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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
最近「○○には科学的根拠が無い」という言葉を、よく耳にします(目にします)。
 
まるで「根拠が無ければ論じることさえ許されない」ような風潮を感じます。
 
そのたびに、思うことがあるのですが…
 
今はまだ」科学的根拠が無いとしても、「将来的に」その根拠が発見されるモノだって、中にはあるはずですよね?
 
人類の歴史を見るに、「それまでは非常識」と思われてきたものが、後に「常識」になる――定説が覆されてきた例は、山のようにあります。
 
その「可能性の芽」を早々に摘んで、「真理が発見される」ことを何年も何十年も(あるいは何百年も)「先延ばし」にしてしまうのは、とてつもなく効率が悪く、人類全体にとって「ロス」なのではないでしょうか?
 
もちろん「まだ証明がされていない」物事は玉石混交で、中にはまったくのデタラメもあることでしょう。
 
下手に認めてしまえば「害が出てしまう」可能性もあり、慎重になるのも分かります。
 
(有害性を知らずに使用した結果「公害」が起きてしまった、多くの人に健康被害が出てしまった、という例もたくさんありますし…。)
 
けれど「根拠が無い=間違い」とされてしまうのは、貴重な「可能性」がもったいないと思いませんか?
 
個人的に思うのが「世の中もっと『仮説』を上手く使えば良いのにな…」ということです。
 
「まだ証明されていない事実について『こうなのではないか?』と説を唱えること」が、すなわち仮説です。
 
「本当かも知れないけれど、まだ証明待ち」「後で間違いだったと分かるかも知れない」…それが仮説です。
 
「正解かも知れないけど、間違いかも知れない」――その認識を全員で共有しておけば、説を唱えても全く問題にならないのではないでしょうか?
 
「信じるも信じないも自己責任」――その認識を予め持っておけば、後で文句を言う人間も減るのではないでしょうか。
 
そもそも、今の世の中、まだ証明が済んでいないモノを簡単に信じてしまう人間が多過ぎます。
 
そして逆に、まだ証明がされていないからと言って、簡単に「間違い」と決めつける人間も多過ぎます。
 
何かを証明するには、それなりの実験や研究、それなりの時間や手間(そしてお金)が必要です。
 
普通の一般人では到底できないものもあります。
 
けれど、普通の一般人でも、ふと世の真理に気づくことはありますよね?
 
証明ができないからと言って、その真理を胸にしまったまま墓場まで行かれてしまうのは、人類にとって大きな損失です。
 
仮説は仮説として「いつか誰かが証明してくれるのを待つ」…それで良いのではないかと思うのですが…。
 
そして人間は、もっと物事を「半信半疑」に捉えていた方が良いと思います。
 
100%信じきってしまうのも、100%疑うのも、思考を鈍らせ、真実を見えにくくしてしまいますので…。
 
<関連記事:半信半疑がちょうど良い


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社会人になってから疑問を抱くようになったことがあります。
 
それは「数字でしか物事を判断できない(しない)人間が多過ぎないだろうか?」という疑問です。
 
会社の成績にしてもそうです。
 
何かと「数字」を出して、そのデータを比較しようとしてきますが…
 
その人の「会社への貢献度」とは、本当にそれだけなのでしょうか?
 
成績上位の人間の中には「とにかく数をこなせれば良い」という感じで「適当な仕事」をして、そのミスを他人に押しつけてくる人もいます。
 
後チェックをしなければならない人間は、そんなミスの修正に手間取って、自らは成績を上げている余裕もありません。
 
また、下手をするとそんなミスに対する「クレーム」が、たまたま電話を取った別の人間の時間を奪うこともあります。
 
たとえ1人の成績が良くても、それがチーム全体の効率を落としている場合もあるのです。
 
しかし、個人個人の数値を出してはいても、チーム全体での数値を出していないなら、そんな効率低下による「損失」が数値として表れることはありません。
 
(あるいはチーム全体で見たとしても、プラマイゼロで「見えにくい」場合もあるかも知れませんが…。)
 
数字は嘘をつかない」と言いますが、それは「適切な数字を切り取れた場合」に限ります
 
数値というものは、どの部分を切り取るか(どんなデータを出すか)により、全く意味を変えてしまうものなのです。
 
そしてザッと世の中を見渡す限り、現代人はそれを上手に切り取ることが「できていない」気がします。
 
そもそも、今の世の中には「間違った切り取り方をしている」「見る人に誤解を与えかねない」ことを「承知の上」で出されている数値もあります。
 
様々な広告に溢れる「1位」「No.1」という数字…。
 
それがどんな人によってどんな条件で出された「1位」なのか、ちゃんと見ている人は、どれくらいいるのでしょうか?
 
また「よくよく見れば『売れた数ではない』ことが分かる」…けれどパッと見には「何だかすごそう」に見える「発行部数〇〇万部突破」「出荷台数〇〇万台突破」という数字…。
 
(分からなかった方→「売上部数」や「販売台数」ではなく「発行部数」「出荷台数」ですからね。よく見ないとアブないですよ。)
 
出版社やメーカーでは「作った数」「出荷した数」はすぐに把握できても、その先の販売店で「売れた数」は把握しづらいから…という事情もあるようですが、「作った」「出荷した」と「売れた」では意味が全く違いますよね?
 
(作って出荷しても、それが全て売り切れるとは限らないでしょうし…。)
 
それと、最近何かと気にされがちな、レビューの星の数やポイント数…。
 
前に出した「1位」「No.1」でも言えることですが…あの手の数字は、だいたいが主観的で相対的なもので、客観的で絶対的なものではありません。
 
たとえば家電が「使えるかどうか」は、ユーザーの使用条件次第。
 
たとえば評価が低くても、それが「自分の家の間取りに合わなかった」という個人的な理由の場合には全くアテになりませんし…
 
逆に評価が高くても、その使用条件が自分と全く異なっていた場合には、やはりアテになりません。
 
レビューは星の数よりもコメントの内容の方(そしてそれが「自分」に当てはまるかどうか)が重要なのです。
 
また、たとえばエンタメ・コンテンツが「おもしろいかどうか」は、そのユーザーの趣味嗜好次第。
 
どんなにPVや再生回数が高かろうと、自分の好みに合わないものは結局のところ「おもしろくない」ですし…
 
逆に数字が少なくても、それは単に「まだ他の人に見出されていない」だけで、見てみれば「ものすごく面白い」可能性だってあるわけです。
 
そもそも、世の中に溢れる数値の全部が全部「正しい」ものではありません。中には当然、不正なものもあるでしょう。
 
(ときどき、ニュースでもその手の話題が出ますよね。最近では「No.1」広告の不正のニュースを目にしたばかりですし…。)
 
それが真っ当な数字なのか、それとも誤魔化され偽られた数字なのか…見極めるのは、容易なことではありません。
 
世の中、数値に振り回されて、真実を読み誤って、いろいろな意味で「損をしている」人(や団体・企業)が多い気がしてなりません。
 
特に、他人によって意図的に「作られた」数字に操られているような人たちは…。
 
(…まぁ、ニュースに出てくるレベルの「組織ぐるみの数値偽装」の場合には、騙されずにいることの方が難しいのかも知れませんが…。)
 

イメージ戦略」という言葉があります。
 
商品を売ったり、評価を高めたりするために「良いイメージ」を築き上げる戦略なわけですが…
 
これに疑問を持ったことのある方、どれくらいいらっしゃるでしょうか?
 
「良い『イメージ』さえ作れれば、『実際』は良くなくても良いのか?」「人間って、そんな『うわべ』に騙されて物を買ってしまうものなのか?」と考えたこと、ありませんか?
 
イメージは、あくまでイメージ。いわば「虚像」であって、「真実」とは限りません。
 
(「清純派」や「家庭的」「クリーンで誠実」など、特定のイメージを作って活動していた俳優に、そんなイメージとは真逆のスキャンダルが出る…というのも、結構「あるある」ですよね?)
 
しかしながら、大人になって社会に出てみると、人が意外と「イメージ」に振り回され、「イメージ」に左右されて生きているということが分かります。
 
おそらくそれは「イメージは目につきやすく、分かりやすい」けれど、「真実は目に見えづらく、理解しづらい」からなのでしょう。
 
「イメージ」は前述の「イメージ戦略」のように、戦略のために前面に押し出され、目立つようにアピールされていることも少なくありません。
 
また、「イメージ」は人の意識に浸透しやすいように「分かりやすく」作られていることが多いです。
 
しかし、その奥にある「真実」は、すぐ目につく所に出ているわけではありませんし、時には隠されていることすらあります。
 
(むしろ、それを隠すために「イメージ」が作られることすらあるでしょう。)
 
また、わざと「分かりやすく作られている」イメージとは違い、真実は複雑で、すぐには理解し難いものも多々あります。
 
だから、人は「分かりやすい」イメージにばかり飛びついて、「分かりづらい」真実を見ることを、おろそかにしてしまうのかも知れません。
 
しかし、どんなに分かりやすくても、イメージはあくまでイメージに過ぎないのです。
 
そこに騙されて、そこにばかり目が行ってしまっては、人生を損しかねません。
 
それは、「イメージは良いけれど、実際には悪い」ものを手に取らされて、「イメージはそれほどでもないけれど、実際はとても良い」ものをスルーしてしまうリスクがあるからです。
 
実際この世界は、そんな「イメージ」の功罪により、知らず知らずのうちに恐ろしく「何か」をロスしているのではないでしょうか?
 
イメージ作りに優れたものばかりが生き残り、技術や質は高くてもイメージ作りの下手なものは淘汰されてしまう…
 
それは結局、ひとりひとりの消費者にとっても、業界全体にとっても、恐ろしく「損」なことなのではないでしょうか?
 
「イメージ」ではなく「その商品の質」でモノが選ばれるならば、莫大な広告費も要りませんし、それにより開発費が削られて次の商品の質が落ちるということもありません。
 
質の高い商品なら、自然とリピーターがつくものですが、イメージだけで売る商品は、次々とインパクトのある宣伝を打ち出し続けなければ、消費者に飽きられてしまいます(結果、広告費がさらにかさむ悪循環に陥ります)。
 
この世界はそうやって、本来なら自然に得られていたはず大きな利益を、いつの間にかロスして、それに気づかずにいるのではないでしょうか?
 
とは言え、ここまでイメージ戦略が「一般化」してしまっている現代…できることと言えば、1人1人の消費者が「イメージに騙されないように」意識していくしかないのかも知れません。
 
ちなみにこの「イメージの功罪」…経済界のみの話ではありません。
 
むしろ、政治など他の分野の方が、より深刻かも知れません。
 
イメージに騙されて「騙した方が悪いんだ」と文句を言っても、その時にはもう手遅れかも知れませんので、何とか真実を見極める目を磨いていきたいなぁ…と日々思っています。
 

何がフェイクで、何がリアルなのか、情報の精査の難しい昨今でも、揺るぎなくハッキリ言えることがひとつあります。
 
「戦争は駄目」だということです。
 
以前の記事でも触れましたが…
 
<関連記事:どんな「理由」や「大義」があろうと「手段」は選ばなければならない
 
「理由があれば何をしても良い」ではなく、「たとえ理由があろうと、手段は選ばなければならない」のです。
 
無数にある手段の中から、よりにもよって、多くの人の命を奪うという選択をしておきながら、その正当性を論じること自体が、狂気の沙汰だとは思いませんか?
 
そんなことが正当化されてしまうとしたら…人間の命の価値は、どこまで薄く軽くなってしまうのでしょう。
 
他の選択肢もあったはずなのに、他の手段を選んでいたなら奪われなかったはずの命が、奪われていく…
 
人間が、人間の命を軽視し、人間の命を冒涜し、その価値を、どんどん薄っぺらなものにしていく…
 
人の命の価値を左右するのは、結局はその時代に生きる人間なのだと思います。
 
何らかの「理由」があれば、理不尽に人命を奪っても良いという「悪しき前例」を、作るべきではありません。
 
既にそんな風に正当化されてしまった前例が、歴史上いくつもあるとしても…
 
これ以上、増やすべきではありません。
 
それは、今まさに危機に晒されている人々のためだけでなく、今は安全な場所で平穏に暮らしている人々、未来に生きる人々にも関わってくることです。
 
歴史は、良いものも、悪いものも、学ばれて繰り返されてしまうものですから…。 
 

不言実行タイプ」――行動を起こすにあたって、あるいは行動を起こす前に「想いを口にしない人間」あるいはそもそも「自分が何をやっているのか語らない人」は、何かとだと感じます。
 
現代社会では特に…自分の信念行動を堂々とアピールできる人間ばかりが注目され、沈黙する人間は「何もしていない」「何も考えていない」と見なされることも多々あります。
 
社会に出てからは、特にそれを痛感することになりました。
 
学生時代までの自分はむしろ「『自分はコレをやっています!』って、いちいちアピールするのは、褒められたくてやってるみたいでカッコ悪い」という考えでした。
 
そもそも謙遜謙虚が美徳と信じて育ってきたので(幼少期に祖父母と過ごす時間が多かったことが影響しているのかと…)、アピール自体がどうにも苦手だったのです。
 
しかし、社会人になってから「どうにも、ソレでは駄目だ」と思うようになりました。
 
忙しい現代人は、他人のことなどロクに見ていません。
 
おとぎ話の魔法使いのように「密かに耐えて頑張っている子」や「黙って陰で善行を為す人」を見つけ出してくれる人は、ほとんどいないのです。
 
だから「自分はこんなことをしています!」とアピールされて初めて、他人の行動や、その裏にある想いに気づくのです。
 
下手をすると「誰にも何も言わずに、ただ黙々と目的に向かい努力する人」が評価されず、「口ばかり大袈裟で、実際にはそんなに大した働きをしていない人」の方が評価を上げる可能性だってあります。
 
物事の本質を見抜けない人間は、「見かけ倒しで実を伴わないアピール」にも、コロッと騙されてしまうからです。
  
「褒められるためのアピール」「自分をスゴく見せるためのアピール」はしたくないとしても、せめて「多少は他人に理解してもらえるように」、自分の行動や想いを、何らかの形で「ことばにしていく」必要性を、強く感じるようになりました。
 
…とは言え、アピール嫌いの人間がソレをするのは相当に難易度が高く、「練習」や「試行錯誤」をしながら、少しずつ表に出していっているような状態です。
 
しかし、アピールや思考の言語化の必要性は感じていても、それでも「やりたくない」ことはあります。
 
自分の中の想いや考えを「ことばにする」ということは、時に他人と衝突することを意味します。
 
あるいは、時に他人を傷つけてしまうことを意味します。
 
自分とは対立する意見の持ち主――特に、他者の意見に否定的で攻撃性の高い人物に、自分の大切なものを踏みにじられる可能性を意味します。
 
なので、「何でもかんでも表に出したい」「他人に知ってもらいたい」とは思わないのです。
 
他者からの肯定や協力を必要としないような「想い」や「考え」なら、自分の中だけで宝物のように慈しんでいても、べつに構わないのではないかと思うのです。
 
「自己満足」で満たされるのであれば、誰にも知られぬ善行をひっそりと為して、ひとりで満足するだけでも、べつに構わないのではないかと思うのです。
 
「他人から肯定してもらえなければ、自分を肯定できない」といった可愛げは元から持っていませんし、「他人に自分の意見を押しつけたい」という趣味も持っていません。
 
しかし、時に「他人の何かを否定し、相手から傷つけられても、出さなければならない意見」があることも知っています。
 
なので、出すものと出さないものを、見極め、選びながら、少しずつ少しずつ「ことばにする」のです。
 
その「見極め」や「選択」も、まだまだ難しかったりするのですが…。

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ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
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