日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
「沈黙は金」「口は災いのもと」――そんな「ことわざ」があります。
人間はどうしても完璧にはなれず、どこかで無知になり、どこかで思考を間違えます。
下手なことを言って恥をかいたり、間違いを指摘されて叩かれたりしないよう、「公に意見など言わない方が良い」…そんなことを思っている方も多いのではないでしょうか?
言葉は時に、他人を傷つける武器にもなります。
正論も時に人を傷つけ、ポジティブな投稿でさえ妬みや恨みを買うことがあります。
そんな時代に、誰が読むかも分からない場所に言葉を放つなんて、リスクが高過ぎる――自分も、そう思います。
ですが、今の時代には「それ以上のリスク」もまた、存在しているのです。
それは、この世界が「上手いことを言えたもの勝ち」な世界になってしまうことです。
上にも書いてきたように、危機管理のしっかりした、慎重な大人は、滅多な発言はしません。
そして、他者を傷つけることを恐れる、優しい気遣いのできる大人もまた、滅多な発言はしません。
逆に言えば「そうでない人間」の方が、無遠慮に無思慮にバンバン発言ができてしまうのです。
結果この世は、思慮が浅く思いやりに欠けた発言の方が数が多く、思慮深く優しい発言は「ほんのわずか」になってしまいます。
SNSなどを見ていて他者の発言を不快に感じた経験のある方、結構いらっしゃるかと思いますが…
それってつまりは「そういうこと」なのではないでしょうか?
数の多い「無思慮で優しくない発言」の方が目につきやすく、数の少ない「思慮深くて優しい発言」は滅多に目にできないのです。
…でも今の世の中、そういう思慮や思いやりに欠けた発言に限って、妙に数字を集めていたりもしますよね?
1つには、そういう「炎上案件」が否応にも「注目を集めやすい」せいかと思われますが…
もう1つには、SNSで「いいね」や「拡散」を積極的にするのもまた「慎重でない人々」だから…なのではないかと。
慎重な人間なら「いいね」や「拡散」をする前に、「その発言の真偽」や「その発言を推した場合の影響」を考えて、一旦立ち止まります。
しかし、慎重でない人は「上手いことを言っている人」「共感できる人」に感情的に反応し、深く考えずに「いいね」「拡散」してしまうのです。
(何の罪も無い「可愛いネコチャンの写真」とかだったら、深く考えずに推しても問題無いとは思いますが…。)
今の世の中は、感情的に動く「慎重でない人々」の言動に溢れています。
逆に「慎重な人々」の言動は、「沈黙」の中にあるせいで、表には出て来ません。
(いわゆる「サイレント・マジョリティー」VS「ラウド・マイノリティー(あるいはノイジー・マイノリティー)」の構図です。)
そして表に出ている「感情的で無思慮な意見」ばかりが「世間の意見の代表」のように見られてしまうのです。
慎重で思慮深い人々は「何で今の世の中は、こんな『おかしな方向』に動いてしまうんだ?」と思っていることでしょう。
ですが、原因は至極単純なことなのです。
数の少ない思慮深い意見が、数多くの感情的で無思慮な意見の中に埋もれてしまうからなのです。
また、感情的で無思慮な人間は「対立意見」をひたすら叩く習性があります。
「異論であっても、とりあえずは耳を傾けてみよう」という姿勢が無いのです。
結果、数の少ない思慮深い意見は、叩かれて貶されて、隅に追いやられてしまうのです。
(叩かれて心折れて、それ以上の発信ができなくなってしまう人も多いかと思われます。)
…ですが、感情的で無思慮で「自分のことしか考えていない」人々の意見が世に罷り通ってしまえば、この世は「誰にとっても」地獄な世界になってしまいます。
だって、一時の感情で物事を見る人間は「数ヶ月後の自分」のことさえ考慮に入れないのです。
『アリとキリギリス』のキリギリスのように、ひたすら「今の快楽」だけを求め、冬が訪れた後の自分のことさえ見えないのです。
それどころか「セコセコ働いて食糧貯め込むアリども、乙ww」みたいな感じで、自分たちとは違う層をひたすら馬鹿にして「サゲる」のではないでしょうか?
自分たちを馬鹿にする相手に、わざわざ「冬になったら食糧が得られなくなるから、今のうちに貯めとかないとマズいんだよ」と親切に教えてあげられるのは、よほど「出来た」人間ですよね?
しかも教えてあげたところで、その親切心すら馬鹿にされて叩かれてしまうかも知れないのです。
以前の世の中なら、放置されたキリギリスが増長してイキったところで「自業自得」な結末に終わったかも知れません。
しかしSNSのアルゴリズムが「数字の多く獲れた発言」を優先表示させる現代では、そんなイキったキリギリスの発言が「世論」だと勘違いされてしまいかねないのです。
…その先に待ち受けるのは「自業自得」どころではない「他業多得」の世界。
一部の人間の「我の強い意見」に多くの人々が巻き込まれて破滅する、地獄のような世界です。
この「遠慮無く発言しまくって、上手く共感を集められたもの勝ち」な世界で、沈黙を守り続けるのは、果たして「金」なのでしょうか?
…自分には、そうは思えません。
むしろ「沈黙は罪」なのではないかと、そう思えてならないのです。
人間はどうしても完璧にはなれず、どこかで無知になり、どこかで思考を間違えます。
下手なことを言って恥をかいたり、間違いを指摘されて叩かれたりしないよう、「公に意見など言わない方が良い」…そんなことを思っている方も多いのではないでしょうか?
言葉は時に、他人を傷つける武器にもなります。
正論も時に人を傷つけ、ポジティブな投稿でさえ妬みや恨みを買うことがあります。
そんな時代に、誰が読むかも分からない場所に言葉を放つなんて、リスクが高過ぎる――自分も、そう思います。
ですが、今の時代には「それ以上のリスク」もまた、存在しているのです。
それは、この世界が「上手いことを言えたもの勝ち」な世界になってしまうことです。
上にも書いてきたように、危機管理のしっかりした、慎重な大人は、滅多な発言はしません。
そして、他者を傷つけることを恐れる、優しい気遣いのできる大人もまた、滅多な発言はしません。
逆に言えば「そうでない人間」の方が、無遠慮に無思慮にバンバン発言ができてしまうのです。
結果この世は、思慮が浅く思いやりに欠けた発言の方が数が多く、思慮深く優しい発言は「ほんのわずか」になってしまいます。
SNSなどを見ていて他者の発言を不快に感じた経験のある方、結構いらっしゃるかと思いますが…
それってつまりは「そういうこと」なのではないでしょうか?
数の多い「無思慮で優しくない発言」の方が目につきやすく、数の少ない「思慮深くて優しい発言」は滅多に目にできないのです。
…でも今の世の中、そういう思慮や思いやりに欠けた発言に限って、妙に数字を集めていたりもしますよね?
1つには、そういう「炎上案件」が否応にも「注目を集めやすい」せいかと思われますが…
もう1つには、SNSで「いいね」や「拡散」を積極的にするのもまた「慎重でない人々」だから…なのではないかと。
慎重な人間なら「いいね」や「拡散」をする前に、「その発言の真偽」や「その発言を推した場合の影響」を考えて、一旦立ち止まります。
しかし、慎重でない人は「上手いことを言っている人」「共感できる人」に感情的に反応し、深く考えずに「いいね」「拡散」してしまうのです。
(何の罪も無い「可愛いネコチャンの写真」とかだったら、深く考えずに推しても問題無いとは思いますが…。)
今の世の中は、感情的に動く「慎重でない人々」の言動に溢れています。
逆に「慎重な人々」の言動は、「沈黙」の中にあるせいで、表には出て来ません。
(いわゆる「サイレント・マジョリティー」VS「ラウド・マイノリティー(あるいはノイジー・マイノリティー)」の構図です。)
そして表に出ている「感情的で無思慮な意見」ばかりが「世間の意見の代表」のように見られてしまうのです。
慎重で思慮深い人々は「何で今の世の中は、こんな『おかしな方向』に動いてしまうんだ?」と思っていることでしょう。
ですが、原因は至極単純なことなのです。
数の少ない思慮深い意見が、数多くの感情的で無思慮な意見の中に埋もれてしまうからなのです。
また、感情的で無思慮な人間は「対立意見」をひたすら叩く習性があります。
「異論であっても、とりあえずは耳を傾けてみよう」という姿勢が無いのです。
結果、数の少ない思慮深い意見は、叩かれて貶されて、隅に追いやられてしまうのです。
(叩かれて心折れて、それ以上の発信ができなくなってしまう人も多いかと思われます。)
…ですが、感情的で無思慮で「自分のことしか考えていない」人々の意見が世に罷り通ってしまえば、この世は「誰にとっても」地獄な世界になってしまいます。
だって、一時の感情で物事を見る人間は「数ヶ月後の自分」のことさえ考慮に入れないのです。
『アリとキリギリス』のキリギリスのように、ひたすら「今の快楽」だけを求め、冬が訪れた後の自分のことさえ見えないのです。
それどころか「セコセコ働いて食糧貯め込むアリども、乙ww」みたいな感じで、自分たちとは違う層をひたすら馬鹿にして「サゲる」のではないでしょうか?
自分たちを馬鹿にする相手に、わざわざ「冬になったら食糧が得られなくなるから、今のうちに貯めとかないとマズいんだよ」と親切に教えてあげられるのは、よほど「出来た」人間ですよね?
しかも教えてあげたところで、その親切心すら馬鹿にされて叩かれてしまうかも知れないのです。
以前の世の中なら、放置されたキリギリスが増長してイキったところで「自業自得」な結末に終わったかも知れません。
しかしSNSのアルゴリズムが「数字の多く獲れた発言」を優先表示させる現代では、そんなイキったキリギリスの発言が「世論」だと勘違いされてしまいかねないのです。
…その先に待ち受けるのは「自業自得」どころではない「他業多得」の世界。
一部の人間の「我の強い意見」に多くの人々が巻き込まれて破滅する、地獄のような世界です。
この「遠慮無く発言しまくって、上手く共感を集められたもの勝ち」な世界で、沈黙を守り続けるのは、果たして「金」なのでしょうか?
…自分には、そうは思えません。
むしろ「沈黙は罪」なのではないかと、そう思えてならないのです。
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(本当はもっと前に書き上げていた記事なのですが、何となく心の整理がつかなくて、UPできずにいました。)
いつもと全く同じように会社に出た今日、同僚の訃報を聞きました。
フィクションの世界では、死の前にはそれらしい予兆があり、本人も周りも薄々それを察しているものなのに……
現実には心の準備も予想もしない、全くの不意打ちです。
突然の訃報なんて、今までに何度も聞かされてきたのに……いつまで経っても、慣れることも予想することもできません。
入院したことは知っていましたが、一度は復帰もし、次は検査入院だと聞いていたので「経過観察だろう」くらいに思っていました。
それが、思いの外長く会社を休んでいて「あれ?」とは思っていました。
ですが、それほど深刻な状況だったとは、これっぽっちも考えていませんでした。
死に至る病のイメージと言えば、病院で長く闘病しているものなのに……
現実は、最初の入院を知ってから三ヶ月も経たないくらいの、あっと言う間の出来事でした。
仕事に追われていると長い不在も忘れてしまうくらい、あっと言う間の短い期間……。
そのあまりの短さに、あまりにも現実感が無くて、仕事をしながら「朝礼のあれは幻聴だったのでは?」と思ったりもしました。
しかし、午後には不在のデスクに花が飾られ、それが視界に入るたびに現実を突きつけられました。
他人の死に接した時、自分の感情をどういう風に処理したら良いのか、未だに自分は分かりません。
きっと社会人としては、悲しむべき場ではきちんと悲しみ、それ以外の場では気持ちをぱっと切り替えられるのが「正しい」のだろうと思います。
ですが人間の心は機械のオンオフのように、ぱっと切り替えができるものではありません。
今日は仕事中もとりとめなく「最後に交わした言葉って何だったっけ」「最後に見たのはどんな顔だったっけ」など、様々な記憶や思いが浮かんでは消えていました。
特別親しかったわけではない、ただ席や名前の順番が近かっただけの同僚……。
それでも、ついこの前までそこにいた人間が、もう永遠に帰って来ないというのは、あまりにも重い現実です。
花の飾られたデスクには、使い古された辞書や椅子の腰当クッションがそのまま残されていました。
きっと、また帰って来て、普通に仕事をするつもりだったんだろう……そう思うと、切なくてなりません。
あと一週間も経てば、桜の咲く季節になったのに……
今年の桜も見られないまま逝ってしまうなんて、きっと本人を含め誰も予想もしていなかったでしょう。
人生は儚いもの、予想がつかないものと聞かされていても、忙しない日々の中ではついついそれを忘れてしまいます。
そして、ふいの訃報に遭ってやっとそれを思い出す……いつも、それの繰り返しです。
仕事に追われて嫌になる日も、退屈で飽きてしまう日も、逃げ出したくなるような日も……それはあの人が、生きられなかった一日。
毎年めぐって来る当たり前の光景も、あの人や、他の誰かが、見られなかった光景。
今年の桜は、きっといつも以上に、切なく綺麗に見えるような気がします。
いつもと全く同じように会社に出た今日、同僚の訃報を聞きました。
フィクションの世界では、死の前にはそれらしい予兆があり、本人も周りも薄々それを察しているものなのに……
現実には心の準備も予想もしない、全くの不意打ちです。
突然の訃報なんて、今までに何度も聞かされてきたのに……いつまで経っても、慣れることも予想することもできません。
入院したことは知っていましたが、一度は復帰もし、次は検査入院だと聞いていたので「経過観察だろう」くらいに思っていました。
それが、思いの外長く会社を休んでいて「あれ?」とは思っていました。
ですが、それほど深刻な状況だったとは、これっぽっちも考えていませんでした。
死に至る病のイメージと言えば、病院で長く闘病しているものなのに……
現実は、最初の入院を知ってから三ヶ月も経たないくらいの、あっと言う間の出来事でした。
仕事に追われていると長い不在も忘れてしまうくらい、あっと言う間の短い期間……。
そのあまりの短さに、あまりにも現実感が無くて、仕事をしながら「朝礼のあれは幻聴だったのでは?」と思ったりもしました。
しかし、午後には不在のデスクに花が飾られ、それが視界に入るたびに現実を突きつけられました。
他人の死に接した時、自分の感情をどういう風に処理したら良いのか、未だに自分は分かりません。
きっと社会人としては、悲しむべき場ではきちんと悲しみ、それ以外の場では気持ちをぱっと切り替えられるのが「正しい」のだろうと思います。
ですが人間の心は機械のオンオフのように、ぱっと切り替えができるものではありません。
今日は仕事中もとりとめなく「最後に交わした言葉って何だったっけ」「最後に見たのはどんな顔だったっけ」など、様々な記憶や思いが浮かんでは消えていました。
特別親しかったわけではない、ただ席や名前の順番が近かっただけの同僚……。
それでも、ついこの前までそこにいた人間が、もう永遠に帰って来ないというのは、あまりにも重い現実です。
花の飾られたデスクには、使い古された辞書や椅子の腰当クッションがそのまま残されていました。
きっと、また帰って来て、普通に仕事をするつもりだったんだろう……そう思うと、切なくてなりません。
あと一週間も経てば、桜の咲く季節になったのに……
今年の桜も見られないまま逝ってしまうなんて、きっと本人を含め誰も予想もしていなかったでしょう。
人生は儚いもの、予想がつかないものと聞かされていても、忙しない日々の中ではついついそれを忘れてしまいます。
そして、ふいの訃報に遭ってやっとそれを思い出す……いつも、それの繰り返しです。
仕事に追われて嫌になる日も、退屈で飽きてしまう日も、逃げ出したくなるような日も……それはあの人が、生きられなかった一日。
毎年めぐって来る当たり前の光景も、あの人や、他の誰かが、見られなかった光景。
今年の桜は、きっといつも以上に、切なく綺麗に見えるような気がします。
彼岸となり、ようやく暑さも一段落してきましたが…
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、せっかく覚えた「熱中症対策」も来年の夏には忘れてしまいそうな気がしますので、ここらでちょっと「覚え書き」を残しておきます。
(ここでは、特に「自転車」や「徒歩」での外出のポイントを書いておきます。)
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、せっかく覚えた「熱中症対策」も来年の夏には忘れてしまいそうな気がしますので、ここらでちょっと「覚え書き」を残しておきます。
(ここでは、特に「自転車」や「徒歩」での外出のポイントを書いておきます。)
- 外出する時間帯の選択
- 外出する時間帯を選ぶ際には、単に「気温」だけで考えるのではなく「影の長さ」もポイントです。
太陽が真上で影が短い時間帯ですと、どこへ行っても「日陰」が無く、直射日光浴びまくりの過酷な外出になってしまいます。
あと、時間帯によって「自分が通りたい道」に影が出るか出ないかも変わってきますので、そのあたりもポイントかと。
直射日光を防げるかどうかだけでも、かなり体力の消耗が変わってきます。
- 目的地までの経路選択も重要
- 目的地までのルート選択でも、なるべく「日陰の多い道」や「涼しい道」を選ぶのがポイントです。
緑の多い公園の脇の道などはかなり涼しいのですが、同じ市内でも場所によっては熱気の吹き溜まりのような道もあり、かなり温度差があります。
(車の多く停まった駐車場のそばは、車体で熱せられた空気が吹き寄せてくるので地獄です。室外機の熱が排出される住宅密集地や大型店舗のそばの道もかなりの暑さです。)
意外だったのが「川沿いの道」で「水の上を通れば空気が冷まされるのでは?」と期待して行ったところ、全然涼しくなくてショックでした…(川の規模にもよるのかも知れませんが…街中の緑が少なく岸がコンクリートで固められているような川は大した冷却効果が無いのかも知れません)。
- 外出時には冷えたペットボトル飲料を持って行こう
- 自転車や徒歩での外出では、屋外で身体を冷やす術がほとんどありません。
ハンディファンを持って行ったところで、外気温が一定温度を超えると「生ぬるい風」しか来ません。
なので、外出時には冷えたペットボトル飲料や冷却材や氷嚢など、身体を冷やせるものを持っていくのがポイントです。
冷えたペットボトルは首筋などに当てて冷やすのにも使えますし、飲めば身体の中からクールダウンできます。
自分は特に「信号待ち」の間にクールダウンを行っていました。
自転車でも走行中なら風を切って行けるので多少ラクなのですが、信号待ちなどで止まっていると、ただただ日光に灼かれているだけなので…。
- 自転車を停める場所もポイント
- 自転車の駐輪場、店によって日陰だったり日向だったり、屋根があったり無かったりします。
真夏だと、ほんの数分の買い物でもサドルが灼熱になるので、なるべく日陰の涼しい駐輪場がある店がポイントです。
あと、信号待ちなどの一時的な停車であっても「マンホールの上」は避けた方が良いです。
…まぁ、停めれば嫌でも分かることなのですが…真夏のマンホールは焼けた鉄板です。
アスファルトの照り返しどころではない「熱」が来て、鉄板焼きの具材になった気分を味わえます…。
いつも疑問に思っているのですが…
AI技術の根幹をなす「データ学習」が、現状ほぼ無規制状態なこと…皆さん、軽く考え過ぎじゃないですか?
何でも学習されてしまうということは、個人情報だろうが、その人にとって大切な「思い出」だろうが、他の雑多なデータと「一緒くた」にされて、他人にいいように利用されかねない…ということです。
事実、個人の顔写真や声のデータを用いた性的ディープフェイクや詐欺行為は既に問題となっていますし…
私的な「日々の記録」や、大切なペットの画像が、どこかの誰かに酷いパロディとして生成流用されてしまう可能性だって、否定はできません。
そもそも、そうやって「自分の大切なもの」が他の誰かに「勝手に酷い使われ方をされない」ために「肖像権」や「著作権」というものが整備されているですが…
AIがデータ学習を「法の抜け穴」として使ってしまえば、それらの権利がまるで意味を成さなくなります。
もっと真面目にAIが「学習して良いデータ」と「学習すべきでないデータ」について議論すべきだと思うのですが…現状、AI事業者やAI開発者ですら、あまりそこを真剣に考えていなさそうですよね?
(一部のAI事業者は学習の際にクリエイターに許可を取っているとも聞きますが、有名どころのAI事業者でそういう話はあまり聞きませんよね…。少なくとも、大々的に「学習ルール」を発表・周知したりはしていないですし…。)
それと、皆さんAIを「利用する」ことばかり考えていそうなのですが…
その「AI利用」の際、同時に自分の情報がAIに「学習」「利用」されている可能性って、気づいていないのでしょうか?
利用者は「AI対自分」の「1対1」の対話と思っているかも知れませんが…
そのチャットログ、普通に記録されていますよね?
(某AIサービスで、設定をミスしたユーザーのチャットログが全公開状態になってしまっていて、恥ずかしい(性的な)リクエストや罪の告白が他ユーザーに丸見えになっていた…という話も聞きますし…。)
ユーザーの目には「AI」しか見えていないのかも知れませんが…その背後にはそのAIを運営する「企業」があり、そのAIを管理する「人間」が存在し…モノによっては、その背後で「国」が動いているかも知れないのです。
信頼性の不明なAIに、自分の個人的な悩みや弱みをわざわざ握らせるって、怖くないですか?
ネガティブな情報ではなかったとしても…自分の趣味嗜好や思考傾向を、AIにまるっと把握されるのも、それはそれで怖くないですか?
ハッキングや情報流出で悪意ある人間にその情報が渡ったら、普通に詐欺や変な勧誘に使われてしまいそうじゃないですか。
あるいは、もしAI事業者の背後に「国」があり、利用者の動向を把握しているとしたら…「この人間の思考傾向は我が国に不利益をもたらすかも知れない」みたいな感じで、密かにブラックリスト入りさせられることもあるかも知れないじゃないですか。
(なお、ここで言う国は「自国」とは限らず、そのAIの運営企業のある「国」になります。)
AI技術は良い面ばかりではありません。
これまで法で守られてきた「人間の尊厳」や「人間が人間らしく生きられる権利」を、とんでもない抜け穴を開けられて壊されてしまう可能性があるのです。
さらには、本来なら他人が知りようのないその人の「内面」が、一部の企業や人間や国家に把握・監視されかねない危険もあります。
個人的には「ネットに上がっている画像を、いちいちフェイクか本物か考えなければいけない時代って、面倒くさっ」と思っているのですが…
皆さん、そういうAIの「負の側面」ってあまり考えないものなんでしょうか?
普及しきって「手遅れ」になる前に「欠点はできるだけ先に洗い出しておいた方が良い」みたいなことを思う人間って、あまり多くないのでしょうか??
AI技術の根幹をなす「データ学習」が、現状ほぼ無規制状態なこと…皆さん、軽く考え過ぎじゃないですか?
何でも学習されてしまうということは、個人情報だろうが、その人にとって大切な「思い出」だろうが、他の雑多なデータと「一緒くた」にされて、他人にいいように利用されかねない…ということです。
事実、個人の顔写真や声のデータを用いた性的ディープフェイクや詐欺行為は既に問題となっていますし…
私的な「日々の記録」や、大切なペットの画像が、どこかの誰かに酷いパロディとして生成流用されてしまう可能性だって、否定はできません。
そもそも、そうやって「自分の大切なもの」が他の誰かに「勝手に酷い使われ方をされない」ために「肖像権」や「著作権」というものが整備されているですが…
AIがデータ学習を「法の抜け穴」として使ってしまえば、それらの権利がまるで意味を成さなくなります。
もっと真面目にAIが「学習して良いデータ」と「学習すべきでないデータ」について議論すべきだと思うのですが…現状、AI事業者やAI開発者ですら、あまりそこを真剣に考えていなさそうですよね?
(一部のAI事業者は学習の際にクリエイターに許可を取っているとも聞きますが、有名どころのAI事業者でそういう話はあまり聞きませんよね…。少なくとも、大々的に「学習ルール」を発表・周知したりはしていないですし…。)
それと、皆さんAIを「利用する」ことばかり考えていそうなのですが…
その「AI利用」の際、同時に自分の情報がAIに「学習」「利用」されている可能性って、気づいていないのでしょうか?
利用者は「AI対自分」の「1対1」の対話と思っているかも知れませんが…
そのチャットログ、普通に記録されていますよね?
(某AIサービスで、設定をミスしたユーザーのチャットログが全公開状態になってしまっていて、恥ずかしい(性的な)リクエストや罪の告白が他ユーザーに丸見えになっていた…という話も聞きますし…。)
ユーザーの目には「AI」しか見えていないのかも知れませんが…その背後にはそのAIを運営する「企業」があり、そのAIを管理する「人間」が存在し…モノによっては、その背後で「国」が動いているかも知れないのです。
信頼性の不明なAIに、自分の個人的な悩みや弱みをわざわざ握らせるって、怖くないですか?
ネガティブな情報ではなかったとしても…自分の趣味嗜好や思考傾向を、AIにまるっと把握されるのも、それはそれで怖くないですか?
ハッキングや情報流出で悪意ある人間にその情報が渡ったら、普通に詐欺や変な勧誘に使われてしまいそうじゃないですか。
あるいは、もしAI事業者の背後に「国」があり、利用者の動向を把握しているとしたら…「この人間の思考傾向は我が国に不利益をもたらすかも知れない」みたいな感じで、密かにブラックリスト入りさせられることもあるかも知れないじゃないですか。
(なお、ここで言う国は「自国」とは限らず、そのAIの運営企業のある「国」になります。)
AI技術は良い面ばかりではありません。
これまで法で守られてきた「人間の尊厳」や「人間が人間らしく生きられる権利」を、とんでもない抜け穴を開けられて壊されてしまう可能性があるのです。
さらには、本来なら他人が知りようのないその人の「内面」が、一部の企業や人間や国家に把握・監視されかねない危険もあります。
個人的には「ネットに上がっている画像を、いちいちフェイクか本物か考えなければいけない時代って、面倒くさっ」と思っているのですが…
皆さん、そういうAIの「負の側面」ってあまり考えないものなんでしょうか?
普及しきって「手遅れ」になる前に「欠点はできるだけ先に洗い出しておいた方が良い」みたいなことを思う人間って、あまり多くないのでしょうか??
世の中「頭が良いはず」なのに、なぜか「おかしな方向」へ行ってしまう人って、いますよね?
元から「頭が悪い」ならともかく、高学歴だったり高スペックだったりするにも関わらず、「そうはならんやろ」という「やらかし」や「問題発言」で身の破滅を招いてしまうタイプの人が…。
そういう人々を見るたびに「本当の頭の良さって何なんだろう…?」と疑問に思うのですが…
最近、ふと思いついたことがあります。
それは「『自分にとって“不都合”な意見を受け入れられるか否か』が“知性の分かれ目”なのではないか?」ということです。
自分と「真逆」の意見、自分の主張に「反対」する意見を、とことん拒絶し、あまつさえ「攻撃」する人って、いますよね?
自分は昔から、ソレに疑問を抱いていました。
なぜなら自分にとって大切なのは「自分の意見が通るかどうか」ではなく「何が一番“最良”の答えか」だったからです。
だって、多数決で勝利して自分の意見が通ったとして、それが“最悪”の間違いだった場合、賛成していた人はもちろん、反対していた人まで全員道連れにしての「破滅コース」じゃないですか。
自分にとっての優先事項は、常に「自分がこの世界で生き残っていくこと」でした。
そのためには「自分を生き残らせてくれる答え」こそが必要で、たとえそれが「自分の」意見でなくても構わないのです。
たとえばサバイバルな状況下で、サバイバル知識が全く無い「自分」と、サバイバル知識に長けた「他人」がいたとして――そこで「自分の意見が通らないと気が済まない」なんてワガママを言っていられますか?
…思うに「異論を絶対に認められない人」って、人生において、判断ひとつが生死を分けるような「ギリギリの極限状態」に置かれたことがないのではないでしょうか(いや、そもそもそこに置かれたことのある人の方が少なそうですけど…)?
「自分の選択が間違っていたら、そこで人生ゲームオーバー」という切迫感を味わったことのない、「平和」過ぎる意識の持ち主なのではないでしょうか?
人生に危機感を持っている人間は、一つの結論だけで「安心」したりはしません。
それが「間違っていないか」を常に警戒し、反論含め数多くの意見を集めて「比較検討」します。
さらに「比較」する際には「主観的」な感情で判断を下すのでなく、「客観的」な情報で正否を見極めます。
感情的に「好ましい・好ましくない」で判断するのは、平和惚けした人間のすること。
常に緊張感を持って生きている人間に、感情で判断するという選択肢は(趣味の買い物の選択etcでもない限り)そもそも存在しないのです。
…ひょっとすると、日本は平穏な時代が長かったため、危機感の無い人間が多く育ってしまったのかも知れません。
ですが「これから」の時代は、危機感無くフラフラ生きていられるほど安穏とした時代ではないかも知れないのです。
過去記事で、自分は常に「半信半疑」のスタンスで生きている、と書きましたが…
「どんなに信じたい意見でも、最低1%は疑いの余地を持つ」「どんなに否定したい意見でも、最低1%は信じる余地を持つ」――これって「思考の機動力」を保つために必要な考えだと思うのです。
100%肯定または100%否定で思考が固まってしまうと、いざそれが間違っていた時、すぐには動けません。
それともう1つ、自分が心がけていることがあります。
それは「異論を“おもしろい”と思える心を保つ」ことです。
人が自分の意見とは違う「異論」を攻撃しがちなのは、それを「おもしろくない」「憎らしい」と思うからではないでしょうか?
そしてそう思うのは、その異論が自分の意見を「否定」しているように感じるからなのではないでしょうか?
ですが異論は必ずしも、自分の意見を「否定」するものではありません。
それを「弱点の指摘」と捉えるなら、それは「弱点克服のヒント」になります。
それが「思いもしなかった別角度からの意見」であるなら「それを取り入れれば、自分の意見はさらに深みを増す」ということです。
異論は使い方次第で、自分の意見をパワーアップさせるものになるのです。
それを思えば、異論を知るのって「おもしろい」と思いませんか?
…逆に言えば、それを「おもしろい」と思えないのは、その人に異論を上手く取り入れられるだけの「知恵」が無いからなのでしょうね…。
自分は、異論を端から否定するのは「愚か者」だと、子どもの頃から思っていました。
討論番組で他者の意見を遮って自分の意見を押し通そうとする「識者」を「みっともないな」という目で見てきました。
なので、そんな「愚か者」に自分からなりに行く気は無いのです。
まして「愚か者」だと、人生の破滅リスクが上がってしまいますので…。
元から「頭が悪い」ならともかく、高学歴だったり高スペックだったりするにも関わらず、「そうはならんやろ」という「やらかし」や「問題発言」で身の破滅を招いてしまうタイプの人が…。
そういう人々を見るたびに「本当の頭の良さって何なんだろう…?」と疑問に思うのですが…
最近、ふと思いついたことがあります。
それは「『自分にとって“不都合”な意見を受け入れられるか否か』が“知性の分かれ目”なのではないか?」ということです。
自分と「真逆」の意見、自分の主張に「反対」する意見を、とことん拒絶し、あまつさえ「攻撃」する人って、いますよね?
自分は昔から、ソレに疑問を抱いていました。
なぜなら自分にとって大切なのは「自分の意見が通るかどうか」ではなく「何が一番“最良”の答えか」だったからです。
だって、多数決で勝利して自分の意見が通ったとして、それが“最悪”の間違いだった場合、賛成していた人はもちろん、反対していた人まで全員道連れにしての「破滅コース」じゃないですか。
自分にとっての優先事項は、常に「自分がこの世界で生き残っていくこと」でした。
そのためには「自分を生き残らせてくれる答え」こそが必要で、たとえそれが「自分の」意見でなくても構わないのです。
たとえばサバイバルな状況下で、サバイバル知識が全く無い「自分」と、サバイバル知識に長けた「他人」がいたとして――そこで「自分の意見が通らないと気が済まない」なんてワガママを言っていられますか?
…思うに「異論を絶対に認められない人」って、人生において、判断ひとつが生死を分けるような「ギリギリの極限状態」に置かれたことがないのではないでしょうか(いや、そもそもそこに置かれたことのある人の方が少なそうですけど…)?
「自分の選択が間違っていたら、そこで人生ゲームオーバー」という切迫感を味わったことのない、「平和」過ぎる意識の持ち主なのではないでしょうか?
人生に危機感を持っている人間は、一つの結論だけで「安心」したりはしません。
それが「間違っていないか」を常に警戒し、反論含め数多くの意見を集めて「比較検討」します。
さらに「比較」する際には「主観的」な感情で判断を下すのでなく、「客観的」な情報で正否を見極めます。
感情的に「好ましい・好ましくない」で判断するのは、平和惚けした人間のすること。
常に緊張感を持って生きている人間に、感情で判断するという選択肢は(趣味の買い物の選択etcでもない限り)そもそも存在しないのです。
…ひょっとすると、日本は平穏な時代が長かったため、危機感の無い人間が多く育ってしまったのかも知れません。
ですが「これから」の時代は、危機感無くフラフラ生きていられるほど安穏とした時代ではないかも知れないのです。
過去記事で、自分は常に「半信半疑」のスタンスで生きている、と書きましたが…
「どんなに信じたい意見でも、最低1%は疑いの余地を持つ」「どんなに否定したい意見でも、最低1%は信じる余地を持つ」――これって「思考の機動力」を保つために必要な考えだと思うのです。
100%肯定または100%否定で思考が固まってしまうと、いざそれが間違っていた時、すぐには動けません。
それともう1つ、自分が心がけていることがあります。
それは「異論を“おもしろい”と思える心を保つ」ことです。
人が自分の意見とは違う「異論」を攻撃しがちなのは、それを「おもしろくない」「憎らしい」と思うからではないでしょうか?
そしてそう思うのは、その異論が自分の意見を「否定」しているように感じるからなのではないでしょうか?
ですが異論は必ずしも、自分の意見を「否定」するものではありません。
それを「弱点の指摘」と捉えるなら、それは「弱点克服のヒント」になります。
それが「思いもしなかった別角度からの意見」であるなら「それを取り入れれば、自分の意見はさらに深みを増す」ということです。
異論は使い方次第で、自分の意見をパワーアップさせるものになるのです。
それを思えば、異論を知るのって「おもしろい」と思いませんか?
…逆に言えば、それを「おもしろい」と思えないのは、その人に異論を上手く取り入れられるだけの「知恵」が無いからなのでしょうね…。
自分は、異論を端から否定するのは「愚か者」だと、子どもの頃から思っていました。
討論番組で他者の意見を遮って自分の意見を押し通そうとする「識者」を「みっともないな」という目で見てきました。
なので、そんな「愚か者」に自分からなりに行く気は無いのです。
まして「愚か者」だと、人生の破滅リスクが上がってしまいますので…。
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