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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
昔からモヤモヤしていることの1つに「謙虚でいることと、自信を持つことのバランスが難しい」ということがあります。
 
自分は気づけば何となく「謙虚を美徳」として育っていました。
 
「自分はスゴいんだ」「自分はこんなに頭が良いんだ」と考えるのは「驕り」で「良くない」ことだと、常に自分を戒め、自分の能力を低く見るようにしてきました。
 
それは道徳や倫理的な理由からではなく、どちらかと言うと「自分の力に驕れば破滅が待っている」という歴史からの教訓を素直に受け止めていたがゆえのことでした。
 
しかし、このスタンスにはとても大きな「副作用」や「弊害」がありました。
 
それは「自分の能力を常に低めに見積もっているがゆえに、自信を持てない」ということ、そして「自分と他人の能力差を正確に把握することができない」ということです。
 
世の中には、実力を持っていなくても何故か自信満々な人間もいます。
 
逆に実力はあっても、「自分なんてそんなにスゴくない」「特別なんかじゃない」「驕ってはいけない」と常に自分に言い聞かせているような人間に「自信満々」な態度などとれるはずがありません。
 
しかし人間というものは、目に見えない「実力」より、態度として表れた「自信」でその人の評価を下してしまったりするもののようです。
 
特にそれが強く表れるのは就職活動などの自己PRの場なのではないかと思います。
 
自分は当初、「自己申告の“自己PR”なんて、皆“話半分”に判断するに違いない」と思っていました。
 
上記の通り、自信の有無と実力の有無は比例しませんし、主観的な自己分析と客観的な人的評価は異なります。
 
「アピール能力」は営業職なら有益でしょうが、職種によっては特に必要の無い能力ですし、そんなものよりもっと他に「見るべき能力」があるはずだ、と思っていたのです。
 
しかし、就活を続けるうちに「あれ?世の中って、自分が思っていたよりずっと“見た目”や“イメージ”に引きずられているんじゃ…?」と思い始めました。
 
自分はこういう性格なので「表に出ているものだけが全てではない」ということには早いうちから気づいていたのですが、たどってきた人生によっては、それに気づけないこともあるのかと…。
 
常に己を戒め、己に疑問を持って生きる自分には「自信満々に振る舞う」ことは不得意なのですが、謙虚に振る舞い、自信を表に出さないことによって能力を不当に低く評価されるのもだいぶ不本意です。
 
なので最近は少しずつ、その辺のスタンスを変えてみているのですが…
 
上手くいっているのかどうかは、実際よく分かりません…。

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勤務中、ふと気が向くとついついやってしまう「暇つぶし」の「脳トレ」があります。
 
それは「目についた数字で即興語呂合わせ”を作ること」です。
 
日報や各種データなどで日常的に目にする数字……それを使って即座に語呂合わせが作れないか思考を巡らせてみる「遊び」です。
 
でもコレ、非常に実用的なのです。
 
即興で「語呂合わせ」を作る能力を身に着けておくと、メモも何もとれない状況でとっさに数字を覚えなければいけない時に役立ちますし、各種パスワード暗証番号を作ったり記憶したりするのにも役立ちます。
 
おかげで現在自分は複数のWebサービスを利用し、サービスごとにパスワードを変えているのですが、ほぼ全てメモを見ないで記憶だけでログインできます。
 
(ただしさすがに長期間利用していないものは忘れてしまったりしますが…。)
 
そして最近こんなナゾ脳トレばかりしているせいか、夢の中にまで数字が出て来て、しかもそれを目覚めても覚えていたりします…。
 
ちなみに、これまで夢の中で記憶できた一番長い数字は架空の電話番号10ケタです。
 
(夢の中では会社の電話番号という設定でしたが、目覚めて照らし合わせてみたら下3ケタだけ間違っていました。)


自分が常日頃から心がけていることの一つに「信ぴょう性の高いものでも、何%かは疑う余地を残しておく」ことと、逆に「信じ難いものであっても、何%かは信じる余地を残しておく」ということがあります。
 
それは自分自身も含めて「人間の真実を見抜く目なんて全くアテにはならない」と思っているから、でもあるのですが…。
 
たとえば今では一笑に付される「天動説」や中世の迷信だって、当時は「当たり前の常識」「疑いようのない真実」くらいのレベルで多くの人間に信じられてきた事柄です。
 
それと同じように、今この時代で当たり前に信じられていること、常識だと思われていることが、いつかの未来にアッサリ覆されることは充分にあり得ることだと思うのです。
 
そもそも人類は、自分たちが生きるこの世界についてさえ100%全部を知っているわけではありません。
 
「天才的頭脳を持つ科学者・数学者だって、この世界の謎を全て解き明かせたわけではないというのに、自分のようなごく普通の一般人が、どれほどの真実を知ることができるのだろう」――自分は常日頃、そんな風に思っています。
 
なので、ある日突然「それまで信じてきた常識がコロッと変わってしまう」ことがあっても柔軟に対応できるように、その変化を受け入れる心の余裕を常に持っておきたいと思うのです。
 
あるいは「皆が安全だと信じ込んでしまっている、実は危険な何か」に、真っ先に「あやしい」と気づいて安全策がとれるように…。
 
権威のある人や多数派が「正しい」と言えばそれを信じて流されてしまうというのは、特に日本人には多い傾向なのかも知れませんが、「安全だ」と言い続けられてきたものが実は危険だったという実例が過去にいろいろある以上、鵜呑みにせずに何%かは疑う余地を残しておいた方が自分自身のためだと思うのです。
 
逆に、皆が「間違いだ」と思ってスルーしているものの中にも、人生の役に立つ「真実」があったりするかも知れません。
 
なので、全てを信じるのでなく全てを疑うのでもなく、常に「半信半疑」……あるいは「九信一疑」「一信九疑」等でも良いかも知れませんが……とにかく、白か黒かをスパッと決めてしまいたくはないのです。
 
人によっては「どっちつかず」だとか「日和見主義」と馬鹿にされてしまうスタンスかも知れませんが……結局はこのスタンスが一番、効率的で安全性の高い生き方だという気がするのです。

ブログをジャンル別に分割する前、別のブログにスクラップブックの作り方を2つほど載せていたのですが、最近はそれとは別の作り方もしているので、そちらもまとめていきたいと思います。
 
以前のものは写真用のアルバムを使ったものだったのですが、大きな記事だとサイズ的に足りないので…。
 
やり方としては「新聞を切り抜く→スクラップ帳に貼り付ける」と全く普通なのですが、自分の場合はちょっとだけ工夫をしています。
 
工夫その1は、使うスクラップ帳がリング・ノートであること。


 
これの何が便利かと言うと、開いた時にノートの片面が戻って来たりせず、全くの平らになるので作業がしやすい点。


 
それと、切り抜きをたくさん貼っていってノートに厚みが出てきた時でも、リング・ノートなら調整ができます。
 
そもそもリングで綴じられているので多少ノートが厚くなっても耐えられますし、耐えられなさそうだと思ったら、まだ何も貼っていないページを破り取ってノート全体の厚みを減らすこともできます。
 
工夫その2は、貼り付けに「テープのり」を使うことです。


 
「液体のり」だと切り抜きした紙にしみてしまったり、貼った後にシワができてしまったり、乾くまでに時間がかかったりetc…いろいろと厄介なことがあるのですが、テープのりならサッと貼れてラクです。
 
ただし、切り抜きの四辺を端から端までのり付けしてしまうと、テープがあっと言う間になくなってしまいます。
 
なので自分の場合は、両面テープでポスターを貼るような感覚で、ちょこちょこっとのり付けしています。


<関連記事(別ブログ)>
カンタン・時短なスクラップ・ブックの作り方
カンタン・時短なスクラップ・ブックの作り方2
ここ数ヶ月、ふと感じるようになったことがあります。
 
それは「世界って、こんな風にガラッと変わってしまうことがあるんだ」ということです。
 
今まで当たり前にあったものが無くなってしまったり、当たり前にできたことができなくなってしまったり、町の中や人の様子も変わってしまったり…
  
数ヶ月前には、こんな風に急激に世界の様子が変わることなど、想像したこともなかった気がします。
 
何となく世界は、自分とは関係のない所で大きな事件があったり、身近で小さな波風が立ったりしても、そう大きく変わったりはしないものだと思っていました。
 
けれど現実に今こうして、世界規模の変化が起きていて…
 
ふと、ぼんやり思うのです。
 
きっとこれまでにも人類の歴史の中で、節目節目にこういう大きな変化はあったのかも知れない、と。
 
けれどそれは、通り過ぎてしまえば過去のこととして忘れ去られてしまい、人々は「昔はこんなことがあって大変だったんだなー。でも現在はこの時代よりずっと進歩しているんだから、もうこんなことは起こらないよな」と思って日々を過ごしていくのだろうな、と。
 
ちょうど数ヶ月前までの自分が「オイルショックの時の買い占めみたいなことは、今の時代では起こらないんだろうな」と無意識に考えていたように…
 
世界が急激に変化し、当たり前のことが当たり前でなくなる感覚は、その時代を生きた人間にしか分からないものなのかも知れません。
 
どんなに“知識”や“教訓”を伝えても、この“感覚”は、後世に伝えきれない気がします。
 
もし、当時の人々の“感情”を、データとして残すことができたとしても、未来の人間がそれを“当事者意識”をもって“まるで自分がそれを感じているかのように”読み解くことは、なかなかできない気がします。
 
そしてたぶん、それこそが、人類が同じ過ちを繰り返してしまう原因なのではないか、と。
 
過去の歴史は、所詮は“他人事”で、自分に関係するものではない――その感覚が、きっと、できたはずの備えを怠る原因になったり、未来の予測を曇らせる原因になったりするのではないか、と…そんな気がしています。

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管理人プロフィール
【HN(ハンドル・ネーム)】
津籠睦月(つごもりむつき)
【職業】
社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
【趣味】
小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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