日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
個人的に普段から心がけている「怒りに身を滅ぼさない」ための心得その2です。
あくまで“自分用”に考えてきた独自の心得ですし、“誰にでも・どんな怒りにでも”通用するものではないと思いますが、参考程度にご覧ください。
(項目が多くて長くなりそうなので、何回かに分けて書いています。)
あくまで“自分用”に考えてきた独自の心得ですし、“誰にでも・どんな怒りにでも”通用するものではないと思いますが、参考程度にご覧ください。
(項目が多くて長くなりそうなので、何回かに分けて書いています。)
- 「怒りっぽい人は嫌われる」ことを意識しよう
- 立場を逆にして考えれば分かることですが、すぐに怒る人間が身近にいると、面倒くさかったり、嫌だったりしますよね?
ちょっとしたことですぐに怒る人間を、わざわざ相手にしたいとは思わないですよね?
まして、怒りに任せて暴言を吐いたり乱暴なことをしたりする人間は、怖くて危険なので、近づきたいとさえ思わないのではないでしょうか。
そんな風に「怒りっぽい人間」は他人に嫌われ、避けられることになりやすいのです。
他人に対して怒りをぶつけると、その分だけ周囲から嫌われ、孤立に陥り、社会的にも不利になるリスクが高まります。
たとえその怒りに正当な理由があったとしても、人間には他人の心の中をのぞく能力はありませんから、周りの人間にそんな“動機”が見えるはずもありません。
ただ「怒って乱暴なことをしている」という“結果”が見えるだけです。
怒って何かに当たりたくなった時、そんな“他人の目”を意識してみれば、少しは気持ちが変わるのではないでしょうか。
あるいは、怒りに任せて行動する自分を、“自分を見つめる自分の目”で冷静に見つめ直してみてはいかがでしょうか。
「こんなことをしていたんじゃ、周囲に怖がられる」「嫌われる」――そのことを意識するだけでも、感情の爆発をある程度抑えることができるのではないでしょうか。
そしてそれは自分を孤立のリスクから遠ざけ、自分で自分の将来を守ることにつながるのです。
ただ、普段から人目を気にし過ぎて被害妄想に陥りがちな方には、この方法はあまりオススメできないかも知れません…。
「周りに嫌われているかも知れない」という過剰な自意識が、余計に神経を尖らせ、怒りを増幅させてしまうかも知れませんので…。
- 「お互い様」の意識を持つ
-
他人のミスや失敗にイラつき怒りを覚えた時、「自分も過去に似たようなミスをしたことがあるのにそれを棚に上げている」ということがありませんか?
あるいは“同じような”失敗はなかったとしても、何らかの形で他人に迷惑をかけた経験はありませんか?
社会の中にいる以上、人間は何らかの形で他人の手をわずらわせるものだと思います。
しかし、自分が相手にかけた迷惑や手間は意識していないのに、他人からかけられた迷惑や手間はよく目について気にさわる――そんなタイプの人間が「怒りっぽさ」を生んでいるのではないでしょうか。
他人に対してイラッとした時、過去に自分が犯した失敗や、他人にかけた迷惑をふと思い出して「ああ、お互い様だな」と思うことができたなら、怒りを抑えることができるのではないでしょうか。
「ささいなミスや失敗さえ許さない」という不寛容さが社会に蔓延すれば、それは「いつかの将来に自分が犯すミスや失敗も一切許されない」ということになります。
それは自分で自分の首を締める行為でしかありません。
相手のミスや失敗に対し寛容であるということは、今目の前にいる相手のためだけではなく、将来の自分のためにもなることなのです。
- 幸せに対する感受性を高める
-
社会をざっと見て個人的に感じたことですが、怒りっぽいタイプの人間の中には「自分が世の中で報われていない」「自分の人生は不幸だ」と思っている人間が多いような気がします。
幸せになれない、報われない世の中自体に怒りを感じ、それがその社会に属するひとりひとりの人間にも向いてしまっている…そんな気がするのです。
そんな時にふと思うのが「報われるって、具体的にどういうことを言うのだろう」「世の中、幸せの基準が上がり過ぎていないだろうか」ということです。
今の世の中は情報にあふれていますので「上の生活」を知る機会も多いと思います。
贅沢な衣食住、他人からの「いいね」がたくさんもらえる人生……。
そんな“良い人生”を送っている他人と自分を比べて、「自分だって頑張ってるのに、どうして報われないんだろう」と思っている人も多いのではないかと思います。
ただ…果たしてその人は、本当に“報われていない”のでしょうか?
うらやましがっているその人生は、本当にうらやましがるほど価値のある良いものなのでしょうか?
自分は、お金のたくさんある暮らしを本気でうらやましいと思ったことは、ほとんどありません。
「こんな暮らしができたらなー」と夢想することはあっても、想像力があり過ぎるせいか、大概は“想像するだけ”で満足してしまいますし、実際にその生活を送った場合のデメリットやリスク(「維持費がかかるんだろうなー」とか「固定資産税いくら取られるんだろうなー」とか「防犯対策をしっかりしないと危険だよなー」等々…)まで同時に想像してしまうので、そもそもあまり「うらやましい」という気が起きないのかも知れません。
それに自分の好きなものは大概「お金で買えないものばかり」――逆に言えば「お金がなくても手に入るものばかり」なので、そんな「自分の好きなもの」「自分にとっての幸せ」を集めるのに夢中になってしまい、他人の生活をうらやましがっている暇がないのです。
たとえば、どんなにお金を持っていても、偶然虹に出逢える確率を上げることはできません。
夕暮れ時の空が金色に光っているのを見て「綺麗だなー」と感動することに、お金は必要ありません。
どんな高級な毛皮に身を包むより、うちの猫の背中に顔をうずめてモフモフする方が幸せだと思っています。
それに、今こうして生きて普通に生活できているということが、どれほど幸せなのかということを知っています。
自分が「報われていない」「幸せじゃない」と感じている人の中には、そんな身近にある当たり前でささやかな幸せたちを見失ってしまっている人が多いのではないかと思うのです。
人の欲には限りがなく、上を望めばきりがありません。
きっとどんなにお金を持っていても、それよりさらにもっと上の生活を夢見て「自分は報われていない」と思っている人はいるのではないでしょうか。
自分を幸せにできるかどうかは、どんな財産を持っているかではなく「幸せを感じ取る感受性」にかかっていると、自分は思います。
どんなに貧しくても、不運な環境にあっても、心の持ち方ひとつで幸せになることはできます。
そしてそんな風に日々幸せを感じて生きることができたなら、他人に対して怒りを持つことも少なくなるような気がするのです。
関連記事>「幸せは心の持ちよう」の具体例|“ささやかな幸せ”を貯蓄する
関連記事>怒りの感情のコントロール方法(その1)/(その3)
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革命や変革が怒りの爆発によって起こるように、「怒り」は時に世界を変えるエネルギーを生む、人類にとって不可欠な感情ではあります。
でも、それはたまにしか起こらないレアなケース。
普通の日常生活の中での「怒り」は大概の場合、人間関係を壊してしまったり、トラブルの発端となったり、厄介事の原因になってしまっているのではないでしょうか。
怒りは人生を悪い方向に転がしてしまいかねない、危険な感情でもあります。
自分の人生をうっかり破滅させたくないのであれば「怒りに我を忘れないように」感情のコントロールを考えていく必要があると思います。
以下に書いているのは、自分が普段から心がけている「怒りで身を滅ぼさない」ための心得です。
あくまで“自分用”に考えてきた独自の心得ですし、“誰にでも・どんな怒りにでも”通用するものではないと思いますが、参考程度にご覧ください。
(項目が多くて長くなりそうなので、何回かに分けて書いていこうと思います。)
でも、それはたまにしか起こらないレアなケース。
普通の日常生活の中での「怒り」は大概の場合、人間関係を壊してしまったり、トラブルの発端となったり、厄介事の原因になってしまっているのではないでしょうか。
怒りは人生を悪い方向に転がしてしまいかねない、危険な感情でもあります。
自分の人生をうっかり破滅させたくないのであれば「怒りに我を忘れないように」感情のコントロールを考えていく必要があると思います。
以下に書いているのは、自分が普段から心がけている「怒りで身を滅ぼさない」ための心得です。
あくまで“自分用”に考えてきた独自の心得ですし、“誰にでも・どんな怒りにでも”通用するものではないと思いますが、参考程度にご覧ください。
(項目が多くて長くなりそうなので、何回かに分けて書いていこうと思います。)
- 自分の怒りやイラつきを“自覚”する
-
誰にだって気分の上がり下がりがあります。
特に理由があるわけでもないのに気分が悪い、心がざわつく時だってあると思います。
大切なのは、そんな時に自分自身の状態を“自覚”しておくことです。
「あぁ、今日は何だか、ささいなことでイラつく日だな」「自分、怒りっぽくなってるな」ということに、ちゃんと自分で気づいておくことです。
その、ちょっとした自覚の差が、怒りに駆られて何かをしそうになった時のストッパーになってくれることがあります。
「この人が悪いわけじゃない。嫌なことが重なって怒りっぽくなってるからだ」「前に他の人に同じことされた時には怒らなかったのに、今日は怒るなんて不公平じゃないか」―そんな風に、自分自身の心の声が歯止めとなって、怒りをやわらげてくれることがあります。
- 怒り方の“ルール”を決めておく
- 怒りにまかせて取り返しのつかない失敗をしてしまうタイプの人は、そもそも「怒り方のルール」を決めていないのではないでしょうか?
人間誰しも、怒りに心を支配されてしまう可能性はあります。
そしてそんな風に怒りに支配された時、頭はまともに働きません。
怒りにエネルギーを奪われている分、思考は普段とは比べ物にならないほど鈍くなり、いつもなら当たり前に気づくようなことに気づけないので、うっかり言ってはいけないことを口にしてしまったり、相手を取り返しもつかないほど傷つけてしまったりするものです。
ならば、冷静に頭が働く平常時に、あらかじめ怒り方のルールを決めておいてしまえば良いのです。
怒りに鈍った頭でも、既にあるルールを実行するだけなら難しくありません。
たとえば自分の場合「怒っても“生物”には絶対にあたらない」「罵倒であっても、命を軽視する発言はしない」というルールを決めています。
怒りにまかせて生物に暴力をふるっては取り返しがつきません。
なので、どうしても当たり散らしたくなったら「無機物」もしくは「概念」や「システム」に怒りをぶつけるようにしています。
それも、なるべく手を出すのではなく口を出す方向で怒りを発散させるようにしています(そもそも形の無い概念に手は出せないですけどね…)。
さらには、ただ罵詈雑言をぶつけるのではなく、どこがどんな風に駄目なのか、その駄目な部分を改善するにはどうすればいいのか具体的に文句をぶつけるようにしています(あくまでひとりごとですが)。
たとえば「なんって分かりづらいサイトなんだ!?これを作った人間はユーザー目線を全く意識していないのか!?」から始まり「ここにこういう文言を書いておけば分かりやすいのに!」「ワンクリックで目的のページへ跳べるようにしておけば余計な手間がなくてカンタンなのに!」という風に文句を連ねていくわけですが…
こういうやり方をすると、その「こうすればいいのに!」という文句が、そのうち自分でサイトを制作する際に活かせたりと、自分自身に“応用”できるので非常に建設的でオススメです。
「命を軽視した発言をしない」の方は、自分が「世にも奇妙な物〇」的な思考回路の持ち主というのも関係していると思いますが…
たとえば「相手に『しね』と言ってしまった後、本当に相手が何らかの理由で命を落としてしまったらどうしよう」ということを想像してしまうので、基本的にそういうことは言いたくないのです。
それに、軽い気持ちであろうが、売り言葉に買い言葉であろうが、酒に酔っての言動であろうが、“誰かから死を望む発言をされた”という事実は、なかなか忘れられないものだと思うのです。
それが家族や友人など身近な人物であればあるほど、余計に…。
(少なくとも自分は忘れられないタイプなので。)
なので、自分自身、ふとしたきっかけでうっかりそんな言葉を発してしまわないよう、普段から生死に関わる言葉には気をつけているのです。
関連記事>怒りの感情のコントロール方法(その2)/(その3)
ネット通販で注文していない商品が入っていただとか、シリーズもののDVDの“3巻目”を買おうとレジに空箱を持っていったのに、家に帰って袋を開けてみたら発売されたばかりの“5巻目”が入っていただとか…
人間生きていれば、時にはそんなトラブルに見舞われ、クレームをつけなければいけない事態になったりするものです。
そんな時、自分がまず感じるのは「嫌だなぁ」です。
もちろん「面倒くさい」という意味での「嫌だなぁ」もあります。
でも、それよりも精神的に嫌だと感じるのは「このクレームを受けた人は嫌な思いをするんだろうなぁ。嫌なクレーマーだと思われたら嫌だなぁ」です。
元々自分には、相手の気持ちを想像してしまうクセがあります。
そのクセにより、自分のクレームを受ける担当者の気持ちを想像して、クレームをつける自分の存在を「なんとなく嫌なもの」だと感じてしまうのです。
「このクレームを受ける相手が、このクレームにつながった“問題”を起こした当人でもないのに、謝らなきゃいけないなんて理不尽で不憫だよなぁ」「傷つけるような言い方はしたくないけど、でも問題はしっかり解決してもらわなきゃいけないしなぁ」などということを、実際にクレームをつける前にぐるぐる考えたりするのです。
結果、実際にクレームをつける時、だいたい最初は穏やかな言い方で始めます。
(メールなどでクレームをつける場合には、大概、いつも利用させてもらっている感謝の言葉を一言添えて始めます。)
そして、ほとんど感情は交えずに事実だけを簡潔に伝え、問題を解決してくれるように依頼します。
(最後に少しだけ「残念に感じた」こと、「次はこんなことを起こさないで欲しい」という一言を添える場合はあります。それと、悲しいことに、相手によっては、こちらの出方が丁寧でおとなしいと(下手に出ていると思われるのか)、こちら側に不利な条件を押しつけられそうになることもあるので(完全に相手方のミスであるにも関わらず、交換のために送り返す商品の送料をこちら持ちにさせられそうになったり…)そういう道理に合わないことは、きっぱりと断るようにしていますが…。)
モラルがどうの、倫理観がどうのということではなく、きっと自分はただ単に「他人に嫌われたくない」あるいは「嫌な人間になりたくない」だけなのだと思います。
自分が嫌な目に遭ったからと言って、それが誰かを攻撃して良いことの理由にはなりません。
ましてクレームをつける相手は、その嫌なトラブルを起こした“当人”ではないかも知れないのに…
嫌な目に遭ったイライラを、ちょうど良いからと言ってクレーム担当者にぶつけるのは、八つ当たりにも似た行為だと思うのです。
…ただ、自分がそう思うのは、自分が求めているものが単に「トラブルの解決」であって、「そのトラブルによって受けた心のダメージの回復」ではないから、というのもあるかも知れません。
(自分の場合、そもそも「めんどくさい」と思うだけで、ダメージというほどの傷やストレスを負わないことがほとんどですので…。)
クレーム担当者に怒鳴りつけたりする人間が「どうして」怒鳴りつけるのかと言うと、おそらく「そのトラブルによって傷つけられた気持ちをどうにかして欲しいから」なのだと思います。
「どうにかして欲しい」けど「自分ではどうにもできない」し「どうにかする方法も分からない」から、分かりやすい相談窓口であるところのクレーム担当に、その気持ちをぶつけるのではないかと思われます。
(とは言えトラブルの内容もクレームの内容も十人十色でしょうから、必ずしもそればかりとは限りませんが。)
ただ…昨今の世の中を見ていると、どうにもその「気持ちのぶつけ方」が“過剰”になってきている気がして心配なのですが…。
長時間怒鳴り続けたり、業務を妨害したり、土下座を強要したり…
そこまでしても気が済まないというのなら、もはや問題はクレームの元となったトラブルではなく、感情のコントロールの方にあるのではないでしょうか。
怒りや苛立ちに心が支配され、「自分のやっていることが度を越していないか」「他人から見て今、自分がどう見えるか」を考える精神的余裕もなくなってしまっている…
今目の前にある「ストレスの発散」ばかりに心が向いて、その行為が後にどんな事態を呼ぶのか、自分が社会からどう評価されるのかに目が行かなくなってしまっている…
それは結果的に、クレーマーさん本人を社会から孤立させ、生きづらくしていってしまうのではないかと思えてならないのです。
人間、誰にでも失敗はあります。
そんな誰かの失敗が、たまたま自分にトラブルとなってふりかかることはあります。
それに怒りを爆発させ、一切の許容ができないと言うなら、きっと、いつかの未来に自分が犯すであろう失敗も、世の中から受け入れられなくなっていくことでしょう。
他人の失敗と自分の失敗は別物――そんな幻想は、社会の在り方が歪んでいたり、よほどの権力を持っていたりでもしない限り、成立し得ないことなのですから。
怒りに駆られてクレームしそうになった時には、一旦立ち止まって、自分が過去に犯した失敗や他人にかけた迷惑を思い出したり、「もし自分がトラブルを起こした側の立場だったら」を考えてみると良いかも知れません。
“感情”ではなく、あくまで“理性”的にトラブルの解決を図ることは、ただ怒りのままにクレームをつけるより、よほど器が大きくてカッコイイ人間の姿だと、個人的には思っていますので。
人間生きていれば、時にはそんなトラブルに見舞われ、クレームをつけなければいけない事態になったりするものです。
そんな時、自分がまず感じるのは「嫌だなぁ」です。
もちろん「面倒くさい」という意味での「嫌だなぁ」もあります。
でも、それよりも精神的に嫌だと感じるのは「このクレームを受けた人は嫌な思いをするんだろうなぁ。嫌なクレーマーだと思われたら嫌だなぁ」です。
元々自分には、相手の気持ちを想像してしまうクセがあります。
そのクセにより、自分のクレームを受ける担当者の気持ちを想像して、クレームをつける自分の存在を「なんとなく嫌なもの」だと感じてしまうのです。
「このクレームを受ける相手が、このクレームにつながった“問題”を起こした当人でもないのに、謝らなきゃいけないなんて理不尽で不憫だよなぁ」「傷つけるような言い方はしたくないけど、でも問題はしっかり解決してもらわなきゃいけないしなぁ」などということを、実際にクレームをつける前にぐるぐる考えたりするのです。
結果、実際にクレームをつける時、だいたい最初は穏やかな言い方で始めます。
(メールなどでクレームをつける場合には、大概、いつも利用させてもらっている感謝の言葉を一言添えて始めます。)
そして、ほとんど感情は交えずに事実だけを簡潔に伝え、問題を解決してくれるように依頼します。
(最後に少しだけ「残念に感じた」こと、「次はこんなことを起こさないで欲しい」という一言を添える場合はあります。それと、悲しいことに、相手によっては、こちらの出方が丁寧でおとなしいと(下手に出ていると思われるのか)、こちら側に不利な条件を押しつけられそうになることもあるので(完全に相手方のミスであるにも関わらず、交換のために送り返す商品の送料をこちら持ちにさせられそうになったり…)そういう道理に合わないことは、きっぱりと断るようにしていますが…。)
モラルがどうの、倫理観がどうのということではなく、きっと自分はただ単に「他人に嫌われたくない」あるいは「嫌な人間になりたくない」だけなのだと思います。
自分が嫌な目に遭ったからと言って、それが誰かを攻撃して良いことの理由にはなりません。
ましてクレームをつける相手は、その嫌なトラブルを起こした“当人”ではないかも知れないのに…
嫌な目に遭ったイライラを、ちょうど良いからと言ってクレーム担当者にぶつけるのは、八つ当たりにも似た行為だと思うのです。
…ただ、自分がそう思うのは、自分が求めているものが単に「トラブルの解決」であって、「そのトラブルによって受けた心のダメージの回復」ではないから、というのもあるかも知れません。
(自分の場合、そもそも「めんどくさい」と思うだけで、ダメージというほどの傷やストレスを負わないことがほとんどですので…。)
クレーム担当者に怒鳴りつけたりする人間が「どうして」怒鳴りつけるのかと言うと、おそらく「そのトラブルによって傷つけられた気持ちをどうにかして欲しいから」なのだと思います。
「どうにかして欲しい」けど「自分ではどうにもできない」し「どうにかする方法も分からない」から、分かりやすい相談窓口であるところのクレーム担当に、その気持ちをぶつけるのではないかと思われます。
(とは言えトラブルの内容もクレームの内容も十人十色でしょうから、必ずしもそればかりとは限りませんが。)
ただ…昨今の世の中を見ていると、どうにもその「気持ちのぶつけ方」が“過剰”になってきている気がして心配なのですが…。
長時間怒鳴り続けたり、業務を妨害したり、土下座を強要したり…
そこまでしても気が済まないというのなら、もはや問題はクレームの元となったトラブルではなく、感情のコントロールの方にあるのではないでしょうか。
怒りや苛立ちに心が支配され、「自分のやっていることが度を越していないか」「他人から見て今、自分がどう見えるか」を考える精神的余裕もなくなってしまっている…
今目の前にある「ストレスの発散」ばかりに心が向いて、その行為が後にどんな事態を呼ぶのか、自分が社会からどう評価されるのかに目が行かなくなってしまっている…
それは結果的に、クレーマーさん本人を社会から孤立させ、生きづらくしていってしまうのではないかと思えてならないのです。
人間、誰にでも失敗はあります。
そんな誰かの失敗が、たまたま自分にトラブルとなってふりかかることはあります。
それに怒りを爆発させ、一切の許容ができないと言うなら、きっと、いつかの未来に自分が犯すであろう失敗も、世の中から受け入れられなくなっていくことでしょう。
他人の失敗と自分の失敗は別物――そんな幻想は、社会の在り方が歪んでいたり、よほどの権力を持っていたりでもしない限り、成立し得ないことなのですから。
怒りに駆られてクレームしそうになった時には、一旦立ち止まって、自分が過去に犯した失敗や他人にかけた迷惑を思い出したり、「もし自分がトラブルを起こした側の立場だったら」を考えてみると良いかも知れません。
“感情”ではなく、あくまで“理性”的にトラブルの解決を図ることは、ただ怒りのままにクレームをつけるより、よほど器が大きくてカッコイイ人間の姿だと、個人的には思っていますので。
子どもの頃、ひどく「生きづらい」と感じていた時期があります。
思い返してみればその頃、自分は、世界を見るのも他人を見るのも、何でも“自分”をモノサシにしていました。
人間の物の考え方など十人十色で一人一人違って当たり前なのに、あの頃は無意識のうちに、他人も自分と“同じ”ように物を考え行動すると思い込んで、その予想から外れた言動をされると、ひどく動揺していました。
たとえば、自分はいわゆる“繊細”なタイプで、ささいな言葉ひとつに傷つく性格だったので、「これを言ったら相手を傷つけてしまうかな」「これをしたら嫌われるかな」と言動の一つ一つに気を遣ってきました。
けれど、世の中そういうタイプの人間ばかりではないので、こちらが傷つくようなデリカシーの無い言葉を平気で使って来る人はたくさんいます。
そんな時、「自分は嫌われているんだろうか」「自分が何か悪いことをしたんだろうか」と凹んでいたりしましたが…今にして思えば、おそらく“そういうこと”ではなかったのだと思います。
自分はたまたま「言葉が相手に与える影響」を気にし、考えたことをすぐには口にせず一度頭の中で反芻してから話すタイプの子どもでしたが、そういうものを全く気にせず、言いたいことを即座にポンポン口にする人間はたくさんいます。
それはべつに悪意や悪気があるわけではなく「それにより相手が傷つくかも知れない」という可能性をあまり考えたことがない人間だから、なのだと思います。
(中には自分を優位に立たせたいがために、わざと相手を屈辱的な言葉で貶めたがるタイプの人間もいますが…。)
“他人”という生き物は、“自分”とは性格も思考のタイプも全く違う生き物なのですから、「自分だったら、こういう時には、こういう行動をするのにな」という“予想”と全く違う“結果”が出て来るのは当たり前です。
そして、そんな予想外の言動を“自分の価値観”に当てはめて「なんでこの人はこんなことをするんだろう」と悩んでみたところで“正解”など分からないのです。
だから、すぐに「自分だったら、こんな言葉は嫌いな相手にしか使わない→だから、相手は自分のことが嫌いなんだ」と思い込んでしまうのは危険です。
相手は本当に悪気無く、ただただ軽い気持ちでその言葉を使っただけかも知れないのですから…。
本当に嫌われたわけでもないのに「嫌われた」と思い込んで傷つくのも、攻撃の意思のない言葉に勝手に攻撃性を読み取って反撃しようとするのも、無駄に人生を生きづらくする“もったいない”行為です。
中には「そもそも、そんな風に相手の気持ちを考えずに言葉を使ったり行動したりする相手の方が悪い」と思う人もいるかも知れません。
ですが、人間の性格というものは育ってきた環境によっても左右されるものです。
もしもそれまでその人の周りにいたのが「ちょっとした悪口くらいなら軽口で返してくるようなノリの人間ばかりだった」のだとしたら、「それによって傷つく人間もいる」のだということを知らないまま、気づかないまま育ってしまったとしても仕方のないことなのかも知れません。
(そして、その後もそんなノリの人間ばかり周りにいるなら、そういう性格のままだったとしても特に問題が無いのかも知れません。)
以前の記事にも書きましたが、人が相手の性格を好ましく思うか嫌いだと思うかは“相性”の問題であって、そこに絶対的な評価や価値観など存在しません。
どうしても“合わない”性格の人間もいると思います。
そういう時は、「何でこの人はこんな言動をとるんだ。自分なら絶対しないのに」とイライラしながらつき合い続けるより、そっと離れていくか、「この人はこういう人なんだから仕方ない」と受け流すのが、精神衛生のためには良いと思うのです。
ある程度の年齢まで育ってしまった人間の性格や思考回路を変えていくのは容易なことではありません。
ですので、そのエネルギーを消費するのに値しない相手なら、わざわざそんな苦労をする必要も理由も無いと思うのです。
今の世の中、他人の言動を無理矢理“自分の”モノサシで測ろうとして、その挙句に誤解して、する必要のない争いやトラブルを起こしている例が多い気がしてなりません。
“自分”と“他人”は物の考え方が違う――そのことさえ、きっちり押さえていたなら、そんな“ムダな”争いやトラブルも減り、社会に満ちたストレスも少しは減らせる気がするのですが…。
思い返してみればその頃、自分は、世界を見るのも他人を見るのも、何でも“自分”をモノサシにしていました。
人間の物の考え方など十人十色で一人一人違って当たり前なのに、あの頃は無意識のうちに、他人も自分と“同じ”ように物を考え行動すると思い込んで、その予想から外れた言動をされると、ひどく動揺していました。
たとえば、自分はいわゆる“繊細”なタイプで、ささいな言葉ひとつに傷つく性格だったので、「これを言ったら相手を傷つけてしまうかな」「これをしたら嫌われるかな」と言動の一つ一つに気を遣ってきました。
けれど、世の中そういうタイプの人間ばかりではないので、こちらが傷つくようなデリカシーの無い言葉を平気で使って来る人はたくさんいます。
そんな時、「自分は嫌われているんだろうか」「自分が何か悪いことをしたんだろうか」と凹んでいたりしましたが…今にして思えば、おそらく“そういうこと”ではなかったのだと思います。
自分はたまたま「言葉が相手に与える影響」を気にし、考えたことをすぐには口にせず一度頭の中で反芻してから話すタイプの子どもでしたが、そういうものを全く気にせず、言いたいことを即座にポンポン口にする人間はたくさんいます。
それはべつに悪意や悪気があるわけではなく「それにより相手が傷つくかも知れない」という可能性をあまり考えたことがない人間だから、なのだと思います。
(中には自分を優位に立たせたいがために、わざと相手を屈辱的な言葉で貶めたがるタイプの人間もいますが…。)
“他人”という生き物は、“自分”とは性格も思考のタイプも全く違う生き物なのですから、「自分だったら、こういう時には、こういう行動をするのにな」という“予想”と全く違う“結果”が出て来るのは当たり前です。
そして、そんな予想外の言動を“自分の価値観”に当てはめて「なんでこの人はこんなことをするんだろう」と悩んでみたところで“正解”など分からないのです。
だから、すぐに「自分だったら、こんな言葉は嫌いな相手にしか使わない→だから、相手は自分のことが嫌いなんだ」と思い込んでしまうのは危険です。
相手は本当に悪気無く、ただただ軽い気持ちでその言葉を使っただけかも知れないのですから…。
本当に嫌われたわけでもないのに「嫌われた」と思い込んで傷つくのも、攻撃の意思のない言葉に勝手に攻撃性を読み取って反撃しようとするのも、無駄に人生を生きづらくする“もったいない”行為です。
中には「そもそも、そんな風に相手の気持ちを考えずに言葉を使ったり行動したりする相手の方が悪い」と思う人もいるかも知れません。
ですが、人間の性格というものは育ってきた環境によっても左右されるものです。
もしもそれまでその人の周りにいたのが「ちょっとした悪口くらいなら軽口で返してくるようなノリの人間ばかりだった」のだとしたら、「それによって傷つく人間もいる」のだということを知らないまま、気づかないまま育ってしまったとしても仕方のないことなのかも知れません。
(そして、その後もそんなノリの人間ばかり周りにいるなら、そういう性格のままだったとしても特に問題が無いのかも知れません。)
以前の記事にも書きましたが、人が相手の性格を好ましく思うか嫌いだと思うかは“相性”の問題であって、そこに絶対的な評価や価値観など存在しません。
どうしても“合わない”性格の人間もいると思います。
そういう時は、「何でこの人はこんな言動をとるんだ。自分なら絶対しないのに」とイライラしながらつき合い続けるより、そっと離れていくか、「この人はこういう人なんだから仕方ない」と受け流すのが、精神衛生のためには良いと思うのです。
ある程度の年齢まで育ってしまった人間の性格や思考回路を変えていくのは容易なことではありません。
ですので、そのエネルギーを消費するのに値しない相手なら、わざわざそんな苦労をする必要も理由も無いと思うのです。
今の世の中、他人の言動を無理矢理“自分の”モノサシで測ろうとして、その挙句に誤解して、する必要のない争いやトラブルを起こしている例が多い気がしてなりません。
“自分”と“他人”は物の考え方が違う――そのことさえ、きっちり押さえていたなら、そんな“ムダな”争いやトラブルも減り、社会に満ちたストレスも少しは減らせる気がするのですが…。
自分には、未だに忘れられない光景があります。
中学時代、散々嫌がらせをされてきた“天敵”に、無理矢理手をつかまれ学校の廊下を引きずられていく光景。
周りには何人も同級生たちがいたのに、誰一人、助けてくれず、声をかけてさえくれなかった光景。
…もしかしたら、自分が「助けて」と声を上げていれば、少しは状況が変わっていたのかも知れません。
が、当時はそんな風に“嫌がらせされている”姿を他人に見られること自体、恥ずかしいと思っていましたし、まして周りに助けを求めることなんてできませんでした。
結局この頃は同級生の誰かどころか先生でさえ助けてはくれず、自分で状況を変えていくしかなかったわけですが…
(関連記事>ハブられ状態脱出の実例~中学生の時~)
この時を境に、自分の中には「人間不信」が芽生えてしまいました。
仲の良い友達ができたって、一番助けて欲しい時に助けてくれない、それどころか裏切って心を傷つけてきたりする――だったら、友人を作る意味とは何なのだろう…
あからさまに窮地に陥っている人間がいるのに、誰も手を差し伸べてくれない――こんな冷たい人間ばかりの世界で、他人を求める意味はあるのだろうか…
そんな想いが渦巻いて、しばらくの間は、新たに人間関係を築くこと自体が嫌になりました。
(ちなみに嫌がらせをしてきた“天敵”自体が、実は小学校時代の友人だったという、さらなるトラウマがあったりします。)
けれど、学校という空間で「友達を作らず」「ひとりでいる」というのは、とても難しく、キツいことです。
修学旅行の班決め、給食で一緒に食事するグループ、体育の授業でのペア…学校では二人以上の団体行動を要求してくる場面がしょっちゅうあります。
そこで友人がいない「余りもの」状態だと、たとえ人数合わせでどこかのグループに入れてもらえたとしても、とても気まずく、いたたまれない想いをします。
中学2年で天敵を拒絶し、結果クラス内で孤立し、3年になってからも、元々親しい人間が1人もいないクラスで新たに友人を作らなかった自分は、そんな“いたたまれない”想いを年中していました。
(部活では普通に友人がいましたが、誰一人として同じ組にはならなかったのです…。)
それでも自分は、“信じられない友人”を嫌々作るより、その“いたたまれなさ”に耐える方がよほどマシだと思っていたのです。
(どうしてそこまでして友人を作るのが嫌だったのかは、“天敵”の件と絡めて後々書いていくかも知れません。)
中学を卒業し、高校に入ってからも、自分の「友達作りたくない病」は変わらず、親しい友人を新たに作ることなく、中学時代の友人(部活で仲の良かった友人)とばかり、つるんでいました。
しかし、高校では断然クラスの中での“過ごしやすさ”が違っていました。
なぜなら自分の進学した高校は、成績順にクラス分けがされるような進学校で、朝と帰りには毎日小テストがあり、生徒は休み時間でも参考書を開いているような人間がほとんどだったからです。
学校の旅行の部屋割やグループ分けなども、氏名の順に学校側が決めることが多く、特別に仲の良い友人を作らなくてもやっていけましたし、ひとりでいても“浮く”ことがなかったのです。
クラスメイトたちも、普段はあまり喋ったりしていなくても、球技大会や体育祭、文化祭などの行事では皆で団結して協力し合うという雰囲気があり、「必要な時だけ団体行動をして、その他の時にはひとりでいてもいい」という空気が、とても居心地が良かったのです。
結局、高校の三年間、親しい友人という存在は特にいませんでしたが、その三年間が自分にとっては必要な“心の休養期間”だったのではないか――今になってみると、そう思えます。
きっとあの頃、人間不信のピーク状態のままで無理矢理友人を作ったとしても、ますます人間不信をこじらせ、心が疲弊するばかりだったのではないかと思うのです。
無理に友人を作る必要もなく、不登校になることもなく“普通に学校に行けた”三年間は、自分にとって“とてもラク”で、心が休まる期間でした。
その三年間で自分は好きな読書にのめり込み、知識の幅と自分の世界を広げていきました。
そして高校を卒業し大学に入る頃には、「知っている人の誰もいない学校だし、この機会にボチボチ友達でも作っていこうか」という気分になれていたのです。
「友達がいない」「ハブられている」「ひとりぼっち」という状態は、不登校につながりかねない辛い状況です。
しかし、それは単に「寂しい」「ひとりが嫌」というだけでなく、「周囲の目が気になる」「周りから浮いているのが怖い」「変な目で見られたり、かわいそうな目で見られたくない」という面もあるのではないでしょうか。
「ひとり」でいる人間が、必ずしも仲間や友人を求めているわけではありません。
中には、心にひどい傷を負い過ぎて「今は誰とも関わりたくない」「そっとしておいて欲しい」という人もいるのではないでしょうか。
(それで放置するのが良いのか、むしろ積極的に関わっていった方が良いのかは、個人個人でケースが違ってくるのでしょうが…。)
個人的には、学校という空間が、もっと「ひとりでいても大丈夫」な場になれば、学校にいるのが苦痛という人が減るのではないかと思います。
「ひとりでいてもおかしくない」「ひとりでいるのは普通のこと」だったら、嫌いな友達と無理につき合う必要もなく、ハブられてもそこまで絶望する必要はなく、虐めに耐えてまでグループ内に居場所を求める必要もありません。
「友達がいないとダメ」「無理にでもグループを組まなければならない」という学校の暗黙のシステムが、余計に人間関係を歪にしているような…そんな気がするのです。
(まぁ、全てが全て個人主義になってしまったら、それはそれで新たな問題が発生していくのかも知れませんが…。)

中学時代、散々嫌がらせをされてきた“天敵”に、無理矢理手をつかまれ学校の廊下を引きずられていく光景。
周りには何人も同級生たちがいたのに、誰一人、助けてくれず、声をかけてさえくれなかった光景。
…もしかしたら、自分が「助けて」と声を上げていれば、少しは状況が変わっていたのかも知れません。
が、当時はそんな風に“嫌がらせされている”姿を他人に見られること自体、恥ずかしいと思っていましたし、まして周りに助けを求めることなんてできませんでした。
結局この頃は同級生の誰かどころか先生でさえ助けてはくれず、自分で状況を変えていくしかなかったわけですが…
(関連記事>ハブられ状態脱出の実例~中学生の時~)
この時を境に、自分の中には「人間不信」が芽生えてしまいました。
仲の良い友達ができたって、一番助けて欲しい時に助けてくれない、それどころか裏切って心を傷つけてきたりする――だったら、友人を作る意味とは何なのだろう…
あからさまに窮地に陥っている人間がいるのに、誰も手を差し伸べてくれない――こんな冷たい人間ばかりの世界で、他人を求める意味はあるのだろうか…
そんな想いが渦巻いて、しばらくの間は、新たに人間関係を築くこと自体が嫌になりました。
(ちなみに嫌がらせをしてきた“天敵”自体が、実は小学校時代の友人だったという、さらなるトラウマがあったりします。)
けれど、学校という空間で「友達を作らず」「ひとりでいる」というのは、とても難しく、キツいことです。
修学旅行の班決め、給食で一緒に食事するグループ、体育の授業でのペア…学校では二人以上の団体行動を要求してくる場面がしょっちゅうあります。
そこで友人がいない「余りもの」状態だと、たとえ人数合わせでどこかのグループに入れてもらえたとしても、とても気まずく、いたたまれない想いをします。
中学2年で天敵を拒絶し、結果クラス内で孤立し、3年になってからも、元々親しい人間が1人もいないクラスで新たに友人を作らなかった自分は、そんな“いたたまれない”想いを年中していました。
(部活では普通に友人がいましたが、誰一人として同じ組にはならなかったのです…。)
それでも自分は、“信じられない友人”を嫌々作るより、その“いたたまれなさ”に耐える方がよほどマシだと思っていたのです。
(どうしてそこまでして友人を作るのが嫌だったのかは、“天敵”の件と絡めて後々書いていくかも知れません。)
中学を卒業し、高校に入ってからも、自分の「友達作りたくない病」は変わらず、親しい友人を新たに作ることなく、中学時代の友人(部活で仲の良かった友人)とばかり、つるんでいました。
しかし、高校では断然クラスの中での“過ごしやすさ”が違っていました。
なぜなら自分の進学した高校は、成績順にクラス分けがされるような進学校で、朝と帰りには毎日小テストがあり、生徒は休み時間でも参考書を開いているような人間がほとんどだったからです。
学校の旅行の部屋割やグループ分けなども、氏名の順に学校側が決めることが多く、特別に仲の良い友人を作らなくてもやっていけましたし、ひとりでいても“浮く”ことがなかったのです。
クラスメイトたちも、普段はあまり喋ったりしていなくても、球技大会や体育祭、文化祭などの行事では皆で団結して協力し合うという雰囲気があり、「必要な時だけ団体行動をして、その他の時にはひとりでいてもいい」という空気が、とても居心地が良かったのです。
結局、高校の三年間、親しい友人という存在は特にいませんでしたが、その三年間が自分にとっては必要な“心の休養期間”だったのではないか――今になってみると、そう思えます。
きっとあの頃、人間不信のピーク状態のままで無理矢理友人を作ったとしても、ますます人間不信をこじらせ、心が疲弊するばかりだったのではないかと思うのです。
無理に友人を作る必要もなく、不登校になることもなく“普通に学校に行けた”三年間は、自分にとって“とてもラク”で、心が休まる期間でした。
その三年間で自分は好きな読書にのめり込み、知識の幅と自分の世界を広げていきました。
そして高校を卒業し大学に入る頃には、「知っている人の誰もいない学校だし、この機会にボチボチ友達でも作っていこうか」という気分になれていたのです。
「友達がいない」「ハブられている」「ひとりぼっち」という状態は、不登校につながりかねない辛い状況です。
しかし、それは単に「寂しい」「ひとりが嫌」というだけでなく、「周囲の目が気になる」「周りから浮いているのが怖い」「変な目で見られたり、かわいそうな目で見られたくない」という面もあるのではないでしょうか。
「ひとり」でいる人間が、必ずしも仲間や友人を求めているわけではありません。
中には、心にひどい傷を負い過ぎて「今は誰とも関わりたくない」「そっとしておいて欲しい」という人もいるのではないでしょうか。
(それで放置するのが良いのか、むしろ積極的に関わっていった方が良いのかは、個人個人でケースが違ってくるのでしょうが…。)
個人的には、学校という空間が、もっと「ひとりでいても大丈夫」な場になれば、学校にいるのが苦痛という人が減るのではないかと思います。
「ひとりでいてもおかしくない」「ひとりでいるのは普通のこと」だったら、嫌いな友達と無理につき合う必要もなく、ハブられてもそこまで絶望する必要はなく、虐めに耐えてまでグループ内に居場所を求める必要もありません。
「友達がいないとダメ」「無理にでもグループを組まなければならない」という学校の暗黙のシステムが、余計に人間関係を歪にしているような…そんな気がするのです。
(まぁ、全てが全て個人主義になってしまったら、それはそれで新たな問題が発生していくのかも知れませんが…。)
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