日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
顧客イメージを大切にする「企業」や「フリーランス」なら、特に知っておかないとマズい話なのですが…
いわゆる「反AI」と呼ばれる人々のことを、単純に「AI技術に反対する人々」と勘違いしている人って、多いですよね?
(そもそも「反AI」という呼び方自体が、そういう誤解に基づいていると思われるのですが…。)
そこを勘違いしていると「こんなに便利な技術なのに反対するなんてどうかしている」という論調になってしまうのでしょうが…
実は「反AI」と呼ばれている人々は「AI」に反対しているわけではないのです。
(ここがややこしくなるので「反AI」という呼び名はやめて欲しいのですが…。)
反対しているのは「AIによって人間が蔑ろにされること」「AIによって人間の尊厳が否定されること」なのです。
つまり、実は反発されているのは「AI」ではなく「人間」。
AIを開発する側の企業理念や姿勢、AIを使う側の倫理観や人間性を問われているのです。
…それはそうですよね。
だってAIはただ「人間」に指示されたことを行っているだけ。
AI自身の意思で詐欺を行ったり、著作権侵害を行ったり、誰かの尊厳を否定したりしているわけではないのですから。
いわゆる「反AI」と呼ばれる人々を「AIに反対するなんてどうかしている」という論調で嘲笑する人々は、本当は自分たちこそが反発され否定されているという事実に、気づいていないのです。
「イメージ第一」な企業やフリーランスは、ここを誤解していると、とんでもないことになります。
「反AI」と呼ばれる人々を「AIへの反対」だと思い込んでいる人々は「AIに反対するなんてとんでもない!AIはこんなに便利なんですよ!使わないなんてもったいない!」という論調で世間を説得しようとするかも知れません。
…ですが「AIによる人間性の否定」に反発する人々にとって、それは逆効果――むしろ「煽り」にもなりかねないんですよね…。
「AIによる人間性の否定」に反発する人々にとって「AIを過度に推し進める組織・個人」は「人間を否定してAIに全てを委ねようとしている」ように見えます。
…それって、イメージ戦略的にかなりマズいことだと思いませんか?
ビジネスというものは結局、全て「人間」が相手のものです。
その「人間」に対して「お前ら人間なんて価値が無いんだよ。AIで否定してやるぜ」と言っているように見られてしまう――かなり最悪の部類に入る「マイナスイメージ」ですよね?
今までAIを使った広告・企画が数々「炎上」してきていますが…それはつまり「そういうこと」なのです。
そこの本質に気づかずにAI推進派だ反AIだと争っていても、まるで意味が無いのです。
AIが本当の意味で世の中に受け入れられるために必要なのは「人間の尊厳がちゃんと守られること」です。
AIを推進したい人々は「AIが世の中に浸透していけば、自然と『反AI』派もいなくなるだろう」と楽観視しているかも知れませんが…
今後、AIにより人間の仕事が奪われ、失業者が大量に発生するようなことにでもなれば、むしろ反発は増え、激化するものと思われます。
(過激な国だと、暴動が起きてデータセンターが破壊されたりしてもおかしくないのでは…?)
…そもそも何より反発されているのは「AIにより人間性が否定されることを恐れ、悲しむ人々」の心情に気づけない・理解できない、その「鈍感さ」に、なのかも知れません。
(補足:「AIに反発する理由」は1つだけではないと思われます。他には「AIの弱点や欠点を議論しないまま導入することへの危機感」なども挙げられるかと。←既に起きている事例を挙げるなら「AIに障害が起きると、それに関わる全てのサービスや業務も軒並み停止する」ことなど…。)
いわゆる「反AI」と呼ばれる人々のことを、単純に「AI技術に反対する人々」と勘違いしている人って、多いですよね?
(そもそも「反AI」という呼び方自体が、そういう誤解に基づいていると思われるのですが…。)
そこを勘違いしていると「こんなに便利な技術なのに反対するなんてどうかしている」という論調になってしまうのでしょうが…
実は「反AI」と呼ばれている人々は「AI」に反対しているわけではないのです。
(ここがややこしくなるので「反AI」という呼び名はやめて欲しいのですが…。)
反対しているのは「AIによって人間が蔑ろにされること」「AIによって人間の尊厳が否定されること」なのです。
つまり、実は反発されているのは「AI」ではなく「人間」。
AIを開発する側の企業理念や姿勢、AIを使う側の倫理観や人間性を問われているのです。
…それはそうですよね。
だってAIはただ「人間」に指示されたことを行っているだけ。
AI自身の意思で詐欺を行ったり、著作権侵害を行ったり、誰かの尊厳を否定したりしているわけではないのですから。
いわゆる「反AI」と呼ばれる人々を「AIに反対するなんてどうかしている」という論調で嘲笑する人々は、本当は自分たちこそが反発され否定されているという事実に、気づいていないのです。
「イメージ第一」な企業やフリーランスは、ここを誤解していると、とんでもないことになります。
「反AI」と呼ばれる人々を「AIへの反対」だと思い込んでいる人々は「AIに反対するなんてとんでもない!AIはこんなに便利なんですよ!使わないなんてもったいない!」という論調で世間を説得しようとするかも知れません。
…ですが「AIによる人間性の否定」に反発する人々にとって、それは逆効果――むしろ「煽り」にもなりかねないんですよね…。
「AIによる人間性の否定」に反発する人々にとって「AIを過度に推し進める組織・個人」は「人間を否定してAIに全てを委ねようとしている」ように見えます。
…それって、イメージ戦略的にかなりマズいことだと思いませんか?
ビジネスというものは結局、全て「人間」が相手のものです。
その「人間」に対して「お前ら人間なんて価値が無いんだよ。AIで否定してやるぜ」と言っているように見られてしまう――かなり最悪の部類に入る「マイナスイメージ」ですよね?
今までAIを使った広告・企画が数々「炎上」してきていますが…それはつまり「そういうこと」なのです。
そこの本質に気づかずにAI推進派だ反AIだと争っていても、まるで意味が無いのです。
AIが本当の意味で世の中に受け入れられるために必要なのは「人間の尊厳がちゃんと守られること」です。
AIを推進したい人々は「AIが世の中に浸透していけば、自然と『反AI』派もいなくなるだろう」と楽観視しているかも知れませんが…
今後、AIにより人間の仕事が奪われ、失業者が大量に発生するようなことにでもなれば、むしろ反発は増え、激化するものと思われます。
(過激な国だと、暴動が起きてデータセンターが破壊されたりしてもおかしくないのでは…?)
…そもそも何より反発されているのは「AIにより人間性が否定されることを恐れ、悲しむ人々」の心情に気づけない・理解できない、その「鈍感さ」に、なのかも知れません。
(補足:「AIに反発する理由」は1つだけではないと思われます。他には「AIの弱点や欠点を議論しないまま導入することへの危機感」なども挙げられるかと。←既に起きている事例を挙げるなら「AIに障害が起きると、それに関わる全てのサービスや業務も軒並み停止する」ことなど…。)
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自分の家は割合的にレアなケースなのでしょうが…
自分は生まれた時から、母方の姓を名乗ってきました。
なぜなら、父が「婿入り」して妻側の姓に改姓したからです。
例の国民的アニメに例えるなら「磯野姓を名乗ることを選択したマスオさん」といったところでしょうか。
父が結婚前は別の姓を名乗っていたと知ったのは確か小学生の時で、何だか不思議な感慨を抱いたことを覚えています。
我が家がこんなケースだったため、選択的夫婦別姓の話を聞いた時、自分は普通に「婿入りした男性が結婚前の姓を名乗り続けられるメリット」に気がついたのですが…
これ、不思議なほど論じられていませんよね??
どうも皆さん「改姓するのは女性の側」という前提で物を考えていらっしゃって、その「逆」のケースをまるで想定していないように感じられるのですが…気のせいですか?
確かに比率的には決して多くないのでしょうし、身近でそういうケースを見聞きしたことがないという方も多いのでしょう。
ですが…可能性がゼロでない以上、どの独身男性にも降りかかり得る「究極の選択」なのですが。
特に「特定の条件下」では発生確率が跳ね上がるのではないかと…。
たとえば、相手の家に「娘」しかおらず、娘が改姓すれば家名が途絶えてしまうパターン…
分かりやすい例を挙げるなら、大きな家の「一人娘」といわゆる「逆玉」で結婚するケースでは「改姓しての婿入り」でないと結婚を許されないパターンも多いのではないかと…。
その選択を迫られた時、現在の法律ですと「姓を変える」か「結婚を諦める」の二択しか無いわけですが…
選択的夫婦別姓で、さらに子どもの姓を任意に決められるなら「子には妻側の姓を継がせて、自分は今まで通りの姓を名乗り続ける」ことが可能なわけです。
うちの父は「サラリーマン」ではなかったので、会社勤めの中での改姓の苦労は味わっていませんが…
それでも、取引先や知人友人との関係、さらには各種手続き関係で、何かと苦労を味わったものと想像しています。
(うちの父は大兄弟の末っ子で、兄姉が大好きな人ですが、その大好きな兄たちとも姓が変わってしまったわけですし…。)
…まぁ、婿入りと言ってもケースは様々で、たとえば政治家の一人娘と結婚して義父の地盤を継ぐパターンですとか、同族経営の創業家一族に婿入りするパターンですと、かえって改姓した方が都合が良いのかも知れませんが(「選択的」夫婦別姓なら、改姓するもしないも「どちらも選べる」んですよね)…。
何にせよ「男性側の改姓」パターンがあまり論じられないのって、議論する側の「想像力」の問題なんでしょうね…。
ハナから改姓は「女性側のもの」「女性の問題」という考えで、男性側のメリットに目が向かないのでしょう。
物事は「自分事」として考えるか「他人事」として考えるかで差が生まれます。
悲しいことに、人間は大概の場合、「他人事」だと「自分事」ほど真剣に物を考えられないのです。
「他人事」とは「他人」だけの問題ではなく、いつか自分の身にも起き得る「自分事」でもあるのですが…
そんな「いつか起こるかも知れない可能性」には目を向けられず、それが
「起きてしまってから」あわてるのが人間なのです…。
(その時になってからあわてたところで、大概の場合「間に合わない」のですが…。)
実際に自分の身にそれが起こるか、身近で見聞きでもしない限り、そんな可能性を想定することもできないんですよね…。
「他人事」を「他人」の事としか思えず冷たく扱う人間は、結局は「自分」の可能性さえも狭めてしまうのではないでしょうか?
世の中そんな感じで何事も「他人事」扱いして切り捨てているから、誰も彼もが「未来の自分の首」を自分で絞めて「誰にとっても生きづらい」世の中を創ってしまっているのではないでしょうか?
今さらここで言わなくても、古の人が既に気づいて「ことわざ」にまでしていますが…「情けは人のためならず」って、「他人への温情はめぐりめぐって、いつか自分へと返ってくる」という意味なんですよね…。
(ちなみに誤解無きよう言っておきますが…我が家は、祖父母の代までは時代の恩恵もあってそこそこ裕福だったようですが、バブル崩壊後は没落の一途を辿って今は見る影もありません…。→自分たち兄弟は、好きなオモチャやゲームも満足に買ってもらえませんでしたし…。)
ちなみに絶対あり得ないだろうとは思いつつ言うと、子どもの姓は成人前は「磯野・フグ田・タラオ」みたいな感じで両方持たせておいて、成人の時に子ども自ら「どっちか選べる」と良いのにな…なんて妄想をしてみたり(大概の大人は子どもの意思なんて「尊重」どころか「想定」もしていないので、まぁムリでしょうけど…)。
自分は生まれた時から、母方の姓を名乗ってきました。
なぜなら、父が「婿入り」して妻側の姓に改姓したからです。
例の国民的アニメに例えるなら「磯野姓を名乗ることを選択したマスオさん」といったところでしょうか。
父が結婚前は別の姓を名乗っていたと知ったのは確か小学生の時で、何だか不思議な感慨を抱いたことを覚えています。
我が家がこんなケースだったため、選択的夫婦別姓の話を聞いた時、自分は普通に「婿入りした男性が結婚前の姓を名乗り続けられるメリット」に気がついたのですが…
これ、不思議なほど論じられていませんよね??
どうも皆さん「改姓するのは女性の側」という前提で物を考えていらっしゃって、その「逆」のケースをまるで想定していないように感じられるのですが…気のせいですか?
確かに比率的には決して多くないのでしょうし、身近でそういうケースを見聞きしたことがないという方も多いのでしょう。
ですが…可能性がゼロでない以上、どの独身男性にも降りかかり得る「究極の選択」なのですが。
特に「特定の条件下」では発生確率が跳ね上がるのではないかと…。
たとえば、相手の家に「娘」しかおらず、娘が改姓すれば家名が途絶えてしまうパターン…
分かりやすい例を挙げるなら、大きな家の「一人娘」といわゆる「逆玉」で結婚するケースでは「改姓しての婿入り」でないと結婚を許されないパターンも多いのではないかと…。
その選択を迫られた時、現在の法律ですと「姓を変える」か「結婚を諦める」の二択しか無いわけですが…
選択的夫婦別姓で、さらに子どもの姓を任意に決められるなら「子には妻側の姓を継がせて、自分は今まで通りの姓を名乗り続ける」ことが可能なわけです。
うちの父は「サラリーマン」ではなかったので、会社勤めの中での改姓の苦労は味わっていませんが…
それでも、取引先や知人友人との関係、さらには各種手続き関係で、何かと苦労を味わったものと想像しています。
(うちの父は大兄弟の末っ子で、兄姉が大好きな人ですが、その大好きな兄たちとも姓が変わってしまったわけですし…。)
…まぁ、婿入りと言ってもケースは様々で、たとえば政治家の一人娘と結婚して義父の地盤を継ぐパターンですとか、同族経営の創業家一族に婿入りするパターンですと、かえって改姓した方が都合が良いのかも知れませんが(「選択的」夫婦別姓なら、改姓するもしないも「どちらも選べる」んですよね)…。
何にせよ「男性側の改姓」パターンがあまり論じられないのって、議論する側の「想像力」の問題なんでしょうね…。
ハナから改姓は「女性側のもの」「女性の問題」という考えで、男性側のメリットに目が向かないのでしょう。
物事は「自分事」として考えるか「他人事」として考えるかで差が生まれます。
悲しいことに、人間は大概の場合、「他人事」だと「自分事」ほど真剣に物を考えられないのです。
「他人事」とは「他人」だけの問題ではなく、いつか自分の身にも起き得る「自分事」でもあるのですが…
そんな「いつか起こるかも知れない可能性」には目を向けられず、それが
「起きてしまってから」あわてるのが人間なのです…。
(その時になってからあわてたところで、大概の場合「間に合わない」のですが…。)
実際に自分の身にそれが起こるか、身近で見聞きでもしない限り、そんな可能性を想定することもできないんですよね…。
「他人事」を「他人」の事としか思えず冷たく扱う人間は、結局は「自分」の可能性さえも狭めてしまうのではないでしょうか?
世の中そんな感じで何事も「他人事」扱いして切り捨てているから、誰も彼もが「未来の自分の首」を自分で絞めて「誰にとっても生きづらい」世の中を創ってしまっているのではないでしょうか?
今さらここで言わなくても、古の人が既に気づいて「ことわざ」にまでしていますが…「情けは人のためならず」って、「他人への温情はめぐりめぐって、いつか自分へと返ってくる」という意味なんですよね…。
(ちなみに誤解無きよう言っておきますが…我が家は、祖父母の代までは時代の恩恵もあってそこそこ裕福だったようですが、バブル崩壊後は没落の一途を辿って今は見る影もありません…。→自分たち兄弟は、好きなオモチャやゲームも満足に買ってもらえませんでしたし…。)
ちなみに絶対あり得ないだろうとは思いつつ言うと、子どもの姓は成人前は「磯野・フグ田・タラオ」みたいな感じで両方持たせておいて、成人の時に子ども自ら「どっちか選べる」と良いのにな…なんて妄想をしてみたり(大概の大人は子どもの意思なんて「尊重」どころか「想定」もしていないので、まぁムリでしょうけど…)。
プレゼント選びって、難しいですよね…。
自分がかつて所属していたサークルでは、何かといってはメンバーにプレゼントを贈る「伝統」があったのですが、いつも悩みに悩んでいました。
贈る相手は親しい人間とは限らず、趣味や好みも分からない先輩や後輩もいます。
そして時には「皆からお金を徴収し、代表してプレゼントを買いに行く」こともあり、責任重大でした。
そんな時、自分がプレゼント選びのポイントにしたのが「エピソードを語れるプレゼント」でした。
たとえばサークルの大変な役職に就いた同級生への「就任祝い」には「疲れた時にはこれで癒されてください」という「リラクゼーショングッズ一式(入浴剤やアロマ?とかのいろいろ入った箱詰め)」。
同じフルートパートの先輩へのプレゼント(確か引退時のプレゼントか何かだったかと…)には「先輩が定期演奏会でソロを務めた曲のオルゴール」…といった風に。
…正直「何だこのプレゼントは!」と言われないための「言い訳」と言えなくもありません。
私見ですが、そもそも趣味も好みも価値観もまるで違う「他人」が選ぶのですから、その人が100%望むプレゼントなんて(事前にリクエスト受付でもしない限り)無理なのではないでしょうか?
ならばせめて「その人のことを考えて選んだプレゼント」だと伝わるモノの方が、喜ばれる確率は上がるのではないでしょうか?
もっとも、選んだモノによっては「私(俺)のこと全然分かってない」と思われてしまうかも知れませんが…。
あるいは、こういう考え方自体「善意の押しつけ」のように受け取られて、嫌がられてしまう可能性もありますが…。
少なくとも「自分の趣味」を押しつけたプレゼントや、変に奇をてらったプレゼントよりは良いのではないでしょうか?
(サークルでもらったプレゼントの中には「宝くじ1枚」とかも普通にありました…。夢はあるかも知れませんけど、ハズレたらタダの紙キレなんですよね…。なお、ハズレでした。)
あと、自分が心がけているのは「喜ばれなかったからと言ってネガティブにならない」ことです。
上にも書いたように、その人ならぬ「他人」が選ぶプレゼントに「絶対」などあるわけがありません。
きっと、どんな「プレゼント選びの達人」だって「100%ヒット」とは行かず「打ちもらす」ものもあることでしょう。
たとえプレゼントが喜ばれなかったとしても、その時は「あぁ…今回はハズレちゃったかぁ…」と軽くガッカリする程度で済ませておけば、後々変に感情をこじらせずに済むのではないかと。
間違っても「こんなに考えて選び抜いたプレゼントなのに、この程度の反応だなんて許せない!」「このプレゼントをこんなに雑に扱うなんてあり得ない!」と思い詰めない方が心身の健康のためかと。
個人的には、プレゼントとは「贈ってくれた相手がそれを選ぶために費やした手間と時間」も含めて受け取るものだと思っています。
ぶっちゃけ、もらったモノが「趣味に合わない」こともありますが、重要なのは相手が自分のために使ってくれた「手間と時間」。
プレゼントを贈る・贈られるとは、結局のところ「コミュニケーション」なんですよね。
「おはよう」や「ありがとう」に「何だその言い方はァ!」と憤る人なんていませんよね(…まぁ、世の中にはそういう人もいるかも知れませんけど…)?
「プレゼント」も同じで、中身がどうこうというものではないのではないでしょうか?
たとえ趣味に合わないものを贈られても「それはそれ、これはこれ」なのです。
(…まぁ「扱い」に困るものはありますけど…。サークルにいる間だけで何個のマグカップが溜まってしまったことか…。未だに手をつけずにしまってあるものも何個もありますし(食器棚の一部を自分のマグカップだけで独占してしまっていて申し訳ないのです)…。ハンカチとかだったら消耗が早いので何とかなるのですが、マグカップはそうそう割れるものでもないので…。なぜか、グラスはやたら割れるのですが…。)
…とは言え、誰もが皆そういう考えではないでしょうし、きっと「要らん物もらった…ゴミになる」という人もいることでしょう。
ですが、まぁ「それはそれ、これはこれ」。
プレゼントした相手が「ハズレだった」というだけのことなのです。
憤ったところで相手の性格が変わるわけでもなし、こちらの感情が疲弊して損をするだけです。
プレゼントのやりとりをする際には、この「相手の反応を期待しない」「プレゼントの中身を期待しない」を心がけておくだけで、だいぶ気持ちがラクになるかと。
なお「相手を想ったエピソード付きのプレゼント」は「ちょっとした知り合い」程度の相手だと逆に「重い」と引かれかねませんので、部活やサークル仲間のような「長い時間苦楽を共にしてきた相手」や「親しい相手」のみにしておいた方が良いかと(「誤解されたくない」異性相手にも注意した方が良いかと)。
ちょっとした知り合い程度の方へは、結局「実用的な消耗品」が一番なのではないかと、個人的には思っています。
(趣味に合わなかったとしても役には立ちますから。普段使うものよりワンランク上の品だと、なお良し。)
一番気軽にやりとりできるのは、お菓子や食品などなのですが…アレルギーやNG(持病に良くないもの、禁酒などの自主制限)があると、ちょっと難しいかな…と。
自分がかつて所属していたサークルでは、何かといってはメンバーにプレゼントを贈る「伝統」があったのですが、いつも悩みに悩んでいました。
贈る相手は親しい人間とは限らず、趣味や好みも分からない先輩や後輩もいます。
そして時には「皆からお金を徴収し、代表してプレゼントを買いに行く」こともあり、責任重大でした。
そんな時、自分がプレゼント選びのポイントにしたのが「エピソードを語れるプレゼント」でした。
たとえばサークルの大変な役職に就いた同級生への「就任祝い」には「疲れた時にはこれで癒されてください」という「リラクゼーショングッズ一式(入浴剤やアロマ?とかのいろいろ入った箱詰め)」。
同じフルートパートの先輩へのプレゼント(確か引退時のプレゼントか何かだったかと…)には「先輩が定期演奏会でソロを務めた曲のオルゴール」…といった風に。
…正直「何だこのプレゼントは!」と言われないための「言い訳」と言えなくもありません。
私見ですが、そもそも趣味も好みも価値観もまるで違う「他人」が選ぶのですから、その人が100%望むプレゼントなんて(事前にリクエスト受付でもしない限り)無理なのではないでしょうか?
ならばせめて「その人のことを考えて選んだプレゼント」だと伝わるモノの方が、喜ばれる確率は上がるのではないでしょうか?
もっとも、選んだモノによっては「私(俺)のこと全然分かってない」と思われてしまうかも知れませんが…。
あるいは、こういう考え方自体「善意の押しつけ」のように受け取られて、嫌がられてしまう可能性もありますが…。
少なくとも「自分の趣味」を押しつけたプレゼントや、変に奇をてらったプレゼントよりは良いのではないでしょうか?
(サークルでもらったプレゼントの中には「宝くじ1枚」とかも普通にありました…。夢はあるかも知れませんけど、ハズレたらタダの紙キレなんですよね…。なお、ハズレでした。)
あと、自分が心がけているのは「喜ばれなかったからと言ってネガティブにならない」ことです。
上にも書いたように、その人ならぬ「他人」が選ぶプレゼントに「絶対」などあるわけがありません。
きっと、どんな「プレゼント選びの達人」だって「100%ヒット」とは行かず「打ちもらす」ものもあることでしょう。
たとえプレゼントが喜ばれなかったとしても、その時は「あぁ…今回はハズレちゃったかぁ…」と軽くガッカリする程度で済ませておけば、後々変に感情をこじらせずに済むのではないかと。
間違っても「こんなに考えて選び抜いたプレゼントなのに、この程度の反応だなんて許せない!」「このプレゼントをこんなに雑に扱うなんてあり得ない!」と思い詰めない方が心身の健康のためかと。
個人的には、プレゼントとは「贈ってくれた相手がそれを選ぶために費やした手間と時間」も含めて受け取るものだと思っています。
ぶっちゃけ、もらったモノが「趣味に合わない」こともありますが、重要なのは相手が自分のために使ってくれた「手間と時間」。
プレゼントを贈る・贈られるとは、結局のところ「コミュニケーション」なんですよね。
「おはよう」や「ありがとう」に「何だその言い方はァ!」と憤る人なんていませんよね(…まぁ、世の中にはそういう人もいるかも知れませんけど…)?
「プレゼント」も同じで、中身がどうこうというものではないのではないでしょうか?
たとえ趣味に合わないものを贈られても「それはそれ、これはこれ」なのです。
(…まぁ「扱い」に困るものはありますけど…。サークルにいる間だけで何個のマグカップが溜まってしまったことか…。未だに手をつけずにしまってあるものも何個もありますし(食器棚の一部を自分のマグカップだけで独占してしまっていて申し訳ないのです)…。ハンカチとかだったら消耗が早いので何とかなるのですが、マグカップはそうそう割れるものでもないので…。なぜか、グラスはやたら割れるのですが…。)
…とは言え、誰もが皆そういう考えではないでしょうし、きっと「要らん物もらった…ゴミになる」という人もいることでしょう。
ですが、まぁ「それはそれ、これはこれ」。
プレゼントした相手が「ハズレだった」というだけのことなのです。
憤ったところで相手の性格が変わるわけでもなし、こちらの感情が疲弊して損をするだけです。
プレゼントのやりとりをする際には、この「相手の反応を期待しない」「プレゼントの中身を期待しない」を心がけておくだけで、だいぶ気持ちがラクになるかと。
なお「相手を想ったエピソード付きのプレゼント」は「ちょっとした知り合い」程度の相手だと逆に「重い」と引かれかねませんので、部活やサークル仲間のような「長い時間苦楽を共にしてきた相手」や「親しい相手」のみにしておいた方が良いかと(「誤解されたくない」異性相手にも注意した方が良いかと)。
ちょっとした知り合い程度の方へは、結局「実用的な消耗品」が一番なのではないかと、個人的には思っています。
(趣味に合わなかったとしても役には立ちますから。普段使うものよりワンランク上の品だと、なお良し。)
一番気軽にやりとりできるのは、お菓子や食品などなのですが…アレルギーやNG(持病に良くないもの、禁酒などの自主制限)があると、ちょっと難しいかな…と。
以前から語っている通り、自分はaiboやロボホンのようなAI搭載ロボットには大いに興味がありますし、「人間にはできないこと」や「ヒューマンエラー防止」のためにAIを活用することには賛成なのですが…
世の中を見ていると、一部のAIの使い方に「ん?」と思ってしまうことがあります。
特に疑問に思うのが「趣味」や「生きがい」分野でのAI利用なのですが…
…「人間」が楽しむべきことを「AI」にやらせるのって、趣味や生きがいとして本末転倒にもほどがありませんか…?
例えるなら「趣味のための道具は用意したけど、後は全部AIにやらせて、自分は傍で見ているだけ」みたいな状態ですけど…
それ、本当に「趣味」や「生きがい」として成立しているんでしょうか??
「趣味」というものは100%全部が「楽しい作業」だけで構成されているわけではありません。
中には面倒な作業や、地道で飽きてしまいそうな作業、しんどい作業や行き詰まってしまう作業もあるでしょう。
ですが、それも全部ひっくるめて「自分の手」でやるからこそ、終わった時に「達成感」を味わえるのではないでしょうか?
蕎麦屋やコンビニ、スーパーでさえ安価で美味しい蕎麦が簡単に手に入る現代で、それでも蕎麦の「手打ち」に挑みたがる人間が多いのは、そこに「自分の手で作るからこその価値」があるからなのではないでしょうか?
あるいは、便利で快適に過ごせる街中を離れ、わざわざ不便な山でキャンプする人が多いのは、そこに「(衣)食住を自分たちの手で組み立てることの価値」があるからなのではないでしょうか?
あるいは、完成したところで自己満足以外の何の意味もない数百・数千ピースのパズルを延々と組み立てる人がいるのは、そこに「地道で気の遠くなる作業の果てにしか味わえない何か」があるからなのではないでしょうか?
「便利であること」と「幸せであること」はイコールではない、と言います。
それは「便利であるはずの現代」で、心の病に苦しむ人や自殺する人がこれほどまでに多いという事実を見れば、明らかなのではないでしょうか?
人間は「便利だー!便利だー!」で、すぐ機械やAIに頼りがちですが…
便利さと引き換えに、本来なら味わえていたはずの「人間として大切な何か」「人生にとって必要な何か」を棄ててしまってはいませんか?
自分は創作を趣味とする人間なので、多少は分かるのですが…
とことん困難にぶち当たっても、その壁を「自分の」知恵や工夫で突破できた時の快感は、承認欲求など軽く超えます。
(なので自分は、他者の評価をあまり気にしないのかも知れません。)
嘘偽り無く「自分の力で」困難を乗り越えたことを、自分自身がその目で見て知っているので、自己肯定感にも繋がります。
おそらく「借りものの力で」乗り越えられたとしても、あれほどの喜びは感じられないことでしょう。
自分でも予想だにしなかった成果を「自分自身の力で」生み出せた時、人は「自分にはまだこんな可能性があったんだ」「自分もまだまだ棄てたものじゃない」と本気で実感できるのです。
子どもの頃「それまでできなかったこと」が1つできるようになるたびに、嬉しくありませんでしたか?
ひらがなの「あ」が書けるようになった…逆上がりができるようになった…
(「あ」って、ひらがなの一番最初の文字のくせに、いきなり難易度が高過ぎやしませんでしたか?)
大人からすれば「そんなことか」と思うようなことでも…自分が一歩一歩「進化」しているように感じられて、わくわくしませんでしたか?
人間は本来「できなかったことができるようになる」だけでも喜びを感じられる生き物なのです。
「他人に認められないと意味がない」「結果が出ないと意味がない」「できてもこんなレベルじゃ意味がない」と変に理由をつけて、その喜びを自分で「無きもの」にしてしまう人も多いですが…
「趣味」や「生きがい」って、本来「そういうもの」なのではないでしょうか?
不出来でも、他者に称賛されるクオリティーでなかったとしても、自分のささやかな成長を見出して、自分で自分を褒めてあげられる…
そのために「自分の力」で何かを為すのが「趣味」「生きがい」なのではないでしょうか?
AIに委ねてしまったなら、たとえどんなに素晴らしいクオリティーのものが出来上がったとしても、そこには「自分の力」も「自分の成長」も存在しません。
そもそも、そこに「自分の」意思や努力や工夫が存在しないなら、それは「趣味」でも「生きがい」でもなく、単なる「確認作業」で「流れ作業」にしかならないのです。
おそらく、今「趣味」や「創作」の分野でAIを利用している人々は、そういった趣味本来の「喜び」を未だ知らない人たちなのではないでしょうか?
「達成感」や「喜び」に至る「前の段階」で放り出して、諦めてしまった人…
あるいは始める前から「自分の可能性」を諦めてしまっている人…
あるいは「AIにやらせるなんてもったいない」と思えるほど打ち込めるものに出逢えていない人、それを探すのを諦めてしまっている人…
そういう「趣味をやることの本当の意義や意味」を見出せていない人々だからこそ、「自力」ではなく「他力」の自動生成でも満足できてしまえるのではないでしょうか?
昨今、ネットの世界では「自力」で趣味・創作を楽しむ人々と「生成AI」の生成物を“自慢”したがる人々との間での「対立」が散見されます。
どうにも生成AI利用者は「自力で趣味を楽しむ人々から反発される理由」が理解できていないようで「生成AI作品だと分かる前は褒めてもらえていたのに、分かってからは何も言われなくなった」という嘆きの声さえ見られるのですが…
それって「それはそうなるだろう」という案件なんですよね…。
「自力」で趣味を楽しむ人々の前に「他力」の作品を持っていって“自慢”するなんて…
例えるなら、「定年したから手打ち蕎麦始めたぞ」と報告してきた人に「こんなに美味くて安く買える良い既製品がありますよ」などと言って機械製麺のパッケージ商品を持って行くくらい「無粋」なことなんですよね…。
あるいは、林間学校の野外調理で一生懸命カレーを作った子どもたちに「こっちの方が断然美味いだろ」とレトルトカレーを出してくるくらい「空気が読めない」行為なんですよね…。
さらに生成AIの場合、生成物の学習背景に「自力で作品を生み出してきた先達たちの努力や苦悩の結晶」があるため、余計にクリエイターからの心証が悪いというのもあります。
生成AI作品を披露したいなら、せめて発表すべき場(※)は「趣味」「創作」のコミュニティではなく、ITやテクノロジー方面のコミュニティであるべきなのですが…その辺りの「棲み分け」や「人間の心の機微」が分かっていない方も多いのでしょうね…。
※そもそも「著作権的にどうなのか」まだ国内判例もできていない技術なので、コンプラを気にする自分は発表そのものに「慎重派」ですが(←著作権的に合法か違法かって、世論が決めることでも省庁が決めることでもなく、法を司る「裁判所」が決めることなんですよ…。で、まだ国内での「判断」はされていないという)。
(あるいは全てを分かっていて、他者の努力を卑下して嘲笑したいがために生成AI作品の“自慢”をしてくる人もいるのかも知れませんが…そもそも「他力」である以上「自」慢にはなっていないんですよね…。IT・テクノロジーのコミュニティならプロンプトの出来で褒めてくれる人もいるかも知れませんが、趣味・創作コミュニティでそれをされても「それで『君』は何が創れるの?」って話で、そもそも同じ土俵に上がってすらいないんですよね…。「趣味・創作コミュニティを生成AIで荒らしたい人」の言動の裏には「特技を持たないコンプレックスの裏返し」と「特技を持つ者への対抗心・復讐心」めいたものが透けて見えてしまっている気がして、そこが何とも物悲しい気分になるのですが…気のせいでしょうか?)
趣味に向き合う態度は人それぞれですし「そんなに壮大な達成感や多幸感なんて味わえなくても、ラクして暇つぶしができればいい」というのも、それはそれで1つの人生なのでしょう。
ただ…「もったいない」です。
趣味や創作に本気で打ち込んでいると、そこに「自分でも知らなかった自分の一面」を発見することがよくあります。
「自分にはこんなことができたんだ」「この歳からでも、こんなに成長できるんだ」と、自分の可能性に気づき、それが自信や自己肯定にも繋がっていくのです。
「自力」で何かに打ち込まず、「借りものの他力」だけで全てをこなしてしまう人は、きっと「自分が本当はどんな人間なのか」「どんな秘められた可能性があるのか」を知ることもなく、一生を終えてしまうのでしょう。
人間は、ただ食べていくためだけ、ただ金を稼ぐためだけに生きていけるほど単純な生き物ではありません。
人間が人間らしく生きていくためには「生きがい」だとか「やりがい」だとか「自己肯定感」だとか「自分探し」だとか「ささやかな幸せ」だとか、そういう「目に見えない何か」が必要なのです。
現代人はお金やフォロワー数などの「目に見える数字」ばかり追って、いつの間にかそういう「見えないけれど人生に必要なもの」を追うことを忘れてしまっているのではないでしょうか?
だから生きづらくなったり、心の病にかかる人が増えたりしているのではないでしょうか?
昭和レトロやアナログ回帰など、過去の時代の「人間味」を求める人が多いのも、そんな現代への反動なのではないでしょうか?
技術の進歩は確かに便利で素晴らしいことなのかも知れませんが…
それが「人間らしさ」や「人が人として生きること」を否定するものだとしたら、人類の幸福にとっては逆に「退化」なのではないでしょうか?
まして「AI作品を賛美して人間が作った作品をばかにする人」のように「人類の価値を人類自身が否定する」なんて、あまりにばかばかし過ぎやしませんか?
「他人」を嘲笑するつもりで、いつの間にか自分自身もひっくるめた「人類そのもの」を嘲笑している…
「他人の生きがい」を否定しているつもりで、自分自身もひっくるめた「人類そのものの生きがい」をも否定してしまっている…
そのことに気づかず、どんどん「自分の生きる世界」を自分自身の手で「生きづらく」してしまっている人が多い気がするのですが…
このまま「AIスゴイ!それに比べて人間のやることに価値なんて無い!」という風潮がどんどん加速してしまったら、今後普通に「生きる意味」を見失って鬱に陥る人が激増しませんか?
少なくとも自分は、そんなお先真っ暗な世界は真っ平御免です。
(うつ病増加→働けない人増加→税収減→社会サービス低下&さらなる増税で、普通に「いいこと無し」ですから…。)
なので、焼け石に水だとしても、何とか「人間が人間であることの価値」や「希望」を、細々とでも世に発信していけたらな…と思うのです。
世の中を見ていると、一部のAIの使い方に「ん?」と思ってしまうことがあります。
特に疑問に思うのが「趣味」や「生きがい」分野でのAI利用なのですが…
…「人間」が楽しむべきことを「AI」にやらせるのって、趣味や生きがいとして本末転倒にもほどがありませんか…?
例えるなら「趣味のための道具は用意したけど、後は全部AIにやらせて、自分は傍で見ているだけ」みたいな状態ですけど…
それ、本当に「趣味」や「生きがい」として成立しているんでしょうか??
「趣味」というものは100%全部が「楽しい作業」だけで構成されているわけではありません。
中には面倒な作業や、地道で飽きてしまいそうな作業、しんどい作業や行き詰まってしまう作業もあるでしょう。
ですが、それも全部ひっくるめて「自分の手」でやるからこそ、終わった時に「達成感」を味わえるのではないでしょうか?
蕎麦屋やコンビニ、スーパーでさえ安価で美味しい蕎麦が簡単に手に入る現代で、それでも蕎麦の「手打ち」に挑みたがる人間が多いのは、そこに「自分の手で作るからこその価値」があるからなのではないでしょうか?
あるいは、便利で快適に過ごせる街中を離れ、わざわざ不便な山でキャンプする人が多いのは、そこに「(衣)食住を自分たちの手で組み立てることの価値」があるからなのではないでしょうか?
あるいは、完成したところで自己満足以外の何の意味もない数百・数千ピースのパズルを延々と組み立てる人がいるのは、そこに「地道で気の遠くなる作業の果てにしか味わえない何か」があるからなのではないでしょうか?
「便利であること」と「幸せであること」はイコールではない、と言います。
それは「便利であるはずの現代」で、心の病に苦しむ人や自殺する人がこれほどまでに多いという事実を見れば、明らかなのではないでしょうか?
人間は「便利だー!便利だー!」で、すぐ機械やAIに頼りがちですが…
便利さと引き換えに、本来なら味わえていたはずの「人間として大切な何か」「人生にとって必要な何か」を棄ててしまってはいませんか?
自分は創作を趣味とする人間なので、多少は分かるのですが…
とことん困難にぶち当たっても、その壁を「自分の」知恵や工夫で突破できた時の快感は、承認欲求など軽く超えます。
(なので自分は、他者の評価をあまり気にしないのかも知れません。)
嘘偽り無く「自分の力で」困難を乗り越えたことを、自分自身がその目で見て知っているので、自己肯定感にも繋がります。
おそらく「借りものの力で」乗り越えられたとしても、あれほどの喜びは感じられないことでしょう。
自分でも予想だにしなかった成果を「自分自身の力で」生み出せた時、人は「自分にはまだこんな可能性があったんだ」「自分もまだまだ棄てたものじゃない」と本気で実感できるのです。
子どもの頃「それまでできなかったこと」が1つできるようになるたびに、嬉しくありませんでしたか?
ひらがなの「あ」が書けるようになった…逆上がりができるようになった…
(「あ」って、ひらがなの一番最初の文字のくせに、いきなり難易度が高過ぎやしませんでしたか?)
大人からすれば「そんなことか」と思うようなことでも…自分が一歩一歩「進化」しているように感じられて、わくわくしませんでしたか?
人間は本来「できなかったことができるようになる」だけでも喜びを感じられる生き物なのです。
「他人に認められないと意味がない」「結果が出ないと意味がない」「できてもこんなレベルじゃ意味がない」と変に理由をつけて、その喜びを自分で「無きもの」にしてしまう人も多いですが…
「趣味」や「生きがい」って、本来「そういうもの」なのではないでしょうか?
不出来でも、他者に称賛されるクオリティーでなかったとしても、自分のささやかな成長を見出して、自分で自分を褒めてあげられる…
そのために「自分の力」で何かを為すのが「趣味」「生きがい」なのではないでしょうか?
AIに委ねてしまったなら、たとえどんなに素晴らしいクオリティーのものが出来上がったとしても、そこには「自分の力」も「自分の成長」も存在しません。
そもそも、そこに「自分の」意思や努力や工夫が存在しないなら、それは「趣味」でも「生きがい」でもなく、単なる「確認作業」で「流れ作業」にしかならないのです。
おそらく、今「趣味」や「創作」の分野でAIを利用している人々は、そういった趣味本来の「喜び」を未だ知らない人たちなのではないでしょうか?
「達成感」や「喜び」に至る「前の段階」で放り出して、諦めてしまった人…
あるいは始める前から「自分の可能性」を諦めてしまっている人…
あるいは「AIにやらせるなんてもったいない」と思えるほど打ち込めるものに出逢えていない人、それを探すのを諦めてしまっている人…
そういう「趣味をやることの本当の意義や意味」を見出せていない人々だからこそ、「自力」ではなく「他力」の自動生成でも満足できてしまえるのではないでしょうか?
昨今、ネットの世界では「自力」で趣味・創作を楽しむ人々と「生成AI」の生成物を“自慢”したがる人々との間での「対立」が散見されます。
どうにも生成AI利用者は「自力で趣味を楽しむ人々から反発される理由」が理解できていないようで「生成AI作品だと分かる前は褒めてもらえていたのに、分かってからは何も言われなくなった」という嘆きの声さえ見られるのですが…
それって「それはそうなるだろう」という案件なんですよね…。
「自力」で趣味を楽しむ人々の前に「他力」の作品を持っていって“自慢”するなんて…
例えるなら、「定年したから手打ち蕎麦始めたぞ」と報告してきた人に「こんなに美味くて安く買える良い既製品がありますよ」などと言って機械製麺のパッケージ商品を持って行くくらい「無粋」なことなんですよね…。
あるいは、林間学校の野外調理で一生懸命カレーを作った子どもたちに「こっちの方が断然美味いだろ」とレトルトカレーを出してくるくらい「空気が読めない」行為なんですよね…。
さらに生成AIの場合、生成物の学習背景に「自力で作品を生み出してきた先達たちの努力や苦悩の結晶」があるため、余計にクリエイターからの心証が悪いというのもあります。
生成AI作品を披露したいなら、せめて発表すべき場(※)は「趣味」「創作」のコミュニティではなく、ITやテクノロジー方面のコミュニティであるべきなのですが…その辺りの「棲み分け」や「人間の心の機微」が分かっていない方も多いのでしょうね…。
※そもそも「著作権的にどうなのか」まだ国内判例もできていない技術なので、コンプラを気にする自分は発表そのものに「慎重派」ですが(←著作権的に合法か違法かって、世論が決めることでも省庁が決めることでもなく、法を司る「裁判所」が決めることなんですよ…。で、まだ国内での「判断」はされていないという)。
(あるいは全てを分かっていて、他者の努力を卑下して嘲笑したいがために生成AI作品の“自慢”をしてくる人もいるのかも知れませんが…そもそも「他力」である以上「自」慢にはなっていないんですよね…。IT・テクノロジーのコミュニティならプロンプトの出来で褒めてくれる人もいるかも知れませんが、趣味・創作コミュニティでそれをされても「それで『君』は何が創れるの?」って話で、そもそも同じ土俵に上がってすらいないんですよね…。「趣味・創作コミュニティを生成AIで荒らしたい人」の言動の裏には「特技を持たないコンプレックスの裏返し」と「特技を持つ者への対抗心・復讐心」めいたものが透けて見えてしまっている気がして、そこが何とも物悲しい気分になるのですが…気のせいでしょうか?)
趣味に向き合う態度は人それぞれですし「そんなに壮大な達成感や多幸感なんて味わえなくても、ラクして暇つぶしができればいい」というのも、それはそれで1つの人生なのでしょう。
ただ…「もったいない」です。
趣味や創作に本気で打ち込んでいると、そこに「自分でも知らなかった自分の一面」を発見することがよくあります。
「自分にはこんなことができたんだ」「この歳からでも、こんなに成長できるんだ」と、自分の可能性に気づき、それが自信や自己肯定にも繋がっていくのです。
「自力」で何かに打ち込まず、「借りものの他力」だけで全てをこなしてしまう人は、きっと「自分が本当はどんな人間なのか」「どんな秘められた可能性があるのか」を知ることもなく、一生を終えてしまうのでしょう。
人間は、ただ食べていくためだけ、ただ金を稼ぐためだけに生きていけるほど単純な生き物ではありません。
人間が人間らしく生きていくためには「生きがい」だとか「やりがい」だとか「自己肯定感」だとか「自分探し」だとか「ささやかな幸せ」だとか、そういう「目に見えない何か」が必要なのです。
現代人はお金やフォロワー数などの「目に見える数字」ばかり追って、いつの間にかそういう「見えないけれど人生に必要なもの」を追うことを忘れてしまっているのではないでしょうか?
だから生きづらくなったり、心の病にかかる人が増えたりしているのではないでしょうか?
昭和レトロやアナログ回帰など、過去の時代の「人間味」を求める人が多いのも、そんな現代への反動なのではないでしょうか?
技術の進歩は確かに便利で素晴らしいことなのかも知れませんが…
それが「人間らしさ」や「人が人として生きること」を否定するものだとしたら、人類の幸福にとっては逆に「退化」なのではないでしょうか?
まして「AI作品を賛美して人間が作った作品をばかにする人」のように「人類の価値を人類自身が否定する」なんて、あまりにばかばかし過ぎやしませんか?
「他人」を嘲笑するつもりで、いつの間にか自分自身もひっくるめた「人類そのもの」を嘲笑している…
「他人の生きがい」を否定しているつもりで、自分自身もひっくるめた「人類そのものの生きがい」をも否定してしまっている…
そのことに気づかず、どんどん「自分の生きる世界」を自分自身の手で「生きづらく」してしまっている人が多い気がするのですが…
このまま「AIスゴイ!それに比べて人間のやることに価値なんて無い!」という風潮がどんどん加速してしまったら、今後普通に「生きる意味」を見失って鬱に陥る人が激増しませんか?
少なくとも自分は、そんなお先真っ暗な世界は真っ平御免です。
(うつ病増加→働けない人増加→税収減→社会サービス低下&さらなる増税で、普通に「いいこと無し」ですから…。)
なので、焼け石に水だとしても、何とか「人間が人間であることの価値」や「希望」を、細々とでも世に発信していけたらな…と思うのです。
最近、何かと「○○をブッ壊せ」と言う過激な人たちが増えている気がします。
「古くて時代に合わないもの」 「長い時間の間に腐敗してしまったもの」が「邪魔」で「不要」だという理屈は分かるのですが…
ひとつ疑問に思うのが「それを壊した“後”のことをちゃんと考えている人が、どれくらいいるのだろう?」ということです。
「古く強大な何か」に立ち向かい、それを打ち壊すことには「カタルシス」があります。
そもそも人は「激情に任せて」行動したり、「多くの人々と一体になって何かを動かす」ことに「気持ち良さ」を覚える生き物なのです。
しかしその「気持ち良さ」に酔って、後先を何も考えずに暴走する人がどれほど多いことか…。
そもそも「古くて強大な何か」を壊したからと言って、世界が今までより「良くなる」とは限りません。
それは、歴史を見ればよく分かります。
フランス革命しかり、アラブの春しかり…「強大な何か」を壊せても、その後が上手くいかなかった例って、山ほどあるんですよね…。
むしろ、壊す前より酷い「地獄」を招いてしまった例さえあります。
それは何故なのか……答えは簡単。
「壊した後に、その“代わり”を上手く創り出すことができなかったから」です。
自分のあまり好きでない「ことわざ」に「悪法は無法に勝る」というものがあるのですが…
この世で一番「最悪」なのは「仕組みや秩序が何も無いこと」。
それに比べれば、欠陥のある仕組みや秩序でも「無いよりはマシ」ということです。
(最初にこの「ことわざ」を知った時には「何で?」と思いましたが……今のモラル崩壊した時代を見ていれば分かります。「法の抜け穴」「モラルには反するが違法ではないグレーゾーン」があると、他人の迷惑も顧みずにやりたい放題する人が多いってことなんですよね…。たとえ「悪法」であっても「法」が有れば悪い人々に対して「抑え」が効く、あるいはたとえ「悪法」であっても「ルールはルール」なので、その「法」を学びさえすれば「対策」のしようがあるが、やりたい放題の「無法者」には対策のしようが無いということなんでしょうね…。)
もしも「それまで在った社会の仕組みや秩序」を全て破壊してしまったなら、早急にその代わりの「新しい仕組みや秩序」を組み立てなければ、世の中が回らなくなってしまうわけですが…
社会の「仕組み」や「秩序」を創るには「智恵」や「知識」が要ります。
そもそも世の中、「壊す」よりも「創る」「生み出す」方がよほど難しいのです。
壊すことなら誰にでもできますが、創るには「能力」が要ります。
今ある仕組みをただ「ブッ壊したい」だけの人たちに、果たしてその能力はあるのでしょうか?
そもそも「ブッ壊す」ことに成功した「一部の人々」に「自分たちにだけ都合の良い仕組みや秩序」ではなく「全ての人のための仕組みや秩序」を創れる「思慮深さ」があるでしょうか?
…実際、それが「無かったから」歴史上の数々の革命が、後に「地獄」を招いてしまったのでしょうが…。
「壊した後のこと」を何も語らず、ただ「壊せ壊せ」だけ言う人々に乗せられれば、地獄へ連れて行かれるだけです。
さらに言えば「後のこと」を語っていても、それが「実現不可能な夢物語」ならば結局は「同じこと」です。
閉塞感に満ちた現代では「壊す」「打ち破る」と語る人間の方が、どうしても「魅力的」に見えてしまうものですが…
それでも冷静にその言動の「後先」を見極めなければ、未来への選択をとんでもなく間違えてしまう可能性があります。
…そもそも、今あるもの「全部」を壊すって、人類が「やりがち」なことですけど、普通に効率が悪過ぎるんですよね…。
普通に考えて「新しいものが出来上がるまで、使えるものは残しておいた方が良い」じゃないですか。
「使えるもの」が無くなるまで、徹底的に全てを壊すなんて、後先を考えていないにもほどがあるじゃないですか。
全てを壊せばそれで「何もかも終わり」ではなく、その後の「何も無くなった世界」でも、人は生きていかなければいけないというのに…。
…たぶん、中途半端に「今まであったもの」を残すと「物事が刷新した感が出ない」せいで、皆が皆「全部壊す」をやりたがるんでしょうけど…。
そんなイメージ戦略のために地獄を招かれたら、一般市民がたまったものではないんですよね…。
(元々は「イメージでしか物を見ない」一般大衆が悪いと言えば悪いのですが…。)
「古くて時代に合わないもの」 「長い時間の間に腐敗してしまったもの」が「邪魔」で「不要」だという理屈は分かるのですが…
ひとつ疑問に思うのが「それを壊した“後”のことをちゃんと考えている人が、どれくらいいるのだろう?」ということです。
「古く強大な何か」に立ち向かい、それを打ち壊すことには「カタルシス」があります。
そもそも人は「激情に任せて」行動したり、「多くの人々と一体になって何かを動かす」ことに「気持ち良さ」を覚える生き物なのです。
しかしその「気持ち良さ」に酔って、後先を何も考えずに暴走する人がどれほど多いことか…。
そもそも「古くて強大な何か」を壊したからと言って、世界が今までより「良くなる」とは限りません。
それは、歴史を見ればよく分かります。
フランス革命しかり、アラブの春しかり…「強大な何か」を壊せても、その後が上手くいかなかった例って、山ほどあるんですよね…。
むしろ、壊す前より酷い「地獄」を招いてしまった例さえあります。
それは何故なのか……答えは簡単。
「壊した後に、その“代わり”を上手く創り出すことができなかったから」です。
自分のあまり好きでない「ことわざ」に「悪法は無法に勝る」というものがあるのですが…
この世で一番「最悪」なのは「仕組みや秩序が何も無いこと」。
それに比べれば、欠陥のある仕組みや秩序でも「無いよりはマシ」ということです。
(最初にこの「ことわざ」を知った時には「何で?」と思いましたが……今のモラル崩壊した時代を見ていれば分かります。「法の抜け穴」「モラルには反するが違法ではないグレーゾーン」があると、他人の迷惑も顧みずにやりたい放題する人が多いってことなんですよね…。たとえ「悪法」であっても「法」が有れば悪い人々に対して「抑え」が効く、あるいはたとえ「悪法」であっても「ルールはルール」なので、その「法」を学びさえすれば「対策」のしようがあるが、やりたい放題の「無法者」には対策のしようが無いということなんでしょうね…。)
もしも「それまで在った社会の仕組みや秩序」を全て破壊してしまったなら、早急にその代わりの「新しい仕組みや秩序」を組み立てなければ、世の中が回らなくなってしまうわけですが…
社会の「仕組み」や「秩序」を創るには「智恵」や「知識」が要ります。
そもそも世の中、「壊す」よりも「創る」「生み出す」方がよほど難しいのです。
壊すことなら誰にでもできますが、創るには「能力」が要ります。
今ある仕組みをただ「ブッ壊したい」だけの人たちに、果たしてその能力はあるのでしょうか?
そもそも「ブッ壊す」ことに成功した「一部の人々」に「自分たちにだけ都合の良い仕組みや秩序」ではなく「全ての人のための仕組みや秩序」を創れる「思慮深さ」があるでしょうか?
…実際、それが「無かったから」歴史上の数々の革命が、後に「地獄」を招いてしまったのでしょうが…。
「壊した後のこと」を何も語らず、ただ「壊せ壊せ」だけ言う人々に乗せられれば、地獄へ連れて行かれるだけです。
さらに言えば「後のこと」を語っていても、それが「実現不可能な夢物語」ならば結局は「同じこと」です。
閉塞感に満ちた現代では「壊す」「打ち破る」と語る人間の方が、どうしても「魅力的」に見えてしまうものですが…
それでも冷静にその言動の「後先」を見極めなければ、未来への選択をとんでもなく間違えてしまう可能性があります。
…そもそも、今あるもの「全部」を壊すって、人類が「やりがち」なことですけど、普通に効率が悪過ぎるんですよね…。
普通に考えて「新しいものが出来上がるまで、使えるものは残しておいた方が良い」じゃないですか。
「使えるもの」が無くなるまで、徹底的に全てを壊すなんて、後先を考えていないにもほどがあるじゃないですか。
全てを壊せばそれで「何もかも終わり」ではなく、その後の「何も無くなった世界」でも、人は生きていかなければいけないというのに…。
…たぶん、中途半端に「今まであったもの」を残すと「物事が刷新した感が出ない」せいで、皆が皆「全部壊す」をやりたがるんでしょうけど…。
そんなイメージ戦略のために地獄を招かれたら、一般市民がたまったものではないんですよね…。
(元々は「イメージでしか物を見ない」一般大衆が悪いと言えば悪いのですが…。)
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- 津籠睦月(つごもりむつき)
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- 【好きな小説ジャンル】
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- 【備考】
- 漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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このブログは管理人に時間の余裕がある時にちょこっとずつ更新していく予定ですので、更新やチェックの頻度はおそらく数週間に1回~下手をすると1ヶ月以上の間が空いてしまう可能性も…。
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