よく不思議に思っていることなのですが…世の中、何もかも二者択一的に「白か黒かハッキリ決めなくてはいけない」と思い込んでいる人たちが、何だか無闇やたらと多い気がします。
「じゃあ、間をとってグレーで。」とか「黒50%・白50%のグレーがダメなら、黒30%・白70%の白寄りのグレーで。」という答えも普通にアリなはずなのに、そんな答えなど存在していないかのように、あるいは見えていないかのように「白か黒かどちらかを選ばなければならない。でもどちらかを選ぶと何かを犠牲にすることになる」と、その選択に絶望的なまでに苦しんでいる人たちが多い気がしてならないのです。
たとえば「ある人の“ある一面”が嫌いなら、その人の“全て”を嫌わなくてはいけない」だとか…、「何か“一つ”許せないことがあったら、その“全て”を許してはいけない」だとか。
逆に、「愛すべき相手のことなら、その“全て”を受け入れなければいけない」と思い込んでいるとか…。
個人的には「この人のココの所はキライだけど、その他の部分はべつにフツウに受け入れられるな」だとか「この人のこういう所は好きだけど、○○な所はちょっと許せないな」だとか、そういう融通のつけ方があっても良いと思うのですが。
たとえば親兄弟にだって、受け入れ難い部分・許せない言動の一つや二つ、あると思います。
それを「愛する家族だから」と無理に受け入れる必要などないし、逆にそこが許せないからと言って、これまで積み重ねてきた思い出や愛情全てを投げ捨てて嫌いになる必要もないと思うのです。
(まあ、「好きなのに嫌い」「嫌いなのに好き」という葛藤は、それはそれで苦しいものかも知れませんが…。)
世の中「答えは2つに1つ」というものばかりではなく、「その他の答え」も探せばあるかも知れないのに、なまじ、そんな「2つに1つ」の選択肢ばかりが分かりやすく目に見えてしまっているがゆえに、他の選択肢が見えなくなってしまっているのではないかと思うのです。
そしてそれは、人生や社会の可能性を狭めてしまって、人間を生きづらくしてしまっているのではないかと思うのです。
ただ、だからと言って、そんな風にすぐに「2つに1つ」以外の「別の選択肢」を見つけられるようにできるかと言えば、それは人によって、かなり難しいことなのかも知れないと思います。
そこには、ある種の「コツ」のようなものが必要だと思うからです。
それは、たとえば「今、目に見えている“選択肢”を疑ってみる」ことです。
選択をする前に一度立ち止まって「本当に道は“白か黒か”の2択しかないのか?」「もっと別の方法があるのではないか?」と、自分に問うことです。
世の中を眺めていると、何だかその「疑う」ということができていない人が、とても多いように見えます。
世間一般で提示されている2択を、当たり前のように受け入れて、その2択の中だけで、迷い、悩み、苦しんでいる……そんな風に見えてならないのです。
既存の2択の中で答えが出ないなら、自分で新しい選択肢を生み出していけば良いのに…
そして、そんな選択肢を生み出すためにこそ、自分の知識や能力を磨いていけば良いのに…
なのに、それができずに、逆に、自分のみならず他人にさえ、その“無茶な2択”を押し付け、強いる人がいる…こんな世の中では、生きづらくなるのは当たり前だと思うのです。
世間一般で“常識”だと思われて、疑うことすら忘れられているモノを、もっと柔軟な頭と心で見つめて、そこに別の意味を見いだせる人が増えたなら、この世界はきっともっと生きやすく、幸せなものになれるのに…そう思えてならないのです。
それは、「人間は一人として同じ者はいない、別個の存在だ」という、ある意味“当たり前”な事実を、“本当の意味”で理解できている人が、実は意外と少ないのではないか、ということです。
もちろん「うわべ」では皆「そんなこと分かってるよ。同じ人間なんているはずないじゃないか」と言うでしょう。
しかし実際には、相手が「自分とは違う他の人間」であるにも関わらず、無意識のうちに「自分の価値観」という物差しで判断し、そこから少しでもズレていると「あいつは駄目なやつだ」「アイツ、おかしいんじゃないのか」などと思ったりする――そんなことが多々あるのではないかと思うのです。
たとえば、人間の体力は人それぞれに違っています。
(そもそも体力なんて、その人の体格・年齢・筋肉量・健康状態など、様々な要素によって変わってくるのですから、個人差があるのは当たり前ですし、同じ人間であっても日によって違うものですが。)
だから同じ量の仕事量をこなしていたとしても、それにより生じる疲労ダメージは人それぞれです。
Aさんが普通にこなしている仕事量だからと言って、同じ部のBさんにもそれができるかと言えば、それは別問題です。
精神面においても同じことが言えますが、同じような叱責やハラスメントを受けても、平気で受け流せる性格の人もいれば、気に病んでストレスで体調を崩す人もいます。
また、それぞれの抱える「事情」も個々に違っています。
親の介護がある、幼い子がいる、通勤時間が異常に長い等々、様々な事情により仕事の時間に融通のきかない(残業や休日出勤ができない、あるいはそもそも一日フルで働けない)人はたくさんいます。
(そして“同じよう”な事情を抱えていたとしても、その程度の違いがあったり、複数の事情が絡み合っていたりで、一人として“同じ”事情は無かったりするわけですが…。)
なのに何故か現代のこの日本社会(特にブラックな企業の中)では、全ての人間を“同じ”ものとして見ている――どころか、「完璧にタフな体力と精神性を持ち、いつでも仕事の時間に融通のきく人間」を基準、あるいは理想として考えているように見えるのです。
そうして、そんな「完璧にタフな体力と精神性を持ち、いつでも仕事の時間に融通のきく人間」でもなければこなせないような無茶な仕事量を課したり、パワハラすれすれの“指導”を行ったり、平気で残業や休日出勤をさせたりして、それに耐えられなければ「ダメな人間」「弱い人間」「使えない人間」というレッテルを貼って見下すという「いや、どういう思考の経路をたどってその結論に至ったんですか?」「そんな、会社にとって異常に都合の良い“超人”が、そこらにホイホイ溢れているとか本気で思ってるんですか?」と逆に訊きたくなるような“不思議な考え”がまかり通っている気がするのですが…。
(と言うか、当たり前な話ですが、そんな“超人”はそうそう存在しないので、そんな無茶な働き方を押しつけられれば「働きたくても働けない」人が増えて、「人手不足→1人あたりの労働量が増える→人が辞める」の悪循環に陥っていくのは必然だと思うのですが…。)
…まぁ、そもそも、そんな「人それぞれ個人差のある能力や事情を汲んで、それに見合った仕事(業務内容や勤務形態)を割り振り、上手く人材を活用していける」ような技術、あるいは仕組みが、この現代社会でまだあまり“開発”されていない――そもそもその必要性に気づいてもらえてすらいない、ということなのかも知れませんが…。
(そもそも、まずその前の段階として、そんな人間ひとりひとりの差異や事情を「見える化」する“何か”でも開発しないと、どれほど優秀な管理職の人でもそれぞれに合った仕事の割り振りができないのでしょうけど…。)
あと、そんな風に個人個人の事情に見合った仕事を割り振ったところで、そんな「自分とは違う他人の事情」を「想像でき」て「思いやれる」人間もそう多くはないでしょうから、「あいつの方がラクしててズルい」「俺ばっかり大変な思いをしている」という不公平感が発生して別の問題も起こりそうですが…。
そもそも人間って、自分の抱える事情を重く、他人の抱える事情を軽く見がちなところがあるんですよね…。
だから、客観的に見れば、実は相手の方が苦労をしていたとしても、パッと見の個人的な印象だけで「自分の方が苦労してて、あいつはラクしてる。ズルい」となりがちなんですよね…。
(と言うか、「自分の苦労<相手の苦労」を認めてしまうと「文句が言えなくなる」ので、都合の悪い部分をわざと見ないようにしている、という面もあるかも知れませんし。)
さらに言えば、そもそもそういう他人の抱える“事情”に対して無関心で無頓着な人が多い気がします。
マザー・テレサさんの言う通り「愛の反対は憎しみではなく無関心」なら、それって人間に対する愛が無いってことになるのですが…。
現代人、大丈夫なんでしょうか…?
いや、大丈夫じゃないから、今こんなにブラック企業やらパワハラが問題になっているんでしょうけど…。
「愛が全てを救う」などと言うと、ひどくチープに聞こえてしまいますが、ひょっとするとそんな風に「人間に対する愛」を持ち、個々の事情に目を向け「思いやる」ということが、諸々の社会問題を解決するカギになってくるのかも知れません。
…と言うか、個人的には普通に、愛の無いブラック企業より、愛ある優しいホワイト企業で働いていたいですし。
いつも不思議に思うのですが「自分と異なる意見は徹底的に排除しよう」という考え方って、どうして生まれてくるのでしょう?
まぁ、自分の望みとは真逆の意見だとか、自分がやりたいことを否定・制限するような意見だとか、通ってしまうと自分が何かと「やりづらくなる」意見を、感情的に(あるいは本能的に)否定したくなる気持ちは分かります。
でも、それで自分と対立する意見を(特に、暴力的で攻撃的なやり方で)「絶滅させよう」とするのは、やり過ぎで不健全なことだと、どうしても思ってしまうのです。
自分が元々「目的や大義がどんなに素晴らしいものであろうと“やり方”が非道なら、それは当然“酷い”ことだ」と思っているから、かも知れませんが。
そもそも自分は、個人的に「“自分と異なる意見”を簡単に切り捨ててしまうことは絶対やりたくない」と思っています。
なぜなら「自分と異なる考え」ということは「自分の頭では絶対にたどり着けない考え」ということかも知れないので。
それをみすみす捨ててしまうことは、自分自身の破滅フラグにつながるかも知れないと思うからです。
所詮この世界の全てを知ることもできない人間の身で、自分の出す意見が『常に正しい』とは限りません。
むしろ一定の確率で、本人さえ気づかない思考ミスを犯していて、間違った意見を出してしまうことがある、と考える方が自然だと思います。
それに、たとえ短期的に見れば自分にとって都合の良いモノだとしても、長期的に見れば破滅につながりかねないことって、結構ありますよね。
(二酸化炭素は経済活動を活発に行うと増えてしまうものだけれど、規制していかないと温暖化になるとか、甘いものはおいしいけれど食べ過ぎると肥満や糖尿病につながる、といった風に…。)
反対意見を残しておけば、いざという時にブレーキになってくれて破滅を免れられるかも知れないのに、全て排除してしまったらブレーキの無い暴走車のごとく「破滅へ向かって一直線!」になってしまうかもしれないじゃないですか。
(ブレーキをなくすと破滅する云々というのは以前、別ブログの記事にも書きましたが…。)
そもそも昔からのことわざでも「良薬は口に苦し」と言っているように、「その時」の自分にとってイヤなものが「将来」の自分にとって「薬」になる、ということは、結構普通にあることだと思うのです。
だから一時の“感情”に左右されず、長期的な視野を持って他者の意見も尊重していくというのが、結局は「自分(や自分の生きる未来)を大切にする」ということに繋がると思うのです。
(まぁ、人間ですので、どうしても感情が先に出てしまうこともあるとは思うのですが、そこをグッとこらえてコントロールしていかないことには、結局は自分が破滅するだけだと思うので。)
あと、生命の進化だとか種の絶滅だとかの歴史を見ていると、何となくですけど「多様性は持っていた方が良い」と思えてならないのです。
多様性の無い種って、絶滅リスクが高い気がしてならないので。
そもそも多様性――個体に様々なバリエーションがある、ということは、その数だけその種に“可能性”があるということだと思うんですよね。
たとえAというタイプの人間にはできないことでも、Bというタイプの人間にはできるかも知れない――そうやって多様性の数だけあるたくさんの可能性でもって、各々のタイプの得意分野で人類の直面する様々な問題を1つ1つ解決していけば、人類はその分“種”としての寿命を延ばせるのではないか――そんなことをごくごく単純に考えてしまうのですが、短絡的過ぎますかね?
ただ、人間というものはどうしても、自分とはタイプの異なる人間を嫌悪したり、歪だと感じたり、反発したりすることが多い生き物のようですので、「どうやって多様なタイプの人間が“共存”していくのか」という課題は常につきまとってしまうものなのかも知れません。
「寛容な心で多様性を受け入れなければいけない」という建前をいくら説いたところで、「気に食わない」「嫌だ」と感じてしまう心の奥底の本音部分を上手く説き伏せることはできない気がするので、そういう時には「気には食わなくても、あの人々が存在していれば、将来何か人類(自分)の役に立つかも知れない」と思って、ゆるくフワッと受け入れておけばいいのではないかと、個人的には思うのですが。
そもそも、タイプの異なる人の目から見れば「役に立たない人間」「変な人」に見えたとしても、その人が実際にどんな潜在能力を秘めているかなんて「神のみぞ知る」領域のことで、一介の人間に測れるものではないと思うのです。
幼少期に学校の勉強ができなかった人物が後に歴史的偉業を成し遂げるという、発明王エジソンのような例なんて、歴史上、掃いて捨てるほどありますので。
ともあれ、どんな意見であれ、検討もせずに切り捨てるなどということは止めて「とりあえず取っておく」くらいの心の余裕があった方が、何かと人生が生きやすくなると思います。
まぁ、多様な意見があるということは、それだけ「意見をまとめる」ことが大変になるということでもありますので、人類の「意見調整」スキルを上げていかなければならないという、そういう問題も出て来てしまうとは思いますが…。
――これだけ十人十色に様々なタイプの人間がいる中で、“全員に当てはまる真理”なんて存在しない気がするのに、わざわざ「正しい」だとか「間違っている」だとかを決める必要があるのだろうか、と。
「このタイプの人に対しては合っているけど、別のタイプの人々には当てはまらない」「こういう条件なら正解だけど、条件が変われば不正解」――それで良いのではないかと思うのです。
どんなに大勢の人に支持される意見でも、“当てはまらなかった”人たちにとっては支持できないものなのだから、その人たちから否定されるのは当然の話です。
万人に当てはまる真理が無い以上、どんなに正しそうな理論だって、どんなに高尚な言葉だって、どこかの誰かから否定されるのは当たり前の話なのです。
否定されたからと言って凹むようなことでも、肯定されたからと言って得意気になるようなことでもありません。
それはあくまで“ひとつの意見”という、それ以上でもそれ以下でもなく、絶対の真理でも無ければ、無価値なヨタ話でも無いのです。
……と言う風に、自分は日々うっすら思ってきたのですが、世の中の多くの人は、どうもそうは思っていないように見えます。
何だか世の中、“自分の意見が肯定され、より多くの人間から賛同される”ことばかりを望み、そのことに躍起になっている人で溢れているように見えるのです。
あるいは、“自分とタイプや立場の異なる誰か”の意見を“否定すること”に夢中になっているように見受けられます。
自分には、それがどうにも無意味な“陣取りゲーム”のように見えて仕方が無いのですが……。
まぁ、自分の人生を何に費やすかは個々の自由でしょうし、たとえ一個人の眼から見て無意味な陣取りゲームに見えても、本人たちがそれに本気で熱中していて人生を懸けたいのだと言うなら、それでもいいのではないかとは思います。
ただ、そんな陣取りゲームにヒート・アップするあまり、無闇やたらに“他人を傷つける言動をとる”のはいただけない、と思うのです。
過度な攻撃姿勢は何だか「他人の意見を否定しなければ自分の意見を信じられない」という怯えの果ての、ヒステリックな先制攻撃にも見えてしまいます。
そもそも「否定したい」のだとしても、それでわざわざ“攻撃的な”言葉を使う必要は無いと思うのですが…。
日本語には相手を傷つけないよう配慮して、やんわり婉曲に間違いを指摘するやり方だってあったはずです。
(まぁ、そういう遠回しで“持って回った”ような言い方が嫌いという方も一定数いるのでしょうが…。)
「対立する相手になら、どんな攻撃的で暴力的な言動をとっても良い」という考えは、戦争や暴力の根源のように思えますし、そもそも端から見ていて決して気分の良いものではありません。
実際、自分も学生時代、ネット上の荒れた掲示板のやりとりを読んで「世の中って、こんなに荒んでるんだ。人間ってこんなに醜いものなんだ。こんな汚い大人であふれた社会になんて出たくないなぁ」などと思っていたものです。
まぁ、人間誰しも、そうそう“聖人君子”にはなれない生き物なので、イラッと来たら暴言も吐きたくなるとは思います。
けれど、それを自分の心の中だけで留めてガマンするか、相手に向けて実際に吐き出してしまうかは、とてつもなく大きな違いなのです。
それに一度そうやって枷を外し、攻撃的な言葉を吐くことを自分に許してしまえば、後々それがその人の“クセ”になりかねません。
そのうちにその攻撃姿勢は、対立する相手だけでなく、自分の身近な人・大切な相手に対しても、“ふとした拍子”にポロッと出てしまったりするものだと思うのです。
そうしてポロッと出た暴言や攻撃的態度は、ひょっとすると絆や信頼関係にヒビを入れ、取り返しのつかないものにもなりかねません。
暴言を吐いた本人がすぐには気づけなくても、いつの間にか知人・友人・家族にさえ敬遠されて、気づけば周りから人がいなくなっている、ということにもなりかねないのです。
人間、感情が激した時に出る言動は、なかなか理性でコントロールできるものではなく、そこには普段の習慣が何かと影響してくるものです。
普段から折に触れて攻撃的で暴力的な言動を選択していると、人生の大事な時にうっかりポロッとそれが出てしまうものだと思うのです。
だから単に“世のため人のため”というわけでなく、自分の人生を大切にするためにも、普段、無闇やたらと暴力的態度をとるのはよろしくないと思うのです。
相手を攻撃して得られる快感やストレス解消は一瞬でも、その代償は意外なほどに大きく、知らず知らずのうちに人生を蝕んでいるかも知れないのですから……。
そもそも、対立した意見だからと言って無闇やたらと否定するより、対立する意見でも優れたところは「いいとこどり」して積極的に取り入れ、組み合わせることで、自分の意見をパワー・アップしていった方が遥かに有意義だと思うのです。
(まぁ、取り込めないような種類の意見も、もちろんあるでしょうけど…。)
“目先の勝敗より、将来へ向けての進歩”“単純な多数決より、なるべく多くの人が納得になれる折衷案を”――そんな風に誰もが考えていけるなら、この世界はもっと優しく、幸せなものになっていける気がするのですが…。
それは家族が(長男以外の人間に対しては)わりと放任主義で、たとえ実力的にはもっと上のランクの学校が望めたにも関わらず偏差値的にやや下の学校を希望したところで、特に反対もされなかったという、単にそれだけのことではあるのですが…。
もっとも長男に対しては、進学自体渋っていた本人に代わり、受験する学校から学部まで全部親が決めたという過干渉ぶりで、その“関心の差”に釈然としないものを感じていました。
正直、親から「何も期待されていない」と感じていたのも事実です。
小学生の頃から、テストで良い点を取ろうが、読書感想文や絵のコンクールに選ばれようが、“ものすごく褒められた”という記憶はありませんし、そもそも学生時代にどんな成績を取っていたのか覚えてくれているかどうかすら、ちょっと怪しいと思っています。
(だって、たとえ一教科だって最高偏差値80とか取るような子のことを、普通はおばか扱いしないと思うんですよ…。たとえ多少天然だとしても…。)
まぁ自分の場合、どんなに勉強やその他の活動を頑張ろうと、“身体が弱い”というかなりなマイナス要素が存在していて、何かと言っては家族に迷惑をかけていたので、そちらの方にばかり目がいってプラス要素に目を向けてもらえなかったとしても仕方はないのかな…とは思うのですが…。
もっとも自分は、親から目を向けられないことを寂しくは思っても、同時に「その分、自由にできるから、まぁいっか」と割り切ってしまうような性格でしたので、特にひねくれたとかグレたということもなく、行きたい学校も進路も完全に自分の趣味で選び、フワフワッと生きて来たわけですが……
逆に親の重圧を受け続け、大学院まで進まされた長男は精神的にかなりキツそうでした。
たぶん親は「良い大学を出れば良い会社に入れて将来安泰」というような幻想をずっと抱いていて、純粋に子のためを思って大学に入れたのだとは思います。
ですが、その道が本人に合っているようには見えませんでした。
生来の明るさを失い荒んでいた当時の兄弟のことを思い出すと、兄弟として何の助け舟も出せなかった自分が歯がゆく、申し訳なく思えます。
自分は思うのですが「良い大学を出れば良い会社に入れて将来安泰」だなんて、所詮は都合の良い幻想に過ぎず、今の時代にはまるで当てはまっていないと思うのです。
そもそも「安泰」と「幸福」は違います。
たとえ“食うに困らない”職に就けたとしても、それが当人にとって何ら意味を見出せない“つまらない”仕事だったとしたら、結局長続きせず辞めてしまうかも知れませんし、無理をし続けて心を病んでしまうかも知れません。
その人が“最高のパフォーマンスを発揮できる”のは、その人にとっての“やりがいのある仕事”“夢中になれる仕事”なのではないでしょうか。
それがたとえ親や他の人から見て大した仕事に見えなかったとしても、本人にとって意味のある仕事なら、そこを目指す意義は充分にあると思うのです。
逆に親にとっての“良い仕事”が、子にとっても“良い仕事”であるかどうかは分かりません。
それが本人にとって“良い仕事”であるかどうかは、結局本人にしか分からないことだと思うのです。
もっとも、自分のやりたい仕事があったとして、その仕事に必ずしも就けるとは限りません。
良いと思っていたものの、実際就いてみたらイメージと違っていた、ということもありますし、そもそも自分が何になりたいのか見出せない人も多いでしょう。
でも、どんなに難しい進路選びだったとしても、自分自身で悩み抜き、自分の納得の行く道を選び取ることに意味があるのだと、自分は思います。
たとえ道を選ぶのに失敗しても、それが自分の選択の結果だと思えば素直に受け入れられます。
逆に、これが誰かの言いなりに選んで失敗した道だったとしたら…自分は果たしてそれを受け入れられただろうか、と思うのです。
家族は子のためを思って様々なことを言ってきます。
ですが、その家族は果たして、子が幸せになる道を提示できるほどの見識を持てているのでしょうか?
こんな「一寸先は闇」の、大企業の経営者たちでさえ先を読み誤って失敗していく時代の中で、親は本当に子の将来を見極める目を持てているのでしょうか?
子どもは確かに生きてきた年数も少なく経験も浅く、大人から見たら未熟で頼りない存在かも知れません。
でも、他の人間よりは確実に“自分自身のことを知っている”はずです。
幼い頃は単純に“将来の夢”が描けたのに、なぜ大人になると描けなくなってしまうのか……。
それは、幼い頃には見えなかった“その夢に至るまでの険しい道のり・数々のデメリット”が見えてしまうからだと思います。
でも、その“険しい道のり”や“デメリット”は、本当に思うほど厳しいものなのでしょうか?
実際にそれを乗り越えて夢の職業に就いている人間がいると言うのに……。
思うのですが、将来を思い描く時にすべきことは、険しい道のりやデメリットなどの“リスクを回避”することではなく、それを具体的に“乗り越える”ための術を学ぶこと、そして「ちょっとやそっとの困難くらいどうってことない」と思えるくらいにモチベーションを上げておくこと、心が折れないくらいにその夢を本気で大好きになること、だと思うのです。
本気の夢を夢中で追いかけているなら、そしてそのことを後悔しないなら、苦労が苦労でなくなります。
困難だなんて思わずに、アスレチックの難しい遊具を一つ一つクリアするような気持ちでいれば、それさえワクワクしてきます。
要は全て気持ちの持ちよう。そしてそんな気持ちを持てるだけの夢中になれる何かを見つけることだと思うのです。
まぁ、もちろん現実は言うほど簡単ではないでしょうが…。
どうしても能力が足りないことや、運に左右されることもあるでしょう。
他人からの理解を得られず苦しむこともあるかも知れません。
ただ、他の誰でもない自分だけの人生、たとえ夢を叶えることはできなかったとしても「それでも精一杯やったさ」と悔いを残さず、誇れるものにできればいいなぁ、と思うのです…。
- 【HN(ハンドル・ネーム)】
- 津籠睦月(つごもりむつき)
- 【職業】
- 社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
- 【趣味】
- 小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
- 【好きな小説ジャンル】
- ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
- 【備考】
- 漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
このブログは管理人に時間の余裕がある時にちょこっとずつ更新していく予定ですので、更新やチェックの頻度はおそらく数週間に1回~下手をすると1ヶ月以上の間が空いてしまう可能性も…。
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