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日々ふと思うことを徒然なるままに書き綴る個人的エッセイあるいは回想録。
イメージ戦略」という言葉があります。
 
商品を売ったり、評価を高めたりするために「良いイメージ」を築き上げる戦略なわけですが…
 
これに疑問を持ったことのある方、どれくらいいらっしゃるでしょうか?
 
「良い『イメージ』さえ作れれば、『実際』は良くなくても良いのか?」「人間って、そんな『うわべ』に騙されて物を買ってしまうものなのか?」と考えたこと、ありませんか?
 
イメージは、あくまでイメージ。いわば「虚像」であって、「真実」とは限りません。
 
(「清純派」や「家庭的」「クリーンで誠実」など、特定のイメージを作って活動していた俳優に、そんなイメージとは真逆のスキャンダルが出る…というのも、結構「あるある」ですよね?)
 
しかしながら、大人になって社会に出てみると、人が意外と「イメージ」に振り回され、「イメージ」に左右されて生きているということが分かります。
 
おそらくそれは「イメージは目につきやすく、分かりやすい」けれど、「真実は目に見えづらく、理解しづらい」からなのでしょう。
 
「イメージ」は前述の「イメージ戦略」のように、戦略のために前面に押し出され、目立つようにアピールされていることも少なくありません。
 
また、「イメージ」は人の意識に浸透しやすいように「分かりやすく」作られていることが多いです。
 
しかし、その奥にある「真実」は、すぐ目につく所に出ているわけではありませんし、時には隠されていることすらあります。
 
(むしろ、それを隠すために「イメージ」が作られることすらあるでしょう。)
 
また、わざと「分かりやすく作られている」イメージとは違い、真実は複雑で、すぐには理解し難いものも多々あります。
 
だから、人は「分かりやすい」イメージにばかり飛びついて、「分かりづらい」真実を見ることを、おろそかにしてしまうのかも知れません。
 
しかし、どんなに分かりやすくても、イメージはあくまでイメージに過ぎないのです。
 
そこに騙されて、そこにばかり目が行ってしまっては、人生を損しかねません。
 
それは、「イメージは良いけれど、実際には悪い」ものを手に取らされて、「イメージはそれほどでもないけれど、実際はとても良い」ものをスルーしてしまうリスクがあるからです。
 
実際この世界は、そんな「イメージ」の功罪により、知らず知らずのうちに恐ろしく「何か」をロスしているのではないでしょうか?
 
イメージ作りに優れたものばかりが生き残り、技術や質は高くてもイメージ作りの下手なものは淘汰されてしまう…
 
それは結局、ひとりひとりの消費者にとっても、業界全体にとっても、恐ろしく「損」なことなのではないでしょうか?
 
「イメージ」ではなく「その商品の質」でモノが選ばれるならば、莫大な広告費も要りませんし、それにより開発費が削られて次の商品の質が落ちるということもありません。
 
質の高い商品なら、自然とリピーターがつくものですが、イメージだけで売る商品は、次々とインパクトのある宣伝を打ち出し続けなければ、消費者に飽きられてしまいます(結果、広告費がさらにかさむ悪循環に陥ります)。
 
この世界はそうやって、本来なら自然に得られていたはず大きな利益を、いつの間にかロスして、それに気づかずにいるのではないでしょうか?
 
とは言え、ここまでイメージ戦略が「一般化」してしまっている現代…できることと言えば、1人1人の消費者が「イメージに騙されないように」意識していくしかないのかも知れません。
 
ちなみにこの「イメージの功罪」…経済界のみの話ではありません。
 
むしろ、政治など他の分野の方が、より深刻かも知れません。
 
イメージに騙されて「騙した方が悪いんだ」と文句を言っても、その時にはもう手遅れかも知れませんので、何とか真実を見極める目を磨いていきたいなぁ…と日々思っています。
 

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何がフェイクで、何がリアルなのか、情報の精査の難しい昨今でも、揺るぎなくハッキリ言えることがひとつあります。
 
「戦争は駄目」だということです。
 
以前の記事でも触れましたが…
 
<関連記事:どんな「理由」や「大義」があろうと「手段」は選ばなければならない
 
「理由があれば何をしても良い」ではなく、「たとえ理由があろうと、手段は選ばなければならない」のです。
 
無数にある手段の中から、よりにもよって、多くの人の命を奪うという選択をしておきながら、その正当性を論じること自体が、狂気の沙汰だとは思いませんか?
 
そんなことが正当化されてしまうとしたら…人間の命の価値は、どこまで薄く軽くなってしまうのでしょう。
 
他の選択肢もあったはずなのに、他の手段を選んでいたなら奪われなかったはずの命が、奪われていく…
 
人間が、人間の命を軽視し、人間の命を冒涜し、その価値を、どんどん薄っぺらなものにしていく…
 
人の命の価値を左右するのは、結局はその時代に生きる人間なのだと思います。
 
何らかの「理由」があれば、理不尽に人命を奪っても良いという「悪しき前例」を、作るべきではありません。
 
既にそんな風に正当化されてしまった前例が、歴史上いくつもあるとしても…
 
これ以上、増やすべきではありません。
 
それは、今まさに危機に晒されている人々のためだけでなく、今は安全な場所で平穏に暮らしている人々、未来に生きる人々にも関わってくることです。
 
歴史は、良いものも、悪いものも、学ばれて繰り返されてしまうものですから…。 
 

昨今の炎上事案など見ていて、時々感じることなのですが…
 
ネットという「相手の表情の見えない」世界では、物事が「大袈裟にとらえられがち」「誤解されがち」な傾向がある気がします。
 
たとえば誰かが何か過ちを犯した時、見ず知らずの人が「そんなことしちゃ駄目じゃん」と言ったとします。
 
しかし、その言葉のニュアンスが「そんなことしちゃダメじゃん(笑)」なのか「そんなことするなんて許されないことだ(怒)」なのか、すぐには分からないと思いませんか?
 
(もちろん、「(笑)」や「WW」が付いていたりすれば、そのニュアンスは伝わるでしょうが…。)
 
言葉は、そうそう簡単に感情を伝えてはくれないのです。
 
そして、そんな相手の「感情」が「よく見えない」ネットの世界では、何かと相手の感情が誤解されがちなのではないかと…。
 
読み手の受け取り方ひとつで、ポジティブにもネガティブにも読める言葉は、世の中に星の数ほどあります。
 
時に、思いがけない言葉が誤解を生むこともあります。
 
相手に全く誤解を与えずに文章を書くというのは、国語の偏差値が高い人間でも至難の業なのです。
 
そして、これまでの傾向を見るに、意外と多くの人が「他人の言葉に悪意を読み取りがち」なのではないかと…。
 
以前このブログの記事にも書いた通り、言葉は書き手だけでなく、読み手にとっても「心の鏡」です。
 
書き手が思いもしなかった「悪意」がその言葉の中から読み取られたとしたら…それは書き手ではなく、読み手の心の中にあったものなのです。
 
(その場合、単純な「悪意」と言うより「悪意への疑念」なのかも知れませんが…。)
 
誰かの「軽いツッコミ」を、「激しい非難」と勘違いしていたりはしませんか?
 
ただ無遠慮で気遣いに欠けるだけの「(攻撃の意思の無い)率直過ぎる意見」を、「自分に対する攻撃」ととらえ、過剰に「反撃」していたりはしませんか?
 
もちろん、本当に「攻撃」の場合もあるのでしょうが…
 
攻撃でないものも攻撃ととらえ、いちいち戦っていたのでは、心が疲弊するばかりだと思いませんか?
 
まずはそれが本当に「攻撃」なのか、それとも「攻撃にもとらえられかねないツッコミ」あるいは「率直過ぎて失礼・無神経な意見」に過ぎないのか…
 
その「前提」から疑ってみれば、ネットはもっと寛容で、活動しやすい世界になるのではないでしょうか?
 

 
<関連記事:言葉は鏡だ。書き手にとっても、読み手にとっても。
世の中を見ていて、よく思うことの1つが「どうして“分けて考えなきゃいけないこと”を“一緒くたにしてしまう”人が多いのだろう」ということです。
 
「ソレとコレとは話が別でしょう」「何でソレとコレを全部ワンセットで考えるんだろう」「分けて考えれば簡単に解決法が探せるのに」――そうツッコミを入れたくなるようなことが、世の中、本当に多い気がするのです。
 
たとえば、一部の“社会的地位のある人間”に見られがちな、他人を見下して、横暴に振る舞ったり、自分の意を無理矢理に通したりする行為……
 
何となく「自分はこんなに偉いんだから・今までにこれだけの功績を上げてきたのだから、何をしても許される」とでも言うような意識が、透けて見える気がするのですが……
 
その人の「築き上げてきた地位」や「過去の功績」と、それで「他人を傷つけたり・ないがしろにして良いのかどうか」は、どう考えても別物ですよね?
 
(そもそも普通に考えて、人間を傷つけたり・ないがしろにする行為自体、許されるものではないですし。)
 
それから「自分の価値観に照らして“間違ったことをしている人間”に対して“容赦なく鉄槌を下す”行為」……
 
昨今のネットの炎上事案のみならず、これまでの人類の歴史においても“正義の名の下に行われた虐殺”“大義を掲げた戦争”など、しばしば繰り返されてきた事柄なわけですが……
 
いつも思うのです。
 
たとえ本当に相手が間違ったことをしていたにせよ、何かしらの“大義”があるにせよ、それが「どんな手段を選んでも良い」という“理由”にはならない、と。
 
過去の歴史を見ても、人間(特に大衆)が他人を私的に裁こうとする時、それはしばしば、その罪に見合わないほどに重く苛烈なものにエスカレートしがちです。
 
しかも、そうした私刑の多くの場合、裁き手は「本当にそこに罪があるのか」「裁きが罪に見合ったものかどうか」を吟味しようとしません。
 
だからしばしば、間違った情報を鵜呑みにして無関係な人間を巻き込んだり、感情だけで暴走して行き過ぎた行為に及んだりするのかも知れません。
 
そこには何となく「罪人相手になら何をしても良い」という意識――そして、そんな“何をしても良い相手”に、「“普通なら許されないようなこと”をして心の憂さを晴らそう」という、薄暗い欲望や嗜虐心があるように思えて、うすら寒くなるのです。 
 
結局のところ、古今東西、人類というものは、常に誰かを叩くための“言い訳”を探していて、いざソレを見つければ、嬉々として相手を攻撃する生き物なのではないか……と、人間という生き物に軽く絶望したくなるほどです。
 
そうして自分が他人に振り下ろしてきた拳や刃が、いずれ自らにも振り下ろされる可能性を、果たしてどれだけの人間が考ているでしょうか。
 
意識しているにせよ無意識にせよ、「ちょっとした間違いを犯した相手にも過剰な罰を与える」という前例を積み上げれば、この社会はどんどん、そういう“不寛容”な方向に変わっていってしまいます。
 
そうして「その不寛容さは、いずれ自分自身の首をも絞める可能性が高い」のです。
 
……これ、少し考えれば分かることだと思うのですが……
 
世の中の多くの人は、よほど楽観的に「自分だけは大丈夫」と思い込んでいるのでしょうか?
 
よほどポジティブに「自分なら、どんな過ちも、うっかりも、誤解を招くような発言もするはずがない」と信じているのでしょうか?
 
それとも、それまでは散々他人を叩いておきながら、いざ自分が過ちを犯して他人に叩かれれば、過去の自分の言動など綺麗サッパリ忘れ去って悲劇の主人公になりきるタイプなのでしょうか。
 
フランス革命の時、王や王妃に振り下ろされたギロチンの刃は、後に革命を起こした側の指導者や市民の首にも振り下ろされました。
 
革命の熱に酔っていた市民たちは、果たしてその時、予想できていたでしょうか?
 
その後に始まる恐怖政治と粛清の嵐を……。
 
歴史上、人が何かに熱狂し、酔いしれると、知らず知らずのうちに地獄を呼び寄せてしまっていることが多い気がします。
 
どんな“理由”や“大義”があろうと、我を忘れて手段を選ばなくなっては駄目なのです。
 
それはこれまでの人類史上、何度も何度も繰り返されてきた過ちであり……それでも尚「きちんと学ばれていない」教訓なのです。
 

今の時代を見ていて不思議に思うのが「『意見の否定=その人の存在自体の否定』になっていないか?」ということです。
 
自分にとって「気に食わない意見」を持つ相手のことを、罵倒し、侮辱し、人格否定し、まるでこの世から葬り去ろうとでもするように徹底的に攻撃する…そんなことが、世の中に溢れている気がするのです。
 
でも「相手の意見を否定すること」と「相手の存在自体を否定すること」は決してイコールではありませんよね?
 
なぜ、そこを「一緒くた」にし、しかも、そのことに何の疑問も抱かずにいるのか…。
 
その「なぜ」の「答え」として、ひとつ推測しているのは、「感情に目がくらんで、『意見の否定』と『人格否定』を分けて考えることができなくなっているのではないか」ということです。
 
相手の意見に「怒り」や「不快」などの「負の感情」が刺激された結果、自分の言動が「意見の否定」という次元を遥かにオーバーし、「人格の否定」にまで至ってしまっていることに気づけない…
 
あるいは、気づいていても、無意識のうちにそれを「正当化」し、自分の感情を満足させることの方を優先させてしまう…
 
つまり「自分の言動を冷静に顧みることができない」「自分を律することができていない」ことが原因なのではないかと…。
 
あるいは、そもそも今の社会の中に「意見を戦わせる上で、相手の人格を攻撃しても構わない」という、誤った共通認識が育まれてしまっているのではないか、と…。
 
自分と対立する意見の相手は、存在自体を認めないと言うなら、そもそも「議論」そのものが成り立ちません
 
それは「議論」ではなく、ただ自分の意見を周りに「押し付ける」ための場でしかありません。
 
たとえ自分とは反対の意見だったとしても、自分にとって「気に食わない」意見だったとしても、まずは「耳を傾ける」――それが、「議論」というものの「最低限」のルールのはずなのですが…その「最低限」ができていない人が多過ぎる、ということなのでしょうか?
 
そもそも、なぜそんなにも「自分の意見を通したがる」のか、自分の目からすると、そこからして不可解でなりません。
 
他人の存在を否定してまで自分の意見を通して――その意見が間違っていた場合、自分も他者も皆まとめて破滅するリスクがあるわけですが(そしてその場合、その破滅に対する「責任」が否応なく発生するわけですが)…そこの所は考えていない、ということなのでしょうか?
 
議論とはそもそも、多様性のある意見を集めることで、「ひとりの人間の視点」だけでは見出せない問題解決法を導き出すためのものだと思っていたのですが…そう思っていない(自分の意見を通す場とだけ考えている)人間が多いということなのでしょうか?
 
思えば我々は、義務教育の中できちんとした「議論の方法」を学んではいません。
 
「学級会」や「ホームルーム」で何かを決める際は、結局「多数決」で終わってしまい、「意見の調整」「意見のすり合わせ」「対立意見の妥協点を見出す」などは一切見られなかったように思います。
 
それゆえ、大人になってからも、そんな「多数決の勝ち負け」で全てを考えてしまうのでしょうか?
 
自分の意見が勝てばそれで良いと、そこで思考を止めてしまい、その結果、少数派がどうなるかについては一切思いをめぐらせないのでしょうか?
 
むしろ、勝者の権利とばかりに、敗者を徹底的に足蹴にしようとするのでしょうか?
 
推測はあくまで推測でしかありませんので、実際のところは分かりません。
 
しかし、もし「そう」なのだとしたら…今の世の中の様々な問題、そして「生きづらさ」の根本は、そこにあるのかも知れません。

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ファンタジー、冒険、恋愛、青春、推理、濃い人間ドラマの展開するモノ。
【備考】
漢検2級(準1以上は未受験)。国語の最高偏差値80(高2時点)。
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