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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
何となく感じることなのですが…
 
当たり前のこと」や「基本的なこと」が意外と語られていない…むしろ、これを語ることを避けている人が多くないでしょうか?
 
確かに「当たり前のこと」を語ると「今さら何でそんな『当たり前のこと』を語っているんだ」という目で見られることもあるでしょう。
 
それどころか、下手をすると知識レベルの低い人間に見られてしまうかも知れません。
 
しかし、それでも「当たり前のこと」や「基本」「基礎」を語るのは、大切で、重要で、誰かがやらなければならないことなのです。
 
なぜなら、ほとんどの人が「当たり前」だと思っているその情報を、まだ知らない人間も確実に存在するからです。
 
人間は皆、知識ゼロの状態から生まれてきて、成長とともに様々なことを学んでいきます。
 
どんなにIQの高い人間だろうと「まだ何も知らない」時期はあるのです。
 
どんなに当たり前な「常識」でも、必ずどこかで「最初にそれを教えてくれる何か」が必要になります。
 
でも、ネットでも、人との会話でも…教えてもらえないうちは(あるいは観察して学べないうちは)、人はそれを知らないままです。
 
どんなに知識を蓄えようと、人は必ずそのうちに、この世から退場していきます。
 
そして、まだ知識を持たない赤ん坊が次々に登場し、世代交代が起きます。
 
知識は世代間で勝手に引き継がれるものではなく何かしら「伝える手段」を残しておかなければ、継承されていかないのです。
 
しかし人は「当たり前だと思っていること」に関しては、あまり熱心に伝えたがりません。
 
何となく「当たり前のことなんだから、当たり前に受け継がれていくだろう」と思っているのかも知れません。
 
しかし、皆が皆「当たり前だから」と語らずにいたら、それはどこかで途切れてしまうのです。
 
1人の人間が一生のうちに触れられる知識・情報には限りがあります。
 
必ずどこかで知識・情報の「取りこぼし」が起きます。
 
皆が「当たり前」だと思っている知識や情報も、その人の置かれた環境によっては「一度も触れたことがないまま」かも知れないのです。
 
それに、基本や基礎をすっ飛ばしてしまうと、思わぬ「誤解」や「すれ違い」が生まれかねません。
 
素人に料理をやらせる企画などで「米を洗剤で洗おうとする」人がたまにいて、視聴者の笑いを誘ったりしていますが…
 
それも「米は水で研ぐ」という「基本」を知らないからこそ起こる誤解です。
 
基本を知らなければ「米を洗う?洗うと言ったら洗剤だ!」という思考になりかねない、ということです。
 
(中国では野菜の残留農薬を洗い流すための「洗剤」があるそうなので、食材に洗剤を使うということも、全く無いわけではないですし…。)
 
「当たり前」や「基本的なこと」を、わざわざ言葉で説明するのは、面倒なことです。
 
また、情報の受け取り手の側も「珍しい情報」「高等技術」「最新のもの」には食いついても、「当たり前」や「基本的な情報」にはあまり興味を示しません。
 
ですが、誰かがそれを発信し、さらにその「基本・基礎・当たり前の価値」を伝えなければ、世の中、いつの間にか誤解が蔓延し、非効率報われない世界になってしまいます。
 
なので、自分もコツコツと、できる範囲でそんな「当たり前」を伝えていきたいと思っています。
 
できれば、その「当たり前」に、皆が気づいていなさそうな独自の視点を加えて…。

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「世の中には危ない人がいるから気をつけて」「ネットの中には悪い人もたくさんいるから、無闇につながらないように」…
 
そういう忠告を聞くたびに、いつも思うことがあります。

「じゃあ、具体的に、何をどう気をつければ良いのか?」と。
 
脅しはかけても、具体的に「何に気をつけたら良いのか」「どう気をつけたら良いのか」を教えてくれないのでは、気をつけようがない気がするのですが…。
 
「気をつけようがない」人が選択する行動は、大雑把に分けて2つだと思います。
 
「気をつけようがないから気にしない」か、「何に気をつけたら良いか分からないから、何もかも全てに対して慎重になる」か…。
 
自分の場合、完全に後者で、現在進行形でSNSでの行動ポリシーが定められず、困っています。
 
SNSも、大きな企業やある程度の有名人なら、怪しいか怪しくないかは判断できます。
 
公式マークの有無や、公式サイトと繋がっているかどうか、あるいはフォロー・フォロワーの関係性を辿っていけば、ホンモノかニセモノかの判断ができるのですから…。
 
ですが、それ以外の「ごく普通の人」に関しては、判断のしようがありません
 
公式マークも何もあるわけがないですし、詐欺師が自ら「詐欺師です」と名乗ってアヤシイ投稿をしているわけがないですから…。
 
むしろ、これまでの様々な事件を見ていると、「ネットの中のアブない人」は、一見全く「アブない人には見えない人」なのだと思います。
 
なので、普段は疑り深い人までが騙され、心を許して大金を渡してしまう…あるいは家にまで行った挙句、事件に巻き込まれてしまう…そういうことなのではないでしょうか?
 
(ロマンス詐欺や、座間市の事件など、実際にSNSが発端となって起きた事件はいろいろあります。)
 
プロの詐欺師は「人を騙して信用させるテクニック」を、日夜磨いている人間です。
 
普通の人間が日々「学業」や「仕事」や「節約」「育児」等々に注いでいるエネルギーを、「人間心理を読んで、相手を自分に都合の良い方向に動かす技術」に注いでいる人たちなのです。
 
そんな詐欺行為のプロに対して、素人が「自分は見破れるから大丈夫!」などと思うべきではないのでしょう。
 
出逢う人をいちいち疑うのは申し訳ないですし、悪い人は全体のほんの数パーセント…大部分は善良な普通のユーザーだと思っています。
 
…しかし、ほんの数パーセントでも「そういう人がいる」ことが問題なのです。
 
そういう人と出逢ってしまう可能性がゼロではない…どころか、そういう人は常に「ターゲットを探して行動している」…そのことが問題なのです。
 
そして、そういう人がターゲットを見つけると、恐ろしく積極的にグイグイ来るでしょうから、押しに弱いタイプだと、特に危ないのではないかと思います。
 
また、SNSで怖いのは「犯罪者」だけではありません。
 
自分とは価値観の違う人間と「意見の相違」からトラブルになるというのも、よくあることです。
 
メンタルがそれほど強くない人間にとっては、そういう人間と「ぶつかる」ことだけでも恐ろしく、考えただけで憂鬱なことです。
 
たとえ意見が違っていても「大人の対応」で、お互いに上手くかわしていけることもあるでしょうが…
 
中には「何をどうしても引いてくれない」しつこく厄介な相手もいることでしょう。
 
自分の側がどんなに頑張って対処しても、相手の人格次第ではどうにもならないこともあります。
 
そして、そんな「相手の人格」は、パッと見の情報だけでは読めません。
 
そういう「厄介な人」とは「初めから繋がりたくない」のが正直なところですが…
 
そうすると、どういう人が「そういう人」なのか分からないSNS上で「交流を広げる」も何もあったものではありません。
 
SNSとは結局のところ「アブない人とうっかり繋がってしまったら終わり」な「フォロワー(フォロー)ガチャ」の「運ゲー」なのでしょうか…?
 
初めから、ある程度のリスクを承知で積極的に人と繋がっていくべきなのか…むしろ慎重に慎重を重ね、わずかでもリスクのありそうなことは避けていくべきなのか…
 
他のSNSユーザーさんが、実際にどんな風に他者と交流しているのか(そして、これまでにトラブルはなかったのか)、是非知りたいのですが…なかなかそういう情報が見つからずに、悩んでいます。
 
ちなみに、ツイッターを始めた当初は自分も「なるべく積極的に関わっていこう」という気持ちでいました。
 
しかし「繋がる相手は慎重に」という気持ちはあったので、「まずは相手のプロフィールや投稿をよく見てから決めよう」と思っていました。
 
なので、フォローやハートをつけてくださる方がいても、とりあえずはまず、その方のプロフィールや投稿を見ていたのですが…
 
「ダメだ…。ざっと見ただけじゃ、この家のネコが可愛いということしか分からない…」となり…
 
「フォローするかどうかは保留にして、とりあえず『お礼』代わりに、気に入ったネコ写真にハートをつけておこう」ということをしていたのですが…
 
なぜか、ハートをつけた相手からことごとく(…と言っても2~3人ですが)、フォローを外されたり、ハートを外されたりしました。
 
「え?これって、何か失礼な行為だったんだろうか…?」「コメントとか入れるべきだったのだろうか…?」と、頭の中が「?」だらけになりました。
 
(フォローしてくれた相手にハートをつけてフォロー外しされるのは「ハートじゃなくてフォローをくれ」ということだったのかも知れない…と何となく予測もつくのですが、ハートに対しハートを返してハートを外されるのは解せません…。ちなみに、フォローやハートを外されたからと言って、こちらもハートを外すような心の狭い人間ではありませんので、相手にはまだ自分の贈ったハートがついたままです。)
 
「もしかして、フォローされたからと言って、相手のプロフィールや投稿を読み込んだり、ハートをつけたりするのは『キモい』行為なのだろうか…?」ということも考えました。
 
確かに自分も「リアクションを全く期待していなかった相手から、急に反応をもらったらビビるかも知れないな…」とは思うのですが…
 
一方で、相手に自分を知って欲しい・積極的に繋がり合いたいというユーザーもいるはずです。
 
相手が「どちらのタイプか?」など、エスパーでもないのに分かるはずもありません。
 
そして自分は「相手がどんな人間なのかも分からないのに繋がることはできない」と考えるタイプです。
 
プロフィールや投稿を読み込まずして、フォローするかどうかなど、決めようがありません。
 
そうして「キモいと思われたら嫌だな…」と、相手のプロフィールや投稿をちゃんと見る勇気も持てないまま、現在に至っています。
 
(リアクションせずに「読む」だけならバレないとは思うのですが…何となく気持ち的に…。)
 
とは言え、何もリアクションしないのも失礼かも知れないな…と思うので、一応相手に「フォローしてくださって、ありがとうございます」の意思表示ができる手段はとっています。
 
(ついでに「フォローに対して慎重派です」ということが伝わるようなメッセージも入れています。その際、相手のプロフィールは「薄目」で、あまり見ないようにしています…。)
 
…もっとも、元々「そういう用途ではない」機能を使っていますので、相手に通知も行かないでしょうし、気づいてもらえるかどうかも分からない「自己満足」な意思伝達手段になってしまっているのですが…。
 

最近「○○には科学的根拠が無い」という言葉を、よく耳にします(目にします)。
 
まるで「根拠が無ければ論じることさえ許されない」ような風潮を感じます。
 
そのたびに、思うことがあるのですが…
 
今はまだ」科学的根拠が無いとしても、「将来的に」その根拠が発見されるモノだって、中にはあるはずですよね?
 
人類の歴史を見るに、「それまでは非常識」と思われてきたものが、後に「常識」になる――定説が覆されてきた例は、山のようにあります。
 
その「可能性の芽」を早々に摘んで、「真理が発見される」ことを何年も何十年も(あるいは何百年も)「先延ばし」にしてしまうのは、とてつもなく効率が悪く、人類全体にとって「ロス」なのではないでしょうか?
 
もちろん「まだ証明がされていない」物事は玉石混交で、中にはまったくのデタラメもあることでしょう。
 
下手に認めてしまえば「害が出てしまう」可能性もあり、慎重になるのも分かります。
 
(有害性を知らずに使用した結果「公害」が起きてしまった、多くの人に健康被害が出てしまった、という例もたくさんありますし…。)
 
けれど「根拠が無い=間違い」とされてしまうのは、貴重な「可能性」がもったいないと思いませんか?
 
個人的に思うのが「世の中もっと『仮説』を上手く使えば良いのにな…」ということです。
 
「まだ証明されていない事実について『こうなのではないか?』と説を唱えること」が、すなわち仮説です。
 
「本当かも知れないけれど、まだ証明待ち」「後で間違いだったと分かるかも知れない」…それが仮説です。
 
「正解かも知れないけど、間違いかも知れない」――その認識を全員で共有しておけば、説を唱えても全く問題にならないのではないでしょうか?
 
「信じるも信じないも自己責任」――その認識を予め持っておけば、後で文句を言う人間も減るのではないでしょうか。
 
そもそも、今の世の中、まだ証明が済んでいないモノを簡単に信じてしまう人間が多過ぎます。
 
そして逆に、まだ証明がされていないからと言って、簡単に「間違い」と決めつける人間も多過ぎます。
 
何かを証明するには、それなりの実験や研究、それなりの時間や手間(そしてお金)が必要です。
 
普通の一般人では到底できないものもあります。
 
けれど、普通の一般人でも、ふと世の真理に気づくことはありますよね?
 
証明ができないからと言って、その真理を胸にしまったまま墓場まで行かれてしまうのは、人類にとって大きな損失です。
 
仮説は仮説として「いつか誰かが証明してくれるのを待つ」…それで良いのではないかと思うのですが…。
 
そして人間は、もっと物事を「半信半疑」に捉えていた方が良いと思います。
 
100%信じきってしまうのも、100%疑うのも、思考を鈍らせ、真実を見えにくくしてしまいますので…。
 
<関連記事:半信半疑がちょうど良い


社会人になってから疑問を抱くようになったことがあります。
 
それは「数字でしか物事を判断できない(しない)人間が多過ぎないだろうか?」という疑問です。
 
会社の成績にしてもそうです。
 
何かと「数字」を出して、そのデータを比較しようとしてきますが…
 
その人の「会社への貢献度」とは、本当にそれだけなのでしょうか?
 
成績上位の人間の中には「とにかく数をこなせれば良い」という感じで「適当な仕事」をして、そのミスを他人に押しつけてくる人もいます。
 
後チェックをしなければならない人間は、そんなミスの修正に手間取って、自らは成績を上げている余裕もありません。
 
また、下手をするとそんなミスに対する「クレーム」が、たまたま電話を取った別の人間の時間を奪うこともあります。
 
たとえ1人の成績が良くても、それがチーム全体の効率を落としている場合もあるのです。
 
しかし、個人個人の数値を出してはいても、チーム全体での数値を出していないなら、そんな効率低下による「損失」が数値として表れることはありません。
 
(あるいはチーム全体で見たとしても、プラマイゼロで「見えにくい」場合もあるかも知れませんが…。)
 
数字は嘘をつかない」と言いますが、それは「適切な数字を切り取れた場合」に限ります
 
数値というものは、どの部分を切り取るか(どんなデータを出すか)により、全く意味を変えてしまうものなのです。
 
そしてザッと世の中を見渡す限り、現代人はそれを上手に切り取ることが「できていない」気がします。
 
そもそも、今の世の中には「間違った切り取り方をしている」「見る人に誤解を与えかねない」ことを「承知の上」で出されている数値もあります。
 
様々な広告に溢れる「1位」「No.1」という数字…。
 
それがどんな人によってどんな条件で出された「1位」なのか、ちゃんと見ている人は、どれくらいいるのでしょうか?
 
また「よくよく見れば『売れた数ではない』ことが分かる」…けれどパッと見には「何だかすごそう」に見える「発行部数〇〇万部突破」「出荷台数〇〇万台突破」という数字…。
 
(分からなかった方→「売上部数」や「販売台数」ではなく「発行部数」「出荷台数」ですからね。よく見ないとアブないですよ。)
 
出版社やメーカーでは「作った数」「出荷した数」はすぐに把握できても、その先の販売店で「売れた数」は把握しづらいから…という事情もあるようですが、「作った」「出荷した」と「売れた」では意味が全く違いますよね?
 
(作って出荷しても、それが全て売り切れるとは限らないでしょうし…。)
 
それと、最近何かと気にされがちな、レビューの星の数やポイント数…。
 
前に出した「1位」「No.1」でも言えることですが…あの手の数字は、だいたいが主観的で相対的なもので、客観的で絶対的なものではありません。
 
たとえば家電が「使えるかどうか」は、ユーザーの使用条件次第。
 
たとえば評価が低くても、それが「自分の家の間取りに合わなかった」という個人的な理由の場合には全くアテになりませんし…
 
逆に評価が高くても、その使用条件が自分と全く異なっていた場合には、やはりアテになりません。
 
レビューは星の数よりもコメントの内容の方(そしてそれが「自分」に当てはまるかどうか)が重要なのです。
 
また、たとえばエンタメ・コンテンツが「おもしろいかどうか」は、そのユーザーの趣味嗜好次第。
 
どんなにPVや再生回数が高かろうと、自分の好みに合わないものは結局のところ「おもしろくない」ですし…
 
逆に数字が少なくても、それは単に「まだ他の人に見出されていない」だけで、見てみれば「ものすごく面白い」可能性だってあるわけです。
 
そもそも、世の中に溢れる数値の全部が全部「正しい」ものではありません。中には当然、不正なものもあるでしょう。
 
(ときどき、ニュースでもその手の話題が出ますよね。最近では「No.1」広告の不正のニュースを目にしたばかりですし…。)
 
それが真っ当な数字なのか、それとも誤魔化され偽られた数字なのか…見極めるのは、容易なことではありません。
 
世の中、数値に振り回されて、真実を読み誤って、いろいろな意味で「損をしている」人(や団体・企業)が多い気がしてなりません。
 
特に、他人によって意図的に「作られた」数字に操られているような人たちは…。
 
(…まぁ、ニュースに出てくるレベルの「組織ぐるみの数値偽装」の場合には、騙されずにいることの方が難しいのかも知れませんが…。)
 

イメージ戦略」という言葉があります。
 
商品を売ったり、評価を高めたりするために「良いイメージ」を築き上げる戦略なわけですが…
 
これに疑問を持ったことのある方、どれくらいいらっしゃるでしょうか?
 
「良い『イメージ』さえ作れれば、『実際』は良くなくても良いのか?」「人間って、そんな『うわべ』に騙されて物を買ってしまうものなのか?」と考えたこと、ありませんか?
 
イメージは、あくまでイメージ。いわば「虚像」であって、「真実」とは限りません。
 
(「清純派」や「家庭的」「クリーンで誠実」など、特定のイメージを作って活動していた俳優に、そんなイメージとは真逆のスキャンダルが出る…というのも、結構「あるある」ですよね?)
 
しかしながら、大人になって社会に出てみると、人が意外と「イメージ」に振り回され、「イメージ」に左右されて生きているということが分かります。
 
おそらくそれは「イメージは目につきやすく、分かりやすい」けれど、「真実は目に見えづらく、理解しづらい」からなのでしょう。
 
「イメージ」は前述の「イメージ戦略」のように、戦略のために前面に押し出され、目立つようにアピールされていることも少なくありません。
 
また、「イメージ」は人の意識に浸透しやすいように「分かりやすく」作られていることが多いです。
 
しかし、その奥にある「真実」は、すぐ目につく所に出ているわけではありませんし、時には隠されていることすらあります。
 
(むしろ、それを隠すために「イメージ」が作られることすらあるでしょう。)
 
また、わざと「分かりやすく作られている」イメージとは違い、真実は複雑で、すぐには理解し難いものも多々あります。
 
だから、人は「分かりやすい」イメージにばかり飛びついて、「分かりづらい」真実を見ることを、おろそかにしてしまうのかも知れません。
 
しかし、どんなに分かりやすくても、イメージはあくまでイメージに過ぎないのです。
 
そこに騙されて、そこにばかり目が行ってしまっては、人生を損しかねません。
 
それは、「イメージは良いけれど、実際には悪い」ものを手に取らされて、「イメージはそれほどでもないけれど、実際はとても良い」ものをスルーしてしまうリスクがあるからです。
 
実際この世界は、そんな「イメージ」の功罪により、知らず知らずのうちに恐ろしく「何か」をロスしているのではないでしょうか?
 
イメージ作りに優れたものばかりが生き残り、技術や質は高くてもイメージ作りの下手なものは淘汰されてしまう…
 
それは結局、ひとりひとりの消費者にとっても、業界全体にとっても、恐ろしく「損」なことなのではないでしょうか?
 
「イメージ」ではなく「その商品の質」でモノが選ばれるならば、莫大な広告費も要りませんし、それにより開発費が削られて次の商品の質が落ちるということもありません。
 
質の高い商品なら、自然とリピーターがつくものですが、イメージだけで売る商品は、次々とインパクトのある宣伝を打ち出し続けなければ、消費者に飽きられてしまいます(結果、広告費がさらにかさむ悪循環に陥ります)。
 
この世界はそうやって、本来なら自然に得られていたはず大きな利益を、いつの間にかロスして、それに気づかずにいるのではないでしょうか?
 
とは言え、ここまでイメージ戦略が「一般化」してしまっている現代…できることと言えば、1人1人の消費者が「イメージに騙されないように」意識していくしかないのかも知れません。
 
ちなみにこの「イメージの功罪」…経済界のみの話ではありません。
 
むしろ、政治など他の分野の方が、より深刻かも知れません。
 
イメージに騙されて「騙した方が悪いんだ」と文句を言っても、その時にはもう手遅れかも知れませんので、何とか真実を見極める目を磨いていきたいなぁ…と日々思っています。
 

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津籠睦月(つごもりむつき)
【職業】
社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
【趣味】
小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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