日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
自分には物心ついた時から「他人をうらやましがる」という気持ちがありません。
それはべつに高尚な精神の持ち主だからというわけでも何でもなく、「人間なんて皆『一寸先は闇』『人間万事塞翁が馬』『禍福はあざなえる縄のごとし』なのに、何をうらやましがる要素があるっていうんだろう?」という、大変に可愛げのない思考回路の持ち主だからです。
目先の成功や幸福は、後に来る挫折や絶望の「前フリ」に過ぎないかも知れません。
この先の未来に何が待ち受けているかなんて、誰にも分からないのです。
むしろ、他人の幸せや成功を素直に羨ましがるなんて「その幸せや成功が『永遠に続く』と思っているドリーマーなのかな」と冷めた目で見てしまいますし…
「そんなものをいちいち羨ましがって自分の精神状態を悪化させるなんて『時間や人生の無駄』だ」と思ってしまいます。
実際、ひと昔前にテレビに出ずっぱりだった「時の人」が、今では「誰だっけ?」「そんな人いたっけ?」というくらい忘れ去られていることって、よくあるじゃないですか。
「時代の寵児」ともてはやされた成功者が、時代の変化とともに凋落して何もかも失うというのも、よくある話じゃないですか。
そんな浮き沈みの激しい世の中で、「一時的に浮かび上がっただけの人」をいちいち羨ましがって、醜い感情に振り回されるなんて、ばからしい話だと思いませんか?
後になれば絶対に「あれは無駄な時間だった」「なんであんな人を羨ましがっていたんだろう」となるに決まっています。
嫉妬している時間があるなら、その時間で「自分が幸せになるための行動」を起こした方が、よほど有意義だと思ってしまいます。
…それくらい自分は、シビアに世の中を見てしまうリアリストなのです。
自分がこんな心の境地にたどり着いた背景には、たぶん「自分の人生は自分で切り拓いていくしかない」「誰かが勝手に幸せにしてくれるなんてあり得ない」「むしろ、油断していたら命さえ失いかねない」という危機感と自立心があるせいだと思います。
以前の記事にも書いた通り、自分は「あと数歩(※)で死ぬかもしれない目に遭った」ことが何度かあります。
(※「あと一歩」というほど切迫した状況ではなかったものの、死を意識するには充分な危機的場面。)
その時の「誰にも助けてもらえなかった」「自分で何とかするしかなかった」「いざという時に他人任せでは命が危ない」という意識から、人生に対する危機感や自立心が芽生えたのではないかと…。
そして、そんな危機感や自立心を持って人生を歩んでいると、実際のところ「他人をうらやんでいる暇」が無いのです。
常に「これを備えておかないとマズい」「立ち塞がるこの壁を壊さないことには、本当の幸せにはたどり着けない」…と、やることがいっぱいあり過ぎて、そもそも「自分とは関係ない所で生きている他人」を気にしている余裕が無いのです。
自分の人生を切り拓くために「努力」するのは、疲れます。
無駄に終わるかも知れませんので、不安も焦燥もあります。
でも「誰かが勝手に人生を良くしてくれるわけなどない」ので、自分の手でやるしかないのです。
こうして必死に人生を歩んでいると、思います。
「世の中、本当にラクして人生を生きている人なんて、1人もいないんじゃないか?」と。
誰かの成功や幸運は、知られざる「死に物狂いの努力」の結果なのかも知れません。
「成功して『ズルい』」などと思う余地もないほど「当然の報い(良い意味での)」なのかも知れません。
それを知らずに「ズルい」などと思ってしまったら、こちらの方が「何も分かっていない」「何も見えていない」ことになってしまうではないですか。
もし自分自身、必死に努力し、苦労した末に成功を掴むことができたとして――それを、何も知らない誰かに「ズルい」と嫉妬され、いわれのない誹謗中傷をされたら、嫌じゃないですか?
少なくとも自分は、この世界が「そんな世界」であって欲しくないと思っています。
だから、いろいろな意味で、他人に嫉妬を抱かないのです。
嫉妬を抱く前に「この人生において、本当の成功って何だろう?」「あの人の『成功』は、うらやましがるほど自分にとって魅力的なものなんだろうか?」と考えます。
それに「成功した他人」が自分に幸せをもたらしてくれることだって、あるとは思いませんか?
「成功」して「新しい産業を興した」人がいるなら、その人は新たな雇用を生み出してくれます。
「成功」して「知名度を得た」人がいるなら、その人はその影響力を活かして、社会を良い方向に変えてくれるかも知れません。
…もちろん「そうでない」場合も多いのでしょうが…
少なくとも「他人の成功は自分の不幸」という「思い込み」に支配されない方が、人生楽しく生きていけると思いませんか?
それはべつに高尚な精神の持ち主だからというわけでも何でもなく、「人間なんて皆『一寸先は闇』『人間万事塞翁が馬』『禍福はあざなえる縄のごとし』なのに、何をうらやましがる要素があるっていうんだろう?」という、大変に可愛げのない思考回路の持ち主だからです。
目先の成功や幸福は、後に来る挫折や絶望の「前フリ」に過ぎないかも知れません。
この先の未来に何が待ち受けているかなんて、誰にも分からないのです。
むしろ、他人の幸せや成功を素直に羨ましがるなんて「その幸せや成功が『永遠に続く』と思っているドリーマーなのかな」と冷めた目で見てしまいますし…
「そんなものをいちいち羨ましがって自分の精神状態を悪化させるなんて『時間や人生の無駄』だ」と思ってしまいます。
実際、ひと昔前にテレビに出ずっぱりだった「時の人」が、今では「誰だっけ?」「そんな人いたっけ?」というくらい忘れ去られていることって、よくあるじゃないですか。
「時代の寵児」ともてはやされた成功者が、時代の変化とともに凋落して何もかも失うというのも、よくある話じゃないですか。
そんな浮き沈みの激しい世の中で、「一時的に浮かび上がっただけの人」をいちいち羨ましがって、醜い感情に振り回されるなんて、ばからしい話だと思いませんか?
後になれば絶対に「あれは無駄な時間だった」「なんであんな人を羨ましがっていたんだろう」となるに決まっています。
嫉妬している時間があるなら、その時間で「自分が幸せになるための行動」を起こした方が、よほど有意義だと思ってしまいます。
…それくらい自分は、シビアに世の中を見てしまうリアリストなのです。
自分がこんな心の境地にたどり着いた背景には、たぶん「自分の人生は自分で切り拓いていくしかない」「誰かが勝手に幸せにしてくれるなんてあり得ない」「むしろ、油断していたら命さえ失いかねない」という危機感と自立心があるせいだと思います。
以前の記事にも書いた通り、自分は「あと数歩(※)で死ぬかもしれない目に遭った」ことが何度かあります。
(※「あと一歩」というほど切迫した状況ではなかったものの、死を意識するには充分な危機的場面。)
その時の「誰にも助けてもらえなかった」「自分で何とかするしかなかった」「いざという時に他人任せでは命が危ない」という意識から、人生に対する危機感や自立心が芽生えたのではないかと…。
そして、そんな危機感や自立心を持って人生を歩んでいると、実際のところ「他人をうらやんでいる暇」が無いのです。
常に「これを備えておかないとマズい」「立ち塞がるこの壁を壊さないことには、本当の幸せにはたどり着けない」…と、やることがいっぱいあり過ぎて、そもそも「自分とは関係ない所で生きている他人」を気にしている余裕が無いのです。
自分の人生を切り拓くために「努力」するのは、疲れます。
無駄に終わるかも知れませんので、不安も焦燥もあります。
でも「誰かが勝手に人生を良くしてくれるわけなどない」ので、自分の手でやるしかないのです。
こうして必死に人生を歩んでいると、思います。
「世の中、本当にラクして人生を生きている人なんて、1人もいないんじゃないか?」と。
誰かの成功や幸運は、知られざる「死に物狂いの努力」の結果なのかも知れません。
「成功して『ズルい』」などと思う余地もないほど「当然の報い(良い意味での)」なのかも知れません。
それを知らずに「ズルい」などと思ってしまったら、こちらの方が「何も分かっていない」「何も見えていない」ことになってしまうではないですか。
もし自分自身、必死に努力し、苦労した末に成功を掴むことができたとして――それを、何も知らない誰かに「ズルい」と嫉妬され、いわれのない誹謗中傷をされたら、嫌じゃないですか?
少なくとも自分は、この世界が「そんな世界」であって欲しくないと思っています。
だから、いろいろな意味で、他人に嫉妬を抱かないのです。
嫉妬を抱く前に「この人生において、本当の成功って何だろう?」「あの人の『成功』は、うらやましがるほど自分にとって魅力的なものなんだろうか?」と考えます。
それに「成功した他人」が自分に幸せをもたらしてくれることだって、あるとは思いませんか?
「成功」して「新しい産業を興した」人がいるなら、その人は新たな雇用を生み出してくれます。
「成功」して「知名度を得た」人がいるなら、その人はその影響力を活かして、社会を良い方向に変えてくれるかも知れません。
…もちろん「そうでない」場合も多いのでしょうが…
少なくとも「他人の成功は自分の不幸」という「思い込み」に支配されない方が、人生楽しく生きていけると思いませんか?
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「不言実行タイプ」――行動を起こすにあたって、あるいは行動を起こす前に「想いを口にしない人間」あるいはそもそも「自分が何をやっているのか語らない人」は、何かと損だと感じます。
現代社会では特に…自分の信念や行動を堂々とアピールできる人間ばかりが注目され、沈黙する人間は「何もしていない」「何も考えていない」と見なされることも多々あります。
社会に出てからは、特にそれを痛感することになりました。
学生時代までの自分はむしろ「『自分はコレをやっています!』って、いちいちアピールするのは、褒められたくてやってるみたいでカッコ悪い」という考えでした。
そもそも謙遜・謙虚が美徳と信じて育ってきたので(幼少期に祖父母と過ごす時間が多かったことが影響しているのかと…)、アピール自体がどうにも苦手だったのです。
しかし、社会人になってから「どうにも、ソレでは駄目だ」と思うようになりました。
忙しい現代人は、他人のことなどロクに見ていません。
おとぎ話の魔法使いのように「密かに耐えて頑張っている子」や「黙って陰で善行を為す人」を見つけ出してくれる人は、ほとんどいないのです。
だから「自分はこんなことをしています!」とアピールされて初めて、他人の行動や、その裏にある想いに気づくのです。
下手をすると「誰にも何も言わずに、ただ黙々と目的に向かい努力する人」が評価されず、「口ばかり大袈裟で、実際にはそんなに大した働きをしていない人」の方が評価を上げる可能性だってあります。
物事の本質を見抜けない人間は、「見かけ倒しで実を伴わないアピール」にも、コロッと騙されてしまうからです。
「褒められるためのアピール」「自分をスゴく見せるためのアピール」はしたくないとしても、せめて「多少は他人に理解してもらえるように」、自分の行動や想いを、何らかの形で「ことばにしていく」必要性を、強く感じるようになりました。
…とは言え、アピール嫌いの人間がソレをするのは相当に難易度が高く、「練習」や「試行錯誤」をしながら、少しずつ表に出していっているような状態です。
しかし、アピールや思考の言語化の必要性は感じていても、それでも「やりたくない」ことはあります。
自分の中の想いや考えを「ことばにする」ということは、時に他人と衝突することを意味します。
あるいは、時に他人を傷つけてしまうことを意味します。
自分とは対立する意見の持ち主――特に、他者の意見に否定的で攻撃性の高い人物に、自分の大切なものを踏みにじられる可能性を意味します。
なので、「何でもかんでも表に出したい」「他人に知ってもらいたい」とは思わないのです。
他者からの肯定や協力を必要としないような「想い」や「考え」なら、自分の中だけで宝物のように慈しんでいても、べつに構わないのではないかと思うのです。
「自己満足」で満たされるのであれば、誰にも知られぬ善行をひっそりと為して、ひとりで満足するだけでも、べつに構わないのではないかと思うのです。
「他人から肯定してもらえなければ、自分を肯定できない」といった可愛げは元から持っていませんし、「他人に自分の意見を押しつけたい」という趣味も持っていません。
しかし、時に「他人の何かを否定し、相手から傷つけられても、出さなければならない意見」があることも知っています。
なので、出すものと出さないものを、見極め、選びながら、少しずつ少しずつ「ことばにする」のです。
その「見極め」や「選択」も、まだまだ難しかったりするのですが…。
現代社会では特に…自分の信念や行動を堂々とアピールできる人間ばかりが注目され、沈黙する人間は「何もしていない」「何も考えていない」と見なされることも多々あります。
社会に出てからは、特にそれを痛感することになりました。
学生時代までの自分はむしろ「『自分はコレをやっています!』って、いちいちアピールするのは、褒められたくてやってるみたいでカッコ悪い」という考えでした。
そもそも謙遜・謙虚が美徳と信じて育ってきたので(幼少期に祖父母と過ごす時間が多かったことが影響しているのかと…)、アピール自体がどうにも苦手だったのです。
しかし、社会人になってから「どうにも、ソレでは駄目だ」と思うようになりました。
忙しい現代人は、他人のことなどロクに見ていません。
おとぎ話の魔法使いのように「密かに耐えて頑張っている子」や「黙って陰で善行を為す人」を見つけ出してくれる人は、ほとんどいないのです。
だから「自分はこんなことをしています!」とアピールされて初めて、他人の行動や、その裏にある想いに気づくのです。
下手をすると「誰にも何も言わずに、ただ黙々と目的に向かい努力する人」が評価されず、「口ばかり大袈裟で、実際にはそんなに大した働きをしていない人」の方が評価を上げる可能性だってあります。
物事の本質を見抜けない人間は、「見かけ倒しで実を伴わないアピール」にも、コロッと騙されてしまうからです。
「褒められるためのアピール」「自分をスゴく見せるためのアピール」はしたくないとしても、せめて「多少は他人に理解してもらえるように」、自分の行動や想いを、何らかの形で「ことばにしていく」必要性を、強く感じるようになりました。
…とは言え、アピール嫌いの人間がソレをするのは相当に難易度が高く、「練習」や「試行錯誤」をしながら、少しずつ表に出していっているような状態です。
しかし、アピールや思考の言語化の必要性は感じていても、それでも「やりたくない」ことはあります。
自分の中の想いや考えを「ことばにする」ということは、時に他人と衝突することを意味します。
あるいは、時に他人を傷つけてしまうことを意味します。
自分とは対立する意見の持ち主――特に、他者の意見に否定的で攻撃性の高い人物に、自分の大切なものを踏みにじられる可能性を意味します。
なので、「何でもかんでも表に出したい」「他人に知ってもらいたい」とは思わないのです。
他者からの肯定や協力を必要としないような「想い」や「考え」なら、自分の中だけで宝物のように慈しんでいても、べつに構わないのではないかと思うのです。
「自己満足」で満たされるのであれば、誰にも知られぬ善行をひっそりと為して、ひとりで満足するだけでも、べつに構わないのではないかと思うのです。
「他人から肯定してもらえなければ、自分を肯定できない」といった可愛げは元から持っていませんし、「他人に自分の意見を押しつけたい」という趣味も持っていません。
しかし、時に「他人の何かを否定し、相手から傷つけられても、出さなければならない意見」があることも知っています。
なので、出すものと出さないものを、見極め、選びながら、少しずつ少しずつ「ことばにする」のです。
その「見極め」や「選択」も、まだまだ難しかったりするのですが…。
「将来、何になったら良いのか分からない」「自分に何が向いているのか分からない」「人生計画や進路が全く見えない」――こんな悩みを抱えている人は、結構多いのではないでしょうか。
十歳にも満たない幼い頃なら、無邪気に「〇〇になりたい!」なんて言っていられたのに…
十代以降になり、現実が見え始めると、途端に自分の将来を見失ってしまったりします。
また、学校の成績が悪かったり、他人からの評価が低かったりすると、「自分はどうせ、大したものになれないんだ」と落ち込んで、ますます先が見えなくなってしまったりします。
そんな時、どう生きればいいのか――?
個人的には、「好きなことを1つでも見つけて、それに打ち込む」ことが大事だと思います。
それはもちろん、勉強でも運動でも良いですし、勉強以外の遊び・趣味だって全然かまわないと思います。
(ただしもちろん、「他人に迷惑をかけないこと」というのが前提で。)
大切なのは、それを「心から好き」でいること。
なぜなら「好き」という気持ちは「がんばることがイヤじゃない」と思えるようになる“魔法の感情”だからです。
それどころか「がんばっている」という意識すらなく、いつの間にか知識やスキル(技術)が身についていたりします。
嫌いな科目の勉強は全く覚えられないのに、好きなゲームのキャラクターの名前はいくらでも覚えられたり、恐竜好きな子が恐竜の名前をいくらでも暗記していられるのは、そこに「好き」という気持ちがあるからです。
大人になると分かることですが、イヤイヤ覚えた知識はいつの間にか忘れてしまうのに、好きだったものや“遊び”の中で覚えた知識はしっかりと身について、いつまでも覚えていられたりするものです。
そうして「好きで覚えた知識やスキル」が将来につながれば、もちろん言うことは無いのですが…
もし、将来の職業に結びつかなかったとしても、「好きなこと」は人生に生きがいや充実感を与えてくれます。
たとえ学校や家や毎日の中で、何かイヤなことがあったとしても、「好きなこと」をしていれば、そのイヤなことを忘れられたり、その「好きなこと」のために毎日をがんばろうと思えたりします。
また、その「好きなこと」を通して、それまで出会えなかった人に出会えたり、知らなかったことを知ることができたりと、自分の世界が広がっていったりもします。
少なくとも、「自分には何も無いんだ」と絶望して何もせずにいるよりも、「好きなこと」を見つけて何かをしていた方が、将来の可能性は広がると思います。
たとえそれがムダに終わったとしても、「好きなことに打ちこんでいた」という思い出だけは残りますし…。
――ただ、「好きなこと」を「好きなままでいる」というのも、実は、なかなかに難しいことだったりします。
たとえば、好きで始めたスポーツでも、思うような結果が出なかったり、練習が苦しかったりすると、好きという気持ちを見失ってしまったり…
あるいは、好きなものを他人にけなされた時、何となく、それを「そのまま好きでいる」ことが難しくなってしまったり…
また、周りの人間の理解を得られず「そんなことしてないで勉強しなさい!」と叱られてしまったり…
そういったモノに負けないためには、自分の中でしっかりと「好き」の気持ちを強く育て、「この気持ちは自分にとって大切で、なくしちゃいけないものなんだ」と自分で自分に言い聞かせていくしかないと思います。
(できることなら、「好きなこと」をしていても文句を言われないように、学校の成績などをしっかりとっておくと、親からの攻撃はある程度減らせるかと思います。…あとは、隠れてこっそり「好きなこと」を続けるとか…。)
世界はシビアで残酷で、イヤなことや辛いことがたくさんあります。
そんな世界の中で「好きなこと」が1つでもあるということは、とても大事でかけがえのないことなのです。
なぜなら、純粋な「好き」の気持ちは「楽しい」や「幸せ」といったプラスの感情を生んで、人生を明るく彩ってくれるから…。
だから、既に「好きなこと」を見つけている人は、その気持ちを大切に…
そして、まだ見つけられていない人は、世の中を「つまらないもの」とあきらめてしまわずに、何か1つでも心動かされるものがないか、自分の気持ちにより深く注目してみると良いのではないかと思います。
そして、他人の「好きなこと」をけなさないこと。
たとえ他の人間の目から見たら「つまらないこと」「意味が無いこと」に見えたとしても、もしかしたらその人は、その「好きなこと」を心の支えにして、つらい毎日をかろうじて乗り越えているのかも知れません。
それを軽い気持ちでけなして、その人が「好き」という気持ちを失ってしまったら、その人の心はポッキリ折れてしまうかも知れません。
「好き」という気持ちはそれほどに大切で、だからこそ、それをわざと奪うことは、とても業の深いことだと思うのです。
十歳にも満たない幼い頃なら、無邪気に「〇〇になりたい!」なんて言っていられたのに…
十代以降になり、現実が見え始めると、途端に自分の将来を見失ってしまったりします。
また、学校の成績が悪かったり、他人からの評価が低かったりすると、「自分はどうせ、大したものになれないんだ」と落ち込んで、ますます先が見えなくなってしまったりします。
そんな時、どう生きればいいのか――?
個人的には、「好きなことを1つでも見つけて、それに打ち込む」ことが大事だと思います。
それはもちろん、勉強でも運動でも良いですし、勉強以外の遊び・趣味だって全然かまわないと思います。
(ただしもちろん、「他人に迷惑をかけないこと」というのが前提で。)
大切なのは、それを「心から好き」でいること。
なぜなら「好き」という気持ちは「がんばることがイヤじゃない」と思えるようになる“魔法の感情”だからです。
それどころか「がんばっている」という意識すらなく、いつの間にか知識やスキル(技術)が身についていたりします。
嫌いな科目の勉強は全く覚えられないのに、好きなゲームのキャラクターの名前はいくらでも覚えられたり、恐竜好きな子が恐竜の名前をいくらでも暗記していられるのは、そこに「好き」という気持ちがあるからです。
大人になると分かることですが、イヤイヤ覚えた知識はいつの間にか忘れてしまうのに、好きだったものや“遊び”の中で覚えた知識はしっかりと身について、いつまでも覚えていられたりするものです。
そうして「好きで覚えた知識やスキル」が将来につながれば、もちろん言うことは無いのですが…
もし、将来の職業に結びつかなかったとしても、「好きなこと」は人生に生きがいや充実感を与えてくれます。
たとえ学校や家や毎日の中で、何かイヤなことがあったとしても、「好きなこと」をしていれば、そのイヤなことを忘れられたり、その「好きなこと」のために毎日をがんばろうと思えたりします。
また、その「好きなこと」を通して、それまで出会えなかった人に出会えたり、知らなかったことを知ることができたりと、自分の世界が広がっていったりもします。
少なくとも、「自分には何も無いんだ」と絶望して何もせずにいるよりも、「好きなこと」を見つけて何かをしていた方が、将来の可能性は広がると思います。
たとえそれがムダに終わったとしても、「好きなことに打ちこんでいた」という思い出だけは残りますし…。
――ただ、「好きなこと」を「好きなままでいる」というのも、実は、なかなかに難しいことだったりします。
たとえば、好きで始めたスポーツでも、思うような結果が出なかったり、練習が苦しかったりすると、好きという気持ちを見失ってしまったり…
あるいは、好きなものを他人にけなされた時、何となく、それを「そのまま好きでいる」ことが難しくなってしまったり…
また、周りの人間の理解を得られず「そんなことしてないで勉強しなさい!」と叱られてしまったり…
そういったモノに負けないためには、自分の中でしっかりと「好き」の気持ちを強く育て、「この気持ちは自分にとって大切で、なくしちゃいけないものなんだ」と自分で自分に言い聞かせていくしかないと思います。
(できることなら、「好きなこと」をしていても文句を言われないように、学校の成績などをしっかりとっておくと、親からの攻撃はある程度減らせるかと思います。…あとは、隠れてこっそり「好きなこと」を続けるとか…。)
世界はシビアで残酷で、イヤなことや辛いことがたくさんあります。
そんな世界の中で「好きなこと」が1つでもあるということは、とても大事でかけがえのないことなのです。
なぜなら、純粋な「好き」の気持ちは「楽しい」や「幸せ」といったプラスの感情を生んで、人生を明るく彩ってくれるから…。
だから、既に「好きなこと」を見つけている人は、その気持ちを大切に…
そして、まだ見つけられていない人は、世の中を「つまらないもの」とあきらめてしまわずに、何か1つでも心動かされるものがないか、自分の気持ちにより深く注目してみると良いのではないかと思います。
そして、他人の「好きなこと」をけなさないこと。
たとえ他の人間の目から見たら「つまらないこと」「意味が無いこと」に見えたとしても、もしかしたらその人は、その「好きなこと」を心の支えにして、つらい毎日をかろうじて乗り越えているのかも知れません。
それを軽い気持ちでけなして、その人が「好き」という気持ちを失ってしまったら、その人の心はポッキリ折れてしまうかも知れません。
「好き」という気持ちはそれほどに大切で、だからこそ、それをわざと奪うことは、とても業の深いことだと思うのです。
<関連記事:嫌なことだらけの世の中でも、好きなものだけ好きでいればいい。>
人間には誰しも「他人から認められたい」「他人にスゴいと思われたい」という欲求が、多かれ少なかれ有るようです。
特に昨今のネット社会ではそれが顕著に出ているように思えますし、その他の場所でもちらほらと「承認欲求に苦しめられる」「他人に認めてもらえないと、生きている価値がないように思える」という話を聞くことがあります。
自分にも、そうやって「自分の存在意義を他人に求めていた」時代があったように思います。
しかし、今はあまり、そう思っていません。
そういう心境になったのには、おそらく幾つかの理由があるのですが…
まず1つは、大学に入り東京に出たことで「人間は他人のことなんて、あまり見ていない」という事実に気づかされたからです。
もちろん、親しい家族や友人なら、ある程度はこちらを“見て”くれていることでしょう。
(まぁ、どんなに“近い”間柄でも、見てくれない人は見てくれないものですが。)
しかし、人が“赤の他人”に対して向ける注意や関心は本当に低く気まぐれで、残酷なほどにシビアなものなのだと、自分は感じました。
自分がどれほど「認められたい」とアピールしたところで、他人はそれを、こちらが思うほど真剣に受け止めてはくれません。
他人が評価をつけるポイントは、だいたいの場合、品質の優劣でも重要性でも、そこに籠められた情熱の程度でもなく、ただ単純に「興味を惹かれたかどうか」「自分の好みかどうか」ということです。
認められたい本人からすれば、あまりに悲しい事実ですが、それもある種、仕方が無いことなのかも知れません。
現代社会には情報があまりにも溢れ過ぎていて、とても全ての情報を処理しきることはできず、自分にとって“大事でない情報”はスルーせざるを得ません。
たとえその情報が、ある人にとっては死ぬほど大事な「認められたいアピール」であったとしても、情報の受け手にとってはそんな背景事情はどうでも良い“他人事”でしょうし、そもそもそんな事情は“見えない”ものですから…。
そんな、他人に対して無関心な人間が多い現代社会で、こちらに目もくれずに通り過ぎていく人々に向かって、必死に「認めてください」アピールをし続けるなんて、あまりにも空しいことだと思いませんか?
少なくとも自分は、空しさを覚えました。
なので自然と、そんな「認められたいアピール」自体が、嫌になっていきました。
もう1つの理由は、たとえ認められたとしても、その承認が「自分が思い描いていたものと違う」ことに気づいたからです。
自分の「ここ」を見て欲しい、「こういう所」を認めて欲しいと願っても、他人が認めてくれるのは、それとは別の、もっと分かりやすく目立った長所ばかりだったりします。
あるいは、あまり「中身」を伴わない、「すごいね」程度の、ごくごく単純な称賛に過ぎなかったりします。
考えてみれば自分は、ただ単純に「認められたい」わけではなく、自分の行った努力や工夫に対する「報い」が欲しいのです。
なので、その努力や工夫を一切評価されずに、場合によってはそれに気づかれることすらなく、ただ承認や称賛を与えられても、そこはかとない「虚しさ」を覚えてしまうのです。
さらには、他者からの承認そのものが、あまり「実体」を伴わない、儚く消える「幻」のように思えてならないことがあります。
たとえ一時の承認・称賛を得られたとしても、情報の新陳代謝の速い現代社会では、そんなものはあっと言う間に忘れ去られてしまいます。
たとえ本人は過去の栄光を忘れず、それに縋っていたとしても、周りはとっくにそれを忘れ去っているのです。
にも関わらず、そんな儚い承認を必死に求めて足掻き続ける…そのこと自体、あまりに滑稽で哀しいと思いませんか?
そんな思いから、今では自分は「他者からの承認なんて、どうでもいい」という心境で生きています。
すると、驚くほどに生きるのがラクになるのです。
「他人から認められるため」ではなく、ただ「自分にとって悔いの無い人生を追求する」…それだけで、人生は全く質の違うものに変わるのです。
特に昨今のネット社会ではそれが顕著に出ているように思えますし、その他の場所でもちらほらと「承認欲求に苦しめられる」「他人に認めてもらえないと、生きている価値がないように思える」という話を聞くことがあります。
自分にも、そうやって「自分の存在意義を他人に求めていた」時代があったように思います。
しかし、今はあまり、そう思っていません。
そういう心境になったのには、おそらく幾つかの理由があるのですが…
まず1つは、大学に入り東京に出たことで「人間は他人のことなんて、あまり見ていない」という事実に気づかされたからです。
もちろん、親しい家族や友人なら、ある程度はこちらを“見て”くれていることでしょう。
(まぁ、どんなに“近い”間柄でも、見てくれない人は見てくれないものですが。)
しかし、人が“赤の他人”に対して向ける注意や関心は本当に低く気まぐれで、残酷なほどにシビアなものなのだと、自分は感じました。
自分がどれほど「認められたい」とアピールしたところで、他人はそれを、こちらが思うほど真剣に受け止めてはくれません。
他人が評価をつけるポイントは、だいたいの場合、品質の優劣でも重要性でも、そこに籠められた情熱の程度でもなく、ただ単純に「興味を惹かれたかどうか」「自分の好みかどうか」ということです。
認められたい本人からすれば、あまりに悲しい事実ですが、それもある種、仕方が無いことなのかも知れません。
現代社会には情報があまりにも溢れ過ぎていて、とても全ての情報を処理しきることはできず、自分にとって“大事でない情報”はスルーせざるを得ません。
たとえその情報が、ある人にとっては死ぬほど大事な「認められたいアピール」であったとしても、情報の受け手にとってはそんな背景事情はどうでも良い“他人事”でしょうし、そもそもそんな事情は“見えない”ものですから…。
そんな、他人に対して無関心な人間が多い現代社会で、こちらに目もくれずに通り過ぎていく人々に向かって、必死に「認めてください」アピールをし続けるなんて、あまりにも空しいことだと思いませんか?
少なくとも自分は、空しさを覚えました。
なので自然と、そんな「認められたいアピール」自体が、嫌になっていきました。
もう1つの理由は、たとえ認められたとしても、その承認が「自分が思い描いていたものと違う」ことに気づいたからです。
自分の「ここ」を見て欲しい、「こういう所」を認めて欲しいと願っても、他人が認めてくれるのは、それとは別の、もっと分かりやすく目立った長所ばかりだったりします。
あるいは、あまり「中身」を伴わない、「すごいね」程度の、ごくごく単純な称賛に過ぎなかったりします。
考えてみれば自分は、ただ単純に「認められたい」わけではなく、自分の行った努力や工夫に対する「報い」が欲しいのです。
なので、その努力や工夫を一切評価されずに、場合によってはそれに気づかれることすらなく、ただ承認や称賛を与えられても、そこはかとない「虚しさ」を覚えてしまうのです。
さらには、他者からの承認そのものが、あまり「実体」を伴わない、儚く消える「幻」のように思えてならないことがあります。
たとえ一時の承認・称賛を得られたとしても、情報の新陳代謝の速い現代社会では、そんなものはあっと言う間に忘れ去られてしまいます。
たとえ本人は過去の栄光を忘れず、それに縋っていたとしても、周りはとっくにそれを忘れ去っているのです。
にも関わらず、そんな儚い承認を必死に求めて足掻き続ける…そのこと自体、あまりに滑稽で哀しいと思いませんか?
そんな思いから、今では自分は「他者からの承認なんて、どうでもいい」という心境で生きています。
すると、驚くほどに生きるのがラクになるのです。
「他人から認められるため」ではなく、ただ「自分にとって悔いの無い人生を追求する」…それだけで、人生は全く質の違うものに変わるのです。
就職活動で「自己分析」を経験した方、結構いらっしゃると思います。
自分の長所・短所を見つめ直し、面接で上手くPRできるように、自分自身について分析をするわけですが…
社会人になった今にして思うと、学生時代にやった「自己分析」は、まるで「なっていなかった」と感じます。
「自己分析」という字面からして、「自分自身」だけを分析すれば良いような気がしてしまいますが…
本当の意味で「自分自身を知る」には、「自分を知っている」だけでは駄目なのです。
知らなければならないのは「自分と他人との違い」です。
他人と比べて自分が勝っているものは何か、そして逆に劣っている部分は何なのか…。
そしてそんな「自分と他人との違い」を知るには、過小評価でも過大評価でもない「リアルで正確な他人の姿」を知らなければならないのです。
自己評価をする際、無意識のうちに他人の能力を低く見積もり、「自分はこんなにスゴいんだ」と偉ぶったりはしていませんか?
あるいは逆に、自分が周りと比べてひどく劣っているような気がして、委縮したりはしてしませんか?
他人の姿を色眼鏡無しに真っ直ぐ見つめるということは、そんなに簡単なことではないのです。
そもそも「自分から見える他人の姿」は、その人のほんの一部分――“氷山の一角”でしかありません。
実はとてつもない能力を隠し持っているかも知れませんし、逆に見栄を張って自分を大きく見せようとしているかも知れません。
そんな「目には見えない部分」も考慮した上で、他人と自分との「違い」を見つめていかなければなりません。
正直、非常に難しく、社会人になった今でも、ちゃんとできるかどうか、自信はありません。
しかし、他人を知り、自分を知るということは、就職活動のみならず、人生を生きる上でも非常に役立ちます。
就職活動のためだけのものと思わず、人生のふとした場面で、自己分析してみるのはいかがでしょうか。
自分の長所・短所を見つめ直し、面接で上手くPRできるように、自分自身について分析をするわけですが…
社会人になった今にして思うと、学生時代にやった「自己分析」は、まるで「なっていなかった」と感じます。
「自己分析」という字面からして、「自分自身」だけを分析すれば良いような気がしてしまいますが…
本当の意味で「自分自身を知る」には、「自分を知っている」だけでは駄目なのです。
知らなければならないのは「自分と他人との違い」です。
他人と比べて自分が勝っているものは何か、そして逆に劣っている部分は何なのか…。
そしてそんな「自分と他人との違い」を知るには、過小評価でも過大評価でもない「リアルで正確な他人の姿」を知らなければならないのです。
自己評価をする際、無意識のうちに他人の能力を低く見積もり、「自分はこんなにスゴいんだ」と偉ぶったりはしていませんか?
あるいは逆に、自分が周りと比べてひどく劣っているような気がして、委縮したりはしてしませんか?
他人の姿を色眼鏡無しに真っ直ぐ見つめるということは、そんなに簡単なことではないのです。
そもそも「自分から見える他人の姿」は、その人のほんの一部分――“氷山の一角”でしかありません。
実はとてつもない能力を隠し持っているかも知れませんし、逆に見栄を張って自分を大きく見せようとしているかも知れません。
そんな「目には見えない部分」も考慮した上で、他人と自分との「違い」を見つめていかなければなりません。
正直、非常に難しく、社会人になった今でも、ちゃんとできるかどうか、自信はありません。
しかし、他人を知り、自分を知るということは、就職活動のみならず、人生を生きる上でも非常に役立ちます。
就職活動のためだけのものと思わず、人生のふとした場面で、自己分析してみるのはいかがでしょうか。
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