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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
AIに対するスタンスが、自分と世間とでは違うのかも知れない…
 
最近たびたび感じることなのですが…
 
特に違和感を感じるのが「世間の人々はAIを闇雲に信じ過ぎなのでは?」ということです。
 
(ネタで「信じたフリ」をしている人も多いでしょうが、中には本気で「AIの回答は絶対」と信じている人もいそうなので…。)
 
情報リテラシーの高い方なら既にご存知のことでしょうが…
 
AIには「ハルシネーション」という現象が存在し、時に「デタラメ」な回答を出して来ます。
 
それは「AI技術とはどういうものなのか?」を理解しているなら「それは当然起きるよね」と納得できるものなのですが…
 
一部の研究によると最大27%という、結構な確率で起こり得るこの現象(←情報ソースはWikipedia(情報ソースが脚注に書かれているもの))
 
しかしながら、世の中にはこの現象の存在を「認知」すらしていない人も多いのではないでしょうか?
 
AIの知能は、無数の情報を「学習」して作られます。
 
なので、情報が「無い」もの、情報量が「少ない」もの、「誤った」情報からは「正解」を導き出せないのです。
 
(実際、自分が見つけた「ハルシネーション」もネット上での言及が少ない事柄でした。)
 
…でも、AIを利用する側は、情報源の有無や量、元情報の「信頼性」など見えませんよね?
 
(AIの種類(ネットの情報を学習するタイプのAIなど)によっては、情報源となるサイトを載せてくれているものもありますが。)
 
つまり、その回答が真っ当な答えなのか、それとも「ハルシネーション」で生み出された誤情報なのか、利用者はすぐには判断できないということです。
 
AIがハルシネーションを起こす理由のひとつには、人間がやりがちな「早とちり」をAIも起こしてしまうから…ということがあるのではないかと、個人的には思っています。
 
(必要な情報が「足りていない」ことにも気づかず、現在有る情報だけから正解を導き出そうとするため、回答が「狂う」のではないかと。いわゆる「無知の知」が出来ていない…ということなのでしょうね…。)
 
学習する情報が増えていけば、いずれは解決する問題ですし、実際「AIはどんどん進化しているのだから大丈夫」という人もいるかと思います。
 
…ですが、AIの学習進捗状況や進化の程度も、利用者には見えませんよね?
 
明日「正答」が得られるAIだったとしても、今日AIを利用する人には「誤答」しか与えられません。
 
そしてAIは、マスコミの謝罪訂正のように「誤答」を謝罪し「正答」を教えてくれることは無いのです。
 
以上のことから、自分はAIの回答は「何割かの確率で誤答が交ざり込むロシアンルーレット」だと認識しています。
 
普通に検索するよりも、むしろファクトチェックなどの後確認が大変なので、できることなら使いたくないのです。
 
世間の人々は「無料で使えるAIがこんなにあって便利」という風潮のようですが…
 
自分の認識はむしろ逆で「本来ならお金を使ってモニタリングすべきAIを、タダ働きでモニターさせられているだけ」だと思っています。
 
…だって、ゲームにしろアプリにしろ、普通はデバッカーやモニターが有償(あるいはちょっとした謝礼)でチェックを行い、それでOKが出て初めて世に出るものじゃないですか?
 
それをこんな、普通に誤答を出す「未熟」な状態で世に出し、ここまで多くの人に利用させている…
 
それって、企業倫理的に「褒められたことではない」と思うのですが(まぁ、今の時代は「利益優先」で「社会のことなんか知ったこっちゃない」という企業も多いのかも知れませんが)…。
 
しかもこれ「タダ働き」どころか、下手すると「命がけ」だったりもするんですよね…。
 
…だってもう実際に外国では、AI利用者の自死が出てしまっているのですから…。
 
ひょっとしたらAI回答って、場合によっては「正誤の」ロシアンルーレットどころか、本当の意味でのロシアンルーレットなのかも知れません…。 

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この頃、AIが世の中に浸透するにつれ、言いようのない「危うさ」を感じて気持ちが悪かったのですが…
 
その原因が、何となく分かってきました。
 
それは自分が「AIの知は『百聞をまとめたもの』に過ぎない」と弁えているから…
 
ですが、世の多くの人々は、それを意識すらしていないように見えるから、だったのです。
 
(ネットの世界は無思慮で軽率な意見ほど多く出回るものですから(なぜなら思慮深く慎重な人は「滅多なことは言わない」ので、発言自体が少なくなります)実際がどうなのかは分かりませんが…。)
 
AIの知は、膨大な情報を集積して作られたものです。
 
その気になればいくらでも記憶容量を増やせ、睡眠や労働で学習を邪魔されることもないAIが、人間の知識量を超えられるのは当然のことです。
 
人間ならせいぜい「十聞」程度で終わってしまう知識を「百聞」あるいは「千聞」まで伸ばせるAIは、そこだけ見れば確かに「優れている」のでしょう。
 
しかしそれは「一見」を超えるものではないのです。
 
どれほど書評や概説を見て本を「読んだ気」になっても、実際に自分でそれを読むと全然別の感想を抱く…そんなことって、よくありませんか?
 
あるいは、どれだけ研修に学び、マニュアルを読み込んで備えても、いざ現場に出てみると全く通用しない…そんなことって、ありますよね?
 
百聞は一見に如かず」――「百聞」だけで「知った気」になってはいけない、百の伝聞も「自分の目で見て感じること」には及ばない…
 
なので自分は、AIの回答も妄信するつもりはありません。
 
(そもそも現在のAIもまだまだ「トンデモ回答」が多いので(過去記事参照のこと)、100%信頼している方なんてそうそういらっしゃらないでしょうけど…。)
 
それに、AIの集める「百聞」が、凝縮する価値のある「百聞」だとも限りません。
 
皆さんもご存知かと思いますが、AIの知の中には「ネット上から集めただけ」のものも存在します。
 
「ネットの知識を鵜呑みにしてはいけない」「ネットの情報は玉石混交」と散々言われているのに、そのネットから集めた「百聞」を重宝がるのは、あまりに「辻褄が合わない」と思うのですが…皆さん、そこは疑問に思われないのでしょうか?
 
(そもそも情報源を明示してくれないAI回答を、自分は信用していないのですが…。情報源って、情報リテラシーで「ちゃんと確かめろ」と必ず言われることじゃないですか。)
 
さらに言えば自分はAIの「要約力」を過信してはいません。
 
「百聞」を凝縮して「一つの回答」に「要約」する際、ひょっとして「一番欲しかった一聞」を取りこぼしはしないか…そこを常に警戒しています。
 
だって、求めるものが十人十色なこの世の中、普通に考えて「万人ウケする答え」が「自分の欲しい答え」とは限らないじゃないですか。
 
AIが「要らない」と判断して要約に入れなかった情報の中に、もしかしたら「自分がピンポイントで知りたかった答え」があるかも知れないじゃないですか。
 
(ちなみに自分はビジネス書を「要約」や「ダイジェスト」で読むことはありません(そういう「要約サービス」があることは知っていますが)。一流のビジネスマンが「雑談」から「ビジネスのヒント」を見出すことがあるように、メインではない枝葉の部分にとんでもない「気づき」が潜んでいることを、実体験として知っているからです。)
 
「百聞は一見に如かず」には、実は「続き」があることを、皆さんご存知でしょうか?
 
百見は一考に如かず(100見るよりも1つ自分で考えること)
百考は一行に如かず(100考えるよりも1つ実行すること)
百行は一果(一効)に如かず(100実行するよりも1つ効果をあげること)
百果(百効)は一幸に如かず(100効果をあげるより1つ幸せを生み出すこと)
百幸は一皇に如かず(自分を100幸福にするより、1つ国を統べて皆を幸福にすること)
 
…と続きます。
 
今の世の中はそれにまるで逆行しているように見えるのですが…気のせいでしょうか?
 
AIがどんどん世に浸透する現代…
 
人々はどんどん「自分の目で見て確かめる」ことも「自分の頭で考える」ことも忘れていってはいないでしょうか?
 
AIの知は「百聞」を凝縮したもの。
 
自分の目でものを見ず、自分の頭で考えることもしない人々の「百聞」を、この先どれほど集めたところで、価値ある「答え」は得られるでしょうか?
 
…中には「ならばAIの百聞を集めれば良い」という人もいるのかも知れませんが…
 
「人間の感覚」の入っていない百聞をいくら集めたところで、そこに「人間の欲する」答えは無く、「人間にとって心地良い」社会は実現できない――そんな気がしてなりません。
 
(AI生成画像が時に「間違ってはいないけれど、絶妙に気持ち悪い」あるいは「生理的に不快」な画像を生成することがあるように、何かが絶妙に「ズレた」答えを出してくるのではないかと。)
 
「人間の感覚」の要らない、単純な数字のデータ等なら、「百聞を凝縮したもの」で充分に価値があるのでしょうけどね…。
 
(なんとなく皆さん、「木を見て森を見ず」な感じで、AIを見ても「AI技術」は見ていないような気がしてなりません…。どれほど優れたAIでも、学習する情報が酷いものだったり、情報自体がなくなってしまえば意味が無いはずなのですが…。)
 

沈黙は金」「口は災いのもと」――そんな「ことわざ」があります。
 
人間はどうしても完璧にはなれず、どこかで無知になり、どこかで思考を間違えます。
 
下手なことを言って恥をかいたり、間違いを指摘されて叩かれたりしないよう、「公に意見など言わない方が良い」…そんなことを思っている方も多いのではないでしょうか?
 
言葉は時に、他人を傷つける武器にもなります。
 
正論も時に人を傷つけ、ポジティブな投稿でさえ妬みや恨みを買うことがあります。
 
そんな時代に、誰が読むかも分からない場所に言葉を放つなんて、リスクが高過ぎる――自分も、そう思います。
 
ですが、今の時代には「それ以上のリスク」もまた、存在しているのです。
 
それは、この世界が「上手いことを言えたもの勝ち」な世界になってしまうことです。
 
上にも書いてきたように、危機管理のしっかりした、慎重な大人は、滅多な発言はしません。
 
そして、他者を傷つけることを恐れる、優しい気遣いのできる大人もまた、滅多な発言はしません。
 
逆に言えば「そうでない人間」の方が、無遠慮に無思慮にバンバン発言ができてしまうのです。
 
結果この世は、思慮が浅く思いやりに欠けた発言の方が数が多く、思慮深く優しい発言は「ほんのわずか」になってしまいます。
 
SNSなどを見ていて他者の発言を不快に感じた経験のある方、結構いらっしゃるかと思いますが…
 
それってつまりは「そういうこと」なのではないでしょうか?
 
数の多い「無思慮で優しくない発言」の方が目につきやすく、数の少ない「思慮深くて優しい発言」は滅多に目にできないのです。
 
…でも今の世の中、そういう思慮や思いやりに欠けた発言に限って、妙に数字を集めていたりもしますよね?
 
1つには、そういう「炎上案件」が否応にも「注目を集めやすい」せいかと思われますが…
 
もう1つには、SNSで「いいね」や「拡散」を積極的にするのもまた「慎重でない人々」だから…なのではないかと。
 
慎重な人間なら「いいね」や「拡散」をする前に、「その発言の真偽」や「その発言を推した場合の影響」を考えて、一旦立ち止まります。
 
しかし、慎重でない人は「上手いことを言っている人」「共感できる人」に感情的に反応し、深く考えずに「いいね」「拡散」してしまうのです。
 
(何の罪も無い「可愛いネコチャンの写真」とかだったら、深く考えずに推しても問題無いとは思いますが…。)
 
今の世の中は、感情的に動く「慎重でない人々」の言動に溢れています。
 
逆に「慎重な人々」の言動は、「沈黙」の中にあるせいで、表には出て来ません。
 
(いわゆる「サイレント・マジョリティー」VS「ラウド・マイノリティー(あるいはノイジー・マイノリティー)」の構図です。)
 
そして表に出ている「感情的で無思慮な意見」ばかりが「世間の意見の代表」のように見られてしまうのです。
 
慎重で思慮深い人々は「何で今の世の中は、こんな『おかしな方向』に動いてしまうんだ?」と思っていることでしょう。
 
ですが、原因は至極単純なことなのです。
 
数の少ない思慮深い意見が、数多くの感情的で無思慮な意見の中に埋もれてしまうからなのです。
 
また、感情的で無思慮な人間は「対立意見」をひたすら叩く習性があります。
 
「異論であっても、とりあえずは耳を傾けてみよう」という姿勢が無いのです。
 
結果、数の少ない思慮深い意見は、叩かれて貶されて、隅に追いやられてしまうのです。
 
(叩かれて心折れて、それ以上の発信ができなくなってしまう人も多いかと思われます。)
 
…ですが、感情的で無思慮で「自分のことしか考えていない」人々の意見が世に罷り通ってしまえば、この世は「誰にとっても」地獄な世界になってしまいます。
 
だって、一時の感情で物事を見る人間は「数ヶ月後の自分」のことさえ考慮に入れないのです。
 
『アリとキリギリス』のキリギリスのように、ひたすら「今の快楽」だけを求め、冬が訪れた後の自分のことさえ見えないのです。
 
それどころか「セコセコ働いて食糧貯め込むアリども、乙ww」みたいな感じで、自分たちとは違う層をひたすら馬鹿にして「サゲる」のではないでしょうか?
 
自分たちを馬鹿にする相手に、わざわざ「冬になったら食糧が得られなくなるから、今のうちに貯めとかないとマズいんだよ」と親切に教えてあげられるのは、よほど「出来た」人間ですよね?
 
しかも教えてあげたところで、その親切心すら馬鹿にされて叩かれてしまうかも知れないのです。
 
以前の世の中なら、放置されたキリギリスが増長してイキったところで「自業自得」な結末に終わったかも知れません。
 
しかしSNSのアルゴリズムが「数字の多く獲れた発言」を優先表示させる現代では、そんなイキったキリギリスの発言が「世論」だと勘違いされてしまいかねないのです。
 
…その先に待ち受けるのは「自業自得」どころではない「他業多得」の世界。
 
一部の人間の「我の強い意見」に多くの人々が巻き込まれて破滅する、地獄のような世界です。
 
この「遠慮無く発言しまくって、上手く共感を集められたもの勝ち」な世界で、沈黙を守り続けるのは、果たして「金」なのでしょうか?
 
…自分には、そうは思えません。
 
むしろ「沈黙は罪」なのではないかと、そう思えてならないのです。

(本当はもっと前に書き上げていた記事なのですが、何となく心の整理がつかなくて、UPできずにいました。)
 
いつもと全く同じように会社に出た今日、同僚の訃報を聞きました。
 
フィクションの世界では、死の前にはそれらしい予兆があり、本人も周りも薄々それを察しているものなのに……
 
現実には心の準備も予想もしない、全くの不意打ちです。
 
突然の訃報なんて、今までに何度も聞かされてきたのに……いつまで経っても、慣れることも予想することもできません。
 
入院したことは知っていましたが、一度は復帰もし、次は検査入院だと聞いていたので「経過観察だろう」くらいに思っていました。
 
それが、思いの外長く会社を休んでいて「あれ?」とは思っていました。
 
ですが、それほど深刻な状況だったとは、これっぽっちも考えていませんでした。
 
死に至る病のイメージと言えば、病院で長く闘病しているものなのに……
 
現実は、最初の入院を知ってから三ヶ月も経たないくらいの、あっと言う間の出来事でした。
 
仕事に追われていると長い不在も忘れてしまうくらい、あっと言う間の短い期間……。
 
そのあまりの短さに、あまりにも現実感が無くて、仕事をしながら「朝礼のあれは幻聴だったのでは?」と思ったりもしました。
 
しかし、午後には不在のデスクに花が飾られ、それが視界に入るたびに現実を突きつけられました。
 
他人の死に接した時、自分の感情をどういう風に処理したら良いのか、未だに自分は分かりません。
 
きっと社会人としては、悲しむべき場ではきちんと悲しみ、それ以外の場では気持ちをぱっと切り替えられるのが「正しい」のだろうと思います。
 
ですが人間の心は機械のオンオフのように、ぱっと切り替えができるものではありません。
 
今日は仕事中もとりとめなく「最後に交わした言葉って何だったっけ」「最後に見たのはどんな顔だったっけ」など、様々な記憶や思いが浮かんでは消えていました。
 
特別親しかったわけではない、ただ席や名前の順番が近かっただけの同僚……。
 
それでも、ついこの前までそこにいた人間が、もう永遠に帰って来ないというのは、あまりにも重い現実です。
 
花の飾られたデスクには、使い古された辞書や椅子の腰当クッションがそのまま残されていました。
 
きっと、また帰って来て、普通に仕事をするつもりだったんだろう……そう思うと、切なくてなりません。
 
あと一週間も経てば、桜の咲く季節になったのに……
 
今年の桜も見られないまま逝ってしまうなんて、きっと本人を含め誰も予想もしていなかったでしょう。
 
人生は儚いもの、予想がつかないものと聞かされていても、忙しない日々の中ではついついそれを忘れてしまいます。
 
そして、ふいの訃報に遭ってやっとそれを思い出す……いつも、それの繰り返しです。
 
仕事に追われて嫌になる日も、退屈で飽きてしまう日も、逃げ出したくなるような日も……それはあの人が、生きられなかった一日。
 
毎年めぐって来る当たり前の光景も、あの人や、他の誰かが、見られなかった光景。
 
今年の桜は、きっといつも以上に、切なく綺麗に見えるような気がします。

彼岸となり、ようやく暑さも一段落してきましたが…
 
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、せっかく覚えた「熱中症対策」も来年の夏には忘れてしまいそうな気がしますので、ここらでちょっと「覚え書き」を残しておきます。
 
(ここでは、特に「自転車」や「徒歩」での外出のポイントを書いておきます。)
外出する時間帯の選択
外出する時間帯を選ぶ際には、単に「気温」だけで考えるのではなく「影の長さ」もポイントです。
 
太陽が真上で影が短い時間帯ですと、どこへ行っても「日陰」が無く、直射日光浴びまくりの過酷な外出になってしまいます。
 
あと、時間帯によって「自分が通りたい道」に影が出るか出ないかも変わってきますので、そのあたりもポイントかと。
 
直射日光を防げるかどうかだけでも、かなり体力の消耗が変わってきます。
 
目的地までの経路選択も重要
目的地までのルート選択でも、なるべく「日陰の多い道」や「涼しい道」を選ぶのがポイントです。
 
緑の多い公園の脇の道などはかなり涼しいのですが、同じ市内でも場所によっては熱気の吹き溜まりのような道もあり、かなり温度差があります。
 
(車の多く停まった駐車場のそばは、車体で熱せられた空気が吹き寄せてくるので地獄です。室外機の熱が排出される住宅密集地や大型店舗のそばの道もかなりの暑さです。)
 
意外だったのが「川沿いの道」で「水の上を通れば空気が冷まされるのでは?」と期待して行ったところ、全然涼しくなくてショックでした…(川の規模にもよるのかも知れませんが…街中の緑が少なく岸がコンクリートで固められているような川は大した冷却効果が無いのかも知れません)。
 
外出時には冷えたペットボトル飲料を持って行こう
自転車や徒歩での外出では、屋外で身体を冷やす術がほとんどありません。
 
ハンディファンを持って行ったところで、外気温が一定温度を超えると「生ぬるい風」しか来ません。
 
なので、外出時には冷えたペットボトル飲料や冷却材や氷嚢など、身体を冷やせるものを持っていくのがポイントです。
 
冷えたペットボトルは首筋などに当てて冷やすのにも使えますし、飲めば身体の中からクールダウンできます。
 
自分は特に「信号待ち」の間にクールダウンを行っていました。
 
自転車でも走行中なら風を切って行けるので多少ラクなのですが、信号待ちなどで止まっていると、ただただ日光に灼かれているだけなので…。
 
自転車を停める場所もポイント
自転車の駐輪場、店によって日陰だったり日向だったり、屋根があったり無かったりします。
 
真夏だと、ほんの数分の買い物でもサドルが灼熱になるので、なるべく日陰の涼しい駐輪場がある店がポイントです。
 
あと、信号待ちなどの一時的な停車であっても「マンホールの上」は避けた方が良いです。
 
…まぁ、停めれば嫌でも分かることなのですが…真夏のマンホールは焼けた鉄板です。
 
アスファルトの照り返しどころではない「熱」が来て、鉄板焼きの具材になった気分を味わえます…。
 

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津籠睦月(つごもりむつき)
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【趣味】
小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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