それは、ただ単純に清廉潔白で何の汚点も無く、人々からの好感度が高いというだけでは駄目なのかも知れない…そんなことを、最近よく思います。
平常時なら、ただ立派な人格者であるというだけで充分なのかも知れません。
しかし、緊急事態に陥った時、果たして最善の判断を下せるのか…
リーダーたる者「いざという時に、その組織に属する人々の命を守れるのかどうか」が、何より必要な資質なのかも知れない、と。
前例の無い危機に陥った時、リーダーは「前例の無い」判断を求められます。
しかも緊急時というものは大概の場合「時間が無い」ので、即断即決を求められます。
優柔不断に迷っていれば、その分だけ事態は悪化し、最悪の場合には人命が損なわれていきます。
「決断」を下すために必要なのは、柔軟な思考力と冷静な判断力、そして「覚悟」なのだと思います。
未来を100%正確に予測する術など無く、「判断」には常に失敗のリスクがついて回ります。
それでもリーダーは決断を下さなければなりません。
リーダー以外の誰も、決断を下せる人間がいないからです。
「何かして失敗するよりも、何もしない方がいい」というのは人間ならば自然に出てくる心理かと思いますし、何かと理由をつけては結論を先延ばしにしたくもなるでしょう。
それでも、時間が経てば経つほどに、取り返しがつかないほどに事態が悪化していくのが、緊急事態というものなのではないでしょうか。
リーダーは、ただ単にその組織のトップというだけでなく、その組織に属する人間の命に対する責任を負っている――そのことを、最近よく意識するようになりました。
そして、それを考えるほどに、より「リーダーを選ぶこと」の難しさを思い知らされます。
人格だけを見て人を選べば能力が足りない可能性があり、逆に実績だけで選べば汚職で金を無駄遣いすることがある…
元々選挙などでも候補者の人間性の全てを分かった上で票を投じられているわけではありませんし、就職活動にしても、経営者の人となりを知って会社を選んできたわけではありません。
それでも「いざという時」、自分の命がリーダーの判断次第で左右されてしまいかねないという事実は変わらないのです。
理想は、能力も人格も兼ね備えたリーダーが世の中にたくさん出て来てくれることなのですが…
そのためにはおそらく、そういうリーダーがたくさん輩出されるように、日本の教育自体を見直していかなければならないのかも知れません。
現状ではおそらく「人の上に立ちたい」と考えている人間自体が少なかったり、あるいは、「人の上に立ちたい」気持ちはあっても「人の命や人生を預かる覚悟や責任感」を育てられていない人間が多かったりする気がしてならないので…。
実は「喜怒哀楽」の感情のうち、もっとも制御し難く厄介なのは「楽」の感情なのではないか、と最近ふと考えます。
食欲・知識欲・自己顕示欲 etc…諸々の欲望が満たされた時に感じる快楽、あるいは「楽に」生きたいという欲求…
それに溺れ、コントロールできなくなった時、人は自らの人生を破滅させてしまうのではないか、と。
「楽しい」という感情は、人生に不可欠なものです。
「楽しい」という感情が存在しているからこそ、人は、決して優しいとは言いきれないこの世界で、生きていけているのかも知れません。
ですが、そんな風に「生きる意義」あるいは「生への欲求」と直結している感情であるからこそ、「楽」は制御し難く厄介なモノである気がしてなりません。
「怒り」や「哀しみ」は、本人にとって決して快いものではありません。
むしろ不快なものであることの方が多いでしょうし、「怒」「哀」の感情が出ているというだけで、人はエネルギーを消耗します。
ですから、「怒」「哀」についてはある程度、セルフ・コントロールが効くのではないかという気がするのです。
長く続けばそれだけ精神が疲弊するものであるがゆえに、「もうそろそろ怒りを治めよう」「哀しむのは、もうやめにしよう」と、自分で思うこともできるのではないかと思うのです。
(もちろん、それが難しい方もいらっしゃるとは思いますが…。)
ですが「楽」に関して言えば、不快どころか真逆の「快楽」であるため、人はそれを抑えようとも思わず、むしろ、もっと積極的にそれを味わおうとするのではないでしょうか。
しかも、エネルギーを消費するどころか、逆に「楽にする」ことでエネルギーの消費を抑えたり、あるいは「もっと楽しみたい」と活力やエネルギーが湧いてくることも多いのではないでしょうか。
ですが「楽」は、時に人の人生を確実に狂わせます。
酒や薬物の中毒者が、一時の快楽を忘れられずに、身を滅ぼすと知りながら、それを繰り返してしまうように…
あるいは、明るみに出れば確実に家庭や恋人関係の崩壊に至ることを知りながら、不倫や浮気をする人間がいるように…
もっと身近な例で言えば、しなければいけない勉強をせず「楽に」過ごしてしまったばかりに、ひどいテスト結果で叱られたり、受験に失敗したり…そんなことがあるのではないかと思います。
怒りで身を滅ぼす人は多いですが、同じくらい…あるいは、もしかしたらそれ以上に、「楽」に溺れて人生を狂わせる人も多いのではないかと思うのです。
もしかしたら人間は、もっと「楽」をコントロールする術を考え始めた方が良いのではないか…そんなことを思う、今日この頃です。
それは“真面目を馬鹿にする空気”とでも言うようなモノです。
真面目に勉強すること、真面目に何かに打ち込むこと――そういったものを卑下し、馬鹿にして、「そんな風にマジメに生きるよりも、面白いことや楽しいことだけをしてラクに生きる方がよほど優れた生き方なのだ」と押しつけてくる、無言の圧力です。
“まじめ”という言葉は、本来決して悪い意味ではないはずなのに、学生時代のあの頃は“まじめ”という言葉自体が“ウザい”だとか“つまらない”といった悪口と同義な気がして、そういうレッテルを貼られることを恐れていたような気がします。
真面目だと思われたくなくて、「勉強なんてしてないよ」アピールをしてみたり、わざと自分の不真面目な部分を大袈裟にアピールしてみたり…
集団生活が基本の学校という空間では、友人に疎まれたり敬遠されたりするのは、孤立に繋がりかねないとても恐ろしいものです。
そして真面目な人間よりも、ちょっと不真面目なくらいの人間の方がウケが良いということは、学生たちの間ではよくあることだと思います。
そうして周囲に合わせて“ちょっと不真面目”を装っているうちに、成績が落ちてしまったり、どんどん“自分の望む自分の姿”とかけ離れていき、自分で自分のことが嫌になってきたり…
そういうのが、本当に嫌だと思ってきました。
確かに“まじめ”という言葉には、どこか“融通がきかない”だとか“冷たい”だとか、マイナスのイメージがつきまとっているのかも知れません。
けれど、物事に対して真剣に向き合い、取り組むことの何がいけないのかと、自分は思うのです。
逆に、真面目に真剣にやらなければダメなことが、世の中にはたくさんある気がしてなりません。
進路、受験、就職、お金のやりくり、病気や怪我の予防や対処…
望むと望まないとに関わらず否応なしに突きつけられる人生の重大事に、フラフラ不真面目なままでは対応しきれるはずもないのに、それでも“真面目を嫌う”人たちは“真面目”に考えることを拒否し続けるのでしょうか。
…そもそも、学生時代に感じてきた“真面目を馬鹿にする空気”に、自分は別の“闇”を感じてもいました。
それは、この“真面目を馬鹿にする空気”自体が、実は“足の引っ張り合い”でしかないのではないか、という疑念でした。
真面目に生きることを拒否して、結果、成績が伸び悩んだり、人生何と上手くいっていない人たちが、周りにいる人間を自分たちと同じ次元の場所に引っ張り込もうとして、「真面目は良くない」「真面目に生きるなんてくだらない」とネガティブ・キャンペーンを展開しているだけなのではないだろうか、と。
他人の向上心を妨害し、逆に堕落させ引きずり下ろすことで安心したり、自分を優位に保とうとする人間は世の中、結構いるものです。
しかも、それが悪意からというわけでもなく、「仲間なんだから、一緒に不真面目でいようよー」とばかりに、軽い気持ちで、あるいは無意識にそれをやっている人間も結構います。
学校という閉鎖空間において、友人というのはとても重要な存在で、おまけにクラスあるいは部活内の限られた人数の中では、必ずしも友人を“選ぶ”こともできません。
そんな中で周りに流されずに自分を保つのは、簡単なことではありません。
けれど、そこで「皆も真面目に生きてないから大丈夫」と流されてしまうのは、後々人生の破滅にもつながりかねない危険な選択です。
個人的にオススメするのは、たとえ表面上は周りに合わせていても、裏ではちゃんと真面目に自分の人生と向き合っておくことです。
(周囲に合わせないというだけで「空気が読めない」扱いされて虐めにつながるケースを考えれば、表面上は周りに合わせざるをえない部分もあるかと思いますので…。)
不真面目に、やりたいことだけをやって生きるという生き方は、真面目に生きるより“ラク”な生き方ではあります。
なので一旦そういう生き方に染まってしまうと“クセ”になってしまい、いざ真面目にしなければいけない場面で「どうすれば良いのか分からない」状態になり、どうにもならずに人生が詰んでしまう危険があります。
それに、そもそもの話ですが、真面目な人間が一定数以上いないことには、この世の中、上手く回っていかないと思うのです。
国が真っ当に機能していくためには、真面目に働いて真面目に税金を納める人間が一定数以上いないとどうにもならないわけですし、インフラも金融もその他諸々のサービスも、そこで真面目に働いている人間がいるからこそ正常に機能しているわけです。
それに仕事の取引相手や家族や人生のパートナーも、不真面目な人よりは真面目な人の方がよほど頼りになるはずです。
だから、安易に“真面目”に対するマイナス・イメージをまき散らすのは、本当にやめて欲しいな、と個人的には思うのです。
中には「不真面目なのは学生のうちだけで、社会人になったらちゃんと真面目になるさ」という人もいるかも知れません。
でも、一度ついてしまった心のクセが、そう簡単に修正されるものなのか、自分は疑問に思います。
表面上をどんなに真面目そうに取り繕っていても、心の根っこの方に「真面目に生きるなんて、やっぱり馬鹿らしい」という思いがあったなら、それはふとした瞬間にどこかで顔を出し、仕事の適当さにつながったり、不誠実さにつながったり、思わぬミスや失敗につながったりするのではないか…そんな風に思うのです。
よく不思議に思っていることなのですが…世の中、何もかも二者択一的に「白か黒かハッキリ決めなくてはいけない」と思い込んでいる人たちが、何だか無闇やたらと多い気がします。
「じゃあ、間をとってグレーで。」とか「黒50%・白50%のグレーがダメなら、黒30%・白70%の白寄りのグレーで。」という答えも普通にアリなはずなのに、そんな答えなど存在していないかのように、あるいは見えていないかのように「白か黒かどちらかを選ばなければならない。でもどちらかを選ぶと何かを犠牲にすることになる」と、その選択に絶望的なまでに苦しんでいる人たちが多い気がしてならないのです。
たとえば「ある人の“ある一面”が嫌いなら、その人の“全て”を嫌わなくてはいけない」だとか…、「何か“一つ”許せないことがあったら、その“全て”を許してはいけない」だとか。
逆に、「愛すべき相手のことなら、その“全て”を受け入れなければいけない」と思い込んでいるとか…。
個人的には「この人のココの所はキライだけど、その他の部分はべつにフツウに受け入れられるな」だとか「この人のこういう所は好きだけど、○○な所はちょっと許せないな」だとか、そういう融通のつけ方があっても良いと思うのですが。
たとえば親兄弟にだって、受け入れ難い部分・許せない言動の一つや二つ、あると思います。
それを「愛する家族だから」と無理に受け入れる必要などないし、逆にそこが許せないからと言って、これまで積み重ねてきた思い出や愛情全てを投げ捨てて嫌いになる必要もないと思うのです。
(まあ、「好きなのに嫌い」「嫌いなのに好き」という葛藤は、それはそれで苦しいものかも知れませんが…。)
世の中「答えは2つに1つ」というものばかりではなく、「その他の答え」も探せばあるかも知れないのに、なまじ、そんな「2つに1つ」の選択肢ばかりが分かりやすく目に見えてしまっているがゆえに、他の選択肢が見えなくなってしまっているのではないかと思うのです。
そしてそれは、人生や社会の可能性を狭めてしまって、人間を生きづらくしてしまっているのではないかと思うのです。
ただ、だからと言って、そんな風にすぐに「2つに1つ」以外の「別の選択肢」を見つけられるようにできるかと言えば、それは人によって、かなり難しいことなのかも知れないと思います。
そこには、ある種の「コツ」のようなものが必要だと思うからです。
それは、たとえば「今、目に見えている“選択肢”を疑ってみる」ことです。
選択をする前に一度立ち止まって「本当に道は“白か黒か”の2択しかないのか?」「もっと別の方法があるのではないか?」と、自分に問うことです。
世の中を眺めていると、何だかその「疑う」ということができていない人が、とても多いように見えます。
世間一般で提示されている2択を、当たり前のように受け入れて、その2択の中だけで、迷い、悩み、苦しんでいる……そんな風に見えてならないのです。
既存の2択の中で答えが出ないなら、自分で新しい選択肢を生み出していけば良いのに…
そして、そんな選択肢を生み出すためにこそ、自分の知識や能力を磨いていけば良いのに…
なのに、それができずに、逆に、自分のみならず他人にさえ、その“無茶な2択”を押し付け、強いる人がいる…こんな世の中では、生きづらくなるのは当たり前だと思うのです。
世間一般で“常識”だと思われて、疑うことすら忘れられているモノを、もっと柔軟な頭と心で見つめて、そこに別の意味を見いだせる人が増えたなら、この世界はきっともっと生きやすく、幸せなものになれるのに…そう思えてならないのです。
それは、「人間は一人として同じ者はいない、別個の存在だ」という、ある意味“当たり前”な事実を、“本当の意味”で理解できている人が、実は意外と少ないのではないか、ということです。
もちろん「うわべ」では皆「そんなこと分かってるよ。同じ人間なんているはずないじゃないか」と言うでしょう。
しかし実際には、相手が「自分とは違う他の人間」であるにも関わらず、無意識のうちに「自分の価値観」という物差しで判断し、そこから少しでもズレていると「あいつは駄目なやつだ」「アイツ、おかしいんじゃないのか」などと思ったりする――そんなことが多々あるのではないかと思うのです。
たとえば、人間の体力は人それぞれに違っています。
(そもそも体力なんて、その人の体格・年齢・筋肉量・健康状態など、様々な要素によって変わってくるのですから、個人差があるのは当たり前ですし、同じ人間であっても日によって違うものですが。)
だから同じ量の仕事量をこなしていたとしても、それにより生じる疲労ダメージは人それぞれです。
Aさんが普通にこなしている仕事量だからと言って、同じ部のBさんにもそれができるかと言えば、それは別問題です。
精神面においても同じことが言えますが、同じような叱責やハラスメントを受けても、平気で受け流せる性格の人もいれば、気に病んでストレスで体調を崩す人もいます。
また、それぞれの抱える「事情」も個々に違っています。
親の介護がある、幼い子がいる、通勤時間が異常に長い等々、様々な事情により仕事の時間に融通のきかない(残業や休日出勤ができない、あるいはそもそも一日フルで働けない)人はたくさんいます。
(そして“同じよう”な事情を抱えていたとしても、その程度の違いがあったり、複数の事情が絡み合っていたりで、一人として“同じ”事情は無かったりするわけですが…。)
なのに何故か現代のこの日本社会(特にブラックな企業の中)では、全ての人間を“同じ”ものとして見ている――どころか、「完璧にタフな体力と精神性を持ち、いつでも仕事の時間に融通のきく人間」を基準、あるいは理想として考えているように見えるのです。
そうして、そんな「完璧にタフな体力と精神性を持ち、いつでも仕事の時間に融通のきく人間」でもなければこなせないような無茶な仕事量を課したり、パワハラすれすれの“指導”を行ったり、平気で残業や休日出勤をさせたりして、それに耐えられなければ「ダメな人間」「弱い人間」「使えない人間」というレッテルを貼って見下すという「いや、どういう思考の経路をたどってその結論に至ったんですか?」「そんな、会社にとって異常に都合の良い“超人”が、そこらにホイホイ溢れているとか本気で思ってるんですか?」と逆に訊きたくなるような“不思議な考え”がまかり通っている気がするのですが…。
(と言うか、当たり前な話ですが、そんな“超人”はそうそう存在しないので、そんな無茶な働き方を押しつけられれば「働きたくても働けない」人が増えて、「人手不足→1人あたりの労働量が増える→人が辞める」の悪循環に陥っていくのは必然だと思うのですが…。)
…まぁ、そもそも、そんな「人それぞれ個人差のある能力や事情を汲んで、それに見合った仕事(業務内容や勤務形態)を割り振り、上手く人材を活用していける」ような技術、あるいは仕組みが、この現代社会でまだあまり“開発”されていない――そもそもその必要性に気づいてもらえてすらいない、ということなのかも知れませんが…。
(そもそも、まずその前の段階として、そんな人間ひとりひとりの差異や事情を「見える化」する“何か”でも開発しないと、どれほど優秀な管理職の人でもそれぞれに合った仕事の割り振りができないのでしょうけど…。)
あと、そんな風に個人個人の事情に見合った仕事を割り振ったところで、そんな「自分とは違う他人の事情」を「想像でき」て「思いやれる」人間もそう多くはないでしょうから、「あいつの方がラクしててズルい」「俺ばっかり大変な思いをしている」という不公平感が発生して別の問題も起こりそうですが…。
そもそも人間って、自分の抱える事情を重く、他人の抱える事情を軽く見がちなところがあるんですよね…。
だから、客観的に見れば、実は相手の方が苦労をしていたとしても、パッと見の個人的な印象だけで「自分の方が苦労してて、あいつはラクしてる。ズルい」となりがちなんですよね…。
(と言うか、「自分の苦労<相手の苦労」を認めてしまうと「文句が言えなくなる」ので、都合の悪い部分をわざと見ないようにしている、という面もあるかも知れませんし。)
さらに言えば、そもそもそういう他人の抱える“事情”に対して無関心で無頓着な人が多い気がします。
マザー・テレサさんの言う通り「愛の反対は憎しみではなく無関心」なら、それって人間に対する愛が無いってことになるのですが…。
現代人、大丈夫なんでしょうか…?
いや、大丈夫じゃないから、今こんなにブラック企業やらパワハラが問題になっているんでしょうけど…。
「愛が全てを救う」などと言うと、ひどくチープに聞こえてしまいますが、ひょっとするとそんな風に「人間に対する愛」を持ち、個々の事情に目を向け「思いやる」ということが、諸々の社会問題を解決するカギになってくるのかも知れません。
…と言うか、個人的には普通に、愛の無いブラック企業より、愛ある優しいホワイト企業で働いていたいですし。
- 【HN(ハンドル・ネーム)】
- 津籠睦月(つごもりむつき)
- 【職業】
- 社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
- 【趣味】
- 小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
- 【好きな小説ジャンル】
- ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
- 【備考】
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