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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
自分はこれまでの人生・進路を“自分以外の誰かの言う通り”に決めたことが一度もありません。
 
それは家族が(長男以外の人間に対しては)わりと放任主義で、たとえ実力的にはもっと上のランクの学校が望めたにも関わらず偏差値的にやや下の学校を希望したところで、特に反対もされなかったという、単にそれだけのことではあるのですが…。
 
もっとも長男に対しては、進学自体渋っていた本人に代わり、受験する学校から学部まで全部親が決めたという過干渉ぶりで、その“関心の差”に釈然としないものを感じていました。
 
正直、親から「何も期待されていない」と感じていたのも事実です。
 
小学生の頃から、テストで良い点を取ろうが、読書感想文や絵のコンクールに選ばれようが、“ものすごく褒められた”という記憶はありませんし、そもそも学生時代にどんな成績を取っていたのか覚えてくれているかどうかすら、ちょっと怪しいと思っています。
 
(だって、たとえ一教科だって最高偏差値80とか取るような子のことを、普通はおばか扱いしないと思うんですよ…。たとえ多少天然だとしても…。)
 
まぁ自分の場合、どんなに勉強やその他の活動を頑張ろうと、“身体が弱い”というかなりなマイナス要素が存在していて、何かと言っては家族に迷惑をかけていたので、そちらの方にばかり目がいってプラス要素に目を向けてもらえなかったとしても仕方はないのかな…とは思うのですが…。
 
もっとも自分は、親から目を向けられないことを寂しくは思っても、同時に「その分、自由にできるから、まぁいっか」と割り切ってしまうような性格でしたので、特にひねくれたとかグレたということもなく、行きたい学校も進路も完全に自分の趣味で選び、フワフワッと生きて来たわけですが……
 
逆に親の重圧を受け続け、大学院まで進まされた長男は精神的にかなりキツそうでした。
 
たぶん親は「良い大学を出れば良い会社に入れて将来安泰」というような幻想をずっと抱いていて、純粋に子のためを思って大学に入れたのだとは思います。
 
ですが、その道が本人に合っているようには見えませんでした。
 
生来の明るさを失い荒んでいた当時の兄弟のことを思い出すと、兄弟として何の助け舟も出せなかった自分が歯がゆく、申し訳なく思えます。
 
自分は思うのですが「良い大学を出れば良い会社に入れて将来安泰」だなんて、所詮は都合の良い幻想に過ぎず、今の時代にはまるで当てはまっていないと思うのです。
 
そもそも「安泰」と「幸福」は違います。
 
たとえ“食うに困らない”職に就けたとしても、それが当人にとって何ら意味を見出せない“つまらない”仕事だったとしたら、結局長続きせず辞めてしまうかも知れませんし、無理をし続けて心を病んでしまうかも知れません。
 
その人が“最高のパフォーマンスを発揮できる”のは、その人にとっての“やりがいのある仕事”“夢中になれる仕事”なのではないでしょうか。
 
それがたとえ親や他の人から見て大した仕事に見えなかったとしても、本人にとって意味のある仕事なら、そこを目指す意義は充分にあると思うのです。
 
逆に親にとっての“良い仕事”が、子にとっても“良い仕事”であるかどうかは分かりません。
それが本人にとって“良い仕事”であるかどうかは、結局本人にしか分からないことだと思うのです。
 
もっとも、自分のやりたい仕事があったとして、その仕事に必ずしも就けるとは限りません。
 
良いと思っていたものの、実際就いてみたらイメージと違っていた、ということもありますし、そもそも自分が何になりたいのか見出せない人も多いでしょう。
 
でも、どんなに難しい進路選びだったとしても、自分自身で悩み抜き、自分の納得の行く道を選び取ることに意味があるのだと、自分は思います。
 
たとえ道を選ぶのに失敗しても、それが自分の選択の結果だと思えば素直に受け入れられます。
逆に、これが誰かの言いなりに選んで失敗した道だったとしたら…自分は果たしてそれを受け入れられただろうか、と思うのです。
 
家族は子のためを思って様々なことを言ってきます。
ですが、その家族は果たして、子が幸せになる道を提示できるほどの見識を持てているのでしょうか?
 
こんな「一寸先は闇」の、大企業の経営者たちでさえ先を読み誤って失敗していく時代の中で、親は本当に子の将来を見極める目を持てているのでしょうか?
 
子どもは確かに生きてきた年数も少なく経験も浅く、大人から見たら未熟で頼りない存在かも知れません。
でも、他の人間よりは確実に“自分自身のことを知っている”はずです。
 
幼い頃は単純に“将来の夢”が描けたのに、なぜ大人になると描けなくなってしまうのか……。
それは、幼い頃には見えなかった“その夢に至るまでの険しい道のり・数々のデメリット”が見えてしまうからだと思います。
 
でも、その“険しい道のり”や“デメリット”は、本当に思うほど厳しいものなのでしょうか?
実際にそれを乗り越えて夢の職業に就いている人間がいると言うのに……。
 
思うのですが、将来を思い描く時にすべきことは、険しい道のりやデメリットなどの“リスクを回避”することではなく、それを具体的に“乗り越える”ための術を学ぶこと、そして「ちょっとやそっとの困難くらいどうってことない」と思えるくらいにモチベーションを上げておくこと、心が折れないくらいにその夢を本気で大好きになること、だと思うのです。
 
本気の夢を夢中で追いかけているなら、そしてそのことを後悔しないなら、苦労が苦労でなくなります。
 
困難だなんて思わずに、アスレチックの難しい遊具を一つ一つクリアするような気持ちでいれば、それさえワクワクしてきます。
 
要は全て気持ちの持ちよう。そしてそんな気持ちを持てるだけの夢中になれる何かを見つけることだと思うのです。
 
まぁ、もちろん現実は言うほど簡単ではないでしょうが…。
 
どうしても能力が足りないことや、運に左右されることもあるでしょう。
他人からの理解を得られず苦しむこともあるかも知れません。
 
ただ、他の誰でもない自分だけの人生、たとえ夢を叶えることはできなかったとしても「それでも精一杯やったさ」と悔いを残さず、誇れるものにできればいいなぁ、と思うのです…。

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一生懸命書いた小説やブログの閲覧数(訪問者数)が伸びなくて、心が折れて書くのを止めてしまう――そんな話をよく耳にします。
 
人間というのはどうやら無意識のうちに“自分が払った労力に見合った見返りや報いを求めてしまう”生き物らしいので、それは仕方のないことなのかなぁ、と思います。
 
ただ、自分はいつも思うのですが……
 
文章というのは、本当に、他人に読んでもらわなければ価値のないものなのでしょうか?
 
現代では日記もブログなどネット上にアップして他人に読んでもらうような時代ですが、それ以前の時代では、自分しか読まない紙の日記帳に日記を書く、ということもあったはずです(と言うか、現代でも紙の日記はあるはずです)。
 
そんな自分しか読まない文章たちは、果たして価値のないものでしょうか?
 
自分は、全然、全く、これっぽっちも、そうは思いません。
 
なぜならそれは、少なくとも書いた本人にとっては何ものにも代え難い、この上なく価値のあるものだから、です。
 
それは下手をするとノーベル文学賞受賞作品よりも、世界で一番成功したビジネスマンの著作よりも、本人にとって意味のある文章です。
 
なぜならそこには、過去の自分の見聞きした大切な思い出や、その時の想いなどが、タイムカプセルのように籠められているからです。
 
たとえば自分にはこのブログ以外に、「ある日の家族の会話」という、我が家のささやかな会話やメールのやりとりを面白おかしく(?)まとめたブログがあります。
 
内輪ネタをつめこんだようなものですので、うちの家族以外のユーザー様に読んで面白いと思ってもらえるかどうかは正直分かりません
 
(とは言え、ネット上に公開するものですので、一応よその方にも分かりやすく、なるべく面白く読んでいただけるよう工夫はしていますが…。)
 
でも、たとえ読者様がつかなかったとしても「それはそれで良いや」というブログでもあるのです。
 
(ブログのサービス提供者さんには申し訳ないですが…。)
 
人間は、自分で思っている以上に「忘れやすい」生き物です。
 
その時その時は大切に覚えているつもりの出来事も、会話のやりとりも、だんだんと日々積み重なっていく新たな記憶に埋もれて忘れていってしまいます。
 
でも、文章に書き留めておけば、その文章を読み返した時、その時の記憶が、忘れていたはずの詳細なディテールまで含めて蘇ってきたりするのです。
 
そして、ひとりの人間を取り巻く環境というものは、必ず変わっていくものです。
 
その時は永遠に思えるものでも、何となく何の根拠もなく「ずっと一緒にいてくれる」と思っていた人も、時の流れによりいずれは失われてしまうものなのです。
 
そんな時、失われてしまった過去の時間を蘇らせてくれる“文章”が残っていたら、それはどんなに心を慰めてくれるだろうか、と思うのです。
 
その時は貴重とも何とも思っていない、他愛ない会話、ちょっとした笑い話……それを、いつかの未来に「この時、こんなことがあったんだっけ」「そうそう、これ、可笑しかったよね」などと思い出して、癒やされたり、笑ったりするネタにできれば……そんな思いから書き溜めているものでもあります。
 
(まぁ、実際は癒やしというより、この時の笑いのネタを忘れずにいたい、という思いの方が強いブログではありますが。)
 
文章に限らず、モノの価値はいつだって相対的なものです。
 
ある人にとっては何よりも貴重なモノだったとしても、別の誰かにとってはゴミ同然のくだらないモノに見えたりする……
 
たとえば野球に興味の無い人が野球の記事を見つけても、読む気すら起こらずスルーするように、その文章に価値を見出さない人の前にいくら出したところで、その文章は読んでもらえないものです。
 
(ただ、興味がないと思ってスルーしてきたものでも、ちょっとした気まぐれで読んでみると、自分にとって有益な情報が入手できることは、実際、割とザラにあるのですが。←たぶん、他人より一歩上を行く高度な情報収集能力ってこういう“自分にとって興味のないもの”“一見くだらなく見えるもの”にも一応「もしかして」と思って目を向けていくことで伸びていくモノだと思うのですが、大概の人は気づいていませんよね…。)
 
でも、その文章が、少なくとも書いている本人にとって価値あるものなら、それだけでも“書く意味”は充分にあります。
 
それに、世の中には自分と同じタイプの人間――同じような好みを持ち、同じような人生を歩み、同じようなことに悩み、同じようなことに価値を見出す人間が、他にもいるかも知れません。
 
そんな自分と似た人間が、その文章を見つけてくれたなら、そこにあなたと“同じように”価値を見出してくれるかも知れません。
 
この世は良くも悪くも、わりと運がモノを言う世界です。
 
あなたの文章が“あなたの文章に価値を見出してくれる人”の人の目に届くかどうかもまた“運”であり、“縁”です。
 
だから今、その文章が他の人に読まれていなかったからと言って、そうそう嘆くようなことでもないと思うのです。
 
運が巡ってくるかどうかは誰にも分かりません。
 
それは「いずれは巡ってくる」可能性も少なからずある、ということでもあるのです。
 
なので、文章の書き手はいつだって、ただ純粋に、その文章が少しでも価値あるものになるよう心を砕いて書き綴っていけば良いだけだと思うのです。
 
自分で自分を慰め、鼓舞するために書いた文章が、いつか自分と同じ状況や悩みを抱える他人の目に留まり、その人の役に立ったり、救いになったりする――そんな未来を想像してみるだけでも、結構楽しいと思うのですが、自分だけでしょうか?

自分の通っていた高校は、小論文対策なのか、何かと言っては作文を書かせる学校でした。
 
その時、先生に言われた言葉で印象に残っているものがあります。
 
それは「文章には書いている人間の本質が無意識ににじみ出る」というものでした。
 
どんなに上辺だけ取り繕って綺麗な文章を書こうとしたところで、その人の本質が醜ければ、それは文章のどこかににじむものだと。
 
だから、形だけ綺麗にまとめようとするのではなく、心を磨かなければならないのだと――。
 
細部まで正確に覚えているわけではありませんが、そんなようなことを言われた気がします。
 
それ以来、何となく「言葉は心を映す鏡だ」という感覚があり、口に出す言葉にせよ、文章として書く言葉にせよ、自分の使う言葉には神経を使ってきたような気がします。
 
口に出す言葉を口から実際に出す前に頭の中で反芻してみたり、文章に書いた言葉を読み返して、それが誰かを傷つけるものになっていたり、ひとりよがりな論理を押しつけるものになってはいないだろうか、と想像してみたり…。
 
言葉が心を映す鏡ならば、その言葉を自分自身の眼や心で見つめることで、自分の心の変調に気づくこともできるはずです。
 
そうして自分の心を見つめ直していけば、知らず知らずのうちに“嫌な自分”になってしまうこともなく、より良い自分に変わっていけるのではないか――そんな風に思っていました。
 
ただ、最近気づいたことがあります。
 
どんなに創り手が神経を尖らせて、誤解の無いよう、誰かを傷つけないよう慎重に言葉を紡いだとしても、人によってはそこに勝手な想像を加えて、歪んだ解釈をしてしまうことがある、ということに。
 
ある人が見れば(読めば)特に何の問題も無いごく普通のニュースや記事なのに、別の人が見れば(読めば)悪意と偽りに満ちたものに見えてしまう……。
 
身近な例で言うと、うちの母親などがそうなのですが……芸能人の言動のアレやコレやが、何かと偽善や作為に満ちたものに見えるらしく、TVを見てはひとりでぶつぶつ文句を言っています
 
まぁ、他人を全く疑わずに生きていけるほど、この世が綺麗でないのは事実ですし、疑う心はむしろこの世界で生きていく上で必要不可欠なものだとも思っています。
 
ですが程度の問題として「そこまで悪意を疑う必要がある!?」と思ってしまうことも、たびたびあるのです。
 
まぁ、その人が何を見てどう思うかはその人の自由ですし、母などを見ていると「他人の悪意を疑うのが、むしろ楽しい」ようにも見えますので、他人に迷惑をかけず単なる独り言としてTVに文句を言ってストレス発散しているなら、それはそれでいいのかな…とも思います。
 
ただ何となくモヤモヤするものも覚えます。
 
そんな時ふと思ったのが「言葉というのはひょっとして、使う側だけでなく、受け取る側にとっても鏡なのかも知れない」ということでした。
 
日本語というものは複雑で、同じひとつの言葉でも複数の意味を持っていたり、読み手によって解釈を変えたりすることがよくあります。
 
特に主語や述語、間の説明などを省略されてしまうと、いくらでも自由な解釈が可能になってしまいます。
 
そんな言葉を、良い風に受け取るか、悪い風に受け取るかは、受け取り手次第なのです。
 
言葉の紡ぎ手が全く意図していなかった悪意を、読み手がそこに読み取ってしまったとしたら、その悪意は、実は読み手の心の中にこそあるのかも知れません。
 
だからもしも、世の中にあふれた文章や情報の、何もかもが悪意に染まって見えたとしたら、そこに本当に悪意があると信じる前に、「自分、ひょっとして心が疲れてるのかなー」と一旦、自分の心をクール・ダウンしてみれば、案外ラクになるのではないかと思うのです。
 
この世に悪意があるのは事実ですが、何もかもを悪意と疑う必要は無いですし、疑いだしたらキリがありません。
 
それに「全てが悪意と欺瞞で出来た世界」を生きるより「それなりの量の悪意と、特にそうでもないもので出来た世界」を生きていく方が、よほど精神的にラクだと思うのです。
 
全てを悪意だと疑って拒絶してしまっては、“拒絶していなければ得られていた出会いや幸せ”も逃がしてしまうかも知れませんし。
 
…まぁとは言え、本物の悪意とそうでないモノをきっちり見極めて必要な部分だけ疑っていくというのも、なかなかに難易度の高いスキルで、そうそうできるものではありませんので、「必要な分よりちょっと余計に悪意を疑ってしまう」のも無理もない話なのかなぁ…とは思うのですが。


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津籠睦月(つごもりむつき)
【職業】
社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
【趣味】
小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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