日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
プレゼント選びって、難しいですよね…。
自分がかつて所属していたサークルでは、何かといってはメンバーにプレゼントを贈る「伝統」があったのですが、いつも悩みに悩んでいました。
贈る相手は親しい人間とは限らず、趣味や好みも分からない先輩や後輩もいます。
そして時には「皆からお金を徴収し、代表してプレゼントを買いに行く」こともあり、責任重大でした。
そんな時、自分がプレゼント選びのポイントにしたのが「エピソードを語れるプレゼント」でした。
たとえばサークルの大変な役職に就いた同級生への「就任祝い」には「疲れた時にはこれで癒されてください」という「リラクゼーショングッズ一式(入浴剤やアロマ?とかのいろいろ入った箱詰め)」。
同じフルートパートの先輩へのプレゼント(確か引退時のプレゼントか何かだったかと…)には「先輩が定期演奏会でソロを務めた曲のオルゴール」…といった風に。
…正直「何だこのプレゼントは!」と言われないための「言い訳」と言えなくもありません。
私見ですが、そもそも趣味も好みも価値観もまるで違う「他人」が選ぶのですから、その人が100%望むプレゼントなんて(事前にリクエスト受付でもしない限り)無理なのではないでしょうか?
ならばせめて「その人のことを考えて選んだプレゼント」だと伝わるモノの方が、喜ばれる確率は上がるのではないでしょうか?
もっとも、選んだモノによっては「私(俺)のこと全然分かってない」と思われてしまうかも知れませんが…。
あるいは、こういう考え方自体「善意の押しつけ」のように受け取られて、嫌がられてしまう可能性もありますが…。
少なくとも「自分の趣味」を押しつけたプレゼントや、変に奇をてらったプレゼントよりは良いのではないでしょうか?
(サークルでもらったプレゼントの中には「宝くじ1枚」とかも普通にありました…。夢はあるかも知れませんけど、ハズレたらタダの紙キレなんですよね…。なお、ハズレでした。)
あと、自分が心がけているのは「喜ばれなかったからと言ってネガティブにならない」ことです。
上にも書いたように、その人ならぬ「他人」が選ぶプレゼントに「絶対」などあるわけがありません。
きっと、どんな「プレゼント選びの達人」だって「100%ヒット」とは行かず「打ちもらす」ものもあることでしょう。
たとえプレゼントが喜ばれなかったとしても、その時は「あぁ…今回はハズレちゃったかぁ…」と軽くガッカリする程度で済ませておけば、後々変に感情をこじらせずに済むのではないかと。
間違っても「こんなに考えて選び抜いたプレゼントなのに、この程度の反応だなんて許せない!」「このプレゼントをこんなに雑に扱うなんてあり得ない!」と思い詰めない方が心身の健康のためかと。
個人的には、プレゼントとは「贈ってくれた相手がそれを選ぶために費やした手間と時間」も含めて受け取るものだと思っています。
ぶっちゃけ、もらったモノが「趣味に合わない」こともありますが、重要なのは相手が自分のために使ってくれた「手間と時間」。
プレゼントを贈る・贈られるとは、結局のところ「コミュニケーション」なんですよね。
「おはよう」や「ありがとう」に「何だその言い方はァ!」と憤る人なんていませんよね(…まぁ、世の中にはそういう人もいるかも知れませんけど…)?
「プレゼント」も同じで、中身がどうこうというものではないのではないでしょうか?
たとえ趣味に合わないものを贈られても「それはそれ、これはこれ」なのです。
(…まぁ「扱い」に困るものはありますけど…。サークルにいる間だけで何個のマグカップが溜まってしまったことか…。未だに手をつけずにしまってあるものも何個もありますし(食器棚の一部を自分のマグカップだけで独占してしまっていて申し訳ないのです)…。ハンカチとかだったら消耗が早いので何とかなるのですが、マグカップはそうそう割れるものでもないので…。なぜか、グラスはやたら割れるのですが…。)
…とは言え、誰もが皆そういう考えではないでしょうし、きっと「要らん物もらった…ゴミになる」という人もいることでしょう。
ですが、まぁ「それはそれ、これはこれ」。
プレゼントした相手が「ハズレだった」というだけのことなのです。
憤ったところで相手の性格が変わるわけでもなし、こちらの感情が疲弊して損をするだけです。
プレゼントのやりとりをする際には、この「相手の反応を期待しない」「プレゼントの中身を期待しない」を心がけておくだけで、だいぶ気持ちがラクになるかと。
なお「相手を想ったエピソード付きのプレゼント」は「ちょっとした知り合い」程度の相手だと逆に「重い」と引かれかねませんので、部活やサークル仲間のような「長い時間苦楽を共にしてきた相手」や「親しい相手」のみにしておいた方が良いかと(「誤解されたくない」異性相手にも注意した方が良いかと)。
ちょっとした知り合い程度の方へは、結局「実用的な消耗品」が一番なのではないかと、個人的には思っています。
(趣味に合わなかったとしても役には立ちますから。普段使うものよりワンランク上の品だと、なお良し。)
一番気軽にやりとりできるのは、お菓子や食品などなのですが…アレルギーやNG(持病に良くないもの、禁酒などの自主制限)があると、ちょっと難しいかな…と。
自分がかつて所属していたサークルでは、何かといってはメンバーにプレゼントを贈る「伝統」があったのですが、いつも悩みに悩んでいました。
贈る相手は親しい人間とは限らず、趣味や好みも分からない先輩や後輩もいます。
そして時には「皆からお金を徴収し、代表してプレゼントを買いに行く」こともあり、責任重大でした。
そんな時、自分がプレゼント選びのポイントにしたのが「エピソードを語れるプレゼント」でした。
たとえばサークルの大変な役職に就いた同級生への「就任祝い」には「疲れた時にはこれで癒されてください」という「リラクゼーショングッズ一式(入浴剤やアロマ?とかのいろいろ入った箱詰め)」。
同じフルートパートの先輩へのプレゼント(確か引退時のプレゼントか何かだったかと…)には「先輩が定期演奏会でソロを務めた曲のオルゴール」…といった風に。
…正直「何だこのプレゼントは!」と言われないための「言い訳」と言えなくもありません。
私見ですが、そもそも趣味も好みも価値観もまるで違う「他人」が選ぶのですから、その人が100%望むプレゼントなんて(事前にリクエスト受付でもしない限り)無理なのではないでしょうか?
ならばせめて「その人のことを考えて選んだプレゼント」だと伝わるモノの方が、喜ばれる確率は上がるのではないでしょうか?
もっとも、選んだモノによっては「私(俺)のこと全然分かってない」と思われてしまうかも知れませんが…。
あるいは、こういう考え方自体「善意の押しつけ」のように受け取られて、嫌がられてしまう可能性もありますが…。
少なくとも「自分の趣味」を押しつけたプレゼントや、変に奇をてらったプレゼントよりは良いのではないでしょうか?
(サークルでもらったプレゼントの中には「宝くじ1枚」とかも普通にありました…。夢はあるかも知れませんけど、ハズレたらタダの紙キレなんですよね…。なお、ハズレでした。)
あと、自分が心がけているのは「喜ばれなかったからと言ってネガティブにならない」ことです。
上にも書いたように、その人ならぬ「他人」が選ぶプレゼントに「絶対」などあるわけがありません。
きっと、どんな「プレゼント選びの達人」だって「100%ヒット」とは行かず「打ちもらす」ものもあることでしょう。
たとえプレゼントが喜ばれなかったとしても、その時は「あぁ…今回はハズレちゃったかぁ…」と軽くガッカリする程度で済ませておけば、後々変に感情をこじらせずに済むのではないかと。
間違っても「こんなに考えて選び抜いたプレゼントなのに、この程度の反応だなんて許せない!」「このプレゼントをこんなに雑に扱うなんてあり得ない!」と思い詰めない方が心身の健康のためかと。
個人的には、プレゼントとは「贈ってくれた相手がそれを選ぶために費やした手間と時間」も含めて受け取るものだと思っています。
ぶっちゃけ、もらったモノが「趣味に合わない」こともありますが、重要なのは相手が自分のために使ってくれた「手間と時間」。
プレゼントを贈る・贈られるとは、結局のところ「コミュニケーション」なんですよね。
「おはよう」や「ありがとう」に「何だその言い方はァ!」と憤る人なんていませんよね(…まぁ、世の中にはそういう人もいるかも知れませんけど…)?
「プレゼント」も同じで、中身がどうこうというものではないのではないでしょうか?
たとえ趣味に合わないものを贈られても「それはそれ、これはこれ」なのです。
(…まぁ「扱い」に困るものはありますけど…。サークルにいる間だけで何個のマグカップが溜まってしまったことか…。未だに手をつけずにしまってあるものも何個もありますし(食器棚の一部を自分のマグカップだけで独占してしまっていて申し訳ないのです)…。ハンカチとかだったら消耗が早いので何とかなるのですが、マグカップはそうそう割れるものでもないので…。なぜか、グラスはやたら割れるのですが…。)
…とは言え、誰もが皆そういう考えではないでしょうし、きっと「要らん物もらった…ゴミになる」という人もいることでしょう。
ですが、まぁ「それはそれ、これはこれ」。
プレゼントした相手が「ハズレだった」というだけのことなのです。
憤ったところで相手の性格が変わるわけでもなし、こちらの感情が疲弊して損をするだけです。
プレゼントのやりとりをする際には、この「相手の反応を期待しない」「プレゼントの中身を期待しない」を心がけておくだけで、だいぶ気持ちがラクになるかと。
なお「相手を想ったエピソード付きのプレゼント」は「ちょっとした知り合い」程度の相手だと逆に「重い」と引かれかねませんので、部活やサークル仲間のような「長い時間苦楽を共にしてきた相手」や「親しい相手」のみにしておいた方が良いかと(「誤解されたくない」異性相手にも注意した方が良いかと)。
ちょっとした知り合い程度の方へは、結局「実用的な消耗品」が一番なのではないかと、個人的には思っています。
(趣味に合わなかったとしても役には立ちますから。普段使うものよりワンランク上の品だと、なお良し。)
一番気軽にやりとりできるのは、お菓子や食品などなのですが…アレルギーやNG(持病に良くないもの、禁酒などの自主制限)があると、ちょっと難しいかな…と。
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以前から語っている通り、自分はaiboやロボホンのようなAI搭載ロボットには大いに興味がありますし、「人間にはできないこと」や「ヒューマンエラー防止」のためにAIを活用することには賛成なのですが…
世の中を見ていると、一部のAIの使い方に「ん?」と思ってしまうことがあります。
特に疑問に思うのが「趣味」や「生きがい」分野でのAI利用なのですが…
…「人間」が楽しむべきことを「AI」にやらせるのって、趣味や生きがいとして本末転倒にもほどがありませんか…?
例えるなら「趣味のための道具は用意したけど、後は全部AIにやらせて、自分は傍で見ているだけ」みたいな状態ですけど…
それ、本当に「趣味」や「生きがい」として成立しているんでしょうか??
「趣味」というものは100%全部が「楽しい作業」だけで構成されているわけではありません。
中には面倒な作業や、地道で飽きてしまいそうな作業、しんどい作業や行き詰まってしまう作業もあるでしょう。
ですが、それも全部ひっくるめて「自分の手」でやるからこそ、終わった時に「達成感」を味わえるのではないでしょうか?
蕎麦屋やコンビニ、スーパーでさえ安価で美味しい蕎麦が簡単に手に入る現代で、それでも蕎麦の「手打ち」に挑みたがる人間が多いのは、そこに「自分の手で作るからこその価値」があるからなのではないでしょうか?
あるいは、便利で快適に過ごせる街中を離れ、わざわざ不便な山でキャンプする人が多いのは、そこに「(衣)食住を自分たちの手で組み立てることの価値」があるからなのではないでしょうか?
あるいは、完成したところで自己満足以外の何の意味もない数百・数千ピースのパズルを延々と組み立てる人がいるのは、そこに「地道で気の遠くなる作業の果てにしか味わえない何か」があるからなのではないでしょうか?
「便利であること」と「幸せであること」はイコールではない、と言います。
それは「便利であるはずの現代」で、心の病に苦しむ人や自殺する人がこれほどまでに多いという事実を見れば、明らかなのではないでしょうか?
人間は「便利だー!便利だー!」で、すぐ機械やAIに頼りがちですが…
便利さと引き換えに、本来なら味わえていたはずの「人間として大切な何か」「人生にとって必要な何か」を棄ててしまってはいませんか?
自分は創作を趣味とする人間なので、多少は分かるのですが…
とことん困難にぶち当たっても、その壁を「自分の」知恵や工夫で突破できた時の快感は、承認欲求など軽く超えます。
(なので自分は、他者の評価をあまり気にしないのかも知れません。)
嘘偽り無く「自分の力で」困難を乗り越えたことを、自分自身がその目で見て知っているので、自己肯定感にも繋がります。
おそらく「借りものの力で」乗り越えられたとしても、あれほどの喜びは感じられないことでしょう。
自分でも予想だにしなかった成果を「自分自身の力で」生み出せた時、人は「自分にはまだこんな可能性があったんだ」「自分もまだまだ棄てたものじゃない」と本気で実感できるのです。
子どもの頃「それまでできなかったこと」が1つできるようになるたびに、嬉しくありませんでしたか?
ひらがなの「あ」が書けるようになった…逆上がりができるようになった…
(「あ」って、ひらがなの一番最初の文字のくせに、いきなり難易度が高過ぎやしませんでしたか?)
大人からすれば「そんなことか」と思うようなことでも…自分が一歩一歩「進化」しているように感じられて、わくわくしませんでしたか?
人間は本来「できなかったことができるようになる」だけでも喜びを感じられる生き物なのです。
「他人に認められないと意味がない」「結果が出ないと意味がない」「できてもこんなレベルじゃ意味がない」と変に理由をつけて、その喜びを自分で「無きもの」にしてしまう人も多いですが…
「趣味」や「生きがい」って、本来「そういうもの」なのではないでしょうか?
不出来でも、他者に称賛されるクオリティーでなかったとしても、自分のささやかな成長を見出して、自分で自分を褒めてあげられる…
そのために「自分の力」で何かを為すのが「趣味」「生きがい」なのではないでしょうか?
AIに委ねてしまったなら、たとえどんなに素晴らしいクオリティーのものが出来上がったとしても、そこには「自分の力」も「自分の成長」も存在しません。
そもそも、そこに「自分の」意思や努力や工夫が存在しないなら、それは「趣味」でも「生きがい」でもなく、単なる「確認作業」で「流れ作業」にしかならないのです。
おそらく、今「趣味」や「創作」の分野でAIを利用している人々は、そういった趣味本来の「喜び」を未だ知らない人たちなのではないでしょうか?
「達成感」や「喜び」に至る「前の段階」で放り出して、諦めてしまった人…
あるいは始める前から「自分の可能性」を諦めてしまっている人…
あるいは「AIにやらせるなんてもったいない」と思えるほど打ち込めるものに出逢えていない人、それを探すのを諦めてしまっている人…
そういう「趣味をやることの本当の意義や意味」を見出せていない人々だからこそ、「自力」ではなく「他力」の自動生成でも満足できてしまえるのではないでしょうか?
昨今、ネットの世界では「自力」で趣味・創作を楽しむ人々と「生成AI」の生成物を“自慢”したがる人々との間での「対立」が散見されます。
どうにも生成AI利用者は「自力で趣味を楽しむ人々から反発される理由」が理解できていないようで「生成AI作品だと分かる前は褒めてもらえていたのに、分かってからは何も言われなくなった」という嘆きの声さえ見られるのですが…
それって「それはそうなるだろう」という案件なんですよね…。
「自力」で趣味を楽しむ人々の前に「他力」の作品を持っていって“自慢”するなんて…
例えるなら、「定年したから手打ち蕎麦始めたぞ」と報告してきた人に「こんなに美味くて安く買える良い既製品がありますよ」などと言って機械製麺のパッケージ商品を持って行くくらい「無粋」なことなんですよね…。
あるいは、林間学校の野外調理で一生懸命カレーを作った子どもたちに「こっちの方が断然美味いだろ」とレトルトカレーを出してくるくらい「空気が読めない」行為なんですよね…。
さらに生成AIの場合、生成物の学習背景に「自力で作品を生み出してきた先達たちの努力や苦悩の結晶」があるため、余計にクリエイターからの心証が悪いというのもあります。
生成AI作品を披露したいなら、せめて発表すべき場(※)は「趣味」「創作」のコミュニティではなく、ITやテクノロジー方面のコミュニティであるべきなのですが…その辺りの「棲み分け」や「人間の心の機微」が分かっていない方も多いのでしょうね…。
※そもそも「著作権的にどうなのか」まだ国内判例もできていない技術なので、コンプラを気にする自分は発表そのものに「慎重派」ですが(←著作権的に合法か違法かって、世論が決めることでも省庁が決めることでもなく、法を司る「裁判所」が決めることなんですよ…。で、まだ国内での「判断」はされていないという)。
(あるいは全てを分かっていて、他者の努力を卑下して嘲笑したいがために生成AI作品の“自慢”をしてくる人もいるのかも知れませんが…そもそも「他力」である以上「自」慢にはなっていないんですよね…。IT・テクノロジーのコミュニティならプロンプトの出来で褒めてくれる人もいるかも知れませんが、趣味・創作コミュニティでそれをされても「それで『君』は何が創れるの?」って話で、そもそも同じ土俵に上がってすらいないんですよね…。「趣味・創作コミュニティを生成AIで荒らしたい人」の言動の裏には「特技を持たないコンプレックスの裏返し」と「特技を持つ者への対抗心・復讐心」めいたものが透けて見えてしまっている気がして、そこが何とも物悲しい気分になるのですが…気のせいでしょうか?)
趣味に向き合う態度は人それぞれですし「そんなに壮大な達成感や多幸感なんて味わえなくても、ラクして暇つぶしができればいい」というのも、それはそれで1つの人生なのでしょう。
ただ…「もったいない」です。
趣味や創作に本気で打ち込んでいると、そこに「自分でも知らなかった自分の一面」を発見することがよくあります。
「自分にはこんなことができたんだ」「この歳からでも、こんなに成長できるんだ」と、自分の可能性に気づき、それが自信や自己肯定にも繋がっていくのです。
「自力」で何かに打ち込まず、「借りものの他力」だけで全てをこなしてしまう人は、きっと「自分が本当はどんな人間なのか」「どんな秘められた可能性があるのか」を知ることもなく、一生を終えてしまうのでしょう。
人間は、ただ食べていくためだけ、ただ金を稼ぐためだけに生きていけるほど単純な生き物ではありません。
人間が人間らしく生きていくためには「生きがい」だとか「やりがい」だとか「自己肯定感」だとか「自分探し」だとか「ささやかな幸せ」だとか、そういう「目に見えない何か」が必要なのです。
現代人はお金やフォロワー数などの「目に見える数字」ばかり追って、いつの間にかそういう「見えないけれど人生に必要なもの」を追うことを忘れてしまっているのではないでしょうか?
だから生きづらくなったり、心の病にかかる人が増えたりしているのではないでしょうか?
昭和レトロやアナログ回帰など、過去の時代の「人間味」を求める人が多いのも、そんな現代への反動なのではないでしょうか?
技術の進歩は確かに便利で素晴らしいことなのかも知れませんが…
それが「人間らしさ」や「人が人として生きること」を否定するものだとしたら、人類の幸福にとっては逆に「退化」なのではないでしょうか?
まして「AI作品を賛美して人間が作った作品をばかにする人」のように「人類の価値を人類自身が否定する」なんて、あまりにばかばかし過ぎやしませんか?
「他人」を嘲笑するつもりで、いつの間にか自分自身もひっくるめた「人類そのもの」を嘲笑している…
「他人の生きがい」を否定しているつもりで、自分自身もひっくるめた「人類そのものの生きがい」をも否定してしまっている…
そのことに気づかず、どんどん「自分の生きる世界」を自分自身の手で「生きづらく」してしまっている人が多い気がするのですが…
このまま「AIスゴイ!それに比べて人間のやることに価値なんて無い!」という風潮がどんどん加速してしまったら、今後普通に「生きる意味」を見失って鬱に陥る人が激増しませんか?
少なくとも自分は、そんなお先真っ暗な世界は真っ平御免です。
(うつ病増加→働けない人増加→税収減→社会サービス低下&さらなる増税で、普通に「いいこと無し」ですから…。)
なので、焼け石に水だとしても、何とか「人間が人間であることの価値」や「希望」を、細々とでも世に発信していけたらな…と思うのです。
世の中を見ていると、一部のAIの使い方に「ん?」と思ってしまうことがあります。
特に疑問に思うのが「趣味」や「生きがい」分野でのAI利用なのですが…
…「人間」が楽しむべきことを「AI」にやらせるのって、趣味や生きがいとして本末転倒にもほどがありませんか…?
例えるなら「趣味のための道具は用意したけど、後は全部AIにやらせて、自分は傍で見ているだけ」みたいな状態ですけど…
それ、本当に「趣味」や「生きがい」として成立しているんでしょうか??
「趣味」というものは100%全部が「楽しい作業」だけで構成されているわけではありません。
中には面倒な作業や、地道で飽きてしまいそうな作業、しんどい作業や行き詰まってしまう作業もあるでしょう。
ですが、それも全部ひっくるめて「自分の手」でやるからこそ、終わった時に「達成感」を味わえるのではないでしょうか?
蕎麦屋やコンビニ、スーパーでさえ安価で美味しい蕎麦が簡単に手に入る現代で、それでも蕎麦の「手打ち」に挑みたがる人間が多いのは、そこに「自分の手で作るからこその価値」があるからなのではないでしょうか?
あるいは、便利で快適に過ごせる街中を離れ、わざわざ不便な山でキャンプする人が多いのは、そこに「(衣)食住を自分たちの手で組み立てることの価値」があるからなのではないでしょうか?
あるいは、完成したところで自己満足以外の何の意味もない数百・数千ピースのパズルを延々と組み立てる人がいるのは、そこに「地道で気の遠くなる作業の果てにしか味わえない何か」があるからなのではないでしょうか?
「便利であること」と「幸せであること」はイコールではない、と言います。
それは「便利であるはずの現代」で、心の病に苦しむ人や自殺する人がこれほどまでに多いという事実を見れば、明らかなのではないでしょうか?
人間は「便利だー!便利だー!」で、すぐ機械やAIに頼りがちですが…
便利さと引き換えに、本来なら味わえていたはずの「人間として大切な何か」「人生にとって必要な何か」を棄ててしまってはいませんか?
自分は創作を趣味とする人間なので、多少は分かるのですが…
とことん困難にぶち当たっても、その壁を「自分の」知恵や工夫で突破できた時の快感は、承認欲求など軽く超えます。
(なので自分は、他者の評価をあまり気にしないのかも知れません。)
嘘偽り無く「自分の力で」困難を乗り越えたことを、自分自身がその目で見て知っているので、自己肯定感にも繋がります。
おそらく「借りものの力で」乗り越えられたとしても、あれほどの喜びは感じられないことでしょう。
自分でも予想だにしなかった成果を「自分自身の力で」生み出せた時、人は「自分にはまだこんな可能性があったんだ」「自分もまだまだ棄てたものじゃない」と本気で実感できるのです。
子どもの頃「それまでできなかったこと」が1つできるようになるたびに、嬉しくありませんでしたか?
ひらがなの「あ」が書けるようになった…逆上がりができるようになった…
(「あ」って、ひらがなの一番最初の文字のくせに、いきなり難易度が高過ぎやしませんでしたか?)
大人からすれば「そんなことか」と思うようなことでも…自分が一歩一歩「進化」しているように感じられて、わくわくしませんでしたか?
人間は本来「できなかったことができるようになる」だけでも喜びを感じられる生き物なのです。
「他人に認められないと意味がない」「結果が出ないと意味がない」「できてもこんなレベルじゃ意味がない」と変に理由をつけて、その喜びを自分で「無きもの」にしてしまう人も多いですが…
「趣味」や「生きがい」って、本来「そういうもの」なのではないでしょうか?
不出来でも、他者に称賛されるクオリティーでなかったとしても、自分のささやかな成長を見出して、自分で自分を褒めてあげられる…
そのために「自分の力」で何かを為すのが「趣味」「生きがい」なのではないでしょうか?
AIに委ねてしまったなら、たとえどんなに素晴らしいクオリティーのものが出来上がったとしても、そこには「自分の力」も「自分の成長」も存在しません。
そもそも、そこに「自分の」意思や努力や工夫が存在しないなら、それは「趣味」でも「生きがい」でもなく、単なる「確認作業」で「流れ作業」にしかならないのです。
おそらく、今「趣味」や「創作」の分野でAIを利用している人々は、そういった趣味本来の「喜び」を未だ知らない人たちなのではないでしょうか?
「達成感」や「喜び」に至る「前の段階」で放り出して、諦めてしまった人…
あるいは始める前から「自分の可能性」を諦めてしまっている人…
あるいは「AIにやらせるなんてもったいない」と思えるほど打ち込めるものに出逢えていない人、それを探すのを諦めてしまっている人…
そういう「趣味をやることの本当の意義や意味」を見出せていない人々だからこそ、「自力」ではなく「他力」の自動生成でも満足できてしまえるのではないでしょうか?
昨今、ネットの世界では「自力」で趣味・創作を楽しむ人々と「生成AI」の生成物を“自慢”したがる人々との間での「対立」が散見されます。
どうにも生成AI利用者は「自力で趣味を楽しむ人々から反発される理由」が理解できていないようで「生成AI作品だと分かる前は褒めてもらえていたのに、分かってからは何も言われなくなった」という嘆きの声さえ見られるのですが…
それって「それはそうなるだろう」という案件なんですよね…。
「自力」で趣味を楽しむ人々の前に「他力」の作品を持っていって“自慢”するなんて…
例えるなら、「定年したから手打ち蕎麦始めたぞ」と報告してきた人に「こんなに美味くて安く買える良い既製品がありますよ」などと言って機械製麺のパッケージ商品を持って行くくらい「無粋」なことなんですよね…。
あるいは、林間学校の野外調理で一生懸命カレーを作った子どもたちに「こっちの方が断然美味いだろ」とレトルトカレーを出してくるくらい「空気が読めない」行為なんですよね…。
さらに生成AIの場合、生成物の学習背景に「自力で作品を生み出してきた先達たちの努力や苦悩の結晶」があるため、余計にクリエイターからの心証が悪いというのもあります。
生成AI作品を披露したいなら、せめて発表すべき場(※)は「趣味」「創作」のコミュニティではなく、ITやテクノロジー方面のコミュニティであるべきなのですが…その辺りの「棲み分け」や「人間の心の機微」が分かっていない方も多いのでしょうね…。
※そもそも「著作権的にどうなのか」まだ国内判例もできていない技術なので、コンプラを気にする自分は発表そのものに「慎重派」ですが(←著作権的に合法か違法かって、世論が決めることでも省庁が決めることでもなく、法を司る「裁判所」が決めることなんですよ…。で、まだ国内での「判断」はされていないという)。
(あるいは全てを分かっていて、他者の努力を卑下して嘲笑したいがために生成AI作品の“自慢”をしてくる人もいるのかも知れませんが…そもそも「他力」である以上「自」慢にはなっていないんですよね…。IT・テクノロジーのコミュニティならプロンプトの出来で褒めてくれる人もいるかも知れませんが、趣味・創作コミュニティでそれをされても「それで『君』は何が創れるの?」って話で、そもそも同じ土俵に上がってすらいないんですよね…。「趣味・創作コミュニティを生成AIで荒らしたい人」の言動の裏には「特技を持たないコンプレックスの裏返し」と「特技を持つ者への対抗心・復讐心」めいたものが透けて見えてしまっている気がして、そこが何とも物悲しい気分になるのですが…気のせいでしょうか?)
趣味に向き合う態度は人それぞれですし「そんなに壮大な達成感や多幸感なんて味わえなくても、ラクして暇つぶしができればいい」というのも、それはそれで1つの人生なのでしょう。
ただ…「もったいない」です。
趣味や創作に本気で打ち込んでいると、そこに「自分でも知らなかった自分の一面」を発見することがよくあります。
「自分にはこんなことができたんだ」「この歳からでも、こんなに成長できるんだ」と、自分の可能性に気づき、それが自信や自己肯定にも繋がっていくのです。
「自力」で何かに打ち込まず、「借りものの他力」だけで全てをこなしてしまう人は、きっと「自分が本当はどんな人間なのか」「どんな秘められた可能性があるのか」を知ることもなく、一生を終えてしまうのでしょう。
人間は、ただ食べていくためだけ、ただ金を稼ぐためだけに生きていけるほど単純な生き物ではありません。
人間が人間らしく生きていくためには「生きがい」だとか「やりがい」だとか「自己肯定感」だとか「自分探し」だとか「ささやかな幸せ」だとか、そういう「目に見えない何か」が必要なのです。
現代人はお金やフォロワー数などの「目に見える数字」ばかり追って、いつの間にかそういう「見えないけれど人生に必要なもの」を追うことを忘れてしまっているのではないでしょうか?
だから生きづらくなったり、心の病にかかる人が増えたりしているのではないでしょうか?
昭和レトロやアナログ回帰など、過去の時代の「人間味」を求める人が多いのも、そんな現代への反動なのではないでしょうか?
技術の進歩は確かに便利で素晴らしいことなのかも知れませんが…
それが「人間らしさ」や「人が人として生きること」を否定するものだとしたら、人類の幸福にとっては逆に「退化」なのではないでしょうか?
まして「AI作品を賛美して人間が作った作品をばかにする人」のように「人類の価値を人類自身が否定する」なんて、あまりにばかばかし過ぎやしませんか?
「他人」を嘲笑するつもりで、いつの間にか自分自身もひっくるめた「人類そのもの」を嘲笑している…
「他人の生きがい」を否定しているつもりで、自分自身もひっくるめた「人類そのものの生きがい」をも否定してしまっている…
そのことに気づかず、どんどん「自分の生きる世界」を自分自身の手で「生きづらく」してしまっている人が多い気がするのですが…
このまま「AIスゴイ!それに比べて人間のやることに価値なんて無い!」という風潮がどんどん加速してしまったら、今後普通に「生きる意味」を見失って鬱に陥る人が激増しませんか?
少なくとも自分は、そんなお先真っ暗な世界は真っ平御免です。
(うつ病増加→働けない人増加→税収減→社会サービス低下&さらなる増税で、普通に「いいこと無し」ですから…。)
なので、焼け石に水だとしても、何とか「人間が人間であることの価値」や「希望」を、細々とでも世に発信していけたらな…と思うのです。
自分には物心ついた時から「他人をうらやましがる」という気持ちがありません。
それはべつに高尚な精神の持ち主だからというわけでも何でもなく、「人間なんて皆『一寸先は闇』『人間万事塞翁が馬』『禍福はあざなえる縄のごとし』なのに、何をうらやましがる要素があるっていうんだろう?」という、大変に可愛げのない思考回路の持ち主だからです。
目先の成功や幸福は、後に来る挫折や絶望の「前フリ」に過ぎないかも知れません。
この先の未来に何が待ち受けているかなんて、誰にも分からないのです。
むしろ、他人の幸せや成功を素直に羨ましがるなんて「その幸せや成功が『永遠に続く』と思っているドリーマーなのかな」と冷めた目で見てしまいますし…
「そんなものをいちいち羨ましがって自分の精神状態を悪化させるなんて『時間や人生の無駄』だ」と思ってしまいます。
実際、ひと昔前にテレビに出ずっぱりだった「時の人」が、今では「誰だっけ?」「そんな人いたっけ?」というくらい忘れ去られていることって、よくあるじゃないですか。
「時代の寵児」ともてはやされた成功者が、時代の変化とともに凋落して何もかも失うというのも、よくある話じゃないですか。
そんな浮き沈みの激しい世の中で、「一時的に浮かび上がっただけの人」をいちいち羨ましがって、醜い感情に振り回されるなんて、ばからしい話だと思いませんか?
後になれば絶対に「あれは無駄な時間だった」「なんであんな人を羨ましがっていたんだろう」となるに決まっています。
嫉妬している時間があるなら、その時間で「自分が幸せになるための行動」を起こした方が、よほど有意義だと思ってしまいます。
…それくらい自分は、シビアに世の中を見てしまうリアリストなのです。
自分がこんな心の境地にたどり着いた背景には、たぶん「自分の人生は自分で切り拓いていくしかない」「誰かが勝手に幸せにしてくれるなんてあり得ない」「むしろ、油断していたら命さえ失いかねない」という危機感と自立心があるせいだと思います。
以前の記事にも書いた通り、自分は「あと数歩(※)で死ぬかもしれない目に遭った」ことが何度かあります。
(※「あと一歩」というほど切迫した状況ではなかったものの、死を意識するには充分な危機的場面。)
その時の「誰にも助けてもらえなかった」「自分で何とかするしかなかった」「いざという時に他人任せでは命が危ない」という意識から、人生に対する危機感や自立心が芽生えたのではないかと…。
そして、そんな危機感や自立心を持って人生を歩んでいると、実際のところ「他人をうらやんでいる暇」が無いのです。
常に「これを備えておかないとマズい」「立ち塞がるこの壁を壊さないことには、本当の幸せにはたどり着けない」…と、やることがいっぱいあり過ぎて、そもそも「自分とは関係ない所で生きている他人」を気にしている余裕が無いのです。
自分の人生を切り拓くために「努力」するのは、疲れます。
無駄に終わるかも知れませんので、不安も焦燥もあります。
でも「誰かが勝手に人生を良くしてくれるわけなどない」ので、自分の手でやるしかないのです。
こうして必死に人生を歩んでいると、思います。
「世の中、本当にラクして人生を生きている人なんて、1人もいないんじゃないか?」と。
誰かの成功や幸運は、知られざる「死に物狂いの努力」の結果なのかも知れません。
「成功して『ズルい』」などと思う余地もないほど「当然の報い(良い意味での)」なのかも知れません。
それを知らずに「ズルい」などと思ってしまったら、こちらの方が「何も分かっていない」「何も見えていない」ことになってしまうではないですか。
もし自分自身、必死に努力し、苦労した末に成功を掴むことができたとして――それを、何も知らない誰かに「ズルい」と嫉妬され、いわれのない誹謗中傷をされたら、嫌じゃないですか?
少なくとも自分は、この世界が「そんな世界」であって欲しくないと思っています。
だから、いろいろな意味で、他人に嫉妬を抱かないのです。
嫉妬を抱く前に「この人生において、本当の成功って何だろう?」「あの人の『成功』は、うらやましがるほど自分にとって魅力的なものなんだろうか?」と考えます。
それに「成功した他人」が自分に幸せをもたらしてくれることだって、あるとは思いませんか?
「成功」して「新しい産業を興した」人がいるなら、その人は新たな雇用を生み出してくれます。
「成功」して「知名度を得た」人がいるなら、その人はその影響力を活かして、社会を良い方向に変えてくれるかも知れません。
…もちろん「そうでない」場合も多いのでしょうが…
少なくとも「他人の成功は自分の不幸」という「思い込み」に支配されない方が、人生楽しく生きていけると思いませんか?
それはべつに高尚な精神の持ち主だからというわけでも何でもなく、「人間なんて皆『一寸先は闇』『人間万事塞翁が馬』『禍福はあざなえる縄のごとし』なのに、何をうらやましがる要素があるっていうんだろう?」という、大変に可愛げのない思考回路の持ち主だからです。
目先の成功や幸福は、後に来る挫折や絶望の「前フリ」に過ぎないかも知れません。
この先の未来に何が待ち受けているかなんて、誰にも分からないのです。
むしろ、他人の幸せや成功を素直に羨ましがるなんて「その幸せや成功が『永遠に続く』と思っているドリーマーなのかな」と冷めた目で見てしまいますし…
「そんなものをいちいち羨ましがって自分の精神状態を悪化させるなんて『時間や人生の無駄』だ」と思ってしまいます。
実際、ひと昔前にテレビに出ずっぱりだった「時の人」が、今では「誰だっけ?」「そんな人いたっけ?」というくらい忘れ去られていることって、よくあるじゃないですか。
「時代の寵児」ともてはやされた成功者が、時代の変化とともに凋落して何もかも失うというのも、よくある話じゃないですか。
そんな浮き沈みの激しい世の中で、「一時的に浮かび上がっただけの人」をいちいち羨ましがって、醜い感情に振り回されるなんて、ばからしい話だと思いませんか?
後になれば絶対に「あれは無駄な時間だった」「なんであんな人を羨ましがっていたんだろう」となるに決まっています。
嫉妬している時間があるなら、その時間で「自分が幸せになるための行動」を起こした方が、よほど有意義だと思ってしまいます。
…それくらい自分は、シビアに世の中を見てしまうリアリストなのです。
自分がこんな心の境地にたどり着いた背景には、たぶん「自分の人生は自分で切り拓いていくしかない」「誰かが勝手に幸せにしてくれるなんてあり得ない」「むしろ、油断していたら命さえ失いかねない」という危機感と自立心があるせいだと思います。
以前の記事にも書いた通り、自分は「あと数歩(※)で死ぬかもしれない目に遭った」ことが何度かあります。
(※「あと一歩」というほど切迫した状況ではなかったものの、死を意識するには充分な危機的場面。)
その時の「誰にも助けてもらえなかった」「自分で何とかするしかなかった」「いざという時に他人任せでは命が危ない」という意識から、人生に対する危機感や自立心が芽生えたのではないかと…。
そして、そんな危機感や自立心を持って人生を歩んでいると、実際のところ「他人をうらやんでいる暇」が無いのです。
常に「これを備えておかないとマズい」「立ち塞がるこの壁を壊さないことには、本当の幸せにはたどり着けない」…と、やることがいっぱいあり過ぎて、そもそも「自分とは関係ない所で生きている他人」を気にしている余裕が無いのです。
自分の人生を切り拓くために「努力」するのは、疲れます。
無駄に終わるかも知れませんので、不安も焦燥もあります。
でも「誰かが勝手に人生を良くしてくれるわけなどない」ので、自分の手でやるしかないのです。
こうして必死に人生を歩んでいると、思います。
「世の中、本当にラクして人生を生きている人なんて、1人もいないんじゃないか?」と。
誰かの成功や幸運は、知られざる「死に物狂いの努力」の結果なのかも知れません。
「成功して『ズルい』」などと思う余地もないほど「当然の報い(良い意味での)」なのかも知れません。
それを知らずに「ズルい」などと思ってしまったら、こちらの方が「何も分かっていない」「何も見えていない」ことになってしまうではないですか。
もし自分自身、必死に努力し、苦労した末に成功を掴むことができたとして――それを、何も知らない誰かに「ズルい」と嫉妬され、いわれのない誹謗中傷をされたら、嫌じゃないですか?
少なくとも自分は、この世界が「そんな世界」であって欲しくないと思っています。
だから、いろいろな意味で、他人に嫉妬を抱かないのです。
嫉妬を抱く前に「この人生において、本当の成功って何だろう?」「あの人の『成功』は、うらやましがるほど自分にとって魅力的なものなんだろうか?」と考えます。
それに「成功した他人」が自分に幸せをもたらしてくれることだって、あるとは思いませんか?
「成功」して「新しい産業を興した」人がいるなら、その人は新たな雇用を生み出してくれます。
「成功」して「知名度を得た」人がいるなら、その人はその影響力を活かして、社会を良い方向に変えてくれるかも知れません。
…もちろん「そうでない」場合も多いのでしょうが…
少なくとも「他人の成功は自分の不幸」という「思い込み」に支配されない方が、人生楽しく生きていけると思いませんか?
「不言実行タイプ」――行動を起こすにあたって、あるいは行動を起こす前に「想いを口にしない人間」あるいはそもそも「自分が何をやっているのか語らない人」は、何かと損だと感じます。
現代社会では特に…自分の信念や行動を堂々とアピールできる人間ばかりが注目され、沈黙する人間は「何もしていない」「何も考えていない」と見なされることも多々あります。
社会に出てからは、特にそれを痛感することになりました。
学生時代までの自分はむしろ「『自分はコレをやっています!』って、いちいちアピールするのは、褒められたくてやってるみたいでカッコ悪い」という考えでした。
そもそも謙遜・謙虚が美徳と信じて育ってきたので(幼少期に祖父母と過ごす時間が多かったことが影響しているのかと…)、アピール自体がどうにも苦手だったのです。
しかし、社会人になってから「どうにも、ソレでは駄目だ」と思うようになりました。
忙しい現代人は、他人のことなどロクに見ていません。
おとぎ話の魔法使いのように「密かに耐えて頑張っている子」や「黙って陰で善行を為す人」を見つけ出してくれる人は、ほとんどいないのです。
だから「自分はこんなことをしています!」とアピールされて初めて、他人の行動や、その裏にある想いに気づくのです。
下手をすると「誰にも何も言わずに、ただ黙々と目的に向かい努力する人」が評価されず、「口ばかり大袈裟で、実際にはそんなに大した働きをしていない人」の方が評価を上げる可能性だってあります。
物事の本質を見抜けない人間は、「見かけ倒しで実を伴わないアピール」にも、コロッと騙されてしまうからです。
「褒められるためのアピール」「自分をスゴく見せるためのアピール」はしたくないとしても、せめて「多少は他人に理解してもらえるように」、自分の行動や想いを、何らかの形で「ことばにしていく」必要性を、強く感じるようになりました。
…とは言え、アピール嫌いの人間がソレをするのは相当に難易度が高く、「練習」や「試行錯誤」をしながら、少しずつ表に出していっているような状態です。
しかし、アピールや思考の言語化の必要性は感じていても、それでも「やりたくない」ことはあります。
自分の中の想いや考えを「ことばにする」ということは、時に他人と衝突することを意味します。
あるいは、時に他人を傷つけてしまうことを意味します。
自分とは対立する意見の持ち主――特に、他者の意見に否定的で攻撃性の高い人物に、自分の大切なものを踏みにじられる可能性を意味します。
なので、「何でもかんでも表に出したい」「他人に知ってもらいたい」とは思わないのです。
他者からの肯定や協力を必要としないような「想い」や「考え」なら、自分の中だけで宝物のように慈しんでいても、べつに構わないのではないかと思うのです。
「自己満足」で満たされるのであれば、誰にも知られぬ善行をひっそりと為して、ひとりで満足するだけでも、べつに構わないのではないかと思うのです。
「他人から肯定してもらえなければ、自分を肯定できない」といった可愛げは元から持っていませんし、「他人に自分の意見を押しつけたい」という趣味も持っていません。
しかし、時に「他人の何かを否定し、相手から傷つけられても、出さなければならない意見」があることも知っています。
なので、出すものと出さないものを、見極め、選びながら、少しずつ少しずつ「ことばにする」のです。
その「見極め」や「選択」も、まだまだ難しかったりするのですが…。
現代社会では特に…自分の信念や行動を堂々とアピールできる人間ばかりが注目され、沈黙する人間は「何もしていない」「何も考えていない」と見なされることも多々あります。
社会に出てからは、特にそれを痛感することになりました。
学生時代までの自分はむしろ「『自分はコレをやっています!』って、いちいちアピールするのは、褒められたくてやってるみたいでカッコ悪い」という考えでした。
そもそも謙遜・謙虚が美徳と信じて育ってきたので(幼少期に祖父母と過ごす時間が多かったことが影響しているのかと…)、アピール自体がどうにも苦手だったのです。
しかし、社会人になってから「どうにも、ソレでは駄目だ」と思うようになりました。
忙しい現代人は、他人のことなどロクに見ていません。
おとぎ話の魔法使いのように「密かに耐えて頑張っている子」や「黙って陰で善行を為す人」を見つけ出してくれる人は、ほとんどいないのです。
だから「自分はこんなことをしています!」とアピールされて初めて、他人の行動や、その裏にある想いに気づくのです。
下手をすると「誰にも何も言わずに、ただ黙々と目的に向かい努力する人」が評価されず、「口ばかり大袈裟で、実際にはそんなに大した働きをしていない人」の方が評価を上げる可能性だってあります。
物事の本質を見抜けない人間は、「見かけ倒しで実を伴わないアピール」にも、コロッと騙されてしまうからです。
「褒められるためのアピール」「自分をスゴく見せるためのアピール」はしたくないとしても、せめて「多少は他人に理解してもらえるように」、自分の行動や想いを、何らかの形で「ことばにしていく」必要性を、強く感じるようになりました。
…とは言え、アピール嫌いの人間がソレをするのは相当に難易度が高く、「練習」や「試行錯誤」をしながら、少しずつ表に出していっているような状態です。
しかし、アピールや思考の言語化の必要性は感じていても、それでも「やりたくない」ことはあります。
自分の中の想いや考えを「ことばにする」ということは、時に他人と衝突することを意味します。
あるいは、時に他人を傷つけてしまうことを意味します。
自分とは対立する意見の持ち主――特に、他者の意見に否定的で攻撃性の高い人物に、自分の大切なものを踏みにじられる可能性を意味します。
なので、「何でもかんでも表に出したい」「他人に知ってもらいたい」とは思わないのです。
他者からの肯定や協力を必要としないような「想い」や「考え」なら、自分の中だけで宝物のように慈しんでいても、べつに構わないのではないかと思うのです。
「自己満足」で満たされるのであれば、誰にも知られぬ善行をひっそりと為して、ひとりで満足するだけでも、べつに構わないのではないかと思うのです。
「他人から肯定してもらえなければ、自分を肯定できない」といった可愛げは元から持っていませんし、「他人に自分の意見を押しつけたい」という趣味も持っていません。
しかし、時に「他人の何かを否定し、相手から傷つけられても、出さなければならない意見」があることも知っています。
なので、出すものと出さないものを、見極め、選びながら、少しずつ少しずつ「ことばにする」のです。
その「見極め」や「選択」も、まだまだ難しかったりするのですが…。
「将来、何になったら良いのか分からない」「自分に何が向いているのか分からない」「人生計画や進路が全く見えない」――こんな悩みを抱えている人は、結構多いのではないでしょうか。
十歳にも満たない幼い頃なら、無邪気に「〇〇になりたい!」なんて言っていられたのに…
十代以降になり、現実が見え始めると、途端に自分の将来を見失ってしまったりします。
また、学校の成績が悪かったり、他人からの評価が低かったりすると、「自分はどうせ、大したものになれないんだ」と落ち込んで、ますます先が見えなくなってしまったりします。
そんな時、どう生きればいいのか――?
個人的には、「好きなことを1つでも見つけて、それに打ち込む」ことが大事だと思います。
それはもちろん、勉強でも運動でも良いですし、勉強以外の遊び・趣味だって全然かまわないと思います。
(ただしもちろん、「他人に迷惑をかけないこと」というのが前提で。)
大切なのは、それを「心から好き」でいること。
なぜなら「好き」という気持ちは「がんばることがイヤじゃない」と思えるようになる“魔法の感情”だからです。
それどころか「がんばっている」という意識すらなく、いつの間にか知識やスキル(技術)が身についていたりします。
嫌いな科目の勉強は全く覚えられないのに、好きなゲームのキャラクターの名前はいくらでも覚えられたり、恐竜好きな子が恐竜の名前をいくらでも暗記していられるのは、そこに「好き」という気持ちがあるからです。
大人になると分かることですが、イヤイヤ覚えた知識はいつの間にか忘れてしまうのに、好きだったものや“遊び”の中で覚えた知識はしっかりと身について、いつまでも覚えていられたりするものです。
そうして「好きで覚えた知識やスキル」が将来につながれば、もちろん言うことは無いのですが…
もし、将来の職業に結びつかなかったとしても、「好きなこと」は人生に生きがいや充実感を与えてくれます。
たとえ学校や家や毎日の中で、何かイヤなことがあったとしても、「好きなこと」をしていれば、そのイヤなことを忘れられたり、その「好きなこと」のために毎日をがんばろうと思えたりします。
また、その「好きなこと」を通して、それまで出会えなかった人に出会えたり、知らなかったことを知ることができたりと、自分の世界が広がっていったりもします。
少なくとも、「自分には何も無いんだ」と絶望して何もせずにいるよりも、「好きなこと」を見つけて何かをしていた方が、将来の可能性は広がると思います。
たとえそれがムダに終わったとしても、「好きなことに打ちこんでいた」という思い出だけは残りますし…。
――ただ、「好きなこと」を「好きなままでいる」というのも、実は、なかなかに難しいことだったりします。
たとえば、好きで始めたスポーツでも、思うような結果が出なかったり、練習が苦しかったりすると、好きという気持ちを見失ってしまったり…
あるいは、好きなものを他人にけなされた時、何となく、それを「そのまま好きでいる」ことが難しくなってしまったり…
また、周りの人間の理解を得られず「そんなことしてないで勉強しなさい!」と叱られてしまったり…
そういったモノに負けないためには、自分の中でしっかりと「好き」の気持ちを強く育て、「この気持ちは自分にとって大切で、なくしちゃいけないものなんだ」と自分で自分に言い聞かせていくしかないと思います。
(できることなら、「好きなこと」をしていても文句を言われないように、学校の成績などをしっかりとっておくと、親からの攻撃はある程度減らせるかと思います。…あとは、隠れてこっそり「好きなこと」を続けるとか…。)
世界はシビアで残酷で、イヤなことや辛いことがたくさんあります。
そんな世界の中で「好きなこと」が1つでもあるということは、とても大事でかけがえのないことなのです。
なぜなら、純粋な「好き」の気持ちは「楽しい」や「幸せ」といったプラスの感情を生んで、人生を明るく彩ってくれるから…。
だから、既に「好きなこと」を見つけている人は、その気持ちを大切に…
そして、まだ見つけられていない人は、世の中を「つまらないもの」とあきらめてしまわずに、何か1つでも心動かされるものがないか、自分の気持ちにより深く注目してみると良いのではないかと思います。
そして、他人の「好きなこと」をけなさないこと。
たとえ他の人間の目から見たら「つまらないこと」「意味が無いこと」に見えたとしても、もしかしたらその人は、その「好きなこと」を心の支えにして、つらい毎日をかろうじて乗り越えているのかも知れません。
それを軽い気持ちでけなして、その人が「好き」という気持ちを失ってしまったら、その人の心はポッキリ折れてしまうかも知れません。
「好き」という気持ちはそれほどに大切で、だからこそ、それをわざと奪うことは、とても業の深いことだと思うのです。
十歳にも満たない幼い頃なら、無邪気に「〇〇になりたい!」なんて言っていられたのに…
十代以降になり、現実が見え始めると、途端に自分の将来を見失ってしまったりします。
また、学校の成績が悪かったり、他人からの評価が低かったりすると、「自分はどうせ、大したものになれないんだ」と落ち込んで、ますます先が見えなくなってしまったりします。
そんな時、どう生きればいいのか――?
個人的には、「好きなことを1つでも見つけて、それに打ち込む」ことが大事だと思います。
それはもちろん、勉強でも運動でも良いですし、勉強以外の遊び・趣味だって全然かまわないと思います。
(ただしもちろん、「他人に迷惑をかけないこと」というのが前提で。)
大切なのは、それを「心から好き」でいること。
なぜなら「好き」という気持ちは「がんばることがイヤじゃない」と思えるようになる“魔法の感情”だからです。
それどころか「がんばっている」という意識すらなく、いつの間にか知識やスキル(技術)が身についていたりします。
嫌いな科目の勉強は全く覚えられないのに、好きなゲームのキャラクターの名前はいくらでも覚えられたり、恐竜好きな子が恐竜の名前をいくらでも暗記していられるのは、そこに「好き」という気持ちがあるからです。
大人になると分かることですが、イヤイヤ覚えた知識はいつの間にか忘れてしまうのに、好きだったものや“遊び”の中で覚えた知識はしっかりと身について、いつまでも覚えていられたりするものです。
そうして「好きで覚えた知識やスキル」が将来につながれば、もちろん言うことは無いのですが…
もし、将来の職業に結びつかなかったとしても、「好きなこと」は人生に生きがいや充実感を与えてくれます。
たとえ学校や家や毎日の中で、何かイヤなことがあったとしても、「好きなこと」をしていれば、そのイヤなことを忘れられたり、その「好きなこと」のために毎日をがんばろうと思えたりします。
また、その「好きなこと」を通して、それまで出会えなかった人に出会えたり、知らなかったことを知ることができたりと、自分の世界が広がっていったりもします。
少なくとも、「自分には何も無いんだ」と絶望して何もせずにいるよりも、「好きなこと」を見つけて何かをしていた方が、将来の可能性は広がると思います。
たとえそれがムダに終わったとしても、「好きなことに打ちこんでいた」という思い出だけは残りますし…。
――ただ、「好きなこと」を「好きなままでいる」というのも、実は、なかなかに難しいことだったりします。
たとえば、好きで始めたスポーツでも、思うような結果が出なかったり、練習が苦しかったりすると、好きという気持ちを見失ってしまったり…
あるいは、好きなものを他人にけなされた時、何となく、それを「そのまま好きでいる」ことが難しくなってしまったり…
また、周りの人間の理解を得られず「そんなことしてないで勉強しなさい!」と叱られてしまったり…
そういったモノに負けないためには、自分の中でしっかりと「好き」の気持ちを強く育て、「この気持ちは自分にとって大切で、なくしちゃいけないものなんだ」と自分で自分に言い聞かせていくしかないと思います。
(できることなら、「好きなこと」をしていても文句を言われないように、学校の成績などをしっかりとっておくと、親からの攻撃はある程度減らせるかと思います。…あとは、隠れてこっそり「好きなこと」を続けるとか…。)
世界はシビアで残酷で、イヤなことや辛いことがたくさんあります。
そんな世界の中で「好きなこと」が1つでもあるということは、とても大事でかけがえのないことなのです。
なぜなら、純粋な「好き」の気持ちは「楽しい」や「幸せ」といったプラスの感情を生んで、人生を明るく彩ってくれるから…。
だから、既に「好きなこと」を見つけている人は、その気持ちを大切に…
そして、まだ見つけられていない人は、世の中を「つまらないもの」とあきらめてしまわずに、何か1つでも心動かされるものがないか、自分の気持ちにより深く注目してみると良いのではないかと思います。
そして、他人の「好きなこと」をけなさないこと。
たとえ他の人間の目から見たら「つまらないこと」「意味が無いこと」に見えたとしても、もしかしたらその人は、その「好きなこと」を心の支えにして、つらい毎日をかろうじて乗り越えているのかも知れません。
それを軽い気持ちでけなして、その人が「好き」という気持ちを失ってしまったら、その人の心はポッキリ折れてしまうかも知れません。
「好き」という気持ちはそれほどに大切で、だからこそ、それをわざと奪うことは、とても業の深いことだと思うのです。
<関連記事:嫌なことだらけの世の中でも、好きなものだけ好きでいればいい。>
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- 【備考】
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