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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
幼い頃、家に「地球」という名の、子供向けの本がありました。
 
地球の誕生から恐竜の時代、生物の進化や、深い海の底では水圧で物がペシャンコになること等々、この“地球”に関する様々な知識が書かれた本でした。
 
母は時々、夜寝る前にこの本を読んでくれたのですが…正直、自分はこの本が大嫌いでした。
 
たぶんそれは、かなり個人的な感情で、自分の独特過ぎる感性ゆえのことなのでしょうが…
 
自分はこの本が読まれるたびに、“宇宙の誕生からその消滅、果てはこの宇宙が消滅してさえ更に延々と続いていく終わりなき時間の流れ”について思いをめぐらせてしまい、底無しの穴に永遠に落ち続けていくような言いようのない恐怖を味わっていたのです。
 
しかし、まだ小学校にも上がらぬ当時の自分にその恐怖を言い表せるボキャブラリーは存在せず(と言うか、未だに万人に通じる言葉で説明できる自信はありませんが…)「恐いから、その本読むのやめて」と言ったところで親兄弟には全く通用しませんでした。
 
(そしてむしろ恐怖に怯える様を面白がられ、必死に耳をふさぐ自分の前でわざとその本を読まれるという、精神的拷問に近いことを繰り返されていたわけですが…ひょっとするとこの経験は後に精神のタフさという形で人格形成に影響を及ぼしているのかも知れません。)
 
この頃の自分は、とにかくひたすら「永遠」というものに対して恐怖心を抱いていました。
 
楽しい遊びも、ずっと続けていれば、いずれは飽きるもの――そんな風に、生きる喜びや楽しさに満足しきって、もはや生きることに飽きてしまったとしても、それでも終われずに強制的に生が続いていく…しかも、果てなど無く“永遠”に…それは、どれほどの精神的苦痛なのだろう…そんな風に当時の自分は怯えていたのです。
 
そして、そんな風に「永遠の生を生きる」ことと、「終わりのある生を生きる」こととは一体「どちらがマシ」なのだろうかと考えました。
 
「いつか終わりが来る生」ということは、いずれ自分自身が消滅するということで…それはそれで想像を絶する、途方もなく恐ろしいことです。
 
ですが、結局当時(保育園児時代)の自分は、永遠に対する恐怖には抗えず、「いずれ終わりのある生」の方が「まだ幾分かマシ」だという結論を出したのです。
 
(まぁ、そもそも選びようもないことではあるのですが…。)
 
ただ「やっぱり自分が終わってしまうのは恐いことだから、せめて限られた人生を一日でも長く、生きられる限り精一杯生きよう」――それが、自分の生や死に対する思考の出発点でした。
 
「いずれは必ず訪れる死」について考えることは、人生を見つめる上で大切なこととされています。
 
けれど、それを考えようとすると恐怖に駆られて、真っ当に思考することができない――そんな人は多いのではないかと思います。
 
自分も、それを恐怖せずに考えることはできませんし、いずれ来るそれを「受け入れた」などとはとても言えません。
 
ただ、ある種「仕方のないもの」というように「受け止めて」はいるのかも知れません。
 
「初めからそういう風に定められていたから仕方ない」のではなく、「“永遠”か“限りある生”か」という究極の二者択一において、自分自身で「限りある生の方がマシ」と結論づけたのだから仕方がない、と。
  
そしてその限りある生を「受け止めて」いるがゆえに、そんな自分の命や人生がとても尊く大切なものに思え、さらには同じように他者の命や人生についても大切に思えるようになったのかも知れません。
 
死を思うのが恐いなら、その対極にある永遠の生についても考えれば、自然と死へも目が向く――自分の実体験を振り返ればそういう結論に至るのですが…ただ、これはあくまで独特な感性と思考を持つ自分だから辿り着いた結論かも知れないので、万人に通用するとは言い難いのが難点ですね…。

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昨今、「ダイバーシティ」だとか「多様性のある働き方」といったことが盛んに言われていますが、そもそもその「多様性」を保つために必要な根本の部分が“まるでできていない”人が多い気がしてなりません。
 
それは、「人間は一人として同じ者はいない、別個の存在だ」という、ある意味“当たり前”な事実を、“本当の意味”で理解できている人が、実は意外と少ないのではないか、ということです。
 
もちろん「うわべ」では皆「そんなこと分かってるよ。同じ人間なんているはずないじゃないか」と言うでしょう。
 
しかし実際には、相手が「自分とは違う他の人間」であるにも関わらず、無意識のうちに「自分の価値観」という物差しで判断し、そこから少しでもズレていると「あいつは駄目なやつだ」「アイツ、おかしいんじゃないのか」などと思ったりする――そんなことが多々あるのではないかと思うのです。
 
たとえば、人間の体力は人それぞれに違っています。
(そもそも体力なんて、その人の体格・年齢・筋肉量・健康状態など、様々な要素によって変わってくるのですから、個人差があるのは当たり前ですし、同じ人間であっても日によって違うものですが。)
 
だから同じ量の仕事量をこなしていたとしても、それにより生じる疲労ダメージは人それぞれです。
 
Aさんが普通にこなしている仕事量だからと言って、同じ部のBさんにもそれができるかと言えば、それは別問題です。
 
精神面においても同じことが言えますが、同じような叱責ハラスメントを受けても、平気で受け流せる性格の人もいれば、気に病んでストレスで体調を崩す人もいます。
 
また、それぞれの抱える「事情」も個々に違っています。
 
親の介護がある、幼い子がいる、通勤時間が異常に長い等々、様々な事情により仕事の時間に融通のきかない(残業や休日出勤ができない、あるいはそもそも一日フルで働けない)人はたくさんいます。
 
(そして“同じよう”な事情を抱えていたとしても、その程度の違いがあったり、複数の事情が絡み合っていたりで、一人として“同じ”事情は無かったりするわけですが…。)
 
なのに何故か現代のこの日本社会(特にブラックな企業の中)では、全ての人間を“同じ”ものとして見ている――どころか、「完璧にタフな体力と精神性を持ち、いつでも仕事の時間に融通のきく人間」を基準、あるいは理想として考えているように見えるのです。
 
そうして、そんな「完璧にタフな体力と精神性を持ち、いつでも仕事の時間に融通のきく人間」でもなければこなせないような無茶な仕事量を課したり、パワハラすれすれの“指導”を行ったり、平気で残業や休日出勤をさせたりして、それに耐えられなければ「ダメな人間」「弱い人間」「使えない人間」というレッテルを貼って見下すという「いや、どういう思考の経路をたどってその結論に至ったんですか?」「そんな、会社にとって異常に都合の良い“超人”が、そこらにホイホイ溢れているとか本気で思ってるんですか?」と逆に訊きたくなるような“不思議な考え”がまかり通っている気がするのですが…。
 
(と言うか、当たり前な話ですが、そんな“超人”はそうそう存在しないので、そんな無茶な働き方を押しつけられれば「働きたくても働けない」人が増えて、「人手不足→1人あたりの労働量が増える→人が辞める」の悪循環に陥っていくのは必然だと思うのですが…。)
 
…まぁ、そもそも、そんな「人それぞれ個人差のある能力や事情を汲んで、それに見合った仕事(業務内容や勤務形態)を割り振り、上手く人材を活用していける」ような技術、あるいは仕組みが、この現代社会でまだあまり“開発”されていない――そもそもその必要性に気づいてもらえてすらいない、ということなのかも知れませんが…。
 
(そもそも、まずその前の段階として、そんな人間ひとりひとりの差異や事情を「見える化」する“何か”でも開発しないと、どれほど優秀な管理職の人でもそれぞれに合った仕事の割り振りができないのでしょうけど…。)
 
あと、そんな風に個人個人の事情に見合った仕事を割り振ったところで、そんな「自分とは違う他人の事情」を「想像でき」て「思いやれる」人間もそう多くはないでしょうから、「あいつの方がラクしててズルい」「俺ばっかり大変な思いをしている」という不公平感が発生して別の問題も起こりそうですが…。
 
そもそも人間って、自分の抱える事情を重く、他人の抱える事情を軽く見がちなところがあるんですよね…。
 
だから、客観的に見れば、実は相手の方が苦労をしていたとしても、パッと見の個人的な印象だけで「自分の方が苦労してて、あいつはラクしてる。ズルい」となりがちなんですよね…。
 
(と言うか、「自分の苦労<相手の苦労」を認めてしまうと「文句が言えなくなる」ので、都合の悪い部分をわざと見ないようにしている、という面もあるかも知れませんし。)
 
さらに言えば、そもそもそういう他人の抱える“事情”に対して無関心で無頓着な人が多い気がします。
 
マザー・テレサさんの言う通り「愛の反対は憎しみではなく無関心」なら、それって人間に対する愛が無いってことになるのですが…。
 
現代人、大丈夫なんでしょうか…?
 
いや、大丈夫じゃないから、今こんなにブラック企業やらパワハラが問題になっているんでしょうけど…。
 
「愛が全てを救う」などと言うと、ひどくチープに聞こえてしまいますが、ひょっとするとそんな風に「人間に対する愛」を持ち、個々の事情に目を向け「思いやる」ということが、諸々の社会問題を解決するカギになってくるのかも知れません。
 
…と言うか、個人的には普通に、愛の無いブラック企業より、愛ある優しいホワイト企業で働いていたいですし。

いつも不思議に思うのですが「自分と異なる意見は徹底的に排除しよう」という考え方って、どうして生まれてくるのでしょう?

まぁ、自分の望みとは真逆の意見だとか、自分がやりたいことを否定・制限するような意見だとか、通ってしまうと自分が何かと「やりづらくなる」意見を、感情的に(あるいは本能的に)否定したくなる気持ちは分かります。

でも、それで自分と対立する意見を(特に、暴力的で攻撃的なやり方で)「絶滅させよう」とするのは、やり過ぎで不健全なことだと、どうしても思ってしまうのです。

自分が元々「目的や大義がどんなに素晴らしいものであろうと“やり方”が非道なら、それは当然“酷い”ことだ」と思っているから、かも知れませんが。

そもそも自分は、個人的に「“自分と異なる意見”を簡単に切り捨ててしまうことは絶対やりたくない」と思っています。
 
なぜなら「自分と異なる考え」ということは「自分の頭では絶対にたどり着けない考え」ということかも知れないので。
それをみすみす捨ててしまうことは、自分自身の破滅フラグにつながるかも知れないと思うからです。
 
所詮この世界の全てを知ることもできない人間の身で、自分の出す意見が『常に正しい』とは限りません。
むしろ一定の確率で、本人さえ気づかない思考ミスを犯していて、間違った意見を出してしまうことがある、と考える方が自然だと思います。
 
それに、たとえ短期的に見れば自分にとって都合の良いモノだとしても、長期的に見れば破滅につながりかねないことって、結構ありますよね。
 
(二酸化炭素は経済活動を活発に行うと増えてしまうものだけれど、規制していかないと温暖化になるとか、甘いものはおいしいけれど食べ過ぎると肥満や糖尿病につながる、といった風に…。)
 
反対意見を残しておけば、いざという時にブレーキになってくれて破滅を免れられるかも知れないのに、全て排除してしまったらブレーキの無い暴走車のごとく「破滅へ向かって一直線!」になってしまうかもしれないじゃないですか。
(ブレーキをなくすと破滅する云々というのは以前、別ブログの記事にも書きましたが…。)
 
そもそも昔からのことわざでも「良薬は口に苦し」と言っているように、「その時」の自分にとってイヤなもの「将来」の自分にとって「薬」になる、ということは、結構普通にあることだと思うのです。
 
だから一時の“感情”に左右されず長期的な視野を持って他者の意見も尊重していくというのが、結局は「自分(や自分の生きる未来)を大切にする」ということに繋がると思うのです。
 
(まぁ、人間ですので、どうしても感情が先に出てしまうこともあるとは思うのですが、そこをグッとこらえてコントロールしていかないことには、結局は自分が破滅するだけだと思うので。)
 
あと、生命の進化だとか種の絶滅だとかの歴史を見ていると、何となくですけど「多様性は持っていた方が良い」と思えてならないのです。
 
多様性の無い種って、絶滅リスクが高い気がしてならないので。
 
そもそも多様性――個体に様々なバリエーションがある、ということは、その数だけその種に“可能性”があるということだと思うんですよね。
 
たとえAというタイプの人間にはできないことでも、Bというタイプの人間にはできるかも知れない――そうやって多様性の数だけあるたくさんの可能性でもって、各々のタイプの得意分野で人類の直面する様々な問題を1つ1つ解決していけば、人類はその分“種”としての寿命を延ばせるのではないか――そんなことをごくごく単純に考えてしまうのですが、短絡的過ぎますかね?
 
ただ、人間というものはどうしても、自分とはタイプの異なる人間を嫌悪したり、歪だと感じたり、反発したりすることが多い生き物のようですので、「どうやって多様なタイプの人間が“共存”していくのか」という課題は常につきまとってしまうものなのかも知れません。
 
「寛容な心で多様性を受け入れなければいけない」という建前をいくら説いたところで、「気に食わない」「嫌だ」と感じてしまう心の奥底の本音部分を上手く説き伏せることはできない気がするので、そういう時には「気には食わなくても、あの人々が存在していれば、将来何か人類(自分)の役に立つかも知れない」と思って、ゆるくフワッと受け入れておけばいいのではないかと、個人的には思うのですが。
 
そもそも、タイプの異なる人の目から見れば「役に立たない人間」「変な人」に見えたとしても、その人が実際にどんな潜在能力を秘めているかなんて「神のみぞ知る」領域のことで、一介の人間に測れるものではないと思うのです。
 
幼少期に学校の勉強ができなかった人物が後に歴史的偉業を成し遂げるという、発明王エジソンのような例なんて、歴史上、掃いて捨てるほどありますので。
 
ともあれ、どんな意見であれ、検討もせずに切り捨てるなどということは止めて「とりあえず取っておく」くらいの心の余裕があった方が、何かと人生が生きやすくなると思います。
 
まぁ、多様な意見があるということは、それだけ「意見をまとめる」ことが大変になるということでもありますので、人類の「意見調整」スキルを上げていかなければならないという、そういう問題も出て来てしまうとは思いますが…。


今まで生きてきて、つくづく実感していることがあります。
 
それは、人間が人間に下す評価なんて、所詮は主観的相対的なものであって、客観的絶対的なものなんかじゃない、ということです。
 
類は友を呼ぶ”ということわざがあるように、人間というものはたぶん、自分の“同類”に対する評価は自然と甘くなり、そうでないモノに対しては厳しく批判的になるものなのではないかと、そう思えてならないのです。
 
(場合によっては“同族嫌悪”で逆に同類に対する評価の方が厳しくなるケースもあると思いますが。)
 
あるいは“自分にとって”魅力的な人物であれば、その他大勢の人間から嫌われている人間であっても好感を持ってしまう――そんな部分があるように思えます。
 
つまりは、人間が誰かを好いたり嫌ったりなんていうのは、結局のところ“相性の問題”でしかないように思えてならないのです。
 
ある人間にとっては「真面目で誠実で素晴らしい」人柄に思えても、別の人間には「生真面目でカタブツでツマラナイ」と思われたり……ある人にとっては「チャラくて、ふざけてる」人間に見えても、別の誰かから見れば「ノリが良くて面白い」という評価になったり……。
 
また、ある人間にとっては「そんなことするなんてアリエナイ!」という行為が、べつの人間にとっては「まぁいっか」という程度のことでしかなかったり……。
 
その人の個性を「良い」と思うか「悪い」と思うかは、見る人の感性や価値観次第で、自分がたまたま出会った相手が自分のことを良いと思ってくれる相手か、それとも悪いと思う相手なのかは運でしかない――結局そういう“相性”の問題だと思うのです。
 
他人から嫌われたり、良い評価をもらえなかったりするのは、悲しく悔しいことです。
 
でも、それは必ずしも「全世界的・全人類的に見て自分がダメな人間だ」ということとは限らないのです。
 
たまたまそこにいた相手が、自分とは相性が最悪な人間だったという、それだけの話かも知れないのです。
 
人間が同類を高く評価したがり、その他の異質な人間を見下したがるのは、そうすることで同類である自分も肯定される気がするから、そして異質な人間を否定することで自分たちを優位な立場に置きたいから、という考えが無意識のうちに働いているからなんじゃないかと、そういう気がします。
 
そんな無意識の生存本能的(?)な何かに惑わされて自分の価値を過剰に卑下し、まして命を断とうと思いつめるなんて、勿体ないことだと思うのです。
 
世界は広く、人間は数十億人もいて、それぞれ違う性格を持っています。
中には自分と気が合う人間・自分を受け入れてくれる人間がいるはずです。
 
だから、誰かに嫌われたり、存在を否定されたりしても、そこまで思いつめる必要はない――そう思うのです。
 
まぁ、かと言って、どこまでも自己中心的に、ワガママに振舞って良いか、というと、そういうことではないと思いますが。
 
他人を害したり迷惑をかけたりする行動は、自然と敵を作り、自分の味方になってくれる“相性の良い”人間を、自ら減らしてしまう結果になると思いますので……。

自分の“力”を誇れるかどうかは、実力の程度とはあまり関係がなく、その人の“性格”や“育ってきた環境”による、というのが、自分の経験上の持論です。
 
なぜなら自分は、実際の能力の有無に関わらず、常に自分に対して自信のない子どもだったからです。
 
自分がそんな風に自信無く生きてきた理由は、親に褒められた経験があまり無いことにありました。
 
たとえばテストで良い点をとっても、絵画コンクールで入賞しても、読書感想文でクラスの代表に選ばれても、褒められたという記憶はありません。
 
そもそも両親が共働きで忙しく、子どもの学校生活をいちいち聞いてくれるような時間的余裕がなかったということも理由の一つではありますが、それ以上にうちの親の場合、たとえ子どもが自分自身の力で絵画コンクール入賞できるような腕を持っていようと、感性やセンスが合わなければ容赦なく“ダメ出し”し、むしろ嬉々として「お父さんが手伝ってやる」と、子どもの描いた絵に自分の好きな絵のタッチを“上書き”してくるような性格をしていた、ということに問題があったような気がします。
 
さらには自分の場合、本来なら体力に回すべきエネルギーを全て頭脳に吸い取られたとでも言うように身体が弱く、体育の成績はいつでもクラスの最底辺、1ヶ月に1度はダウンして学校を2~3日休む、という状態だったため、その辺りをいつも責められ、長所を褒められるどころではなかった、ということもあります。
 
それと、自分が得意としていた分野が主に勉強などのインドア方面で、学生時代当時、周囲の人気の的になれるようなジャンルではなかった、ということもあります。
 
逆に、クラス内どころか学年すら超えて周囲から一目置かれていたのがうちの兄弟で、彼は運動会では組別対抗リレーのアンカーに選ばれ、休み時間には鉄棒で大技を次々と決めて周りに人垣を作り、クラブ活動では竹からナイフ一本で耳かきや竹とんぼを作り上げたり、コマ回しやベーゴマの腕で周囲の尊敬を集め(←そういう”昔の遊び”をするクラブに入っていたのです。)、さらには笑いのセンスで人気を集めるという、典型的な“クラスの人気者”タイプで、自分は何かと自分自身と比べてコンプレックスに苛まれたりしていたものでした。
 
そんな環境から、いつしか自分は良い成績をとろうと、校内で表彰されたり何かに選ばれることがあろうと、「こんなことはべつに褒められるようなことじゃない」「自慢できるようなものじゃない」と思うようになっていました。
 
たとえどんな能力を持っていようと、本人がそこに価値を認めなければ、それは自信の根拠になどなりはしません

たとえ、はたから見れば妬ましく思えるような能力をもっていたとしても、本当に喜んで欲しい身近な人間がそれを評価してくれなければ、そこに価値を見出すことはできなかったりするのです。
 
そんな風に長い間、自分に価値を見出すことができずに苦しんでいる時期が、自分にはありました。
 
今思うと、おかしなことだと思います。
 
たとえ大切な人から認めてもらえずとも、そこにはちゃんと、ある種の能力が存在していたのに。
そしてその能力は、たぶん、自分の将来を切り拓くのに役立つような種類の力であったにも関わらず…。
 
そして世の中には逆に何の根拠も無いのに自信満々に堂々と生きているような人も沢山いるというのに。
 
たぶん、“自信の根拠”を他者(特に家族など、自分が心から肯定してもらいたいと思っている相手)に求めてしまっていたのが、いけなかったのではないかと思います。
 
「褒められたい」「認められたい」という欲求ばかりが大きくて、他者からの評価ばかりを求めて、自分の力を自分自身の目で冷静に、客観的に分析・評価することができていなかったのでしょう。
 
たとえ血のつながった親であっても、自分ならぬ他人である以上、価値観はそれぞれ違います。
自分が良いと思ったもの、褒めて欲しいものを、必ずしも認めてもらえるとは限りません。
 
それなのに「親(あるいは大切な誰か)に認めてもらえないから価値のないものなんだ」と自分で自分の能力を否定してしまうのは、ひどくもったいないことだったな、と我ながら思うのです。
 
今は大切な人に認めてもらえなかったとしても、もしかしたら、これから自分と同じような価値観を持つ”大切な誰か”に出会えて、その人は自分の能力を認めてくれるかも知れないのに…。
 
それに自信の有無は、その人の積極性にも影響を与えます。
 
自信に満ちた言動は(たとえその裏に実力が伴っていなかったとしても)見る人に何となく安心感信頼感を与えたりするものです。
 
自分に自信が無くて自己アピールも消極的な人間より、根拠の無い自信であっても自信満々に堂々と自分をPRできる人間の方が、他人に与える印象という点においては何かと有利だったりするように…。
 
そして自分に自信がないことは、行動力にも確実に影響してきます。
 
心の底では「正しい」と思うことでも、自分に自信がないので言えない・行動できない――あるいは会議やゼミなどの場で自分の考えを思うままに発言できず、無難な発言に留めてしまう――そして、自分のやりたいことが思うようにできない等々…。
 
自信の無さは、自分の経験上、確実に人生を蝕んできました。
 
正直、自分に自信を持つということは、学力やその他の能力をUPさせるよりも人生に必要な能力なのではないかと思うほどです。
 
親に褒められることが人生に良い方に作用するかどうかは、その人次第かも知れません。 
もしかしたら変に増長してダメな子に育ってしまうパターンもあるのかも知れません。
 
ただ、自分の場合には、もっと褒めて自信を与えて欲しかったな、と思うのです。
 
そうすれば、少なくとも就活であんなに面接に苦戦することもなかったような気がします。
 
もっとも、ただ何の根拠も無く常に自信満々でいれば良いのかと言うと、決してそうではなく、ちゃんと根拠があった上で自分を信じ、時には適度に自分を疑うことも大事だとは思っているのですが。
 
そして、その”根拠”は必ずしも実力や数値に表れるような”能力”ではなく、自分がそれまでどれだけのことを頑張ってきたのか、他の誰が知らずとも自分自身は知っているそれまでに積み上げてきた努力の過程を、密かに誇って自信にすれば良いと思うのですが。


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ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
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