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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。

先日「イーロン・マスク氏が、自身のツイートの閲覧数が減った原因を社員に問い詰めたものの、理由が分からなかった」というニュース記事を読んだのですが…。
 
これを読んだ時の率直な感想は「え?表示回数の激減って、Twitter Blueの開始とアレやソレの仕様変更のせいだと思ってたけど、違うの?」でした。
 
そもそも記事で「閲覧数」と書かれていたのが、個人的にとても引っかかったのですが…
 
(まるでユーザーが自身の意思で閲覧した回数のように読めてしまうので…。)
 
その本質を考えれば「表示回数」の方がより正確だと思っています。
 
ユーザーの好みや意思と関係なく、勝手に表示されて視界に入るものも多いですし、画面や検索結果に表示されないツイートは、そもそも閲覧したくても「できない」のですから…。
 
(操作方法をある程度知っていれば表示できますが、「やり方が分からない」「知っていても面倒くさくてそこまでしない」人間は多いと思います。)
 
気づいている方が、どこまでいらっしゃるのか分かりませんが…
 
Twitterでは、ある時期を境に「新着ツイート」が表示されにくくなりました。
 
優先的に表示されるのは、何で決められているのか分からない「おすすめ」「話題」のツイートばかり…。
 
デフォルト画面のままで設定を変えずにいると、フォローしているユーザーさんのツイートですら、なかなか見られない場合があります。
 
ツイート検索に至っては、上部のタブを「新着」に切り替えないと、実際には検索結果があるにも関わらず、何のツイートも表示されないことがあります。
 
これまでは、ある程度の頻度で投稿していれば、それがフォロワーさんや他の誰かの目に留まってバズる…といったこともあったのでしょうが…
 
(あと、ハッシュタグなどを工夫すれば露出が増えるといったことが、以前にはあったのですが…。)
 
現在はその「目に留まる」ことが…否、もっと前段階の「目に入る」ことが、非常に難しくなっているのです。
 
そもそも現代は、情報に対して「受け身」な人が多くなっています。
 
自ら情報を獲りに行く・探しに行くという感じではなく、ただ「偶然」目の前に流れてくる情報を、気になれば読み、気にならなければスルーする…そんなスタイルが増えてきている気がします。
 
これでは、「目の前」に流れて来ない情報とは、永遠に出逢えないことになります。
 
そして最近では、その「目の前に流れて来る・流れて来ない」が、Twitterさんの側で勝手に選別されてしまっているのです。
 
その選別にはおそらく、有料(Twitter Blue)ユーザーかどうかも関わって来ます。
 
(一時期、Twitter Blueユーザーがツイートを編集すると、そのツイートが一定時間ずっとTL上部に居残り続けるという不具合が出たこともありましたね…。)
 
ツイート自体の「おもしろさ」や「投稿頻度」とは関係の無い、「お金を払っているか否か」や「既に」インフルエンサーになっているかなどで、人目に触れる「チャンスの数」自体を左右されてしまうということです。
 
(一時期、運営さんのアルゴリズム変更によって、イーロン・マスク氏のツイートばかりが「優先表示」された…なんていう事象もありましたね…。)
 
これまでは「無名」の状態からスターダムにのし上がっていくという「シンデレラ・ストーリー」も普通にあったのでしょうが…
 
今後はおそらく、無名でも最初から恵まれた立場の人間や、よほど運の良い人間でないと、成功するのは難しいでしょう。
 
しかもTwitterの仕様自体が、数ツイートおきに広告ツイートが表示されるというストレス仕様になってしまいました。
 
(「広告はウザ過ぎると逆効果」は多くの人間が気づいていることだと思っていたのですが…アメリカだと考えが違うのでしょうか?もしくは最近になって感覚が変わってきたのでしょうか?)
 
こういうストレス仕様だと、「あまり下の方までスクロールする気になれない=あまり多くのツイートが読めない」人が増えるのではないでしょうか?
 
それに、そもそも「これまで見られていたツイート(フォローしている人のツイート)が見られなくなった」「優先表示されているツイートが自分好みでなく、全くおもしろくない」という状態になったら、Twitterの閲覧自体がつまらなくなり、開く頻度が減ってしまうとは思いませんか?
 
結果、ユーザーの平均ツイート閲覧数が、以前と比較して(広告ツイートを除いて)0.何パーセントか減っている…なんてことも、充分あり得ると思います。
 
(あくまで想像です。データが取れる立場ではないので、実際のところは分かりません。)
 
そんな諸々の仕様変更が、めぐりめぐって多くの人の「Twitter表示回数減少」現象に結びついているのではないかと…。
 
しかし、減少を食い止める方法が無いわけではありません。
 
それは「新着ツイートの見方」を、なるべく多くのTwitterユーザーさんに拡散することです。
 
デフォルト状態では「ごく一部のツイートしか見られていない」という事実、そして「どうすれば新着ツイートが見られるのか」その方法を、なるべく多くの人にシェアするのです。
 
実はTwitterさんでは、一時期「ツイートを新着に切り替えるタブ」自体が消滅したこともありました。
 
この時、自分は大慌てで「新着ツイートが見られるURL」をソーシャルブクマしまくりました。
  ↓
津籠睦月のブックマーク:Twitterスコッパー支援
 
これは、自分が閲覧する用に…というよりは、少しでも(自分も含めた)「投稿小説系ツイート」の閲覧数減少を食い止めたいという思いからでした。
 
(ソーシャルでブックマークすることにより、多少は他の誰かの「気づき」に繋がるかも知れないという思いで…。)
 
新着が見られなくなるということは、自分のツイートが閲覧される可能性が激減するということ…下手するとTwitterを続ける意義自体、消滅してしまうかも知れないということです。

なので、自分は地道にちょこちょこ、情報発信による状況改善を試みているのですが…(影響力のない1ユーザーでは「焼け石に水」というのは承知の上で…)。
 
世間では、早々とTwitterの「代わり」を探し始めている方も多いようですね…。
 
自分も正直、代替手段を検討するべきかと迷っています。
 
あるいは逆に表示回数が少ないことを逆手にとって、もっと投稿頻度を増やして自由に遊んでみようかとも…。
 
(これまでは「あまり頻繁に投稿し過ぎると、ウザがられるのでは…」と思い、いろいろと控えめにしていました。)
 




 
関連記事(別サイト:note)>Twitterを新着順で見る方法(見られる情報量にだいぶ差が…)


 


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他人に思いをやる――他者に思いを馳せることを「思いやり」と呼ぶなら、それは実は、最強の未来予測(シミュレーション)スキルなのではないか…と思うことがあります。
 
なぜなら「自分とは違う他人」の心や行動を「想像」することで、見えてくるものがあるからです。
 
「思いやり」と聞くと、皆さんたぶん「道徳」だとか「倫理」を想像されると思います。
 
「徳を積む」のには役立っても、自分の人生のメリットにはならないと思っている人も多いのではないでしょうか?
 
ですが、この「思いやり」…「道徳」や「倫理」といった面を省き、単純に「スキル(能力)」として見るなら、実は人生を左右するレベルで役に立つ、かなりの強スキルなのです。
 
たとえば「ビジネスマンが新商品を開発する場合」を例に挙げてみます。
 
「自分」とは全く違う年齢・性別・職業の人間がターゲットの商品を、「自分の好み」に合わせて作ったとして…果たして売れるでしょうか?
 
ターゲットのことをリサーチして、「この客層では、今コレが流行っているから、こういうモノが好まれるのではないか?」と想像してみた方が、良い品が作れるとは思いませんか?
 
それはビジネス以外での、「人生における様々な場面」でも言えることです。
 
人生で大切な選択をする時、何らかの行動を「選ぶ」時…知らず知らずのうちに、他人の行動を勝手に予測してはいないでしょうか?
 
「自分なら、こういう時にこう動くから、相手もこう動くはずだ」と、決めてつけてはいないでしょうか?
 
そうして「甘い予測」の上で行動を選択した挙句、「どうして思い通りにならないんだ」と嘆いたりはしていないでしょうか?
 
そもそも他人は、「自分」の思った通りに動くような生き物ではありません。
 
「他人」には、「自分」とは違う心、違うスペック、違う思考パターンがあるからです。
 
たとえば「鳥なんだから、空を飛んで逃げられるだろう」と「ペンギン」や「ニワトリ」に対して思うのは、ただの物知らずですよね?
 
一見「同じ」に見えたとしても、生物は皆「違う」のです。皆が皆「同じ」には「動かない」ですし、「動けない」のです。
 
そんな「違う」生き物が、「自分」と「同じ」に動くとしたら、その方がむしろ「幸運」であり「奇跡」です。
 
世の中が「思い通りにならない」と感じるなら、まず「前提」が間違っていないかどうか、考えてみるべきなのです。
 
「自分ならぬ他人」がどう動くのか――「想像」するためには、他者を「知る」必要があります。
 
それは、ただ単に相手の趣味や性質を知ることだけではなく…自分と比べて「違い」を知ることです。
 
比べて「優劣」をつけるのではなく、単純に「性質の違い」として受け止めることです。
 
スズメにはスズメの良いところが、ニワトリにはニワトリの良いところがあるのですから、優劣をつけても意味がありません。
 
(そもそも優劣をつけて優越感に浸りたがる人間は、大概「他人より優れたところ」ばかりに目を向けて「他人の方が自分より優れているところ」を無視しがちなので、その時点で世界を読み誤ってオオヤケドです。)
 
人間の性質は千差万別――人の数だけありますので、1人2人を知ったくらいでは、シミュレーションが成り立ちません。
 
「Aさんなら、こう考える。Bさんだったら、ああ考える。Cさんなら…」
 
そんな風に、できる限り多くの思考サンプルを集めることで、世の中の「動き」が見えるようになります。
 
「この問題がこんな風に動いたのは、この界隈には○○さんみたいな性格の人間が多かったからだろう」
 
そんな風に、物事の「原因」や「理由」が見えてきます。
 
「○○さんみたいな性格の人が多いなら、こういう方法でアプローチすれば効くはずだ」
 
そんな「解決策」も見えてきます。
 
「他者の心を想像して、動きを予測して、先回りしてアプローチを考える」…一見、とても「ドライ」な考えに見えますが…
 
「自分とは違う他人の心」を、「自分と同じ考え」を押しつけずに「尊重」することは、それだけで、ある程度の「思いやり」になっているとは思いませんか?
 
…ただし、他人の心を思いやることで、逆に迷いが生まれることもあります。
 
なぜなら、物事には人の数だけ「答え」があり、万人に通じる「正解」など無いと、思い知ってしまうからです。
 
「Aさんにとってはコレが正解だけと、Bさんの場合には不正解なんだよな…。どうしよう…」ということになるのです。
 
しかし、それでも「思いやり」を身につけることにはメリットがあります。
 
他者に対する想像力が働くようになると、人生や世界に対する不満が減るからです。
 
何かが上手くいかないとしても、それを「時代や世界のせい」にすることもなく、「今回はAさんのパターンじゃなくて、Bさんのパターンで考えるべきだったかな…。ちょっと読み誤っちゃったな。次は上手くやろう」と前向きに考えられます。
 
世の中が「自分の思い通りにいかない」と嘆き続けるより、「世の中なんて、最初から思う通りにいかない」と割り切って「なら、どうするか」を考えた方が、人生を効率的に生きらるはずです。
 
「思いやり」はべつに「他人のために」するものでも何でもないのです。
 
「情けは他人のためならず(回り回って自分に返って来るもの)」ということわざと同じで、自分が幸せに生きるためにあるものなのだと、自分は思っています。
 


自分には物心ついた時から「他人をうらやましがる」という気持ちがありません。
 
それはべつに高尚な精神の持ち主だからというわけでも何でもなく、「人間なんて皆『一寸先は闇』『人間万事塞翁が馬』『禍福はあざなえる縄のごとし』なのに、何をうらやましがる要素があるっていうんだろう?」という、大変に可愛げのない思考回路の持ち主だからです。
 
目先の成功や幸福は、後に来る挫折や絶望の「前フリ」に過ぎないかも知れません。
 
この先の未来に何が待ち受けているかなんて、誰にも分からないのです。
 
むしろ、他人の幸せや成功を素直に羨ましがるなんて「その幸せや成功が『永遠に続く』と思っているドリーマーなのかな」と冷めた目で見てしまいますし…
 
「そんなものをいちいち羨ましがって自分の精神状態を悪化させるなんて『時間や人生の無駄』だ」と思ってしまいます。
 
実際、ひと昔前にテレビに出ずっぱりだった「時の人」が、今では「誰だっけ?」「そんな人いたっけ?」というくらい忘れ去られていることって、よくあるじゃないですか。
 
「時代の寵児」ともてはやされた成功者が、時代の変化とともに凋落して何もかも失うというのも、よくある話じゃないですか。
 
そんな浮き沈みの激しい世の中で、「一時的に浮かび上がっただけの人」をいちいち羨ましがって、醜い感情に振り回されるなんて、ばからしい話だと思いませんか?
 
後になれば絶対に「あれは無駄な時間だった」「なんであんな人を羨ましがっていたんだろう」となるに決まっています。
 
嫉妬している時間があるなら、その時間で「自分が幸せになるための行動」を起こした方が、よほど有意義だと思ってしまいます。
 
…それくらい自分は、シビアに世の中を見てしまうリアリストなのです。
 
自分がこんな心の境地にたどり着いた背景には、たぶん「自分の人生は自分で切り拓いていくしかない」「誰かが勝手に幸せにしてくれるなんてあり得ない」「むしろ、油断していたら命さえ失いかねない」という危機感自立心があるせいだと思います。
 
以前の記事にも書いた通り、自分は「あと数歩(※)で死ぬかもしれない目に遭った」ことが何度かあります。
 
(※「あと一歩」というほど切迫した状況ではなかったものの、死を意識するには充分な危機的場面。)
 
その時の「誰にも助けてもらえなかった」「自分で何とかするしかなかった」「いざという時に他人任せでは命が危ない」という意識から、人生に対する危機感自立心が芽生えたのではないかと…。
 
そして、そんな危機感や自立心を持って人生を歩んでいると、実際のところ「他人をうらやんでいる暇」が無いのです。
 
常に「これを備えておかないとマズい」「立ち塞がるこの壁を壊さないことには、本当の幸せにはたどり着けない」…と、やることがいっぱいあり過ぎて、そもそも「自分とは関係ない所で生きている他人」を気にしている余裕が無いのです。

自分の人生を切り拓くために「努力」するのは、疲れます。
 
無駄に終わるかも知れませんので、不安も焦燥もあります。
 
でも「誰かが勝手に人生を良くしてくれるわけなどない」ので、自分の手でやるしかないのです。
 
こうして必死に人生を歩んでいると、思います。
 
「世の中、本当にラクして人生を生きている人なんて、1人もいないんじゃないか?」と。
 
誰かの成功や幸運は、知られざる「死に物狂いの努力」の結果なのかも知れません。
 
「成功して『ズルい』」などと思う余地もないほど「当然の報い(良い意味での)」なのかも知れません。
 
それを知らずに「ズルい」などと思ってしまったら、こちらの方が「何も分かっていない」「何も見えていない」ことになってしまうではないですか。
 
もし自分自身、必死に努力し、苦労した末に成功を掴むことができたとして――それを、何も知らない誰かに「ズルい」と嫉妬され、いわれのない誹謗中傷をされたら、嫌じゃないですか?
 
少なくとも自分は、この世界が「そんな世界」であって欲しくないと思っています。
 
だから、いろいろな意味で、他人に嫉妬を抱かないのです。
 
嫉妬を抱く前に「この人生において、本当の成功って何だろう?」「あの人の『成功』は、うらやましがるほど自分にとって魅力的なものなんだろうか?」と考えます。
 
それに「成功した他人」が自分に幸せをもたらしてくれることだって、あるとは思いませんか?
 
「成功」して「新しい産業を興した」人がいるなら、その人は新たな雇用を生み出してくれます。
 
「成功」して「知名度を得た」人がいるなら、その人はその影響力を活かして、社会を良い方向に変えてくれるかも知れません。
 
…もちろん「そうでない」場合も多いのでしょうが…
 
少なくとも「他人の成功は自分の不幸」という「思い込み」に支配されない方が、人生楽しく生きていけると思いませんか?
 

たぶん10年ぶりくらいに、自転車を買い換えました。

タイヤがダメになってしまい、それまで乗っていたのが「ノーパンクタイヤ」という特殊なタイヤの自転車だったため、タイヤ交換もできずに丸ごと買い換えるハメに…。
 
できれば新しいものもノーパンクタイヤが良かったのですが、行った店には無く…
 
ちょうど目についたもので「刺さりパンクに強い肉厚タイヤ」の自転車があったので、それにしました。
 
田舎の道だと、パンクはしょっちゅうで、ひどい時には1年に1回くらいのペースで悩まされていたので、結構重要なポイントなのです…。
 
以前乗っていた「ノーパンクタイヤ」は、タイヤの中に空気ではなく、ゴムのようなものが詰まっているので、パンクすることがないのです。
 
ただし空気でない分、普通の自転車よりも重く、車体自体もそのタイヤに耐えるための特殊仕様になっています。
 
実際、最初にノーパンクタイヤの自転車に乗った時には「重…っ」と思ったのですが…
 
「でもコレ、体幹が鍛えられて、逆に良いのでは?」とポジティブに捉えて、むしろ喜んで乗っていました。
 
普通の自転車に乗り換えた今は、ギアが3速でも軽く感じ、逆に体が鈍ってしまうのではないかと不安です…。
 
(体幹を鍛えるのに、別の手段を考えなければいけないかも知れません。)
 
…と言うか、ノーパンクタイヤの自転車が駄目になってしまった原因には、県外に就職する際に自転車を手放したウチの兄弟が、帰省するたびに勝手に自転車を乗り回し(しかもそれで山登りまでして)酷使したせいもあると思います…。
 
(しかも、勝手に借りておいて「この自転車、重ぇよ」と文句を言われるという理不尽さ…。)
 
ちなみに自転車はタイヤの空気が抜けてくると、パンクしやすくなるそうです。
 
以前はそもそも空気を入れる必要が無くてラクだったのですが…
 
これからはマメに空気チェックをしていかなければなりません…。
 

何となく感じることなのですが…
 
当たり前のこと」や「基本的なこと」が意外と語られていない…むしろ、これを語ることを避けている人が多くないでしょうか?
 
確かに「当たり前のこと」を語ると「今さら何でそんな『当たり前のこと』を語っているんだ」という目で見られることもあるでしょう。
 
それどころか、下手をすると知識レベルの低い人間に見られてしまうかも知れません。
 
しかし、それでも「当たり前のこと」や「基本」「基礎」を語るのは、大切で、重要で、誰かがやらなければならないことなのです。
 
なぜなら、ほとんどの人が「当たり前」だと思っているその情報を、まだ知らない人間も確実に存在するからです。
 
人間は皆、知識ゼロの状態から生まれてきて、成長とともに様々なことを学んでいきます。
 
どんなにIQの高い人間だろうと「まだ何も知らない」時期はあるのです。
 
どんなに当たり前な「常識」でも、必ずどこかで「最初にそれを教えてくれる何か」が必要になります。
 
でも、ネットでも、人との会話でも…教えてもらえないうちは(あるいは観察して学べないうちは)、人はそれを知らないままです。
 
どんなに知識を蓄えようと、人は必ずそのうちに、この世から退場していきます。
 
そして、まだ知識を持たない赤ん坊が次々に登場し、世代交代が起きます。
 
知識は世代間で勝手に引き継がれるものではなく何かしら「伝える手段」を残しておかなければ、継承されていかないのです。
 
しかし人は「当たり前だと思っていること」に関しては、あまり熱心に伝えたがりません。
 
何となく「当たり前のことなんだから、当たり前に受け継がれていくだろう」と思っているのかも知れません。
 
しかし、皆が皆「当たり前だから」と語らずにいたら、それはどこかで途切れてしまうのです。
 
1人の人間が一生のうちに触れられる知識・情報には限りがあります。
 
必ずどこかで知識・情報の「取りこぼし」が起きます。
 
皆が「当たり前」だと思っている知識や情報も、その人の置かれた環境によっては「一度も触れたことがないまま」かも知れないのです。
 
それに、基本や基礎をすっ飛ばしてしまうと、思わぬ「誤解」や「すれ違い」が生まれかねません。
 
素人に料理をやらせる企画などで「米を洗剤で洗おうとする」人がたまにいて、視聴者の笑いを誘ったりしていますが…
 
それも「米は水で研ぐ」という「基本」を知らないからこそ起こる誤解です。
 
基本を知らなければ「米を洗う?洗うと言ったら洗剤だ!」という思考になりかねない、ということです。
 
(中国では野菜の残留農薬を洗い流すための「洗剤」があるそうなので、食材に洗剤を使うということも、全く無いわけではないですし…。)
 
「当たり前」や「基本的なこと」を、わざわざ言葉で説明するのは、面倒なことです。
 
また、情報の受け取り手の側も「珍しい情報」「高等技術」「最新のもの」には食いついても、「当たり前」や「基本的な情報」にはあまり興味を示しません。
 
ですが、誰かがそれを発信し、さらにその「基本・基礎・当たり前の価値」を伝えなければ、世の中、いつの間にか誤解が蔓延し、非効率報われない世界になってしまいます。
 
なので、自分もコツコツと、できる範囲でそんな「当たり前」を伝えていきたいと思っています。
 
できれば、その「当たり前」に、皆が気づいていなさそうな独自の視点を加えて…。

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【趣味】
小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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