他人に思いをやる――他者に思いを馳せることを「思いやり」と呼ぶなら、それは実は、最強の未来予測(シミュレーション)スキルなのではないか…と思うことがあります。
なぜなら「自分とは違う他人」の心や行動を「想像」することで、見えてくるものがあるからです。
「思いやり」と聞くと、皆さんたぶん「道徳」だとか「倫理」を想像されると思います。
「徳を積む」のには役立っても、自分の人生のメリットにはならないと思っている人も多いのではないでしょうか?
ですが、この「思いやり」…「道徳」や「倫理」といった面を省き、単純に「スキル(能力)」として見るなら、実は人生を左右するレベルで役に立つ、かなりの強スキルなのです。
たとえば「ビジネスマンが新商品を開発する場合」を例に挙げてみます。
「自分」とは全く違う年齢・性別・職業の人間がターゲットの商品を、「自分の好み」に合わせて作ったとして…果たして売れるでしょうか?
ターゲットのことをリサーチして、「この客層では、今コレが流行っているから、こういうモノが好まれるのではないか?」と想像してみた方が、良い品が作れるとは思いませんか?
それはビジネス以外での、「人生における様々な場面」でも言えることです。
人生で大切な選択をする時、何らかの行動を「選ぶ」時…知らず知らずのうちに、他人の行動を勝手に予測してはいないでしょうか?
「自分なら、こういう時にこう動くから、相手もこう動くはずだ」と、決めてつけてはいないでしょうか?
そうして「甘い予測」の上で行動を選択した挙句、「どうして思い通りにならないんだ」と嘆いたりはしていないでしょうか?
そもそも他人は、「自分」の思った通りに動くような生き物ではありません。
「他人」には、「自分」とは違う心、違うスペック、違う思考パターンがあるからです。
たとえば「鳥なんだから、空を飛んで逃げられるだろう」と「ペンギン」や「ニワトリ」に対して思うのは、ただの物知らずですよね?
一見「同じ」に見えたとしても、生物は皆「違う」のです。皆が皆「同じ」には「動かない」ですし、「動けない」のです。
そんな「違う」生き物が、「自分」と「同じ」に動くとしたら、その方がむしろ「幸運」であり「奇跡」です。
世の中が「思い通りにならない」と感じるなら、まず「前提」が間違っていないかどうか、考えてみるべきなのです。
「自分ならぬ他人」がどう動くのか――「想像」するためには、他者を「知る」必要があります。
それは、ただ単に相手の趣味や性質を知ることだけではなく…自分と比べて「違い」を知ることです。
比べて「優劣」をつけるのではなく、単純に「性質の違い」として受け止めることです。
スズメにはスズメの良いところが、ニワトリにはニワトリの良いところがあるのですから、優劣をつけても意味がありません。
(そもそも優劣をつけて優越感に浸りたがる人間は、大概「他人より優れたところ」ばかりに目を向けて「他人の方が自分より優れているところ」を無視しがちなので、その時点で世界を読み誤ってオオヤケドです。)
人間の性質は千差万別――人の数だけありますので、1人2人を知ったくらいでは、シミュレーションが成り立ちません。
「Aさんなら、こう考える。Bさんだったら、ああ考える。Cさんなら…」
そんな風に、できる限り多くの思考サンプルを集めることで、世の中の「動き」が見えるようになります。
「この問題がこんな風に動いたのは、この界隈には○○さんみたいな性格の人間が多かったからだろう」
そんな風に、物事の「原因」や「理由」が見えてきます。
「○○さんみたいな性格の人が多いなら、こういう方法でアプローチすれば効くはずだ」
そんな「解決策」も見えてきます。
「他者の心を想像して、動きを予測して、先回りしてアプローチを考える」…一見、とても「ドライ」な考えに見えますが…
「自分とは違う他人の心」を、「自分と同じ考え」を押しつけずに「尊重」することは、それだけで、ある程度の「思いやり」になっているとは思いませんか?
…ただし、他人の心を思いやることで、逆に迷いが生まれることもあります。
なぜなら、物事には人の数だけ「答え」があり、万人に通じる「正解」など無いと、思い知ってしまうからです。
「Aさんにとってはコレが正解だけと、Bさんの場合には不正解なんだよな…。どうしよう…」ということになるのです。
しかし、それでも「思いやり」を身につけることにはメリットがあります。
他者に対する想像力が働くようになると、人生や世界に対する不満が減るからです。
何かが上手くいかないとしても、それを「時代や世界のせい」にすることもなく、「今回はAさんのパターンじゃなくて、Bさんのパターンで考えるべきだったかな…。ちょっと読み誤っちゃったな。次は上手くやろう」と前向きに考えられます。
世の中が「自分の思い通りにいかない」と嘆き続けるより、「世の中なんて、最初から思う通りにいかない」と割り切って「なら、どうするか」を考えた方が、人生を効率的に生きらるはずです。
「思いやり」はべつに「他人のために」するものでも何でもないのです。
「情けは他人のためならず(回り回って自分に返って来るもの)」ということわざと同じで、自分が幸せに生きるためにあるものなのだと、自分は思っています。
それは「数字でしか物事を判断できない(しない)人間が多過ぎないだろうか?」という疑問です。
会社の成績にしてもそうです。
何かと「数字」を出して、そのデータを比較しようとしてきますが…
その人の「会社への貢献度」とは、本当にそれだけなのでしょうか?
成績上位の人間の中には「とにかく数をこなせれば良い」という感じで「適当な仕事」をして、そのミスを他人に押しつけてくる人もいます。
後チェックをしなければならない人間は、そんなミスの修正に手間取って、自らは成績を上げている余裕もありません。
また、下手をするとそんなミスに対する「クレーム」が、たまたま電話を取った別の人間の時間を奪うこともあります。
たとえ1人の成績が良くても、それがチーム全体の効率を落としている場合もあるのです。
しかし、個人個人の数値を出してはいても、チーム全体での数値を出していないなら、そんな効率低下による「損失」が数値として表れることはありません。
(あるいはチーム全体で見たとしても、プラマイゼロで「見えにくい」場合もあるかも知れませんが…。)
「数字は嘘をつかない」と言いますが、それは「適切な数字を切り取れた場合」に限ります。
数値というものは、どの部分を切り取るか(どんなデータを出すか)により、全く意味を変えてしまうものなのです。
そしてザッと世の中を見渡す限り、現代人はそれを上手に切り取ることが「できていない」気がします。
そもそも、今の世の中には「間違った切り取り方をしている」「見る人に誤解を与えかねない」ことを「承知の上」で出されている数値もあります。
様々な広告に溢れる「1位」「No.1」という数字…。
それがどんな人によってどんな条件で出された「1位」なのか、ちゃんと見ている人は、どれくらいいるのでしょうか?
また「よくよく見れば『売れた数ではない』ことが分かる」…けれどパッと見には「何だかすごそう」に見える「発行部数〇〇万部突破」「出荷台数〇〇万台突破」という数字…。
(分からなかった方→「売上部数」や「販売台数」ではなく「発行部数」「出荷台数」ですからね。よく見ないとアブないですよ。)
出版社やメーカーでは「作った数」「出荷した数」はすぐに把握できても、その先の販売店で「売れた数」は把握しづらいから…という事情もあるようですが、「作った」「出荷した」と「売れた」では意味が全く違いますよね?
(作って出荷しても、それが全て売り切れるとは限らないでしょうし…。)
それと、最近何かと気にされがちな、レビューの星の数やポイント数…。
前に出した「1位」「No.1」でも言えることですが…あの手の数字は、だいたいが主観的で相対的なもので、客観的で絶対的なものではありません。
たとえば家電が「使えるかどうか」は、ユーザーの使用条件次第。
たとえば評価が低くても、それが「自分の家の間取りに合わなかった」という個人的な理由の場合には全くアテになりませんし…
逆に評価が高くても、その使用条件が自分と全く異なっていた場合には、やはりアテになりません。
レビューは星の数よりもコメントの内容の方(そしてそれが「自分」に当てはまるかどうか)が重要なのです。
また、たとえばエンタメ・コンテンツが「おもしろいかどうか」は、そのユーザーの趣味嗜好次第。
どんなにPVや再生回数が高かろうと、自分の好みに合わないものは結局のところ「おもしろくない」ですし…
逆に数字が少なくても、それは単に「まだ他の人に見出されていない」だけで、見てみれば「ものすごく面白い」可能性だってあるわけです。
そもそも、世の中に溢れる数値の全部が全部「正しい」ものではありません。中には当然、不正なものもあるでしょう。
(ときどき、ニュースでもその手の話題が出ますよね。最近では「No.1」広告の不正のニュースを目にしたばかりですし…。)
それが真っ当な数字なのか、それとも誤魔化され偽られた数字なのか…見極めるのは、容易なことではありません。
世の中、数値に振り回されて、真実を読み誤って、いろいろな意味で「損をしている」人(や団体・企業)が多い気がしてなりません。
特に、他人によって意図的に「作られた」数字に操られているような人たちは…。
(…まぁ、ニュースに出てくるレベルの「組織ぐるみの数値偽装」の場合には、騙されずにいることの方が難しいのかも知れませんが…。)
商品を売ったり、評価を高めたりするために「良いイメージ」を築き上げる戦略なわけですが…
これに疑問を持ったことのある方、どれくらいいらっしゃるでしょうか?
「良い『イメージ』さえ作れれば、『実際』は良くなくても良いのか?」「人間って、そんな『うわべ』に騙されて物を買ってしまうものなのか?」と考えたこと、ありませんか?
イメージは、あくまでイメージ。いわば「虚像」であって、「真実」とは限りません。
(「清純派」や「家庭的」「クリーンで誠実」など、特定のイメージを作って活動していた俳優に、そんなイメージとは真逆のスキャンダルが出る…というのも、結構「あるある」ですよね?)
しかしながら、大人になって社会に出てみると、人が意外と「イメージ」に振り回され、「イメージ」に左右されて生きているということが分かります。
おそらくそれは「イメージは目につきやすく、分かりやすい」けれど、「真実は目に見えづらく、理解しづらい」からなのでしょう。
「イメージ」は前述の「イメージ戦略」のように、戦略のために前面に押し出され、目立つようにアピールされていることも少なくありません。
また、「イメージ」は人の意識に浸透しやすいように「分かりやすく」作られていることが多いです。
しかし、その奥にある「真実」は、すぐ目につく所に出ているわけではありませんし、時には隠されていることすらあります。
(むしろ、それを隠すために「イメージ」が作られることすらあるでしょう。)
また、わざと「分かりやすく作られている」イメージとは違い、真実は複雑で、すぐには理解し難いものも多々あります。
だから、人は「分かりやすい」イメージにばかり飛びついて、「分かりづらい」真実を見ることを、おろそかにしてしまうのかも知れません。
しかし、どんなに分かりやすくても、イメージはあくまでイメージに過ぎないのです。
そこに騙されて、そこにばかり目が行ってしまっては、人生を損しかねません。
それは、「イメージは良いけれど、実際には悪い」ものを手に取らされて、「イメージはそれほどでもないけれど、実際はとても良い」ものをスルーしてしまうリスクがあるからです。
実際この世界は、そんな「イメージ」の功罪により、知らず知らずのうちに恐ろしく「何か」をロスしているのではないでしょうか?
イメージ作りに優れたものばかりが生き残り、技術や質は高くてもイメージ作りの下手なものは淘汰されてしまう…
それは結局、ひとりひとりの消費者にとっても、業界全体にとっても、恐ろしく「損」なことなのではないでしょうか?
「イメージ」ではなく「その商品の質」でモノが選ばれるならば、莫大な広告費も要りませんし、それにより開発費が削られて次の商品の質が落ちるということもありません。
質の高い商品なら、自然とリピーターがつくものですが、イメージだけで売る商品は、次々とインパクトのある宣伝を打ち出し続けなければ、消費者に飽きられてしまいます(結果、広告費がさらにかさむ悪循環に陥ります)。
この世界はそうやって、本来なら自然に得られていたはずの大きな利益を、いつの間にかロスして、それに気づかずにいるのではないでしょうか?
とは言え、ここまでイメージ戦略が「一般化」してしまっている現代…できることと言えば、1人1人の消費者が「イメージに騙されないように」意識していくしかないのかも知れません。
ちなみにこの「イメージの功罪」…経済界のみの話ではありません。
むしろ、政治など他の分野の方が、より深刻かも知れません。
イメージに騙されて「騙した方が悪いんだ」と文句を言っても、その時にはもう手遅れかも知れませんので、何とか真実を見極める目を磨いていきたいなぁ…と日々思っています。
「戦争は駄目」だということです。
以前の記事でも触れましたが…
<関連記事:どんな「理由」や「大義」があろうと「手段」は選ばなければならない>
「理由があれば何をしても良い」ではなく、「たとえ理由があろうと、手段は選ばなければならない」のです。
無数にある手段の中から、よりにもよって、多くの人の命を奪うという選択をしておきながら、その正当性を論じること自体が、狂気の沙汰だとは思いませんか?
そんなことが正当化されてしまうとしたら…人間の命の価値は、どこまで薄く軽くなってしまうのでしょう。
他の選択肢もあったはずなのに、他の手段を選んでいたなら奪われなかったはずの命が、奪われていく…
人間が、人間の命を軽視し、人間の命を冒涜し、その価値を、どんどん薄っぺらなものにしていく…
人の命の価値を左右するのは、結局はその時代に生きる人間なのだと思います。
何らかの「理由」があれば、理不尽に人命を奪っても良いという「悪しき前例」を、作るべきではありません。
既にそんな風に正当化されてしまった前例が、歴史上いくつもあるとしても…
これ以上、増やすべきではありません。
それは、今まさに危機に晒されている人々のためだけでなく、今は安全な場所で平穏に暮らしている人々、未来に生きる人々にも関わってくることです。
歴史は、良いものも、悪いものも、学ばれて繰り返されてしまうものですから…。
- 【HN(ハンドル・ネーム)】
- 津籠睦月(つごもりむつき)
- 【職業】
- 社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
- 【趣味】
- 小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
- 【好きな小説ジャンル】
- ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
- 【備考】
- 漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
このブログは管理人に時間の余裕がある時にちょこっとずつ更新していく予定ですので、更新やチェックの頻度はおそらく数週間に1回~下手をすると1ヶ月以上の間が空いてしまう可能性も…。
もし更新が滞ったても「あぁ、仕事が忙し過ぎて時間が無いんだな」と気長にお待ちいただければ幸いです。
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