真面目=おもしろくない」というイメージを持たれがちですけど、「真面目」と「おもしろい」って普通に両立できるものなんですけどね。)
まだ世の中を知らない未熟な学生ならともかく、良い歳をした社会人なら、もっと「真面目」を評価して伸ばしていくべきだと思うのですが…。
少なくとも自分は「不真面目」をアゲて「真面目」をサゲる気にはなれません。
小ズルい犯罪者(もしくはギリギリを攻める犯罪者予備軍)ばかりで治安の悪い社会より、真っ当な社会システムの動く「まとも」な社会に生きていたいですから…。
…と言うか、たとえ「不真面目」な人間であっても、真っ当な頭脳があるなら「真面目」へのネガキャンなんてやらないはずなんですけど…
(たとえ「不真面目」な生き方で成功できたとしても、社会が「まとも」じゃなかったら恩恵も何も受けられませんし、何なら成功して得た富も「別の不真面目な誰か」にかすめ取られてしまうわけですから…。)
世の中、その場その場のノリだけで「真面目に物を考えない」人間が多いってことなんでしょうか?
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- 津籠睦月(つごもりむつき)
- 【職業】
- 社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
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- 小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
- 【好きな小説ジャンル】
- ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
- 【備考】
- 漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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このブログは管理人に時間の余裕がある時にちょこっとずつ更新していく予定ですので、更新やチェックの頻度はおそらく数週間に1回~下手をすると1ヶ月以上の間が空いてしまう可能性も…。
もし更新が滞ったても「あぁ、仕事が忙し過ぎて時間が無いんだな」と気長にお待ちいただければ幸いです。
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