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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
この頃、どうにも世の中がギスギスして息苦しい…
 
それが何故なのか考えてみた時、ひとつ「これが原因なのでは?」と思い当たるものがありました。
 
もちろん、原因は1つではなく、複数の要因が複雑に絡み合って「世の空気」を悪くしているのでしょうが…。

全部を挙げていくと大変なことになるので、ここではとりあえず1つの説だけ取り上げています。
 
 
それはズバリ「全肯定しか許さないマン」が増えていることです。
   
異論や疑問を極端に嫌う「全肯定しか許さない」人々

 
SNSや動画のコメント欄では、意見の違うユーザー同士がバチバチに火花を散らし合っている様がよく見受けられます。
 
こういった「意見の対立」自体は、古くから…それこそネットができる前からよくあることでしょうし…
 
「人間が大勢生きていれば、どうしても起きてしまう宿命」ですので、どうしようもないことではあるのですが…
 
最近どうにも気になっているのは、それが「議論」を生まずに、ただ意見の違う相手を「非難し合う」だけで終わっていることです。
 
中にはちゃんと「その意見に至った理由」を述べて、相手を「納得」させようと試みている方もいらっしゃいますが、数はそんなに多くない印象ですね(そもそも言語化能力が高くないと無理なことですので、そういう意味でも数が少なくなってしまうのかも知れませんが)…。
 
むしろ最近は「非難する」どころか、相手を貶め、嘲笑するだけのコメントも多いですよね…。
 
嫌な(いじめ等やらかす系の)小学生男子ノリを感じてビミョウな気持ちになるのですが…まぁ、匿名性の高いネット世界だと、もしかしたら本当に低年齢なユーザーが書いている可能性も無いわけではないですよね…。
 
最近のSNSや様々なメディアを見ていると、どうも「自分の推しているモノに少しでも文句を言う奴は許さない」「疑問を持つことさえ許さない」「異論は認めない」という感じで「全肯定しか認めない」人々が増えているように見えます。
 
「違う意見」が出てくると、即座に反論して叩き潰そうとしていく…
 
そうやって「疑問」や「異論」を圧力で封殺しようとするムーブが、様々なところで起きているように見受けられるのです。
 
「全肯定しか許さない」人々は、そうやって「自分の好きなもの」を「守りたい」のでしょうが…
 
それが逆に、その「好きなもの」のイメージダウンに繋がってしまっている例も、現実にはよくあります。
 
いわゆる「ファンの民度が低いから」嫌になってしまうパターンです。
 
もちろん、ファンはあくまでファンで、その人々が推しているコンテンツなりアーティストなりとは「別物」なのですが…
 
それを切り離して考えることができず、「空気が悪いから去っていく」という人々は、確実に存在するのです。
 
…まぁ、それでそのコンテンツなりアーティストなりの人気がなくなったとしても、「全肯定しか許さないマン」たちは「最初に異論を言ってきた方が悪い」と言うのかも知れませんが…。
 
「全肯定しか許さない」が異論の「全否定」に繋がってしまう
 
「全肯定しか許さない」の何が悪いのかと言うと、それがそのまま相手の意見の「全否定」になっているから、なのです。
 
反対側の立場に立って考えてみれば分かると思うのですが…
 
自分の言うことを、頭ごなしに「それは駄目だ」と否定されたら、ムッとしますよね?
 
一旦意見を聞いた上で「こういう理由があるから、それは違うんだ」と言われるならまだしも…聞く耳も持たずに拒絶されれば、嫌な気持ちになりますよね?
 
拒絶された本人も不満を抱くでしょうし、時には傍でそれを見ていた人が「それはひどい」「その言い方はあんまりなんじゃないか」と口を出してくることもあるでしょう。
 
「全肯定しか許さないマン」の反論で対立が激化しやすいのは、おそらく、そういうことなのではないでしょうか?
 
そしてさらに問題をややこしくするのが、「異論」や「疑問」を意見する人の中にも「自分の意見には全肯定しか許さない」という人がいることです…。
 
「全肯定しか許さない」VS「全肯定しか許さない」は、当然「平行線」にしかなりません。
 
つまり問題は「相手の意見に耳を傾ける」ということが「できていない」人だらけなのがマズい…ということなんですよね…。
 
「異なる意見」を「攻撃」と捉える人々の過剰反応
 
なぜ昨今は「相手の意見を聞けない」人が増えているのか…
 
原因は、自分と異なる意見を「攻撃」と受け止め、過剰反応してしまう人が多いからかと思われます。
 
あるいは「自分の好きなもの」「自分の意見」が「認められない」「受け入れられない」こと自体を「攻撃」と受け取る人も増えているのではないかと…。
 
世の中には様々な種類の人間がいて、そこには必ず自分とは「異なる」意見の人もいます。
 
自分とは真逆の趣味嗜好を持っていて、自分の「好きなもの」を好きになってくれない人もいます。
 
それが「多様性」ですし、個人でどうこうできるものではない「この世の理」なのですが…
 
まず、そこからして理解できず「なんでこの意見が通らないんだ!?」「ひどい!」「攻撃された!」となってしまっている人が多いように見えるのです。
 
この構図、もっと単純化して見てみれば、どういうことなのかすごく分かりやすいと思うんですけどね…。
 
たとえば世の中、納豆が好きな人もいれば、嫌いな人もいます。
 
好きな人は「健康にも良くて、おいしくて、こんな最高な食べ物、他に無い!」くらいに言うかも知れませんが…
 
嫌いな人は「匂いだけでもう無理。ネバネバしてるのもキモチワルイ」と拒否してくることでしょう。
 
どうしても受け付けない人に、無理に納豆を勧めても嫌われるだけです。
 
納豆推しの人だって「こんなに美味しいのに勿体ない」と思いこそすれ「納豆を認めないなんて許せない!」とはならないのではないでしょうか?
 
なのに、なぜ「意見」や「推しのコンテンツorアーティスト」では皆が意固地になってしまうのか…
 
それはおそらく無意識のうちに、自分の「意見」や「推し」を「絶対視」してしまっているからではないでしょうか?
 
食べ物の好き嫌いのように「そりゃ好きな人もいれば嫌いな人もいるよね」という方向へ行けず、「みんな絶対これを好きになるはず」「これを嫌いになるなんて頭おかしい」という方向に、思考が「歪んで」しまっているのではないかと…。
 
よく「恋は盲目」と言いますが、それと似た形で、何かが「見えなくなってしまっている」のではないでしょうか?
 
…まぁ、中には「分かっていて」それでも「自分の意見が通らないなんて嫌だ!」という我の強い人もいるのでしょうけど…。
 
あと、現代社会が既に誹謗中傷だらけの「ストレス社会」になってしまっていることも一因なのかも知れないな…と。
 
SNS等あちこちで「他者をディスる」発言が散見され、人々がナーバスになってしまっているため、「ディスり」の意図の無い発言さえも「攻撃」と思い込み、過敏に反応してしまうのではないかと。
 
言葉は意外と感情や本心を伝えにくいもので、「読み手」の読み取り方次第なところもあるので…。
 
(だからスタンプや絵文字など「感情を補助」して「誤解を生まない」ためのツールがあるのでしょうけど…。なぜかこの便利機能「古い」というだけで使われなくなってきていますよね?絵文字発祥の日本より、最近はむしろ海外でよく使われている印象があります。何故なんでしょうね…?)
 
「他人の意見の受け止め方」を知らない人々
 
好きなものを否定されれば、誰だって気分が悪くなります。
 
なので、それを否定してくる人の発言になど一切耳を貸したくない…そう思ってしまうのは、ごく当たり前な「感情」です。
 
ですが、それをそのまま「感情」で返せば、ただ醜い争いが生まれるだけです。
 
自分が人生でたびたび思い巡らせるテーマのひとつに「頭の良い人と、そうでない人との違いは何なのか?」があるのですが…
 
個人的に思っている1つの「答え」が、「頭の良い人は“自分にとって気分の良くない意見”にも、ちゃんと耳を傾ける」ということです。
 
たとえ自分の好きなモノを否定する意見であったとしても…
 
自分の信じてきたものを揺るがすような発言であったとしても…
 
端からシャットアウトすることはせず、「この意見は正しいのだろうか?」「何を根拠にこの考えに至ったのだろうか?」を考えるのです。
 
逆に「中途半端に頭の良い人」がやらかしがちなミスに「『自分の意見は正しいのだから、必ず受け入れてもらえる』と信じ込んでしまう」ことがあります。
 
「正論が常に受け容れられるとは限らない」は、よく言われることですが…
 
そもそも人は上にも書いたように「自分にとって気分の良くない意見」には心を閉ざしてしまうものなのです。
 
相手の意見を正論で論破したとしても、ただ一時的に憂さが晴れるだけで、相手からは恨みを買うばかり。納得も何も得られない可能性は高いです。
 
本気で相手を説得したいなら、まずはその相手がどういう人なのか――どういう人物で、どういう背景があってその思考・発言に至ったのか――それを見極め、相手の心に確実に刺さる言葉を選ばなければなりません。
 
…ですが、どうも世の中「感情をぶつける」だけで気が済んでしまう人が多いようで…
 
結果、ただ互いに傷つけ合うばかりで、建設的な議論も妥協点を見出すことも、何もできずに終わってしまっているんですよね…。
 
1つ、推測していることがあるのですが…
 
否定的な意見や異論を受け止められない人って、「それに耳を貸すだけで、それを認めたことになってしまう」と思い込んではいないでしょうか?
 
「理解」し「分析」することと、それを「肯定」し「認める」こととは別物なのですが…
 
そこをゴッチャにして「全否定」「全拒絶」してしまっている人が多いのではないかと。
 
否定派の意見や異論を聞く時に大事な心構えは「へぇ~。世の中にはそういう意見もあるんだな」の姿勢です。
 
肯定するでもなく否定するでもなく「有るものは有る」と、ありのままに認めることです。
 
そこからして拒絶して目をつぶったところで、否定的意見も異論もなくなりはしません。
 
大切なのは、異なる意見が多様に存在するこの世界で、どうやってバランスを取っていくのかということ。
 
相手の意見を封殺することでも、多数決で押し潰すのでもなく、どう妥協点を見つけて意見を調整していくか、なのです。
 
「全肯定」が「妄信」に繋がるリスク
 
自分が「自分にとって気分の良くない意見」にも耳を傾けるのは、自分の好きなものを「全肯定」することが「妄信」に繋がりかねないことを知っているからです。
 
物事には何でも良い面と悪い面があります。
 
それなのに「全部を肯定する」ということは、悪い面から目を逸らし、弱点を弱点のまま放置するということです。
 
その弱点は、いずれ全体を蝕む病巣ともなりかねません。
 
早い段階で気づいて処置できれば、その弱点をも克服し、全体的にもっとレベルを上げられるかも知れないのに…
 
「妄信」は成長の機会を奪い、なくせたはずのリスクを「そのまま」にしてしまうのです。
 
(人間関係でも、周りが「イエスマン」ばかりだと良くないと言いますよね?)
 
「妄信」というものがどれほど恐ろしいかは、歴史の数々が物語っています。
 
だから自分は、自分の「好きなもの」「大事なもの」にこそ、必ず「疑問の目」を向けるようにしています。
 
「疑い」は、必ずしもネガティブな感情ではありません。
 
疑って、弱点や欠点に気づいても、それを「好きなまま」でいることはできるのです。
 
…むしろ「全肯定」しかできない人というのは、弱点や欠点に「気づかされて」しまったら、「好きの気持ち」が消えていってしまう愛の薄い人々なのでしょうか?
 
「好きなもの」でも全部を全部「肯定」する必要はありませんし、「嫌いなもの」「意見の合わないもの」でも、全部を全部「否定」する必要は無いのです。
 
…どうにも今の世の中、そういう「分けて考える」ことができない不器用な人が多そうですよね…。
 

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皆さん、一見「頭が良さそう」な人のことを「何でこんなことも分からないんだろう」「何でこんなに愚かなことを言うんだろう」と思ってしまったことって、ありませんか?

世の中、未だに学歴や知識量でマウントを取ってくる人は多いですが…

学歴や知識があるにも関わらず「どうしてこんなに愚かなんだろう」という人って、いるんですよね。

でもソレ、実は何の不思議も無いことなのです。

そもそも賢さを「どの大学に行ったか」や「知識の量」で測ること自体が間違いなのですから。

「真に賢い人間」が学校や本で学ぶのは、「知識」ではありません

「それほど賢くもない人間」ほど、知識の量を誇って喜びますが…

知識がどれほどあったところで、それだけでは意味はありません。

必要なのは、その知識を上手く活用するためのスキルです。

すなわち、本当に賢い人間が学ぶのは、「視点」。

「ものの見方」や「考え方」を学ぶのです。

視点を学べば、周りと「同じもの」を見ても「見え方」が変わってきます。

例えば…「ルビンの壺」って、白い部分に注目するか、黒い部分に注目するかで「見え方」がまるで違ってきますよね?
 



白い部分に注目すれば「壺(杯)」に、黒い部分に注目すれば「向かい合う2人の人物」に見えます。

しかし、2つの見方があることに気づかず、あくまで白い部分にしか注目しない人がいたとしたら、どうでしょう?

他の人がどんなに「2人の人物」について話をしても「人?そんなのいないじゃん。何言ってんだ?」ということになるのではないでしょうか?

精神的な視野が狭い人というのは、そういうものです。

そこに「ある」ものが「まるで見えていない」のです。

「見えない」ものに、いくら知識を使おうとしても無駄なこと。

そもそも「見えない」ので、そこに「知識を使おう」という気すら起きないことでしょう。

「一見賢く見える」のに「なぜか話が通じない人」というのは、そういう人たちなのです。

知識自慢をする人々は、「知識の量」ばかりを気にして「精神的視野の狭さ(持っている視点の少なさ)」に気づきません。

たまに自分が持っていない視点の話をされても「それは間違っている」とさえ言ってきます。

「自分には知らないことはない」と過信する人々は、「自分が知っていることが全て」と思い込み、それ以外は「間違い」として切り捨ててしまうのです。

一方、真に賢い人々は、自分が「世の中の全てを知り尽くすことはできない」ことを知っています。

(それはAIでさえ不可能なことです。そもそもAIには「データ化されていない(データ化できない)情報は学べない」という致命的弱点がありますので。)

なので常に謙虚に、新しい知識、新しい視点を学ぼうとするのです。

実に古代ギリシア・ソクラテスの時代から言われてきたこの考え方――「無知の知」と言うのですが、皆さんコレ、ちゃんと出来ているでしょうか?

あんなに古い時代から言われてきたことが、未だに達成できていないとしたら…人類の進歩って、一体どれほどのものなんでしょうね…?
昨今の政治はSNSの影響力が上がっていると言います。
 
選挙なども、SNSや動画投稿での「情報発信」が上手くできている候補が支持を集めやすいのだとか…。
 
そんな話を聞くたびに、いつも腑に落ちない思いを抱いているのですが…
 
世の中そんなに、本人や支持勢力の「自己アピール」を鵜呑みにする層が多いのでしょうか?
 
…いや、だって「自己アピール」って普通、自分をよく魅せようと盛りがちなモノじゃないですか。
 
就職活動などで経験のある人は多いと思いますが…
 
長所はなるべく「より良く見えるように」盛り、短所は「逆に長所に見えるように」上手く誤魔化す…そう書くよう教えられるじゃないですか。
 
「企業の採用担当者って、こんな“見せかけ”だらけの“自己”アピールをそんなに重視するものなんだろうか?」と逆に社会に不信を抱いたりしませんでしたか?(自分はしました)
 
自分は物事を判断する際、本人たちの「自己申告だけ判断材料にしたりはしません。
 
判断する際に重視するのは「客観的な情報」です。
 
むしろ主観的で感情的な動画発信やSNSは「振り回されて判断が鈍る」可能性が高いので、なるべく目に入れたくありません。
 
なお、ここでの「客観的情報」は「反対勢力の意見」ということではありません
 
反対勢力は反対勢力で、感情的に意見を吐露していることが多いので、やはり振り回されたくないのです。
 
(政治系のキリヌキ動画も、いろいろ誇張されていそうで惑わされそうなので目に入れたくありません。)
 
自分が見るのは、経歴――その人がそれまで何をやってきたのか、です。
 
既に国会議員としての経験がある候補者なら、オーソドックスですが『国会議員白書』などで「議員としてどんな活動をしてきたのか」見ます。
 
(スマホではビミョウに見づらい場合もあるサイトですが、国会議員のこれまでの役職や委員出席回数、「発言回数」さらには「発言文字数」やその内容まで調べることができます。議員にはなったけれど大した発言をしていない人などはこれで分かります。)
 
経験のない新人の場合は、経歴を「感情をなるべく削ぎ落として」見ます。
 
ポイントは「気に入った候補・気になった候補だけを見るのではなく、必ず全候補の経歴を見比べる」ことです。
 
「気になった候補」から見るのはアリですが、「気にいらない候補」を見ないのはナシということです。
 
選挙などの「判断」をする際に一番厄介な「毒」となるのが「感情」です。
 
「感情」は、好きなものは実物より良く見せ、気に入らないものは実物よりも悪く見せます。
 
つまりは判断が鈍るのです。
 
ナチスも当時は国民の選挙によって選ばれました。
 
ヒトラーは人の感情を煽るのがとても上手く、スピーチの仕方までよく研究していました(※褒めてはいません)。
 
人の感情を上手く捕えて好意を持たせた者が、善い政治を行ってくれるとは限りません。
 
だから自分は、大事なものを判断する際に、なるべく感情を削ぎ落とすのです。
 
「この候補が良い」と思っても、それが「感情に踊らされた結果」でないかどうか、慎重に自分の心に問います。
 
でも世の中、どうにも「感情のまま」に判断を下している人が多い印象なのですが…気のせいでしょうか?
 
「感情に溺れる人」って、何かと「愚か」だと馬鹿にされがちですよね?
 
なのに選挙の時には「感情」を判断の基準にするのでしょうか?
 
少なくとも「本人」や「支持者たち」の言うことを「本気」に取るのはどうなのか、と思います。
 
だって、実際には守る気のない公約だろうと、実現不可能な絵空事だろうと、口では何とでも言えるのです。
 
それを全面的に信じるなんて、悪い意味で素直過ぎやしませんか?(普通は「話半分」で聞くものではありませんか?)
 
わざと敵を作ったり、劇的にパフォーマンスしてみたり…「演出」で人心を惹きつけるのも「あるある」な戦略ですが…
 
そういうエンターテイメント性で感情を揺さぶられて、判断を鈍らされてはいませんか?
 
選挙とは、ある意味「騙し合い」です。
 
選ぶ側は“見せかけ”や“誇張”や“守る気の無い約束”に騙されず、真実を見抜かなければならないのです。
 
…ぶっちゃけ、主観的情報(自己発信)は溢れているのに、客観的データは少な過ぎて毎度判断に苦しむのですが…
 
事は自分たちの未来を決める、大事な判断。これからも慎重に見極めていこうと思うのです。

小学生の頃、選挙カーを見つけると何人かで一緒に追いかけていって手を振るのがプチブームだったことがあります。
 
候補者は大概、子どもでもちゃんと手を振り返してくれるので、それが楽しかったのだと思います。
 
手を振り返してもらえると、それだけでその人に何となく好意を抱いたりして…我ながら「子どもって単純だなぁ」と思います。
 
子どもの頃は、わりとそんな単純な「好き嫌い」で選挙を見ていたのですが…
 
さすがに大人となった今は、好き嫌いの感情だけで投票先を選ぶつもりはありません。
 
だって、自分が好意を持った候補者が良い政治を行ってくれるとは限りませんし、その逆もまた然りだからです。
 
そもそも、どの党もどの候補も、選挙期間中は「自分を良く見せよう」と必死で、その「作られたイメージ」を見破れる自信もありません。
 
なので自分は「感情」や「好き嫌い」ではなく「理性」で判断することにしています。
 
その「理性」は、各党・各候補のマニフェストが「自分の得になることかどうか」という単純なことではありません
 
それを「実現」する能力がありそうかどうか…
 
そもそも実現する「意思」はちゃんとあるのか(口で言うだけならいくらでも言えるため)…
 
一時的な「点数稼ぎ」で「今だけ良ければ後はどうなっても良い」という考え無しな政策を立ててはいないか(後の国民に借金や遺恨を作りはしないか)…
 
そこまで考えて選ぼうとはしている…のですが…
 
実際問題、まだ実績の無い新人さんだと判断のしようも無いですし、実力やマニフェストの真偽を見抜く“目”も自信は無いんですよね…。
 
ただひとつ心がけているのは「選んで、結果が出て、そこで“おわり”にはしない」ということです。
 
たとえば自分の投票した候補が当選したなら、その当選後の“その先の結果”までちゃんと見届ける、ということです。
 
自分の選んだ党や候補が政治をグダグダにしてしまったとしたら、それは自分の“見る目の無さ”にも原因の一端がある、ということです。
 
選挙も政治も“人を見る目”も、一朝一夕で身につくような簡単なものではありません。
 
自分の“見る目”が果たして合っていたのかどうか…
 
それは“結果”を見届けて判断し、間違っていたのなら磨き直していくしかないのです。

幼少期、祖父母と一緒に過ごす時間が多かった影響か、自分の中には知らず知らずのうちに身についていた「世渡りの知恵」のようなものがあります。
 
その1つが「物事の良い面しか言って来ない人を信用してはならない」だったのですが…
 
…これ、今の世の中を見渡すと、ビックリするくらい「身についていない人」が多くないですか??
 
むしろ、投資詐欺だの、ラクに稼げるバイトだの、「おいしい話」にホイホイ乗って破滅したなんて話がゴロゴロ転がっているのが恐ろしいところです…。
 
自分は「うまい話には裏がある」と用心し、行動・選択の前には必ずワンテンポ置いて「よく考える」タイプなのですが…
 
世の中そんなに「ポジティブな情報」ばかりに釣られて安易に物事を決めてしまう人が多いのでしょうか?
 
自分はむしろ「プラスの情報しか出ていない」ものは余計に用心します。
 
なぜなら、物事には必ずメリット・デメリットの両面があるものだからです。
 
それなのに利点の方しか書いていない話して来ないということは、相手に「欠点を隠さず公表するだけの誠実性が無い」ということです。
 
あるいは、必ず存在するはずのウィークポイントをまだ見出せていない――つまり「弱点を把握するだけの能力が無い」ということになります。
 
いずれにせよ、その相手が「信頼性に欠ける」ということになるのです。
 
日本には商人の間で古くから伝わる「三方よし」の精神があります。
 
すなわち「売り手」「買い手」「世間」の三方全てに良い効果をもたらす商売の仕方です。
 
今でも「ちゃんとした企業」は自社の利益だけでなく、消費者の信頼や社会貢献を考えた企業運営をしています。
 
しかしながら昨今は「ズルをしてでもユーザーを釣ろう」「数値を誤魔化してでも利益を上げよう」「消費者を騙してでも儲けよう」という真逆な精神性もはびこっているように感じられます。
  
もはや見知らぬ相手をホイホイ信用してはいけない時代――用心して自衛しなければ簡単に騙され、破滅させられてしまう時代なのです。
 
今の時代でも、真っ当な企業は一応「商品表示法(不当景品類及び不当表示防止法)」等の法律で縛られています。
 
ざっくり説明すると「誇大広告や誤解を招く表現で消費者を騙してはいけない」ということです。
 
たとえば洗剤のCMひとつとっても「99.9%除菌」とは謳っても「100%」と宣伝している所はありませんよね?
 
あるいは消費者金融のCMの端っこ、あるいは最後の方に細かい字でビッシリ「注意書き」が書かれているのを見たことはありませんか?
 
(それでもコンプラ スレスレのグレーゾーンを攻める企業はあるのでしょうけど…。)
 
「まとも」な企業はその種の「法律」がある程度、消費者の「防御壁」になってくれています。
 
ですが問題は「まとも」でない人々、ハナからコンプライアンスを守る気のない企業や個人です。
 
そういう人々は誇大広告だろうが虚偽記載だろうが肖像権侵害だろうが何でもやります。
 
堂々と数字を偽り、堂々とウソを載せ、堂々と有名人の名を騙ります。
 
そうやって「つくられた」おいしい情報に、うっかり釣られてしまう人がいるのが今の時代なのです…。
 
「数字は嘘をつかない」で、「人間の言うこと」は疑っても「数字」にはホイホイ釣られてしまうという人も多いのでしょうが…
 
その「数字は嘘をつかない」には、実は「続き」があることをご存知でしょうか?
 
「数字は嘘をつかないが、人は数字で嘘をつく」です。
 
今の時代、魅力的なキャッチコピーだろうが、数字だろうがグラフだろうが、有名人のオススメだろうが、一旦は疑わなければいけない時代です。
 
ましてAIの進化によるデメリット(と言うより「規制」が無いことのデメリット?)で、その辺の個人でもいくらでも精巧なフェイクが作れてしまうような時代です。
 
(以前は「日本語があやしいサイトには注意」という「見分け方」もありましたが、それも通用しなくなりつつあります。)
 
こんな時代で真偽を見抜くひとつのポイントが「メリットだけを謳っていないか?」「デメリットにもちゃんと言及しているか?」なのではないでしょうか?
 
(騙す気満々の人は、わざわざ欠点なんて語りませんから…。)

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