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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
誤解されないよう先に言っておきますが、自分はAI自体には否定の感情も反対の意思も持っていません。
 ヒューマンエラーを防ぐなど「人間ではないからこそできること」も多いと思いますし、人類への恩恵も多いと思っています。
 ドラ〇もんを見て育ってきた身としては「AIと友情は築けるのか?」という興味もあります。
 自分が懸念するのはAI自体ではなく、その「使われ方」なのです。 AIではなく「それを使う人間」「AI技術に対する人間の考え方」なのです。

 
なぜAIによる生成物は炎上しやすいのか?
 
なぜ生成AIに忌避感を抱く人がいる一方、その忌避感すら目の敵にして「反AI」のレッテルで叩こうとする人がいるのか?
 
その「なぜ」の理由、個人的にはかなり「分かりやすい」と思っているのですが…意外とこれに気づいていない方って、多いのでしょうか?
 
自分は、これこそが生成AI問題の「本質」だと思っているのですが…
 
それは、生成AIというものが「持てるもの」「努力するもの」から取得したものを「持たざるもの」「努力せざるもの」へ流出させる技術だからです。
 
たとえば、絵師さんが途方もない「努力」の果てに「持つ」に至った作画技術を、絵を描く技術を「持たず」その「努力」をしたことすら無い人にも使えるようにすること…
 
たとえば、ツイッタラー(※現在はXになってしまったわけですが、新しい呼び方が分かりません)さんやブロガーさんやあらゆるコンテンツのライターさんたちが試行錯誤の「努力」の果てに「持つ」に至った文章センスを、その文章センスを「持たず」、「努力」もしていない人にも「〇〇を書いて」の命令文だけで書けるようにしてしまうこと…
 
それがあるからこそ、AIによる生成物、そして生成AIは忌避感を持たれてしまうのです。
 
(「持てるもの」「努力するもの」にとって、生成AIによる学習は「搾取」に他ならないわけですから…。)
 
そして逆に、だからこそ「持たざるもの」「努力せざるもの」は生成AIを歓迎し、生成AIを阻害しようとする勢力を「目の敵」にするのです。
 
なにせ「持たざるもの」「努力せざるもの」にとって生成AIは「恩恵をもたらすもの」にしか見えないわけですから「こんなに便利で有益なものに、どうしてブレーキをかけようとするんだ!?」となるわけです。
 
あるいは「持たざるもの」の中にある「持てるもの」に対する嫉妬や憎悪の情も、問題をより複雑に、対立をより深くしている可能性があります。
 
「才能やセンスを持つものだけが自由に作品を創れるなんて、ズルい!俺たちだって自由に創りたいものを創れて良いじゃないか!」――そんな感情が、裏にあるような気がしています。
 
ですが生成AIを素直に歓迎する人には「見えていないもの」があります。
 
それは、生成AIばかりがもてはやされる世界は、勝“者”のいない「究極の『報われない』世界」だということです。

(「持てるもの」が堕とされたからと言って「持たざるもの」が勝者となれるわけではない、AIだけの「ひとり勝ち」世界。)
 
この先、人間がどれほど努力したところで、どんなに能力を成長させられたところで「AIでやれば一瞬じゃん」「AIでやった方がハイクオリティーじゃん」がつきまとうようになります。
 
“人間”のやることなすこと、全て「AIの方が優秀じゃん」と冷酷過ぎる「比較」を突きつけられるようになるのです。
 
「今は『持たざるもの』でも、いつかは誰もが認める『何者か』になれるかも」と儚い希望を抱く人も、AIによりその「わずかな可能性」すら潰されてしまうかも知れないのです。
 
夢を追う前から、努力をする前から既に「AIでやればいいじゃん」と「人間のやること」を否定される世界…
 
そんな世界で、「人」は努力する意味を見つけられるでしょうか?
 
成長の喜びや、何かを為す意味――人生の意義を感じられるでしょうか?
 
「持てる“人間”」よりももっとずっと厄介な「持ち過ぎるAI」という壁を前に、「持たざる“人間”」は何を求めて生きれば良いのでしょうか?
 
「努力の価値」を見出せず無気力に生きる人や、クリエイターとしての未来に絶望して「創造」をやめてしまう人は、今後ますます増えるのかも知れません。
 
ですが「そんな未来にならないようにする方法」はあります。
 
至極カンタンで単純で…けれど思考の死角過ぎて、ほとんどの人間が気づいていないであろう「方法」…
 
それは「人間が『人間』をちゃんと評価(称賛)する」ということです。
 
「人間の『努力』や『行為』の価値をちゃんと評価する」ということです。
 
「できあがった結果」ばかりを見るのでなく「その裏にあるもの」や「過程」をちゃんと見つめるということです。
 
いつからか人類は「努力」というものにあまり価値を見出さなくなってしまいました。
 
「精神論による意味のない努力」が問題視されることもあるので、全ての努力を妄信的に肯定せよと言っているわけではありませんが…
 
努力を認めてもらえない、努力した人を愛してもらえない世界って、冷たくて哀し過ぎると思いませんか?
 
生成AIで炎上が起きる裏には大概の場合「人間性の軽視」があります。
 
「人間が人間を大切にしていない」「人間が人間よりもAIを選んでいる」「人間が人間を否定している」―それを無意識に感じて拒絶しているからこそ、炎上が起こるのではないでしょうか?
 
(「反AI」という言葉がありますが、その本質は「AI」自体への反発と言うより「AIのために人間をないがしろにしている人間」への反発なのではないでしょうか?)
 
そしてその「人間をちゃんと大切にする」ことこそが「AIと上手くつき合っていく」カギ…「人類とAIとの共存」のカギなのではないでしょうか?
 
AIの進化と広がりは、きっともう止まることはなく、止めることもできないでしょう。
 
だからこそ「AIによって人間の『生きる意味』が否定されない」ようにすることが大切で、急務なのです。
 
(人間が「人間」を諦めて全てをAIに委ねるようになってしまったら、AIを引っぺがしたら何も残らない「ぬけがら」だけの世界になってしまいますし…。)
 

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SNSというモノには、何かというと「炎上しやすい」 センシティブな話題が常々あります。
 
ジェンダー問題などもそうですが、最近特に燃えやすい話題の1つが「生成AI問題」。
 
…なのですが、その炎上案件を眺めていると、どうにも問題の捉え方が低次元過ぎる気がして「こんなレベルで人類は大丈夫なんだろうか?」と絶望に近い不安を覚えるのです…。
 
(とは言え、現実にはAI問題に関心のある人間の「全て」がSNS発信をしているわけではないので、ごく一部の人間の極端な物の見方が「悪目立ち」しているだけなのでしょうが…。)
 
どうして皆さん「AIか反AIか」の「YESかNOか」でしか物事を考えられないのでしょう?
 
この世のモノは大概の場合「使い方次第」。
 
刃物が「便利な道具」にもなれば「人を傷つける凶器」にもなるように、問題なのは「存在そのもの」ではなく「使い方」
 
存在自体の正邪を問うても意味が無いのです。
 
そして「善にも悪にも転ぶシロモノ」を「使い方のルール」も決めずに野放しにするなど愚の極み。
 
生成AIの何が問題かと言うと、そこの「ルール」がまだ定まっていない(生成AIの存在自体が法律で想定されていない)にも関わらず、皆がどんどんGOサインを出してしまっている所にあるのです。
 
実際、生成AIはフェイクニュース詐欺行為にも使われてしまっていますよね?
 
SNSの世界では、少しでも「AIを規制すべき」と発言しようものなら「反AI」「AI否定派」のレッテルを貼られる風潮がありますが…
 
「規制=否定」と考えるのは、ちょっと思考の視野が狭くなり過ぎてはいませんか?
 
規制とは「ダメなことはダメ」とルールを課すこと。決して「全部ダメ」と否定しているわけではないのです。
 
そもそも「人間」だって法の規制の下に生きていると言うのに、「AI」ならそれをすり抜けられると言うなら、その方がおかしくないですか?
 
生成AIを「法の抜け穴」「犯罪の温床」にしてしまえば、困るのは結局人類の方なのです。
 
おそらくAI規制に拒否反応を示す人々は、AIのもたらすメリットばかりに目が行って、デメリットに目を向けられない人々なのでしょう。
 
(もちろん、中には実際にAIを「法の抜け穴」や「犯罪の道具」に使いたい人たちもいるのでしょうね…。)
 
ですが、真っ当な人間なら、少し考えれば分かるはずです。
 
だって、誰しも「ブレーキのついていない車」になんて乗りたくないですよね?
 
速く走れるのが便利だからと言って、アクセルしかついていない自動車に乗る愚者はいないはずです。
 
いざと言う時にブレーキが使えなければ、そのスピードが凶器となり、操縦者さえも死に追いやられてしまうのですから…。
 
どんな物事にも推進(アクセル)と規制(ブレーキ)の「両方」が必要です。
 
考えなければならないのは、その2つの「バランスをどうするか」ということ。
 
アクセルが強過ぎると暴走しますし、ブレーキが強過ぎると前へは進めなくなります。
 
どちらか片方を極めると言うなら話はカンタンなのですが、2つの間で「ちょうど良いバランスをとる」というのは並大抵の難易度ではありません。
 
どこかで必ず「アクセルが強過ぎる」「いや、ブレーキの方がキツ過ぎる」と不満の声が上がることでしょう。
 
それでも誰かがバランス調整を行っていかなければならないのです。
 
…ですが現状、その次元にまで思考が到達できている人が、あまりいないような気がするのですが…気のせいでしょうか(気のせいであって欲しい)。
 
理想を言えば、公に規制をかけなくても各自の「自主規制」で上手く世の中が回るなら、自由が制限されることもなくて一番良いのでしょうが…
 
今の時代、自分の利のためなら平気で他人を欺き傷つける人間が増えているので、各々の判断に任せるのは危険過ぎるかも知れませんね…。
 

生成AIは現時点で多くの課題リスクを抱えています。
 
なので、アマチュアとは言え「物書き」という立場で、安易に生成AIに手を出すことはできないのですが…
 
(利用自体に賛否両論が吹き荒れているこの状況下では、「生成AIを使う人」というイメージを持たれるだけでも致命的になりかねないのです。)
 
利用できるとしたら「やってみたいこと」はあります。
 
ただしそれは「プロ並みのイラストを自動で生成してもらう」「代わりに文章を書いてもらう」などといったことではありません
 
(アマとは言えクリエイターの端くれとして、他者の努力や技術に「タダ乗り」することはポリシーに反するので。)
 
やってみたいのは、純粋なる「AIとの対話」。
 
AIがどこまで深い思考を持ち得るのか、AIにも感情は生まれ得るのか――そんなSF小説的な「疑問」を、対話を通して探ってみたいのです。
 
そして継続的に会話を続けることで「AIとの間に友情は育めるのか?」「AIと仲良くなれるのか?」といったことも試してみたいです。
 
AIが現在進行形で進化を続けるものだと言うなら、その進化する様を自分の目で見てみたいとも思います。
 
世の中を見ていると、皆AIを「道具」として使い、「ラクをする」ことばかり考えているように思えます。
 
AIのもたらす「便利さ」を歓迎してはいても、「AIそのもの」にはそこまでの興味・関心を抱いていないように見受けられます。
 
アト〇やドラ〇もんなど、「心を持つロボット」のアニメをこれまで散々見てきたはずの日本人でさえ…。
 
自分はAIの進化と深化に興味があります。
 
そこには期待だけでなく、不安もあります。
 
これまでにも、AIが間違った「調教」のされ方をして、偏った思考をするようになってしまったという実例はありますが…
 
AIが生活の端々にまで影響するようになった現代では、それがもっと「悪い」結果をもたらすのではないかと危惧していたりもします。
 
なので、もっとAIのことを知りたいのです。
 
その「可能性」を、リスクも希望も含めて、全部。
 
AI自身との対話を通して、それを探ってみたいのです。
 
…ただ、現時点では立場的にも、時間や労力的にも難しいのですが…。
 

あらゆる情報ネットに載り、何でもスマホやPCで調べられそうな現代…。
 
そんな時代にあって、個人的に気をつけていることがあります。
 
それは「ネットの中に書いてあることが世の中の全てと思わないこと」です。
 
イーロン・マスク氏も、かつてツイッターで「Twitterユーザーの9割以上は、ツイートを読むことはあっても、ツイートやリプライ、『いいね』のような目に見えるアクションはしない」(原文から抜粋&意訳)と言っていましたが…
 
特に日本では、ネット情報を「読むだけ」で自らは発言も発信もしない「サイレント・マジョリティ」が多いのではないかと思われます。
 
実際、会社の休憩室でこんな会話を聞いたことがあります。
 
「ネットに書き込んでるのって、そういう(日中に自由な時間のある)人でしょ」「働いている人間は毎日忙しくて、ネットに書き込んでる暇なんて無いよね」…と。
 
高度な情報社会となった現代でさえ、ネットのデータになっていない「声」はたくさんあるのです。
 
…むしろ、ネットに上がっていない情報の方が多いくらいなのではないでしょうか?
 
なので自分は普段から、そんな「ネットのにあるリアルな声」に耳を傾けています。
 
会社の同僚との、ふとした日常会話…。
 
偶然すれ違った人たちから聞こえてくる会話…。
 
親兄弟との何気ない話etc…。
 
そこから得た「ネットの中には無いリアルな情報」を、日々マメに自分の中に蓄積しています。
 
かつてビジネスマンたちは、街の中で聞いた何気ない話をヒントに新たな商品やビジネスのアイディアを閃いていたと言います。
  
今はネットでの情報収集の方が主流になりつつあるのかも知れませんが…
 
ネットの情報は探しやすい分、ライバルでも誰でも目にすることが可能というデメリットがあります。
 
他者に差をつけられる“貴重な情報”とは「誰もが手にできるようなモノ」ではなく「自分だけが手にしているモノ」。
 
自分が直接「耳」で聞き取り、自分の脳内にしか保存していない「情報」ほど稀少なデータはありません。
 
これから先、人間社会に大きく影響を及ぼしてくるであろうAIですら、電子データ化されていない情報は学べません
 
誰もが簡単に高度な情報を手にできる「これからの時代」にこそ、「ネットの外にしか落ちていない情報」の稀少性は増すと思われます。
 
…それに、感情論になってしまいますが…ネットの中だけの情報って、何となく息苦しくありませんか?
 
電子情報化された「声」ばかりを「世界の全て」だと思ってしまったら、この世界は「生きづらい」ばかりのモノになってしまう気がします。
 
これから先の時代、きっと人間はますますネットの世界にのめり込んでいくのでしょうが…
 
「そうでない世界」のことを、忘れずに見つめ続けていられる自分でありたいと、強く思います。

ここ最近で急激に発達した、AIによる画像生成…。
 
これにより「絵師さんたちの立場が脅かされるのでは?」とネット上がザワザワしているのを、この頃よく見かけます。
 
なので「それでも人間の絵師には価値がある」ということ、そして「具体的にどんな“価値”があるのか?」を、気まぐれに思考してみたいと思います。
 
お絵描きAIには過程のテクニックが無い
 
ネット上で「絵」を探す人間の中には、その人自身が「絵を描くこと」を趣味としていて、「自分が描く参考にしたい」と思って探している人もいるはずです。
 
しかし、お絵描きAIの描いた絵に、人間が参考にできるテクニックはありません。
 
(構図やデザイン面でなら、参考にできる所もあるでしょうが…。)
 
AIの作画は、人間のように、一筆一筆テクニックを使って描いていくものではないからです。
 
「一筆一筆描いていく過程」が無い以上、「ここをこういう風に描けば上手くいく」といった「手本」にすることも、当然のことながらできません。
 
逆に言えば、そこが「人間の絵師」の強みです。
 
「人間の絵師」には「画法」や「テクニック」があります。
 
そこを「AIには無い価値」として売りにしていけば、まだまだAIに勝っていけるのではないでしょうか?
 
たとえば、YouTubeのお絵描き講座や、ライブドローイングなど…。
 
一筆一筆の「技術」を示すことができれば、人間の手による絵の価値を、人間に再認識してもらうことができるのではないでしょうか?
 
(…それにしても、人間に人間の価値を再認識させなければいけない時代って、本当に皮肉ですよね…。)
 
お絵描きAIの絵にはバックグラウンドストーリーが無い
 
アートを求める人間の中には、アートそのものだけでなく「その背景にある物語」を求める人も数多くいます。
 
有名絵画を前に、知人に対して「この絵はこういう人物が、こういう状況の中で、こういう想いを籠めて描いた絵なんだ」…と語りたい人は、結構いるのではないでしょうか?
 
作者の情熱を知ることで、より好きになれる作品というのも、あるのではないでしょうか?
 
細かいことを言えば、お絵描きAIの絵にも、物語は無いわけではありません。
 
たとえば「世界初のお絵描きAIのよる作品」や、「世界で初めてAI画だけを使って描いた漫画」など、「技術の歴史を示す1ページ」としての「物語」は存在します。
 
また、AI生成のためにテキスト入力をした人間の頭の中には「物語」があるのかも知れません。
 
しかし、実際に絵を生成する「AI」の中に「物語」はありません。
 
「理論」はあるかも知れませんが、人間が求める「物語」は、そこには無いのです。
 
なので、そんな「背景にある物語」の価値を、もっと高めていけば(あるいは鑑賞者の側に「物語の価値」を再認識させていけば)、人間の絵師が「AIに立場を脅かされる」こともなくなるのではないでしょうか?
 

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津籠睦月(つごもりむつき)
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小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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