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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
この頃、どうにも世の中がギスギスして息苦しい…
 
それが何故なのか考えてみた時、ひとつ「これが原因なのでは?」と思い当たるものがありました。
 
もちろん、原因は1つではなく、複数の要因が複雑に絡み合って「世の空気」を悪くしているのでしょうが…。

全部を挙げていくと大変なことになるので、ここではとりあえず1つの説だけ取り上げています。
 
 
それはズバリ「全肯定しか許さないマン」が増えていることです。
   
異論や疑問を極端に嫌う「全肯定しか許さない」人々

 
SNSや動画のコメント欄では、意見の違うユーザー同士がバチバチに火花を散らし合っている様がよく見受けられます。
 
こういった「意見の対立」自体は、古くから…それこそネットができる前からよくあることでしょうし…
 
「人間が大勢生きていれば、どうしても起きてしまう宿命」ですので、どうしようもないことではあるのですが…
 
最近どうにも気になっているのは、それが「議論」を生まずに、ただ意見の違う相手を「非難し合う」だけで終わっていることです。
 
中にはちゃんと「その意見に至った理由」を述べて、相手を「納得」させようと試みている方もいらっしゃいますが、数はそんなに多くない印象ですね(そもそも言語化能力が高くないと無理なことですので、そういう意味でも数が少なくなってしまうのかも知れませんが)…。
 
むしろ最近は「非難する」どころか、相手を貶め、嘲笑するだけのコメントも多いですよね…。
 
嫌な(いじめ等やらかす系の)小学生男子ノリを感じてビミョウな気持ちになるのですが…まぁ、匿名性の高いネット世界だと、もしかしたら本当に低年齢なユーザーが書いている可能性も無いわけではないですよね…。
 
最近のSNSや様々なメディアを見ていると、どうも「自分の推しているモノに少しでも文句を言う奴は許さない」「疑問を持つことさえ許さない」「異論は認めない」という感じで「全肯定しか認めない」人々が増えているように見えます。
 
「違う意見」が出てくると、即座に反論して叩き潰そうとしていく…
 
そうやって「疑問」や「異論」を圧力で封殺しようとするムーブが、様々なところで起きているように見受けられるのです。
 
「全肯定しか許さない」人々は、そうやって「自分の好きなもの」を「守りたい」のでしょうが…
 
それが逆に、その「好きなもの」のイメージダウンに繋がってしまっている例も、現実にはよくあります。
 
いわゆる「ファンの民度が低いから」嫌になってしまうパターンです。
 
もちろん、ファンはあくまでファンで、その人々が推しているコンテンツなりアーティストなりとは「別物」なのですが…
 
それを切り離して考えることができず、「空気が悪いから去っていく」という人々は、確実に存在するのです。
 
…まぁ、それでそのコンテンツなりアーティストなりの人気がなくなったとしても、「全肯定しか許さないマン」たちは「最初に異論を言ってきた方が悪い」と言うのかも知れませんが…。
 
「全肯定しか許さない」が異論の「全否定」に繋がってしまう
 
「全肯定しか許さない」の何が悪いのかと言うと、それがそのまま相手の意見の「全否定」になっているから、なのです。
 
反対側の立場に立って考えてみれば分かると思うのですが…
 
自分の言うことを、頭ごなしに「それは駄目だ」と否定されたら、ムッとしますよね?
 
一旦意見を聞いた上で「こういう理由があるから、それは違うんだ」と言われるならまだしも…聞く耳も持たずに拒絶されれば、嫌な気持ちになりますよね?
 
拒絶された本人も不満を抱くでしょうし、時には傍でそれを見ていた人が「それはひどい」「その言い方はあんまりなんじゃないか」と口を出してくることもあるでしょう。
 
「全肯定しか許さないマン」の反論で対立が激化しやすいのは、おそらく、そういうことなのではないでしょうか?
 
そしてさらに問題をややこしくするのが、「異論」や「疑問」を意見する人の中にも「自分の意見には全肯定しか許さない」という人がいることです…。
 
「全肯定しか許さない」VS「全肯定しか許さない」は、当然「平行線」にしかなりません。
 
つまり問題は「相手の意見に耳を傾ける」ということが「できていない」人だらけなのがマズい…ということなんですよね…。
 
「異なる意見」を「攻撃」と捉える人々の過剰反応
 
なぜ昨今は「相手の意見を聞けない」人が増えているのか…
 
原因は、自分と異なる意見を「攻撃」と受け止め、過剰反応してしまう人が多いからかと思われます。
 
あるいは「自分の好きなもの」「自分の意見」が「認められない」「受け入れられない」こと自体を「攻撃」と受け取る人も増えているのではないかと…。
 
世の中には様々な種類の人間がいて、そこには必ず自分とは「異なる」意見の人もいます。
 
自分とは真逆の趣味嗜好を持っていて、自分の「好きなもの」を好きになってくれない人もいます。
 
それが「多様性」ですし、個人でどうこうできるものではない「この世の理」なのですが…
 
まず、そこからして理解できず「なんでこの意見が通らないんだ!?」「ひどい!」「攻撃された!」となってしまっている人が多いように見えるのです。
 
この構図、もっと単純化して見てみれば、どういうことなのかすごく分かりやすいと思うんですけどね…。
 
たとえば世の中、納豆が好きな人もいれば、嫌いな人もいます。
 
好きな人は「健康にも良くて、おいしくて、こんな最高な食べ物、他に無い!」くらいに言うかも知れませんが…
 
嫌いな人は「匂いだけでもう無理。ネバネバしてるのもキモチワルイ」と拒否してくることでしょう。
 
どうしても受け付けない人に、無理に納豆を勧めても嫌われるだけです。
 
納豆推しの人だって「こんなに美味しいのに勿体ない」と思いこそすれ「納豆を認めないなんて許せない!」とはならないのではないでしょうか?
 
なのに、なぜ「意見」や「推しのコンテンツorアーティスト」では皆が意固地になってしまうのか…
 
それはおそらく無意識のうちに、自分の「意見」や「推し」を「絶対視」してしまっているからではないでしょうか?
 
食べ物の好き嫌いのように「そりゃ好きな人もいれば嫌いな人もいるよね」という方向へ行けず、「みんな絶対これを好きになるはず」「これを嫌いになるなんて頭おかしい」という方向に、思考が「歪んで」しまっているのではないかと…。
 
よく「恋は盲目」と言いますが、それと似た形で、何かが「見えなくなってしまっている」のではないでしょうか?
 
…まぁ、中には「分かっていて」それでも「自分の意見が通らないなんて嫌だ!」という我の強い人もいるのでしょうけど…。
 
あと、現代社会が既に誹謗中傷だらけの「ストレス社会」になってしまっていることも一因なのかも知れないな…と。
 
SNS等あちこちで「他者をディスる」発言が散見され、人々がナーバスになってしまっているため、「ディスり」の意図の無い発言さえも「攻撃」と思い込み、過敏に反応してしまうのではないかと。
 
言葉は意外と感情や本心を伝えにくいもので、「読み手」の読み取り方次第なところもあるので…。
 
(だからスタンプや絵文字など「感情を補助」して「誤解を生まない」ためのツールがあるのでしょうけど…。なぜかこの便利機能「古い」というだけで使われなくなってきていますよね?絵文字発祥の日本より、最近はむしろ海外でよく使われている印象があります。何故なんでしょうね…?)
 
「他人の意見の受け止め方」を知らない人々
 
好きなものを否定されれば、誰だって気分が悪くなります。
 
なので、それを否定してくる人の発言になど一切耳を貸したくない…そう思ってしまうのは、ごく当たり前な「感情」です。
 
ですが、それをそのまま「感情」で返せば、ただ醜い争いが生まれるだけです。
 
自分が人生でたびたび思い巡らせるテーマのひとつに「頭の良い人と、そうでない人との違いは何なのか?」があるのですが…
 
個人的に思っている1つの「答え」が、「頭の良い人は“自分にとって気分の良くない意見”にも、ちゃんと耳を傾ける」ということです。
 
たとえ自分の好きなモノを否定する意見であったとしても…
 
自分の信じてきたものを揺るがすような発言であったとしても…
 
端からシャットアウトすることはせず、「この意見は正しいのだろうか?」「何を根拠にこの考えに至ったのだろうか?」を考えるのです。
 
逆に「中途半端に頭の良い人」がやらかしがちなミスに「『自分の意見は正しいのだから、必ず受け入れてもらえる』と信じ込んでしまう」ことがあります。
 
「正論が常に受け容れられるとは限らない」は、よく言われることですが…
 
そもそも人は上にも書いたように「自分にとって気分の良くない意見」には心を閉ざしてしまうものなのです。
 
相手の意見を正論で論破したとしても、ただ一時的に憂さが晴れるだけで、相手からは恨みを買うばかり。納得も何も得られない可能性は高いです。
 
本気で相手を説得したいなら、まずはその相手がどういう人なのか――どういう人物で、どういう背景があってその思考・発言に至ったのか――それを見極め、相手の心に確実に刺さる言葉を選ばなければなりません。
 
…ですが、どうも世の中「感情をぶつける」だけで気が済んでしまう人が多いようで…
 
結果、ただ互いに傷つけ合うばかりで、建設的な議論も妥協点を見出すことも、何もできずに終わってしまっているんですよね…。
 
1つ、推測していることがあるのですが…
 
否定的な意見や異論を受け止められない人って、「それに耳を貸すだけで、それを認めたことになってしまう」と思い込んではいないでしょうか?
 
「理解」し「分析」することと、それを「肯定」し「認める」こととは別物なのですが…
 
そこをゴッチャにして「全否定」「全拒絶」してしまっている人が多いのではないかと。
 
否定派の意見や異論を聞く時に大事な心構えは「へぇ~。世の中にはそういう意見もあるんだな」の姿勢です。
 
肯定するでもなく否定するでもなく「有るものは有る」と、ありのままに認めることです。
 
そこからして拒絶して目をつぶったところで、否定的意見も異論もなくなりはしません。
 
大切なのは、異なる意見が多様に存在するこの世界で、どうやってバランスを取っていくのかということ。
 
相手の意見を封殺することでも、多数決で押し潰すのでもなく、どう妥協点を見つけて意見を調整していくか、なのです。
 
「全肯定」が「妄信」に繋がるリスク
 
自分が「自分にとって気分の良くない意見」にも耳を傾けるのは、自分の好きなものを「全肯定」することが「妄信」に繋がりかねないことを知っているからです。
 
物事には何でも良い面と悪い面があります。
 
それなのに「全部を肯定する」ということは、悪い面から目を逸らし、弱点を弱点のまま放置するということです。
 
その弱点は、いずれ全体を蝕む病巣ともなりかねません。
 
早い段階で気づいて処置できれば、その弱点をも克服し、全体的にもっとレベルを上げられるかも知れないのに…
 
「妄信」は成長の機会を奪い、なくせたはずのリスクを「そのまま」にしてしまうのです。
 
(人間関係でも、周りが「イエスマン」ばかりだと良くないと言いますよね?)
 
「妄信」というものがどれほど恐ろしいかは、歴史の数々が物語っています。
 
だから自分は、自分の「好きなもの」「大事なもの」にこそ、必ず「疑問の目」を向けるようにしています。
 
「疑い」は、必ずしもネガティブな感情ではありません。
 
疑って、弱点や欠点に気づいても、それを「好きなまま」でいることはできるのです。
 
…むしろ「全肯定」しかできない人というのは、弱点や欠点に「気づかされて」しまったら、「好きの気持ち」が消えていってしまう愛の薄い人々なのでしょうか?
 
「好きなもの」でも全部を全部「肯定」する必要はありませんし、「嫌いなもの」「意見の合わないもの」でも、全部を全部「否定」する必要は無いのです。
 
…どうにも今の世の中、そういう「分けて考える」ことができない不器用な人が多そうですよね…。
 

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津籠睦月(つごもりむつき)
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小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
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