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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
昨今の炎上事案など見ていて、時々感じることなのですが…
 
ネットという「相手の表情の見えない」世界では、物事が「大袈裟にとらえられがち」「誤解されがち」な傾向がある気がします。
 
たとえば誰かが何か過ちを犯した時、見ず知らずの人が「そんなことしちゃ駄目じゃん」と言ったとします。
 
しかし、その言葉のニュアンスが「そんなことしちゃダメじゃん(笑)」なのか「そんなことするなんて許されないことだ(怒)」なのか、すぐには分からないと思いませんか?
 
(もちろん、「(笑)」や「WW」が付いていたりすれば、そのニュアンスは伝わるでしょうが…。)
 
言葉は、そうそう簡単に感情を伝えてはくれないのです。
 
そして、そんな相手の「感情」が「よく見えない」ネットの世界では、何かと相手の感情が誤解されがちなのではないかと…。
 
読み手の受け取り方ひとつで、ポジティブにもネガティブにも読める言葉は、世の中に星の数ほどあります。
 
時に、思いがけない言葉が誤解を生むこともあります。
 
相手に全く誤解を与えずに文章を書くというのは、国語の偏差値が高い人間でも至難の業なのです。
 
そして、これまでの傾向を見るに、意外と多くの人が「他人の言葉に悪意を読み取りがち」なのではないかと…。
 
以前このブログの記事にも書いた通り、言葉は書き手だけでなく、読み手にとっても「心の鏡」です。
 
書き手が思いもしなかった「悪意」がその言葉の中から読み取られたとしたら…それは書き手ではなく、読み手の心の中にあったものなのです。
 
(その場合、単純な「悪意」と言うより「悪意への疑念」なのかも知れませんが…。)
 
誰かの「軽いツッコミ」を、「激しい非難」と勘違いしていたりはしませんか?
 
ただ無遠慮で気遣いに欠けるだけの「(攻撃の意思の無い)率直過ぎる意見」を、「自分に対する攻撃」ととらえ、過剰に「反撃」していたりはしませんか?
 
もちろん、本当に「攻撃」の場合もあるのでしょうが…
 
攻撃でないものも攻撃ととらえ、いちいち戦っていたのでは、心が疲弊するばかりだと思いませんか?
 
まずはそれが本当に「攻撃」なのか、それとも「攻撃にもとらえられかねないツッコミ」あるいは「率直過ぎて失礼・無神経な意見」に過ぎないのか…
 
その「前提」から疑ってみれば、ネットはもっと寛容で、活動しやすい世界になるのではないでしょうか?
 

 
<関連記事:言葉は鏡だ。書き手にとっても、読み手にとっても。
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世の中を見ていて、よく思うことの1つが「どうして“分けて考えなきゃいけないこと”を“一緒くたにしてしまう”人が多いのだろう」ということです。
 
「ソレとコレとは話が別でしょう」「何でソレとコレを全部ワンセットで考えるんだろう」「分けて考えれば簡単に解決法が探せるのに」――そうツッコミを入れたくなるようなことが、世の中、本当に多い気がするのです。
 
たとえば、一部の“社会的地位のある人間”に見られがちな、他人を見下して、横暴に振る舞ったり、自分の意を無理矢理に通したりする行為……
 
何となく「自分はこんなに偉いんだから・今までにこれだけの功績を上げてきたのだから、何をしても許される」とでも言うような意識が、透けて見える気がするのですが……
 
その人の「築き上げてきた地位」や「過去の功績」と、それで「他人を傷つけたり・ないがしろにして良いのかどうか」は、どう考えても別物ですよね?
 
(そもそも普通に考えて、人間を傷つけたり・ないがしろにする行為自体、許されるものではないですし。)
 
それから「自分の価値観に照らして“間違ったことをしている人間”に対して“容赦なく鉄槌を下す”行為」……
 
昨今のネットの炎上事案のみならず、これまでの人類の歴史においても“正義の名の下に行われた虐殺”“大義を掲げた戦争”など、しばしば繰り返されてきた事柄なわけですが……
 
いつも思うのです。
 
たとえ本当に相手が間違ったことをしていたにせよ、何かしらの“大義”があるにせよ、それが「どんな手段を選んでも良い」という“理由”にはならない、と。
 
過去の歴史を見ても、人間(特に大衆)が他人を私的に裁こうとする時、それはしばしば、その罪に見合わないほどに重く苛烈なものにエスカレートしがちです。
 
しかも、そうした私刑の多くの場合、裁き手は「本当にそこに罪があるのか」「裁きが罪に見合ったものかどうか」を吟味しようとしません。
 
だからしばしば、間違った情報を鵜呑みにして無関係な人間を巻き込んだり、感情だけで暴走して行き過ぎた行為に及んだりするのかも知れません。
 
そこには何となく「罪人相手になら何をしても良い」という意識――そして、そんな“何をしても良い相手”に、「“普通なら許されないようなこと”をして心の憂さを晴らそう」という、薄暗い欲望や嗜虐心があるように思えて、うすら寒くなるのです。 
 
結局のところ、古今東西、人類というものは、常に誰かを叩くための“言い訳”を探していて、いざソレを見つければ、嬉々として相手を攻撃する生き物なのではないか……と、人間という生き物に軽く絶望したくなるほどです。
 
そうして自分が他人に振り下ろしてきた拳や刃が、いずれ自らにも振り下ろされる可能性を、果たしてどれだけの人間が考ているでしょうか。
 
意識しているにせよ無意識にせよ、「ちょっとした間違いを犯した相手にも過剰な罰を与える」という前例を積み上げれば、この社会はどんどん、そういう“不寛容”な方向に変わっていってしまいます。
 
そうして「その不寛容さは、いずれ自分自身の首をも絞める可能性が高い」のです。
 
……これ、少し考えれば分かることだと思うのですが……
 
世の中の多くの人は、よほど楽観的に「自分だけは大丈夫」と思い込んでいるのでしょうか?
 
よほどポジティブに「自分なら、どんな過ちも、うっかりも、誤解を招くような発言もするはずがない」と信じているのでしょうか?
 
それとも、それまでは散々他人を叩いておきながら、いざ自分が過ちを犯して他人に叩かれれば、過去の自分の言動など綺麗サッパリ忘れ去って悲劇の主人公になりきるタイプなのでしょうか。
 
フランス革命の時、王や王妃に振り下ろされたギロチンの刃は、後に革命を起こした側の指導者や市民の首にも振り下ろされました。
 
革命の熱に酔っていた市民たちは、果たしてその時、予想できていたでしょうか?
 
その後に始まる恐怖政治と粛清の嵐を……。
 
歴史上、人が何かに熱狂し、酔いしれると、知らず知らずのうちに地獄を呼び寄せてしまっていることが多い気がします。
 
どんな“理由”や“大義”があろうと、我を忘れて手段を選ばなくなっては駄目なのです。
 
それはこれまでの人類史上、何度も何度も繰り返されてきた過ちであり……それでも尚「きちんと学ばれていない」教訓なのです。
 

今の時代を見ていて不思議に思うのが「『意見の否定=その人の存在自体の否定』になっていないか?」ということです。
 
自分にとって「気に食わない意見」を持つ相手のことを、罵倒し、侮辱し、人格否定し、まるでこの世から葬り去ろうとでもするように徹底的に攻撃する…そんなことが、世の中に溢れている気がするのです。
 
でも「相手の意見を否定すること」と「相手の存在自体を否定すること」は決してイコールではありませんよね?
 
なぜ、そこを「一緒くた」にし、しかも、そのことに何の疑問も抱かずにいるのか…。
 
その「なぜ」の「答え」として、ひとつ推測しているのは、「感情に目がくらんで、『意見の否定』と『人格否定』を分けて考えることができなくなっているのではないか」ということです。
 
相手の意見に「怒り」や「不快」などの「負の感情」が刺激された結果、自分の言動が「意見の否定」という次元を遥かにオーバーし、「人格の否定」にまで至ってしまっていることに気づけない…
 
あるいは、気づいていても、無意識のうちにそれを「正当化」し、自分の感情を満足させることの方を優先させてしまう…
 
つまり「自分の言動を冷静に顧みることができない」「自分を律することができていない」ことが原因なのではないかと…。
 
あるいは、そもそも今の社会の中に「意見を戦わせる上で、相手の人格を攻撃しても構わない」という、誤った共通認識が育まれてしまっているのではないか、と…。
 
自分と対立する意見の相手は、存在自体を認めないと言うなら、そもそも「議論」そのものが成り立ちません
 
それは「議論」ではなく、ただ自分の意見を周りに「押し付ける」ための場でしかありません。
 
たとえ自分とは反対の意見だったとしても、自分にとって「気に食わない」意見だったとしても、まずは「耳を傾ける」――それが、「議論」というものの「最低限」のルールのはずなのですが…その「最低限」ができていない人が多過ぎる、ということなのでしょうか?
 
そもそも、なぜそんなにも「自分の意見を通したがる」のか、自分の目からすると、そこからして不可解でなりません。
 
他人の存在を否定してまで自分の意見を通して――その意見が間違っていた場合、自分も他者も皆まとめて破滅するリスクがあるわけですが(そしてその場合、その破滅に対する「責任」が否応なく発生するわけですが)…そこの所は考えていない、ということなのでしょうか?
 
議論とはそもそも、多様性のある意見を集めることで、「ひとりの人間の視点」だけでは見出せない問題解決法を導き出すためのものだと思っていたのですが…そう思っていない(自分の意見を通す場とだけ考えている)人間が多いということなのでしょうか?
 
思えば我々は、義務教育の中できちんとした「議論の方法」を学んではいません。
 
「学級会」や「ホームルーム」で何かを決める際は、結局「多数決」で終わってしまい、「意見の調整」「意見のすり合わせ」「対立意見の妥協点を見出す」などは一切見られなかったように思います。
 
それゆえ、大人になってからも、そんな「多数決の勝ち負け」で全てを考えてしまうのでしょうか?
 
自分の意見が勝てばそれで良いと、そこで思考を止めてしまい、その結果、少数派がどうなるかについては一切思いをめぐらせないのでしょうか?
 
むしろ、勝者の権利とばかりに、敗者を徹底的に足蹴にしようとするのでしょうか?
 
推測はあくまで推測でしかありませんので、実際のところは分かりません。
 
しかし、もし「そう」なのだとしたら…今の世の中の様々な問題、そして「生きづらさ」の根本は、そこにあるのかも知れません。

社会人になってから気づいたことがあります。
 
それは、「分からない」には種類がある、ということです。
 
ひとつは「理解する能力が無い」から生じる「分からない」。
 
もうひとつは「理解する気が無い(理解する気が起きない)」から生じる「分からない」です。
 
どんな人でも分かるようにと、どんなに取扱説明書を分かりやすく工夫しようと、「分からない」人は「分からない」と言ってきます。
 
それなのに、こちらが取説をそのまま読み上げ、その通りに操作してもらうと、あっさり「出来て」しまったりするのです。
 
そんなことが何度かあり、思ったのが、「これは『理解できない』わけではなく、取説を取り出したり、その中から必要な操作を書いたページを探し出したり、そこに書いてある内容を理解するのが『面倒くさい』だけなのだろう」ということでした。
 
自分で説明書を読み込んで理解するより、他人に訊いてそのままやった方が「簡単」で「面倒くさくない」から、あえて「分からない」ままでいる…
 
世の中にはたぶん、そういう人々が存在するのです。
 
きっとこれは、機械の操作や業務の進め方に限らないことだと思われます。
 
世の中に溢れる様々な“問題”や“課題”――難しくて理解できない、という人のうち、「理解する能力が無い」から分からない人は、一体どれだけいるのでしょう。
 
きっと中には、理解する能力があっても、理解する気が無いから「分からない」、理解するのが面倒くさいから「分からない」という人間が相当数いるはずです。
 
人はそもそも、興味を持っていない分野のことは理解したがらないものです。
 
人生は有限で、処理しなければならない情報・問題は膨大にあります。
 
そんな中で、特に興味の無いことに頭を割いている余裕は無いのかも知れません。
 
しかし、そんな「本当は分かるはずなのに」あえて「分からない」ままにしていることが、時に誰かを苦しめたり、誰かに余計な負担を負わせたりしているのではないか…そんな風にも思うのです。
 
「愛の反対は、憎しみではなく無関心」という言葉があります。
 
本当は理解できるはずなのに、わざと理解しないでいる、そんな「分からない」も、「愛の反対」なのかも知れない――そんなことを、自戒も込めて考えてみる今日この頃です。

学生時代、自分の成績には、かなりのムラがありました。
 
理数系はダメダメでしたが、得意な国語は学年1位の常連でした。
 
そしてその国語に関して言えば、塾などには一切通ったことがなく、特別な「勉強」をした記憶もありません。
 
それでも国語の成績が異常に良かったのは…自分にとって国語の知識を高めることが、「勉強」ではなく「日常の一部」だったせいかと思われます。
 
自分は物心ついた時から活字中毒で、小学生の頃から図書館の本を読み尽くす勢いで本を読み漁っていました。
 
さらには自分で物語を作るのも好きで、そんな物語の糧とすべく、せっせと語彙や知識を吸収しまくっていました。
 
高校の入学時に伯父にリクエストした入学祝いは「広辞苑」で、高校時代は暇があれば適当に開いたページを「読んで」遊んでいました。
 
国語の教科書は自分にとっては「教科書」ではなく、詩や短編など様々な文学を集めた「アンソロジー」でした。
 
授業が始まる前から教科書を読み込み、結局授業では習わずに終わった部分さえしっかり内容を把握していました。
 
(さらに言えば、自分の代の教科書だけでなく、兄弟の使っていた教科書にまで手を出していたので、他の世代の国語の教科書の内容も知っていたりします…。)
 
つまり…自分にとって国語を学ぶことは、苦痛な「勉強」ではなく、「楽しみ」や「趣味」だったのです。
 
好きこそものの上手なれ」ということわざがあるように、人間誰しも、好きなことに関してはビックリするようなパフォーマンスを発揮するものです。
 
逆に、苦手意識を持ち「嫌だなぁ」と思っているものに対しては、思うように能力を発揮できないのではないでしょうか。
 
学校には、各教科を「嫌」で「苦手」なものに変えてしまう「罠」がたくさん存在します。
 
知識を暗記するばかりで、おもしろみの全く無いテスト対策…
 
周りの友達の「勉強なんてつまらないよな」という同調圧力…
 
学年が上がるにつれ増す難易度、教科書から減っていくイラストや図解…
 
その罠にはまらず、勉強を勉強と思わずに楽しむことができるなら学力を上げることはそれほど難しくないと思います。
 
授業や受験対策、テスト勉強などはひとまず置いておいて、まずは各教科で自分が興味を持てそうな「要素」を見つけることです。
 
日本史の人物の中におかしな名前を見つけて喜ぶことから始めたって良いと思います。
 
和英辞典を使ってカッコイイ必殺技名を考え出すことから始めたって良いと思います。
 
大切なのは、まずは興味を持ち、知識を深める「きっかけ」を持つこと。
 
そして勉強を勉強と思わず、ちょっと変わった趣味のひとつにしてしまうことです。
 
…ただ、こういう“遊びから始める学力の深め方”は、それなりに長期戦となりますので、なるべく早い段階で始めておいた方が良いです。
 
あと、遊びから学んだ知識だと、受験と全く関係ない部分を異常に深く掘り下げてしまう場合もあります…。
 
(それはそれで、受験の役には立たなくても、後で人生の役に立つ場合があるので良いのですが…。)

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ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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