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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
自分には物心ついた時から「他人をうらやましがる」という気持ちがありません。
 
それはべつに高尚な精神の持ち主だからというわけでも何でもなく、「人間なんて皆『一寸先は闇』『人間万事塞翁が馬』『禍福はあざなえる縄のごとし』なのに、何をうらやましがる要素があるっていうんだろう?」という、大変に可愛げのない思考回路の持ち主だからです。
 
目先の成功や幸福は、後に来る挫折や絶望の「前フリ」に過ぎないかも知れません。
 
この先の未来に何が待ち受けているかなんて、誰にも分からないのです。
 
むしろ、他人の幸せや成功を素直に羨ましがるなんて「その幸せや成功が『永遠に続く』と思っているドリーマーなのかな」と冷めた目で見てしまいますし…
 
「そんなものをいちいち羨ましがって自分の精神状態を悪化させるなんて『時間や人生の無駄』だ」と思ってしまいます。
 
実際、ひと昔前にテレビに出ずっぱりだった「時の人」が、今では「誰だっけ?」「そんな人いたっけ?」というくらい忘れ去られていることって、よくあるじゃないですか。
 
「時代の寵児」ともてはやされた成功者が、時代の変化とともに凋落して何もかも失うというのも、よくある話じゃないですか。
 
そんな浮き沈みの激しい世の中で、「一時的に浮かび上がっただけの人」をいちいち羨ましがって、醜い感情に振り回されるなんて、ばからしい話だと思いませんか?
 
後になれば絶対に「あれは無駄な時間だった」「なんであんな人を羨ましがっていたんだろう」となるに決まっています。
 
嫉妬している時間があるなら、その時間で「自分が幸せになるための行動」を起こした方が、よほど有意義だと思ってしまいます。
 
…それくらい自分は、シビアに世の中を見てしまうリアリストなのです。
 
自分がこんな心の境地にたどり着いた背景には、たぶん「自分の人生は自分で切り拓いていくしかない」「誰かが勝手に幸せにしてくれるなんてあり得ない」「むしろ、油断していたら命さえ失いかねない」という危機感自立心があるせいだと思います。
 
以前の記事にも書いた通り、自分は「あと数歩(※)で死ぬかもしれない目に遭った」ことが何度かあります。
 
(※「あと一歩」というほど切迫した状況ではなかったものの、死を意識するには充分な危機的場面。)
 
その時の「誰にも助けてもらえなかった」「自分で何とかするしかなかった」「いざという時に他人任せでは命が危ない」という意識から、人生に対する危機感自立心が芽生えたのではないかと…。
 
そして、そんな危機感や自立心を持って人生を歩んでいると、実際のところ「他人をうらやんでいる暇」が無いのです。
 
常に「これを備えておかないとマズい」「立ち塞がるこの壁を壊さないことには、本当の幸せにはたどり着けない」…と、やることがいっぱいあり過ぎて、そもそも「自分とは関係ない所で生きている他人」を気にしている余裕が無いのです。

自分の人生を切り拓くために「努力」するのは、疲れます。
 
無駄に終わるかも知れませんので、不安も焦燥もあります。
 
でも「誰かが勝手に人生を良くしてくれるわけなどない」ので、自分の手でやるしかないのです。
 
こうして必死に人生を歩んでいると、思います。
 
「世の中、本当にラクして人生を生きている人なんて、1人もいないんじゃないか?」と。
 
誰かの成功や幸運は、知られざる「死に物狂いの努力」の結果なのかも知れません。
 
「成功して『ズルい』」などと思う余地もないほど「当然の報い(良い意味での)」なのかも知れません。
 
それを知らずに「ズルい」などと思ってしまったら、こちらの方が「何も分かっていない」「何も見えていない」ことになってしまうではないですか。
 
もし自分自身、必死に努力し、苦労した末に成功を掴むことができたとして――それを、何も知らない誰かに「ズルい」と嫉妬され、いわれのない誹謗中傷をされたら、嫌じゃないですか?
 
少なくとも自分は、この世界が「そんな世界」であって欲しくないと思っています。
 
だから、いろいろな意味で、他人に嫉妬を抱かないのです。
 
嫉妬を抱く前に「この人生において、本当の成功って何だろう?」「あの人の『成功』は、うらやましがるほど自分にとって魅力的なものなんだろうか?」と考えます。
 
それに「成功した他人」が自分に幸せをもたらしてくれることだって、あるとは思いませんか?
 
「成功」して「新しい産業を興した」人がいるなら、その人は新たな雇用を生み出してくれます。
 
「成功」して「知名度を得た」人がいるなら、その人はその影響力を活かして、社会を良い方向に変えてくれるかも知れません。
 
…もちろん「そうでない」場合も多いのでしょうが…
 
少なくとも「他人の成功は自分の不幸」という「思い込み」に支配されない方が、人生楽しく生きていけると思いませんか?
 

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たぶん10年ぶりくらいに、自転車を買い換えました。

タイヤがダメになってしまい、それまで乗っていたのが「ノーパンクタイヤ」という特殊なタイヤの自転車だったため、タイヤ交換もできずに丸ごと買い換えるハメに…。
 
できれば新しいものもノーパンクタイヤが良かったのですが、行った店には無く…
 
ちょうど目についたもので「刺さりパンクに強い肉厚タイヤ」の自転車があったので、それにしました。
 
田舎の道だと、パンクはしょっちゅうで、ひどい時には1年に1回くらいのペースで悩まされていたので、結構重要なポイントなのです…。
 
以前乗っていた「ノーパンクタイヤ」は、タイヤの中に空気ではなく、ゴムのようなものが詰まっているので、パンクすることがないのです。
 
ただし空気でない分、普通の自転車よりも重く、車体自体もそのタイヤに耐えるための特殊仕様になっています。
 
実際、最初にノーパンクタイヤの自転車に乗った時には「重…っ」と思ったのですが…
 
「でもコレ、体幹が鍛えられて、逆に良いのでは?」とポジティブに捉えて、むしろ喜んで乗っていました。
 
普通の自転車に乗り換えた今は、ギアが3速でも軽く感じ、逆に体が鈍ってしまうのではないかと不安です…。
 
(体幹を鍛えるのに、別の手段を考えなければいけないかも知れません。)
 
…と言うか、ノーパンクタイヤの自転車が駄目になってしまった原因には、県外に就職する際に自転車を手放したウチの兄弟が、帰省するたびに勝手に自転車を乗り回し(しかもそれで山登りまでして)酷使したせいもあると思います…。
 
(しかも、勝手に借りておいて「この自転車、重ぇよ」と文句を言われるという理不尽さ…。)
 
ちなみに自転車はタイヤの空気が抜けてくると、パンクしやすくなるそうです。
 
以前はそもそも空気を入れる必要が無くてラクだったのですが…
 
これからはマメに空気チェックをしていかなければなりません…。
 

何となく感じることなのですが…
 
当たり前のこと」や「基本的なこと」が意外と語られていない…むしろ、これを語ることを避けている人が多くないでしょうか?
 
確かに「当たり前のこと」を語ると「今さら何でそんな『当たり前のこと』を語っているんだ」という目で見られることもあるでしょう。
 
それどころか、下手をすると知識レベルの低い人間に見られてしまうかも知れません。
 
しかし、それでも「当たり前のこと」や「基本」「基礎」を語るのは、大切で、重要で、誰かがやらなければならないことなのです。
 
なぜなら、ほとんどの人が「当たり前」だと思っているその情報を、まだ知らない人間も確実に存在するからです。
 
人間は皆、知識ゼロの状態から生まれてきて、成長とともに様々なことを学んでいきます。
 
どんなにIQの高い人間だろうと「まだ何も知らない」時期はあるのです。
 
どんなに当たり前な「常識」でも、必ずどこかで「最初にそれを教えてくれる何か」が必要になります。
 
でも、ネットでも、人との会話でも…教えてもらえないうちは(あるいは観察して学べないうちは)、人はそれを知らないままです。
 
どんなに知識を蓄えようと、人は必ずそのうちに、この世から退場していきます。
 
そして、まだ知識を持たない赤ん坊が次々に登場し、世代交代が起きます。
 
知識は世代間で勝手に引き継がれるものではなく何かしら「伝える手段」を残しておかなければ、継承されていかないのです。
 
しかし人は「当たり前だと思っていること」に関しては、あまり熱心に伝えたがりません。
 
何となく「当たり前のことなんだから、当たり前に受け継がれていくだろう」と思っているのかも知れません。
 
しかし、皆が皆「当たり前だから」と語らずにいたら、それはどこかで途切れてしまうのです。
 
1人の人間が一生のうちに触れられる知識・情報には限りがあります。
 
必ずどこかで知識・情報の「取りこぼし」が起きます。
 
皆が「当たり前」だと思っている知識や情報も、その人の置かれた環境によっては「一度も触れたことがないまま」かも知れないのです。
 
それに、基本や基礎をすっ飛ばしてしまうと、思わぬ「誤解」や「すれ違い」が生まれかねません。
 
素人に料理をやらせる企画などで「米を洗剤で洗おうとする」人がたまにいて、視聴者の笑いを誘ったりしていますが…
 
それも「米は水で研ぐ」という「基本」を知らないからこそ起こる誤解です。
 
基本を知らなければ「米を洗う?洗うと言ったら洗剤だ!」という思考になりかねない、ということです。
 
(中国では野菜の残留農薬を洗い流すための「洗剤」があるそうなので、食材に洗剤を使うということも、全く無いわけではないですし…。)
 
「当たり前」や「基本的なこと」を、わざわざ言葉で説明するのは、面倒なことです。
 
また、情報の受け取り手の側も「珍しい情報」「高等技術」「最新のもの」には食いついても、「当たり前」や「基本的な情報」にはあまり興味を示しません。
 
ですが、誰かがそれを発信し、さらにその「基本・基礎・当たり前の価値」を伝えなければ、世の中、いつの間にか誤解が蔓延し、非効率報われない世界になってしまいます。
 
なので、自分もコツコツと、できる範囲でそんな「当たり前」を伝えていきたいと思っています。
 
できれば、その「当たり前」に、皆が気づいていなさそうな独自の視点を加えて…。

「世の中には危ない人がいるから気をつけて」「ネットの中には悪い人もたくさんいるから、無闇につながらないように」…
 
そういう忠告を聞くたびに、いつも思うことがあります。

「じゃあ、具体的に、何をどう気をつければ良いのか?」と。
 
脅しはかけても、具体的に「何に気をつけたら良いのか」「どう気をつけたら良いのか」を教えてくれないのでは、気をつけようがない気がするのですが…。
 
「気をつけようがない」人が選択する行動は、大雑把に分けて2つだと思います。
 
「気をつけようがないから気にしない」か、「何に気をつけたら良いか分からないから、何もかも全てに対して慎重になる」か…。
 
自分の場合、完全に後者で、現在進行形でSNSでの行動ポリシーが定められず、困っています。
 
SNSも、大きな企業やある程度の有名人なら、怪しいか怪しくないかは判断できます。
 
公式マークの有無や、公式サイトと繋がっているかどうか、あるいはフォロー・フォロワーの関係性を辿っていけば、ホンモノかニセモノかの判断ができるのですから…。
 
ですが、それ以外の「ごく普通の人」に関しては、判断のしようがありません
 
公式マークも何もあるわけがないですし、詐欺師が自ら「詐欺師です」と名乗ってアヤシイ投稿をしているわけがないですから…。
 
むしろ、これまでの様々な事件を見ていると、「ネットの中のアブない人」は、一見全く「アブない人には見えない人」なのだと思います。
 
なので、普段は疑り深い人までが騙され、心を許して大金を渡してしまう…あるいは家にまで行った挙句、事件に巻き込まれてしまう…そういうことなのではないでしょうか?
 
(ロマンス詐欺や、座間市の事件など、実際にSNSが発端となって起きた事件はいろいろあります。)
 
プロの詐欺師は「人を騙して信用させるテクニック」を、日夜磨いている人間です。
 
普通の人間が日々「学業」や「仕事」や「節約」「育児」等々に注いでいるエネルギーを、「人間心理を読んで、相手を自分に都合の良い方向に動かす技術」に注いでいる人たちなのです。
 
そんな詐欺行為のプロに対して、素人が「自分は見破れるから大丈夫!」などと思うべきではないのでしょう。
 
出逢う人をいちいち疑うのは申し訳ないですし、悪い人は全体のほんの数パーセント…大部分は善良な普通のユーザーだと思っています。
 
…しかし、ほんの数パーセントでも「そういう人がいる」ことが問題なのです。
 
そういう人と出逢ってしまう可能性がゼロではない…どころか、そういう人は常に「ターゲットを探して行動している」…そのことが問題なのです。
 
そして、そういう人がターゲットを見つけると、恐ろしく積極的にグイグイ来るでしょうから、押しに弱いタイプだと、特に危ないのではないかと思います。
 
また、SNSで怖いのは「犯罪者」だけではありません。
 
自分とは価値観の違う人間と「意見の相違」からトラブルになるというのも、よくあることです。
 
メンタルがそれほど強くない人間にとっては、そういう人間と「ぶつかる」ことだけでも恐ろしく、考えただけで憂鬱なことです。
 
たとえ意見が違っていても「大人の対応」で、お互いに上手くかわしていけることもあるでしょうが…
 
中には「何をどうしても引いてくれない」しつこく厄介な相手もいることでしょう。
 
自分の側がどんなに頑張って対処しても、相手の人格次第ではどうにもならないこともあります。
 
そして、そんな「相手の人格」は、パッと見の情報だけでは読めません。
 
そういう「厄介な人」とは「初めから繋がりたくない」のが正直なところですが…
 
そうすると、どういう人が「そういう人」なのか分からないSNS上で「交流を広げる」も何もあったものではありません。
 
SNSとは結局のところ「アブない人とうっかり繋がってしまったら終わり」な「フォロワー(フォロー)ガチャ」の「運ゲー」なのでしょうか…?
 
初めから、ある程度のリスクを承知で積極的に人と繋がっていくべきなのか…むしろ慎重に慎重を重ね、わずかでもリスクのありそうなことは避けていくべきなのか…
 
他のSNSユーザーさんが、実際にどんな風に他者と交流しているのか(そして、これまでにトラブルはなかったのか)、是非知りたいのですが…なかなかそういう情報が見つからずに、悩んでいます。
 
ちなみに、ツイッターを始めた当初は自分も「なるべく積極的に関わっていこう」という気持ちでいました。
 
しかし「繋がる相手は慎重に」という気持ちはあったので、「まずは相手のプロフィールや投稿をよく見てから決めよう」と思っていました。
 
なので、フォローやハートをつけてくださる方がいても、とりあえずはまず、その方のプロフィールや投稿を見ていたのですが…
 
「ダメだ…。ざっと見ただけじゃ、この家のネコが可愛いということしか分からない…」となり…
 
「フォローするかどうかは保留にして、とりあえず『お礼』代わりに、気に入ったネコ写真にハートをつけておこう」ということをしていたのですが…
 
なぜか、ハートをつけた相手からことごとく(…と言っても2~3人ですが)、フォローを外されたり、ハートを外されたりしました。
 
「え?これって、何か失礼な行為だったんだろうか…?」「コメントとか入れるべきだったのだろうか…?」と、頭の中が「?」だらけになりました。
 
(フォローしてくれた相手にハートをつけてフォロー外しされるのは「ハートじゃなくてフォローをくれ」ということだったのかも知れない…と何となく予測もつくのですが、ハートに対しハートを返してハートを外されるのは解せません…。ちなみに、フォローやハートを外されたからと言って、こちらもハートを外すような心の狭い人間ではありませんので、相手にはまだ自分の贈ったハートがついたままです。)
 
「もしかして、フォローされたからと言って、相手のプロフィールや投稿を読み込んだり、ハートをつけたりするのは『キモい』行為なのだろうか…?」ということも考えました。
 
確かに自分も「リアクションを全く期待していなかった相手から、急に反応をもらったらビビるかも知れないな…」とは思うのですが…
 
一方で、相手に自分を知って欲しい・積極的に繋がり合いたいというユーザーもいるはずです。
 
相手が「どちらのタイプか?」など、エスパーでもないのに分かるはずもありません。
 
そして自分は「相手がどんな人間なのかも分からないのに繋がることはできない」と考えるタイプです。
 
プロフィールや投稿を読み込まずして、フォローするかどうかなど、決めようがありません。
 
そうして「キモいと思われたら嫌だな…」と、相手のプロフィールや投稿をちゃんと見る勇気も持てないまま、現在に至っています。
 
(リアクションせずに「読む」だけならバレないとは思うのですが…何となく気持ち的に…。)
 
とは言え、何もリアクションしないのも失礼かも知れないな…と思うので、一応相手に「フォローしてくださって、ありがとうございます」の意思表示ができる手段はとっています。
 
(ついでに「フォローに対して慎重派です」ということが伝わるようなメッセージも入れています。その際、相手のプロフィールは「薄目」で、あまり見ないようにしています…。)
 
…もっとも、元々「そういう用途ではない」機能を使っていますので、相手に通知も行かないでしょうし、気づいてもらえるかどうかも分からない「自己満足」な意思伝達手段になってしまっているのですが…。
 

最近「○○には科学的根拠が無い」という言葉を、よく耳にします(目にします)。
 
まるで「根拠が無ければ論じることさえ許されない」ような風潮を感じます。
 
そのたびに、思うことがあるのですが…
 
今はまだ」科学的根拠が無いとしても、「将来的に」その根拠が発見されるモノだって、中にはあるはずですよね?
 
人類の歴史を見るに、「それまでは非常識」と思われてきたものが、後に「常識」になる――定説が覆されてきた例は、山のようにあります。
 
その「可能性の芽」を早々に摘んで、「真理が発見される」ことを何年も何十年も(あるいは何百年も)「先延ばし」にしてしまうのは、とてつもなく効率が悪く、人類全体にとって「ロス」なのではないでしょうか?
 
もちろん「まだ証明がされていない」物事は玉石混交で、中にはまったくのデタラメもあることでしょう。
 
下手に認めてしまえば「害が出てしまう」可能性もあり、慎重になるのも分かります。
 
(有害性を知らずに使用した結果「公害」が起きてしまった、多くの人に健康被害が出てしまった、という例もたくさんありますし…。)
 
けれど「根拠が無い=間違い」とされてしまうのは、貴重な「可能性」がもったいないと思いませんか?
 
個人的に思うのが「世の中もっと『仮説』を上手く使えば良いのにな…」ということです。
 
「まだ証明されていない事実について『こうなのではないか?』と説を唱えること」が、すなわち仮説です。
 
「本当かも知れないけれど、まだ証明待ち」「後で間違いだったと分かるかも知れない」…それが仮説です。
 
「正解かも知れないけど、間違いかも知れない」――その認識を全員で共有しておけば、説を唱えても全く問題にならないのではないでしょうか?
 
「信じるも信じないも自己責任」――その認識を予め持っておけば、後で文句を言う人間も減るのではないでしょうか。
 
そもそも、今の世の中、まだ証明が済んでいないモノを簡単に信じてしまう人間が多過ぎます。
 
そして逆に、まだ証明がされていないからと言って、簡単に「間違い」と決めつける人間も多過ぎます。
 
何かを証明するには、それなりの実験や研究、それなりの時間や手間(そしてお金)が必要です。
 
普通の一般人では到底できないものもあります。
 
けれど、普通の一般人でも、ふと世の真理に気づくことはありますよね?
 
証明ができないからと言って、その真理を胸にしまったまま墓場まで行かれてしまうのは、人類にとって大きな損失です。
 
仮説は仮説として「いつか誰かが証明してくれるのを待つ」…それで良いのではないかと思うのですが…。
 
そして人間は、もっと物事を「半信半疑」に捉えていた方が良いと思います。
 
100%信じきってしまうのも、100%疑うのも、思考を鈍らせ、真実を見えにくくしてしまいますので…。
 
<関連記事:半信半疑がちょうど良い


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津籠睦月(つごもりむつき)
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社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
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小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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