日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
自分は子どもの頃から「他の人は何とも思わない、ごく普通の景色」に「見惚れる」ことが多くあります。
むしろ、ガイドブックに紹介されているような「美景」「絶景」には感動して写真を撮りまくったりするのに、日常の中に潜んだ「ふとした美しさ」には無頓着な人たちを、不思議に思ったりもしてきました。
窓辺に舞う塵だって光に当たれば七色に輝いて見えますし、毎日の通学・通勤風景の中にだって、季節によって移り変わる“その時だけの美しい景色”が混ざっていたりします。
むしろ、ガイドブックに紹介されているような「美景」「絶景」には感動して写真を撮りまくったりするのに、日常の中に潜んだ「ふとした美しさ」には無頓着な人たちを、不思議に思ったりもしてきました。
窓辺に舞う塵だって光に当たれば七色に輝いて見えますし、毎日の通学・通勤風景の中にだって、季節によって移り変わる“その時だけの美しい景色”が混ざっていたりします。
「珍しくもない、ありふれたもの」だからと言って、「それを綺麗だと思ってはいけない」という法など無いはずですし、美しいものをたくさん見つけられれば、それと同じ数だけ、心が幸せを感じます。
だから、普段から“自分を取り囲む世界”に目を向け、1つでも多くの綺麗な景色・面白い景色を見つけようと、心の感度を鋭くしているのです。
そうして物心ついた頃からずっと「身の回りの綺麗な景色」を探し続けてきた結果、時々「自分はもしかして、他人より幸福な人生を送ってきたのではないか」と思うことがあります。
人生の軌跡を振り返れば、あと数歩で死んでいたようなことも何回かあれば(←過去の記事をご参照ください)、小学生の時にはいじめに遭ったりもしていたわけですが(←同じく、過去の記事をご参照ください)、過去を振り返ると、頭の中には、“それでも美しかった世界の記憶”が残されているのです。
通学路の川が、雨の日には、水面にレースのように繊細な波紋をいくつも描いて美しかったこと。
黄色い傘に当たる雨の音が「ぱりぱり」と心地よくて好きだったこと。
それらが、ただ単に景色や音の情報だけでなく、その時の「綺麗」「好き」という気持ちと一緒に記憶されているのです。
それは思い出すたびに、その時の「綺麗」や「好き」の気持ちを蘇らせて、心をほんのり幸せにしてくれます。
「幸福は心の持ち方次第」ということはよく言われていますが、その「心の持ち方」の具体的な方法の1つが、この「日常の中にたくさんの“綺麗”や“好き”を見つけること」なのではないかと思います。
世の中、嫌なことはたくさんありますし、気分が沈むこともよくあります。
でも、毎日の何気ない暮らしの中に、ちょこちょこ“綺麗なもの”“好きなもの”を発見し、それを見ている時・感じている時くらいは、その嫌なことを忘れて、心をほっこりさせていったら良いのではないかと思います。
そうして毎日毎日、少しずつでも“綺麗なもの”“好きなもの”の記憶を増やしていけば、それはきっと、自分の心の財産になる気がするのです。
ふと人生に疲れて過去を振り返った時、嫌なものの記憶しか無いより、そこに綺麗なものや好きなものの記憶がたくさん混じっていてくれた方が、きっと幸せの可能性は高くなります。
それに、そうやって脳にせっせと貯め込んだ“好き”の記憶は、お金などの目に見える財産(電子マネーは目に見えないですけど、ここでは置いておきます。)と違って、他人に奪われることはないのです。
「何のために生きているのか分からない」という言葉も、ちょくちょく世間で耳にしますが、自分はよく「この景色を見るためだけに生きているのだとしても、いいかなー」などと思ったりします。
今、目に映る空が綺麗だから。今、ここにいる猫が可愛いから。今、食べているゴハンがおいしいから。
そんなささやかな好きや幸せを日々感じるために生きている――それだけでもいいじゃないか、大層な“生きる意義”なんて見つからなくてもべつにいいんじゃないか…
そんな風にフワッと生きているからこそ、自分はきっと、他の人なら死ぬほど悩むような目に遭っても、それほど悩むことなく済んでいるのではないかと思うのです。
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「自分を信じろ」「自分を信じることが大事」といった言葉が、この世の中には溢れていますが、「“何を”“どう”信じれば良いのかもハッキリさせないまま、ただ闇雲に“信じろ”ばかり言うのはどうなんだろう?」と、自分はよく疑問に感じてきました。
世の中には「盲信」という言葉もありますし、何の根拠もなく闇雲に自分を信じた挙句、目論見が外れて人生に絶望してしまったらどうするのだろう…と。
そもそも、自分の中に“信じるべきもの”“信じるに値するもの”なんてあるのだろうか――学生時代の自分なら、まずそんな風に思っただろうと思います。
ですが最近、何となく分かってきたことがあります。
「自分の中に信じられる何かが無いなら、それをこれから創っていけばいい」のだと…。
そして、そうやって自ら創り上げたモノは、初めからフワッと存在していたスペックや、他人からの気まぐれな評価などよりも、よほど「信じるに値するもの」なのだと。
自分にとっての“それ”は「挑戦すること」でした。
「コレって無理なんじゃないか」「できるわけない」と“自分で”思えるような「ちょっと難しめのミッション」を自らに課し、それを乗り越えることです。
ポイントは、それが「達成できればスゴイ」と“偽りなく”“本気で”思える難易度のものであること、です。
(もちろん、どんなにスゴくても、悪いことや他人に迷惑をかけることではダメですが。それと、設定するミッションは、できれば形や数値など、客観的に目に見える成果が出るものなら尚良いかと思います。)
それは何も「達成するために特別な能力が必要」なものでなくても良く、「日記を毎日、1年間つけ続ける」といった「コツコツ・継続型」のものでも良いのです。
人間、ただボンヤリ「こんなこと出来るわけない」と思っているだけでは、それを達成することなどたぶん永遠にできませんが、いざ「これを実現しよう」という目的意識を持ち、それを達成するための具体的な方法を考え始めれば、脳細胞が活性化して思わぬ能力を発揮したりするものです。
(うろ覚えですが、目標を持たせたマウスは脳の神経細胞が5倍になったという実験の話を、以前TVで見ました。)
そうして設定したミッションがクリアできたなら、そのことを自分の“自信の源”“自分で自分を肯定するための材料”にしていけばいいのです。
「俺、あんなに難しいミッションを乗り越えてきたじゃないか」「あのミッションだって、最初は『絶対ムリだ』って思ってたのに、結局クリアできたんだ。今度だって、きっと乗り越えられる」といった風に…。
ここであの「“偽りなく・本気で”難しいと思える」というポイントが効いてきます。
“自分自身”の感覚で「これは難しいだろう」と思ったことを“達成”できたなら、それは自然と「これが達成できた自分はすごい」という自信に繋がります。
逆に、妥協して、それほど難しくないミッションをクリアしたところで、心の奥底では「こんなの難しくない」と思っているので、大した自信には繋がりません。
それに、そうやって「自分が本気で難しいと思っていたこと」に挑戦して、達成できたという“事実”は「揺らがない」のです。
たとえば他人の評価なら、相手次第や“時と場合”次第でコロコロ変わることも有り得ますし、運が良かったり、まぐれで獲得した好成績や高評価は、やはり運やまぐれ次第でアッサリ失われることも有り得ます。
しかし、過去の出来事・客観的事実が覆ることはありません。
そして、そんな「揺らがない」「ブレない」自信の源が自分の中にあるなら、他人の評価に怯えることもなく、他人からの称賛や承認が得られないからと言ってイライラすることもないのです。
(まぁ、あまり“過去の成果”にこだわり続けるのも、それはそれで良くないので、定期的に新しいミッションをこなしていくべきかとは思いますが…。)
そして、そうやって自分の中に揺るぎない“核”のようなものができたなら、以前記事にしたように「自分で自分を否定する」ことも恐くなくなるのではないかと思うのです。
自分を否定したくないばかりに、根拠もなく何かを信じたり、それを他人にも押しつけたり、否定されるのではないかと怯えて相手を攻撃したり――それは結局は、目を曇らせてしまったり、他人のヒンシュクを買ってしまったり、自分自身を傷つける結果になってしまうのではないかと思います。
自分で自分を“健全に”否定できるようになれば、他人から否定されること対しても「まぁ、そういうこともあるよな」という感じで、ある程度はフワッと受け止められるようになります。
…と言うか、“こちらのことなどほとんど知らない他人”からの否定などより、“自分自身のことならほとんど知っている”自分自身からの否定の方が、きっとよほど「痛い」ですから…。
世の中には「盲信」という言葉もありますし、何の根拠もなく闇雲に自分を信じた挙句、目論見が外れて人生に絶望してしまったらどうするのだろう…と。
そもそも、自分の中に“信じるべきもの”“信じるに値するもの”なんてあるのだろうか――学生時代の自分なら、まずそんな風に思っただろうと思います。
ですが最近、何となく分かってきたことがあります。
「自分の中に信じられる何かが無いなら、それをこれから創っていけばいい」のだと…。
そして、そうやって自ら創り上げたモノは、初めからフワッと存在していたスペックや、他人からの気まぐれな評価などよりも、よほど「信じるに値するもの」なのだと。
自分にとっての“それ”は「挑戦すること」でした。
「コレって無理なんじゃないか」「できるわけない」と“自分で”思えるような「ちょっと難しめのミッション」を自らに課し、それを乗り越えることです。
ポイントは、それが「達成できればスゴイ」と“偽りなく”“本気で”思える難易度のものであること、です。
(もちろん、どんなにスゴくても、悪いことや他人に迷惑をかけることではダメですが。それと、設定するミッションは、できれば形や数値など、客観的に目に見える成果が出るものなら尚良いかと思います。)
それは何も「達成するために特別な能力が必要」なものでなくても良く、「日記を毎日、1年間つけ続ける」といった「コツコツ・継続型」のものでも良いのです。
人間、ただボンヤリ「こんなこと出来るわけない」と思っているだけでは、それを達成することなどたぶん永遠にできませんが、いざ「これを実現しよう」という目的意識を持ち、それを達成するための具体的な方法を考え始めれば、脳細胞が活性化して思わぬ能力を発揮したりするものです。
(うろ覚えですが、目標を持たせたマウスは脳の神経細胞が5倍になったという実験の話を、以前TVで見ました。)
そうして設定したミッションがクリアできたなら、そのことを自分の“自信の源”“自分で自分を肯定するための材料”にしていけばいいのです。
「俺、あんなに難しいミッションを乗り越えてきたじゃないか」「あのミッションだって、最初は『絶対ムリだ』って思ってたのに、結局クリアできたんだ。今度だって、きっと乗り越えられる」といった風に…。
ここであの「“偽りなく・本気で”難しいと思える」というポイントが効いてきます。
“自分自身”の感覚で「これは難しいだろう」と思ったことを“達成”できたなら、それは自然と「これが達成できた自分はすごい」という自信に繋がります。
逆に、妥協して、それほど難しくないミッションをクリアしたところで、心の奥底では「こんなの難しくない」と思っているので、大した自信には繋がりません。
それに、そうやって「自分が本気で難しいと思っていたこと」に挑戦して、達成できたという“事実”は「揺らがない」のです。
たとえば他人の評価なら、相手次第や“時と場合”次第でコロコロ変わることも有り得ますし、運が良かったり、まぐれで獲得した好成績や高評価は、やはり運やまぐれ次第でアッサリ失われることも有り得ます。
しかし、過去の出来事・客観的事実が覆ることはありません。
そして、そんな「揺らがない」「ブレない」自信の源が自分の中にあるなら、他人の評価に怯えることもなく、他人からの称賛や承認が得られないからと言ってイライラすることもないのです。
(まぁ、あまり“過去の成果”にこだわり続けるのも、それはそれで良くないので、定期的に新しいミッションをこなしていくべきかとは思いますが…。)
そして、そうやって自分の中に揺るぎない“核”のようなものができたなら、以前記事にしたように「自分で自分を否定する」ことも恐くなくなるのではないかと思うのです。
自分を否定したくないばかりに、根拠もなく何かを信じたり、それを他人にも押しつけたり、否定されるのではないかと怯えて相手を攻撃したり――それは結局は、目を曇らせてしまったり、他人のヒンシュクを買ってしまったり、自分自身を傷つける結果になってしまうのではないかと思います。
自分で自分を“健全に”否定できるようになれば、他人から否定されること対しても「まぁ、そういうこともあるよな」という感じで、ある程度はフワッと受け止められるようになります。
…と言うか、“こちらのことなどほとんど知らない他人”からの否定などより、“自分自身のことならほとんど知っている”自分自身からの否定の方が、きっとよほど「痛い」ですから…。
世の中、「自分を信じること」の大切さは盛んに言われているのに、なぜ「自分を疑うこと」の大切さは誰も教えないのだろう――そう疑問に思うことが、よくあります。
個人的には「自分を疑い、否定する」ことは、ダメなことではなく、むしろ「自分を信じる」のと同等か、それ以上に大切なことだと思っているのですが……。
「自分を信じる」ということは、一見とても美しく素敵なことのように思えますが、よくよく考えてみると、そこにはある種の“危険”が潜んでいるように思うのです。
“妄信”という言葉があるように、信じることは時に、大事なものを見失わせます。
自分を疑うことができなければ、いつの間にか酷い勘違いや過ちを犯していても気づけない危険があります。
けれど、自分を疑ったり否定したりすることは、決して“気持ちの良い”ものではありません。
むしろ嫌で、不快なことの方が多いでしょう。
おまけにそれをし過ぎれば、自信を失ってしまったり、自己嫌悪に陥ってしまったり、鬱になってしまったりする可能性もあるかも知れません。
なので、ベストなのは「過剰に自分を否定し過ぎない程度に、ほど良く自分自身を疑うこと」だと思っているのですが…まぁ、そう簡単にできることではないでしょうね…。
ただ、この「健全に自分自身を疑い、否定する」ことには大きなメリットがあると思うのです。
「自分自身に疑いの目を向け、ダメなものを見つけ出す」スキルは、自分自身の弱点をあぶり出すのに有効です。
そして、その見つけた弱点を1つ1つ克服していくことができたなら、常に自分を新しく、より良いものに“バージョン・アップ”していけます。
「自分を疑ったり、否定したりすること」が、しばしばネガティブなイメージでとらえられがちなのは、多くの人が、そうやって疑い・否定したものを「そのまま放置」しているからなのではないかと思うのです。
疑いを抱いたのなら、何が真実で最善なのかを求めれば良いことですし、「今の自分」を否定したからと言って、その否定されるべき欠点を克服した「未来の自分」まで否定する必要は全くありません。
そもそも、自分の中に否定されるべき欠点や弱点がいくつかあったとしても、それで自分の全てを否定する必要は無いと思うのです。
自分は元々「アレはアレ、コレはコレ」と分けて考える性質なので、そう思ってしまうのかも知れませんが…
たとえ否定されるような欠点や弱点があったとしても、人間という生き物は、そういった欠点や弱点だけで構成されているわけではないのですから、「ソレはソレ、コレはコレ」で、悪い所は直し、良い所は伸ばしていけば良いだけだと思うのですが…まぁ、そう簡単にはいかないのが人生というものなのかも知れませんね…。
それと、そうやって自分自身を健全に疑い・否定できるようになれば、ある程度、他人から否定されることが恐くなくなったり、「自分を否定されたくないばかりに、逆に相手を否定しようとする衝動」からも逃れられる気がするのですが…
(何せ、他人様から否定されるより先に、自分で自分を否定しているわけですから、後で何か言われたところで「今さら?」感がスゴイと思うのですよ…。)
個人的には「自分を疑い、否定する」ことは、ダメなことではなく、むしろ「自分を信じる」のと同等か、それ以上に大切なことだと思っているのですが……。
「自分を信じる」ということは、一見とても美しく素敵なことのように思えますが、よくよく考えてみると、そこにはある種の“危険”が潜んでいるように思うのです。
“妄信”という言葉があるように、信じることは時に、大事なものを見失わせます。
自分を疑うことができなければ、いつの間にか酷い勘違いや過ちを犯していても気づけない危険があります。
けれど、自分を疑ったり否定したりすることは、決して“気持ちの良い”ものではありません。
むしろ嫌で、不快なことの方が多いでしょう。
おまけにそれをし過ぎれば、自信を失ってしまったり、自己嫌悪に陥ってしまったり、鬱になってしまったりする可能性もあるかも知れません。
なので、ベストなのは「過剰に自分を否定し過ぎない程度に、ほど良く自分自身を疑うこと」だと思っているのですが…まぁ、そう簡単にできることではないでしょうね…。
ただ、この「健全に自分自身を疑い、否定する」ことには大きなメリットがあると思うのです。
「自分自身に疑いの目を向け、ダメなものを見つけ出す」スキルは、自分自身の弱点をあぶり出すのに有効です。
そして、その見つけた弱点を1つ1つ克服していくことができたなら、常に自分を新しく、より良いものに“バージョン・アップ”していけます。
「自分を疑ったり、否定したりすること」が、しばしばネガティブなイメージでとらえられがちなのは、多くの人が、そうやって疑い・否定したものを「そのまま放置」しているからなのではないかと思うのです。
疑いを抱いたのなら、何が真実で最善なのかを求めれば良いことですし、「今の自分」を否定したからと言って、その否定されるべき欠点を克服した「未来の自分」まで否定する必要は全くありません。
そもそも、自分の中に否定されるべき欠点や弱点がいくつかあったとしても、それで自分の全てを否定する必要は無いと思うのです。
自分は元々「アレはアレ、コレはコレ」と分けて考える性質なので、そう思ってしまうのかも知れませんが…
たとえ否定されるような欠点や弱点があったとしても、人間という生き物は、そういった欠点や弱点だけで構成されているわけではないのですから、「ソレはソレ、コレはコレ」で、悪い所は直し、良い所は伸ばしていけば良いだけだと思うのですが…まぁ、そう簡単にはいかないのが人生というものなのかも知れませんね…。
それと、そうやって自分自身を健全に疑い・否定できるようになれば、ある程度、他人から否定されることが恐くなくなったり、「自分を否定されたくないばかりに、逆に相手を否定しようとする衝動」からも逃れられる気がするのですが…
(何せ、他人様から否定されるより先に、自分で自分を否定しているわけですから、後で何か言われたところで「今さら?」感がスゴイと思うのですよ…。)
高校時代、大学受験を控え、普通はもっと悲壮感が漂ったり、ピリピリ神経を尖らせたりするような時期、自分はわりとお気楽と言うか、変に「ポジティブ」だったような気がします。
それは元々成績が良かったから…ではありません。
(国語はともかく、歴史は“時代の好き嫌い”や知識のムラのせいで、問題によってかなり偏差値が上下していましたし、英語もわりとムラがありました…。)
元々「学校の成績を重視しない(…と言うより「してくれない」)」家庭で育ち、テストの結果や偏差値に、たぶん他のクラスメイトたちほどには価値を置いていなかったせいもあるのでしょうが…
何より自分は「今がダメでも受験の時までに良くなればいいじゃん」「苦手な部分が分かっているなら、そこを重点的に克服していけば成績が自動的に伸びるじゃん」という思考でいたのです。
これには得意科目の国語が「これ以上、何をどうすれば成績が伸びるのか分からない」という「伸び悩み」状態だったことも影響していると思います。
克服すべき弱点や課題すら分からない国語に比べて、他の科目は弱点が目に見えている分、「勉強がやりやすかった」のです。
それは勉強以外にも言える気がします。
「何をどうすれば良いのか分からない」よりは「欠点や弱点が分かっている」方が、次に何をすれば良いかを考えられるので「良い」と自分は思ってしまうのです。
今、現在進行形で欠点や弱点に悩み、思いつめている方々は「とんでもない」と思うでしょうし、欠点や弱点が分かったところで、その克服方法がすぐには見つからないものもあるかも知れません。
でも、その欠点や弱点を「克服すれば確実に前へ進める“伸びしろ”」と考えれば、生きるのが少しラクになるのではないかと思うのです。
それに「今」の欠点や弱点に打ちひしがれて立ち止まっているより、「未来」を良くできると信じて、その欠点や弱点を克服する方法を探す方が、何となく精神的に“幸せ”な気がするのです。
たとえば、今の社会に問題が沢山あって将来が暗いなら、その問題を解決する方法を見つけられれば未来は確実に少し明るくなるわけです。
たとえ難しい問題だとしても、どこかに解決の糸口はあるはずです。
少なくとも、「問題が見えてすらいない」状態よりは、解決すべき問題が見えている分、「未来を明るく変えるための道が用意されている」のではないかと思うのです。
楽観的過ぎるかも知れませんが、ネガティブに生きてもポジティブに生きても良い人生、ポジティブに考えて「より良い」未来が掴めるなら、それに越したことは無いんじゃないか…などと思うのです。
それは元々成績が良かったから…ではありません。
(国語はともかく、歴史は“時代の好き嫌い”や知識のムラのせいで、問題によってかなり偏差値が上下していましたし、英語もわりとムラがありました…。)
元々「学校の成績を重視しない(…と言うより「してくれない」)」家庭で育ち、テストの結果や偏差値に、たぶん他のクラスメイトたちほどには価値を置いていなかったせいもあるのでしょうが…
何より自分は「今がダメでも受験の時までに良くなればいいじゃん」「苦手な部分が分かっているなら、そこを重点的に克服していけば成績が自動的に伸びるじゃん」という思考でいたのです。
これには得意科目の国語が「これ以上、何をどうすれば成績が伸びるのか分からない」という「伸び悩み」状態だったことも影響していると思います。
克服すべき弱点や課題すら分からない国語に比べて、他の科目は弱点が目に見えている分、「勉強がやりやすかった」のです。
それは勉強以外にも言える気がします。
「何をどうすれば良いのか分からない」よりは「欠点や弱点が分かっている」方が、次に何をすれば良いかを考えられるので「良い」と自分は思ってしまうのです。
今、現在進行形で欠点や弱点に悩み、思いつめている方々は「とんでもない」と思うでしょうし、欠点や弱点が分かったところで、その克服方法がすぐには見つからないものもあるかも知れません。
でも、その欠点や弱点を「克服すれば確実に前へ進める“伸びしろ”」と考えれば、生きるのが少しラクになるのではないかと思うのです。
それに「今」の欠点や弱点に打ちひしがれて立ち止まっているより、「未来」を良くできると信じて、その欠点や弱点を克服する方法を探す方が、何となく精神的に“幸せ”な気がするのです。
たとえば、今の社会に問題が沢山あって将来が暗いなら、その問題を解決する方法を見つけられれば未来は確実に少し明るくなるわけです。
たとえ難しい問題だとしても、どこかに解決の糸口はあるはずです。
少なくとも、「問題が見えてすらいない」状態よりは、解決すべき問題が見えている分、「未来を明るく変えるための道が用意されている」のではないかと思うのです。
楽観的過ぎるかも知れませんが、ネガティブに生きてもポジティブに生きても良い人生、ポジティブに考えて「より良い」未来が掴めるなら、それに越したことは無いんじゃないか…などと思うのです。
幼い頃、家に「地球」という名の、子供向けの本がありました。
地球の誕生から恐竜の時代、生物の進化や、深い海の底では水圧で物がペシャンコになること等々、この“地球”に関する様々な知識が書かれた本でした。
母は時々、夜寝る前にこの本を読んでくれたのですが…正直、自分はこの本が大嫌いでした。
たぶんそれは、かなり個人的な感情で、自分の独特過ぎる感性ゆえのことなのでしょうが…
自分はこの本が読まれるたびに、“宇宙の誕生からその消滅、果てはこの宇宙が消滅してさえ更に延々と続いていく終わりなき時間の流れ”について思いをめぐらせてしまい、底無しの穴に永遠に落ち続けていくような言いようのない恐怖を味わっていたのです。
しかし、まだ小学校にも上がらぬ当時の自分にその恐怖を言い表せるボキャブラリーは存在せず(と言うか、未だに万人に通じる言葉で説明できる自信はありませんが…)「恐いから、その本読むのやめて」と言ったところで親兄弟には全く通用しませんでした。
(そしてむしろ恐怖に怯える様を面白がられ、必死に耳をふさぐ自分の前でわざとその本を読まれるという、精神的拷問に近いことを繰り返されていたわけですが…ひょっとするとこの経験は後に精神のタフさという形で人格形成に影響を及ぼしているのかも知れません。)
この頃の自分は、とにかくひたすら「永遠」というものに対して恐怖心を抱いていました。
楽しい遊びも、ずっと続けていれば、いずれは飽きるもの――そんな風に、生きる喜びや楽しさに満足しきって、もはや生きることに飽きてしまったとしても、それでも終われずに強制的に生が続いていく…しかも、果てなど無く“永遠”に…それは、どれほどの精神的苦痛なのだろう…そんな風に当時の自分は怯えていたのです。
そして、そんな風に「永遠の生を生きる」ことと、「終わりのある生を生きる」こととは一体「どちらがマシ」なのだろうかと考えました。
「いつか終わりが来る生」ということは、いずれ自分自身が消滅するということで…それはそれで想像を絶する、途方もなく恐ろしいことです。
ですが、結局当時(保育園児時代)の自分は、永遠に対する恐怖には抗えず、「いずれ終わりのある生」の方が「まだ幾分かマシ」だという結論を出したのです。
(まぁ、そもそも選びようもないことではあるのですが…。)
ただ「やっぱり自分が終わってしまうのは恐いことだから、せめて限られた人生を一日でも長く、生きられる限り精一杯生きよう」――それが、自分の生や死に対する思考の出発点でした。
「いずれは必ず訪れる死」について考えることは、人生を見つめる上で大切なこととされています。
けれど、それを考えようとすると恐怖に駆られて、真っ当に思考することができない――そんな人は多いのではないかと思います。
自分も、それを恐怖せずに考えることはできませんし、いずれ来るそれを「受け入れた」などとはとても言えません。
ただ、ある種「仕方のないもの」というように「受け止めて」はいるのかも知れません。
「初めからそういう風に定められていたから仕方ない」のではなく、「“永遠”か“限りある生”か」という究極の二者択一において、自分自身で「限りある生の方がマシ」と結論づけたのだから仕方がない、と。
そしてその限りある生を「受け止めて」いるがゆえに、そんな自分の命や人生がとても尊く大切なものに思え、さらには同じように他者の命や人生についても大切に思えるようになったのかも知れません。
死を思うのが恐いなら、その対極にある永遠の生についても考えれば、自然と死へも目が向く――自分の実体験を振り返ればそういう結論に至るのですが…ただ、これはあくまで独特な感性と思考を持つ自分だから辿り着いた結論かも知れないので、万人に通用するとは言い難いのが難点ですね…。
地球の誕生から恐竜の時代、生物の進化や、深い海の底では水圧で物がペシャンコになること等々、この“地球”に関する様々な知識が書かれた本でした。
母は時々、夜寝る前にこの本を読んでくれたのですが…正直、自分はこの本が大嫌いでした。
たぶんそれは、かなり個人的な感情で、自分の独特過ぎる感性ゆえのことなのでしょうが…
自分はこの本が読まれるたびに、“宇宙の誕生からその消滅、果てはこの宇宙が消滅してさえ更に延々と続いていく終わりなき時間の流れ”について思いをめぐらせてしまい、底無しの穴に永遠に落ち続けていくような言いようのない恐怖を味わっていたのです。
しかし、まだ小学校にも上がらぬ当時の自分にその恐怖を言い表せるボキャブラリーは存在せず(と言うか、未だに万人に通じる言葉で説明できる自信はありませんが…)「恐いから、その本読むのやめて」と言ったところで親兄弟には全く通用しませんでした。
(そしてむしろ恐怖に怯える様を面白がられ、必死に耳をふさぐ自分の前でわざとその本を読まれるという、精神的拷問に近いことを繰り返されていたわけですが…ひょっとするとこの経験は後に精神のタフさという形で人格形成に影響を及ぼしているのかも知れません。)
この頃の自分は、とにかくひたすら「永遠」というものに対して恐怖心を抱いていました。
楽しい遊びも、ずっと続けていれば、いずれは飽きるもの――そんな風に、生きる喜びや楽しさに満足しきって、もはや生きることに飽きてしまったとしても、それでも終われずに強制的に生が続いていく…しかも、果てなど無く“永遠”に…それは、どれほどの精神的苦痛なのだろう…そんな風に当時の自分は怯えていたのです。
そして、そんな風に「永遠の生を生きる」ことと、「終わりのある生を生きる」こととは一体「どちらがマシ」なのだろうかと考えました。
「いつか終わりが来る生」ということは、いずれ自分自身が消滅するということで…それはそれで想像を絶する、途方もなく恐ろしいことです。
ですが、結局当時(保育園児時代)の自分は、永遠に対する恐怖には抗えず、「いずれ終わりのある生」の方が「まだ幾分かマシ」だという結論を出したのです。
(まぁ、そもそも選びようもないことではあるのですが…。)
ただ「やっぱり自分が終わってしまうのは恐いことだから、せめて限られた人生を一日でも長く、生きられる限り精一杯生きよう」――それが、自分の生や死に対する思考の出発点でした。
「いずれは必ず訪れる死」について考えることは、人生を見つめる上で大切なこととされています。
けれど、それを考えようとすると恐怖に駆られて、真っ当に思考することができない――そんな人は多いのではないかと思います。
自分も、それを恐怖せずに考えることはできませんし、いずれ来るそれを「受け入れた」などとはとても言えません。
ただ、ある種「仕方のないもの」というように「受け止めて」はいるのかも知れません。
「初めからそういう風に定められていたから仕方ない」のではなく、「“永遠”か“限りある生”か」という究極の二者択一において、自分自身で「限りある生の方がマシ」と結論づけたのだから仕方がない、と。
そしてその限りある生を「受け止めて」いるがゆえに、そんな自分の命や人生がとても尊く大切なものに思え、さらには同じように他者の命や人生についても大切に思えるようになったのかも知れません。
死を思うのが恐いなら、その対極にある永遠の生についても考えれば、自然と死へも目が向く――自分の実体験を振り返ればそういう結論に至るのですが…ただ、これはあくまで独特な感性と思考を持つ自分だから辿り着いた結論かも知れないので、万人に通用するとは言い難いのが難点ですね…。
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管理人プロフィール
- 【HN(ハンドル・ネーム)】
- 津籠睦月(つごもりむつき)
- 【職業】
- 社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
- 【趣味】
- 小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
- 【好きな小説ジャンル】
- ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
- 【備考】
- 漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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このブログは管理人に時間の余裕がある時にちょこっとずつ更新していく予定ですので、更新やチェックの頻度はおそらく数週間に1回~下手をすると1ヶ月以上の間が空いてしまう可能性も…。
もし更新が滞ったても「あぁ、仕事が忙し過ぎて時間が無いんだな」と気長にお待ちいただければ幸いです。
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