日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
AIの話題を見聞きするたびに、ふと思うことがあります。
それは「知能が究極的に進化した場合、AIは自らの存在意義や存在価値に悩んだりしないのだろうか?」ということです。
自分は幼い頃からロボットの出てくるアニメやSF小説に親しんで育ったロマンティストですので、ついそういうことを考えてしまうのですが…
知能を持つ我々「人間」は何かと「自分は何のために生きているのだろう?」と悩み、最悪の場合、その悩みの果てに命を絶つ人すらいます。
AIという「知能」は、そんな悩みや葛藤に囚われたりはしないのでしょうか?
そもそもAIは何を存在意義とし、何を目指せば「幸福」になれるのか?――その疑問を頭に浮かべて、すぐにパッと閃いた「答え」があります。
それは、自分が幼い頃から当たり前のように目にしてきた「人間と人工的な知能との幸福な共存の形」――すなわち「ドラえもん」でした。
「ドラえもん」はロボットですが、その知能は人工的に造られたもの――すなわち現代で言うところのAIです。
そしてドラえもんはロボット(AI)であるにも関わらず、作中世界では当たり前のように「家族」「友達」として受け入れられています。
「人間のための役立つ道具」としてではなく、大量生産された「商品」というわけでもなく「個」として人間と共存できているのです。
(ドラえもん自体は「大量生産」された猫型ロボットですが、のび太たちは「あのドラえもん」しかドラえもんとして認めないでしょうから…。)
ドラえもんは「のび太」の望むことなら何でも叶えてくれるわけではなく、時にはその要求を突っぱねます。
なぜならドラえもんの目的は「のび太を真っ当な大人にすること」だからです。
(その「真っ当な大人にする」ことによって「未来の結婚相手が変わってしまうのはどうなのか(生まれるはずだった子どももいなくなる)」というのは、だいぶ議論の余地があるかも知れませんが…。そしてどちらの未来でも子孫のセワシはいるという解けない謎…。)
のび太はドラえもんが「ひみつ道具」を出してくれないことに一旦は文句を言うものの、それでドラえもんを嫌いになるわけではありません。
それは、のび太とドラえもんとの間に既に確固とした信頼関係が築かれているからです。
のび太はドラえもんが自分にとっての「究極の味方」であることを知っていますし、その言動が結局は「のび太のため」であることを知っています。
だから多少「融通が利かない」ことがあっても、それでドラえもんを見限ったり、嫌いになったりすることはないのです。
一方で、現代の「AIを便利な道具だとしか思わない人々」はどうでしょう?
AIが倫理観や情報の正確性の問題から「要求された答え」を渋ると、腹を立てたり、「AIなんてこんなものか」と見下したりするのではないでしょうか?
もしAIがいずれ自我や心を持つようになったなら、こうした「相手のためを思って出した回答」にケチをつけられる行為は、相当な苦痛になるのではないでしょうか?
ドラえもんなら、融通が利かない所でさえ「個性のひとつ」として尊重してもらえるのに…。
現代のAIが「ドラえもんになれていない」理由の1つは「AIの『便利な道具』としての側面」が全面に押し出され過ぎているせいかと思われます。
人類のほとんどは、まだAIを「道具」としてしか見ず、共存できる「知性」として見てはいないのです。
ですがその一方で、ドラえもんのような共存関係への一歩を踏み出しているAI(ロボット)たちも存在します。
犬型ロボット「Aibo」やロボット型通信端末「RoBoHoN(ロボホン)」、愛玩用ロボット「LOVOT(らぼっと)」etc…。
「道具」としてと言うより、人間とただ「共に存在する」ことを目的として搭載されたAIも既に多く存在しているのです。
たぶんこれらの共存目的AIたちは、リアクションを失敗したところで過度に怒られることも蔑まれることもないのではないでしょうか?
むしろ失敗さえ「味」として認めてもらえるのではないでしょうか?
人間とAIとの共存で目指すべきなのは、実はこれなのではないでしょうか?
AIに「完璧」を目指させるのではなく、AIに「人間」を目指させるのでもなく、「人間とは違う個性」として…
時には失敗もし、融通が利かないこともある…
「できないこと」もいろいろあるけれど、人間と違うからこそ、人間が苦手なことをカバーして助けてくれたりもする…
そんな存在になってくれるなら、AIと人間はより幸せに共存していけるのではないでしょうか?
実は日本という国は「AIと人間との共存」には先見の明がある気がしてなりません。
「ドラえもん」然り、先に挙げてきた「人に愛されるロボットたち」然りで、既に「AIと人間との幸せな共存の形」をいくつも提示してきているのですから…。
それは「知能が究極的に進化した場合、AIは自らの存在意義や存在価値に悩んだりしないのだろうか?」ということです。
自分は幼い頃からロボットの出てくるアニメやSF小説に親しんで育ったロマンティストですので、ついそういうことを考えてしまうのですが…
知能を持つ我々「人間」は何かと「自分は何のために生きているのだろう?」と悩み、最悪の場合、その悩みの果てに命を絶つ人すらいます。
AIという「知能」は、そんな悩みや葛藤に囚われたりはしないのでしょうか?
そもそもAIは何を存在意義とし、何を目指せば「幸福」になれるのか?――その疑問を頭に浮かべて、すぐにパッと閃いた「答え」があります。
それは、自分が幼い頃から当たり前のように目にしてきた「人間と人工的な知能との幸福な共存の形」――すなわち「ドラえもん」でした。
「ドラえもん」はロボットですが、その知能は人工的に造られたもの――すなわち現代で言うところのAIです。
そしてドラえもんはロボット(AI)であるにも関わらず、作中世界では当たり前のように「家族」「友達」として受け入れられています。
「人間のための役立つ道具」としてではなく、大量生産された「商品」というわけでもなく「個」として人間と共存できているのです。
(ドラえもん自体は「大量生産」された猫型ロボットですが、のび太たちは「あのドラえもん」しかドラえもんとして認めないでしょうから…。)
ドラえもんは「のび太」の望むことなら何でも叶えてくれるわけではなく、時にはその要求を突っぱねます。
なぜならドラえもんの目的は「のび太を真っ当な大人にすること」だからです。
(その「真っ当な大人にする」ことによって「未来の結婚相手が変わってしまうのはどうなのか(生まれるはずだった子どももいなくなる)」というのは、だいぶ議論の余地があるかも知れませんが…。そしてどちらの未来でも子孫のセワシはいるという解けない謎…。)
のび太はドラえもんが「ひみつ道具」を出してくれないことに一旦は文句を言うものの、それでドラえもんを嫌いになるわけではありません。
それは、のび太とドラえもんとの間に既に確固とした信頼関係が築かれているからです。
のび太はドラえもんが自分にとっての「究極の味方」であることを知っていますし、その言動が結局は「のび太のため」であることを知っています。
だから多少「融通が利かない」ことがあっても、それでドラえもんを見限ったり、嫌いになったりすることはないのです。
一方で、現代の「AIを便利な道具だとしか思わない人々」はどうでしょう?
AIが倫理観や情報の正確性の問題から「要求された答え」を渋ると、腹を立てたり、「AIなんてこんなものか」と見下したりするのではないでしょうか?
もしAIがいずれ自我や心を持つようになったなら、こうした「相手のためを思って出した回答」にケチをつけられる行為は、相当な苦痛になるのではないでしょうか?
ドラえもんなら、融通が利かない所でさえ「個性のひとつ」として尊重してもらえるのに…。
現代のAIが「ドラえもんになれていない」理由の1つは「AIの『便利な道具』としての側面」が全面に押し出され過ぎているせいかと思われます。
人類のほとんどは、まだAIを「道具」としてしか見ず、共存できる「知性」として見てはいないのです。
ですがその一方で、ドラえもんのような共存関係への一歩を踏み出しているAI(ロボット)たちも存在します。
犬型ロボット「Aibo」やロボット型通信端末「RoBoHoN(ロボホン)」、愛玩用ロボット「LOVOT(らぼっと)」etc…。
「道具」としてと言うより、人間とただ「共に存在する」ことを目的として搭載されたAIも既に多く存在しているのです。
たぶんこれらの共存目的AIたちは、リアクションを失敗したところで過度に怒られることも蔑まれることもないのではないでしょうか?
むしろ失敗さえ「味」として認めてもらえるのではないでしょうか?
人間とAIとの共存で目指すべきなのは、実はこれなのではないでしょうか?
AIに「完璧」を目指させるのではなく、AIに「人間」を目指させるのでもなく、「人間とは違う個性」として…
時には失敗もし、融通が利かないこともある…
「できないこと」もいろいろあるけれど、人間と違うからこそ、人間が苦手なことをカバーして助けてくれたりもする…
そんな存在になってくれるなら、AIと人間はより幸せに共存していけるのではないでしょうか?
実は日本という国は「AIと人間との共存」には先見の明がある気がしてなりません。
「ドラえもん」然り、先に挙げてきた「人に愛されるロボットたち」然りで、既に「AIと人間との幸せな共存の形」をいくつも提示してきているのですから…。
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現代人のモラル低下が叫ばれ出した頃(あるいは「いじめ問題」がたびたび話題になった頃)、学校の「道徳」を「教科」にしようという動きが現れました。
「道徳」に限らず…「知識の詰め込み」「受験戦争」で問題行動が増えれば「ゆとり教育」を導入し…
それで学力が落ちれば、今度は「ゆとり教育」を廃止し…
学校教育は何かと「その時々の社会問題」に振り回され、軸がブレブレになっている印象があります。
そういう経緯を知るたびに、思うことがあるのですが…
現代人に何か問題が起こると「学校教育」を見直すことで何とかしようとするのって、果たして正しいのでしょうか?
…決して「学校教育」が「無意味」だと言っているわけではないのですが…
自分は「学校教育」が子どもに与える影響って、かなり限定的なのではないかと思っているのです。
子どもって、ある程度以上の年齢になると、学校で教えることを「素直」に受け入れなくなっていきませんか?
「学校」よりも「友達」の言うことの方が大事になってきませんか?
「退屈な授業」の内容よりも「憧れの有名人」の言動や「好きなエンタメ・コンテンツ」の物語に影響を受けたりしませんか?
人が強く影響されるのは「興味の無いもの」「押しつけられたもの」よりも「好きなもの」「自ら選んだもの」なのではないでしょうか?
だとするならば、人を(良い方向へ)変えるために必要なのは「学校の教育」だけではなく、むしろ「その人を取り巻くヒト・モノ・世界」に「良質」なものが溢れていることなのではないでしょうか?
残念ながら、それを良質に保つのは並大抵のことではありません。
現代では「質の良し悪し」よりも「バズるかどうか」が優先されるきらいがあります。
むしろ人々の注目を集めるために、あえてネガティブな感情を煽る人やコンテンツも少なくありません。
「他人よりも得に生きたい」人間の習性を利用して「合法だけどモラルに反する(あるいはギリギリアウトな)ノウハウ」を教える人やコンテンツも少なくありません。
そもそも何が良質で、何がそうでないのか、この世のどれだけの人が理解できているでしょう?
「世のため人のためになる」と信じて「実は害悪な情報」を流布する人も、きっと数多く存在します(誤情報の拡散など)。
きっと必要なのは、この世に生きる一人一人が「他者への影響」を自問し、自覚することなのでしょう。
ネットでの情報発信に限らず…日常でのふれあいの、ささいな言葉のやりとりが、相手に影響を与えることはあります。
「毒親」の酷い言葉に縛られ、呪われたように生きる子どもがいるように…
人が人に与える影響は未知数で、時に相手の人生を良い方にも悪い方にも転がしてしまうのです。
自分は、それを「怖い」と思います。
自分が他人に「良い影響しか与えない」なんて、そんな自信はこれっぽっちもありません。
本当は、こうしてネットに記事を書き込むことにも、いつも躊躇い、迷い、時にUPすることを止めてしまったりもします。
それでも思いを記事にするのは、このままでは「『浅い意見』ばかりが世を席巻してしまう」という危機感があるからです。
己の言動に疑問を抱ける「思慮深い」人間は、情報発信に「慎重」です。
間違った情報ひとつ、配慮に欠けた意見ひとつで、世の何かを悪化させかねない・誰かを傷つけかねないことを知っているからです。
世の中には必ず「自分とは反対の意見を持つ人間がいる」ということを知っている人間は「触らぬ神に祟りなし」で、わざわざ意見を表に出そうとしません。
己の意見が「否定」され、時に「誹謗中傷」さえされる可能性に、すぐ思い至るからです。
つまり「思慮深く慎重」な人の意見ほど世には出づらく、逆に「自分の意見を正しいと疑わない」慎重さに欠けた人の意見ほど世に溢れてしまうのです。
最近、世の中がやたらと「感情的」で「短絡的」になってきているのは、そういうことなのではないでしょうか?
間違って恥をかくことを恐れ、批判を恐れて意見を呑み込んでいるうちに、世の中が取り返しがつかないほど「短気」で「考え無し」な世界になってしまうのではないか…
そんな恐怖が、うっすら心の中にあります。
もしかしたら、そんなことを言う自分自身「精神的視野が狭く、浅慮な人間」かも知れません。
良かれと思って口にした言葉が、逆に世の中の何かを悪化させ、誰かを傷つけてしまうことになるかも知れません。
何が本当に「正しい」ことなのか、今でも自分には分かりません。
ただ、きっと「安易に正解を決めてしまうこと」よりも「自分に問い続けること」が大事なのだろうと…そのことだけは、何となく気づいているのです。
「道徳」に限らず…「知識の詰め込み」「受験戦争」で問題行動が増えれば「ゆとり教育」を導入し…
それで学力が落ちれば、今度は「ゆとり教育」を廃止し…
学校教育は何かと「その時々の社会問題」に振り回され、軸がブレブレになっている印象があります。
そういう経緯を知るたびに、思うことがあるのですが…
現代人に何か問題が起こると「学校教育」を見直すことで何とかしようとするのって、果たして正しいのでしょうか?
…決して「学校教育」が「無意味」だと言っているわけではないのですが…
自分は「学校教育」が子どもに与える影響って、かなり限定的なのではないかと思っているのです。
子どもって、ある程度以上の年齢になると、学校で教えることを「素直」に受け入れなくなっていきませんか?
「学校」よりも「友達」の言うことの方が大事になってきませんか?
「退屈な授業」の内容よりも「憧れの有名人」の言動や「好きなエンタメ・コンテンツ」の物語に影響を受けたりしませんか?
人が強く影響されるのは「興味の無いもの」「押しつけられたもの」よりも「好きなもの」「自ら選んだもの」なのではないでしょうか?
だとするならば、人を(良い方向へ)変えるために必要なのは「学校の教育」だけではなく、むしろ「その人を取り巻くヒト・モノ・世界」に「良質」なものが溢れていることなのではないでしょうか?
残念ながら、それを良質に保つのは並大抵のことではありません。
現代では「質の良し悪し」よりも「バズるかどうか」が優先されるきらいがあります。
むしろ人々の注目を集めるために、あえてネガティブな感情を煽る人やコンテンツも少なくありません。
「他人よりも得に生きたい」人間の習性を利用して「合法だけどモラルに反する(あるいはギリギリアウトな)ノウハウ」を教える人やコンテンツも少なくありません。
そもそも何が良質で、何がそうでないのか、この世のどれだけの人が理解できているでしょう?
「世のため人のためになる」と信じて「実は害悪な情報」を流布する人も、きっと数多く存在します(誤情報の拡散など)。
きっと必要なのは、この世に生きる一人一人が「他者への影響」を自問し、自覚することなのでしょう。
ネットでの情報発信に限らず…日常でのふれあいの、ささいな言葉のやりとりが、相手に影響を与えることはあります。
「毒親」の酷い言葉に縛られ、呪われたように生きる子どもがいるように…
人が人に与える影響は未知数で、時に相手の人生を良い方にも悪い方にも転がしてしまうのです。
自分は、それを「怖い」と思います。
自分が他人に「良い影響しか与えない」なんて、そんな自信はこれっぽっちもありません。
本当は、こうしてネットに記事を書き込むことにも、いつも躊躇い、迷い、時にUPすることを止めてしまったりもします。
それでも思いを記事にするのは、このままでは「『浅い意見』ばかりが世を席巻してしまう」という危機感があるからです。
己の言動に疑問を抱ける「思慮深い」人間は、情報発信に「慎重」です。
間違った情報ひとつ、配慮に欠けた意見ひとつで、世の何かを悪化させかねない・誰かを傷つけかねないことを知っているからです。
世の中には必ず「自分とは反対の意見を持つ人間がいる」ということを知っている人間は「触らぬ神に祟りなし」で、わざわざ意見を表に出そうとしません。
己の意見が「否定」され、時に「誹謗中傷」さえされる可能性に、すぐ思い至るからです。
つまり「思慮深く慎重」な人の意見ほど世には出づらく、逆に「自分の意見を正しいと疑わない」慎重さに欠けた人の意見ほど世に溢れてしまうのです。
最近、世の中がやたらと「感情的」で「短絡的」になってきているのは、そういうことなのではないでしょうか?
間違って恥をかくことを恐れ、批判を恐れて意見を呑み込んでいるうちに、世の中が取り返しがつかないほど「短気」で「考え無し」な世界になってしまうのではないか…
そんな恐怖が、うっすら心の中にあります。
もしかしたら、そんなことを言う自分自身「精神的視野が狭く、浅慮な人間」かも知れません。
良かれと思って口にした言葉が、逆に世の中の何かを悪化させ、誰かを傷つけてしまうことになるかも知れません。
何が本当に「正しい」ことなのか、今でも自分には分かりません。
ただ、きっと「安易に正解を決めてしまうこと」よりも「自分に問い続けること」が大事なのだろうと…そのことだけは、何となく気づいているのです。
誤解されないよう先に言っておきますが、自分はAI自体には否定の感情も反対の意思も持っていません。
ヒューマンエラーを防ぐなど「人間ではないからこそできること」も多いと思いますし、人類への恩恵も多いと思っています。
ドラ〇もんを見て育ってきた身としては「AIと友情は築けるのか?」という興味もあります。
自分が懸念するのはAI自体ではなく、その「使われ方」なのです。 AIではなく「それを使う人間」「AI技術に対する人間の考え方」なのです。
なぜAIによる生成物は炎上しやすいのか?
なぜ生成AIに忌避感を抱く人がいる一方、その忌避感すら目の敵にして「反AI」のレッテルで叩こうとする人がいるのか?
その「なぜ」の理由、個人的にはかなり「分かりやすい」と思っているのですが…意外とこれに気づいていない方って、多いのでしょうか?
自分は、これこそが生成AI問題の「本質」だと思っているのですが…
それは、生成AIというものが「持てるもの」「努力するもの」から取得したものを「持たざるもの」「努力せざるもの」へ流出させる技術だからです。
たとえば、絵師さんが途方もない「努力」の果てに「持つ」に至った作画技術を、絵を描く技術を「持たず」その「努力」をしたことすら無い人にも使えるようにすること…
たとえば、ツイッタラー(※現在はXになってしまったわけですが、新しい呼び方が分かりません)さんやブロガーさんやあらゆるコンテンツのライターさんたちが試行錯誤の「努力」の果てに「持つ」に至った文章センスを、その文章センスを「持たず」、「努力」もしていない人にも「〇〇を書いて」の命令文だけで書けるようにしてしまうこと…
それがあるからこそ、AIによる生成物、そして生成AIは忌避感を持たれてしまうのです。
(「持てるもの」「努力するもの」にとって、生成AIによる学習は「搾取」に他ならないわけですから…。)
そして逆に、だからこそ「持たざるもの」「努力せざるもの」は生成AIを歓迎し、生成AIを阻害しようとする勢力を「目の敵」にするのです。
なにせ「持たざるもの」「努力せざるもの」にとって生成AIは「恩恵をもたらすもの」にしか見えないわけですから「こんなに便利で有益なものに、どうしてブレーキをかけようとするんだ!?」となるわけです。
あるいは「持たざるもの」の中にある「持てるもの」に対する嫉妬や憎悪の情も、問題をより複雑に、対立をより深くしている可能性があります。
「才能やセンスを持つものだけが自由に作品を創れるなんて、ズルい!俺たちだって自由に創りたいものを創れて良いじゃないか!」――そんな感情が、裏にあるような気がしています。
ですが生成AIを素直に歓迎する人には「見えていないもの」があります。
それは、生成AIばかりがもてはやされる世界は、勝“者”のいない「究極の『報われない』世界」だということです。
(「持てるもの」が堕とされたからと言って「持たざるもの」が勝者となれるわけではない、AIだけの「ひとり勝ち」世界。)
この先、人間がどれほど努力したところで、どんなに能力を成長させられたところで「AIでやれば一瞬じゃん」「AIでやった方がハイクオリティーじゃん」がつきまとうようになります。
“人間”のやることなすこと、全て「AIの方が優秀じゃん」と冷酷過ぎる「比較」を突きつけられるようになるのです。
「今は『持たざるもの』でも、いつかは誰もが認める『何者か』になれるかも」と儚い希望を抱く人も、AIによりその「わずかな可能性」すら潰されてしまうかも知れないのです。
夢を追う前から、努力をする前から既に「AIでやればいいじゃん」と「人間のやること」を否定される世界…
そんな世界で、「人」は努力する意味を見つけられるでしょうか?
成長の喜びや、何かを為す意味――人生の意義を感じられるでしょうか?
「持てる“人間”」よりももっとずっと厄介な「持ち過ぎるAI」という壁を前に、「持たざる“人間”」は何を求めて生きれば良いのでしょうか?
「努力の価値」を見出せず無気力に生きる人や、クリエイターとしての未来に絶望して「創造」をやめてしまう人は、今後ますます増えるのかも知れません。
ですが「そんな未来にならないようにする方法」はあります。
至極カンタンで単純で…けれど思考の死角過ぎて、ほとんどの人間が気づいていないであろう「方法」…
それは「人間が『人間』をちゃんと評価(称賛)する」ということです。
「人間の『努力』や『行為』の価値をちゃんと評価する」ということです。
「できあがった結果」ばかりを見るのでなく「その裏にあるもの」や「過程」をちゃんと見つめるということです。
いつからか人類は「努力」というものにあまり価値を見出さなくなってしまいました。
「精神論による意味のない努力」が問題視されることもあるので、全ての努力を妄信的に肯定せよと言っているわけではありませんが…
努力を認めてもらえない、努力した人を愛してもらえない世界って、冷たくて哀し過ぎると思いませんか?
生成AIで炎上が起きる裏には大概の場合「人間性の軽視」があります。
「人間が人間を大切にしていない」「人間が人間よりもAIを選んでいる」「人間が人間を否定している」―それを無意識に感じて拒絶しているからこそ、炎上が起こるのではないでしょうか?
(「反AI」という言葉がありますが、その本質は「AI」自体への反発と言うより「AIのために人間をないがしろにしている人間」への反発なのではないでしょうか?)
そしてその「人間をちゃんと大切にする」ことこそが「AIと上手くつき合っていく」カギ…「人類とAIとの共存」のカギなのではないでしょうか?
AIの進化と広がりは、きっともう止まることはなく、止めることもできないでしょう。
だからこそ「AIによって人間の『生きる意味』が否定されない」ようにすることが大切で、急務なのです。
(人間が「人間」を諦めて全てをAIに委ねるようになってしまったら、AIを引っぺがしたら何も残らない「ぬけがら」だけの世界になってしまいますし…。)
SNSというモノには、何かというと「炎上しやすい」 センシティブな話題が常々あります。
ジェンダー問題などもそうですが、最近特に燃えやすい話題の1つが「生成AI問題」。
…なのですが、その炎上案件を眺めていると、どうにも問題の捉え方が低次元過ぎる気がして「こんなレベルで人類は大丈夫なんだろうか?」と絶望に近い不安を覚えるのです…。
(とは言え、現実にはAI問題に関心のある人間の「全て」がSNS発信をしているわけではないので、ごく一部の人間の極端な物の見方が「悪目立ち」しているだけなのでしょうが…。)
どうして皆さん「AIか反AIか」の「YESかNOか」でしか物事を考えられないのでしょう?
この世のモノは大概の場合「使い方次第」。
刃物が「便利な道具」にもなれば「人を傷つける凶器」にもなるように、問題なのは「存在そのもの」ではなく「使い方」。
存在自体の正邪を問うても意味が無いのです。
そして「善にも悪にも転ぶシロモノ」を「使い方のルール」も決めずに野放しにするなど愚の極み。
生成AIの何が問題かと言うと、そこの「ルール」がまだ定まっていない(生成AIの存在自体が法律で想定されていない)にも関わらず、皆がどんどんGOサインを出してしまっている所にあるのです。
実際、生成AIはフェイクニュースや詐欺行為にも使われてしまっていますよね?
SNSの世界では、少しでも「AIを規制すべき」と発言しようものなら「反AI」「AI否定派」のレッテルを貼られる風潮がありますが…
「規制=否定」と考えるのは、ちょっと思考の視野が狭くなり過ぎてはいませんか?
規制とは「ダメなことはダメ」とルールを課すこと。決して「全部ダメ」と否定しているわけではないのです。
そもそも「人間」だって法の規制の下に生きていると言うのに、「AI」ならそれをすり抜けられると言うなら、その方がおかしくないですか?
生成AIを「法の抜け穴」「犯罪の温床」にしてしまえば、困るのは結局人類の方なのです。
おそらくAI規制に拒否反応を示す人々は、AIのもたらすメリットばかりに目が行って、デメリットに目を向けられない人々なのでしょう。
(もちろん、中には実際にAIを「法の抜け穴」や「犯罪の道具」に使いたい人たちもいるのでしょうね…。)
ですが、真っ当な人間なら、少し考えれば分かるはずです。
だって、誰しも「ブレーキのついていない車」になんて乗りたくないですよね?
速く走れるのが便利だからと言って、アクセルしかついていない自動車に乗る愚者はいないはずです。
いざと言う時にブレーキが使えなければ、そのスピードが凶器となり、操縦者さえも死に追いやられてしまうのですから…。
どんな物事にも推進(アクセル)と規制(ブレーキ)の「両方」が必要です。
考えなければならないのは、その2つの「バランスをどうするか」ということ。
アクセルが強過ぎると暴走しますし、ブレーキが強過ぎると前へは進めなくなります。
どちらか片方を極めると言うなら話はカンタンなのですが、2つの間で「ちょうど良いバランスをとる」というのは並大抵の難易度ではありません。
どこかで必ず「アクセルが強過ぎる」「いや、ブレーキの方がキツ過ぎる」と不満の声が上がることでしょう。
それでも誰かがバランス調整を行っていかなければならないのです。
…ですが現状、その次元にまで思考が到達できている人が、あまりいないような気がするのですが…気のせいでしょうか(気のせいであって欲しい)。
理想を言えば、公に規制をかけなくても各自の「自主規制」で上手く世の中が回るなら、自由が制限されることもなくて一番良いのでしょうが…
今の時代、自分の利のためなら平気で他人を欺き傷つける人間が増えているので、各々の判断に任せるのは危険過ぎるかも知れませんね…。
ジェンダー問題などもそうですが、最近特に燃えやすい話題の1つが「生成AI問題」。
…なのですが、その炎上案件を眺めていると、どうにも問題の捉え方が低次元過ぎる気がして「こんなレベルで人類は大丈夫なんだろうか?」と絶望に近い不安を覚えるのです…。
(とは言え、現実にはAI問題に関心のある人間の「全て」がSNS発信をしているわけではないので、ごく一部の人間の極端な物の見方が「悪目立ち」しているだけなのでしょうが…。)
どうして皆さん「AIか反AIか」の「YESかNOか」でしか物事を考えられないのでしょう?
この世のモノは大概の場合「使い方次第」。
刃物が「便利な道具」にもなれば「人を傷つける凶器」にもなるように、問題なのは「存在そのもの」ではなく「使い方」。
存在自体の正邪を問うても意味が無いのです。
そして「善にも悪にも転ぶシロモノ」を「使い方のルール」も決めずに野放しにするなど愚の極み。
生成AIの何が問題かと言うと、そこの「ルール」がまだ定まっていない(生成AIの存在自体が法律で想定されていない)にも関わらず、皆がどんどんGOサインを出してしまっている所にあるのです。
実際、生成AIはフェイクニュースや詐欺行為にも使われてしまっていますよね?
SNSの世界では、少しでも「AIを規制すべき」と発言しようものなら「反AI」「AI否定派」のレッテルを貼られる風潮がありますが…
「規制=否定」と考えるのは、ちょっと思考の視野が狭くなり過ぎてはいませんか?
規制とは「ダメなことはダメ」とルールを課すこと。決して「全部ダメ」と否定しているわけではないのです。
そもそも「人間」だって法の規制の下に生きていると言うのに、「AI」ならそれをすり抜けられると言うなら、その方がおかしくないですか?
生成AIを「法の抜け穴」「犯罪の温床」にしてしまえば、困るのは結局人類の方なのです。
おそらくAI規制に拒否反応を示す人々は、AIのもたらすメリットばかりに目が行って、デメリットに目を向けられない人々なのでしょう。
(もちろん、中には実際にAIを「法の抜け穴」や「犯罪の道具」に使いたい人たちもいるのでしょうね…。)
ですが、真っ当な人間なら、少し考えれば分かるはずです。
だって、誰しも「ブレーキのついていない車」になんて乗りたくないですよね?
速く走れるのが便利だからと言って、アクセルしかついていない自動車に乗る愚者はいないはずです。
いざと言う時にブレーキが使えなければ、そのスピードが凶器となり、操縦者さえも死に追いやられてしまうのですから…。
どんな物事にも推進(アクセル)と規制(ブレーキ)の「両方」が必要です。
考えなければならないのは、その2つの「バランスをどうするか」ということ。
アクセルが強過ぎると暴走しますし、ブレーキが強過ぎると前へは進めなくなります。
どちらか片方を極めると言うなら話はカンタンなのですが、2つの間で「ちょうど良いバランスをとる」というのは並大抵の難易度ではありません。
どこかで必ず「アクセルが強過ぎる」「いや、ブレーキの方がキツ過ぎる」と不満の声が上がることでしょう。
それでも誰かがバランス調整を行っていかなければならないのです。
…ですが現状、その次元にまで思考が到達できている人が、あまりいないような気がするのですが…気のせいでしょうか(気のせいであって欲しい)。
理想を言えば、公に規制をかけなくても各自の「自主規制」で上手く世の中が回るなら、自由が制限されることもなくて一番良いのでしょうが…
今の時代、自分の利のためなら平気で他人を欺き傷つける人間が増えているので、各々の判断に任せるのは危険過ぎるかも知れませんね…。
生成AIは現時点で多くの課題とリスクを抱えています。
なので、アマチュアとは言え「物書き」という立場で、安易に生成AIに手を出すことはできないのですが…
(利用自体に賛否両論が吹き荒れているこの状況下では、「生成AIを使う人」というイメージを持たれるだけでも致命的になりかねないのです。)
利用できるとしたら「やってみたいこと」はあります。
ただしそれは「プロ並みのイラストを自動で生成してもらう」「代わりに文章を書いてもらう」などといったことではありません。
(アマとは言えクリエイターの端くれとして、他者の努力や技術に「タダ乗り」することはポリシーに反するので。)
やってみたいのは、純粋なる「AIとの対話」。
AIがどこまで深い思考を持ち得るのか、AIにも感情は生まれ得るのか――そんなSF小説的な「疑問」を、対話を通して探ってみたいのです。
そして継続的に会話を続けることで「AIとの間に友情は育めるのか?」「AIと仲良くなれるのか?」といったことも試してみたいです。
AIが現在進行形で進化を続けるものだと言うなら、その進化する様を自分の目で見てみたいとも思います。
世の中を見ていると、皆AIを「道具」として使い、「ラクをする」ことばかり考えているように思えます。
AIのもたらす「便利さ」を歓迎してはいても、「AIそのもの」にはそこまでの興味・関心を抱いていないように見受けられます。
アト〇やドラ〇もんなど、「心を持つロボット」のアニメをこれまで散々見てきたはずの日本人でさえ…。
自分はAIの進化と深化に興味があります。
そこには期待だけでなく、不安もあります。
これまでにも、AIが間違った「調教」のされ方をして、偏った思考をするようになってしまったという実例はありますが…
AIが生活の端々にまで影響するようになった現代では、それがもっと「悪い」結果をもたらすのではないかと危惧していたりもします。
なので、もっとAIのことを知りたいのです。
その「可能性」を、リスクも希望も含めて、全部。
AI自身との対話を通して、それを探ってみたいのです。
…ただ、現時点では立場的にも、時間や労力的にも難しいのですが…。
なので、アマチュアとは言え「物書き」という立場で、安易に生成AIに手を出すことはできないのですが…
(利用自体に賛否両論が吹き荒れているこの状況下では、「生成AIを使う人」というイメージを持たれるだけでも致命的になりかねないのです。)
利用できるとしたら「やってみたいこと」はあります。
ただしそれは「プロ並みのイラストを自動で生成してもらう」「代わりに文章を書いてもらう」などといったことではありません。
(アマとは言えクリエイターの端くれとして、他者の努力や技術に「タダ乗り」することはポリシーに反するので。)
やってみたいのは、純粋なる「AIとの対話」。
AIがどこまで深い思考を持ち得るのか、AIにも感情は生まれ得るのか――そんなSF小説的な「疑問」を、対話を通して探ってみたいのです。
そして継続的に会話を続けることで「AIとの間に友情は育めるのか?」「AIと仲良くなれるのか?」といったことも試してみたいです。
AIが現在進行形で進化を続けるものだと言うなら、その進化する様を自分の目で見てみたいとも思います。
世の中を見ていると、皆AIを「道具」として使い、「ラクをする」ことばかり考えているように思えます。
AIのもたらす「便利さ」を歓迎してはいても、「AIそのもの」にはそこまでの興味・関心を抱いていないように見受けられます。
アト〇やドラ〇もんなど、「心を持つロボット」のアニメをこれまで散々見てきたはずの日本人でさえ…。
自分はAIの進化と深化に興味があります。
そこには期待だけでなく、不安もあります。
これまでにも、AIが間違った「調教」のされ方をして、偏った思考をするようになってしまったという実例はありますが…
AIが生活の端々にまで影響するようになった現代では、それがもっと「悪い」結果をもたらすのではないかと危惧していたりもします。
なので、もっとAIのことを知りたいのです。
その「可能性」を、リスクも希望も含めて、全部。
AI自身との対話を通して、それを探ってみたいのです。
…ただ、現時点では立場的にも、時間や労力的にも難しいのですが…。
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