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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
紅茶」と言えば、最近専ら無糖ストレートティーな自分ですが…
  
最近、また新たな「お気に入り」と出逢ってしまいました。
 
ポッカサッポロさんの「知覧かごしま紅茶」です。
 

 
この紅茶、無糖なのですが、なぜか「甘く感じる」のです。
 
飲んだ後、口の中にふわっと甘い後味が薫るのです。
 
最初に試しに飲んでみて、あまりに気に入ったので、5本くらいまとめ買いしたのですが…
 
残念ながら、その後この商品を一切見かけていません…。
 
ちなみに購入したのは、地元のディスカウントストアですが、他では見たことのない商品(知らないメーカーの商品など)がよく並んでいる店です。
 
また買いたいので、普通にスーパーやコンビニの店頭にも並んでいて欲しいのですが…。
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数年前から、ウェブ小説告知用にツイッターを利用しています。
 
しかし、実際に利用してみてビックリすることが数多くあります。
 
そのうちの1つが「ニセモノ」「非公式」の多さです。
 
初心者のうちって、「興味のある有名人のツイートをとりあえず見てみよう」とかって思いますよね?
 
しかし、その有名人の名前をツイッターで検索してみると…
 
同じ名前で、しかもアイコンまでご本人の画像が使われたアカウントがズラッと表示されるのです。
 
最初に見た時は本当に「怖…っ」と思いました。
 
そして「その人の名前のアカウントだったとしても、すぐには信じないようにしよう」と心に決めたのです。
 
アニメや小説などの「コンテンツ」にしても同じです。
 
アカウントがその名前で、アイコンまで公式の絵が使われていても「公式」だとは限らないのです。
 
本物とニセモノ、公式と非公式を見分けるひとつの目安が、ツイッターの「認証バッジ」…いわゆる公式マークです。
 
ツイッターの運営さんに公式だと認証されると、青い水たまりのような丸にチェックマークの付いた印が、名前の横に付くわけですが…
 
全ての有名人がこれを獲得できているわけではありません。
 
(また、「なんちゃって認証マーク」が存在するという話も、ネット上で目にします。)
 
なので、自分は「公式」を探すために、ある方法をとっています。
 
まずひとつは「1人の公式からフォローをたどっていく」方法です。
 
とりあえず1人、認証バッジが付いていて、ツイートの内容やその他もろもろから「これは確実にご本人」と確信できるアカウントを見つけます。
 
そして、その人が「フォローしている人」のリストの中から、次の「ご本人」を探し出すのです。
 
(フォローしている人のリストは、ツイッターのアカウントを持っていてログイン状態でないと見られません。)
 
たとえばお笑いコンビの片方を見つけたなら、その方がフォローしている相方が「ご本人」です。
 
中には膨大な数の人をフォローしていて「そこから人を探すなんてムリ」という場合や、上手く「つながり」がなくて辿り着けない方もいたりしますが…。
 
それと、コンテンツや企業の「公式」を探す場合には、まず公式Webサイト(ホームページ)を探し、そこに掲載されているアカウントを見るようにしています。
 
中にはレイアウトがゴチャついていて、どこにそれがあるのか分からないサイトもあったりするのですが…。
 

今の時代を見ていて不思議に思うのが「『意見の否定=その人の存在自体の否定』になっていないか?」ということです。
 
自分にとって「気に食わない意見」を持つ相手のことを、罵倒し、侮辱し、人格否定し、まるでこの世から葬り去ろうとでもするように徹底的に攻撃する…そんなことが、世の中に溢れている気がするのです。
 
でも「相手の意見を否定すること」と「相手の存在自体を否定すること」は決してイコールではありませんよね?
 
なぜ、そこを「一緒くた」にし、しかも、そのことに何の疑問も抱かずにいるのか…。
 
その「なぜ」の「答え」として、ひとつ推測しているのは、「感情に目がくらんで、『意見の否定』と『人格否定』を分けて考えることができなくなっているのではないか」ということです。
 
相手の意見に「怒り」や「不快」などの「負の感情」が刺激された結果、自分の言動が「意見の否定」という次元を遥かにオーバーし、「人格の否定」にまで至ってしまっていることに気づけない…
 
あるいは、気づいていても、無意識のうちにそれを「正当化」し、自分の感情を満足させることの方を優先させてしまう…
 
つまり「自分の言動を冷静に顧みることができない」「自分を律することができていない」ことが原因なのではないかと…。
 
あるいは、そもそも今の社会の中に「意見を戦わせる上で、相手の人格を攻撃しても構わない」という、誤った共通認識が育まれてしまっているのではないか、と…。
 
自分と対立する意見の相手は、存在自体を認めないと言うなら、そもそも「議論」そのものが成り立ちません
 
それは「議論」ではなく、ただ自分の意見を周りに「押し付ける」ための場でしかありません。
 
たとえ自分とは反対の意見だったとしても、自分にとって「気に食わない」意見だったとしても、まずは「耳を傾ける」――それが、「議論」というものの「最低限」のルールのはずなのですが…その「最低限」ができていない人が多過ぎる、ということなのでしょうか?
 
そもそも、なぜそんなにも「自分の意見を通したがる」のか、自分の目からすると、そこからして不可解でなりません。
 
他人の存在を否定してまで自分の意見を通して――その意見が間違っていた場合、自分も他者も皆まとめて破滅するリスクがあるわけですが(そしてその場合、その破滅に対する「責任」が否応なく発生するわけですが)…そこの所は考えていない、ということなのでしょうか?
 
議論とはそもそも、多様性のある意見を集めることで、「ひとりの人間の視点」だけでは見出せない問題解決法を導き出すためのものだと思っていたのですが…そう思っていない(自分の意見を通す場とだけ考えている)人間が多いということなのでしょうか?
 
思えば我々は、義務教育の中できちんとした「議論の方法」を学んではいません。
 
「学級会」や「ホームルーム」で何かを決める際は、結局「多数決」で終わってしまい、「意見の調整」「意見のすり合わせ」「対立意見の妥協点を見出す」などは一切見られなかったように思います。
 
それゆえ、大人になってからも、そんな「多数決の勝ち負け」で全てを考えてしまうのでしょうか?
 
自分の意見が勝てばそれで良いと、そこで思考を止めてしまい、その結果、少数派がどうなるかについては一切思いをめぐらせないのでしょうか?
 
むしろ、勝者の権利とばかりに、敗者を徹底的に足蹴にしようとするのでしょうか?
 
推測はあくまで推測でしかありませんので、実際のところは分かりません。
 
しかし、もし「そう」なのだとしたら…今の世の中の様々な問題、そして「生きづらさ」の根本は、そこにあるのかも知れません。

就職活動で「自己分析」を経験した方、結構いらっしゃると思います。
 
自分の長所短所を見つめ直し、面接で上手くPRできるように、自分自身について分析をするわけですが…
 
社会人になった今にして思うと、学生時代にやった「自己分析」は、まるで「なっていなかった」と感じます。
 
「自己分析」という字面からして、「自分自身」だけを分析すれば良いような気がしてしまいますが…
 
本当の意味で「自分自身を知る」には、「自分を知っている」だけでは駄目なのです。
 
知らなければならないのは「自分と他人との違い」です。
 
他人と比べて自分が勝っているものは何か、そして逆に劣っている部分は何なのか…。
 
そしてそんな「自分と他人との違い」を知るには、過小評価でも過大評価でもない「リアルで正確な他人の姿」を知らなければならないのです。
 
自己評価をする際、無意識のうちに他人の能力を低く見積もり、「自分はこんなにスゴいんだ」と偉ぶったりはしていませんか?
 
あるいは逆に、自分が周りと比べてひどく劣っているような気がして、委縮したりはしてしませんか?
 
他人の姿を色眼鏡無しに真っ直ぐ見つめるということは、そんなに簡単なことではないのです。
 
そもそも「自分から見える他人の姿」は、その人のほんの一部分――“氷山の一角”でしかありません。
 
実はとてつもない能力を隠し持っているかも知れませんし、逆に見栄を張って自分を大きく見せようとしているかも知れません。
 
そんな「目には見えない部分」も考慮した上で、他人と自分との「違い」を見つめていかなければなりません。
 
正直、非常に難しく、社会人になった今でも、ちゃんとできるかどうか、自信はありません。
 
しかし、他人を知り、自分を知るということは、就職活動のみならず、人生を生きる上でも非常に役立ちます。
 
就職活動のためだけのものと思わず、人生のふとした場面で、自己分析してみるのはいかがでしょうか。


社会人になってから気づいたことがあります。
 
それは、「分からない」には種類がある、ということです。
 
ひとつは「理解する能力が無い」から生じる「分からない」。
 
もうひとつは「理解する気が無い(理解する気が起きない)」から生じる「分からない」です。
 
どんな人でも分かるようにと、どんなに取扱説明書を分かりやすく工夫しようと、「分からない」人は「分からない」と言ってきます。
 
それなのに、こちらが取説をそのまま読み上げ、その通りに操作してもらうと、あっさり「出来て」しまったりするのです。
 
そんなことが何度かあり、思ったのが、「これは『理解できない』わけではなく、取説を取り出したり、その中から必要な操作を書いたページを探し出したり、そこに書いてある内容を理解するのが『面倒くさい』だけなのだろう」ということでした。
 
自分で説明書を読み込んで理解するより、他人に訊いてそのままやった方が「簡単」で「面倒くさくない」から、あえて「分からない」ままでいる…
 
世の中にはたぶん、そういう人々が存在するのです。
 
きっとこれは、機械の操作や業務の進め方に限らないことだと思われます。
 
世の中に溢れる様々な“問題”や“課題”――難しくて理解できない、という人のうち、「理解する能力が無い」から分からない人は、一体どれだけいるのでしょう。
 
きっと中には、理解する能力があっても、理解する気が無いから「分からない」、理解するのが面倒くさいから「分からない」という人間が相当数いるはずです。
 
人はそもそも、興味を持っていない分野のことは理解したがらないものです。
 
人生は有限で、処理しなければならない情報・問題は膨大にあります。
 
そんな中で、特に興味の無いことに頭を割いている余裕は無いのかも知れません。
 
しかし、そんな「本当は分かるはずなのに」あえて「分からない」ままにしていることが、時に誰かを苦しめたり、誰かに余計な負担を負わせたりしているのではないか…そんな風にも思うのです。
 
「愛の反対は、憎しみではなく無関心」という言葉があります。
 
本当は理解できるはずなのに、わざと理解しないでいる、そんな「分からない」も、「愛の反対」なのかも知れない――そんなことを、自戒も込めて考えてみる今日この頃です。

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【HN(ハンドル・ネーム)】
津籠睦月(つごもりむつき)
【職業】
社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
【趣味】
小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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