そんな時代にあって、個人的に気をつけていることがあります。
それは「ネットの中に書いてあることが世の中の全てと思わないこと」です。
イーロン・マスク氏も、かつてツイッターで「Twitterユーザーの9割以上は、ツイートを読むことはあっても、ツイートやリプライ、『いいね』のような目に見えるアクションはしない」(原文から抜粋&意訳)と言っていましたが…
Twitter is rolling out View Count, so you can see how many times a tweet has been seen! This is normal for video.
Shows how much more alive Twitter is than it may seem, as over 90% of Twitter users read, but don’t tweet, reply or like, as those are public actions.
— Elon Musk (@elonmusk) December 22, 2022
特に日本では、ネット情報を「読むだけ」で自らは発言も発信もしない「サイレント・マジョリティ」が多いのではないかと思われます。
実際、会社の休憩室でこんな会話を聞いたことがあります。
「ネットに書き込んでるのって、そういう(日中に自由な時間のある)人でしょ」「働いている人間は毎日忙しくて、ネットに書き込んでる暇なんて無いよね」…と。
高度な情報社会となった現代でさえ、ネットのデータになっていない「声」はたくさんあるのです。
…むしろ、ネットに上がっていない情報の方が多いくらいなのではないでしょうか?
なので自分は普段から、そんな「ネットの外にあるリアルな声」に耳を傾けています。
会社の同僚との、ふとした日常会話…。
偶然すれ違った人たちから聞こえてくる会話…。
親兄弟との何気ない話etc…。
そこから得た「ネットの中には無いリアルな情報」を、日々マメに自分の中に蓄積しています。
かつてビジネスマンたちは、街の中で聞いた何気ない話をヒントに新たな商品やビジネスのアイディアを閃いていたと言います。
今はネットでの情報収集の方が主流になりつつあるのかも知れませんが…
ネットの情報は探しやすい分、ライバルでも誰でも目にすることが可能というデメリットがあります。
他者に差をつけられる“貴重な情報”とは「誰もが手にできるようなモノ」ではなく「自分だけが手にしているモノ」。
自分が直接「耳」で聞き取り、自分の脳内にしか保存していない「情報」ほど稀少なデータはありません。
これから先、人間社会に大きく影響を及ぼしてくるであろうAIですら、電子データ化されていない情報は学べません。
誰もが簡単に高度な情報を手にできる「これからの時代」にこそ、「ネットの外にしか落ちていない情報」の稀少性は増すと思われます。
…それに、感情論になってしまいますが…ネットの中だけの情報って、何となく息苦しくありませんか?
電子情報化された「声」ばかりを「世界の全て」だと思ってしまったら、この世界は「生きづらい」ばかりのモノになってしまう気がします。
これから先の時代、きっと人間はますますネットの世界にのめり込んでいくのでしょうが…
「そうでない世界」のことを、忘れずに見つめ続けていられる自分でありたいと、強く思います。
これにより「絵師さんたちの立場が脅かされるのでは?」とネット上がザワザワしているのを、この頃よく見かけます。
なので「それでも人間の絵師には価値がある」ということ、そして「具体的にどんな“価値”があるのか?」を、気まぐれに思考してみたいと思います。
- お絵描きAIには過程のテクニックが無い
-
ネット上で「絵」を探す人間の中には、その人自身が「絵を描くこと」を趣味としていて、「自分が描く参考にしたい」と思って探している人もいるはずです。
しかし、お絵描きAIの描いた絵に、人間が参考にできるテクニックはありません。
(構図やデザイン面でなら、参考にできる所もあるでしょうが…。)
AIの作画は、人間のように、一筆一筆テクニックを使って描いていくものではないからです。
「一筆一筆描いていく過程」が無い以上、「ここをこういう風に描けば上手くいく」といった「手本」にすることも、当然のことながらできません。
逆に言えば、そこが「人間の絵師」の強みです。
「人間の絵師」には「画法」や「テクニック」があります。
そこを「AIには無い価値」として売りにしていけば、まだまだAIに勝っていけるのではないでしょうか?
たとえば、YouTubeのお絵描き講座や、ライブドローイングなど…。
一筆一筆の「技術」を示すことができれば、人間の手による絵の価値を、人間に再認識してもらうことができるのではないでしょうか?
(…それにしても、人間に人間の価値を再認識させなければいけない時代って、本当に皮肉ですよね…。)
- お絵描きAIの絵にはバックグラウンドストーリーが無い
-
アートを求める人間の中には、アートそのものだけでなく「その背景にある物語」を求める人も数多くいます。
有名絵画を前に、知人に対して「この絵はこういう人物が、こういう状況の中で、こういう想いを籠めて描いた絵なんだ」…と語りたい人は、結構いるのではないでしょうか?
作者の情熱を知ることで、より好きになれる作品というのも、あるのではないでしょうか?
細かいことを言えば、お絵描きAIの絵にも、物語は無いわけではありません。
たとえば「世界初のお絵描きAIのよる作品」や、「世界で初めてAI画だけを使って描いた漫画」など、「技術の歴史を示す1ページ」としての「物語」は存在します。
また、AI生成のためにテキスト入力をした人間の頭の中には「物語」があるのかも知れません。
しかし、実際に絵を生成する「AI」の中に「物語」はありません。
「理論」はあるかも知れませんが、人間が求める「物語」は、そこには無いのです。
なので、そんな「背景にある物語」の価値を、もっと高めていけば(あるいは鑑賞者の側に「物語の価値」を再認識させていけば)、人間の絵師が「AIに立場を脅かされる」こともなくなるのではないでしょうか?
他人に思いをやる――他者に思いを馳せることを「思いやり」と呼ぶなら、それは実は、最強の未来予測(シミュレーション)スキルなのではないか…と思うことがあります。
なぜなら「自分とは違う他人」の心や行動を「想像」することで、見えてくるものがあるからです。
「思いやり」と聞くと、皆さんたぶん「道徳」だとか「倫理」を想像されると思います。
「徳を積む」のには役立っても、自分の人生のメリットにはならないと思っている人も多いのではないでしょうか?
ですが、この「思いやり」…「道徳」や「倫理」といった面を省き、単純に「スキル(能力)」として見るなら、実は人生を左右するレベルで役に立つ、かなりの強スキルなのです。
たとえば「ビジネスマンが新商品を開発する場合」を例に挙げてみます。
「自分」とは全く違う年齢・性別・職業の人間がターゲットの商品を、「自分の好み」に合わせて作ったとして…果たして売れるでしょうか?
ターゲットのことをリサーチして、「この客層では、今コレが流行っているから、こういうモノが好まれるのではないか?」と想像してみた方が、良い品が作れるとは思いませんか?
それはビジネス以外での、「人生における様々な場面」でも言えることです。
人生で大切な選択をする時、何らかの行動を「選ぶ」時…知らず知らずのうちに、他人の行動を勝手に予測してはいないでしょうか?
「自分なら、こういう時にこう動くから、相手もこう動くはずだ」と、決めてつけてはいないでしょうか?
そうして「甘い予測」の上で行動を選択した挙句、「どうして思い通りにならないんだ」と嘆いたりはしていないでしょうか?
そもそも他人は、「自分」の思った通りに動くような生き物ではありません。
「他人」には、「自分」とは違う心、違うスペック、違う思考パターンがあるからです。
たとえば「鳥なんだから、空を飛んで逃げられるだろう」と「ペンギン」や「ニワトリ」に対して思うのは、ただの物知らずですよね?
一見「同じ」に見えたとしても、生物は皆「違う」のです。皆が皆「同じ」には「動かない」ですし、「動けない」のです。
そんな「違う」生き物が、「自分」と「同じ」に動くとしたら、その方がむしろ「幸運」であり「奇跡」です。
世の中が「思い通りにならない」と感じるなら、まず「前提」が間違っていないかどうか、考えてみるべきなのです。
「自分ならぬ他人」がどう動くのか――「想像」するためには、他者を「知る」必要があります。
それは、ただ単に相手の趣味や性質を知ることだけではなく…自分と比べて「違い」を知ることです。
比べて「優劣」をつけるのではなく、単純に「性質の違い」として受け止めることです。
スズメにはスズメの良いところが、ニワトリにはニワトリの良いところがあるのですから、優劣をつけても意味がありません。
(そもそも優劣をつけて優越感に浸りたがる人間は、大概「他人より優れたところ」ばかりに目を向けて「他人の方が自分より優れているところ」を無視しがちなので、その時点で世界を読み誤ってオオヤケドです。)
人間の性質は千差万別――人の数だけありますので、1人2人を知ったくらいでは、シミュレーションが成り立ちません。
「Aさんなら、こう考える。Bさんだったら、ああ考える。Cさんなら…」
そんな風に、できる限り多くの思考サンプルを集めることで、世の中の「動き」が見えるようになります。
「この問題がこんな風に動いたのは、この界隈には○○さんみたいな性格の人間が多かったからだろう」
そんな風に、物事の「原因」や「理由」が見えてきます。
「○○さんみたいな性格の人が多いなら、こういう方法でアプローチすれば効くはずだ」
そんな「解決策」も見えてきます。
「他者の心を想像して、動きを予測して、先回りしてアプローチを考える」…一見、とても「ドライ」な考えに見えますが…
「自分とは違う他人の心」を、「自分と同じ考え」を押しつけずに「尊重」することは、それだけで、ある程度の「思いやり」になっているとは思いませんか?
…ただし、他人の心を思いやることで、逆に迷いが生まれることもあります。
なぜなら、物事には人の数だけ「答え」があり、万人に通じる「正解」など無いと、思い知ってしまうからです。
「Aさんにとってはコレが正解だけと、Bさんの場合には不正解なんだよな…。どうしよう…」ということになるのです。
しかし、それでも「思いやり」を身につけることにはメリットがあります。
他者に対する想像力が働くようになると、人生や世界に対する不満が減るからです。
何かが上手くいかないとしても、それを「時代や世界のせい」にすることもなく、「今回はAさんのパターンじゃなくて、Bさんのパターンで考えるべきだったかな…。ちょっと読み誤っちゃったな。次は上手くやろう」と前向きに考えられます。
世の中が「自分の思い通りにいかない」と嘆き続けるより、「世の中なんて、最初から思う通りにいかない」と割り切って「なら、どうするか」を考えた方が、人生を効率的に生きらるはずです。
「思いやり」はべつに「他人のために」するものでも何でもないのです。
「情けは他人のためならず(回り回って自分に返って来るもの)」ということわざと同じで、自分が幸せに生きるためにあるものなのだと、自分は思っています。
それは「数字でしか物事を判断できない(しない)人間が多過ぎないだろうか?」という疑問です。
会社の成績にしてもそうです。
何かと「数字」を出して、そのデータを比較しようとしてきますが…
その人の「会社への貢献度」とは、本当にそれだけなのでしょうか?
成績上位の人間の中には「とにかく数をこなせれば良い」という感じで「適当な仕事」をして、そのミスを他人に押しつけてくる人もいます。
後チェックをしなければならない人間は、そんなミスの修正に手間取って、自らは成績を上げている余裕もありません。
また、下手をするとそんなミスに対する「クレーム」が、たまたま電話を取った別の人間の時間を奪うこともあります。
たとえ1人の成績が良くても、それがチーム全体の効率を落としている場合もあるのです。
しかし、個人個人の数値を出してはいても、チーム全体での数値を出していないなら、そんな効率低下による「損失」が数値として表れることはありません。
(あるいはチーム全体で見たとしても、プラマイゼロで「見えにくい」場合もあるかも知れませんが…。)
「数字は嘘をつかない」と言いますが、それは「適切な数字を切り取れた場合」に限ります。
数値というものは、どの部分を切り取るか(どんなデータを出すか)により、全く意味を変えてしまうものなのです。
そしてザッと世の中を見渡す限り、現代人はそれを上手に切り取ることが「できていない」気がします。
そもそも、今の世の中には「間違った切り取り方をしている」「見る人に誤解を与えかねない」ことを「承知の上」で出されている数値もあります。
様々な広告に溢れる「1位」「No.1」という数字…。
それがどんな人によってどんな条件で出された「1位」なのか、ちゃんと見ている人は、どれくらいいるのでしょうか?
また「よくよく見れば『売れた数ではない』ことが分かる」…けれどパッと見には「何だかすごそう」に見える「発行部数〇〇万部突破」「出荷台数〇〇万台突破」という数字…。
(分からなかった方→「売上部数」や「販売台数」ではなく「発行部数」「出荷台数」ですからね。よく見ないとアブないですよ。)
出版社やメーカーでは「作った数」「出荷した数」はすぐに把握できても、その先の販売店で「売れた数」は把握しづらいから…という事情もあるようですが、「作った」「出荷した」と「売れた」では意味が全く違いますよね?
(作って出荷しても、それが全て売り切れるとは限らないでしょうし…。)
それと、最近何かと気にされがちな、レビューの星の数やポイント数…。
前に出した「1位」「No.1」でも言えることですが…あの手の数字は、だいたいが主観的で相対的なもので、客観的で絶対的なものではありません。
たとえば家電が「使えるかどうか」は、ユーザーの使用条件次第。
たとえば評価が低くても、それが「自分の家の間取りに合わなかった」という個人的な理由の場合には全くアテになりませんし…
逆に評価が高くても、その使用条件が自分と全く異なっていた場合には、やはりアテになりません。
レビューは星の数よりもコメントの内容の方(そしてそれが「自分」に当てはまるかどうか)が重要なのです。
また、たとえばエンタメ・コンテンツが「おもしろいかどうか」は、そのユーザーの趣味嗜好次第。
どんなにPVや再生回数が高かろうと、自分の好みに合わないものは結局のところ「おもしろくない」ですし…
逆に数字が少なくても、それは単に「まだ他の人に見出されていない」だけで、見てみれば「ものすごく面白い」可能性だってあるわけです。
そもそも、世の中に溢れる数値の全部が全部「正しい」ものではありません。中には当然、不正なものもあるでしょう。
(ときどき、ニュースでもその手の話題が出ますよね。最近では「No.1」広告の不正のニュースを目にしたばかりですし…。)
それが真っ当な数字なのか、それとも誤魔化され偽られた数字なのか…見極めるのは、容易なことではありません。
世の中、数値に振り回されて、真実を読み誤って、いろいろな意味で「損をしている」人(や団体・企業)が多い気がしてなりません。
特に、他人によって意図的に「作られた」数字に操られているような人たちは…。
(…まぁ、ニュースに出てくるレベルの「組織ぐるみの数値偽装」の場合には、騙されずにいることの方が難しいのかも知れませんが…。)
- 【HN(ハンドル・ネーム)】
- 津籠睦月(つごもりむつき)
- 【職業】
- 社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
- 【趣味】
- 小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
- 【好きな小説ジャンル】
- ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
- 【備考】
- 漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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