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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
何がフェイクで、何がリアルなのか、情報の精査の難しい昨今でも、揺るぎなくハッキリ言えることがひとつあります。
 
「戦争は駄目」だということです。
 
以前の記事でも触れましたが…
 
<関連記事:どんな「理由」や「大義」があろうと「手段」は選ばなければならない
 
「理由があれば何をしても良い」ではなく、「たとえ理由があろうと、手段は選ばなければならない」のです。
 
無数にある手段の中から、よりにもよって、多くの人の命を奪うという選択をしておきながら、その正当性を論じること自体が、狂気の沙汰だとは思いませんか?
 
そんなことが正当化されてしまうとしたら…人間の命の価値は、どこまで薄く軽くなってしまうのでしょう。
 
他の選択肢もあったはずなのに、他の手段を選んでいたなら奪われなかったはずの命が、奪われていく…
 
人間が、人間の命を軽視し、人間の命を冒涜し、その価値を、どんどん薄っぺらなものにしていく…
 
人の命の価値を左右するのは、結局はその時代に生きる人間なのだと思います。
 
何らかの「理由」があれば、理不尽に人命を奪っても良いという「悪しき前例」を、作るべきではありません。
 
既にそんな風に正当化されてしまった前例が、歴史上いくつもあるとしても…
 
これ以上、増やすべきではありません。
 
それは、今まさに危機に晒されている人々のためだけでなく、今は安全な場所で平穏に暮らしている人々、未来に生きる人々にも関わってくることです。
 
歴史は、良いものも、悪いものも、学ばれて繰り返されてしまうものですから…。 
 

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不言実行タイプ」――行動を起こすにあたって、あるいは行動を起こす前に「想いを口にしない人間」あるいはそもそも「自分が何をやっているのか語らない人」は、何かとだと感じます。
 
現代社会では特に…自分の信念行動を堂々とアピールできる人間ばかりが注目され、沈黙する人間は「何もしていない」「何も考えていない」と見なされることも多々あります。
 
社会に出てからは、特にそれを痛感することになりました。
 
学生時代までの自分はむしろ「『自分はコレをやっています!』って、いちいちアピールするのは、褒められたくてやってるみたいでカッコ悪い」という考えでした。
 
そもそも謙遜謙虚が美徳と信じて育ってきたので(幼少期に祖父母と過ごす時間が多かったことが影響しているのかと…)、アピール自体がどうにも苦手だったのです。
 
しかし、社会人になってから「どうにも、ソレでは駄目だ」と思うようになりました。
 
忙しい現代人は、他人のことなどロクに見ていません。
 
おとぎ話の魔法使いのように「密かに耐えて頑張っている子」や「黙って陰で善行を為す人」を見つけ出してくれる人は、ほとんどいないのです。
 
だから「自分はこんなことをしています!」とアピールされて初めて、他人の行動や、その裏にある想いに気づくのです。
 
下手をすると「誰にも何も言わずに、ただ黙々と目的に向かい努力する人」が評価されず、「口ばかり大袈裟で、実際にはそんなに大した働きをしていない人」の方が評価を上げる可能性だってあります。
 
物事の本質を見抜けない人間は、「見かけ倒しで実を伴わないアピール」にも、コロッと騙されてしまうからです。
  
「褒められるためのアピール」「自分をスゴく見せるためのアピール」はしたくないとしても、せめて「多少は他人に理解してもらえるように」、自分の行動や想いを、何らかの形で「ことばにしていく」必要性を、強く感じるようになりました。
 
…とは言え、アピール嫌いの人間がソレをするのは相当に難易度が高く、「練習」や「試行錯誤」をしながら、少しずつ表に出していっているような状態です。
 
しかし、アピールや思考の言語化の必要性は感じていても、それでも「やりたくない」ことはあります。
 
自分の中の想いや考えを「ことばにする」ということは、時に他人と衝突することを意味します。
 
あるいは、時に他人を傷つけてしまうことを意味します。
 
自分とは対立する意見の持ち主――特に、他者の意見に否定的で攻撃性の高い人物に、自分の大切なものを踏みにじられる可能性を意味します。
 
なので、「何でもかんでも表に出したい」「他人に知ってもらいたい」とは思わないのです。
 
他者からの肯定や協力を必要としないような「想い」や「考え」なら、自分の中だけで宝物のように慈しんでいても、べつに構わないのではないかと思うのです。
 
「自己満足」で満たされるのであれば、誰にも知られぬ善行をひっそりと為して、ひとりで満足するだけでも、べつに構わないのではないかと思うのです。
 
「他人から肯定してもらえなければ、自分を肯定できない」といった可愛げは元から持っていませんし、「他人に自分の意見を押しつけたい」という趣味も持っていません。
 
しかし、時に「他人の何かを否定し、相手から傷つけられても、出さなければならない意見」があることも知っています。
 
なので、出すものと出さないものを、見極め、選びながら、少しずつ少しずつ「ことばにする」のです。
 
その「見極め」や「選択」も、まだまだ難しかったりするのですが…。

「将来、何になったら良いのか分からない」「自分に何が向いているのか分からない」「人生計画や進路が全く見えない」――こんな悩みを抱えている人は、結構多いのではないでしょうか。
 
十歳にも満たない幼い頃なら、無邪気に「〇〇になりたい!」なんて言っていられたのに…
 
十代以降になり、現実が見え始めると、途端に自分の将来を見失ってしまったりします。
 
また、学校の成績が悪かったり、他人からの評価が低かったりすると、「自分はどうせ、大したものになれないんだ」と落ち込んで、ますます先が見えなくなってしまったりします。
 
そんな時、どう生きればいいのか――?
 
個人的には、「好きなことを1つでも見つけて、それに打ち込む」ことが大事だと思います。
 
それはもちろん、勉強でも運動でも良いですし、勉強以外の遊び・趣味だって全然かまわないと思います。
 
(ただしもちろん、「他人に迷惑をかけないこと」というのが前提で。)
 
大切なのは、それを「心から好き」でいること
 
なぜなら「好き」という気持ちは「がんばることがイヤじゃない」と思えるようになる“魔法の感情”だからです。
 
それどころか「がんばっている」という意識すらなく、いつの間にか知識やスキル(技術)が身についていたりします。
 
嫌いな科目の勉強は全く覚えられないのに、好きなゲームのキャラクターの名前はいくらでも覚えられたり、恐竜好きな子が恐竜の名前をいくらでも暗記していられるのは、そこに「好き」という気持ちがあるからです。
 
大人になると分かることですが、イヤイヤ覚えた知識はいつの間にか忘れてしまうのに、好きだったものや“遊び”の中で覚えた知識はしっかりと身について、いつまでも覚えていられたりするものです。
 
そうして「好きで覚えた知識やスキル」が将来につながれば、もちろん言うことは無いのですが…
 
もし、将来の職業に結びつかなかったとしても、「好きなこと」は人生に生きがい充実感を与えてくれます。
 
たとえ学校や家や毎日の中で、何かイヤなことがあったとしても、「好きなこと」をしていれば、そのイヤなことを忘れられたり、その「好きなこと」のために毎日をがんばろうと思えたりします。
 
また、その「好きなこと」を通して、それまで出会えなかった人に出会えたり、知らなかったことを知ることができたりと、自分の世界が広がっていったりもします。
 
少なくとも、「自分には何も無いんだ」と絶望して何もせずにいるよりも、「好きなこと」を見つけて何かをしていた方が、将来の可能性は広がると思います。
 
たとえそれがムダに終わったとしても、「好きなことに打ちこんでいた」という思い出だけは残りますし…。
 
――ただ、「好きなこと」を「好きなままでいる」というのも、実は、なかなかに難しいことだったりします。
 
たとえば、好きで始めたスポーツでも、思うような結果が出なかったり、練習が苦しかったりすると、好きという気持ちを見失ってしまったり…
 
あるいは、好きなものを他人にけなされた時、何となく、それを「そのまま好きでいる」ことが難しくなってしまったり…
 
また、周りの人間の理解を得られず「そんなことしてないで勉強しなさい!」と叱られてしまったり…
 
そういったモノに負けないためには、自分の中でしっかりと「好き」の気持ちを強く育て、「この気持ちは自分にとって大切で、なくしちゃいけないものなんだ」と自分で自分に言い聞かせていくしかないと思います。

(できることなら、「好きなこと」をしていても文句を言われないように、学校の成績などをしっかりとっておくと、親からの攻撃はある程度減らせるかと思います。…あとは、隠れてこっそり「好きなこと」を続けるとか…。)
 
世界はシビアで残酷で、イヤなことや辛いことがたくさんあります。
 
そんな世界の中で「好きなこと」が1つでもあるということは、とても大事でかけがえのないことなのです。
 
なぜなら、純粋な「好き」の気持ちは「楽しい」や「幸せ」といったプラスの感情を生んで、人生を明るく彩ってくれるから…。
 
だから、既に「好きなこと」を見つけている人は、その気持ちを大切に…
 
そして、まだ見つけられていない人は、世の中を「つまらないもの」とあきらめてしまわずに、何か1つでも心動かされるものがないか、自分の気持ちにより深く注目してみると良いのではないかと思います。
 
そして、他人の「好きなこと」をけなさないこと。
 
たとえ他の人間の目から見たら「つまらないこと」「意味が無いこと」に見えたとしても、もしかしたらその人は、その「好きなこと」を心の支えにして、つらい毎日をかろうじて乗り越えているのかも知れません。
 
それを軽い気持ちでけなして、その人が「好き」という気持ちを失ってしまったら、その人の心はポッキリ折れてしまうかも知れません。
 
「好き」という気持ちはそれほどに大切で、だからこそ、それをわざと奪うことは、とても業の深いことだと思うのです。
 


<関連記事:嫌なことだらけの世の中でも、好きなものだけ好きでいればいい。
昨今の炎上事案など見ていて、時々感じることなのですが…
 
ネットという「相手の表情の見えない」世界では、物事が「大袈裟にとらえられがち」「誤解されがち」な傾向がある気がします。
 
たとえば誰かが何か過ちを犯した時、見ず知らずの人が「そんなことしちゃ駄目じゃん」と言ったとします。
 
しかし、その言葉のニュアンスが「そんなことしちゃダメじゃん(笑)」なのか「そんなことするなんて許されないことだ(怒)」なのか、すぐには分からないと思いませんか?
 
(もちろん、「(笑)」や「WW」が付いていたりすれば、そのニュアンスは伝わるでしょうが…。)
 
言葉は、そうそう簡単に感情を伝えてはくれないのです。
 
そして、そんな相手の「感情」が「よく見えない」ネットの世界では、何かと相手の感情が誤解されがちなのではないかと…。
 
読み手の受け取り方ひとつで、ポジティブにもネガティブにも読める言葉は、世の中に星の数ほどあります。
 
時に、思いがけない言葉が誤解を生むこともあります。
 
相手に全く誤解を与えずに文章を書くというのは、国語の偏差値が高い人間でも至難の業なのです。
 
そして、これまでの傾向を見るに、意外と多くの人が「他人の言葉に悪意を読み取りがち」なのではないかと…。
 
以前このブログの記事にも書いた通り、言葉は書き手だけでなく、読み手にとっても「心の鏡」です。
 
書き手が思いもしなかった「悪意」がその言葉の中から読み取られたとしたら…それは書き手ではなく、読み手の心の中にあったものなのです。
 
(その場合、単純な「悪意」と言うより「悪意への疑念」なのかも知れませんが…。)
 
誰かの「軽いツッコミ」を、「激しい非難」と勘違いしていたりはしませんか?
 
ただ無遠慮で気遣いに欠けるだけの「(攻撃の意思の無い)率直過ぎる意見」を、「自分に対する攻撃」ととらえ、過剰に「反撃」していたりはしませんか?
 
もちろん、本当に「攻撃」の場合もあるのでしょうが…
 
攻撃でないものも攻撃ととらえ、いちいち戦っていたのでは、心が疲弊するばかりだと思いませんか?
 
まずはそれが本当に「攻撃」なのか、それとも「攻撃にもとらえられかねないツッコミ」あるいは「率直過ぎて失礼・無神経な意見」に過ぎないのか…
 
その「前提」から疑ってみれば、ネットはもっと寛容で、活動しやすい世界になるのではないでしょうか?
 

 
<関連記事:言葉は鏡だ。書き手にとっても、読み手にとっても。
世の中を見ていて、よく思うことの1つが「どうして“分けて考えなきゃいけないこと”を“一緒くたにしてしまう”人が多いのだろう」ということです。
 
「ソレとコレとは話が別でしょう」「何でソレとコレを全部ワンセットで考えるんだろう」「分けて考えれば簡単に解決法が探せるのに」――そうツッコミを入れたくなるようなことが、世の中、本当に多い気がするのです。
 
たとえば、一部の“社会的地位のある人間”に見られがちな、他人を見下して、横暴に振る舞ったり、自分の意を無理矢理に通したりする行為……
 
何となく「自分はこんなに偉いんだから・今までにこれだけの功績を上げてきたのだから、何をしても許される」とでも言うような意識が、透けて見える気がするのですが……
 
その人の「築き上げてきた地位」や「過去の功績」と、それで「他人を傷つけたり・ないがしろにして良いのかどうか」は、どう考えても別物ですよね?
 
(そもそも普通に考えて、人間を傷つけたり・ないがしろにする行為自体、許されるものではないですし。)
 
それから「自分の価値観に照らして“間違ったことをしている人間”に対して“容赦なく鉄槌を下す”行為」……
 
昨今のネットの炎上事案のみならず、これまでの人類の歴史においても“正義の名の下に行われた虐殺”“大義を掲げた戦争”など、しばしば繰り返されてきた事柄なわけですが……
 
いつも思うのです。
 
たとえ本当に相手が間違ったことをしていたにせよ、何かしらの“大義”があるにせよ、それが「どんな手段を選んでも良い」という“理由”にはならない、と。
 
過去の歴史を見ても、人間(特に大衆)が他人を私的に裁こうとする時、それはしばしば、その罪に見合わないほどに重く苛烈なものにエスカレートしがちです。
 
しかも、そうした私刑の多くの場合、裁き手は「本当にそこに罪があるのか」「裁きが罪に見合ったものかどうか」を吟味しようとしません。
 
だからしばしば、間違った情報を鵜呑みにして無関係な人間を巻き込んだり、感情だけで暴走して行き過ぎた行為に及んだりするのかも知れません。
 
そこには何となく「罪人相手になら何をしても良い」という意識――そして、そんな“何をしても良い相手”に、「“普通なら許されないようなこと”をして心の憂さを晴らそう」という、薄暗い欲望や嗜虐心があるように思えて、うすら寒くなるのです。 
 
結局のところ、古今東西、人類というものは、常に誰かを叩くための“言い訳”を探していて、いざソレを見つければ、嬉々として相手を攻撃する生き物なのではないか……と、人間という生き物に軽く絶望したくなるほどです。
 
そうして自分が他人に振り下ろしてきた拳や刃が、いずれ自らにも振り下ろされる可能性を、果たしてどれだけの人間が考ているでしょうか。
 
意識しているにせよ無意識にせよ、「ちょっとした間違いを犯した相手にも過剰な罰を与える」という前例を積み上げれば、この社会はどんどん、そういう“不寛容”な方向に変わっていってしまいます。
 
そうして「その不寛容さは、いずれ自分自身の首をも絞める可能性が高い」のです。
 
……これ、少し考えれば分かることだと思うのですが……
 
世の中の多くの人は、よほど楽観的に「自分だけは大丈夫」と思い込んでいるのでしょうか?
 
よほどポジティブに「自分なら、どんな過ちも、うっかりも、誤解を招くような発言もするはずがない」と信じているのでしょうか?
 
それとも、それまでは散々他人を叩いておきながら、いざ自分が過ちを犯して他人に叩かれれば、過去の自分の言動など綺麗サッパリ忘れ去って悲劇の主人公になりきるタイプなのでしょうか。
 
フランス革命の時、王や王妃に振り下ろされたギロチンの刃は、後に革命を起こした側の指導者や市民の首にも振り下ろされました。
 
革命の熱に酔っていた市民たちは、果たしてその時、予想できていたでしょうか?
 
その後に始まる恐怖政治と粛清の嵐を……。
 
歴史上、人が何かに熱狂し、酔いしれると、知らず知らずのうちに地獄を呼び寄せてしまっていることが多い気がします。
 
どんな“理由”や“大義”があろうと、我を忘れて手段を選ばなくなっては駄目なのです。
 
それはこれまでの人類史上、何度も何度も繰り返されてきた過ちであり……それでも尚「きちんと学ばれていない」教訓なのです。
 

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津籠睦月(つごもりむつき)
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社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
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小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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