日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
会社でもSNSでも、世の中、至る所に「暗黙のルール」が存在します。
明確に「ルール化」されているわけではないにも関わらず、組織や集団の中で「何となく」共有されているルール…。
これを知らずに破ると、心証を悪くしたり、人としての評価を下げられたりする恐ろしいものですが…
皆様、これについて疑問を持ったことはありませんか?
暗黙のルールを知らずに破っていたことを、後で指摘されて「そんなこと聞いてないよ」と思ったことはありませんか?
特に「新人」や「新参者」は、これに苦しめられることが多いのですが…。
暗黙のルールは、「暗黙」であるがゆえに厄介なのです。
明文化されていないため、どこの規則やガイドラインを見ても載っていません。
既にその「暗黙のルール」を知っている誰かに教えてもらうか、そのルールが使われている「現場」に遭遇でもしない限り、そのルールの「存在自体」知ることができません。
つまり、そのルールを「知ること自体」が至難の業なのです。
(特に、滅多に使われないレアなルールだと、難易度は相当高いかと思われます。)
にも関わらず、それを破ると、周りからかなり「嫌な顔」をされます。
「常識を知らない人間」扱いや「ルールを守らない人間」扱いをされたり、「素人」「部外者」扱いされることもあります。
「暗黙のルール」を既に熟知している人々は、気づいていないのです。
それを「まだ知らない」人間がいるという事実と、そのルールは「学ばなければ、知ることができない」という事実に。
そもそも日本は「習うより慣れろ」とばかりに「フィーリング」でフワッと物事を学ばせることが多い国です。
しかし、そんな風に「何となく」のフィーリングで「慣れて」いった場合、ルールを「ちゃんと」学べない、「勘違いして覚えてしまう」という事態が、何パーセントかの確率で発生します。
「暗黙のルール」に気づかないことは、罪なのでしょうか?
だとしたら、「暗黙のルール」を「明確」にせずに、「知っている人」たちだけで独占していることは、罪ではないのでしょうか?
「暗黙のルール」を知っていることに(意識的にしろ無意識的にしろ)優越感を覚え、それを知らない人間を躊躇なく「叩く」ことは、罪ではないのでしょうか?
そもそも善悪を問う以前に、暗黙のルールは、その組織や業界の「衰退」を招きかないリスキーなシロモノです。
暗黙のルールに苦しみ、疎んじて、すぐにそこを去っていく「新人」「新規参入者」が増えれば増えるほど、その組織や業界は衰退していきます。
人が新しく入って来なければ、後は去る者ばかり。
人が減れば、勢いは保てず、現状も維持できず、やがて自然消滅的に衰退していくしかありません。
また「人が減る」までには至らなかったとしても、「暗黙のルール」は、組織・集団の「風通しを悪くする」というリスクもあります。
「暗黙のルール」を破ってしまうことを恐れて、思うような行動・発言ができない、あるいは「暗黙のルール」の有無を確認するために「様子見」せざるを得ない……そんなことが頻繁に起これば、活発な意見交換や積極的な活動などできず、組織・集団の活力は低下していくのではないでしょうか?
そして実際、今までに、そんな風にして衰退していったものが、既にいくつも存在してはいないでしょうか?
「暗黙に」隠れているルールを、表に出して「共有」すること――暗黙のルールを知らない人を「攻撃」したり「非難」するのでなく、そのルールを優しく教え導くこと……それができるなら、この世の中は、今より多少は「生きやすく」なるのではないでしょうか?
明確に「ルール化」されているわけではないにも関わらず、組織や集団の中で「何となく」共有されているルール…。
これを知らずに破ると、心証を悪くしたり、人としての評価を下げられたりする恐ろしいものですが…
皆様、これについて疑問を持ったことはありませんか?
暗黙のルールを知らずに破っていたことを、後で指摘されて「そんなこと聞いてないよ」と思ったことはありませんか?
特に「新人」や「新参者」は、これに苦しめられることが多いのですが…。
暗黙のルールは、「暗黙」であるがゆえに厄介なのです。
明文化されていないため、どこの規則やガイドラインを見ても載っていません。
既にその「暗黙のルール」を知っている誰かに教えてもらうか、そのルールが使われている「現場」に遭遇でもしない限り、そのルールの「存在自体」知ることができません。
つまり、そのルールを「知ること自体」が至難の業なのです。
(特に、滅多に使われないレアなルールだと、難易度は相当高いかと思われます。)
にも関わらず、それを破ると、周りからかなり「嫌な顔」をされます。
「常識を知らない人間」扱いや「ルールを守らない人間」扱いをされたり、「素人」「部外者」扱いされることもあります。
「暗黙のルール」を既に熟知している人々は、気づいていないのです。
それを「まだ知らない」人間がいるという事実と、そのルールは「学ばなければ、知ることができない」という事実に。
そもそも日本は「習うより慣れろ」とばかりに「フィーリング」でフワッと物事を学ばせることが多い国です。
しかし、そんな風に「何となく」のフィーリングで「慣れて」いった場合、ルールを「ちゃんと」学べない、「勘違いして覚えてしまう」という事態が、何パーセントかの確率で発生します。
「暗黙のルール」に気づかないことは、罪なのでしょうか?
だとしたら、「暗黙のルール」を「明確」にせずに、「知っている人」たちだけで独占していることは、罪ではないのでしょうか?
「暗黙のルール」を知っていることに(意識的にしろ無意識的にしろ)優越感を覚え、それを知らない人間を躊躇なく「叩く」ことは、罪ではないのでしょうか?
そもそも善悪を問う以前に、暗黙のルールは、その組織や業界の「衰退」を招きかないリスキーなシロモノです。
暗黙のルールに苦しみ、疎んじて、すぐにそこを去っていく「新人」「新規参入者」が増えれば増えるほど、その組織や業界は衰退していきます。
人が新しく入って来なければ、後は去る者ばかり。
人が減れば、勢いは保てず、現状も維持できず、やがて自然消滅的に衰退していくしかありません。
また「人が減る」までには至らなかったとしても、「暗黙のルール」は、組織・集団の「風通しを悪くする」というリスクもあります。
「暗黙のルール」を破ってしまうことを恐れて、思うような行動・発言ができない、あるいは「暗黙のルール」の有無を確認するために「様子見」せざるを得ない……そんなことが頻繁に起これば、活発な意見交換や積極的な活動などできず、組織・集団の活力は低下していくのではないでしょうか?
そして実際、今までに、そんな風にして衰退していったものが、既にいくつも存在してはいないでしょうか?
「暗黙に」隠れているルールを、表に出して「共有」すること――暗黙のルールを知らない人を「攻撃」したり「非難」するのでなく、そのルールを優しく教え導くこと……それができるなら、この世の中は、今より多少は「生きやすく」なるのではないでしょうか?
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「紅茶」と言えば、最近専ら無糖のストレートティーな自分ですが…
最近、また新たな「お気に入り」と出逢ってしまいました。
ポッカサッポロさんの「知覧かごしま紅茶」です。

この紅茶、無糖なのですが、なぜか「甘く感じる」のです。
飲んだ後、口の中にふわっと甘い後味が薫るのです。
最初に試しに飲んでみて、あまりに気に入ったので、5本くらいまとめ買いしたのですが…
残念ながら、その後この商品を一切見かけていません…。
ちなみに購入したのは、地元のディスカウントストアですが、他では見たことのない商品(知らないメーカーの商品など)がよく並んでいる店です。
また買いたいので、普通にスーパーやコンビニの店頭にも並んでいて欲しいのですが…。
最近、無糖紅茶が増えてきて
うれしいです。
個人的イチオシは
セブンイレブンのPBのアールグレイ。
午後TEAはリニューアル前の方が好きだったかも…#無糖紅茶#コーヒーより紅茶派#糖分気にするけど人工甘味料も避けたい派 pic.twitter.com/RtDUhIzzO8
— 津籠 睦月【つごもり むつき(※HN)】 (@mutsukitsugomor) April 7, 2019
最近、また新たな「お気に入り」と出逢ってしまいました。
ポッカサッポロさんの「知覧かごしま紅茶」です。
この紅茶、無糖なのですが、なぜか「甘く感じる」のです。
飲んだ後、口の中にふわっと甘い後味が薫るのです。
最初に試しに飲んでみて、あまりに気に入ったので、5本くらいまとめ買いしたのですが…
残念ながら、その後この商品を一切見かけていません…。
ちなみに購入したのは、地元のディスカウントストアですが、他では見たことのない商品(知らないメーカーの商品など)がよく並んでいる店です。
また買いたいので、普通にスーパーやコンビニの店頭にも並んでいて欲しいのですが…。
数年前から、ウェブ小説の告知用にツイッターを利用しています。
しかし、実際に利用してみてビックリすることが数多くあります。
そのうちの1つが「ニセモノ」「非公式」の多さです。
初心者のうちって、「興味のある有名人のツイートをとりあえず見てみよう」とかって思いますよね?
しかし、その有名人の名前をツイッターで検索してみると…
同じ名前で、しかもアイコンまでご本人の画像が使われたアカウントがズラッと表示されるのです。
最初に見た時は本当に「怖…っ」と思いました。
そして「その人の名前のアカウントだったとしても、すぐには信じないようにしよう」と心に決めたのです。
アニメや小説などの「コンテンツ」にしても同じです。
アカウントがその名前で、アイコンまで公式の絵が使われていても「公式」だとは限らないのです。
本物とニセモノ、公式と非公式を見分けるひとつの目安が、ツイッターの「認証バッジ」…いわゆる公式マークです。
ツイッターの運営さんに公式だと認証されると、青い水たまりのような丸にチェックマークの付いた印が、名前の横に付くわけですが…
全ての有名人がこれを獲得できているわけではありません。
(また、「なんちゃって認証マーク」が存在するという話も、ネット上で目にします。)
なので、自分は「公式」を探すために、ある方法をとっています。
まずひとつは「1人の公式からフォローをたどっていく」方法です。
とりあえず1人、認証バッジが付いていて、ツイートの内容やその他もろもろから「これは確実にご本人」と確信できるアカウントを見つけます。
そして、その人が「フォローしている人」のリストの中から、次の「ご本人」を探し出すのです。
(フォローしている人のリストは、ツイッターのアカウントを持っていてログイン状態でないと見られません。)
たとえばお笑いコンビの片方を見つけたなら、その方がフォローしている相方が「ご本人」です。
中には膨大な数の人をフォローしていて「そこから人を探すなんてムリ」という場合や、上手く「つながり」がなくて辿り着けない方もいたりしますが…。
それと、コンテンツや企業の「公式」を探す場合には、まず公式Webサイト(ホームページ)を探し、そこに掲載されているアカウントを見るようにしています。
中にはレイアウトがゴチャついていて、どこにそれがあるのか分からないサイトもあったりするのですが…。
しかし、実際に利用してみてビックリすることが数多くあります。
そのうちの1つが「ニセモノ」「非公式」の多さです。
初心者のうちって、「興味のある有名人のツイートをとりあえず見てみよう」とかって思いますよね?
しかし、その有名人の名前をツイッターで検索してみると…
同じ名前で、しかもアイコンまでご本人の画像が使われたアカウントがズラッと表示されるのです。
最初に見た時は本当に「怖…っ」と思いました。
そして「その人の名前のアカウントだったとしても、すぐには信じないようにしよう」と心に決めたのです。
アニメや小説などの「コンテンツ」にしても同じです。
アカウントがその名前で、アイコンまで公式の絵が使われていても「公式」だとは限らないのです。
本物とニセモノ、公式と非公式を見分けるひとつの目安が、ツイッターの「認証バッジ」…いわゆる公式マークです。
ツイッターの運営さんに公式だと認証されると、青い水たまりのような丸にチェックマークの付いた印が、名前の横に付くわけですが…
全ての有名人がこれを獲得できているわけではありません。
(また、「なんちゃって認証マーク」が存在するという話も、ネット上で目にします。)
なので、自分は「公式」を探すために、ある方法をとっています。
まずひとつは「1人の公式からフォローをたどっていく」方法です。
とりあえず1人、認証バッジが付いていて、ツイートの内容やその他もろもろから「これは確実にご本人」と確信できるアカウントを見つけます。
そして、その人が「フォローしている人」のリストの中から、次の「ご本人」を探し出すのです。
(フォローしている人のリストは、ツイッターのアカウントを持っていてログイン状態でないと見られません。)
たとえばお笑いコンビの片方を見つけたなら、その方がフォローしている相方が「ご本人」です。
中には膨大な数の人をフォローしていて「そこから人を探すなんてムリ」という場合や、上手く「つながり」がなくて辿り着けない方もいたりしますが…。
それと、コンテンツや企業の「公式」を探す場合には、まず公式Webサイト(ホームページ)を探し、そこに掲載されているアカウントを見るようにしています。
中にはレイアウトがゴチャついていて、どこにそれがあるのか分からないサイトもあったりするのですが…。
今の時代を見ていて不思議に思うのが「『意見の否定=その人の存在自体の否定』になっていないか?」ということです。
自分にとって「気に食わない意見」を持つ相手のことを、罵倒し、侮辱し、人格否定し、まるでこの世から葬り去ろうとでもするように徹底的に攻撃する…そんなことが、世の中に溢れている気がするのです。
でも「相手の意見を否定すること」と「相手の存在自体を否定すること」は決してイコールではありませんよね?
なぜ、そこを「一緒くた」にし、しかも、そのことに何の疑問も抱かずにいるのか…。
その「なぜ」の「答え」として、ひとつ推測しているのは、「感情に目がくらんで、『意見の否定』と『人格否定』を分けて考えることができなくなっているのではないか」ということです。
相手の意見に「怒り」や「不快」などの「負の感情」が刺激された結果、自分の言動が「意見の否定」という次元を遥かにオーバーし、「人格の否定」にまで至ってしまっていることに気づけない…
あるいは、気づいていても、無意識のうちにそれを「正当化」し、自分の感情を満足させることの方を優先させてしまう…
つまり「自分の言動を冷静に顧みることができない」「自分を律することができていない」ことが原因なのではないかと…。
あるいは、そもそも今の社会の中に「意見を戦わせる上で、相手の人格を攻撃しても構わない」という、誤った共通認識が育まれてしまっているのではないか、と…。
自分と対立する意見の相手は、存在自体を認めないと言うなら、そもそも「議論」そのものが成り立ちません。
それは「議論」ではなく、ただ自分の意見を周りに「押し付ける」ための場でしかありません。
たとえ自分とは反対の意見だったとしても、自分にとって「気に食わない」意見だったとしても、まずは「耳を傾ける」――それが、「議論」というものの「最低限」のルールのはずなのですが…その「最低限」ができていない人が多過ぎる、ということなのでしょうか?
そもそも、なぜそんなにも「自分の意見を通したがる」のか、自分の目からすると、そこからして不可解でなりません。
他人の存在を否定してまで自分の意見を通して――その意見が間違っていた場合、自分も他者も皆まとめて破滅するリスクがあるわけですが(そしてその場合、その破滅に対する「責任」が否応なく発生するわけですが)…そこの所は考えていない、ということなのでしょうか?
議論とはそもそも、多様性のある意見を集めることで、「ひとりの人間の視点」だけでは見出せない問題解決法を導き出すためのものだと思っていたのですが…そう思っていない(自分の意見を通す場とだけ考えている)人間が多いということなのでしょうか?
思えば我々は、義務教育の中できちんとした「議論の方法」を学んではいません。
「学級会」や「ホームルーム」で何かを決める際は、結局「多数決」で終わってしまい、「意見の調整」「意見のすり合わせ」「対立意見の妥協点を見出す」などは一切見られなかったように思います。
それゆえ、大人になってからも、そんな「多数決の勝ち負け」で全てを考えてしまうのでしょうか?
自分の意見が勝てばそれで良いと、そこで思考を止めてしまい、その結果、少数派がどうなるかについては一切思いをめぐらせないのでしょうか?
むしろ、勝者の権利とばかりに、敗者を徹底的に足蹴にしようとするのでしょうか?
推測はあくまで推測でしかありませんので、実際のところは分かりません。
しかし、もし「そう」なのだとしたら…今の世の中の様々な問題、そして「生きづらさ」の根本は、そこにあるのかも知れません。
自分にとって「気に食わない意見」を持つ相手のことを、罵倒し、侮辱し、人格否定し、まるでこの世から葬り去ろうとでもするように徹底的に攻撃する…そんなことが、世の中に溢れている気がするのです。
でも「相手の意見を否定すること」と「相手の存在自体を否定すること」は決してイコールではありませんよね?
なぜ、そこを「一緒くた」にし、しかも、そのことに何の疑問も抱かずにいるのか…。
その「なぜ」の「答え」として、ひとつ推測しているのは、「感情に目がくらんで、『意見の否定』と『人格否定』を分けて考えることができなくなっているのではないか」ということです。
相手の意見に「怒り」や「不快」などの「負の感情」が刺激された結果、自分の言動が「意見の否定」という次元を遥かにオーバーし、「人格の否定」にまで至ってしまっていることに気づけない…
あるいは、気づいていても、無意識のうちにそれを「正当化」し、自分の感情を満足させることの方を優先させてしまう…
つまり「自分の言動を冷静に顧みることができない」「自分を律することができていない」ことが原因なのではないかと…。
あるいは、そもそも今の社会の中に「意見を戦わせる上で、相手の人格を攻撃しても構わない」という、誤った共通認識が育まれてしまっているのではないか、と…。
自分と対立する意見の相手は、存在自体を認めないと言うなら、そもそも「議論」そのものが成り立ちません。
それは「議論」ではなく、ただ自分の意見を周りに「押し付ける」ための場でしかありません。
たとえ自分とは反対の意見だったとしても、自分にとって「気に食わない」意見だったとしても、まずは「耳を傾ける」――それが、「議論」というものの「最低限」のルールのはずなのですが…その「最低限」ができていない人が多過ぎる、ということなのでしょうか?
そもそも、なぜそんなにも「自分の意見を通したがる」のか、自分の目からすると、そこからして不可解でなりません。
他人の存在を否定してまで自分の意見を通して――その意見が間違っていた場合、自分も他者も皆まとめて破滅するリスクがあるわけですが(そしてその場合、その破滅に対する「責任」が否応なく発生するわけですが)…そこの所は考えていない、ということなのでしょうか?
議論とはそもそも、多様性のある意見を集めることで、「ひとりの人間の視点」だけでは見出せない問題解決法を導き出すためのものだと思っていたのですが…そう思っていない(自分の意見を通す場とだけ考えている)人間が多いということなのでしょうか?
思えば我々は、義務教育の中できちんとした「議論の方法」を学んではいません。
「学級会」や「ホームルーム」で何かを決める際は、結局「多数決」で終わってしまい、「意見の調整」「意見のすり合わせ」「対立意見の妥協点を見出す」などは一切見られなかったように思います。
それゆえ、大人になってからも、そんな「多数決の勝ち負け」で全てを考えてしまうのでしょうか?
自分の意見が勝てばそれで良いと、そこで思考を止めてしまい、その結果、少数派がどうなるかについては一切思いをめぐらせないのでしょうか?
むしろ、勝者の権利とばかりに、敗者を徹底的に足蹴にしようとするのでしょうか?
推測はあくまで推測でしかありませんので、実際のところは分かりません。
しかし、もし「そう」なのだとしたら…今の世の中の様々な問題、そして「生きづらさ」の根本は、そこにあるのかも知れません。
就職活動で「自己分析」を経験した方、結構いらっしゃると思います。
自分の長所・短所を見つめ直し、面接で上手くPRできるように、自分自身について分析をするわけですが…
社会人になった今にして思うと、学生時代にやった「自己分析」は、まるで「なっていなかった」と感じます。
「自己分析」という字面からして、「自分自身」だけを分析すれば良いような気がしてしまいますが…
本当の意味で「自分自身を知る」には、「自分を知っている」だけでは駄目なのです。
知らなければならないのは「自分と他人との違い」です。
他人と比べて自分が勝っているものは何か、そして逆に劣っている部分は何なのか…。
そしてそんな「自分と他人との違い」を知るには、過小評価でも過大評価でもない「リアルで正確な他人の姿」を知らなければならないのです。
自己評価をする際、無意識のうちに他人の能力を低く見積もり、「自分はこんなにスゴいんだ」と偉ぶったりはしていませんか?
あるいは逆に、自分が周りと比べてひどく劣っているような気がして、委縮したりはしてしませんか?
他人の姿を色眼鏡無しに真っ直ぐ見つめるということは、そんなに簡単なことではないのです。
そもそも「自分から見える他人の姿」は、その人のほんの一部分――“氷山の一角”でしかありません。
実はとてつもない能力を隠し持っているかも知れませんし、逆に見栄を張って自分を大きく見せようとしているかも知れません。
そんな「目には見えない部分」も考慮した上で、他人と自分との「違い」を見つめていかなければなりません。
正直、非常に難しく、社会人になった今でも、ちゃんとできるかどうか、自信はありません。
しかし、他人を知り、自分を知るということは、就職活動のみならず、人生を生きる上でも非常に役立ちます。
就職活動のためだけのものと思わず、人生のふとした場面で、自己分析してみるのはいかがでしょうか。
自分の長所・短所を見つめ直し、面接で上手くPRできるように、自分自身について分析をするわけですが…
社会人になった今にして思うと、学生時代にやった「自己分析」は、まるで「なっていなかった」と感じます。
「自己分析」という字面からして、「自分自身」だけを分析すれば良いような気がしてしまいますが…
本当の意味で「自分自身を知る」には、「自分を知っている」だけでは駄目なのです。
知らなければならないのは「自分と他人との違い」です。
他人と比べて自分が勝っているものは何か、そして逆に劣っている部分は何なのか…。
そしてそんな「自分と他人との違い」を知るには、過小評価でも過大評価でもない「リアルで正確な他人の姿」を知らなければならないのです。
自己評価をする際、無意識のうちに他人の能力を低く見積もり、「自分はこんなにスゴいんだ」と偉ぶったりはしていませんか?
あるいは逆に、自分が周りと比べてひどく劣っているような気がして、委縮したりはしてしませんか?
他人の姿を色眼鏡無しに真っ直ぐ見つめるということは、そんなに簡単なことではないのです。
そもそも「自分から見える他人の姿」は、その人のほんの一部分――“氷山の一角”でしかありません。
実はとてつもない能力を隠し持っているかも知れませんし、逆に見栄を張って自分を大きく見せようとしているかも知れません。
そんな「目には見えない部分」も考慮した上で、他人と自分との「違い」を見つめていかなければなりません。
正直、非常に難しく、社会人になった今でも、ちゃんとできるかどうか、自信はありません。
しかし、他人を知り、自分を知るということは、就職活動のみならず、人生を生きる上でも非常に役立ちます。
就職活動のためだけのものと思わず、人生のふとした場面で、自己分析してみるのはいかがでしょうか。
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管理人プロフィール
- 【HN(ハンドル・ネーム)】
- 津籠睦月(つごもりむつき)
- 【職業】
- 社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
- 【趣味】
- 小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
- 【好きな小説ジャンル】
- ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
- 【備考】
- 漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
ブログ更新&チェックについて。
このブログは管理人に時間の余裕がある時にちょこっとずつ更新していく予定ですので、更新やチェックの頻度はおそらく数週間に1回~下手をすると1ヶ月以上の間が空いてしまう可能性も…。
もし更新が滞ったても「あぁ、仕事が忙し過ぎて時間が無いんだな」と気長にお待ちいただければ幸いです。
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