日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
生成AIをめぐる問題で最近気になっているのが「生成AIで二次創作画を作ることの何が悪いの?ファンアートと同じじゃないの?」という論調です。
最初にこの意見を見かけた時「この違いが分からない人がいるんだ!?」と逆に衝撃を受けたのですが…
この2つの何が違うのか…分かっている方には、あまりにも「当たり前のこと」でしょうから、今さら説明することも憚られるのですが…
それって、ズバリ「情状酌量の余地」ですよね?
そもそも勘違いされている方が多いようですが…
「二次創作」というのは元々「著作権者の温情により見逃されているグレーゾーン」。
べつに「やってもOK!」と許されているホワイトゾーンでも何でもないのです。
古参の二次創作クリエイターさんたちはよく「二次創作者はなるべく日蔭者であれ」「権利者とは距離を取れ(間違っても凸するな)」などと言いますが…
それは「著作権者の堪忍袋の緒を切ってしまうと大変なことになる」と知っているからなのです。
…で、話を戻して生成AI画とファンアートの違いですが…
例えば皆さん「幼稚園児がクレヨンで一生懸命描いたプリキュアの絵」を「版権モノだからダメ!」なんて、冷たいことを言えますか?
…それ、普通に鬼じゃないですか。
ファンアートが黙認されている理由のひとつは「ファンが愛情を持って一生懸命描いてくれたものだから」なのです。
幼稚園児でなく大人だったとしても…
手間と時間をかけて描き上げられたファンアートは、時に作者でさえ敬意を覚えてしまうものなのではないでしょうか?
一方で「こんな絵を描いて」という命令文ひとつで(まぁプロンプトは1文とは限りませんが)ちょろっと出来上がってしまう生成AI画…
著作権者の心証が同じだと思いますか?
現代の一部のネット民は、何かと「感情論を排除」して「合法か違法か」だけで物事を見ようとしますが…
著作権法は「親告罪」――すなわち、著作権者が相手を訴えるか否かが、そもそもの罪の分かれ目なのです。
二次創作やSNSでのちょっとした「お遊び」が許されている背景には「これくらいなら、まぁいいだろう」「話題になって盛り上がってくれる分には有難い」という、著作権者の暗黙の「お目こぼし」があります。
一方で、作品の権利を侵害しかねないものや、作品の品格を落としかねないものは、普通に訴えられるリスク「大」なのです。
生成AI画のマズい所は、版権モノのオリジナル画と「区別がつかないレベル」の画像を生成できてしまうことにあります。
オリジナルそっくりのタッチで「原作にはあり得ないシーン」を描き出すこともできますし…
何も知らない視聴者が見たら「これって公式の画像(動画)?」という誤解もされかねません。
実際「権利者」は生成AIに対してかなりの危機感を抱いていますし、AI事業者を相手どった訴訟も国内外問わず頻発しています。
個人の生成AI利用者で言うと、2025年1月の「エヴァンゲリヲン」の「アスカ」のAI生成(エロ)ポスター販売や、6月のゴジラ海賊版DVD販売(生成AIでモノクロ映画をカラー化したとみられる)など、国内での逮捕者も出始めています。
全ての生成AI利用者がそうだとは思いませんが…
生成AI利用者の中には、明らかに「やって良いことと悪いことの境界線」が見えていない人がいます。
自分もX(旧Twitter)上で見かけたことがありますが…
当時放映中のアニメ(お子様も観る全年齢対象)キャラクターの卑猥な生成AI画像を、作品名・キャラ名(さらには生成AI画であること)を堂々と表記してUPしているもの等…
何重もの意味でアウトです(そもそもSNSの誰でも見られる場所に卑猥な画像をUPしているだけで相当なアウト行為…)。
「ファンが作品愛ゆえに描いたもの」なら許してくれる著作権者も「ファンかどうかも分からない人間がインプレッション稼ぎのためにチョロッと生成したもの(しかもエロ)」を許してくれるわけないじゃないですか。
思うに「AI生成画とファンアートの違いが分からない」という意見の中には「生成AIを使って版権モノでボロ稼ぎしたい→そのためには生成AI画を規制したがる風潮が邪魔だ→人の手による二次創作が許されているなら生成AIも許可しろ」という「さもしい本音」があるのではないでしょうか?
…ですが実際には、そうした一部の生成AI利用者の「暴走」が、かえって生成AIの「規制」を招くことになるのではないでしょうか?
そもそも二次創作界隈って元々「稼ごう」「儲けよう」という世界ではないんですよね…。
儲けは「元が取れれば万々歳」くらいな感じで「とにかく、この作品への愛を表現したい」というのが活動の源のはずなのです。
「稼ごう」「儲けよう」が目的になってしまったら、それは「商売」になってしまい「版権モノで許可無くビジネスしている」ことになってしまうのです。
「稼ぐ」「儲ける」が「お金」でなく「インプレッション」や「表示回数」「再生回数」でも同じこと。
(プラットフォームによっては、それで収益が出るものもあるわけですから。)
生成AI画像(動画)に「この作品への愛を自分の手で表現したい」という、一番肝心な「動機」はあるのでしょうか?
作品への愛が分かれば、たとえ絵が拙くとも、褒めてくれる同志はいますし、ファンになってくれる人もいます。
(実際自分も、一次・二次創作物問わず重視するのは、画力よりもネタの面白さです。)
むしろ「拙くても、一生懸命に愛を表現している」ところにアツさを感じて感動するのですが…
「生成AI画とファンアートの違いが分からない」という人は、そういう「人が情熱を傾けることの価値」が分からないのでしょうか?
どうにも昨今、「合理性」「コスパ」ばかりが重視されて「人の心」を見失ってしまっている人が増えていないでしょうか?
…と言うより、どうにも最近「手抜き」や「怠惰」や「雑な仕事」を「合理的」「コスパ」と言い訳している人が多くないですか?
どんなに「現代的な言い訳」で繕おうと、その裏にある「手抜き感」に、人は本能で気づくものなのではないでしょうか?
根性論や精神論を推すわけではありませんが…
「労を惜しんで結果や名声だけ得ようという人」を「全力で自作品への愛を表現してくれるファン」と同等に扱う気になれる人って、いるのでしょうか?
…これが分からない人は、人間として大切な何かを、既に見失ってしまっているのかも知れませんね。
人間が「人の心」を忘れて「人の労に価値を置かない」「人を大切にしない」社会…
それって、人間が幸せになれる社会なのでしょうか?
最初にこの意見を見かけた時「この違いが分からない人がいるんだ!?」と逆に衝撃を受けたのですが…
この2つの何が違うのか…分かっている方には、あまりにも「当たり前のこと」でしょうから、今さら説明することも憚られるのですが…
それって、ズバリ「情状酌量の余地」ですよね?
そもそも勘違いされている方が多いようですが…
「二次創作」というのは元々「著作権者の温情により見逃されているグレーゾーン」。
べつに「やってもOK!」と許されているホワイトゾーンでも何でもないのです。
古参の二次創作クリエイターさんたちはよく「二次創作者はなるべく日蔭者であれ」「権利者とは距離を取れ(間違っても凸するな)」などと言いますが…
それは「著作権者の堪忍袋の緒を切ってしまうと大変なことになる」と知っているからなのです。
…で、話を戻して生成AI画とファンアートの違いですが…
例えば皆さん「幼稚園児がクレヨンで一生懸命描いたプリキュアの絵」を「版権モノだからダメ!」なんて、冷たいことを言えますか?
…それ、普通に鬼じゃないですか。
ファンアートが黙認されている理由のひとつは「ファンが愛情を持って一生懸命描いてくれたものだから」なのです。
幼稚園児でなく大人だったとしても…
手間と時間をかけて描き上げられたファンアートは、時に作者でさえ敬意を覚えてしまうものなのではないでしょうか?
一方で「こんな絵を描いて」という命令文ひとつで(まぁプロンプトは1文とは限りませんが)ちょろっと出来上がってしまう生成AI画…
著作権者の心証が同じだと思いますか?
現代の一部のネット民は、何かと「感情論を排除」して「合法か違法か」だけで物事を見ようとしますが…
著作権法は「親告罪」――すなわち、著作権者が相手を訴えるか否かが、そもそもの罪の分かれ目なのです。
二次創作やSNSでのちょっとした「お遊び」が許されている背景には「これくらいなら、まぁいいだろう」「話題になって盛り上がってくれる分には有難い」という、著作権者の暗黙の「お目こぼし」があります。
一方で、作品の権利を侵害しかねないものや、作品の品格を落としかねないものは、普通に訴えられるリスク「大」なのです。
生成AI画のマズい所は、版権モノのオリジナル画と「区別がつかないレベル」の画像を生成できてしまうことにあります。
オリジナルそっくりのタッチで「原作にはあり得ないシーン」を描き出すこともできますし…
何も知らない視聴者が見たら「これって公式の画像(動画)?」という誤解もされかねません。
| 動画サイトのコメント欄など見ていると、生成AI動画に気づいていない人って、結構いるんですよ…。 一瞬とは言え、動画生成AIのロゴが出ているにも関わらず(個人的には、見づらい・分かりづらいロゴの出し方をしているAI事業者もだいぶ「思慮が足りない」とは思っていますが…(出すようになっただけ、まだマシではありますが))…。 |
実際「権利者」は生成AIに対してかなりの危機感を抱いていますし、AI事業者を相手どった訴訟も国内外問わず頻発しています。
| 訴訟だけでなく、10月末には日本漫画家協会とアニメ・出版業界団体による「生成AI時代の創作と権利のあり方に関する共同声明」というものも出されています。) |
個人の生成AI利用者で言うと、2025年1月の「エヴァンゲリヲン」の「アスカ」のAI生成(エロ)ポスター販売や、6月のゴジラ海賊版DVD販売(生成AIでモノクロ映画をカラー化したとみられる)など、国内での逮捕者も出始めています。
全ての生成AI利用者がそうだとは思いませんが…
生成AI利用者の中には、明らかに「やって良いことと悪いことの境界線」が見えていない人がいます。
| …と言うより、悪いことと分かった上で「匿名だし、捕まったりしないだろう」と高をくくって「やらかしている」気もしますが(実際に逮捕者は出ているのに…ニュースとか見ないんですかね?)…。 |
自分もX(旧Twitter)上で見かけたことがありますが…
当時放映中のアニメ(お子様も観る全年齢対象)キャラクターの卑猥な生成AI画像を、作品名・キャラ名(さらには生成AI画であること)を堂々と表記してUPしているもの等…
何重もの意味でアウトです(そもそもSNSの誰でも見られる場所に卑猥な画像をUPしているだけで相当なアウト行為…)。
「ファンが作品愛ゆえに描いたもの」なら許してくれる著作権者も「ファンかどうかも分からない人間がインプレッション稼ぎのためにチョロッと生成したもの(しかもエロ)」を許してくれるわけないじゃないですか。
思うに「AI生成画とファンアートの違いが分からない」という意見の中には「生成AIを使って版権モノでボロ稼ぎしたい→そのためには生成AI画を規制したがる風潮が邪魔だ→人の手による二次創作が許されているなら生成AIも許可しろ」という「さもしい本音」があるのではないでしょうか?
…ですが実際には、そうした一部の生成AI利用者の「暴走」が、かえって生成AIの「規制」を招くことになるのではないでしょうか?
| 一部の利用者が生成AIで著作権を侵したり、モラルに反したAI生成を行うたびに、「そういうことをしていない利用者」まで含めた「生成AI全体のイメージ」が暴落します(現代人は「分けて考えることをせず、白・黒で物事を分けたがる」人が多いので)。 なので「真っ当にAI利用をしている人」も、この問題を「他人事扱い」すべきではないのです。 |
そもそも二次創作界隈って元々「稼ごう」「儲けよう」という世界ではないんですよね…。
儲けは「元が取れれば万々歳」くらいな感じで「とにかく、この作品への愛を表現したい」というのが活動の源のはずなのです。
「稼ごう」「儲けよう」が目的になってしまったら、それは「商売」になってしまい「版権モノで許可無くビジネスしている」ことになってしまうのです。
「稼ぐ」「儲ける」が「お金」でなく「インプレッション」や「表示回数」「再生回数」でも同じこと。
(プラットフォームによっては、それで収益が出るものもあるわけですから。)
生成AI画像(動画)に「この作品への愛を自分の手で表現したい」という、一番肝心な「動機」はあるのでしょうか?
作品への愛が分かれば、たとえ絵が拙くとも、褒めてくれる同志はいますし、ファンになってくれる人もいます。
(実際自分も、一次・二次創作物問わず重視するのは、画力よりもネタの面白さです。)
むしろ「拙くても、一生懸命に愛を表現している」ところにアツさを感じて感動するのですが…
「生成AI画とファンアートの違いが分からない」という人は、そういう「人が情熱を傾けることの価値」が分からないのでしょうか?
どうにも昨今、「合理性」「コスパ」ばかりが重視されて「人の心」を見失ってしまっている人が増えていないでしょうか?
…と言うより、どうにも最近「手抜き」や「怠惰」や「雑な仕事」を「合理的」「コスパ」と言い訳している人が多くないですか?
どんなに「現代的な言い訳」で繕おうと、その裏にある「手抜き感」に、人は本能で気づくものなのではないでしょうか?
根性論や精神論を推すわけではありませんが…
「労を惜しんで結果や名声だけ得ようという人」を「全力で自作品への愛を表現してくれるファン」と同等に扱う気になれる人って、いるのでしょうか?
…これが分からない人は、人間として大切な何かを、既に見失ってしまっているのかも知れませんね。
人間が「人の心」を忘れて「人の労に価値を置かない」「人を大切にしない」社会…
それって、人間が幸せになれる社会なのでしょうか?
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最近、世の中がやけにギスギスしてきたと思いませんか?
他者の言動に過敏に反応する人、やたらと攻撃的な言動をする人が増えたと思いませんか?
自分はその原因が、SNSでの「他層ディス」にあるような気がしてなりません。
「自分と異なる性別、自分と異なる年代、自分と異なる生き方をする層」を、ディスって、嫌って、攻撃する言動が、昨今増えていませんか?
ネットの海を彷徨っていれば、一度や二度どころでなく目にしたはずです。
特定の性別、特定の年代、特定の生き方を、醜悪な言葉で否定する投稿を…。
時にそれらの“口撃”は「自分の属する層」を直撃することもあります。
そんな時、見知らぬ誰かに「自分」を否定されたようで、傷ついたり、反発したり、不快感を覚えたりしませんでしたか?
この世界には「自分たち」を攻撃する「敵」がいる…そんな風に心が波立ったりしませんでしたか?
この世界のどこかに、自分を敵視する何者かがいる――それを知ってしまったら、自然と皆「警戒」するのではないでしょうか?
「北風と太陽」の寓話のように、厳しい北風が吹き荒れる場所では、皆ガチガチに外套を押さえて、自分をガードするものです。
しかも問題は、自分たちを攻撃するその相手が「何者なのか見えない」ことです。
敵の正体が見えないなら、どこにいても、誰に対しても警戒を解くことができません。
いつ、どこから飛んでくるか分からない攻撃に備え、四六時中ピリピリ警戒してしまう…
誰かのちょっとした言葉を「攻撃」と勘違いし、過剰に反発してしまう…
「自分と同じ層」とは安心してつき合えるが、「自分と異なる層」は「敵なのでは?」と疑ってしまう…
その状態が、現代の「心の分断」や「寛容でない世界」を生んでしまっているのではないでしょうか?
…おそらく、SNS上の「他層へのディスり」も、全てが全て「攻撃」というわけではないと思われます。
「他者への配慮」や「無為に傷つけないための婉曲な言葉遣い」を知らない人が、何も考えずに発言してしまった結果が「ディスり」と受け取られてしまう例もあるのではないかと…。
思慮深く慎重な人間は、発信の前に言葉を吟味します。
それゆえに1回の発信にも時間がかかり、発言数も比較的少なくなります。
思慮深くなく、慎重でもない人間は、その真逆。
「他者を傷つける心配」など考えもせず、ポンポン言いたいことを発信してしまうなら、発言数が多くなるのも当然です。
つまりSNSなどの発言の場は、自然と「そういう意見」の方が数多く出てしまうものなのです。
浅慮で無神経な発言ばかりが多く出回るSNSで、心傷つけられるような酷い意見が多く目につくのは、ある意味「必然」。
我々はその「ひどい発言」が「人間の全てではない」ことを、ちゃんと心得ておかないといけないのです。
(…でないと、普通に心が死にますから。)
他者の言動に過敏に反応する人、やたらと攻撃的な言動をする人が増えたと思いませんか?
自分はその原因が、SNSでの「他層ディス」にあるような気がしてなりません。
「自分と異なる性別、自分と異なる年代、自分と異なる生き方をする層」を、ディスって、嫌って、攻撃する言動が、昨今増えていませんか?
ネットの海を彷徨っていれば、一度や二度どころでなく目にしたはずです。
特定の性別、特定の年代、特定の生き方を、醜悪な言葉で否定する投稿を…。
時にそれらの“口撃”は「自分の属する層」を直撃することもあります。
そんな時、見知らぬ誰かに「自分」を否定されたようで、傷ついたり、反発したり、不快感を覚えたりしませんでしたか?
この世界には「自分たち」を攻撃する「敵」がいる…そんな風に心が波立ったりしませんでしたか?
この世界のどこかに、自分を敵視する何者かがいる――それを知ってしまったら、自然と皆「警戒」するのではないでしょうか?
「北風と太陽」の寓話のように、厳しい北風が吹き荒れる場所では、皆ガチガチに外套を押さえて、自分をガードするものです。
しかも問題は、自分たちを攻撃するその相手が「何者なのか見えない」ことです。
敵の正体が見えないなら、どこにいても、誰に対しても警戒を解くことができません。
いつ、どこから飛んでくるか分からない攻撃に備え、四六時中ピリピリ警戒してしまう…
誰かのちょっとした言葉を「攻撃」と勘違いし、過剰に反発してしまう…
「自分と同じ層」とは安心してつき合えるが、「自分と異なる層」は「敵なのでは?」と疑ってしまう…
その状態が、現代の「心の分断」や「寛容でない世界」を生んでしまっているのではないでしょうか?
…おそらく、SNS上の「他層へのディスり」も、全てが全て「攻撃」というわけではないと思われます。
「他者への配慮」や「無為に傷つけないための婉曲な言葉遣い」を知らない人が、何も考えずに発言してしまった結果が「ディスり」と受け取られてしまう例もあるのではないかと…。
思慮深く慎重な人間は、発信の前に言葉を吟味します。
それゆえに1回の発信にも時間がかかり、発言数も比較的少なくなります。
思慮深くなく、慎重でもない人間は、その真逆。
「他者を傷つける心配」など考えもせず、ポンポン言いたいことを発信してしまうなら、発言数が多くなるのも当然です。
つまりSNSなどの発言の場は、自然と「そういう意見」の方が数多く出てしまうものなのです。
浅慮で無神経な発言ばかりが多く出回るSNSで、心傷つけられるような酷い意見が多く目につくのは、ある意味「必然」。
我々はその「ひどい発言」が「人間の全てではない」ことを、ちゃんと心得ておかないといけないのです。
(…でないと、普通に心が死にますから。)
AIに対するスタンスが、自分と世間とでは違うのかも知れない…
最近たびたび感じることなのですが…
特に違和感を感じるのが「世間の人々はAIを闇雲に信じ過ぎなのでは?」ということです。
(ネタで「信じたフリ」をしている人も多いでしょうが、中には本気で「AIの回答は絶対」と信じている人もいそうなので…。)
情報リテラシーの高い方なら既にご存知のことでしょうが…
AIには「ハルシネーション」という現象が存在し、時に「デタラメ」な回答を出して来ます。
それは「AI技術とはどういうものなのか?」を理解しているなら「それは当然起きるよね」と納得できるものなのですが…
一部の研究によると最大27%という、結構な確率で起こり得るこの現象(←情報ソースはWikipedia(情報ソースが脚注に書かれているもの))…
しかしながら、世の中にはこの現象の存在を「認知」すらしていない人も多いのではないでしょうか?
AIの知能は、無数の情報を「学習」して作られます。
なので、情報が「無い」もの、情報量が「少ない」もの、「誤った」情報からは「正解」を導き出せないのです。
(実際、自分が見つけた「ハルシネーション」もネット上での言及が少ない事柄でした。)
…でも、AIを利用する側は、情報源の有無や量、元情報の「信頼性」など見えませんよね?
(AIの種類(ネットの情報を学習するタイプのAIなど)によっては、情報源となるサイトを載せてくれているものもありますが。)
つまり、その回答が真っ当な答えなのか、それとも「ハルシネーション」で生み出された誤情報なのか、利用者はすぐには判断できないということです。
AIがハルシネーションを起こす理由のひとつには、人間がやりがちな「早とちり」をAIも起こしてしまうから…ということがあるのではないかと、個人的には思っています。
(必要な情報が「足りていない」ことにも気づかず、現在有る情報だけから正解を導き出そうとするため、回答が「狂う」のではないかと。いわゆる「無知の知」が出来ていない…ということなのでしょうね…。)
学習する情報が増えていけば、いずれは解決する問題ですし、実際「AIはどんどん進化しているのだから大丈夫」という人もいるかと思います。
…ですが、AIの学習進捗状況や進化の程度も、利用者には見えませんよね?
明日「正答」が得られるAIだったとしても、今日AIを利用する人には「誤答」しか与えられません。
そしてAIは、マスコミの謝罪訂正のように「誤答」を謝罪し「正答」を教えてくれることは無いのです。
以上のことから、自分はAIの回答は「何割かの確率で誤答が交ざり込むロシアンルーレット」だと認識しています。
普通に検索するよりも、むしろファクトチェックなどの後確認が大変なので、できることなら使いたくないのです。
世間の人々は「無料で使えるAIがこんなにあって便利」という風潮のようですが…
自分の認識はむしろ逆で「本来ならお金を使ってモニタリングすべきAIを、タダ働きでモニターさせられているだけ」だと思っています。
…だって、ゲームにしろアプリにしろ、普通はデバッカーやモニターが有償(あるいはちょっとした謝礼)でチェックを行い、それでOKが出て初めて世に出るものじゃないですか?
それをこんな、普通に誤答を出す「未熟」な状態で世に出し、ここまで多くの人に利用させている…
それって、企業倫理的に「褒められたことではない」と思うのですが(まぁ、今の時代は「利益優先」で「社会のことなんか知ったこっちゃない」という企業も多いのかも知れませんが)…。
しかもこれ「タダ働き」どころか、下手すると「命がけ」だったりもするんですよね…。
…だってもう実際に外国では、AI利用者の自死が出てしまっているのですから…。
ひょっとしたらAI回答って、場合によっては「正誤の」ロシアンルーレットどころか、本当の意味でのロシアンルーレットなのかも知れません…。
最近たびたび感じることなのですが…
特に違和感を感じるのが「世間の人々はAIを闇雲に信じ過ぎなのでは?」ということです。
(ネタで「信じたフリ」をしている人も多いでしょうが、中には本気で「AIの回答は絶対」と信じている人もいそうなので…。)
情報リテラシーの高い方なら既にご存知のことでしょうが…
AIには「ハルシネーション」という現象が存在し、時に「デタラメ」な回答を出して来ます。
それは「AI技術とはどういうものなのか?」を理解しているなら「それは当然起きるよね」と納得できるものなのですが…
一部の研究によると最大27%という、結構な確率で起こり得るこの現象(←情報ソースはWikipedia(情報ソースが脚注に書かれているもの))…
しかしながら、世の中にはこの現象の存在を「認知」すらしていない人も多いのではないでしょうか?
AIの知能は、無数の情報を「学習」して作られます。
なので、情報が「無い」もの、情報量が「少ない」もの、「誤った」情報からは「正解」を導き出せないのです。
(実際、自分が見つけた「ハルシネーション」もネット上での言及が少ない事柄でした。)
…でも、AIを利用する側は、情報源の有無や量、元情報の「信頼性」など見えませんよね?
(AIの種類(ネットの情報を学習するタイプのAIなど)によっては、情報源となるサイトを載せてくれているものもありますが。)
つまり、その回答が真っ当な答えなのか、それとも「ハルシネーション」で生み出された誤情報なのか、利用者はすぐには判断できないということです。
AIがハルシネーションを起こす理由のひとつには、人間がやりがちな「早とちり」をAIも起こしてしまうから…ということがあるのではないかと、個人的には思っています。
(必要な情報が「足りていない」ことにも気づかず、現在有る情報だけから正解を導き出そうとするため、回答が「狂う」のではないかと。いわゆる「無知の知」が出来ていない…ということなのでしょうね…。)
学習する情報が増えていけば、いずれは解決する問題ですし、実際「AIはどんどん進化しているのだから大丈夫」という人もいるかと思います。
…ですが、AIの学習進捗状況や進化の程度も、利用者には見えませんよね?
明日「正答」が得られるAIだったとしても、今日AIを利用する人には「誤答」しか与えられません。
そしてAIは、マスコミの謝罪訂正のように「誤答」を謝罪し「正答」を教えてくれることは無いのです。
以上のことから、自分はAIの回答は「何割かの確率で誤答が交ざり込むロシアンルーレット」だと認識しています。
普通に検索するよりも、むしろファクトチェックなどの後確認が大変なので、できることなら使いたくないのです。
世間の人々は「無料で使えるAIがこんなにあって便利」という風潮のようですが…
自分の認識はむしろ逆で「本来ならお金を使ってモニタリングすべきAIを、タダ働きでモニターさせられているだけ」だと思っています。
…だって、ゲームにしろアプリにしろ、普通はデバッカーやモニターが有償(あるいはちょっとした謝礼)でチェックを行い、それでOKが出て初めて世に出るものじゃないですか?
それをこんな、普通に誤答を出す「未熟」な状態で世に出し、ここまで多くの人に利用させている…
それって、企業倫理的に「褒められたことではない」と思うのですが(まぁ、今の時代は「利益優先」で「社会のことなんか知ったこっちゃない」という企業も多いのかも知れませんが)…。
しかもこれ「タダ働き」どころか、下手すると「命がけ」だったりもするんですよね…。
…だってもう実際に外国では、AI利用者の自死が出てしまっているのですから…。
ひょっとしたらAI回答って、場合によっては「正誤の」ロシアンルーレットどころか、本当の意味でのロシアンルーレットなのかも知れません…。
この頃、AIが世の中に浸透するにつれ、言いようのない「危うさ」を感じて気持ちが悪かったのですが…
その原因が、何となく分かってきました。
それは自分が「AIの知は『百聞をまとめたもの』に過ぎない」と弁えているから…
ですが、世の多くの人々は、それを意識すらしていないように見えるから、だったのです。
(ネットの世界は無思慮で軽率な意見ほど多く出回るものですから(なぜなら思慮深く慎重な人は「滅多なことは言わない」ので、発言自体が少なくなります)実際がどうなのかは分かりませんが…。)
AIの知は、膨大な情報を集積して作られたものです。
その気になればいくらでも記憶容量を増やせ、睡眠や労働で学習を邪魔されることもないAIが、人間の知識量を超えられるのは当然のことです。
人間ならせいぜい「十聞」程度で終わってしまう知識を「百聞」あるいは「千聞」まで伸ばせるAIは、そこだけ見れば確かに「優れている」のでしょう。
しかしそれは「一見」を超えるものではないのです。
どれほど書評や概説を見て本を「読んだ気」になっても、実際に自分でそれを読むと全然別の感想を抱く…そんなことって、よくありませんか?
あるいは、どれだけ研修に学び、マニュアルを読み込んで備えても、いざ現場に出てみると全く通用しない…そんなことって、ありますよね?
「百聞は一見に如かず」――「百聞」だけで「知った気」になってはいけない、百の伝聞も「自分の目で見て感じること」には及ばない…
なので自分は、AIの回答も妄信するつもりはありません。
(そもそも現在のAIもまだまだ「トンデモ回答」が多いので(過去記事参照のこと)、100%信頼している方なんてそうそういらっしゃらないでしょうけど…。)
それに、AIの集める「百聞」が、凝縮する価値のある「百聞」だとも限りません。
皆さんもご存知かと思いますが、AIの知の中には「ネット上から集めただけ」のものも存在します。
「ネットの知識を鵜呑みにしてはいけない」「ネットの情報は玉石混交」と散々言われているのに、そのネットから集めた「百聞」を重宝がるのは、あまりに「辻褄が合わない」と思うのですが…皆さん、そこは疑問に思われないのでしょうか?
(そもそも情報源を明示してくれないAI回答を、自分は信用していないのですが…。情報源って、情報リテラシーで「ちゃんと確かめろ」と必ず言われることじゃないですか。)
さらに言えば自分はAIの「要約力」を過信してはいません。
「百聞」を凝縮して「一つの回答」に「要約」する際、ひょっとして「一番欲しかった一聞」を取りこぼしはしないか…そこを常に警戒しています。
だって、求めるものが十人十色なこの世の中、普通に考えて「万人ウケする答え」が「自分の欲しい答え」とは限らないじゃないですか。
AIが「要らない」と判断して要約に入れなかった情報の中に、もしかしたら「自分がピンポイントで知りたかった答え」があるかも知れないじゃないですか。
(ちなみに自分はビジネス書を「要約」や「ダイジェスト」で読むことはありません(そういう「要約サービス」があることは知っていますが)。一流のビジネスマンが「雑談」から「ビジネスのヒント」を見出すことがあるように、メインではない枝葉の部分にとんでもない「気づき」が潜んでいることを、実体験として知っているからです。)
「百聞は一見に如かず」には、実は「続き」があることを、皆さんご存知でしょうか?
百見は一考に如かず(100見るよりも1つ自分で考えること)
百考は一行に如かず(100考えるよりも1つ実行すること)
百行は一果(一効)に如かず(100実行するよりも1つ効果をあげること)
百果(百効)は一幸に如かず(100効果をあげるより1つ幸せを生み出すこと)
百幸は一皇に如かず(自分を100幸福にするより、1つ国を統べて皆を幸福にすること)
…と続きます。
今の世の中はそれにまるで逆行しているように見えるのですが…気のせいでしょうか?
AIがどんどん世に浸透する現代…
人々はどんどん「自分の目で見て確かめる」ことも「自分の頭で考える」ことも忘れていってはいないでしょうか?
AIの知は「百聞」を凝縮したもの。
自分の目でものを見ず、自分の頭で考えることもしない人々の「百聞」を、この先どれほど集めたところで、価値ある「答え」は得られるでしょうか?
…中には「ならばAIの百聞を集めれば良い」という人もいるのかも知れませんが…
「人間の感覚」の入っていない百聞をいくら集めたところで、そこに「人間の欲する」答えは無く、「人間にとって心地良い」社会は実現できない――そんな気がしてなりません。
(AI生成画像が時に「間違ってはいないけれど、絶妙に気持ち悪い」あるいは「生理的に不快」な画像を生成することがあるように、何かが絶妙に「ズレた」答えを出してくるのではないかと。)
「人間の感覚」の要らない、単純な数字のデータ等なら、「百聞を凝縮したもの」で充分に価値があるのでしょうけどね…。
(なんとなく皆さん、「木を見て森を見ず」な感じで、AIを見ても「AI技術」は見ていないような気がしてなりません…。どれほど優れたAIでも、学習する情報が酷いものだったり、情報自体がなくなってしまえば意味が無いはずなのですが…。)
その原因が、何となく分かってきました。
それは自分が「AIの知は『百聞をまとめたもの』に過ぎない」と弁えているから…
ですが、世の多くの人々は、それを意識すらしていないように見えるから、だったのです。
(ネットの世界は無思慮で軽率な意見ほど多く出回るものですから(なぜなら思慮深く慎重な人は「滅多なことは言わない」ので、発言自体が少なくなります)実際がどうなのかは分かりませんが…。)
AIの知は、膨大な情報を集積して作られたものです。
その気になればいくらでも記憶容量を増やせ、睡眠や労働で学習を邪魔されることもないAIが、人間の知識量を超えられるのは当然のことです。
人間ならせいぜい「十聞」程度で終わってしまう知識を「百聞」あるいは「千聞」まで伸ばせるAIは、そこだけ見れば確かに「優れている」のでしょう。
しかしそれは「一見」を超えるものではないのです。
どれほど書評や概説を見て本を「読んだ気」になっても、実際に自分でそれを読むと全然別の感想を抱く…そんなことって、よくありませんか?
あるいは、どれだけ研修に学び、マニュアルを読み込んで備えても、いざ現場に出てみると全く通用しない…そんなことって、ありますよね?
「百聞は一見に如かず」――「百聞」だけで「知った気」になってはいけない、百の伝聞も「自分の目で見て感じること」には及ばない…
なので自分は、AIの回答も妄信するつもりはありません。
(そもそも現在のAIもまだまだ「トンデモ回答」が多いので(過去記事参照のこと)、100%信頼している方なんてそうそういらっしゃらないでしょうけど…。)
それに、AIの集める「百聞」が、凝縮する価値のある「百聞」だとも限りません。
皆さんもご存知かと思いますが、AIの知の中には「ネット上から集めただけ」のものも存在します。
「ネットの知識を鵜呑みにしてはいけない」「ネットの情報は玉石混交」と散々言われているのに、そのネットから集めた「百聞」を重宝がるのは、あまりに「辻褄が合わない」と思うのですが…皆さん、そこは疑問に思われないのでしょうか?
(そもそも情報源を明示してくれないAI回答を、自分は信用していないのですが…。情報源って、情報リテラシーで「ちゃんと確かめろ」と必ず言われることじゃないですか。)
さらに言えば自分はAIの「要約力」を過信してはいません。
「百聞」を凝縮して「一つの回答」に「要約」する際、ひょっとして「一番欲しかった一聞」を取りこぼしはしないか…そこを常に警戒しています。
だって、求めるものが十人十色なこの世の中、普通に考えて「万人ウケする答え」が「自分の欲しい答え」とは限らないじゃないですか。
AIが「要らない」と判断して要約に入れなかった情報の中に、もしかしたら「自分がピンポイントで知りたかった答え」があるかも知れないじゃないですか。
(ちなみに自分はビジネス書を「要約」や「ダイジェスト」で読むことはありません(そういう「要約サービス」があることは知っていますが)。一流のビジネスマンが「雑談」から「ビジネスのヒント」を見出すことがあるように、メインではない枝葉の部分にとんでもない「気づき」が潜んでいることを、実体験として知っているからです。)
「百聞は一見に如かず」には、実は「続き」があることを、皆さんご存知でしょうか?
百見は一考に如かず(100見るよりも1つ自分で考えること)
百考は一行に如かず(100考えるよりも1つ実行すること)
百行は一果(一効)に如かず(100実行するよりも1つ効果をあげること)
百果(百効)は一幸に如かず(100効果をあげるより1つ幸せを生み出すこと)
百幸は一皇に如かず(自分を100幸福にするより、1つ国を統べて皆を幸福にすること)
…と続きます。
今の世の中はそれにまるで逆行しているように見えるのですが…気のせいでしょうか?
AIがどんどん世に浸透する現代…
人々はどんどん「自分の目で見て確かめる」ことも「自分の頭で考える」ことも忘れていってはいないでしょうか?
AIの知は「百聞」を凝縮したもの。
自分の目でものを見ず、自分の頭で考えることもしない人々の「百聞」を、この先どれほど集めたところで、価値ある「答え」は得られるでしょうか?
…中には「ならばAIの百聞を集めれば良い」という人もいるのかも知れませんが…
「人間の感覚」の入っていない百聞をいくら集めたところで、そこに「人間の欲する」答えは無く、「人間にとって心地良い」社会は実現できない――そんな気がしてなりません。
(AI生成画像が時に「間違ってはいないけれど、絶妙に気持ち悪い」あるいは「生理的に不快」な画像を生成することがあるように、何かが絶妙に「ズレた」答えを出してくるのではないかと。)
「人間の感覚」の要らない、単純な数字のデータ等なら、「百聞を凝縮したもの」で充分に価値があるのでしょうけどね…。
(なんとなく皆さん、「木を見て森を見ず」な感じで、AIを見ても「AI技術」は見ていないような気がしてなりません…。どれほど優れたAIでも、学習する情報が酷いものだったり、情報自体がなくなってしまえば意味が無いはずなのですが…。)
「沈黙は金」「口は災いのもと」――そんな「ことわざ」があります。
人間はどうしても完璧にはなれず、どこかで無知になり、どこかで思考を間違えます。
下手なことを言って恥をかいたり、間違いを指摘されて叩かれたりしないよう、「公に意見など言わない方が良い」…そんなことを思っている方も多いのではないでしょうか?
言葉は時に、他人を傷つける武器にもなります。
正論も時に人を傷つけ、ポジティブな投稿でさえ妬みや恨みを買うことがあります。
そんな時代に、誰が読むかも分からない場所に言葉を放つなんて、リスクが高過ぎる――自分も、そう思います。
ですが、今の時代には「それ以上のリスク」もまた、存在しているのです。
それは、この世界が「上手いことを言えたもの勝ち」な世界になってしまうことです。
上にも書いてきたように、危機管理のしっかりした、慎重な大人は、滅多な発言はしません。
そして、他者を傷つけることを恐れる、優しい気遣いのできる大人もまた、滅多な発言はしません。
逆に言えば「そうでない人間」の方が、無遠慮に無思慮にバンバン発言ができてしまうのです。
結果この世は、思慮が浅く思いやりに欠けた発言の方が数が多く、思慮深く優しい発言は「ほんのわずか」になってしまいます。
SNSなどを見ていて他者の発言を不快に感じた経験のある方、結構いらっしゃるかと思いますが…
それってつまりは「そういうこと」なのではないでしょうか?
数の多い「無思慮で優しくない発言」の方が目につきやすく、数の少ない「思慮深くて優しい発言」は滅多に目にできないのです。
…でも今の世の中、そういう思慮や思いやりに欠けた発言に限って、妙に数字を集めていたりもしますよね?
1つには、そういう「炎上案件」が否応にも「注目を集めやすい」せいかと思われますが…
もう1つには、SNSで「いいね」や「拡散」を積極的にするのもまた「慎重でない人々」だから…なのではないかと。
慎重な人間なら「いいね」や「拡散」をする前に、「その発言の真偽」や「その発言を推した場合の影響」を考えて、一旦立ち止まります。
しかし、慎重でない人は「上手いことを言っている人」「共感できる人」に感情的に反応し、深く考えずに「いいね」「拡散」してしまうのです。
(何の罪も無い「可愛いネコチャンの写真」とかだったら、深く考えずに推しても問題無いとは思いますが…。)
今の世の中は、感情的に動く「慎重でない人々」の言動に溢れています。
逆に「慎重な人々」の言動は、「沈黙」の中にあるせいで、表には出て来ません。
(いわゆる「サイレント・マジョリティー」VS「ラウド・マイノリティー(あるいはノイジー・マイノリティー)」の構図です。)
そして表に出ている「感情的で無思慮な意見」ばかりが「世間の意見の代表」のように見られてしまうのです。
慎重で思慮深い人々は「何で今の世の中は、こんな『おかしな方向』に動いてしまうんだ?」と思っていることでしょう。
ですが、原因は至極単純なことなのです。
数の少ない思慮深い意見が、数多くの感情的で無思慮な意見の中に埋もれてしまうからなのです。
また、感情的で無思慮な人間は「対立意見」をひたすら叩く習性があります。
「異論であっても、とりあえずは耳を傾けてみよう」という姿勢が無いのです。
結果、数の少ない思慮深い意見は、叩かれて貶されて、隅に追いやられてしまうのです。
(叩かれて心折れて、それ以上の発信ができなくなってしまう人も多いかと思われます。)
…ですが、感情的で無思慮で「自分のことしか考えていない」人々の意見が世に罷り通ってしまえば、この世は「誰にとっても」地獄な世界になってしまいます。
だって、一時の感情で物事を見る人間は「数ヶ月後の自分」のことさえ考慮に入れないのです。
『アリとキリギリス』のキリギリスのように、ひたすら「今の快楽」だけを求め、冬が訪れた後の自分のことさえ見えないのです。
それどころか「セコセコ働いて食糧貯め込むアリども、乙ww」みたいな感じで、自分たちとは違う層をひたすら馬鹿にして「サゲる」のではないでしょうか?
自分たちを馬鹿にする相手に、わざわざ「冬になったら食糧が得られなくなるから、今のうちに貯めとかないとマズいんだよ」と親切に教えてあげられるのは、よほど「出来た」人間ですよね?
しかも教えてあげたところで、その親切心すら馬鹿にされて叩かれてしまうかも知れないのです。
以前の世の中なら、放置されたキリギリスが増長してイキったところで「自業自得」な結末に終わったかも知れません。
しかしSNSのアルゴリズムが「数字の多く獲れた発言」を優先表示させる現代では、そんなイキったキリギリスの発言が「世論」だと勘違いされてしまいかねないのです。
…その先に待ち受けるのは「自業自得」どころではない「他業多得」の世界。
一部の人間の「我の強い意見」に多くの人々が巻き込まれて破滅する、地獄のような世界です。
この「遠慮無く発言しまくって、上手く共感を集められたもの勝ち」な世界で、沈黙を守り続けるのは、果たして「金」なのでしょうか?
…自分には、そうは思えません。
むしろ「沈黙は罪」なのではないかと、そう思えてならないのです。
人間はどうしても完璧にはなれず、どこかで無知になり、どこかで思考を間違えます。
下手なことを言って恥をかいたり、間違いを指摘されて叩かれたりしないよう、「公に意見など言わない方が良い」…そんなことを思っている方も多いのではないでしょうか?
言葉は時に、他人を傷つける武器にもなります。
正論も時に人を傷つけ、ポジティブな投稿でさえ妬みや恨みを買うことがあります。
そんな時代に、誰が読むかも分からない場所に言葉を放つなんて、リスクが高過ぎる――自分も、そう思います。
ですが、今の時代には「それ以上のリスク」もまた、存在しているのです。
それは、この世界が「上手いことを言えたもの勝ち」な世界になってしまうことです。
上にも書いてきたように、危機管理のしっかりした、慎重な大人は、滅多な発言はしません。
そして、他者を傷つけることを恐れる、優しい気遣いのできる大人もまた、滅多な発言はしません。
逆に言えば「そうでない人間」の方が、無遠慮に無思慮にバンバン発言ができてしまうのです。
結果この世は、思慮が浅く思いやりに欠けた発言の方が数が多く、思慮深く優しい発言は「ほんのわずか」になってしまいます。
SNSなどを見ていて他者の発言を不快に感じた経験のある方、結構いらっしゃるかと思いますが…
それってつまりは「そういうこと」なのではないでしょうか?
数の多い「無思慮で優しくない発言」の方が目につきやすく、数の少ない「思慮深くて優しい発言」は滅多に目にできないのです。
…でも今の世の中、そういう思慮や思いやりに欠けた発言に限って、妙に数字を集めていたりもしますよね?
1つには、そういう「炎上案件」が否応にも「注目を集めやすい」せいかと思われますが…
もう1つには、SNSで「いいね」や「拡散」を積極的にするのもまた「慎重でない人々」だから…なのではないかと。
慎重な人間なら「いいね」や「拡散」をする前に、「その発言の真偽」や「その発言を推した場合の影響」を考えて、一旦立ち止まります。
しかし、慎重でない人は「上手いことを言っている人」「共感できる人」に感情的に反応し、深く考えずに「いいね」「拡散」してしまうのです。
(何の罪も無い「可愛いネコチャンの写真」とかだったら、深く考えずに推しても問題無いとは思いますが…。)
今の世の中は、感情的に動く「慎重でない人々」の言動に溢れています。
逆に「慎重な人々」の言動は、「沈黙」の中にあるせいで、表には出て来ません。
(いわゆる「サイレント・マジョリティー」VS「ラウド・マイノリティー(あるいはノイジー・マイノリティー)」の構図です。)
そして表に出ている「感情的で無思慮な意見」ばかりが「世間の意見の代表」のように見られてしまうのです。
慎重で思慮深い人々は「何で今の世の中は、こんな『おかしな方向』に動いてしまうんだ?」と思っていることでしょう。
ですが、原因は至極単純なことなのです。
数の少ない思慮深い意見が、数多くの感情的で無思慮な意見の中に埋もれてしまうからなのです。
また、感情的で無思慮な人間は「対立意見」をひたすら叩く習性があります。
「異論であっても、とりあえずは耳を傾けてみよう」という姿勢が無いのです。
結果、数の少ない思慮深い意見は、叩かれて貶されて、隅に追いやられてしまうのです。
(叩かれて心折れて、それ以上の発信ができなくなってしまう人も多いかと思われます。)
…ですが、感情的で無思慮で「自分のことしか考えていない」人々の意見が世に罷り通ってしまえば、この世は「誰にとっても」地獄な世界になってしまいます。
だって、一時の感情で物事を見る人間は「数ヶ月後の自分」のことさえ考慮に入れないのです。
『アリとキリギリス』のキリギリスのように、ひたすら「今の快楽」だけを求め、冬が訪れた後の自分のことさえ見えないのです。
それどころか「セコセコ働いて食糧貯め込むアリども、乙ww」みたいな感じで、自分たちとは違う層をひたすら馬鹿にして「サゲる」のではないでしょうか?
自分たちを馬鹿にする相手に、わざわざ「冬になったら食糧が得られなくなるから、今のうちに貯めとかないとマズいんだよ」と親切に教えてあげられるのは、よほど「出来た」人間ですよね?
しかも教えてあげたところで、その親切心すら馬鹿にされて叩かれてしまうかも知れないのです。
以前の世の中なら、放置されたキリギリスが増長してイキったところで「自業自得」な結末に終わったかも知れません。
しかしSNSのアルゴリズムが「数字の多く獲れた発言」を優先表示させる現代では、そんなイキったキリギリスの発言が「世論」だと勘違いされてしまいかねないのです。
…その先に待ち受けるのは「自業自得」どころではない「他業多得」の世界。
一部の人間の「我の強い意見」に多くの人々が巻き込まれて破滅する、地獄のような世界です。
この「遠慮無く発言しまくって、上手く共感を集められたもの勝ち」な世界で、沈黙を守り続けるのは、果たして「金」なのでしょうか?
…自分には、そうは思えません。
むしろ「沈黙は罪」なのではないかと、そう思えてならないのです。
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