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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
個人的に、最近のG○oleさんのAI活用の仕方に失望を覚えています。
 
なぜなら最近のGo○leさんは「サイトやブログや投稿記事を紹介する」のではなく「そこから拾った情報を要約して提示する」方へ舵を切っているからです。
 
無料版の方なら一応、勝手に最上部にAI要約は出るものの、元記事へのリンクがあるのでまだマシなのですが(そのリンクもひどく分かりづらいのでちょっとアレなのですが)…
 
AIモードの方ではリンクも出なくなるという話を聞いています。
 
(ネット記事を読む限り、ChatGPTのようなAIチャットサービスを目指している印象があるのですが…実際のところどうなんでしょう?正直最初に読んだ時は「自分にしか無い強みを棄てて、わざわざ二番煎じに甘んじようとする意味が分からない」「そこまで思い詰めるほど広告収入が減っているのだろうか」と邪推してしまったのですが…。)
 
Goo○eさんはソレを「新たな情報検索の形」のように語っていますが…
 
どうも根本的に、検索者のニーズを「分かっていない」気がしてなりません。
 
(あるいは検索者本人すら、そのニーズに無自覚なのかも知れませんが。)
 
だって「検索」って、べつに「情報」だけを求めてするわけではないじゃないですか。
 
暇な時に、ふらふらウィンドウショッピングをするのを楽しむように、たくさんの情報が並んでいるのをざっと読んで「こんなのもあるんだ、あんなのもあるんだ」というのを楽しむ時って、ありませんか?
 
AIによる要約・回答は、検索者から「選ぶ楽しみ」「探す楽しみ」を奪ってしまうのです。
 
そもそもAI要約・回答が「その人」に合った答えを導き出してくれるとは限りません。
 
人間の性質や生きる環境は十人十色で、求めている情報も実は細かく違っています。
 
(IQの高い人ならAIに質問する時点でそのあたりを細かく「条件付け」するでしょうが、「それほどでもない人」はそもそも「万人に通じる答えが存在する」と勘違いしていて、条件設定などしないことでしょう。)
 
AIはおそらく一番「一般的」な答えを出してくるでしょうが…実はもっとその人に合った「答え」がネット上には他に存在するかも知れないのです。
 
AIの答えだけで「こんなものか」と諦めてしまう人は、その「答え」に一生気づけません。
 
検索で出てきたサイトや投稿を直感で選んで読み漁るのって、「時間の無駄」になるリスクもありますが、逆に「思いがけない情報との出逢い」を生んでくれるものでもあります。
 
「要約」は一見タイパが良いように見えて、「急がば回れ」の「逆」なのです。
 
(さらに言えば、その「時間の無駄」と「思わぬ掘り出し物」を行ったり来たりするのが面白かったりするのですが…たぶん人生の醍醐味って、そういう所にあるものなんじゃないでしょうか?)
 
そんなこともあり、自分はAI要約を「お出しされる」たびに「余計なお世話なんじゃい!」と思ってしまいます。
 
(せめて要約が欲しいかどうか訊いてから出してくれないものでしょうか?そもそも自分はAIの「答え」が合っているかどうか元記事と見比べてファクトチェックするタイプですので、逆に手間なんですよ…。なお、言及記事の少ない事柄については誤答を出すこともある、というのは既に確認済。)
 
<関連記事:ある猫種を検索してみたら、AIの弱点とその対策にうっすら気づいた。
 
そしてそれより何より最悪なのが「AI要約・回答が“人と人との出逢い”を奪ってしまうこと」です。
 
サイトやブログや記事の紹介なら、検索者が「その知を持った人」と出逢えるのです。
 
ふと出逢った「鋭い意見」や「独自の視点」にハッとさせられて、その人の過去記事を遡って読んだり、SNSを辿ってみたことってありませんか?
 
AI要約・回答では、情報は「その場限りで終わり」です。
 
その「元となった人」に出逢うこともなければ、過去記事に「もっと感動できる言葉」があることも知らないままです。
 
AIで「元の記事」と切り離された情報は「いもづる式に情報をたどること」を阻害してしまうのです。
 
自分もそうなので言うのですが…人間って、ただ情報だけを求めているわけではなく、その背後にいる「人間」を求めていたりはしないでしょうか?
 
その人がその情報を語るに至った「事情」や「物語」を求めていたりはしないでしょうか?
 
自分は時々X(旧Twitter)や動画サイトで「見知らぬ他人の意見」を読むのが好きです。
 
時にひどい暴言に胸が痛んだり、無神経な言葉に苛立ったりすることもありますが、それを「要約」で読みたいとは思いません。
 
なぜなら、AIで加工されていない、その人の「生の言葉」が読みたいからです。
 
(まぁ、それはあくまで「他人事」に対する意見だから、というのもあるのでしょうが…。あるいは自分が創作活動の糧として、人間のグロテスクな部分をも見たがっているせいかも…。)
 
「情報検索はAIによる回答だけで良い」と思ってしまっている人は、きっとそういう「人を求める人の気持ち」「人を知りたいと思う人の気持ち」が理解できていないのでしょう。
 
そして、そういう人が「開発」をしてしまう限り、きっと「人とネットとのつき合い」はどんどん機械的で無味乾燥な「つまらない」ものになってしまうことでしょう。
 
自分は検索サイトにおけるAI活用の仕方は、むしろ「人と情報(その背後にいる人)とのマッチング」だと思っています。
 
正直、現時点でも検索サイトの検索性能って、まだまだ不充分だと思いませんか?
 
ある程度の「あいまい検索」には対応できるようになっても「キーワードも思いつかない」情報って、検索できないじゃないですか。
 
むしろAIが導入され始めてから「それは求めていない(余計なお世話)」という余分な情報が交ざるようになり、検索性能が劣化している印象すらあります。
 
情報要約だの何だのを考える前に、まず本分である「検索」を、もっと突き詰めて考えるべきなのではないでしょうか?
 
そして出来ることならば「検索」が「人から情報を切り離し、人と人との出逢いの機会を失わせるもの」ではなく「人と人とが出逢えるもの」になってくれることを願います。
 
「人と出逢う」「人を知る」ということは、きっと単に「情報を知る」ことの何十倍、何千倍も価値あるもののはずなので…。

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勝ち馬に乗る」という言葉があります。
 
いかにも「勝てそう」な、「勢いのあるもの」「優勢なもの」に乗っかって、自分も勝利を得ようとするムーブのことです。
 
実際、ネットの世界では「今まさに人気のもの」「話題のもの」について言及すれば、それだけで数字が伸びたりしますよね?
 
なにかと「数値至上主義」な現代、そうやって労せず成果(数値)を得ようとする人が多いのも「時代」なのかも知れません。
 
でも皆さん、乗ってしまったその「馬」の「本性」を、ちゃんと見極められていますか?
 
その馬の「行き先」も確かめず、安易に乗っかってしまってはいませんか?
 
たとえ「ヤバい馬」でも「危なくなったら降りればいい」なんて、簡単に考えてはいませんか?
 
ですが「デジタルタトゥー」という言葉がある通り、ネットで発信した情報は、投稿者本人がいくら削除したところで、どこかしらにコピーやスクショされて残ってしまっているものです。
 
そしてそれは、後々思わぬタイミングで掘り返され、思わぬダメージを生みます。
 
(問題を起こした有名人がよく過去を掘り返されて「伏線回収」だの何だのと言われていますよね…。)
 
皆さん、その辺りのことを深く考えずに、ただ「勢いのあるもの」に喰いついてはいませんか?
 
でも「勢いのあるもの=正しい」というわけではないのが、この世の中です。
 
自分の知っている一番ヤバいケース(確か初めて知ったのは「映像の世紀」だった気がしますが、番組名をメモしておかなかったため確信はありません)を挙げると…
 
かつて「ウラン」が発見された際、人々はこの新しく珍しいモノをもてはやし、こぞって「商品」に取り入れていました。
 
知っての通り、ウランは人体に有害な放射性物質です。
 
ですが当時はその危険性が人々に知られてはおらず、むしろ「エネルギーを秘めた未知の物質」として魅力的にさえ捉えられていたのです。
 
ウランを「奇跡のクリーム」として化粧品に取り入れたり、石鹸や軟膏に取り入れたり…
 
紫外線で照らすと光ることに注目され、ウランを着色料に取り入れた「ウランガラス」が食器に使われたり…
 
現代人からすればゾッとする、恐ろしい「流行」ですよね。
 
「流行」や「人気」というものは往々にして、そのものの「本質」や「本性」を知らないまま広まるものなのです。
 
人間にとって害のあるモノを「人気だから」「今、勢いがあるから」というそれだけで世に広めて、後にその「本質」が発覚したら…
 
考えるだけでも恐ろしいと思いませんか?
 
広めた当人は「手のひら返しをしておけば大丈夫」と思っているかも知れませんが…
 
ネットでの発言は、覚えている人は覚えているものですし、コピーやスクショを取っているものです(そしてふとしたタイミングで「あいつ前に○○って言ってたじゃん」と言ってくるものです)
 
(ちなみに自分も、気に入った発言や気になった発言はスクショして保存しておくタイプです。)
 
何より「勝ち負け」以前の問題で…
 
乗ったその「勝ち馬」が、まんま「地獄への片道切符」である可能性すらあるのです。
 
たとえば「フランス革命」も「ナチスによる支配」も、当時の人々の「熱狂」が生んだものです。
 
ですが、勢いのままに勝ち進んで得られたものは、ギロチンによる恐怖政治と世界大戦でしたよね?
 
今の時代は「アテンション・エコノミー(目立ったもの勝ちな経済)」と呼ばれています。
 
誰も彼もが数字を求めて「勢い」に乗りたがる時代です。
 
だからこそ、そんな「時代」に不安を覚えるのです。
 
…皆さん、自分の乗ったその馬が、地獄へ通じていないか、ちゃんと考えて乗っていますか?

顧客イメージを大切にする「企業」や「フリーランス」なら、特に知っておかないとマズい話なのですが…
 
いわゆる「反AI」と呼ばれる人々のことを、単純に「AI技術に反対する人々」と勘違いしている人って、多いですよね?
 
(そもそも「反AI」という呼び方自体が、そういう誤解に基づいていると思われるのですが…。)
 
そこを勘違いしていると「こんなに便利な技術なのに反対するなんてどうかしている」という論調になってしまうのでしょうが…
 
実は「反AI」と呼ばれている人々は「AI」に反対しているわけではないのです。
 
(ここがややこしくなるので「反AI」という呼び名はやめて欲しいのですが…。)
 
反対しているのは「AIによって人間が蔑ろにされること」「AIによって人間の尊厳が否定されること」なのです。
 
つまり、実は反発されているのは「AI」ではなく「人間」。
 
AIを開発する側の企業理念や姿勢、AIを使う側の倫理観や人間性を問われているのです。
 
…それはそうですよね。
 
だってAIはただ「人間」に指示されたことを行っているだけ。
 
AI自身の意思で詐欺を行ったり、著作権侵害を行ったり、誰かの尊厳を否定したりしているわけではないのですから。
 
いわゆる「反AI」と呼ばれる人々を「AIに反対するなんてどうかしている」という論調で嘲笑する人々は、本当は自分たちこそが反発され否定されているという事実に、気づいていないのです。
 
「イメージ第一」な企業やフリーランスは、ここを誤解していると、とんでもないことになります。
 
「反AI」と呼ばれる人々を「AIへの反対」だと思い込んでいる人々は「AIに反対するなんてとんでもない!AIはこんなに便利なんですよ!使わないなんてもったいない!」という論調で世間を説得しようとするかも知れません。
 
…ですが「AIによる人間性の否定」に反発する人々にとって、それは逆効果――むしろ「煽り」にもなりかねないんですよね…。
 
「AIによる人間性の否定」に反発する人々にとって「AIを過度に推し進める組織・個人」は「人間を否定してAIに全てを委ねようとしている」ように見えます。
 
…それって、イメージ戦略的にかなりマズいことだと思いませんか?
 
ビジネスというものは結局、全て「人間」が相手のものです。
 
その「人間」に対して「お前ら人間なんて価値が無いんだよ。AIで否定してやるぜ」と言っているように見られてしまう――かなり最悪の部類に入る「マイナスイメージ」ですよね?
 
今までAIを使った広告・企画が数々「炎上」してきていますが…それはつまり「そういうこと」なのです。
 
そこの本質に気づかずにAI推進派だ反AIだと争っていても、まるで意味が無いのです。
 
AIが本当の意味で世の中に受け入れられるために必要なのは「人間の尊厳がちゃんと守られること」です。
 
AIを推進したい人々は「AIが世の中に浸透していけば、自然と『反AI』派もいなくなるだろう」と楽観視しているかも知れませんが…
 
今後、AIにより人間の仕事が奪われ、失業者が大量に発生するようなことにでもなれば、むしろ反発は増え、激化するものと思われます。
 
(過激な国だと、暴動が起きてデータセンターが破壊されたりしてもおかしくないのでは…?)
 
…そもそも何より反発されているのは「AIにより人間性が否定されることを恐れ、悲しむ人々」の心情に気づけない・理解できない、その「鈍感さ」に、なのかも知れません。
 
(補足:「AIに反発する理由」は1つだけではないと思われます。他には「AIの弱点や欠点を議論しないまま導入することへの危機感」なども挙げられるかと。←既に起きている事例を挙げるなら「AIに障害が起きると、それに関わる全てのサービスや業務も軒並み停止する」ことなど…。)

自分の家は割合的にレアなケースなのでしょうが…
 
自分は生まれた時から、母方の姓を名乗ってきました。
 
なぜなら、父が「婿入り」して妻側の姓に改姓したからです。
 
例の国民的アニメに例えるなら「磯野姓を名乗ることを選択したマスオさん」といったところでしょうか。
 
父が結婚前は別の姓を名乗っていたと知ったのは確か小学生の時で、何だか不思議な感慨を抱いたことを覚えています。
 
我が家がこんなケースだったため、選択的夫婦別姓の話を聞いた時、自分は普通に「婿入りした男性が結婚前の姓を名乗り続けられるメリット」に気がついたのですが…
 
これ、不思議なほど論じられていませんよね??
 
どうも皆さん「改姓するのは女性の側」という前提で物を考えていらっしゃって、その「逆」のケースをまるで想定していないように感じられるのですが…気のせいですか?
 
確かに比率的には決して多くないのでしょうし、身近でそういうケースを見聞きしたことがないという方も多いのでしょう。
 
ですが…可能性がゼロでない以上、どの独身男性にも降りかかり得る「究極の選択」なのですが。
 
特に「特定の条件下」では発生確率が跳ね上がるのではないかと…。
 
たとえば、相手の家に「娘」しかおらず、娘が改姓すれば家名が途絶えてしまうパターン…
 
分かりやすい例を挙げるなら、大きな家の「一人娘」といわゆる「逆玉」で結婚するケースでは「改姓しての婿入り」でないと結婚を許されないパターンも多いのではないかと…。
 
その選択を迫られた時、現在の法律ですと「姓を変える」か「結婚を諦める」の二択しか無いわけですが…
 
選択的夫婦別姓で、さらに子どもの姓を任意に決められるなら「子には妻側の姓を継がせて、自分は今まで通りの姓を名乗り続ける」ことが可能なわけです。
 
うちの父は「サラリーマン」ではなかったので、会社勤めの中での改姓の苦労は味わっていませんが…
 
それでも、取引先や知人友人との関係、さらには各種手続き関係で、何かと苦労を味わったものと想像しています。
 
(うちの父は大兄弟の末っ子で、兄姉が大好きな人ですが、その大好きな兄たちとも姓が変わってしまったわけですし…。)
 
…まぁ、婿入りと言ってもケースは様々で、たとえば政治家の一人娘と結婚して義父の地盤を継ぐパターンですとか、同族経営の創業家一族に婿入りするパターンですと、かえって改姓した方が都合が良いのかも知れませんが(「選択的」夫婦別姓なら、改姓するもしないも「どちらも選べる」んですよね)…。
 
何にせよ「男性側の改姓」パターンがあまり論じられないのって、議論する側の「想像力」の問題なんでしょうね…。
 
ハナから改姓は「女性側のもの」「女性の問題」という考えで、男性側のメリットに目が向かないのでしょう。
 
物事は「自分事」として考えるか「他人事」として考えるかで差が生まれます。
 
悲しいことに、人間は大概の場合、「他人事」だと「自分事」ほど真剣に物を考えられないのです。
 
「他人事」とは「他人」だけの問題ではなく、いつか自分の身にも起き得る「自分事」でもあるのですが…
  
そんな「いつか起こるかも知れない可能性」には目を向けられず、それが
「起きてしまってから」あわてるのが人間なのです…。
 
(その時になってからあわてたところで、大概の場合「間に合わない」のですが…。)
 
実際に自分の身にそれが起こるか、身近で見聞きでもしない限り、そんな可能性を想定することもできないんですよね…。
 
「他人事」を「他人」の事としか思えず冷たく扱う人間は、結局は「自分」の可能性さえも狭めてしまうのではないでしょうか?
 
世の中そんな感じで何事も「他人事」扱いして切り捨てているから、誰も彼もが「未来の自分の首」を自分で絞めて「誰にとっても生きづらい」世の中を創ってしまっているのではないでしょうか?
 
今さらここで言わなくても、古の人が既に気づいて「ことわざ」にまでしていますが…「情けは人のためならず」って、「他人への温情はめぐりめぐって、いつか自分へと返ってくる」という意味なんですよね…。
 
(ちなみに誤解無きよう言っておきますが…我が家は、祖父母の代までは時代の恩恵もあってそこそこ裕福だったようですが、バブル崩壊後は没落の一途を辿って今は見る影もありません…。→自分たち兄弟は、好きなオモチャやゲームも満足に買ってもらえませんでしたし…。)

ちなみに絶対あり得ないだろうとは思いつつ言うと、子どもの姓は成人前は「磯野・フグ田・タラオ」みたいな感じで両方持たせておいて、成人の時に子ども自ら「どっちか選べる」と良いのにな…なんて妄想をしてみたり(大概の大人は子どもの意思なんて「尊重」どころか「想定」もしていないので、まぁムリでしょうけど…)。

最近、何かと「○○をブッ壊せ」と言う過激な人たちが増えている気がします。
 
「古くて時代に合わないもの」 「長い時間の間に腐敗してしまったもの」が「邪魔」で「不要」だという理屈は分かるのですが…
 
ひとつ疑問に思うのが「それを壊した“後”のことをちゃんと考えている人が、どれくらいいるのだろう?」ということです。
 
「古く強大な何か」に立ち向かい、それを打ち壊すことには「カタルシス」があります。
 
そもそも人は「激情に任せて」行動したり、「多くの人々と一体になって何かを動かす」ことに「気持ち良さ」を覚える生き物なのです。
 
しかしその「気持ち良さ」に酔って、後先を何も考えずに暴走する人がどれほど多いことか…。
 
そもそも「古くて強大な何か」を壊したからと言って、世界が今までより「良くなる」とは限りません
 
それは、歴史を見ればよく分かります。
 
フランス革命しかり、アラブの春しかり…「強大な何か」を壊せても、その後が上手くいかなかった例って、山ほどあるんですよね…。
 
むしろ、壊す前より酷い「地獄」を招いてしまった例さえあります。
 
それは何故なのか……答えは簡単。
 
壊した後に、その“代わり”を上手く創り出すことができなかったから」です。
 
自分のあまり好きでない「ことわざ」に「悪法は無法に勝る」というものがあるのですが…
 
この世で一番「最悪」なのは「仕組みや秩序が何も無いこと」。
 
それに比べれば、欠陥のある仕組みや秩序でも「無いよりはマシ」ということです。
 
(最初にこの「ことわざ」を知った時には「何で?」と思いましたが……今のモラル崩壊した時代を見ていれば分かります。「法の抜け穴」「モラルには反するが違法ではないグレーゾーン」があると、他人の迷惑も顧みずにやりたい放題する人が多いってことなんですよね…。たとえ「悪法」であっても「法」が有れば悪い人々に対して「抑え」が効く、あるいはたとえ「悪法」であっても「ルールはルール」なので、その「法」を学びさえすれば「対策」のしようがあるが、やりたい放題の「無法者」には対策のしようが無いということなんでしょうね…。)
 
もしも「それまで在った社会の仕組みや秩序」を全て破壊してしまったなら、早急にその代わりの「新しい仕組みや秩序」を組み立てなければ、世の中が回らなくなってしまうわけですが…
 
社会の「仕組み」や「秩序」を創るには「智恵」や「知識」が要ります。
 
そもそも世の中、「壊す」よりも「創る」「生み出す」方がよほど難しいのです。
 
壊すことなら誰にでもできますが、創るには「能力」が要ります。
 
今ある仕組みをただ「ブッ壊したい」だけの人たちに、果たしてその能力はあるのでしょうか?
 
そもそも「ブッ壊す」ことに成功した「一部の人々」に「自分たちにだけ都合の良い仕組みや秩序」ではなく「全ての人のための仕組みや秩序」を創れる「思慮深さ」があるでしょうか?
 
…実際、それが「無かったから」歴史上の数々の革命が、後に「地獄」を招いてしまったのでしょうが…。
 
「壊した後のこと」を何も語らず、ただ「壊せ壊せ」だけ言う人々に乗せられれば、地獄へ連れて行かれるだけです。
 
さらに言えば「後のこと」を語っていても、それが「実現不可能な夢物語」ならば結局は「同じこと」です。
 
閉塞感に満ちた現代では「壊す」「打ち破る」と語る人間の方が、どうしても「魅力的」に見えてしまうものですが…
 
それでも冷静にその言動の「後先」を見極めなければ、未来への選択をとんでもなく間違えてしまう可能性があります。
 
…そもそも、今あるもの「全部」を壊すって、人類が「やりがち」なことですけど、普通に効率が悪過ぎるんですよね…。
 
普通に考えて「新しいものが出来上がるまで、使えるものは残しておいた方が良い」じゃないですか。
 
「使えるもの」が無くなるまで、徹底的に全てを壊すなんて、後先を考えていないにもほどがあるじゃないですか。
 
全てを壊せばそれで「何もかも終わり」ではなく、その後の「何も無くなった世界」でも、人は生きていかなければいけないというのに…。
 
…たぶん、中途半端に「今まであったもの」を残すと「物事が刷新した感が出ない」せいで、皆が皆「全部壊す」をやりたがるんでしょうけど…。
 
そんなイメージ戦略のために地獄を招かれたら、一般市民がたまったものではないんですよね…。
 
(元々は「イメージでしか物を見ない」一般大衆が悪いと言えば悪いのですが…。)

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【好きな小説ジャンル】
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【備考】
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