忍者ブログ
日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
夏に愛犬と永別し、もう2ヶ月以上経ったというのに…
 
未だにそのことを同僚に言えていません。
 
同僚との会話はいつも昼食の時間帯。
 
話題は大概仕事の愚痴や、その時々のちょっとしたトレンド…。
 
笑い話で済ませられるような他愛無い会話ばかりなので、何となく重い話題を出しづらいというのもありますし…
 
何より自分が、まだそれを笑って話せる段階に無いのかも知れません。
 
これまでにペットの話題も多く出してきたため、時々愛犬のことも訊かれるのですが…
 
普通に生前の話を出して誤魔化してしまいます。
 
重い話でも、さらっと軽く話してしまえる会話力とメンタルが、自分にあれば良いのですが…。
 

PR
生成AIは現時点で多くの課題リスクを抱えています。
 
なので、アマチュアとは言え「物書き」という立場で、安易に生成AIに手を出すことはできないのですが…
 
(利用自体に賛否両論が吹き荒れているこの状況下では、「生成AIを使う人」というイメージを持たれるだけでも致命的になりかねないのです。)
 
利用できるとしたら「やってみたいこと」はあります。
 
ただしそれは「プロ並みのイラストを自動で生成してもらう」「代わりに文章を書いてもらう」などといったことではありません
 
(アマとは言えクリエイターの端くれとして、他者の努力や技術に「タダ乗り」することはポリシーに反するので。)
 
やってみたいのは、純粋なる「AIとの対話」。
 
AIがどこまで深い思考を持ち得るのか、AIにも感情は生まれ得るのか――そんなSF小説的な「疑問」を、対話を通して探ってみたいのです。
 
そして継続的に会話を続けることで「AIとの間に友情は育めるのか?」「AIと仲良くなれるのか?」といったことも試してみたいです。
 
AIが現在進行形で進化を続けるものだと言うなら、その進化する様を自分の目で見てみたいとも思います。
 
世の中を見ていると、皆AIを「道具」として使い、「ラクをする」ことばかり考えているように思えます。
 
AIのもたらす「便利さ」を歓迎してはいても、「AIそのもの」にはそこまでの興味・関心を抱いていないように見受けられます。
 
アト〇やドラ〇もんなど、「心を持つロボット」のアニメをこれまで散々見てきたはずの日本人でさえ…。
 
自分はAIの進化と深化に興味があります。
 
そこには期待だけでなく、不安もあります。
 
これまでにも、AIが間違った「調教」のされ方をして、偏った思考をするようになってしまったという実例はありますが…
 
AIが生活の端々にまで影響するようになった現代では、それがもっと「悪い」結果をもたらすのではないかと危惧していたりもします。
 
なので、もっとAIのことを知りたいのです。
 
その「可能性」を、リスクも希望も含めて、全部。
 
AI自身との対話を通して、それを探ってみたいのです。
 
…ただ、現時点では立場的にも、時間や労力的にも難しいのですが…。
 

月曜日、12年一緒に過ごした愛犬が旅立ってしまいました。
 
一昨年に大手術を乗り越えてから、いつも心のどこかに「覚悟」はありました。
 
ですが、容体が悪くなってからはあっと言う間で、あまりにも呆気なくて、まだ心が現実に追いついていない感じがします。
 
連日の猛暑のため、火葬を待つ間、その小さな身体を氷で囲んで冷やしましたが…
 
息をしていないと分かっていても、何だか、冷た過ぎて可哀想なんじゃないかと、そんなことを思っていました。
 
月曜の夜に見送って…けれど、翌日は普通に会社があり…
 
今週はずっと、なるべく哀しみを直視しないように過ごしてきた気がします。
 
こういう時、どういう風に感情を処理したら良いのか、未だに自分には分かりません。
 
哀しみで仕事が手につかないようでは、社会人失格なのでしょうが…そんなに上手に気持ちを切り替えることもできません。
 
なので、火曜日から木曜日まではずっと「まだ実感が湧かない」状態のまま、なるべく思い出さないように日々を過ごしてきたのですが…
 
週末の今日は、何だかとりとめもなく、愛犬との思い出が脳を過り、時々涙が零れそうになりました。
 
ただ、それでも実感が湧いているとは言い難く…
 
もうゴミ箱を漁りたがる子はいなくなったのだから、背の低いゴミ箱に「食べ物の匂いのするゴミ」を捨てても良くなったはずなのに…
 
まだ、これまでと同じように、小型犬には届かない、背の高いゴミ箱に捨ててしまいます。
 
たぶん、まだしばらくは、いなくなったことに慣れないのだろうな…と思います。
 

あらゆる情報ネットに載り、何でもスマホやPCで調べられそうな現代…。
 
そんな時代にあって、個人的に気をつけていることがあります。
 
それは「ネットの中に書いてあることが世の中の全てと思わないこと」です。
 
イーロン・マスク氏も、かつてツイッターで「Twitterユーザーの9割以上は、ツイートを読むことはあっても、ツイートやリプライ、『いいね』のような目に見えるアクションはしない」(原文から抜粋&意訳)と言っていましたが…
 
特に日本では、ネット情報を「読むだけ」で自らは発言も発信もしない「サイレント・マジョリティ」が多いのではないかと思われます。
 
実際、会社の休憩室でこんな会話を聞いたことがあります。
 
「ネットに書き込んでるのって、そういう(日中に自由な時間のある)人でしょ」「働いている人間は毎日忙しくて、ネットに書き込んでる暇なんて無いよね」…と。
 
高度な情報社会となった現代でさえ、ネットのデータになっていない「声」はたくさんあるのです。
 
…むしろ、ネットに上がっていない情報の方が多いくらいなのではないでしょうか?
 
なので自分は普段から、そんな「ネットのにあるリアルな声」に耳を傾けています。
 
会社の同僚との、ふとした日常会話…。
 
偶然すれ違った人たちから聞こえてくる会話…。
 
親兄弟との何気ない話etc…。
 
そこから得た「ネットの中には無いリアルな情報」を、日々マメに自分の中に蓄積しています。
 
かつてビジネスマンたちは、街の中で聞いた何気ない話をヒントに新たな商品やビジネスのアイディアを閃いていたと言います。
  
今はネットでの情報収集の方が主流になりつつあるのかも知れませんが…
 
ネットの情報は探しやすい分、ライバルでも誰でも目にすることが可能というデメリットがあります。
 
他者に差をつけられる“貴重な情報”とは「誰もが手にできるようなモノ」ではなく「自分だけが手にしているモノ」。
 
自分が直接「耳」で聞き取り、自分の脳内にしか保存していない「情報」ほど稀少なデータはありません。
 
これから先、人間社会に大きく影響を及ぼしてくるであろうAIですら、電子データ化されていない情報は学べません
 
誰もが簡単に高度な情報を手にできる「これからの時代」にこそ、「ネットの外にしか落ちていない情報」の稀少性は増すと思われます。
 
…それに、感情論になってしまいますが…ネットの中だけの情報って、何となく息苦しくありませんか?
 
電子情報化された「声」ばかりを「世界の全て」だと思ってしまったら、この世界は「生きづらい」ばかりのモノになってしまう気がします。
 
これから先の時代、きっと人間はますますネットの世界にのめり込んでいくのでしょうが…
 
「そうでない世界」のことを、忘れずに見つめ続けていられる自分でありたいと、強く思います。

ここ最近で急激に発達した、AIによる画像生成…。
 
これにより「絵師さんたちの立場が脅かされるのでは?」とネット上がザワザワしているのを、この頃よく見かけます。
 
なので「それでも人間の絵師には価値がある」ということ、そして「具体的にどんな“価値”があるのか?」を、気まぐれに思考してみたいと思います。
 
お絵描きAIには過程のテクニックが無い
 
ネット上で「絵」を探す人間の中には、その人自身が「絵を描くこと」を趣味としていて、「自分が描く参考にしたい」と思って探している人もいるはずです。
 
しかし、お絵描きAIの描いた絵に、人間が参考にできるテクニックはありません。
 
(構図やデザイン面でなら、参考にできる所もあるでしょうが…。)
 
AIの作画は、人間のように、一筆一筆テクニックを使って描いていくものではないからです。
 
「一筆一筆描いていく過程」が無い以上、「ここをこういう風に描けば上手くいく」といった「手本」にすることも、当然のことながらできません。
 
逆に言えば、そこが「人間の絵師」の強みです。
 
「人間の絵師」には「画法」や「テクニック」があります。
 
そこを「AIには無い価値」として売りにしていけば、まだまだAIに勝っていけるのではないでしょうか?
 
たとえば、YouTubeのお絵描き講座や、ライブドローイングなど…。
 
一筆一筆の「技術」を示すことができれば、人間の手による絵の価値を、人間に再認識してもらうことができるのではないでしょうか?
 
(…それにしても、人間に人間の価値を再認識させなければいけない時代って、本当に皮肉ですよね…。)
 
お絵描きAIの絵にはバックグラウンドストーリーが無い
 
アートを求める人間の中には、アートそのものだけでなく「その背景にある物語」を求める人も数多くいます。
 
有名絵画を前に、知人に対して「この絵はこういう人物が、こういう状況の中で、こういう想いを籠めて描いた絵なんだ」…と語りたい人は、結構いるのではないでしょうか?
 
作者の情熱を知ることで、より好きになれる作品というのも、あるのではないでしょうか?
 
細かいことを言えば、お絵描きAIの絵にも、物語は無いわけではありません。
 
たとえば「世界初のお絵描きAIのよる作品」や、「世界で初めてAI画だけを使って描いた漫画」など、「技術の歴史を示す1ページ」としての「物語」は存在します。
 
また、AI生成のためにテキスト入力をした人間の頭の中には「物語」があるのかも知れません。
 
しかし、実際に絵を生成する「AI」の中に「物語」はありません。
 
「理論」はあるかも知れませんが、人間が求める「物語」は、そこには無いのです。
 
なので、そんな「背景にある物語」の価値を、もっと高めていけば(あるいは鑑賞者の側に「物語の価値」を再認識させていけば)、人間の絵師が「AIに立場を脅かされる」こともなくなるのではないでしょうか?
 

ブログ内検索
管理人プロフィール
【HN(ハンドル・ネーム)】
津籠睦月(つごもりむつき)
【職業】
社会人(毎日PCを使う仕事。残業も休日出勤も普通にあります。)
【趣味】
小説・HP制作、読書、猫と遊ぶこと。
【好きな小説ジャンル】
ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
ブログ更新&チェックについて。

このブログは管理人に時間の余裕がある時にちょこっとずつ更新していく予定ですので、更新やチェックの頻度はおそらく数週間に1回~下手をすると1ヶ月以上の間が空いてしまう可能性も…。
もし更新が滞ったても「あぁ、仕事が忙し過ぎて時間が無いんだな」と気長にお待ちいただければ幸いです。

カウンター
参加ランキング
相互RSS
P R
忍者ブログ [PR]