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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
ここ数ヶ月、ふと感じるようになったことがあります。
 
それは「世界って、こんな風にガラッと変わってしまうことがあるんだ」ということです。
 
今まで当たり前にあったものが無くなってしまったり、当たり前にできたことができなくなってしまったり、町の中や人の様子も変わってしまったり…
  
数ヶ月前には、こんな風に急激に世界の様子が変わることなど、想像したこともなかった気がします。
 
何となく世界は、自分とは関係のない所で大きな事件があったり、身近で小さな波風が立ったりしても、そう大きく変わったりはしないものだと思っていました。
 
けれど現実に今こうして、世界規模の変化が起きていて…
 
ふと、ぼんやり思うのです。
 
きっとこれまでにも人類の歴史の中で、節目節目にこういう大きな変化はあったのかも知れない、と。
 
けれどそれは、通り過ぎてしまえば過去のこととして忘れ去られてしまい、人々は「昔はこんなことがあって大変だったんだなー。でも現在はこの時代よりずっと進歩しているんだから、もうこんなことは起こらないよな」と思って日々を過ごしていくのだろうな、と。
 
ちょうど数ヶ月前までの自分が「オイルショックの時の買い占めみたいなことは、今の時代では起こらないんだろうな」と無意識に考えていたように…
 
世界が急激に変化し、当たり前のことが当たり前でなくなる感覚は、その時代を生きた人間にしか分からないものなのかも知れません。
 
どんなに“知識”や“教訓”を伝えても、この“感覚”は、後世に伝えきれない気がします。
 
もし、当時の人々の“感情”を、データとして残すことができたとしても、未来の人間がそれを“当事者意識”をもって“まるで自分がそれを感じているかのように”読み解くことは、なかなかできない気がします。
 
そしてたぶん、それこそが、人類が同じ過ちを繰り返してしまう原因なのではないか、と。
 
過去の歴史は、所詮は“他人事”で、自分に関係するものではない――その感覚が、きっと、できたはずの備えを怠る原因になったり、未来の予測を曇らせる原因になったりするのではないか、と…そんな気がしています。

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以前から思っていたことがあります。
 
「その人を好きか嫌いか」と「その人に、この問題を解決する能力があるか」は全く別の問題だと。
 
抱えていた問題を、心から信頼する人間に相談したとして、その人がその問題を解決してくれるとは限らない、と。
 
本当に「問題の解決」を望むのであれば、「その問題を解決できる能力を持った人」を頼らなければ意味が無いのだと。
 
自分は小学校時代の虐め問題を、一旦は家族に相談したものの、その後の対応を見てすぐに家族を頼ることをやめました。
 
それは家族のことが嫌いだったからではありません。
 
「信頼していたかどうか」ということになると、「家族としての信頼」はそれなりにあったものの、「この問題を解決できるという信頼」は持っていませんでした。
 
「この人たちを頼っても、この問題は解決しないだろう」と冷静に判断し、問題を解決できる最適な手段を自分で選択したのです。
 
それはドライ過ぎる選択だったかも知れません。
 
ですが、学校が世界の全てと言っても良かった小学校時代において、自分に対する虐めを「なくす」ことが、その時の自分にとって最優先事項だったのです。
 
能力の無い人間にいつまでも頼り続けることは、問題を長引かせるだけでなく、かえって危険を招くこともあります。
 
相談に乗ってもらった相手が「善かれ」と思ってしたことが、かえって問題をややこしくし、相談者を追いつめる…そんなことはザラにあります。
 
しかも、相手はあくまでも善意で行っているので、余計に相談者が苦しむことになるのです。
 
「信頼して相談したのに、結局助けてもらえなかった」という台詞は、きっと、相手に「助ける能力」があった時だけ通用する台詞なのだと思います。
 
「誰かを助ける能力」は、残念ながら、誰にでも備わっているものではありません。
 
それには知識(時には問題に応じた専門知識)や行動力、コミュニケーション能力や調整力など、様々なスキルが必要となるものなのです。
 
けれど、これは「人柄は良いけど能力は無い人」が「必要ない」という話ではありません。
 
「信頼できる人」「人柄の良い人」は、「問題を解決」してはくれなくても、「話を聞いてくれる」ことはできます。
 
現実に問題が解決していなくても、誰かに話を聞いてもらい、気持ちを分かってもらうことで「心が楽になる」ことはあります。
 
「現実に問題を解決したいのか」「誰かに話を聞いてもらって心が楽になりたいのか」その区別・線引きをしっかりしておけば良い話なのです。
 
そこを一緒くたにして、能力の無い相手に「この人に相談すれば、もう安心」と思ってしまうのは危険です。
 
本当にその問題を解決したいなら、「信頼できる人に話を聞いてもらって心をラクにする」のとはまた別に、専門家を頼ったり能力を持った相手を探す…それが、ベストな選択だと思うのです。
 

<関連記事>
いざと言う時に他人頼みだと普通に命が危ないと思うんだ
虐め(いじめ)対処の実例~小学生の時~

良きリーダーとは、一体どういう人間なのか?
 
それは、ただ単純に清廉潔白で何の汚点も無く、人々からの好感度が高いというだけでは駄目なのかも知れない…そんなことを、最近よく思います。
 
平常時なら、ただ立派な人格者であるというだけで充分なのかも知れません。
 
しかし、緊急事態に陥った時、果たして最善の判断を下せるのか…
 
リーダーたる者「いざという時に、その組織に属する人々の命を守れるのかどうか」が、何より必要な資質なのかも知れない、と。
 
前例の無い危機に陥った時、リーダーは「前例の無い」判断を求められます。
 
しかも緊急時というものは大概の場合「時間が無い」ので、即断即決を求められます。
 
優柔不断に迷っていれば、その分だけ事態は悪化し、最悪の場合には人命が損なわれていきます。
 
「決断」を下すために必要なのは、柔軟な思考力冷静な判断力、そして「覚悟」なのだと思います。
 
未来を100%正確に予測する術など無く、「判断」には常に失敗のリスクがついて回ります。
 
それでもリーダーは決断を下さなければなりません。
 
リーダー以外の誰も、決断を下せる人間がいないからです。
 
「何かして失敗するよりも、何もしない方がいい」というのは人間ならば自然に出てくる心理かと思いますし、何かと理由をつけては結論を先延ばしにしたくもなるでしょう。
 
それでも、時間が経てば経つほどに、取り返しがつかないほどに事態が悪化していくのが、緊急事態というものなのではないでしょうか。
 
リーダーは、ただ単にその組織のトップというだけでなく、その組織に属する人間の命に対する責任を負っている――そのことを、最近よく意識するようになりました。
 
そして、それを考えるほどに、より「リーダーを選ぶこと」の難しさを思い知らされます。
 
人格だけを見て人を選べば能力が足りない可能性があり、逆に実績だけで選べば汚職で金を無駄遣いすることがある…
 
元々選挙などでも候補者の人間性の全てを分かった上で票を投じられているわけではありませんし、就職活動にしても、経営者の人となりを知って会社を選んできたわけではありません。
 
それでも「いざという時」、自分の命がリーダーの判断次第で左右されてしまいかねないという事実は変わらないのです。
 
理想は、能力も人格も兼ね備えたリーダーが世の中にたくさん出て来てくれることなのですが…
 
そのためにはおそらく、そういうリーダーがたくさん輩出されるように、日本の教育自体を見直していかなければならないのかも知れません。
 
現状ではおそらく「人の上に立ちたい」と考えている人間自体が少なかったり、あるいは、「人の上に立ちたい」気持ちはあっても「人の命や人生を預かる覚悟や責任感」を育てられていない人間が多かったりする気がしてならないので…。

個人的に普段から心がけている「怒りで身を滅ぼさない」ための心得その3です。
 
あくまで“自分用”に考えてきた独自の心得ですし、“誰にでも・どんな怒りにでも”通用するものではないと思いますが、参考程度にご覧ください。
 
(項目が多くて長くなりそうなので、何回かに分けて書いています。)
世界や他人に過剰に期待・依存しない
怒りの原因のひとつに「自分の思い通りにいかなかった」「期待を裏切られた」といったことが挙げられると思います。
 
周囲や社会に期待すれば期待した分だけ、その期待が裏切られれば、マイナスの感情が膨れ上がります。
 
しかし、その期待は果たして「何か根拠のある」ものだったのでしょうか?
 
相手の能力限界も考えずに「過剰な期待」をしてはいなかったでしょうか?
 
少し考えれば分かることかと思いますが、誰だって「できないことはできない」のです。
 
英語を習ったことも無い人間に「通訳をやれ」と言っても無理なように、あるいはパソコンが苦手で30分で400字詰め原稿用紙1枚分の文字入力しかできない人間に「1時間以内に30枚分の入力を終えろ」と言っても無理なように…。
 
世の中を見渡してみると、相手のスペックを確認もせずに無茶な要求をし、結果、思い通りの成果が得られずに怒っている人間のなんと多いことかと思います。
 
中には「できないなら努力して“できるように”なるべきだ」という方もいることでしょう。
 
ですが努力は必ずしも報われるものではありませんし、報われたとしても一朝一夕に実現するものではありません
 
「できない」人間に、それでもなお結果を求め続けることは現実的ではありませんし、エネルギーの無駄だと思いませんか?
 
世の中、何でもパーフェクトにこなせる完璧人間などそうそういるものではありませんし、むしろ自分の周りがそんな完璧超人だらけだったら、自分の能力の低さが身に染みて嫌な思いをするのではないでしょうか。
 
完璧な人間がそうそういない以上、この世の中が理不尽思い通りにいかないのは、むしろ「当たり前」のことなのです。
 
完璧でも何でもない未熟な人間たちが、頻繁に失敗や間違いを繰り返しながら動かしているのがこの世の中、ということなのですから…。
 
世の中や周囲の人間に過剰な期待をして「裏切られた」と怒る前に、この世の中や現代に生きる人間が「どういうものなのか」をちゃんと把握しておくべきなのではないでしょうか。
 
「こういう世の中であって欲しい」「こういうことをして欲しい」と頭の中でどれだけ願ったところで、そんな願いをすぐに叶えてくれる“魔法使い”は存在しません。
 
もしも本気で叶えたい希望があるなら、夢や理想に目をくもらせて世の中を過大評価したりせずに、現実を直視し、「問題点」を洗い出し、その問題を解決する方法を考察→実行していかなければいけません。
 
そもそも周囲に「期待」するということは、自分がそれだけ周囲の能力を「上」だと見積もっている、ということです。
 
口では怒って相手を罵倒するくせに、実は無意識に相手を過大評価している……だとしたら、よく分からない矛盾が生じている気がします。
 
怒らずに問題解決する能力を身につけよう
自分は他の人に比べて怒りの沸点が高い(滅多に怒らない)方だと思うのですが、その理由を考えてみた時、思い当たるものが1つあります。
 
それは自分が「怒りという感情を爆発させる」ことより、「怒りの原因となった“問題”を解決する」方を優先しているからです。
 
「怒り」というものには当然、原因や理由が存在します。
 
けれど、その原因や理由に対して「怒った」ところで、果たして問題は解決するでしょうか?
 
感情を爆発させれば、怒りの原因となった相手がこちらの言い分を聞いてくれるでしょうか?
 
それとも周りにいる誰かが問題解決のために動いてくれるでしょうか?
 
もちろん現実には、それで事態が動くケースも無いわけではありません
 
しかし100%それで解決するかと言えば答えはNOですし、自分の社会的評価が下がるリスクもあります。
 
それに、相手や状況によっては、逆に事態が自分が望まない方向へ動いてしまう危険もあります。
 
そんな諸々の事情を考えると、どうしても「どんな能力を持っているかも分からない他人に期待するより、自分で解決策を練った方が手っ取り早くて安心だな」と思ってしまうのです。
 
怒りには「爆発させることによって溜め込んだストレスを一度スッキリさせる」という効能もあるのかも知れません。
 
でも一時的に感情がスッキリしたところで、問題が解決していなければ新たなストレスが発生しかねません。
 
自分は目先の感情より実利を優先するシビアなタイプの人間ですので、怒りを感じるよりも先に「これを解決するにはどうしたらいいだろう」ということに頭が行ってしまい「怒っている暇もエネルギーも無い」のです。
 
そもそも怒りに心を囚われてしまうと、目がくもり、思考が鈍って、真っ当な解決策が思いつけなくなります。
 
冷静にものを考えられていれば思いつけたはずの解決策を、怒りによって時間とエネルギーを無駄に消費していたせいで見出せなかったとしたら、それは人生においてマイナスでしかない気がしてならないのです。
 
もちろん、問題を解決するには、それ相応の能力が要ります。
 
そもそも「何が問題なのか」を見つける視点さえ、ある程度脳を鍛えていなければ得られないものかと思います。
 
ですが「周囲に完璧な人間なんてそうそういない、あてにならない世の中」で生き抜いていこうとするなら、問題解決能力を磨くことは必須だと思うのです。
 
どんなに文明が進歩しても、この世が理不尽で弱肉強食な世の中であることに変わりはありません。
 
以前このブログの記事にも書きましたが「いざという時に周囲をアテにしないで自分で解決できる」ようにしておかなければ、あっさり命さえ失いかねないと思うのです。
 
関連記事>いざと言う時に他人頼みだと普通に命が危ないと思うんだ


関連記事>怒りの感情のコントロール方法(その1)(その2)
アンガー・マネジメント」という言葉があるように、「怒り制御」については盛んに取り沙汰される今日この頃ですが…
 
実は「喜怒哀楽」の感情のうち、もっとも制御し難く厄介なのは」の感情なのではないか、と最近ふと考えます。
 
食欲・知識欲・自己顕示欲 etc…諸々の欲望が満たされた時に感じる快楽、あるいは「楽に」生きたいという欲求…
 
それに溺れ、コントロールできなくなった時、人は自らの人生を破滅させてしまうのではないか、と。
 
「楽しい」という感情は、人生に不可欠なものです。
 
「楽しい」という感情が存在しているからこそ、人は、決して優しいとは言いきれないこの世界で、生きていけているのかも知れません。
 
ですが、そんな風に「生きる意義」あるいは「生への欲求」と直結している感情であるからこそ、「楽」は制御し難く厄介なモノである気がしてなりません。
 
「怒り」や「哀しみ」は、本人にとって決して快いものではありません。
 
むしろ不快なものであることの方が多いでしょうし、「怒」「哀」の感情が出ているというだけで、人はエネルギーを消耗します。
 
ですから、「怒」「哀」についてはある程度、セルフ・コントロールが効くのではないかという気がするのです。
 
長く続けばそれだけ精神が疲弊するものであるがゆえに、「もうそろそろ怒りを治めよう」「哀しむのは、もうやめにしよう」と、自分で思うこともできるのではないかと思うのです。
 
(もちろん、それが難しい方もいらっしゃるとは思いますが…。)
 
ですが「楽」に関して言えば、不快どころか真逆の「快楽」であるため、人はそれを抑えようとも思わず、むしろ、もっと積極的にそれを味わおうとするのではないでしょうか。
 
しかも、エネルギーを消費するどころか、逆に「楽にする」ことでエネルギーの消費を抑えたり、あるいは「もっと楽しみたい」と活力やエネルギーが湧いてくることも多いのではないでしょうか。
 
ですが「楽」は、時に人の人生を確実に狂わせます。
 
酒や薬物の中毒者が、一時の快楽を忘れられずに、身を滅ぼすと知りながら、それを繰り返してしまうように…
 
あるいは、明るみに出れば確実に家庭や恋人関係の崩壊に至ることを知りながら、不倫や浮気をする人間がいるように…
 
もっと身近な例で言えば、しなければいけない勉強をせず「楽に」過ごしてしまったばかりに、ひどいテスト結果で叱られたり、受験に失敗したり…そんなことがあるのではないかと思います。
 
怒りで身を滅ぼす人は多いですが、同じくらい…あるいは、もしかしたらそれ以上に、「楽」に溺れて人生を狂わせる人も多いのではないかと思うのです。
 
もしかしたら人間は、もっと「楽」をコントロールする術を考え始めた方が良いのではないか…そんなことを思う、今日この頃です。

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